花は最後の豆を盛り付けて、小さく歓声を上げた。
厨房の卓の上には、今、完成したばかりのおせち料理が並んでいる。彩り鮮やかに、どれもこれもおいそうにできた。我ながら上出来だと、自画自賛してしまう。雲長と芙蓉に特訓してもらった甲斐があった。あとは、孔明に食べてもらって、孔明の口に合えば言うことない。
できあがったものを見つめていたら、ぐう、と腹が鳴った。
花は焦って腹を押さえ、周りを見回す。厨房には、花の他に誰もいないとわかっているのだが、腹の音というのはどうにも恥ずかしい。花は、誰にも聞かれていないことを確認して、あらためておせち料理を見た。
自分で作っておいてなんだが、とてもおいしそうだ。
食べたい。
ひとつくらい食べてもいいだろう。
「味見、味見」
花は、自分に言い訳をしながら、いい色に煮られた豆を食べる。
「おいしい」
思わず花は呟いていた。雲長に教わった煮豆は柔らかく、甘みが上品でほどよい。花はまた豆を食べた。ぱく、ぱく、と知らず箸が進む。
「それで五個目だけど、ボクの分、残ってる?」
突然、背後から声をかけられて、花はびくっと体を震わせた。やましいところがあるだけに、心臓が口から飛び出しそうになる。しかし、花は、心臓ではなく食べた豆が飛び出ないように、口を押さえて振り返った。
「こ、孔明さん……!」
もごもごと豆を噛みながら、花は戸口に立つ夫を見る。花自身、食べた豆の数を数えていなかったので、孔明がどこから見ていたのかわからないが、知らぬ間に相当な数を食べてしまっていたことは確実だ。だが、豆はたくさん煮たので、まだ皿には山盛りで残っている。
「だ、大丈夫です、たくさん作りましたから」
花はつまみぐいをしていたことをそっと脇に置き、孔明に豆の皿を見せた。
「うん、おいしい。これは確かに後をひくね」
差し出された豆をつまんで、孔明は頷く。そして、言葉通り、二つ三つと続けて食べた。
「よかったです」
花は、顔を綻ばせる。孔明においしいと言ってもらえて嬉しかった。
「でも、ほんとにたくさん作ったね。二人なら、一週間は籠城できるんじゃない?」
孔明は、卓の上に並んだ料理を見て言う。その顔は、多種多量の料理を花がひとりで作ったことに感心しているようでもあるし、二人しか食べる人がいないのに、大量すぎることに驚いているようでもあった。
「はりきりすぎちゃいました。すみません」
孔明の感想がどちら寄りか判別できなかったが、作りすぎは自覚していたので、花は謝る。
「謝らなくていいよ。ボク、たくさん食べるから」
孔明の食は細い方だから、それは花を気遣っての言葉だろう。孔明のことだから、有言実行するために、無理矢理にでも全部食べようとするかもしれないが、それは止めなければいけない。城に持っていけば、翼徳がおいしく食べてくれるはずだ。
「それに、一週間登城しないっていうのも手だよねえ。愛妻の手料理がおいしくて、家から出られませんって。新婚ならではの理由だと思わない?」
冗談めかして言っているが、隙あらばそうしようという思惑が透けて見える。
「それ、ものすごく芙蓉姫に怒られると思います。それにもう、新婚でもないですし」
それを実行した場合の周りの反応が鮮やかに浮かんで、花は想像するだけで疲れてしまった。それに、本当に新婚なら、少しくらい緩んでも笑ってもらえるかもしれないが、花と孔明は新婚とはいえない。夫婦になって、正月を迎えるのは三度目だ。
「怒られるくらいならいいかな」
「駄目です」
花の言葉尻をとらえて呟く孔明に、花はぴしゃりと言い切った。すると、孔明がとても寂しそうな顔をする。それを見て、花はずきりと胸が痛んだ。
「君、最近冷たくない?」
「孔明さんが、すぐにさぼろうとするからです」
騙されるな、こちらが正しい、と花は自分に言い聞かせて、孔明の揺さぶりに堪える。
「だって、そんなにまじめに働かなくてもいいからさ」
「そんなこと言ったら、玄徳さんに怒られますよ」
「もうだいたい落ち着いたから。いいんだよ」
孔明の言う通り、成都に来た頃に比べたら、益州はもちろん、国内はとても落ち着いた。そして、孔明も、ここに来たときと比べて、仕事に対する熱心さというか、真摯さが落ち着いてきたように思う。国から戦をなくして、政に興味を失ったかのようだ。
「ボクら働き過ぎたから、そろそろ隠居してもいいと思わない?」
そんな花の考えを裏付けるかのように、孔明はそんなことを言う。
「それもたくさん苦情が来そうですね」
花は頷いてあげたい気はしたが、ここで、そうですね、と言ったが最後、本当に今日にでも、やめます、と言いかねないように思えた。
「うーん。じゃあ、今は、この休みの間だけでも、のんびり休もう」
孔明はそう言って、花を抱きしめる。
「こ、孔明さん」
「もう新年迎えるだけだろ? あとはあったかい部屋でごろごろしよう」
心構えがなかったために驚いた花に、孔明は甘えるように体重をかけてきた。
いつもなら、花は引き締め係だが、今日は大晦日で、二人ともすべきことは終わっている。孔明の提案はとても魅力的で、頷かない理由はなかった。
「……はい」
ただ少しだけ恥ずかしくて、花は目を伏せる。
「うん」
しかし、花が頷くやいなや、孔明は花に口づけた。その素早さにびっくりしている間に、口づけが深まる。
「っ……んっ……」
「……甘いね」
十分に口づけをかわした後、離した唇をぺろりとなめて、孔明が言った。
豆の甘さが口の中に残っているのだろうが、お互い様だ。
「へ、変な風に言わないでください」
花は顔を赤くして抗議する。
「なんで?」
孔明は楽しそうに花を覗き込んで、再び花に口づけた。今度は口づけの間に、背中にあった手が、ゆっくりと腰へとおりていく。
「こ、孔明さん……ここじゃ……」
花は身を捩って、衣服を緩めようとする孔明の手を止めた。
「違うところならいいの?」
すると、孔明は耳元で意地悪く聞いてくる。
花は顔を赤くして固まった。
もう陽は沈んできたとはいえ、まだ夕方だ。人々も大いに活動している時間である。そんな時間に房事にふけるのは、あまり花の好むことではなかった。けれども、孔明の腕はあたたかく離れがたいのも事実だ。
しかし、やはり、駄目だ。
「だめです」
花はなんとかそう言った。
「……のんびりするんでしょう?」
花は、孔明の意図することをしては、のんびりなどできない。そういう意味を込めて牽制する。
「うん、まあするよ?」
だが、孔明はあっさりそう躱して、花を抱き寄せた。花の意見など、聞く気はないらしい。
「こ、孔明さん」
このままここで事に及ばれてしまっては、時間だけでなく場所も問題だ。花は、しっかり抵抗しようと腕に力を込めた。
「うん」
しかし、孔明は花の抵抗を封じ込めて、再び口をふさぐ。
それが本格的な愛撫に変わり、花の体から力がなくなりかけたときだった。
どんどんどんどん、と勝手口の戸が激しく叩かれた。
花はびっくりして、目を開ける。孔明もまた弾かれたように顔を離した。
「だ、誰でしょうか?」
玄関ではなく勝手口から訪問するなど、まるで花たちがここにいることを知っているかのようなタイミングだ。やましいところのある花は、どきどきして、いまだ叩かれ続ける勝手口の戸を見つめる。
訪問者に見当がつかなかった。もちろん客のはずがない。出入りの店への支払いは、昨日のうちに済ませた。そもそも、出入りの業者であったら、これほど乱暴に叩かないだろう。
そう、乱暴なのだ。
戸はまだ叩かれている。
まるで何かから追われていて、ここが開かないとそれに捕まってしまうかのような切迫したものを感じさせる叩き方だった。
心配になった花は、戸を開けようと孔明の腕から出る。
「嫌な予感がする。花、開けなくていいよ」
すると、孔明は固い顔で、花の腕を掴んだ。
「え? でも、お客さんですよ」
「客がこっちには来ないよ」
戸惑う花に、孔明はもっともなことを言う。その言葉に、戸の方へ行きかけた花の足が鈍くなった。
しかし、そんな花に抗議するかのように、どんどんどんどんと戸を叩く音が大きくなる。
「で、でも、何か用があることは確かですし……」
そのノックの必死さが気になって、花は、孔明の手を振りほどいた。
「花!」
孔明の鋭い制止の声と、花が勝手口の閂を外して、戸を開くのとは同時だった。
「道士様あぁぁぁぁぁあああ」
その途端、何かひょろ長いものが泣き叫びながら転がり込んでくる。
季翔だ。
「嫌な予感」
孔明は、季翔を指差した。
「孔明さん」
花は孔明をたしなめ、泣いている季翔にかがみこむ。
「季翔さん、どうされたんですか? 大丈夫ですか?」
切羽詰って戸を叩いていたのが季翔だとわかっても、疑問は解消されなかった。それどころか、誰かかどこかで何かあったのかと不安が広がる。
「道士様ぁあ! あんたほんとに優しいな!」
がばりと起き上がった季翔は、感激したように、花に抱きつこうとした。
「花に触らないでくれる?」
しかし、季翔の長い腕が花に届く前に、その額を棒で突かれ、季翔はまた転がる。
いつのまにか、孔明の手に、厨房の隅に置いていたほうきが握られていた。
「いでぇぇ!」
ごろんごろんと転がった季翔は、戸にぶつかって動かなくなる。
「き、季翔さん!?」
花は慌てて駆け寄った。
「亮がいじめる」
仰向けで伸びている季翔は、半泣きながらも意識があったので、花はひとまずほっとする。
「孔明さん、ひどいです!」
それから、孔明を非難した。
「どうして君はそっち側につくかな。ボク、君のこと、助けてあげたんだよ? こんなおじさんに抱きつかれるなんて、気持ち悪いでしょ?」
孔明は肩を竦めて、悪びれない。
「ひっでーよ、亮! 俺はまだぴちぴちだぜ? あ、いや、お前に比べたら、大人だな、うん。お前、俺が道士様のこと抱きしめたら、その大人の男の魅力に、道士様がめろめろになっちゃうって心配してんだろっ? ま、当然だな!」
それに対する季翔も全く堪えた様子もなく、元気に立ち上がった。そして、無駄に前向きな妄想をして、孔明を不快にさせている。
「それ、十割ないけど、すごく不愉快だから、やめてくれる?」
孔明はにっこり笑って、再びほうきで季翔の胸を突いた。
「ぐおっ!」
孔明は全く手加減していないらしく、季翔は悲鳴を上げて倒れる。
「孔明さん!」
花は、孔明があまりに乱暴なので叱咤し、ほうきをとりあげた。
それに、これでは全く話が進まない。
「季翔さん、今日はどうしたんですか? どうしてこっちから?」
花は、どうにかまた起き上がった季翔に聞いた。
「ああ、表に行ったんだけど、どんなに呼んでも返事がないだろ? でも、出かけてるって感じでもなかったから、中にいんだろって思って、こっちに回ってきたんだ」
ここでいかがわしいことをしていたときに、呼ばれていたと知り、花は顔を赤らめてしまう。
「でもよう、こっちの戸を叩いても、全然返事がないから、何かあったんじゃないかって、心配したぜ」
「声かけろよ」
孔明がぼそりと呟いた。
それはもっともだ。どうして勝手口では無言で戸を叩き続けたのかは、季翔だからとしか言いようがない。
「そしたら絶対に開けなかったのに」
孔明は、さらにぼそりと続けた。
「亮、何か言ったか? うん? なんか、道士様、顔赤くねえか?」
季翔は、孔明の呟きも拾えず、花が恥ずかしがっていることもわからず首を傾げている。
季翔でよかったと、花は思った。これが晏而だったら、絶対に色々と気づいている。それでさらに恥ずかしい思いをしたことだろう。
「それで、なに?」
花の話を引き取って、孔明が季翔に聞いた。孔明もようやく、時間の無駄だと気づいたのだろう。
「え?」
しかし、前置きもなく促されて、季翔はきょとんとしている。
「何か用があったから来たんだろ。三十秒でその用を済ませて出て行くなら、特別に許してあげるよ。はい」
孔明は、異論を挟む暇も与えず、いーち、にーい、と数え出した。
「そ、それは……」
それに対して、季翔がなぜか口ごもる。
「なに? もしかして、用もないのに来たの?」
その途端、孔明からゆらりと何かが立ち昇った。
尋常でない迫力に、季翔だけでなく、花もぞくりと背筋を冷やす。
「ち、ちげーよ! 用ならあるって! ああ、そうだ。どっからどう見ても立派な用事がある!」
季翔は慌てて胸を張って、用事を主張した。
「はい」
それならばと、孔明は手まで差し出して、季翔に話すよう促す。
「だけど、三十秒じゃ終わらねえんだ」
しかし、季翔はまだまごついていた。
「ボクが終わらせてあげるから、大丈夫」
それに対して、孔明が胸を叩く。大船に乗ったつもりで話してみろ、という素振りだ。
季翔は、ごくりと唾を飲み込む。
それが泥船とも気づかない季翔は、孔明が再びカウントダウンを始めようとするのを見て、慌てて口を開いた。
「今晩、ここに泊めてくれ!」
孔明は、季翔の胸をどんと押す。
「ひでーよ、亮! 俺とお前の仲じゃねえか!」
孔明によって強制的に排除されそうになるも、季翔は戸口に手を突っ張って、なんとか踏みとどまった。今まさに、生来の体の長さが生かされている。
「ボクと君の間に、どんな関係もないよ」
孔明は冷たく言い切った。心からそう思っているのだろう。
「じゃあ、俺と道士様の仲……ぶほっ、つめてー!」
季翔が言い換えようとするのを最後まで言わせずに、孔明は季翔の顔面に冷水をかける。
「こ、孔明さん!」
花はびっくりして孔明の腕を引いた。いくらまだ陽が出ているとはいえ真冬だ。頭から水をかぶったら風邪をひいてしまう。
「季翔さん、すみません」
花は急いで布を持ってきて、季翔を拭った。
「家に泊まりたいって、何かあったんですか?」
突然大晦日にそんなことを言ってくるのには、なにかわけがあるのだろうと思って、花は聞く。家賃未払いで、家を叩きだされてしまったのだろうかというのが、一番に浮かんだものだった。
「せっかく年越しだってのに、一緒に過ごしてくれる人がいなくて、寂しくてよう」
そんな失礼なことを考えているとは知らず、優しく聞いてくれる花に、季翔はぐすんと涙をすする。
「晏而のとこに行けばいいだろ」
「晏而、嫁さんの実家に行くって言ってて、ほんとに家がすっからかんで」
それはもちろん逃げたのだろう。毎年、寂しいからと家に上がりこまれて、家族団らんもなかったに違いない。しかし、晏而には、季翔を青州から連れてきた責任があるはずだ。その責任をきちんと取って、今年も面倒を見ればいいものを、と孔明は拳を握りしめた。
「俺、嫁さん家までは行けねえし。……どこにあるか知らないんだ」
「お、奥さんの実家には行かない方がいいと思いますよ」
まるで、知っていたら押しかけると言わんばかりの発言に、花は慌てて止める。
花にも、晏而のこれまでの正月が思い浮かぶようだった。
しかし、年越しをひとりで過ごすというのもさびしい話だ。孔明は嫌がるとわかっているが、花は季翔を追い出すことはできなかった。
「孔明さん」
「駄目」
花が頼む前に、孔明が却下する。花の考えなど、お見通しなのだろう。だが、花も反対されることはわかっていた。そんなことではくじけない。
「……って言っても、聞かないよね、君は」
しかし、花が説得のために口を開く前に、孔明はそう言ってためいきをついた。
「孔明さん……それじゃあ……」
「いいよ。でも、今年だけだからね。来年は、君がなんと言おうが、絶対に叩きだすよ」
孔明は許しながら、来年への予防線も忘れない。だが、何であれ、許可は許可だ。花は、喜んでお礼を言った。
「ありがとうございます!」
「亮! ありがとう!! やっぱり、持つべきものは友だちだな!」
季翔も感激して、花にかけてもらった布を払う勢いで、孔明に飛びつこうとする。
「君と友だちになった覚えはないよ。それに近づかないで。ボクまで濡れるだろ。ボクは君と違って風邪を引くんだから」
孔明はそれをさらりと躱して、嫌味を言った。
「ああ、お前、体弱いもんな」
しかし、季翔は真顔で心配そうに頷く。
孔明は深くため息をついた。
「うっわっ、すっげー。うまそーっ!」
年越しのための料理を並べると、季翔は歓声をあげた。
「これ、道士様が作ったの? ぜんぶ?」
「はい。たくさんあるので、遠慮しないで食べてくださいね」
孔明もおいしいと言ってくれるし、料理を作ると喜んでくれるが、それとはまた違った表現の仕方に、つい花の頬も緩む。作ったものをおいしそうに食べてくれるのは、やはり嬉しいものだ。
「食べる、食べる」
季翔は言葉通り、ものすごい勢いで食べ始めた。
「花、ボクの分は別にしておいて。全部食べられちゃいそうだ」
季翔のあまりのペースの速さに危機感を覚えて、孔明が言う。
「はい」
花は笑って頷いた。
「あ、お酒、持ってきますね」
そして、孔明と季翔にお酒を注ぎたそうとして、すでにどの瓶も空になっていることに気づき、立ち上がる。
そのとき、玄関の方から声が聞こえた。
「誰か来たみたいですね」
花と孔明は顔を見合わせる。
すでにもう夜も更けて、あと数刻で年が変わるといった時間だ。こんな夜の訪問者は、何かあったのではと、不安が過ぎる。
「晏而だったりして」
季翔がのんきに言った。もうほろ酔いなのか、顔が赤い。
「奥さんの実家なんだろ」
孔明は冷たく言って立ち上がった。
「いいよ、花。ボクが行くから。花は、お酒、取ってきて」
「は、はい」
ものすごく嫌な予感のする孔明は、自ら買って出て玄関に向かう。
「誰? 留守だけど?」
玄関に行くと、孔明は扉に向かって、そう呼びかけた。
「孔明様! このような時間に申し訳ございません! 城からの使いです!」
すると、扉の向こうから、差し迫ったような硬い声で返事があった。
孔明は、少し悩んで、戸を開ける。
「よう」
開けた瞬間見えた顔に、孔明は問答無用で閉めようとした。しかし、そこに素早く足が挟まれて、それは叶わない。
「なに」
足の幅だけ開いた扉から覗く士元に、孔明は不機嫌を全開に問いかけた。
「ひでえな。居留守もそうだが、それが友だちに対する態度か?」
「友だちなら、新婚の大晦日に訪ねてこないだろ」
「もう新婚じゃねえだろ」
「何年経っても邪魔されたくないってことだよ」
孔明は、力を込めて、無理矢理扉を閉めようとする。
「いてててててて!」
士元は悲鳴を上げた。孔明が迫っているのは、足を引くか、潰されるかの二択だ。
「孔明さん、どうしたんですか!?」
士元の悲鳴を聞きつけて、花が中から飛び出してくる。
花に知られてしまっては、孔明もそれ以上の暴挙はできなかった。孔明は諦めて、力を緩める。
「士元さん」
花は、涙目の士元を見て、驚いたように目を見張った。
「よう、奥方殿。近くにいたから、寄ってみた。ひとりで年越すってのも、味気ないと思ってな」
士元は、孔明にされたことは言わずに、手に提げていた酒瓶を持ち上げてみせる。そのあたりは賢いが、孔明の家に来た理由は季翔と同じだ。こちらももうだいぶ酒が入っているようだった。
「そのままその店にいればいいだろ」
孔明は、まだ士元を家の中に入れまいと体を張って防いでいる。
「あの、悲鳴が聞こえたんですけど……」
花は、そんな二人を見比べて、眉根を寄せた。
「おー、あんた! いいところに来たな! 飲もうぜ!」
しかし、そんな花の疑問は、後からやってきた季翔に完全に潰された。
「お、先客か? にぎやかでいいな」
士元は、季翔を見て、嬉しそうに笑う。
酔っ払い同士、瞬時に意気投合したらしい。
「ああ、ちょうどいい。二人で飲みに行ったら? 一緒に年越す相手ができてよかったね」
孔明はそんな二人をまとめて追い出そうとした。
「薄情なこと言うなよ。親友と飲もうと思って、わざわざ来たんだぜ?」
「なー? さー飲もう飲もう」
しかし、季翔と士元は、まるで孔明の言うことを聞かず、ずかずかと中に入っていく。
「あ、ちょっと」
「え? あ……」
孔明と花は慌てて追いかけた。
「これ、奥方殿が作ったのか? 豪勢だな。孔明だけじゃ食べきれんだろ」
士元はすでに席について、花の料理を食べ始めている。酔っ払いならではの図々しさだ。
「そうそう。俺たちが手伝ってあげないと」
「だな」
季翔と士元は顔を見合わせて頷き合う。
そうして、孔明ですらなすすべなく、士元にも居座られてしまった。
花も驚く展開だ。
「ボクの分まで食べたら、叩きだすからね」
孔明はもう追い出すことは諦めたのか、自分の分の料理の確保に回った。
まるで子供染みた様子に、花は笑ってしまう。
今までにないにぎやかな年の瀬は、あっという間に時間が過ぎていった。
鐘が鳴っている。
年が明けたのだろう。
花は、はっとして、顔を上げた。卓に伏せて、うつらうつらしていたようだ。
見れば、孔明たちは床に転がっている。その周りには、空の杯や酒の瓶が散っていた。花が寝ている間に、飲み潰れたようだ。
花は三人に毛布をかけた。
せっかくの年越しに、起きているのがひとりで、少し寂しい。けれど、平和そうな寝顔に、笑ってしまう。
「あけましておめでとうございます」
三人に向けてそっと囁いて、花は立ち上がった。
簡単に片づけをしておかないと、明日の朝が大変だ。三人を起こさないように気をつけて、食器をさげる。
「花」
台所で皿を洗っていたら、背中から声をかけられて、花は体を震わせた。振り返って見ると、孔明が目をこすりながら入ってきている。明日の昼まで起きそうにもないくらい寝入っていたはずなのにと、花は驚いた。
「孔明さん、どうかしました?」
孔明は、花の質問に答えず、花を抱き寄せる。
「あけましておめでとう。今年もよろしく」
そして、そう言った。
それは、これまで夫婦になって二度、一緒に年を越えたとき、年が明けて最初に交わしてきた言葉だった。
もしかして、それを言うために、がんばって起きてきたのかと、花は驚くのと同時に嬉しくなった。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
花も大切な言葉を返した。
「うん」
孔明は頷いて、ぎゅっと花を抱きしめる。
その抱擁に、少しだけ涙が滲んだ。
孔明の、ここにいてほしいと望んでくれる気持ちが、共に新年を迎えられた喜びが伝わってくる。
「孔明さん。今年も、来年も、その次も、ずっとずっとよろしくお願いします」
花も孔明を抱きしめ返した。
もうここで生きていくことしか考えられないのに、新たな年を迎えるたび、ここにいられることを感謝している。きっとそれは、ずっと続くのだろう。
けれど、孔明と花は、確かに去る年も共にいて、来し年も共にいる。それもまた、ずっと続くことだ。
繰り返す一年をいつまでも一緒に過ごしていたい。
「うん、ボクも」
二人は顔を見合わせて小さく笑うと、口づけをした。
翌日、昼過ぎに、孔明の屋敷を訪れる者があった。
「あけましておめでとう!」
晴れやかな笑顔で挨拶をするのは、晏而だった。ひとりではなく、一家総出だ。
「おめでとうございます、晏而さん」
出迎えた孔明と花は、予想外の客に少々面喰いながらも、挨拶を返す。
「ごめんなさいね、正月早々。この人が挨拶しに行くってきかないもんだからさ」
晏而の妻は、申し訳なさそうにしていた。
「いいえ、寄ってくれて嬉しいです」
花はそれに慌てて首を振る。来てくれたのは嬉しい。戸惑っているのは他に理由があるのだ。
「晏而、奥さんの実家に行ってるんじゃなかったの?」
孔明は胡乱げに晏而を見る。
昨日、季翔が転がり込んできたのは、そのためだったのではないか。どうして、晏而が爽やかな笑顔でここにするのだろう。
それは花も疑問だった。
「ん? どうして知ってんだ? 俺、話したっけ?」
晏而が首を傾げかけたとき、家の中からどたどたと季翔たちが出てくる。
「あー、晏而だー!」
「よう、一緒にやるか?」
季翔と士元は、晏而を見て嬉しそうだ。
「って、なんで、お前たち……」
それに対して、晏而はぎょっとして身を引く。
「晏而が逃げ出したからに決まってる」
孔明が低い声で言った。
「当然だろっ……って、亮! 怖いから!」
晏而は頷きかけて、孔明の冷たい視線に怯えた。
「あー、わかった、わかった。こいつは引き取るよ。季翔、家に来い」
晏而は降参して、季翔の腕を引く。もちろん、季翔に異存はなく、されるがままに従った。
「あんたも来るか? 安酒しかねえが……」
「酒ならなんでも」
それほど顔見知りでもないはずなのに、晏而は士元までも回収する。
それでようやく、孔明の瞳が和らいだ。
「じゃ、じゃあな、亮、道士様」
「またねー」
「いやあ、うまい酒に料理、ありがとな!」
ぞろぞろと出て行く晏而たちを見送って、孔明はほっとしたように息を吐いた。
「あーあ、これでようやく君と寝正月できる」
嵐のような騒がしさが去って、花も少し落ち着いた気持ちになる。しかし、部屋の中に戻ると、なんともいえない寂しさが襲ってきた。
季翔と士元が座っていた席が空いている。さっきまで使われていた杯や箸が、使いかけと言った様子で置かれている。がらんとしていて、家の中が広く見えた。とても静かだ。
孔明を見れば、花と同じように、なんだか物足りないような顔をしている。
「あの、孔明さん」
花は思い切って声をかけた。
「なに?」
「これから、晏而さんのお家にお邪魔しませんか?」
「は? 正気? せっかく、二人きりになれたんだよ?」
孔明は目を剥いているが、花はさきほど見たものを信じて、強く誘う。
「二人きりはいつでもできるじゃないですか。でも、今年はみんなで過ごしませんか? 料理もたくさんありますし」
孔明も寂しいと思ったはずだ。二人きりの時間も楽しいが、みんなで過ごす正月というのもいいものだ。
花は期待を込めて、孔明を見つめた。
すると、孔明はひとつ息をつく。
「……仕方ないな。それじゃあ、支度をしよう」
「はい」
渋々といった様子の孔明に、花は大きく頷いた。
今から追いかけていったら、晏而はきっとひどく驚いて、そしてとても喜んでくれるに違いない。
その顔を思い浮かべて、花はくすりと笑った。
おわり