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2016年05月

サンプル:やきもちやかずのマーチ(遙か6・有梓)

 怨霊の一撃が左手をかすめる。熱と痛みを感じるが、高塚梓は十数メートル先の怨霊から目を離さなかった。怨霊の足元には女性がうずくまっていて、彼女を庇うように、自衛団団長の有馬一がかがんでいる。その体勢では剣戟は難しい。梓を牽制した怨霊が、有馬たちに向けてその爪を振り上げた。
「高塚!」
「はいっ!」
 有馬のよく響く声が梓を呼ぶ。そのかけ声に合わせて、梓は引き金をひき、まっすぐに、有馬たちを襲おうとしていた怨霊を撃ちぬいた。怨霊は悲鳴を上げて消えていく。
 梓は周りを見回して、怨霊が他にはいないことを確かめると、銃をホルダーに戻した。
「怪我はないか?」
「は、はい」
 その間に、有馬が、庇っていた女性に手を差し伸べて立ち上がらせている。梓は彼らに駆け寄った。
「無事ですか」
「ああ」
 梓の問いかけに有馬が頷く。見たところふたりに怪我はないようだった。それを確認して、梓は緊張を解く。
 女性は洋装で、梓よりも年上、有馬と同じくらいの年ごろだ。怨霊に襲われたからだろう、美しい顔立ちが少し青ざめている。有馬に掴まっている手が小刻みに震えていた。
 梓がこの世界に来ることになった、帝都を揺るがした例の事件が収束した後、怨霊が現れることはほとんどなくなっているがゼロではなく、こうしてごくたまに出現することがあった。今日は、最近この辺りでの怨霊らしきものの目撃情報、被害報告が上がっていたので、自衛団で見回りを強化していたところの遭遇だった。
「お前が怪我をしているな」
「あ、すみません。かすり傷です」
 有馬に怪我を指摘されて、梓はとっさに手を隠す。掠めただけだと思っていた左手の甲には、傷が意外としっかりついていて、ぽたりぽたりと血が地面に落ちていた。怨霊はそれほど強くなかったのに、こんな傷を受けたことは未熟の証に思えて、有馬の前にさらしているのが恥ずかしい。いくら久しぶりの怨霊との戦いとはいえ、もっとうまく戦えたはずだ。ほんのわずか、梓の反応が遅かったのだ。もっと訓練をしないといけない。付け焼刃でどうにかなるものではないが、屯所に戻ったら自主訓練だなと、梓は思う。
「!」
 そのとき、突然、手を掴まれて、梓はびっくりして顔を上げた。有馬が梓の手を取っている。
「あ、有馬さん、汚れます」
「屯所に戻って手当てをしよう。まずは血を止め……――? すまない、放してくれないか」
 血がついてしまうと慌てる梓に構わず、有馬はハンカチを取り出そうとして、その腕にまだ女性がしがみついていることに首を傾げた。そのために、腕が自由に動かないのだ。
 女性はまるで離れる気配がない。それどころか、さらに有馬にしがみついた上で、なぜか不満げに梓を見た。
(ん――?)
 女性の態度に、梓は戸惑う。彼女に失礼な振る舞いをしただろうかと振り返るが、何も思い当たらなかった。有馬も同様に困惑しているようだ。それでも何かを言おうと、有馬が口を開きかけたとき、複数の足音が近づいてきた。

サンプル:チェリーブロッサムシンドローム(あんスタ・まこあん)

【サンプルその1】

「遊木真くん、ですよね」
 朝、学校に向かう道の途中、遊木真は見知らぬ女子高校生たちに声をかけられた。制服は見たことがある。近隣の公立高校のものだ。しかし、彼女たち三人の誰にも見覚えがなかった。
(あ……)
 瞬間、頭が真っ白になる。女の子と話すのが苦手だからと、あんずに「女の子に慣れる特訓」に付き合ってもらったこともあるのに、全く活きていない。
 見知らぬ女の子。複数。名指し。行く手を阻まれている。
 情報が断片的に明滅する脳裏に、あんずの顔が過ぎった。
(ど、どうしよう、あんずちゃん……!)
 無意識のうちに、あんずに助けを求めてしまう。同性と話すのも緊張する真が、見知らぬ女の子と話すなんて試練でしかない。肉親を除いたら、目を見て話せる異性は、唯一あんずだけだ。あんずがここにいたら代わりに話してもらうのに――と思って、あまりに情けない考えだと気づく。
(だ、だめだ、あんずちゃんに頼ってばかりじゃ……)
 真が知らない女の子に名前を呼ばれて声をかけられる理由はただひとつ――彼女たちは『Trickstar』のファンなのだろう。この一年、『Trickstar』は順調に活動を続けてきて、先日の【ショコラフェス】でも、用意したチョコレートが足りないくらいで、真も近頃声をかけられることがたびたびあった。それはたいへん喜ばしいことなのだが、五十メートルほど先の校門を恨めしく見てしまう。
(はあ……校門まであと少しだったのにな……)
 この包囲を突破して逃げ込むには遠い。これはきちんと「ファン対応」をしなくてはいけない。日頃リーダーの氷鷹北斗からファンを大切にするように言われているし、そのお達しがなくても、真も自分たちを応援してくれる人々に感謝しているから、きちんと応じたいと思っている。だがしかし、現実は、やりたいこととできることに隔たりがあるものだ。
「は、はははいっ、そうですけど……!」
 とにかく笑顔で感じよく頷こうとして、失敗した。
(どもった! 裏返った!! うわぁ……)
 笑っているつもりだが、ひきつっているかもしれない。恥ずかしさに顔が熱くなり、心臓がばくばくと鼓動する。もう消えてなくなりたい思いで俯いた。
「かわいい!」
 そんな真に、女の子たちの歓声が飛ぶ。
(え? か、かわいい!?)
 彼女たちの思いもよらない評価に、真は戸惑った。『fine』の姫宮桃李や『Ra*bits』の紫之創ならまだしも、真に「かわいい」とはどういうことだろう。
(ぼ、僕、かわいいって思われてるの!? 別にそんなキャラで売ってないんだけどな! みんなに比べたら、かっこいいではないかもしれないけどさ……)
 やはり男であるので、「かわいい」よりは「かっこいい」の方がいい。彼女たちは先輩である可能性もあるが、同年代の異性からもらう言葉としては複雑だ。
「この間の【ショコラフェス】でライブ観ました!」
「ファンです!」
「がんばってください!」
 真がぼんやりしている間に、女の子たちはさらに距離を詰め、真の手を握ってくる。
(う……うわああぁぁ!)
 私も私もと代わる代わる手を取られ、触られて、真は完全にパニックに陥った。

 

「むむむ、遊木殿がモテモテでござるよ!」
 登校途中で、あんずは衣更真緒と仙石忍に出会い、三人で学校に向かっていると、ふと忍が少し前のめりになりながら、そんなことを言った。
「え?」
「真?」
 あんずは真緒とともに忍を見る。忍はじっと前方に目を凝らしていた。
「あそこでござる」
 忍が指差す方向を見ても、豆粒のような人間しか把握できない。長い前髪に隠されて片方の目しか使っていないというのに、はっきりと見えているようだから、さすが忍者だ。
「んーよくわかるな。あれ、真か……?」
「忍者活動の一環で目を鍛えているのでござるよ。それでも鉄虎くんの方が良いのでござるが……」
 真緒に誉められて、忍は照れ臭そうに笑った。
「女生徒に囲まれて、手を握られているでござる。遊木殿、大人気でござるな。にししし」
「いや、それが真なら、あいつ的にピンチだろ」
 忍の言葉に、真緒は顔を顰める。
 あんずも目を凝らして見た。言われてみれば確かに、真のような、真でないような――やっぱりよくわからなかったが、真緒の言う通り、あれが女子に囲まれた真だとしたら、あんずも心配に思った。
「真、微動だにしてないけど、あれフリーズしてるんじゃないか?」
「うん」
「なんと! 遊木殿がピンチならば助けに行くでござるよ!」
「ああ。あんずは先に行ってろ。まったく朝から走らされるとはなー」
「ああ! 衣更殿! 拙者も行くでござるよ!」
 真緒はあんずに言うと、ぼやきながら走り出す。そのあとを忍も追いかけていった。

 


【サンプルその2】

 金曜日の夜の夕飯時ということもあってか、ショッピングモールはひどく混んでいた。
「うわっ、結構ひとが多いね。あんず、はぐれないように手をつないでいこう?」
「うん」
 スバルはそれを見て、すぐにあんずの手を取った。あんずも全く抵抗感なく頷いている。
「っぐ」
 ふたりの光速の手つなぎに、真は息を飲んだ。
(うっ、明星くん、ずるい……!)
 スバルとあんずは、一年前の朔間零の指導で一緒にいるようにと言われたときから、気づけば普通に手をつないでいたから、ふたりにとってはいつも通りのことなのだろう。スバルはもともとスキンシップ過多であるし、だからこその、この流れるような展開だ。
(いいなあ……)
 真はうらやましく見てしまう。
 自然と手を取ることも、あんずがそれを普通に受け入れていることもうらやましい。真にはできない芸当だ。
(うう、なんかお似合いだな……あんずちゃん、明星くんのこと好きだったらどうしよう……)
 手をつないで歩くふたりは仲が良さそうで、本当に自然で、だんだんカップルに見えてきて、真はそっと目を逸らした。
(これじゃ僕がカモフラージュだな……)
 とほほ、と肩を落とす。
 そのとき、突然、スバルが立ち止まって、真を振り返った。
「あ、でも、今日はウッキ~の特訓なんだから、ウッキ~とあんずが手を繋いだほうがいいのか」
「えっ?」
 スバルの言葉に、真は目を瞬く。
 ――あんずと手をつなぐ。
 そう、聞こえた気がする。
「じゃあ、はい」
 スバルは、真が固まっていることに気づかずに、真の手を取ると、あんずの手を握らせた。
 小さい。やわらかい。
「う、うわあっ!」
 真は、反射的に手を離してしまった。
 やわらかさの次元が違う。
「あ、明星くん、急になんてことするの! ご、ごめんね、あんずちゃん!」
 なんだかものすごくいけないものに触れてしまった気分になって、真はあんずに謝った。
「う、ううん、私はべつに……」
「ウッキ~?」
 スバルはきょとんとしている。スキンシップ王には、コミュニケーション能力が低い者の気持ちなんてわからないのだろう。
「特訓するんでしょ?」
「ぐっ……」
 正論を言われて、真は言葉に詰まる。
 今日は特訓ではない。だから、手をつなぐことはないんじゃないかと言いたかったが、そうしたらスバルは自身があんずとつなぐかもしれない。それは少し――いや、大いに気になった。
 今まで、あんずの手に触れたことがないわけではない。手をつないだことも握ってもらったこともある。けれど、これほどやわらかいものだっただろうか。どうして過去の自分は、触れることができたのだろう。今、真の心臓は飛び出してしまいそうなくらい、激しく鼓動していた。しかも、焦ったからか手汗がひどい。こんな湿った手では、あんずと手をつなぐなど到底無理だ。
(で、できないよ……!)
 真は顔を赤くして俯いた。

サンプル:うたたね(あんスタ・まおあんりつ)


 私立夢ノ咲学院、新進気鋭の二年生ユニット『Trickstar』のメンバー、氷鷹北斗、明星スバル、遊木真、衣更真緒と、転校生プロデューサーのあんずは、深刻な顔をして二年A組の教室で北斗の机を囲んでいた。
「あと三日しかない」
 北斗はいつにもまして厳しい顔で腕組みをし、睨めつけるように机の上を見ている。
「これは俺の落ち度だ」
「いや、お前のせいじゃないって、北斗」
 深く反省する北斗に、真緒がすかさず言う。これは真緒がフォロー慣れしているからではなく、心からの言葉だった。
「衣更、力を貸してくれ」
 北斗は顔を上げて、真緒を見る。
 ふたりの間には固い友情と決意があった。
「あんずはお前に任せる。遊木、お前は俺と一緒に来い」
「えっ、おっ、俺は!?」
 名前を呼ばれなかったスバルは、慌てたように手を挙げた。
「お前は家に帰って寝ろ」
「なにそれ! 俺だけ仲間外れっぽくてやだなー」
 北斗が簡単に片付けると、スバルは不満いっぱいに頬を膨らませる。
「いや、それがいちばん勝率が高い。とにかく――」
 北斗は重々しく首を振り、ここまでひとことも言葉を発しない真とあんずを見据えた。
「遊木とあんずが留年になったらしゃれにならん」
「すみませんでした!!」
 リーダーであり委員長の大きな大きなため息に、真とあんずは声を揃えて謝った。
 五人の真ん中、北斗の机の上にあるのは、今日戻ってきた小テストの答案だ。小テストとはいっても、中間テストが近いので、それに対応したつくりになっている。つまり、これでまあまあの点が取れれば安心できる代物なのだが、真とあんずはものの見事に赤点を取っていた。
 燦然と輝くさわやかな数字に北斗が驚愕し、隣のクラスの真緒も呼んで『Trickstar』緊急会議となったのだ。
 模擬試験のようなこのテストでの赤点は、かなりまずい。ユニットのリーダーとして、転校生の面倒を見てきた委員長として、北斗には看過できないことだった。
 ちなみに北斗とスバルはクラスで一番、二番を取っている。さすがは『Trickstar』――夜空に輝くいちばん星だ。真緒の結果は聞いていないが、生徒会役員でもある彼が赤点のはずがない。
「善は急げだ。行くぞ、遊木」
「わっ」
 北斗はすっくと立ち上がると、真の腕を掴んだ。強引に引っ張り上げられた真は、慌てて眼鏡を押さえている。
「明星、邪魔をしないと言うなら一緒に来てもいい」
「ほんと? 邪魔なんてしないよ~」
 寂しそうなスバルに温情をかけたのか、置いていったらあんずたちの邪魔になると思ったのか、北斗はスバルにそう言った。スバルは嬉しそうに顔を輝かせ、すぐにかばんを掴んで立ち上がる。
「それじゃあな、健闘を祈る」
「おう」
 北斗の視線は、あんずではなく真緒に定まっていた。本人より、教える側の自分たちにかかっていると思っているのだろう。
「あ、あああんずちゃんがんばって~!」
「ま、真くんもーー!」
 北斗に引っ張られるようにして連れて行かれる真が、あんずの方に手を伸ばしながらその手を振る。見送るあんずも真に手を振り返し、少し涙ぐんだ。さながら抗えない力に引き裂かれるふたり――といったところだ。
「うう、ロミオとジュリエットの気分」
「なんだそれ」
「できない同盟結んでいる真くんと離ればなれで心細い」
「それは早々に解散しろ」
「はい」
 ぐすっと鼻をすするあんずの頭を、真緒が呆れたように丸めたノートでぽかりと叩いた。
 全く強くないので痛くはないが心が痛い。あんずのこれから育つ予定のささやかな胸は申し訳なさでいっぱいだった。


--(中略)--


「ねえ、炭酸ジュース買ってきてよ」
「え、ジュース……?」
 こたつの中で凛月に足をつんつんと突かれて、あんずはのそりと体を起こした。正方形のこたつの、凛月とは向かいのところにいるので、寝転がっていると、その姿が見えないのだ。起き上がって見れば、凛月は深々とこたつに潜っていた。自らが動く気配はみじんもない。
「あんずを使いっ走りにするな」
 真緒がすぐに凛月をたしなめてくれる。
(うーん面倒だけど、動くのはいいかも)
 真緒には感謝しつつ、あんずは、お使いに出てもいいように思った。
 真緒の家から最寄りのコンビニエンスストアまでは歩いて数分だから、ちょっと外の空気を吸うにはもってこいだ。部屋の中は暖かく、このままでは寝てしまいそうなので、リフレッシュのためにいちど外に出るのはいい考えだろう。
「ありがとう、真緒くん。でも大丈夫。このままだと寝ちゃいそうだから行ってくる。プリン食べたいし」
 あんずは勇気を振り絞ってこたつから出た。こんなきっかけでもないと、こたつから抜け出すのは難しい。
「じゃあ俺も行く。もう外暗いし、ひとりじゃだめだ」
 真緒も立ち上がって上着を取った。
 世話焼きで苦労性という点で似た者同士のふたりは、凛月のジュースを買いに行かないという選択肢があることに気づいていない。
「…………」
 身支度を整えるふたりを見つめていた凛月が、ふいに真緒のコートの裾を掴んだ。
「駄目」
「え? 何が?」
 唐突な駄目出しに戸惑って、真緒は聞く。
「どっちか残ってよ。ふたりで行くのはずるい」
「なにがずるいんだよ」
 凛月の言い分には、さすがの真緒も呆れて、凛月の手を払った。
「なら、おまえがいっしょに来てあんずが残る、だな」
「えーやだよ。寒いし」
 真緒の提案に、凛月はますますこたつに潜り込む。真緒は仕方なさそうにため息をついた。
「あー、わかったよ」
 長い付き合いの経験から、凛月がこたつからてこでも動かないことを悟って早々に諦めたのだ。凛月が行かない、あんずをひとりで行かせられない、では、もうこの話の落としどころはひとつしかない。
「俺が行ってくるから、ちゃんと勉強してるんだぞ?」
 まるでお母さんのようにふたりに言うと、真緒は財布を掴んで、身軽に部屋を出て行った。
「あ、真緒くん」
 あんずが口を挟む間もなかった。すぐに玄関のドアが開閉する音がして、真緒がもう外に出てしまったことを知る。
「行っちゃった」
 家主を行かせてよかったのだろうかと思いながら、宙ぶらりんになってしまったあんずは、仕方なくコートを脱いで、こたつにまた戻る。
 真緒のいたところがぽっかり空いて寂しい。凛月がどちらか残ってと言った気持ちがわかるような気がする。もちろん凛月の言い分は完全にわがままでしかないが、こたつはひとがいないと寂しいのだ。
「ま~くんいなくて寂しい?」
「え……」
 ふいに凛月に問われて、あんずは顔を向けた。凛月がこたつの天板に顎をのせて、あんずを見ている。その目は眠そうなのに、ずばりと心の中を見抜いてきて、びっくりだ。そんな気持ちが顔に出たのか、凛月は肩を竦めて言った。
「飼い主に置いていかれた犬みたいな顔してる」
 あんずは頬をさする。ひどくわかりやすく情けない顔をしていたようだ。
「ね、こっち来なよ」
 凛月はぽんぽんと体の前で天板を叩いた。こっち、というのは凛月のいるところのことらしい。
 あんずは誘われるまま、こたつを回って反対側の凛月のもとへ行った。
「わっ」
 凛月が体をずらしてスペースをあけたので、その隣に座ると、凛月はあんずに背中から抱きついてきた。そのままごろりと床に転がる。
「ほんとあんたっていい匂いだよね」
 凛月はいつものようにあんずの首筋に鼻を埋めた。

サンプル:シューティングスタークラッシュ☆(あんスタ・まこあん)

 まず、今、僕に起こっていることを説明したい。
 実はそんな悠長なことをしている余裕は少しもないのだけど、そうでもしないと、心が爆発してしまいそうなので、申し訳ないけれど、少し、僕のために付き合ってほしい。
 今、僕の唇は、僕の彼女であるところの転校生ちゃん――あんずちゃんの唇に重なっている。
 いや、恋人同士なら普通なことではないかと、先を急がないでもらいたい。
 彼女とはいっても、まだ付き合いたて。本当にほやほやのほやの仲なのだ。あんずちゃんと出会って、大好きになって、いろんなことを乗り越えて、ついこの間「恋人」になれた。
 そんな彼女とのファーストキスのシチュエーションを、この僕が、データマニアの遊木真が考えないとでも思うだろうか。
 そう。つまり、これは事故なのだ。
 いわゆる事故チュー。
 漫画やドラマの中で、あり得ないだろと思いながら見ていたあれ。
 それが今、僕に起きている。
 あろうことか、僕とあんずちゃんの間に。

 話はほんの数分前。
 月曜日は、『Trickstar』のみんなが部活なんかでいないから、あんずちゃんとふたりきりの日で、僕はいつもの月曜日と同じく浮かれていた。
 きっと、僕は、この世界中でいちばん月曜日を愛している者のひとりだろう。
 その月曜日の、特に心待ちにしていた放課後、あんずちゃんと僕は、いつものようにふたりで練習を始めた。
 そして、まあ、あとはご想像の通りだ。
 ダンスの練習をしていた僕は鈍臭いことにつまずいて、あんずちゃんの方に倒れてしまい、そのまま彼女を押し倒して、キスをしている。
 十数年の人生ではじめてする大好きな人とのキス。
 それがあんずちゃんとでしあわせだとか、その唇のやわらかさに頭が沸騰しそうだとか、様々な感情が、このささやかでもろい心に押し寄せて、真っ白になった。光と同じだ。赤と緑と青が混ざったら、白になる。

「ご、ごごごごごごめん!」
 唇が触れ合っていたのは、実際は一秒にも満たないわずかな時間だったかもしれない。でも、それは永遠にも感じられて、長いことキスをしていたような錯覚にも陥った。
 人生初の恍惚とした時間。
 それは僕の全ての思考器官を停止させ、そして、あんずちゃんを残して教室を飛び出させた。

 うん、わかってる。

 ――……サイテーだ。

 


  1


 本日最終の授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、教室内は一気に空気が緩み、解放感に包まれた。生徒の自主性を重んじるという名のホームルーム放置プレイであるところの二年A組は、クラス委員長氷鷹北斗が、怠惰な担任佐賀美陣の代わりに簡単にクラスをしめるだけだ。
 授業が終わったところで、ここ、夢ノ咲学院アイドル科の生徒たちは、ユニットの活動や部活、委員会などに赴くのだが、授業とそれらの活動はやはり違う。授業の憂うつさは、夢ノ先学院でも同じだ。
 その中、あんずはひとり、まるで狩りの最中のハンターのような顔つきで立ち上がった。
(いない!?)
 目的の席を見て、あんずは愕然とする。
 チャイムと、教師が授業を終わらせる声と、あんずの起立は同時だったか、あんずが食い気味だったはずだ。
 しかし、すでに目当ての男子生徒の姿はその席になかった。
 はっと目を転じれば、教師に先んじて教室を出て行く、すらりとした後ろ姿が見えた。
 意外にも、ユニットの中で最も長身で、――そう言われるのは嫌がるだろうが――モデルらしいすんなりとしてバランスのいい体。色素が薄めの柔らかな髪が揺れている。
 転校してきたとき、委員長の北斗や明星スバルと比べて、ふつうだと思ったけれど、本当はふつうではない、あんずの恋人――遊木真だ。
(速すぎる……)
 運動がものすごく得意というわけでも、足がすこぶる速いわけでもないのに、まるで忍者のような俊敏さだ。気配が薄いとスバルに常々言われているスキルが役に立っている。
 あんずはがっかりして、ため息とともに着席した。
「……尿意は我慢しない方がいいぞ」
 隣の席の北斗が、あんずの屈伸運動を不思議そうに見て、おばあちゃん仕込みのアドバイスしてくれる。
「違います」
 あんずはそれに答えながら、机に顔を伏せた。
 北斗の天然っぷりにも、女子相手にデリカシーのないところも慣れてきたし、今は余計なことに勘づかないその鈍さが助かる。これが周りに気を遣い過ぎの衣更真緒や、妙に鋭いところのあるスバルだったら、なにかあったのかと聞かれていただろう。それは困るので、隣の席が北斗で良かった。
(なにか――ありまくりだよね)
 なにかというにはあまりにも決定的で重大なできごとが、二日前に起きた。
 あんずは、そっと自分の唇に触れる。それだけで心臓は反応して、ドキドキと鼓動を速めた。あんずは火照る顔を腕に押しつける。
 二日前の月曜日、あんずは真とキスをした。
 起きたことを正確に言えば、不幸にも唇が触れ合ってしまった。いわゆる事故チューだ。
 月曜日は、『Trickstar』の他のメンバーは別の用事でいないため、ふたりきりで練習をしていた。真はダンスの練習をしていて、いつもより軽やかにも見えた。傍で見ているあんずも楽しい気分になるようなダンスだった。
 恐らく、いつもより体が軽かったのだろう。真はターンで足を滑らせ、バランスを崩して傾いて、それを危ないと思って、あんずは思わず飛び出してしまったのだ。
 今となっては、それがいけなかったのだとわかる。
 結果、真もろとも倒れて、不運にもキスをすることになってしまった。
 あんずにとって、人生はじめてのキスだった。
 ただただびっくりして、どうしようと混乱して、固まっている間に、真が謝罪を叫びながら飛び起きて、そのまま教室を飛び出していったきり、戻ってこなかった。
 そして、二日経った今まで、まともに会話どころか目も合わせてくれていない状態となっている。朝は、予鈴ぎりぎりに教室に入ってまっすぐ席に着き、昼休みは放送委員の仕事があるからといなくなり、移動教室は先に行っててと北斗に言って、時間をずらしてやってくる。ユニットの練習も、昨日は急用が入ったと言って出てこなかった。今日も、きっと来ないつもりなのだろう。
 完全に避けられている。
 その事実に、打ちのめされる。
 連絡を取ろうにも、何と送ったらよいのかわからず、この二日間、スマートフォンを取り出しては何もできずにしまうことを繰り返していた。
 怒ってないよ、では、真に非があるみたいだ。真はなにも悪くない。あれは事故だったんだから気にしないようにしよう、と言うのも、なんだかキスなんて大したことないと思っているようで抵抗がある。実際、あんずは滅茶苦茶気にしている。ならば、気にしているけど気にしない努力をしよう、と言えばいいのだろうか。そんなことを言ったら、真はますます気に病んでしまいそうだ。
 真は何も悪くないし、気にする必要はないということを伝えたいのに、相手に伝わるように話すのは難しい。それに、真が徹底的にあんずを避けている状況の中、メッセージを送ったところで、見てくれるかも怪しかった。
 あんずは、ため息をつく。
 このまま一生避けられて、ふたりの恋人関係も自然消滅して、『Trickstar』にプロデューサーとしても関われなくなったら、悲しくて仕方ない。
 どうしたらいいだろう。
 心が死んでしまいそうだ。
「あんず」
「トイレじゃないから大丈夫だよ」
 北斗の呼びかけに、あんずはわずかに顔を上げる。
「いや。何か悩みがあるのなら聞く。お前の力になりたい。お前の問題は『Trickstar』の問題だ」
 一ミリも表情を動かさずに言う北斗に、あんずは目を見開いた。いつも通りの生真面目なきれいな顔だ。けれど、わずかにその目が心配そうだった。そのささやかな感情の露出に気づけるのは、北斗と過ごしてきた時間のおかげだろう。
 もしかしたら、さっきのトイレのくだりはボケだったのかもしれないと、あんずは気づいた。あんずが軽口を返していれば、北斗も安心したことだろう。
 北斗は、いつも友だちのために一生懸命だ。
 そのひとりに加えてもらえて光栄だと思う。
 胸のうちがじんわり熱くなり、それは体を駆け上がって目にまで達して、大粒の涙を生んだ。
「ほ、ほぐどぐん~」
 友だちに案じてもらっている嬉しさと、相談ができるかもしれない安心とで、あんずの目からぼろぼろ涙がこぼれていく。
「あ、あんず!?」
 それを見て、北斗がぎょっとしたように目を剥いた。
 もしかしたら、泣いていることではなく、あまりにも不細工に泣いていることに驚いたのかもしれないが、今はどちらでもいい。
「わ、ホッケ~があんず泣かしてる!」
 ちょうどそこにスバルがやって来て、からかっているのか心配しているのかわからない調子で声を上げた。
「ち、ちがう! いや、ちがわないのか? いや、とにかく、ちがう!」
 北斗は慌ててスバルに否定しながら、きれいにアイロンがかかった薄いブルーのハンカチをあんずに押しつける。
「とにかく拭け」
「ありがとう」
 あんずはありがたく受け取って目に押し当てるが、いちど堰を切って溢れ出した涙はなかなか止まらなかった。

5/22 ラヴコレ2016夏御礼

こちらにお品書きもあげずに失礼しました。前日夜に投稿しようと思っていたのに、家に帰ってきたら寝てしまった…。すみません。
無事、イベントを終えて帰りました。

本日はお立ち寄りくださった皆さま、ありがとうございました! 差し入れなどもありがとうございます! 今日もいちにち楽しかったです!

前回、開場10分前に到着するという失敗をやらかしたので、今回は余裕をもって行こうと思って、サークル入場開始する時間に行ったのですが、サークル入場の列がすごくてびっくりしました。それでもするする入れたので、ゆっくり準備して、お茶もして、理想的なサークル参加でした!笑

新刊は有馬EDの有梓のちいさな話だったのですが、私はありまはじめのやきもちが見たい!と思って考え出したのに、やきもちやかないんだよなーってうんうんしながら書きました。でも梓ちゃんもだろうなーと思うと、ふたりはやっぱり似たもの同士ですよね~。お似合い。かわいい。続編はどんな話になるのかほんと楽しみです。

今回、プリストの突発本を無配したのですが、皆さまお気遣いくださってか、お菓子をそっとくださる方が多くて、お菓子と冊子の交換なんて、森の同人誌即売会みたい…!とひとりでほっこりしてました。ああでも、もらってくださるだけで嬉しいのでお気遣いなくです。ありがとうございます。プリストファンの皆さま、妙なタイトルの小冊子をもらってくださってありがとうございました! こちらは今回ですべてもらっていただけたので、配布は終了します。ありがとうございました。

次の乙女ゲームでの参加は、秋のラヴコレかなと思っています。有梓のまた別のコロッケ話も書きたいし、まためいこい鏡花ちゃん書きたいな~と思っています。プリストもまた書けるといいな。怜奈々楽しかった。色々もりもりであれですが、萌えがかぶったときにはまたよろしくしていただけると嬉しいです。

ありがとうございました!

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