まず、今、僕に起こっていることを説明したい。
実はそんな悠長なことをしている余裕は少しもないのだけど、そうでもしないと、心が爆発してしまいそうなので、申し訳ないけれど、少し、僕のために付き合ってほしい。
今、僕の唇は、僕の彼女であるところの転校生ちゃん――あんずちゃんの唇に重なっている。
いや、恋人同士なら普通なことではないかと、先を急がないでもらいたい。
彼女とはいっても、まだ付き合いたて。本当にほやほやのほやの仲なのだ。あんずちゃんと出会って、大好きになって、いろんなことを乗り越えて、ついこの間「恋人」になれた。
そんな彼女とのファーストキスのシチュエーションを、この僕が、データマニアの遊木真が考えないとでも思うだろうか。
そう。つまり、これは事故なのだ。
いわゆる事故チュー。
漫画やドラマの中で、あり得ないだろと思いながら見ていたあれ。
それが今、僕に起きている。
あろうことか、僕とあんずちゃんの間に。
話はほんの数分前。
月曜日は、『Trickstar』のみんなが部活なんかでいないから、あんずちゃんとふたりきりの日で、僕はいつもの月曜日と同じく浮かれていた。
きっと、僕は、この世界中でいちばん月曜日を愛している者のひとりだろう。
その月曜日の、特に心待ちにしていた放課後、あんずちゃんと僕は、いつものようにふたりで練習を始めた。
そして、まあ、あとはご想像の通りだ。
ダンスの練習をしていた僕は鈍臭いことにつまずいて、あんずちゃんの方に倒れてしまい、そのまま彼女を押し倒して、キスをしている。
十数年の人生ではじめてする大好きな人とのキス。
それがあんずちゃんとでしあわせだとか、その唇のやわらかさに頭が沸騰しそうだとか、様々な感情が、このささやかでもろい心に押し寄せて、真っ白になった。光と同じだ。赤と緑と青が混ざったら、白になる。
「ご、ごごごごごごめん!」
唇が触れ合っていたのは、実際は一秒にも満たないわずかな時間だったかもしれない。でも、それは永遠にも感じられて、長いことキスをしていたような錯覚にも陥った。
人生初の恍惚とした時間。
それは僕の全ての思考器官を停止させ、そして、あんずちゃんを残して教室を飛び出させた。
うん、わかってる。
――……サイテーだ。
1
本日最終の授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、教室内は一気に空気が緩み、解放感に包まれた。生徒の自主性を重んじるという名のホームルーム放置プレイであるところの二年A組は、クラス委員長氷鷹北斗が、怠惰な担任佐賀美陣の代わりに簡単にクラスをしめるだけだ。
授業が終わったところで、ここ、夢ノ咲学院アイドル科の生徒たちは、ユニットの活動や部活、委員会などに赴くのだが、授業とそれらの活動はやはり違う。授業の憂うつさは、夢ノ先学院でも同じだ。
その中、あんずはひとり、まるで狩りの最中のハンターのような顔つきで立ち上がった。
(いない!?)
目的の席を見て、あんずは愕然とする。
チャイムと、教師が授業を終わらせる声と、あんずの起立は同時だったか、あんずが食い気味だったはずだ。
しかし、すでに目当ての男子生徒の姿はその席になかった。
はっと目を転じれば、教師に先んじて教室を出て行く、すらりとした後ろ姿が見えた。
意外にも、ユニットの中で最も長身で、――そう言われるのは嫌がるだろうが――モデルらしいすんなりとしてバランスのいい体。色素が薄めの柔らかな髪が揺れている。
転校してきたとき、委員長の北斗や明星スバルと比べて、ふつうだと思ったけれど、本当はふつうではない、あんずの恋人――遊木真だ。
(速すぎる……)
運動がものすごく得意というわけでも、足がすこぶる速いわけでもないのに、まるで忍者のような俊敏さだ。気配が薄いとスバルに常々言われているスキルが役に立っている。
あんずはがっかりして、ため息とともに着席した。
「……尿意は我慢しない方がいいぞ」
隣の席の北斗が、あんずの屈伸運動を不思議そうに見て、おばあちゃん仕込みのアドバイスしてくれる。
「違います」
あんずはそれに答えながら、机に顔を伏せた。
北斗の天然っぷりにも、女子相手にデリカシーのないところも慣れてきたし、今は余計なことに勘づかないその鈍さが助かる。これが周りに気を遣い過ぎの衣更真緒や、妙に鋭いところのあるスバルだったら、なにかあったのかと聞かれていただろう。それは困るので、隣の席が北斗で良かった。
(なにか――ありまくりだよね)
なにかというにはあまりにも決定的で重大なできごとが、二日前に起きた。
あんずは、そっと自分の唇に触れる。それだけで心臓は反応して、ドキドキと鼓動を速めた。あんずは火照る顔を腕に押しつける。
二日前の月曜日、あんずは真とキスをした。
起きたことを正確に言えば、不幸にも唇が触れ合ってしまった。いわゆる事故チューだ。
月曜日は、『Trickstar』の他のメンバーは別の用事でいないため、ふたりきりで練習をしていた。真はダンスの練習をしていて、いつもより軽やかにも見えた。傍で見ているあんずも楽しい気分になるようなダンスだった。
恐らく、いつもより体が軽かったのだろう。真はターンで足を滑らせ、バランスを崩して傾いて、それを危ないと思って、あんずは思わず飛び出してしまったのだ。
今となっては、それがいけなかったのだとわかる。
結果、真もろとも倒れて、不運にもキスをすることになってしまった。
あんずにとって、人生はじめてのキスだった。
ただただびっくりして、どうしようと混乱して、固まっている間に、真が謝罪を叫びながら飛び起きて、そのまま教室を飛び出していったきり、戻ってこなかった。
そして、二日経った今まで、まともに会話どころか目も合わせてくれていない状態となっている。朝は、予鈴ぎりぎりに教室に入ってまっすぐ席に着き、昼休みは放送委員の仕事があるからといなくなり、移動教室は先に行っててと北斗に言って、時間をずらしてやってくる。ユニットの練習も、昨日は急用が入ったと言って出てこなかった。今日も、きっと来ないつもりなのだろう。
完全に避けられている。
その事実に、打ちのめされる。
連絡を取ろうにも、何と送ったらよいのかわからず、この二日間、スマートフォンを取り出しては何もできずにしまうことを繰り返していた。
怒ってないよ、では、真に非があるみたいだ。真はなにも悪くない。あれは事故だったんだから気にしないようにしよう、と言うのも、なんだかキスなんて大したことないと思っているようで抵抗がある。実際、あんずは滅茶苦茶気にしている。ならば、気にしているけど気にしない努力をしよう、と言えばいいのだろうか。そんなことを言ったら、真はますます気に病んでしまいそうだ。
真は何も悪くないし、気にする必要はないということを伝えたいのに、相手に伝わるように話すのは難しい。それに、真が徹底的にあんずを避けている状況の中、メッセージを送ったところで、見てくれるかも怪しかった。
あんずは、ため息をつく。
このまま一生避けられて、ふたりの恋人関係も自然消滅して、『Trickstar』にプロデューサーとしても関われなくなったら、悲しくて仕方ない。
どうしたらいいだろう。
心が死んでしまいそうだ。
「あんず」
「トイレじゃないから大丈夫だよ」
北斗の呼びかけに、あんずはわずかに顔を上げる。
「いや。何か悩みがあるのなら聞く。お前の力になりたい。お前の問題は『Trickstar』の問題だ」
一ミリも表情を動かさずに言う北斗に、あんずは目を見開いた。いつも通りの生真面目なきれいな顔だ。けれど、わずかにその目が心配そうだった。そのささやかな感情の露出に気づけるのは、北斗と過ごしてきた時間のおかげだろう。
もしかしたら、さっきのトイレのくだりはボケだったのかもしれないと、あんずは気づいた。あんずが軽口を返していれば、北斗も安心したことだろう。
北斗は、いつも友だちのために一生懸命だ。
そのひとりに加えてもらえて光栄だと思う。
胸のうちがじんわり熱くなり、それは体を駆け上がって目にまで達して、大粒の涙を生んだ。
「ほ、ほぐどぐん~」
友だちに案じてもらっている嬉しさと、相談ができるかもしれない安心とで、あんずの目からぼろぼろ涙がこぼれていく。
「あ、あんず!?」
それを見て、北斗がぎょっとしたように目を剥いた。
もしかしたら、泣いていることではなく、あまりにも不細工に泣いていることに驚いたのかもしれないが、今はどちらでもいい。
「わ、ホッケ~があんず泣かしてる!」
ちょうどそこにスバルがやって来て、からかっているのか心配しているのかわからない調子で声を上げた。
「ち、ちがう! いや、ちがわないのか? いや、とにかく、ちがう!」
北斗は慌ててスバルに否定しながら、きれいにアイロンがかかった薄いブルーのハンカチをあんずに押しつける。
「とにかく拭け」
「ありがとう」
あんずはありがたく受け取って目に押し当てるが、いちど堰を切って溢れ出した涙はなかなか止まらなかった。