Entry

Category: こばなし

誕生日ばなし(藤芽)

 そっと生垣の奥の家の様子を窺うと、しんと静まり返っていた。さきほど、玄関でも呼びかけてみたのだが、応答はなかった。居留守を使われているのかとも思ったが、本当に留守のようだ。
 芽衣は、きょろきょろと周りを見回してから、えいっと生垣を飛び越える。不法侵入だが、きっと大丈夫だろう。芽衣は、最近八雲みたいになっているなと思いながら、そっと縁側から上がり込んだ。
 家の中には、やはり人気はない。藤田は外出中のようだ。
(誕生日なのに、どこに行ってるのかな)
 帝國ホテルにいる警察官に、藤田が今日は非番だと聞いたので来たのだが、空振りだ。
(もしかして……誰かにお祝いしてもらっているのかな)
 がらんとした家は寂しくて、そんな心配が湧いてくる。心に不安が広がった。それならば、これはいらないものだ。芽衣は持ってきた食材や料理、お酒を見下ろす。藤田の誕生日をお祝いしたくて、買い集めた品だった。
(……これが無駄になるのは、もったいないな)
 本当は、藤田をお祝いできないかもしれないことが嫌なのに、芽衣はわざとそう思って、自分の心を誤魔化した。
(……ちょっと買い物に行ってるだけかもしれない……)
 芽衣は不安を振り切るように、勢いよく荷物を抱え上げる。とにかく準備をしてしまおうと、台所に向かった。何度か出入りしている間に、使い勝手がわかり出した、勝手知ったる他人の台所だ。芽衣はその台所に入ると、自分の家のように買ってきたものを調理台の上に並べた。温めるだけでいいものから、調理をしないといけないものまでさまざまある。せっかくだから、テーブルいっぱいに料理を並べて、たくさんお祝いしたいと思ったのだ。
「よし」
 芽衣は、さっそく準備にとりかかった。
 そうして、料理に専念すること三十分。現代よりも作業が大変なこともあって、芽衣は、すっかり、心配と留守宅にあがりこんだことを忘れて、料理に集中していた。
「おい、何をしている」
 そのため、突然、背中にかけられた低い声に、芽衣は、とび上がって驚いた。しかし、すぐに状況を思い出す。完全なる不法侵入だ。そのうえ、勝手に台所を使っている。これは何という罪なのだろう。ここまで堂々とやらかしておきながら、芽衣はどうにか逃れる術はないかと焦る頭を働かせた。
「おい。聞いているのか?」
 藤田の重ねての声に、汗がどっと湧き出る。
 これはもう観念して、お縄につくしかないのかもしれない。
「おい!」
 藤田の大きな声とともに、芽衣の体がふわりと浮かぶ。
 強制排除しようと思ったのか、藤田が背後から芽衣の腰を掴んで持ち上げていた。
(うわっ……!)
 そんな方法で軽々と持ち上げられてしまって、芽衣は驚いた。
 足がぶらぶらしている。この年齢になってから、こんな風に持ち上げられたことはない。まるで子どもだ。
 と、そのとき、芽衣は、台所の入り口に置かれた荷物に気がついた。紫の風呂敷に包まれた、なんだか頭を下げたくなるような、立派な佇まいのものだった。
(誰かにもらったプレゼント……?)
 そう思いついて、ちくりと胸が痛む。
 あんなに立派なものに込められた想いは、それ相応のものに思った。いったいどんな人にもらったのだろう。
(……女の人だったら、嫌だな……)
 勝手に相手を想像して落ち込み、芽衣は俯く。
 あの贈り物は、大人な藤田にぴったりのように思えた。留守宅に押しかけて、勝手にお祝いの準備を始めるような芽衣とは振る舞いが違う。芽衣はまるで子どもだ。ぶらつく足に、ますますその思いが強くなる。実際、藤田から見たら、子ども以外の何物でもないだろう。
「……ごめんなさい。帰ります」
 どんどんマイナス思考に傾く間に、涙がこぼれてきそうになって、芽衣は慌てて言った。これで泣いたりしたら、藤田にさらに迷惑をかけることになる。
「は?」
 藤田は面食らったように、きょとんとした。藤田の驚きは当然だ。勝手に家に上がりこんで、我が物顔で台所を使った挙げ句、全てを放り出して、帰ると言うのだ。いったい何なんだ、という気にもなるだろう。
「あの、ですので、おろしてくれませんか?」
 身勝手なことはわかっている。ありえないくらいに図々しい。けれど、今の芽衣の頭の中は、一刻も早く、この場から立ち去りたいということでいっぱいだった。
「はあ」
 藤田は、大きくため息をついた。
「訳が分からん」
 呟かれた言葉が、ぐさりと胸に刺さる。わけがわからないことをしている自覚はあるが、藤田に呆れた声で言われるのは堪えた。
「だから、藤田さん……っ!」
 芽衣は、もう一度おろしてほしいと訴えようとしたが、先に藤田が動いて、芽衣を抱え直し、子どもにするように、自分の腕に芽衣を座らせた。
「ふ、藤田さん!」
 自分の希望と真逆のことをされて、芽衣は慌て、抗議する。
「お前は、用があって来たのではないのか?」
 藤田はその声を聞き流し、散らかっている台所を一瞥した。
「もう、いいんです」
 芽衣はぷいと顔を背けた。どうして意地を張ってしまうのだろう。ここで、そうだと頷き、誕生日のお祝いをしたいのだと言えば、藤田も嫌がらないとわかっているのに、できない。拗ねた気持ちを抑えられない。
 自分がどこまでも子どもなことが腹立たしくなってきた。芽衣は八つ当たり気味に、紫の風呂敷包みを睨む。
「ん? あれか? あれは……」
 藤田は、芽衣の不満気な視線に気づいたが、言い淀んで目を伏せてしまった。その様子に、芽衣の中の疑惑が深まり、胸が痛くなる。やましいものなのかもしれない。そう思ったら、ここにいるのが嫌になった。きっと芽衣が祝わなくてもいいのだ。
「は、放してください! 私、帰ります! 帰るんです!」
 芽衣は、藤田の腕から逃れようとじたばたと暴れる。
「っ」
「きゃっ」
 不意をつかれた藤田は、よろめいて、その場に尻餅をついた。ともすれば、芽衣は放り出されてもおかしくないような体勢だったのに、藤田は芽衣を抱きしめて、衝撃を一手に引き受けてくれた。
 ただ、結果として、藤田に覆いかぶさるような形になってしまい、芽衣は慌てて離れようとする。しかし、藤田はそんな芽衣を抱きしめてはなさなかった。
「……………………帰ると言うな」
「え……?」
 低く囁かれて、芽衣は思わず聞き返した。
「お前が帰るべき場所は、この家だ。結婚前に住まいを一緒にするのは認められないなどと、お前の保護者気取りの男が言う上に、お前がそれを尊重したいと言うから、帝國ホテルに戻ることを見逃しているが、お前の家はここだ。間違えるな」
 藤田は厳しく芽衣に注意する。そして、忌々しそうに続けた。
「あんな男と、扉一つしか隔てていない部屋で暮らすなど、今すぐやめさせたいのだけどな……」
「藤田さん……」
 あの藤田がやきもちをやいてくれている。厳しい口調にも愛情を感じて、芽衣の沈んでいた心は、嬉しさにふわりと舞い上がった。
「わ、私……ホテルには戻りません……。藤田さんが許してくれるなら」
 芽衣は、そっと藤田の胸に身を寄せた。本当は、いつだって帰りたくない。藤田といつまでも一緒にいたい。いつもは、藤田を困らせてしまうと思って言えない言葉が、するりと出てきた。
「っ――」
 藤田が驚いたように目を見張る。
「私、藤田さんのお誕生日をお祝いしたくて来たんです。すみません、勝手にあがりこんで。でも、あの、今日はずっと一緒にいさせてくれませんか? 藤田さんと一緒にいたいんです」
 芽衣は、重ねて頼み込んだ。大切な人の特別な日を、一緒に過ごしたい。そんな想いを込めて藤田を見つめる。すると、藤田は、息を吐き、芽衣を抱き寄せた。
「それは、俺がお前に頼むことだ。俺の、望みだからな。……さっき……出かけるとき、その間に、お前が来るかもしれないなどと思って、俺は庭の窓を開けておいたんだ。……馬鹿な真似をしていると思いながら」
 藤田がためらいがちに告げたことに、今度は芽衣が目を見開いた。
「ば、馬鹿な真似じゃありません。私、来ましたし! それに、藤田さんがそうやって思ってくれて嬉しいです!」
 誕生日に芽衣がやって来ることを期待してくれていたなんて、嬉しすぎる。はしゃぐような気持ちで、芽衣は藤田に伝えた。
「……あの、藤田さん、あれは何なんですか?」
 その勢いで、芽衣は例の風呂敷包みについて聞いてみる。まだ、あれが女の人からのプレゼントの可能性は残っているが、今ならそう聞いても、少しショックを受けるくらいで済むと思ったのだ。
「ああ。あれか。あれは……梅干しだ」
「梅干し?」
 今度は藤田も答えてくれた。好きな相手に贈るには、意外と渋い中身だ。
「誕生日などめでたくもないが……だが、まあ、何にせよ、節目の日だ。こういったものを買うのも悪くないだろう」
 分かりづらい言い方だが、どうやら自分へのプレゼントらしい。
「紀州の名品だ」
「そ、そうでしたか」
 少し自慢げな藤田に頷きながら、芽衣は力が抜ける思いだった。勝手に女の人からのプレゼントだと思って、子どもっぽい自分と比べて、落ち込んで、騒いでしまったことが恥ずかしい。藤田にも申し訳なかった。
「しかし、お前は、どうしてあれがそんなに気になる?」
「えっ……と……」
 逆に藤田に問われ、芽衣は気まずくて口ごもる。
「おい?」
「…………誰かからもらったのかなと思って。……きれいな包みだったので、女の人じゃないかって……思ってしまって」
 藤田に覗き込まれて、芽衣は自分だけ言わないのはよくないと思い、正直に白状した。
「妬いたのか」
 藤田はからかうように聞いてくる。
「はい」
 その通りだったので、芽衣は素直に頷いた。すると、藤田の方が顔を赤らめてしまう。
「そ、そうか」
 藤田にそんな反応をされると、芽衣も恥ずかしくなった。同じように顔を赤くして、目を伏せる。
「そ、そういえば、料理が途中だったな」
 気恥ずかしい雰囲気が漂って居たたまれなくなったのか、藤田が慌てたように立ち上がろうとした。
「藤田さん」
 けれど、芽衣はまだもう少し離れてほしくなくて、とっさに藤田の腕を引く。
「なんだ?」
 振り返った藤田の唇に、そっと触れる。藤田が固まった。
「…………プ、プレゼントです」
 芽衣は顔を真っ赤にして、藤田から離れる。
「さ、さあ、料理の続きをしましょう?」
 そして、藤田を残して立ち上がろうとするが、ぐいと腕を引かれて、再び藤田の胸の中に抱きこまれてしまった。
「ふ、藤田さん!」
 自分のしでかしたことに、心臓がばくばく言っているのに、藤田に抱きしめられて、芽衣の心臓は口から飛び出してしまいそうだった。
「おとなしくしろ」
 離れようとする芽衣をぎゅっと抱きしめて、藤田は芽衣の顔を引き寄せる。
 息が、唇にかかる。芽衣はそっと目を閉じた。


おわり

誕生日ばなし(鴎芽)

 夕餉の後、やりたいことがあったのに、鴎外についてまわられている。この状況をどう打破したものか、芽衣は頭を悩ませていた。
「子リスちゃん。これはここでいいのかい?」
 鴎外は嬉々として、皿を掲げてみせた。
「あ、はい、そこで」
 芽衣が頷くと、鴎外は颯爽と皿を棚の中にしまう。鴎外の動作はいつも華麗だ。――あまり台所には似合わない。
「……あの、鴎外さん。何度も言うようですけど、片づけはやりますので、のんびりしていてください」
 芽衣は、もう何度目かになる、オブラートに包みこんだ退室勧告を行った。皿の片づけを手伝ってくれるのは嬉しいが、どうも勝手が違って落ち着かない。それに、今日は鴎外に見つからないようにやりたいことがあったのだ。今日に限って手伝いをする鴎外は、まるでそんな芽衣の事情を知ってからかっているかのようだ。
「今日は、お前を手伝うと決めたのだ」
 芽衣の願いは届かず、鴎外はぴしっと言い切った。
 鴎外は頑固というか、言い出したらきかないところがある。こう言うのならば、今日はずっと手伝ってくれるのだろう。
(今日じゃないと駄目なんだけどな……)
 芽衣はちらりと時計を見た。今日は鴎外が帰ってくるのが遅かった上に、芽衣が鴎外に諦めてもらおうと、ずるずると片づけを引き延ばしたせいで、時間はだいぶ遅い。芽衣が予定していた通りには、何もできそうになかった。
「ふたりで協力して家事をするのは夫婦のようではないか! 我々にはふさわしいだろう? これからの生活の予行練習だよ。何事も練習は大切だ」
 鴎外は、腕を広げて大演説をしている。完全に楽しんでいた。もう本当に芽衣に望みはない。
(…………うう)
 せっかく、明日の鴎外の誕生日のために、準備をしようと思っていたのに残念だ。芽衣はこっそりため息をつく。しかし、こっそりと思っていたのは芽衣だけで、鴎外はそれを見咎めていた。
「……まさかとは思うが、僕のことを邪魔だと思っているのではないだろうね」
「えっ、そ、そんなことないですよ」
 突然、すっと目を細めて見据えられ、芽衣は慌てて首を横に振る。
 邪魔とまでは思っていない。鴎外と一緒にいられるのは嬉しいし、手伝ってくれようという気持ちもとても嬉しい。しかし、今日は都合が悪かったのだ。
(…………いや、ちょっと……思ってたかな……)
 芽衣は自分の心を見つめて、それでも、今はいないでほしいと思っていた気持ちがあったと少し思い直す。
 鴎外の誕生日のお祝いの準備をしたかった。明日、フミさんが腕によりをかけた料理を作るはずだから、その邪魔にならないように、今夜やってしまおうと思ったのだ。このままでいくと、明日、フミさんの手伝いをするだけになってしまう。せっかく、本当の婚約者になってはじめての鴎外の誕生日だというのに、本当に残念だ。
 芽衣は、もう一度ため息をついた。
 鴎外は、ひとり考え込む芽衣をじっと見ていたが、二度目のため息を見ると、皿を置いて、芽衣に近寄った。
「きゃっ」
 音もなく突然、鴎外に抱え上げられて、芽衣は悲鳴を上げた。いわゆるお姫様抱っこ状態である。細身に見えて、軽々と抱き上げてしまう鴎外にも驚いたし、突然抱え上げられたことにも驚いた。
「お、鴎外さん、どうしたんですか?」
「お前が悪い子だから、お仕置きが必要と思ってね」
「お、お仕置き!?」
 鴎外はどことなく機嫌が悪そうで、その様子と、とんでもない言葉とに、芽衣は慄いた。鴎外がお仕置きと言ったら、本当にお仕置きをしそうだ。しかし、芽衣には、そんなことをされる理由が思い当たらなかった。
「ど、どうしてですか? 放してください!」
「駄目だ」
 不当なお仕置きは御免だと、芽衣はじたばたと暴れるが、鴎外はそれをものともせず軽く封じ込めた。
「あの、私、片づけをしないといけません」
 放してくれる気配が全くないので、芽衣は戦法を変えて、鴎外の責任感に訴えてみる。フミさんがもう帰ってしまっているから、片づけは芽衣の仕事だ。仕事はきちんとやらなくてはいけないだろう。
「後でいい」
「…………」
 しかし、鴎外に一蹴され、芽衣はそれ以上言うことを失った。そして、そのまま為す術もなく鴎外の部屋へと運ばれてしまう。
「さて、どうしたものか」
 自室に入ると、鴎外は部屋の中を見回した。狭くもないが広くもない。やれることの選択肢は限られている。
「あの……」
 何をされるのかという緊張感に堪えかねて、芽衣は、鴎外に声をかけた。
 しかし、それを無視して、鴎外は大股に歩き出した。まっすぐに奥の机に向かっている。
(ベッドじゃないんだ……って、私、何考えてるの!?)
 ベッドに運ばれなかったことに拍子抜けして、勝手にいかがわしい想像をしていたことに気づいた。ひどい妄想に顔が火照る。
(でも……お、お仕置きって、なにされるんだろう……)
 てっきりそういうお仕置きだと思い込んでいたので、芽衣はあらためて疑問に思った。そちら方面ではないお仕置きといえば、廊下に立たされるとか、校庭を十周走らされるとか、とにかく先生の手伝いをさせられるとか――鴎外が「先生」なだけに、学校でのお仕置きが脳裏に浮かぶ。しかしそういったことでもなさそうだ。
 そうこうしている間に、仕事机に辿りつき、鴎外はその椅子に座った。芽衣はもちろん解放されることはなく、鴎外の膝をまたぐように座らせられる。
「お、鴎外さん、おろしてください!」
 取らされた体勢の恥ずかしさに、芽衣は顔真っ赤にして声を上げた。膝からおりようと身をよじる。だが、鴎外はがっちりと芽衣の腰を掴んで離さなかった。
「駄目だ。お前は、自分が誰のものか、ちゃんと理解していないようだからね。しっかり分からせないといけない」
 鴎外は、芽衣の顎を取って、目を合わせてきた。それだけで、芽衣はどきどきして、顔に熱が集まってしまう。恥ずかしい距離なのに、どうして鴎外は平気なのかわからない。
「それで、お前はなぜ、この僕を邪魔だと思ったんだい?」
 鴎外にずばりと聞かれて、芽衣は驚いた。鴎外に、心の片隅で思っていたことを気づかれていたとは思わなかった。
「じゃ、邪魔だなんて……」
「正直に言わないのなら、その口はいらないね」
 少しは思ったが、それが全てではないと否定しようとすると、鴎外が苛立たしげに口をふさいできた。呼吸を奪うようなたっぷりとした口づけだ。芽衣は、すぐに息が上がってしまう。
「お、鴎外さん、やめてください……!」
「やめなくてはいけない理由がない」
 鴎外はしれっと言って、さらにキスをしてこようとする。しかし、触れる寸前でぴたりと止めて、芽衣の瞳を覗き込んできた。
「話す気になったかい?」
「……ど、どきどきして、話せません」
 芽衣は恥ずかしさを堪え、鴎外を非難するように見返した。
「ああ、本当だ。どきどきしているね」
 すると、あろうことか、鴎外は芽衣の胸に手を置いた。
「お、鴎外さん……!」
 芽衣は、目を剥いて絶句する。
「ん? もっと速くなったようだよ。大丈夫かい?」
 鴎外はとぼけたことを言いながら、どきどきと鼓動を速める芽衣の胸に、ますます手を押しつけてきた。
「っ……!」
 胸の上をやんわりと這う手に、ぞくりと体の奥から疼きがわく。芽衣はきつく眉根を寄せて、それを抑えつけようとした。
「そう強張るものではない。」
 鴎外は、そんな芽衣の頬に、ちゅっとキスをする。
「お、鴎外さん、やめてください……と!」
 芽衣は、鴎外の手を引きはがそうと掴むが、その手はびくともしなかった。
「それで?」
 鴎外は、芽衣の胸に手を置いたまま、再度問いかけてくる。
 どきどきと鼓動の音が聞こえるかのようだった。
 芽衣は鴎外を見ていられず、そっと視線を落とす。そのとき、部屋の机の上に置いてある時計が目に入った。
(……あ)
 カチッと短針と長針が合わさる。芽衣ははっと体を起こした。
「子リスちゃん?」
 唐突な動きに驚きながらも、芽衣がまた時計を見つめていることに気づくと、鴎外は不愉快そうに眉根を寄せた。
「鴎外さん」
 芽衣は、そんな鴎外の様子に気づかず、鴎外の腕を引く。
「お誕生日、おめでとうございます」
 二月十七日になった。芽衣はそれまでの流れを一切飛ばして言った。
「えっ……」
 鴎外は、目を瞬く。
「ほら、十七日になりましたよ?」
 芽衣は、きょとんとしている鴎外が珍しくて、笑って時計を指差した。長針はすでに短針からずれている。二月十七日零時一分だ。鴎外の涼やかな瞳が、柔らかく細められた。
「お前は、これを気にしていたのか。時計ばかり見ているから、僕との時間がつまらないのかと心配になったのだよ」
「す、すみません」
「謝ることではない。僕のことを考えてくれていたのだ。とても嬉しいよ、子リスちゃん」
 鴎外は本当に幸福そうに言うと、芽衣を抱きしめた。今日はじめての優しい抱擁に、芽衣もようやく自ら身を寄せることができた。「そうだ」
 鴎外はいいことを思いついたというように、声を弾ませる。
「どうしました?」
 そういうときは、あまりいいことではないことが多いような気がして、芽衣は恐る恐る窺った。
「今日はお前を抱きしめて始まったから、今日が終わるまでお前を抱きしめていることにしよう」
「はい?」
 鴎外の提案の非現実さに、芽衣は思いきり聞き返した。
 しかし、きっと、と芽衣は思う。鴎外が決めたのだから、この腕から逃れることはできないのだろう。


おわり

 

誕生日ばなし(音芽)

「帰ったぞっと」
 ふすまが開いて、音二郎が入ってきた。芽衣は、はっと鏡台の掛け布を下ろす。
「お、お帰りなさい」
 振り返ることができなかったので、芽衣は鏡台の上の小物を片づけているふりをしてやり過ごそうとした。
 今日は劇団の仕事で外出していたから、酔っ払っているはずだ。そして、そういうときは、まっすぐに布団に入ってしまうから、芽衣には構わないはずだ。
 芽衣はどきどきしながら、音二郎が部屋を横切るのを待った。布団は、音二郎の分も敷いてある。朝まで帰ってこないと分かっていても、もしかしたらと思ってしまい、毎日、念のために敷いていたことが功を奏した。音二郎は、獲物を見つけた虎のように布団に向かうだろう。
(……どうして、今日に限って早いわけ……!)
 音二郎がばたんと転がる音を待ちながら、芽衣は、心の中でため息をついた。
 最近は、劇団の用で出て行ったら、翌日まで帰らないことが常だったのに、その日のうちに帰ってくるなんて、不意打ちすぎる。
(用事が早く終わったのかな……)
 劇団の仕事は楽しそうだから、たとえ用事が済んでも、置屋のことなど忘れて、時間が許す限り、劇団の仕事をしてくると思っていた。そして、そのために、明日まで帰ってこないと油断していた。
(……よりによって今日……)
 いつもなら、音二郎が帰ってきてくれるのは嬉しいことなのに、今日は喜べない。逆に恨めしく思ってしまう。なんという間の悪さだろう。
 そうして、芽衣がもう一度ため息をつこうとしたときだった。
「ん? なんだ、寂しいじゃねえか。顔見せろよ」
と、音二郎が肩を掴んできた。
「わっ!」
 音二郎は布団に行くものだと思って無警戒だった芽衣は、されるがまま、音二郎に顔を見られてしまった。
「……っ!?」
 その瞬間、音二郎は息を飲み、顔いっぱいに驚愕が広がる。
 芽衣は、すぐに手をかざして、音二郎の視線から隠した。
「お前、どうした、その髪!」
 しかし、もちろん、音二郎にはばっちりと見られてしまっていた。音二郎は眉根をきつく寄せた険しい顔で、芽衣の手を掴んで外させ、その前髪をあらわにした。芽衣の前髪はちりちりだった。サイドも前側は焦げている。これは、料理に挑戦した残念な結果だった。
「すみません、ちょっと、不注意で」
 芽衣は、ちりちりになった髪を見られたことが恥ずかしくて俯いた。音二郎にこんなみっともない姿を見られたくなかったから、髪を切ったりまとめたりしようと思って、鏡を見ていたのだ。
「不注意? どういうことだ?」
「それは……」
 真剣に聞いてくる音二郎に、芽衣は口ごもる。
 こうなった経緯はもちろん話すことはできるのだが、できれば、それは明日まで言いたくなかった。
(音二郎さんの誕生日のお祝いの準備をしてて、こうなった、なんて、言えない……)
 今かけている心配に加えて、気遣われてしまうかもしれない。
 それに、芽衣は、音二郎の驚く顔が見たかった。今のように、驚いて青ざめるのではなく、驚いて、嬉しそうにしてくれるだろう音二郎が見たい。そのためには、話すのはうまくないだろう。少しでも話したら、敏い音二郎は全てを察してしまうかもしれない。ふだん料理をしない芽衣が料理を試みたという時点で、怪しさまんさいだ。ここは誤魔化しきるのが一番だろう。
「ほんとうに大したことじゃないんです」
「大したことじゃねえんなら、よけい話せるだろ」
「う……」
 音二郎の言う通りだ。芽衣は言葉を詰まらせた。
(ど、どうしよう……)
 急いで、この窮地を切り抜ける方法を考えようとするけれど、頭は空転するばかりだ。
「……どうしてわけを話せねえんだ?」
 その間に、音二郎の雰囲気が硬くなっていた。芽衣が話さないことに、苛々しているようだ。
「話せないわけでは……ないんですけど……」
 その空気に圧されて、芽衣の決意が鈍る。音二郎を怒らせてまで隠すことではない。それでは本末転倒だ。しかし、やっぱり話すということも決められないでいると、音二郎がしびれを切らしてしまった。
「ああ、もういい。わかった」
 音二郎は苛立たしげに言って、布団にごろりと寝転がる。
(お、怒らせちゃった!)
 背中を向けられて、芽衣は頭が真っ白になりかけた。だが、すぐに謝って説明しようと思い立ち、音二郎のもとににじり寄る。
「お、音二郎さん」
「話したくないなら話さなきゃいい」
 音二郎はしっかり怒っている。
「お、音二郎さん……」
 音二郎が怒ることなど滅多にない。かつて見たことがないと言っていいほどだ。そんないつにないことに、芽衣は一瞬怯んだ。けれど、勇気を振り絞って、音二郎のスーツを引く。
「あの……少し、早いですけど……お誕生日おめでとうございます」
 音二郎の背中がぴくりと反応した。
「明日、音二郎さんのお誕生日だから、お祝いにケーキを作ろうと思ったんですけど、失敗してしまって。かまどを爆発させてしまったんです……」
「ば、爆発!?」
 音二郎が飛び起きた。その顔は、さっき以上に驚いている。しかし、芽衣は、音二郎が振り返ってくれたことに、ほっとした。
「いやいや、お前、ほっとするところじゃねえだろう」
 音二郎にすかさず突っ込まれ、芽衣は顔を赤くした。
「あ、これは、音二郎さんが私を見てくれたので、よかったなと思って……きゃっ!」
 説明している間に、音二郎が急に腕を引いてきたので、芽衣は驚いて声を上げてしまった。
「かわいいこと言ってくれるじゃねえか」
 音二郎は、ぎゅっと芽衣を抱きしめてくる。その力強さにどきどきしながらも、芽衣は音二郎の胸に体を預けた。
「……すまなかった。お前の髪、誰かにいじめられたんじゃねえかって思ってよ。俺は、お前に、そういうことを話してもらねえ情けない男なんだって、思っちまったんだ」
「そ、そんなことされてませんよ」
 音二郎の発想に、芽衣はびっくりした。
「ああ。ここの置屋は気のいい奴ばかりだからな。けど、万が一は有り得るだろう? お前、最近きれいになってきたしよ」
 音二郎は顔を覗き込んできて、頬を撫でた。
 間近にある音二郎の端正な顔と、頬を撫でる大きな手に、どきどきと胸の鼓動が速まってくる。
「…………ほ、ほめたって何も出ませんよ」
「いつでも口説きたくなるようないい女だってことだろ」
 音二郎は恥ずかしがる芽衣に笑って、軽く口づけた。不意打ちのようなキスに、芽衣は顔を赤くして、身を縮める。音二郎は、芽衣のそんな反応が気に入ったように、芽衣の唇をなぞった。
「っ」
 ぞくぞくと震えのような感覚が腰の辺りから湧いてくる。芽衣はぎゅっと音二郎のスーツを握りしめた。
「誕生日、覚えててくれたんだな」
「あたりまえです」
 嬉しそうな音二郎に、芽衣は少し憤って答える。好きな人の誕生日なのだから当然だ。
「お前と一緒に過ごしたいと思って早く帰ってきたのに、なんだか歓迎されてないようだったからな。帰ってきちゃまずかったかと悲しくなったぜ?」
 すると、音二郎にからかうように言われて、芽衣は慌てて謝った。
「す、すみません……お祝いの準備ができていなかったので、焦ってしまったんです」
「そんなの、お前がいてくれればいいんだよ」
 音二郎は笑って、額に口づけた。予想通りの言葉に、芽衣は心の中でため息をつく。だから、芽衣が思いきり祝うためにも、こっそり準備したかったのだけれど、結局うまくいかなかった。
「しっかし、爆発ってのは、物騒な話だな。怪我はないのか? 被害は髪とかまどだけか?」
「はい。かまども掃除をすれば大丈夫みたいです」
 正しく言えば、爆発したのはかまどではなく、中にいれたケーキだった。どうしてケーキが爆発したのかは、永遠の謎だ。
「そりゃよかった。まあ髪は残念だが、少しの間我慢すりゃまた伸びてくるからな」
 音二郎は、慰めるように頭を撫でる。伸びてくるとは言っても、女性にとって髪は大事なものだとわかっているのだろう。その眼差しは労わるようだった。
「はい」
 芽衣は、この髪を、音二郎に嫌がられなければ、それでよかった。
「本当にお前は目が離せねえ女だな。もう危ない真似はすんじゃねえぞ。その、なんだったか? そいつを食べたいからってよ」
「ケーキですか?」
「そうだ、それ」
「わ、私が食べたいから作ろうと思ったんじゃありません。音二郎さんの誕生日だから作ろうと思ったんです」
 音二郎の言い草に、芽衣はすぐに首を振った。自分の食い意地が張っていて、大騒動を起こしたのとは違う。そこははっきり否定しておきたい。
「俺の誕生日だから?」
 この時代にはケーキを食べる習慣がないのか、音二郎は不思議そうな顔をしていた。
「はい。誕生日にはケーキがつきものですから」
「んーよくわからねえけどよ。どうせ祝ってくれるんなら、そんな危ねえことよりも、もっと違う方法でどうだ?」
「ケーキは危なくありません!」
「あーわかった、わかった」
「お、音二郎さん、何してるんですか」
 芽衣を軽くいなしながら布団に押し倒してくる音二郎に、芽衣は焦って聞いた。音二郎の目的は明白で、これはいわゆる無駄な抵抗というやつだ。
「まあ。誕生日だしよ。お前にいいことしてもらってもバチは当たんねえよな」
 音二郎はにやりと笑って、芽衣の口をその唇で塞いだ。


おわり

ゆくとしもくるとしも

 花は最後の豆を盛り付けて、小さく歓声を上げた。
 厨房の卓の上には、今、完成したばかりのおせち料理が並んでいる。彩り鮮やかに、どれもこれもおいそうにできた。我ながら上出来だと、自画自賛してしまう。雲長と芙蓉に特訓してもらった甲斐があった。あとは、孔明に食べてもらって、孔明の口に合えば言うことない。
 できあがったものを見つめていたら、ぐう、と腹が鳴った。
 花は焦って腹を押さえ、周りを見回す。厨房には、花の他に誰もいないとわかっているのだが、腹の音というのはどうにも恥ずかしい。花は、誰にも聞かれていないことを確認して、あらためておせち料理を見た。
 自分で作っておいてなんだが、とてもおいしそうだ。
 食べたい。
 ひとつくらい食べてもいいだろう。
「味見、味見」
 花は、自分に言い訳をしながら、いい色に煮られた豆を食べる。
「おいしい」
 思わず花は呟いていた。雲長に教わった煮豆は柔らかく、甘みが上品でほどよい。花はまた豆を食べた。ぱく、ぱく、と知らず箸が進む。
「それで五個目だけど、ボクの分、残ってる?」
 突然、背後から声をかけられて、花はびくっと体を震わせた。やましいところがあるだけに、心臓が口から飛び出しそうになる。しかし、花は、心臓ではなく食べた豆が飛び出ないように、口を押さえて振り返った。
「こ、孔明さん……!」
 もごもごと豆を噛みながら、花は戸口に立つ夫を見る。花自身、食べた豆の数を数えていなかったので、孔明がどこから見ていたのかわからないが、知らぬ間に相当な数を食べてしまっていたことは確実だ。だが、豆はたくさん煮たので、まだ皿には山盛りで残っている。
「だ、大丈夫です、たくさん作りましたから」
 花はつまみぐいをしていたことをそっと脇に置き、孔明に豆の皿を見せた。
「うん、おいしい。これは確かに後をひくね」
 差し出された豆をつまんで、孔明は頷く。そして、言葉通り、二つ三つと続けて食べた。
「よかったです」
 花は、顔を綻ばせる。孔明においしいと言ってもらえて嬉しかった。
「でも、ほんとにたくさん作ったね。二人なら、一週間は籠城できるんじゃない?」
 孔明は、卓の上に並んだ料理を見て言う。その顔は、多種多量の料理を花がひとりで作ったことに感心しているようでもあるし、二人しか食べる人がいないのに、大量すぎることに驚いているようでもあった。
「はりきりすぎちゃいました。すみません」
 孔明の感想がどちら寄りか判別できなかったが、作りすぎは自覚していたので、花は謝る。
「謝らなくていいよ。ボク、たくさん食べるから」
 孔明の食は細い方だから、それは花を気遣っての言葉だろう。孔明のことだから、有言実行するために、無理矢理にでも全部食べようとするかもしれないが、それは止めなければいけない。城に持っていけば、翼徳がおいしく食べてくれるはずだ。
「それに、一週間登城しないっていうのも手だよねえ。愛妻の手料理がおいしくて、家から出られませんって。新婚ならではの理由だと思わない?」
 冗談めかして言っているが、隙あらばそうしようという思惑が透けて見える。
「それ、ものすごく芙蓉姫に怒られると思います。それにもう、新婚でもないですし」
 それを実行した場合の周りの反応が鮮やかに浮かんで、花は想像するだけで疲れてしまった。それに、本当に新婚なら、少しくらい緩んでも笑ってもらえるかもしれないが、花と孔明は新婚とはいえない。夫婦になって、正月を迎えるのは三度目だ。
「怒られるくらいならいいかな」
「駄目です」
 花の言葉尻をとらえて呟く孔明に、花はぴしゃりと言い切った。すると、孔明がとても寂しそうな顔をする。それを見て、花はずきりと胸が痛んだ。
「君、最近冷たくない?」
「孔明さんが、すぐにさぼろうとするからです」
 騙されるな、こちらが正しい、と花は自分に言い聞かせて、孔明の揺さぶりに堪える。
「だって、そんなにまじめに働かなくてもいいからさ」
「そんなこと言ったら、玄徳さんに怒られますよ」
「もうだいたい落ち着いたから。いいんだよ」
 孔明の言う通り、成都に来た頃に比べたら、益州はもちろん、国内はとても落ち着いた。そして、孔明も、ここに来たときと比べて、仕事に対する熱心さというか、真摯さが落ち着いてきたように思う。国から戦をなくして、政に興味を失ったかのようだ。
「ボクら働き過ぎたから、そろそろ隠居してもいいと思わない?」
 そんな花の考えを裏付けるかのように、孔明はそんなことを言う。
「それもたくさん苦情が来そうですね」
 花は頷いてあげたい気はしたが、ここで、そうですね、と言ったが最後、本当に今日にでも、やめます、と言いかねないように思えた。
「うーん。じゃあ、今は、この休みの間だけでも、のんびり休もう」
 孔明はそう言って、花を抱きしめる。
「こ、孔明さん」
「もう新年迎えるだけだろ? あとはあったかい部屋でごろごろしよう」
 心構えがなかったために驚いた花に、孔明は甘えるように体重をかけてきた。
 いつもなら、花は引き締め係だが、今日は大晦日で、二人ともすべきことは終わっている。孔明の提案はとても魅力的で、頷かない理由はなかった。
「……はい」
 ただ少しだけ恥ずかしくて、花は目を伏せる。
「うん」
 しかし、花が頷くやいなや、孔明は花に口づけた。その素早さにびっくりしている間に、口づけが深まる。
「っ……んっ……」
「……甘いね」
 十分に口づけをかわした後、離した唇をぺろりとなめて、孔明が言った。
 豆の甘さが口の中に残っているのだろうが、お互い様だ。
「へ、変な風に言わないでください」
 花は顔を赤くして抗議する。
「なんで?」
 孔明は楽しそうに花を覗き込んで、再び花に口づけた。今度は口づけの間に、背中にあった手が、ゆっくりと腰へとおりていく。
「こ、孔明さん……ここじゃ……」
 花は身を捩って、衣服を緩めようとする孔明の手を止めた。
「違うところならいいの?」
 すると、孔明は耳元で意地悪く聞いてくる。
 花は顔を赤くして固まった。
 もう陽は沈んできたとはいえ、まだ夕方だ。人々も大いに活動している時間である。そんな時間に房事にふけるのは、あまり花の好むことではなかった。けれども、孔明の腕はあたたかく離れがたいのも事実だ。
 しかし、やはり、駄目だ。
「だめです」
 花はなんとかそう言った。
「……のんびりするんでしょう?」
 花は、孔明の意図することをしては、のんびりなどできない。そういう意味を込めて牽制する。
「うん、まあするよ?」
 だが、孔明はあっさりそう躱して、花を抱き寄せた。花の意見など、聞く気はないらしい。
「こ、孔明さん」
 このままここで事に及ばれてしまっては、時間だけでなく場所も問題だ。花は、しっかり抵抗しようと腕に力を込めた。
「うん」
 しかし、孔明は花の抵抗を封じ込めて、再び口をふさぐ。
 それが本格的な愛撫に変わり、花の体から力がなくなりかけたときだった。
 どんどんどんどん、と勝手口の戸が激しく叩かれた。
 花はびっくりして、目を開ける。孔明もまた弾かれたように顔を離した。
「だ、誰でしょうか?」
 玄関ではなく勝手口から訪問するなど、まるで花たちがここにいることを知っているかのようなタイミングだ。やましいところのある花は、どきどきして、いまだ叩かれ続ける勝手口の戸を見つめる。
 訪問者に見当がつかなかった。もちろん客のはずがない。出入りの店への支払いは、昨日のうちに済ませた。そもそも、出入りの業者であったら、これほど乱暴に叩かないだろう。
 そう、乱暴なのだ。
 戸はまだ叩かれている。
 まるで何かから追われていて、ここが開かないとそれに捕まってしまうかのような切迫したものを感じさせる叩き方だった。
 心配になった花は、戸を開けようと孔明の腕から出る。
「嫌な予感がする。花、開けなくていいよ」
 すると、孔明は固い顔で、花の腕を掴んだ。
「え? でも、お客さんですよ」
「客がこっちには来ないよ」
 戸惑う花に、孔明はもっともなことを言う。その言葉に、戸の方へ行きかけた花の足が鈍くなった。
 しかし、そんな花に抗議するかのように、どんどんどんどんと戸を叩く音が大きくなる。
「で、でも、何か用があることは確かですし……」
 そのノックの必死さが気になって、花は、孔明の手を振りほどいた。
「花!」
 孔明の鋭い制止の声と、花が勝手口の閂を外して、戸を開くのとは同時だった。
「道士様あぁぁぁぁぁあああ」
 その途端、何かひょろ長いものが泣き叫びながら転がり込んでくる。
 季翔だ。
「嫌な予感」
 孔明は、季翔を指差した。
「孔明さん」
 花は孔明をたしなめ、泣いている季翔にかがみこむ。
「季翔さん、どうされたんですか? 大丈夫ですか?」
 切羽詰って戸を叩いていたのが季翔だとわかっても、疑問は解消されなかった。それどころか、誰かかどこかで何かあったのかと不安が広がる。
「道士様ぁあ! あんたほんとに優しいな!」
 がばりと起き上がった季翔は、感激したように、花に抱きつこうとした。
「花に触らないでくれる?」
 しかし、季翔の長い腕が花に届く前に、その額を棒で突かれ、季翔はまた転がる。
 いつのまにか、孔明の手に、厨房の隅に置いていたほうきが握られていた。
「いでぇぇ!」
 ごろんごろんと転がった季翔は、戸にぶつかって動かなくなる。
「き、季翔さん!?」
 花は慌てて駆け寄った。
「亮がいじめる」
 仰向けで伸びている季翔は、半泣きながらも意識があったので、花はひとまずほっとする。
「孔明さん、ひどいです!」
 それから、孔明を非難した。
「どうして君はそっち側につくかな。ボク、君のこと、助けてあげたんだよ? こんなおじさんに抱きつかれるなんて、気持ち悪いでしょ?」
 孔明は肩を竦めて、悪びれない。
「ひっでーよ、亮! 俺はまだぴちぴちだぜ? あ、いや、お前に比べたら、大人だな、うん。お前、俺が道士様のこと抱きしめたら、その大人の男の魅力に、道士様がめろめろになっちゃうって心配してんだろっ? ま、当然だな!」
 それに対する季翔も全く堪えた様子もなく、元気に立ち上がった。そして、無駄に前向きな妄想をして、孔明を不快にさせている。
「それ、十割ないけど、すごく不愉快だから、やめてくれる?」
 孔明はにっこり笑って、再びほうきで季翔の胸を突いた。
「ぐおっ!」
 孔明は全く手加減していないらしく、季翔は悲鳴を上げて倒れる。
「孔明さん!」
 花は、孔明があまりに乱暴なので叱咤し、ほうきをとりあげた。
 それに、これでは全く話が進まない。
「季翔さん、今日はどうしたんですか? どうしてこっちから?」
 花は、どうにかまた起き上がった季翔に聞いた。
「ああ、表に行ったんだけど、どんなに呼んでも返事がないだろ? でも、出かけてるって感じでもなかったから、中にいんだろって思って、こっちに回ってきたんだ」
 ここでいかがわしいことをしていたときに、呼ばれていたと知り、花は顔を赤らめてしまう。
「でもよう、こっちの戸を叩いても、全然返事がないから、何かあったんじゃないかって、心配したぜ」
「声かけろよ」
 孔明がぼそりと呟いた。
 それはもっともだ。どうして勝手口では無言で戸を叩き続けたのかは、季翔だからとしか言いようがない。
「そしたら絶対に開けなかったのに」
 孔明は、さらにぼそりと続けた。
「亮、何か言ったか? うん? なんか、道士様、顔赤くねえか?」
 季翔は、孔明の呟きも拾えず、花が恥ずかしがっていることもわからず首を傾げている。
 季翔でよかったと、花は思った。これが晏而だったら、絶対に色々と気づいている。それでさらに恥ずかしい思いをしたことだろう。
「それで、なに?」
 花の話を引き取って、孔明が季翔に聞いた。孔明もようやく、時間の無駄だと気づいたのだろう。
「え?」
 しかし、前置きもなく促されて、季翔はきょとんとしている。
「何か用があったから来たんだろ。三十秒でその用を済ませて出て行くなら、特別に許してあげるよ。はい」
 孔明は、異論を挟む暇も与えず、いーち、にーい、と数え出した。
「そ、それは……」
 それに対して、季翔がなぜか口ごもる。
「なに? もしかして、用もないのに来たの?」
 その途端、孔明からゆらりと何かが立ち昇った。
 尋常でない迫力に、季翔だけでなく、花もぞくりと背筋を冷やす。
「ち、ちげーよ! 用ならあるって! ああ、そうだ。どっからどう見ても立派な用事がある!」
 季翔は慌てて胸を張って、用事を主張した。
「はい」
 それならばと、孔明は手まで差し出して、季翔に話すよう促す。
「だけど、三十秒じゃ終わらねえんだ」
 しかし、季翔はまだまごついていた。
「ボクが終わらせてあげるから、大丈夫」
 それに対して、孔明が胸を叩く。大船に乗ったつもりで話してみろ、という素振りだ。
 季翔は、ごくりと唾を飲み込む。
 それが泥船とも気づかない季翔は、孔明が再びカウントダウンを始めようとするのを見て、慌てて口を開いた。
「今晩、ここに泊めてくれ!」
 孔明は、季翔の胸をどんと押す。
「ひでーよ、亮! 俺とお前の仲じゃねえか!」
 孔明によって強制的に排除されそうになるも、季翔は戸口に手を突っ張って、なんとか踏みとどまった。今まさに、生来の体の長さが生かされている。
「ボクと君の間に、どんな関係もないよ」
 孔明は冷たく言い切った。心からそう思っているのだろう。
「じゃあ、俺と道士様の仲……ぶほっ、つめてー!」
 季翔が言い換えようとするのを最後まで言わせずに、孔明は季翔の顔面に冷水をかける。
「こ、孔明さん!」
 花はびっくりして孔明の腕を引いた。いくらまだ陽が出ているとはいえ真冬だ。頭から水をかぶったら風邪をひいてしまう。
「季翔さん、すみません」
 花は急いで布を持ってきて、季翔を拭った。
「家に泊まりたいって、何かあったんですか?」
 突然大晦日にそんなことを言ってくるのには、なにかわけがあるのだろうと思って、花は聞く。家賃未払いで、家を叩きだされてしまったのだろうかというのが、一番に浮かんだものだった。
「せっかく年越しだってのに、一緒に過ごしてくれる人がいなくて、寂しくてよう」
 そんな失礼なことを考えているとは知らず、優しく聞いてくれる花に、季翔はぐすんと涙をすする。
「晏而のとこに行けばいいだろ」
「晏而、嫁さんの実家に行くって言ってて、ほんとに家がすっからかんで」
 それはもちろん逃げたのだろう。毎年、寂しいからと家に上がりこまれて、家族団らんもなかったに違いない。しかし、晏而には、季翔を青州から連れてきた責任があるはずだ。その責任をきちんと取って、今年も面倒を見ればいいものを、と孔明は拳を握りしめた。
「俺、嫁さん家までは行けねえし。……どこにあるか知らないんだ」
「お、奥さんの実家には行かない方がいいと思いますよ」
 まるで、知っていたら押しかけると言わんばかりの発言に、花は慌てて止める。
 花にも、晏而のこれまでの正月が思い浮かぶようだった。
 しかし、年越しをひとりで過ごすというのもさびしい話だ。孔明は嫌がるとわかっているが、花は季翔を追い出すことはできなかった。
「孔明さん」
「駄目」
 花が頼む前に、孔明が却下する。花の考えなど、お見通しなのだろう。だが、花も反対されることはわかっていた。そんなことではくじけない。
「……って言っても、聞かないよね、君は」
 しかし、花が説得のために口を開く前に、孔明はそう言ってためいきをついた。
「孔明さん……それじゃあ……」
「いいよ。でも、今年だけだからね。来年は、君がなんと言おうが、絶対に叩きだすよ」
 孔明は許しながら、来年への予防線も忘れない。だが、何であれ、許可は許可だ。花は、喜んでお礼を言った。
「ありがとうございます!」
「亮! ありがとう!! やっぱり、持つべきものは友だちだな!」
 季翔も感激して、花にかけてもらった布を払う勢いで、孔明に飛びつこうとする。
「君と友だちになった覚えはないよ。それに近づかないで。ボクまで濡れるだろ。ボクは君と違って風邪を引くんだから」
 孔明はそれをさらりと躱して、嫌味を言った。
「ああ、お前、体弱いもんな」
 しかし、季翔は真顔で心配そうに頷く。
 孔明は深くため息をついた。


「うっわっ、すっげー。うまそーっ!」
 年越しのための料理を並べると、季翔は歓声をあげた。
「これ、道士様が作ったの? ぜんぶ?」
「はい。たくさんあるので、遠慮しないで食べてくださいね」
 孔明もおいしいと言ってくれるし、料理を作ると喜んでくれるが、それとはまた違った表現の仕方に、つい花の頬も緩む。作ったものをおいしそうに食べてくれるのは、やはり嬉しいものだ。
「食べる、食べる」
 季翔は言葉通り、ものすごい勢いで食べ始めた。
「花、ボクの分は別にしておいて。全部食べられちゃいそうだ」
 季翔のあまりのペースの速さに危機感を覚えて、孔明が言う。
「はい」
 花は笑って頷いた。
「あ、お酒、持ってきますね」
 そして、孔明と季翔にお酒を注ぎたそうとして、すでにどの瓶も空になっていることに気づき、立ち上がる。
 そのとき、玄関の方から声が聞こえた。
「誰か来たみたいですね」
 花と孔明は顔を見合わせる。
 すでにもう夜も更けて、あと数刻で年が変わるといった時間だ。こんな夜の訪問者は、何かあったのではと、不安が過ぎる。
「晏而だったりして」
 季翔がのんきに言った。もうほろ酔いなのか、顔が赤い。
「奥さんの実家なんだろ」
 孔明は冷たく言って立ち上がった。
「いいよ、花。ボクが行くから。花は、お酒、取ってきて」
「は、はい」
 ものすごく嫌な予感のする孔明は、自ら買って出て玄関に向かう。
「誰? 留守だけど?」
 玄関に行くと、孔明は扉に向かって、そう呼びかけた。
「孔明様! このような時間に申し訳ございません! 城からの使いです!」
 すると、扉の向こうから、差し迫ったような硬い声で返事があった。
 孔明は、少し悩んで、戸を開ける。
「よう」
 開けた瞬間見えた顔に、孔明は問答無用で閉めようとした。しかし、そこに素早く足が挟まれて、それは叶わない。
「なに」
 足の幅だけ開いた扉から覗く士元に、孔明は不機嫌を全開に問いかけた。
「ひでえな。居留守もそうだが、それが友だちに対する態度か?」
「友だちなら、新婚の大晦日に訪ねてこないだろ」
「もう新婚じゃねえだろ」
「何年経っても邪魔されたくないってことだよ」
 孔明は、力を込めて、無理矢理扉を閉めようとする。
「いてててててて!」
 士元は悲鳴を上げた。孔明が迫っているのは、足を引くか、潰されるかの二択だ。
「孔明さん、どうしたんですか!?」
 士元の悲鳴を聞きつけて、花が中から飛び出してくる。
 花に知られてしまっては、孔明もそれ以上の暴挙はできなかった。孔明は諦めて、力を緩める。
「士元さん」
 花は、涙目の士元を見て、驚いたように目を見張った。
「よう、奥方殿。近くにいたから、寄ってみた。ひとりで年越すってのも、味気ないと思ってな」
 士元は、孔明にされたことは言わずに、手に提げていた酒瓶を持ち上げてみせる。そのあたりは賢いが、孔明の家に来た理由は季翔と同じだ。こちらももうだいぶ酒が入っているようだった。
「そのままその店にいればいいだろ」
 孔明は、まだ士元を家の中に入れまいと体を張って防いでいる。
「あの、悲鳴が聞こえたんですけど……」
 花は、そんな二人を見比べて、眉根を寄せた。
「おー、あんた! いいところに来たな! 飲もうぜ!」
 しかし、そんな花の疑問は、後からやってきた季翔に完全に潰された。
「お、先客か? にぎやかでいいな」
 士元は、季翔を見て、嬉しそうに笑う。
 酔っ払い同士、瞬時に意気投合したらしい。
「ああ、ちょうどいい。二人で飲みに行ったら? 一緒に年越す相手ができてよかったね」
 孔明はそんな二人をまとめて追い出そうとした。
「薄情なこと言うなよ。親友と飲もうと思って、わざわざ来たんだぜ?」
「なー? さー飲もう飲もう」
 しかし、季翔と士元は、まるで孔明の言うことを聞かず、ずかずかと中に入っていく。
「あ、ちょっと」
「え? あ……」
 孔明と花は慌てて追いかけた。
「これ、奥方殿が作ったのか? 豪勢だな。孔明だけじゃ食べきれんだろ」
 士元はすでに席について、花の料理を食べ始めている。酔っ払いならではの図々しさだ。
「そうそう。俺たちが手伝ってあげないと」
「だな」
 季翔と士元は顔を見合わせて頷き合う。
 そうして、孔明ですらなすすべなく、士元にも居座られてしまった。
 花も驚く展開だ。
「ボクの分まで食べたら、叩きだすからね」
 孔明はもう追い出すことは諦めたのか、自分の分の料理の確保に回った。
 まるで子供染みた様子に、花は笑ってしまう。
 今までにないにぎやかな年の瀬は、あっという間に時間が過ぎていった。


 鐘が鳴っている。
 年が明けたのだろう。
 花は、はっとして、顔を上げた。卓に伏せて、うつらうつらしていたようだ。
 見れば、孔明たちは床に転がっている。その周りには、空の杯や酒の瓶が散っていた。花が寝ている間に、飲み潰れたようだ。
 花は三人に毛布をかけた。
 せっかくの年越しに、起きているのがひとりで、少し寂しい。けれど、平和そうな寝顔に、笑ってしまう。
「あけましておめでとうございます」
 三人に向けてそっと囁いて、花は立ち上がった。
 簡単に片づけをしておかないと、明日の朝が大変だ。三人を起こさないように気をつけて、食器をさげる。
「花」
 台所で皿を洗っていたら、背中から声をかけられて、花は体を震わせた。振り返って見ると、孔明が目をこすりながら入ってきている。明日の昼まで起きそうにもないくらい寝入っていたはずなのにと、花は驚いた。
「孔明さん、どうかしました?」
 孔明は、花の質問に答えず、花を抱き寄せる。
「あけましておめでとう。今年もよろしく」
 そして、そう言った。
 それは、これまで夫婦になって二度、一緒に年を越えたとき、年が明けて最初に交わしてきた言葉だった。
 もしかして、それを言うために、がんばって起きてきたのかと、花は驚くのと同時に嬉しくなった。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 花も大切な言葉を返した。
「うん」
 孔明は頷いて、ぎゅっと花を抱きしめる。
 その抱擁に、少しだけ涙が滲んだ。
 孔明の、ここにいてほしいと望んでくれる気持ちが、共に新年を迎えられた喜びが伝わってくる。
「孔明さん。今年も、来年も、その次も、ずっとずっとよろしくお願いします」
 花も孔明を抱きしめ返した。
 もうここで生きていくことしか考えられないのに、新たな年を迎えるたび、ここにいられることを感謝している。きっとそれは、ずっと続くのだろう。
 けれど、孔明と花は、確かに去る年も共にいて、来し年も共にいる。それもまた、ずっと続くことだ。
 繰り返す一年をいつまでも一緒に過ごしていたい。
「うん、ボクも」
 二人は顔を見合わせて小さく笑うと、口づけをした。


 翌日、昼過ぎに、孔明の屋敷を訪れる者があった。
「あけましておめでとう!」
 晴れやかな笑顔で挨拶をするのは、晏而だった。ひとりではなく、一家総出だ。
「おめでとうございます、晏而さん」
 出迎えた孔明と花は、予想外の客に少々面喰いながらも、挨拶を返す。
「ごめんなさいね、正月早々。この人が挨拶しに行くってきかないもんだからさ」
 晏而の妻は、申し訳なさそうにしていた。
「いいえ、寄ってくれて嬉しいです」
 花はそれに慌てて首を振る。来てくれたのは嬉しい。戸惑っているのは他に理由があるのだ。
「晏而、奥さんの実家に行ってるんじゃなかったの?」
 孔明は胡乱げに晏而を見る。
 昨日、季翔が転がり込んできたのは、そのためだったのではないか。どうして、晏而が爽やかな笑顔でここにするのだろう。
 それは花も疑問だった。
「ん? どうして知ってんだ? 俺、話したっけ?」
 晏而が首を傾げかけたとき、家の中からどたどたと季翔たちが出てくる。
「あー、晏而だー!」
「よう、一緒にやるか?」
 季翔と士元は、晏而を見て嬉しそうだ。
「って、なんで、お前たち……」
 それに対して、晏而はぎょっとして身を引く。
「晏而が逃げ出したからに決まってる」
 孔明が低い声で言った。
「当然だろっ……って、亮! 怖いから!」
 晏而は頷きかけて、孔明の冷たい視線に怯えた。
「あー、わかった、わかった。こいつは引き取るよ。季翔、家に来い」
 晏而は降参して、季翔の腕を引く。もちろん、季翔に異存はなく、されるがままに従った。
「あんたも来るか? 安酒しかねえが……」
「酒ならなんでも」
 それほど顔見知りでもないはずなのに、晏而は士元までも回収する。
 それでようやく、孔明の瞳が和らいだ。
「じゃ、じゃあな、亮、道士様」
「またねー」
「いやあ、うまい酒に料理、ありがとな!」
 ぞろぞろと出て行く晏而たちを見送って、孔明はほっとしたように息を吐いた。
「あーあ、これでようやく君と寝正月できる」
 嵐のような騒がしさが去って、花も少し落ち着いた気持ちになる。しかし、部屋の中に戻ると、なんともいえない寂しさが襲ってきた。
 季翔と士元が座っていた席が空いている。さっきまで使われていた杯や箸が、使いかけと言った様子で置かれている。がらんとしていて、家の中が広く見えた。とても静かだ。
 孔明を見れば、花と同じように、なんだか物足りないような顔をしている。
「あの、孔明さん」
 花は思い切って声をかけた。
「なに?」
「これから、晏而さんのお家にお邪魔しませんか?」
「は? 正気? せっかく、二人きりになれたんだよ?」
 孔明は目を剥いているが、花はさきほど見たものを信じて、強く誘う。
「二人きりはいつでもできるじゃないですか。でも、今年はみんなで過ごしませんか? 料理もたくさんありますし」
 孔明も寂しいと思ったはずだ。二人きりの時間も楽しいが、みんなで過ごす正月というのもいいものだ。
 花は期待を込めて、孔明を見つめた。
 すると、孔明はひとつ息をつく。
「……仕方ないな。それじゃあ、支度をしよう」
「はい」
 渋々といった様子の孔明に、花は大きく頷いた。
 今から追いかけていったら、晏而はきっとひどく驚いて、そしてとても喜んでくれるに違いない。
 その顔を思い浮かべて、花はくすりと笑った。

 

 

おわり

師匠と弟子

元の世界でよく耳にした歌が、なんとなく口をついて出た。
花はそのまま歌いながら、書簡の整理と掃除に励む。今日はよく晴れていて、この別邸の大変な数の書簡の片づけにはもってこいだった。誰もいないし、来る予定もないということが、花の口と気を緩ませていたのかもしれない。最終的に、鼻歌というレベルではなくなって、はっきりと歌い出していた。
「それは、君の国の歌?」
そのため、突然そう声をかけられたときは、完全に隙だらけで、文字通り、飛び上がるほど驚いた。
振り返ると、部屋の入り口に、今、ここにはいないはずの師匠がのんきに立っていた。その顔を見るに、特別驚かせようと思っていたわけではないようだ。
「こ、孔明さん、今日は一日中お城じゃ……」
「あ、驚かせた? ごめん、ごめん。来るはずだったお客様が今日は到着しないって知らせがきたから、帰らせてもらったんだ。今日は君、ここの片づけするって言ってたし、ボクも手伝おうと思って」
「そうでしたか。びっくりしました」
花が胸をおさえて言うと、孔明はどことなく不服そうな顔をした。
「だいぶ気持ち良さそうだったけど、それじゃ、誰か入ってきても気づかないんじゃない? 危ないなあ」
「う……気をつけます」
孔明の指摘はもっともで、花は何も言い返せずに頷く。
すると、その鼻先に、ずいと包みが差し出された。
「わかったならよろしい。じゃあ、はいこれ差し入れ。熱いうちに食べよう?」
「わ、ありがとうございます」
孔明が買ってきてくれたものは、焼きまんじゅうで、まだほかほかと温かかった。
花は手早くお茶の支度をして、ふたりで縁側に座る。
「ねえ、さっき、君が口にしていたのって、君の国の歌?」
おいしいおまんじゅうを食べながら、孔明はさきほどの歌について聞いてきた。
「はい。元の世界のアイドルの歌で」
「あいどるって?」
「アイドルというのは……芸能人――歌を歌ったり、お芝居をしたりすることが職業の人たちのことで、さっきの歌を歌ってたひとたちもとても人気があるんですよ」
元の世界にいたときは、「アイドル」という言葉を気軽に使っていたけれど、それを知らない人に説明するのは難しいのだな、と思いながら、花は言う。
「人気があるって、国の中で?」
「はい。この国よりはとても小さい国ですけど、国中のひとみんな知ってる歌です」
「へえ、それはすごいね。その人たちは国中を歌って回ってるってこと?」
「それもたまにはしますけど、それよりもテレビでみんな知るんです」
「てれび?」
聞いたことのない単語に、孔明が首を傾げる。
「はい。元の世界では、ほとんどの家にテレビという機械があって、それで色々な番組――演目を見ることができるんです」
あまり詳しく元の世界のことを話したら、また孔明が元の世界の方が素晴らしいと思ってしまうだろうかと、少し不安に思いながら答えたが、そんなことはなく、孔明は、その目に好奇心をいっぱいにして、さらに聞いてきた。
「それはすごいね。それじゃあ、国のどこかで戦があったりしたら、それは瞬時に国中の人が知るんだ」
「そうですね。遠い国のことも、その日のうちに知れたりします」
「へえぇ」
孔明に問われるまま、元の世界の話をする。孔明の疑問は尽きず、なかには、花が説明できないものもあった。花が知らないとまた別のことを聞き、興味深そうにその瞳を動かしている。無尽の好奇心を満たそうとする姿はまるで子どものようで、質問に答える立場は自分が師匠に戻ったみたいに思えて、花は少しおかしくなった。
「どうしたの?」
花が笑うと、孔明が気づいて尋ねてくる。
「あ、いえ、今日は私が師匠みたいだなって思いまして」
「ああ」
花は素直に答えた。孔明は、自らの質問攻めに気づいたらしい。
「すみません。孔明さんのようにちゃんと答えられない師匠で」
「いいや。とても興味深かったよ」
「もっと色んなことを勉強していればな……」
花は、あらためて、過去何度も思ったことを思い、小さなため息をついた。
元の世界でもっともっと知識を蓄えていたら、この世界で大いに役に立ったことだろう。悔やんでも仕方ないとわかっていても悔やんでしまう。
「君がもっと師匠らしくしたいっていうなら、させてあげるよ」
孔明は言うが早いか、するりと正座をしている花の膝に頭をのせた。
「こ、孔明さん! これは師匠をいたわる行為じゃなかったんですか!?」
ふいに太ももにかかった重みや、さらさらとした髪の感触に、思わず腰を浮かせそうになって、花はどうにかふみとどまる。
「今は、勤勉な弟子へのごほうび」
孔明は悪びれもせずにそう言った。
口で敵うはずがないので、花はそれ以上何を言うのをやめる。まだ恥ずかしさがあるだけで、こうするのが嫌いなわけではない。
「いいですよ、亮くん」
花は師弟ごっこにのって、孔明の頭を撫でる。さらさらと指を滑る黒髪が気持ちいい。
しかし、なぜか孔明から何の反応もなくて、花は手を止めた。
膝の上の孔明の体は、少し強張っているようにも感じる。
「……孔明さん?」
もしかして、照れているのだろうか、とわずかに期待して顔を覗き込もうとしたら、孔明が身じろいだ。
「亮くん、でしょ。師匠」
孔明は冗談めかして言って、ちゅ、とむき出しの膝に口づけしてくる。
柔らかい唇の感触と、少し触れた舌に、一気に体温が上昇した。
「りょ、亮くんはそんなことしませんっ!」
びくっと跳ねてしまった心臓を誤魔化すために、花はわざと強めに言う。
「えー、したいって思ってたかもしれないじゃない」
「まさか。亮くんはまじめでいい子で、師匠みたいに不純な気持ちはいっさいありません!」
孔明の言い様に、あの亮がそんな不埒なことを考えるはずがないと、花は拳を握りしめてきっぱりと首を横に振った。
「いやいやいや、その亮はボクなんだけど……」
孔明は複雑そうに視線を下に流す。
「ふぁーあ」
しかし、そのまま大きなあくびをすると、もぞもぞと、寝やすい体勢を探るかのように動いた。
「師匠?」
「横になったら眠くなっちゃった」
すでに目を閉じている孔明の顔はあどけなくて、花は知られないよう笑う。
孔明は毎日忙しい。こんな時間は貴重だ。
この時間を、まるで守っているように思えて、花は嬉しくなって孔明の頭を撫でた。
「いいですよ。寝てください」
「うん。ありがとう……」
花の手に誘われるように、孔明は眠りに落ちていく。
「ちゃんと……ここに、いて……ね」
意識が完全になくなる寸前、孔明の手が、花の手を握りしめた。
その手は、花を繋ぎとめるように強い。
「…………はい」
花はそっと頷いて、もう一方の手で孔明の頭を撫でた。


おわり

Pagination