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Category: こばなし

シンクロニシティ

 少しでも孔明を知っている人からは、どうして、彼なのかと聞かれる。彼らが言うには、頭が良くてももっと優しい人はいるし、想ってくれるならもっとわかりやすい人がいるのに、どうして孔明なのかと。
 彼らの筆頭である芙蓉曰く、孔明は「ひどく面倒な男」だそうだ。よりによって、孔明かと言われたこともあった。
 確かに、孔明は世間で言うところの好青年ではないと、花も思う。
 一癖も二癖もあるし、その本意がどこにあるのかわかりづらい。
 だから、彼らの言うとおり、孔明より優しいひとはたくさんいるだろうし、気持ちがわかりやすい人もごまんといるだろう。
 そういう人の方が付き合いやすいし、苦労しない、と彼らは言う。
 それはそのとおりかもしれない。
 付き合いやすいかどうかで言ったら、孔明は付き合いづらい人の部類に入る。
 でも、花は孔明だった。
 彼らが言うような苦労を感じてもいないし、孔明といて面倒だと思うこともない。
 花は孔明と合っているのだ。
 どこがいいのと聞かれることもある。
 それには、たぶん、と花は思う。
 花は孔明を尊敬している。
 どこまでも見通し、考えつくし、手を打つ孔明は、最高の軍師だ。その思考の軌跡も鮮やかで、同じ道にいる者として、できるはずがないと分かっていても、孔明のようにありたいと憧れてしまう。
 それがまずあって、けれども、孔明になりたいわけではなくて、そんな孔明とともにいたいと思うのだ。
 そばで、足手まといにならず、その助けになれたら、これほど嬉しいことはない。
 そして、師匠と弟子というだけでなく、誰よりもいちばんそばにいられたら、これほどしあわせなことはないと、思うようになっていた。
 今、花は孔明とともにいる。
 それはとても自然なことだった。
 孔明を好きで、孔明に好かれて、一緒にいたくて、共にいる。
 結局は、恋に理由などないのだろう。
 それでも、この恋に理由があるとしたら、それは、この世界に来たからだということかもしれない。

毎日想う

 彼女の声はどこにいても届いて、気づけば、彼女の姿を目で追っていた。
 恋をしているのだと、すぐに気づいた。
 だから、彼女が目の前から消えてしまったときは、とても混乱したけれど、それからも毎日、彼女のことを想った。
 再会して、また恋をして、信じられないことに彼女を得ることができた今も、毎日。
 毎日、彼女を想っている。


 すでに真夜中といっていい時間だった。辺りはしんと静まり、夜の気配に包まれている。城の中で起きているのは、見回りの衛兵と孔明くらいだろう。
 ふと、明かりの揺らぎが目に留まって、孔明は手を止めた。
 気づけば処理した書簡がこんもりと山を作っている。
 短く昼の休憩をとってから、気づけば今だ。間の時間は盗まれたかのように記憶にないが、書簡の山が、孔明がしていたことを明らかにしている。
 しかし、集中力がぷつりと切れてしまった。
 孔明は目を書簡から離して、筆をぶらぶらさせる。頬杖をついて、一息吐くと、ぼんやり、花はもう寝ているだろうかと思った。
 今日の夕飯は何だろう。
 せっかく作ってくれたのに食べなかったら、残念に思うだろうか。
 起きて待ってたりしていないだろうか。
 いや、花のことだから、孔明を待っているうちにうたた寝をしていることだろう。最近蒸す日が続いたが、今日は少し肌寒い。うたた寝などしていたら、風邪を引いてしまう。
 それはよくない。早く帰って、花を寝台に寝かせてあげないと、と思って、孔明は、ちら、と書簡を見た。
 残りはあと少しだ。
 しかし、切れた集中力は戻らない。
 そして、花のもとに行きたい。
「うーん」
 孔明は背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。
 仕事を片づけるべきだとは分かっている。
 まだ大丈夫だからと後回しにした結果がこれだ。
 だが、明日でいいような気もする。
 明日でいいんじゃないだろうか。
「孔明さん?」
 花の声が聞こえた。
 いつでも花の声は頭の中で再現できるが、こんなにもはっきりと幻聴が聞こえるのは、疲れているからだろう。
 やっぱり帰った方がいいらしい。
 帰ろう、と孔明は心を決める。
「孔明さん、どうしたんですか?」
 もう一度はっきりと、それも近くから花の声が聞こえた。
 あまりにも明瞭な声に、孔明ははっと顔を起こす。
 目の前に、花がいた。
「き、君! どうしたの?」
 孔明は思わず腰を浮かせてしまう。
 確かに花だ。何度か見たことのある幻ではない。
「あ、あの……」
 花は孔明の勢いに驚いたように、口ごもった。
「まさか、ボクの帰りが遅いから様子を見に来たとかじゃないよね!? 夜、一人で外を歩いたら危ないだろう?」
 もし花に何かあったらと想像するだけで、胆が冷える。
「い、いえ、あの……半分正解で半分外れです」
 孔明が顔を青くすると、花は慌てて言った。
「どういうこと?」
「書庫の仕事が遅くなったので、孔明さんが終わるのを待っていたんです。でも全然出てこないので、覗いてみたら、ぼんやりしていたので……」
「ああ、そうだったんだ」
 孔明はほっと胸を撫で下ろす。夜道を一人で歩いたわけではないと知って、ひどく安心した。
「外がすごく暗かったので、一緒に帰りたいなって思ったんです」
 怖いから、とは言わずに、花は言う。
 滅多に聞けない甘えた言葉に、孔明は、今すぐ花を抱きしめたくなった。しかし、執務机が邪魔をして、手を伸ばしても花に届かない。
「か、帰ろう! すぐに帰ろう!」
 孔明は急いで筆を置いた。硯も何もこのままでいい。明かりだけ消して、今すぐ家に帰るのだ。
「駄目ですよ。それ、今日中ですよね」
 だが、花は孔明の手元の書簡を指差す。
「大丈夫。明日の朝一番でも全く問題ないよ」
「大丈夫じゃありません」
 孔明がにっこり笑って花の指摘を聞き流そうとすると、花はきっぱりと首を振った。そこには、さきほど甘えてくれた甘さの欠片もない。
「……君、前より厳しくない?」
 孔明は思わず唇を尖らせてしまった。
「そんなことないですよ。私も手伝うので、終わらせてしまいましょう?」
 だが、花は全く構わず、机を回って隣に来る。
「…………うん。じゃあそうしてもらおうかな」
「はい!」
 孔明が観念して頷くと、仕事をするというのに、花はとても嬉しそうに返事をした。
「がんばって終わらせて、早く帰りましょう」
 花はうきうきしているようにも見える手つきで、処理の終わった書簡の整理を始める。
 一緒にいられるのが嬉しい。一緒に帰れるのが嬉しい。
 花の気持ちが伝わってきて、孔明の頬は緩んでしまう。
「そうだね。早く帰って、君と一緒に寝たいな」
 孔明は、花が勘違いするような言い方を選んで呟いた。
「えっ!?」
 花は手にしていた書簡を取り落とす。見事な反応だ。
「今、なに想像したの?」
 孔明はにやにやと尋ねる。
「なにも!」
 花は首を振るが、その耳まで真っ赤だった。
「なにも?」
 孔明は問い返しながら、花の腕を引く。
「えっ、わっ!」
 そして、バランスを崩して倒れる花を、膝の上に抱きかかえた。
「ちょっと休憩しよう」
 ようやく花を抱きしめることができて、孔明は満足する。
 花の温もり、花の匂い。それら全てに癒された。
「駄目です!早く終わらせましょう」
 しかし、花はぴしっと孔明の手を叩くと、さっさと孔明から離れてしまう。
「……やっぱり厳しくない?」
 結婚して数年経つと、甘い関係など望めないのだろうか。
 孔明は、手を取るだけで顔を赤くしていた頃の花を想い、わずかに寂しくなる。
「そんなことないですよ」
 花はそう言うなり、孔明に素早く口づけた。
「!」
 びっくりしている間に、花は離れてしまう。全く味わえなかった。
「も、もう一回」
「駄目です。仕事、終わらせてからです」
 それは、仕事が終わったらもう一回があるということだろうか。
「…………」
 ならば筆を取らざるをえないではないか。
 孔明は、乱暴に置いた筆を再び手にする。
「……どこでこんなこと覚えたんだろ」
「え?」
 思わず孔明がぼやくと、花はきょとんとして聞き返してきた。
「ボクに仕事をさせる特効薬ってこと」
 分かっているくせに、と思いながら、孔明は筆を走らせる。
 しかし、花は不思議そうに目を瞬いた。
「……私は、孔明さんにしたかっただけですよ」
 花の言葉に、孔明は手が止まる。そして、机に突っ伏した。
 花を視界から外さないと、どうにかなってしまいそうだった。
 本当に、どれだけ想っても足りない。愛しさはあとからあとから湧いてくる。
「こ、孔明さん?」
 戸惑ったような花の呼びかけに、孔明はゆっくり体を起こした。
 まだ転げまわってしまいそうな心をどうにか押さえて、花を見る。
 花が好きだと想った。
「好きだよ」
 想ったら、口にしていた。
 花は驚いたように目を見張る。
 自分はあれだけのことをしておいて、これだけのことで驚くのだから敵わない。
「伝えたかっただけ」
 孔明は続けた。
 想いを告げたのは、花と同じ原理だ。
 ただ、愛しくて。好きだから。
「……はい」
 孔明の気持ちが伝わったのか、花は嬉しそうに笑って頷いた。

うたたね

 気持ちよく晴れた午後、花は城の庭の木陰で、一生懸命読めない書簡を読んでいた。
 花が手にしているのは、孔明に渡された「今日の課題」である。
 先日、玄徳軍に参加し、晴れて花の上官となった孔明に、文字が読めないことを驚かれ、それから日々容赦のない指導の下、勉強させられていた。
 もちろん自分のためになるのだから、花に異論はない。ないのだが、孔明が渡してくる書簡は難しく、全くさっぱりで、放り投げたい気分になる。
「うー」
 花は唸りながら、教本に顔を突っ込んだ。
 そのとき、不意に、とん、と肩に重みがかかる。
「?」
 花はなんだろうと思ってそちらを見やって、驚いた。
「!」
 肩に、孔明の頭が乗っている。
 ひとつの木の幹をシェアして、それぞれ寄りかかって読書に勉強にに勤しんでいたのだが、やっぱりというか、当然というか、午後のうららかな陽気の誘惑を断ることなく、孔明は夢の世界に旅立ったらしい。
「……」
 のんきな寝顔に、花はわずかに腹が立った。こっちはこんなに頑張っているのに、師匠だからといって、ぐーぐーと昼寝というのはいかがなものか。
 花は、教えてもらっている立場も忘れ、ぐっと拳を握り締める。
 そうして体を揺らしたのがいけなかったのが、孔明の体がずるりと傾き、手から書簡が滑り落ちた。
「!!」
 花は慌てて、前につんのめった孔明の頭を受け止める。
「…………」
 花はとっさに手を出したのだが、このあと、どうしようかと迷った。
 手を出さなければ孔明は倒れてしまっていたが、この状況でも起きないのだから、地面に転がっても目を覚まさなかったのではないだろうか。
 しかし、受け止めてしまった以上、地面に転がすのは薄情な気もする。かといって、肩を貸すのも違うように思う。
 少し考えた結果、花は、そっと孔明を押し返して、木の幹にもたれさせた。
「ふう……」
 花は一息ついて、再び教本に向かう。
 ずるり。
「!」
 再び肩にかかった重みの正体は、確認しなくても分かった。
「…………」
 花は諦めて、孔明に肩を貸すことにした。
 寛大な弟子に感謝してほしいと思いながら、教本を広げる。
 だが、項に、孔明の髪が触るのが気になって、文字を終えなかった。
 黒髪は意外と柔らかい。
 そういえば、亮の髪も柔らかかった。
 そんなことを思い出して、花は孔明を見る。
 誰かに肩を貸したことなど、電車の中で熟睡する隣人にしかなかった。こういうことは、全く見知らぬ相手か、とても親しい相手としかしないだろう。この状況は少し、特殊だ。
 この変な人と肩を貸すほどに親しいということだろうか。
 確かに、過去の世界では一緒に寝るほどの仲ではあったけれど、孔明とそれほど近いかといったらそうではないと思う。
「……うーん」
 でも、いいかと花は思った。
 この状況が嫌なわけではない。少し重くて、すやすや寝ている孔明が羨ましくはあるけれど、叩き起こして離れてくださいというほどのことでも、身をずらして逃げるほどのことでもない。
 花はそのままにして、あらためて教本を開いた。
 しかし、ほどなく、花の手から教本が滑り落ちていく。
 二人で仲良く居眠りしているところを芙蓉たちに見つかって、似た者同士と笑われるのは、もう半刻ほど経ってからだ。

喜怒哀楽

 花の向こうで、成都の街並みが、孔明と花の歩く速度にあわせて流れていた。いつもの風景、いつもの帰り道、なんてことのない夕方だ。
 花は楽しそうに次から次へと話をしている。
 芙蓉とおやつに食べた菓子がおいしかったとか、城の庭に咲いている花がきれいだとか、昨日晏而と季翔に会ったとか。
 どれも取るに足らない話だ。
「孔明さん、聞いてますか!?」
 まるで、孔明の心の声が聞こえたかのように、突然、花が腰に手をあてて、孔明を睨みつけてくる。
 一瞬前まで楽しそうだった顔が、今は見事に顰められていた。
 跡が残りそうなほど、目一杯眉を寄せている。
 皺になるよ、と言ったら、さらに怒らせてしまうだろう。
 さて、どうするか。
「孔明さん?」
 花をじっと見つめたまま何も言わないでいると、花の目は、次第に不安そうに揺れ始めた。それでも応えず黙っていると、花は強く言ったことを後悔し出す。
 色んなことを経験しているのに、花の素直さは全く失われなかった。
 孔明は、花から視線を外す。
 息を飲む花に、思わず笑ってしまった。
「聞いてるよ」
 孔明は再び花に視線を戻す。
 振り回されている花は、大いに戸惑っているようだった。
 もちろん聞いている。花の話は全て漏らさず聞いている。たとえ、雨ですね、というような言葉でも、孔明にとっては大切だ。
 花が、ここにいて、話している。
 これほど素晴らしいことが他にあるだろうか。
「芙蓉殿と食べたお菓子は雲長殿のお手製だったんだろう?ばれたら大変だよ。それと、城の庭に咲いてるのは、スイカズラ。この時期に花をつけるんだ。好きなら家の庭にも植えようか?ああ、あと、晏而と季翔を見かけたら、見なかったことにして離れること。約束だよ?」
 花が話したこと全てにきちんと話を返すと、花は目を丸くして、それからとても嬉しそうに笑った。
「聞いててくれたんですね」
「もちろんだよ。君の話なんだから」
 孔明の返事に、花はさらに口元を緩めている。
「疑ったお詫びは?」
 そんな花に、孔明は師匠然として言った。
「すみません」
 花はもちろんすぐに謝る。
「うーん。落第」
 だが、孔明はもったいぶって頭を振った。そして、出し抜けに花の唇を奪う。
「これくらいはしてくれないと」
 唇を押し当てるだけの軽い口づけをして、孔明はそう言った。
「!!」
 花の顔が見る見る真っ赤になっていく。
 いい反応だ。
 往来で口づけるなど初めてのことだから仕方ない。
「さ、早く帰ろう。ボク、お腹ぺこぺこなんだ」
 孔明は、花の手を握り直して、引っ張った。
「あ、わっ、こ、孔明さん!」
 思惑通り、花がバランスを崩して、孔明の腕にすがりついてくる。
 花の重み、花の匂い。花の手。
「もう、引っ張らないでください!」
 唇を尖らせる花は、どこか楽しそうだ。
「うん、ごめん」
 孔明は謝って、けれど、花の腕を絡め取ったまま歩き出した。
 ずっと想像していた花が、この手の中にある。
 想像や夢の中とは違って、孔明の言動のひとつひとつに、鮮やかに、笑って、怒って、悲しんで、喜んでくれる。
 それが嬉しい。
 花がここにいる。
 泣きたくなるほど幸せだった。

お家に帰ろう

「花、君も今帰り?」
 廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
 その声にびっくりして、急いで振り返る。
 廊下の先に、帰り支度が済んだ様子の孔明が立っていた。
 花は期待に胸を膨らませる。
「孔明さんも、終わったんですか?」
「うん。今日は早く終わったんだ。一緒に帰ろう?」
「はい」
 花は嬉しくなって、口元を緩めて頷いた。
 すると、近づいて来た孔明が何も言わずに抱きしめてくる。
「こ、孔明さん!?」
 花は慌てたが、抵抗はしなかった。こんな機会は滅多にない。
「今、すごく抱きしめたくなった。駄目?」
 もう抱きしめているのに、孔明はそんなことを言った。
 花が駄目と言わないと知っているのだろう。
 もちろん、言わないのだが、なんだか悔しい。でも、駄目とは言わない。
「……駄目じゃないです」
 花はそう言って、少しだけ孔明に体を寄せた。
「うん。満足」
 しかし、孔明はすぐに花を解放する。その顔は言葉通り満足げだ。
 抱きしめたいから抱きしめて、満足したから離すだなんて、全く孔明は勝手だ。
 花は、離れてしまって、少し寂しいというのに。
「…………」
 花は、孔明と同じくらい唐突に、孔明の手を握った。
「は、花?」
 びっくりする孔明に、花は言う。
「あの、手を繋いで帰りたくなりました……」
「!」
「……駄目ですか?」
 孔明の返事は知っているが、花は聞いた。
 孔明は楽しそうに笑って、首を振る。
「駄目でしゃないよ」
 孔明は、花の手をしっかりと握り直して、引き寄せた。
「帰ろう」
「はい!」

 帰ろう、帰ろう。
 僕らの家へ。

 

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