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Category: こばなし

後方注意

 仕事を終えて、花は街に出かけようとしていた。
 本当は芙蓉と二人で行く予定だったのだが、芙蓉に急な用ができてしまい、一人になってしまったのだ。
「晏而さん!」
 前方に馴染みの姿を見つけて、花は喜びもあらわに走り寄る。
「おう、道士様」
 晏而の方も、声をかけてきたのが花と見てとるや、その強面を嬉しそうに緩めた。ただ、元がごろつきのような風体のため、そんな親愛の情のこもった顔は、どちらかというと不気味だった。だが、晏而本人は気づいていないし、花もそんな風には思っていないので、二人の間では特に問題はない。
「どうしたんだ? こんなところで」
 晏而がいたのは、城門である。もうあと一歩で、外に出られるようなところだ。だいたい城の中で生活が済む花が来るのは珍しいことだった。
「街に行こうと思って」
「ひとりで? 道士様がひとりで街に出たらさらわれちまうぜ?」
 晏而は真顔で言いながら、顎をさする。
「大丈夫ですよ」
 心配しすぎる晏而に、花は笑った。
 成都は、よく警備されているため、治安は比較的良い。そのうえ、成都での暮らしも数年になって、どこが危ないかも頭に入っているので、ひとりでも十分歩けた。
「あ、でも、そうだ、晏而さん。これから時間ありますか? 良かったら一緒に行きません?」
 花は、いいことを思いついたと顔を輝かせて、晏而を誘う。
「元々芙蓉姫と出かける予定だったんですけど、都合が悪くなってしまって、一人になったんです。晏而さんが一緒に来てくれたら嬉しいです。とてもおいしいお菓子のお店ができたって、今、ちょっと評判なんですよ? 知ってますか?」
 元々京城で店を開いて繁盛し、それが長江を上って、西に進出してきたらしい。あの京城で流行るのだがら、評判通りおいしいのだろうと、花は十二分に期待している。
 それは、クレープ食べに行きませんか? と言っているようなものだが、その不調和に、花は気づかなかった。
「ああ、そりゃあっ……結構なお誘いなんだが、な……」
 花からのお誘いに晏而は、一瞬、喜色満面で頷こうとしながら、一転、トーンダウンして、言葉尻が鈍くなる。
「?」
 不自然な晏而に、花は首を傾げた。
 すると、晏而は、ちょいちょいと花の後ろを指差す。
 花は何も考えずに振り返って、固まった。
「何の話かな?」
 花の背後1メートルほどのところに、孔明が立っていた。笑顔が不自然なほど晴れやかだ。
「し、師匠!」
「りょ、亮、俺は無実だからなっ! 何にも言ってねえ!」
 花の叫びと晏而の釈明が重なった。二人とも顔を引き攣らせているのは同じだ。
「よりによって、こんな怖い顔のおじさんを、お菓子屋さんに誘わなくてもいいんじゃない? お客さんがみんな逃げちゃうよ?」
「おい、言葉に気をつけろ」
「なにか?」
「何でもありません」
 ちらりと視線を流されて、晏而はすぐに両手を挙げる。
「うん。そうだね」
 恭順な態度を示す晏而に、孔明は当然だといった様子で頷いた。それから、花を見る。
 花は再び固まった。孔明はまだ笑顔のままだ。はっきり言って怖い。
「まったく。芙蓉殿だから見逃したっていうのに」
 孔明はぶつぶつと言いながら、花の手を取った。
「おいで」
 ずんずん歩き出す孔明に引っ張られて、花は城の中に逆戻りだ。とても行きたくなかったが、ここで抵抗したらどうなるか分からない。
 花は、藁にもすがる気持ちで、晏而を振り返った。
 しかし、晏而は手を振って花を見送っている。
 花はそれを薄情だとは思わなかった。逆の立場だったら、花も同じことをしてしまうだろう。
 花は観念して、孔明に従った。

予感

 空に月が浮かんでいる。明日か明後日には、満ちるだろう。
 花は、月を見上げて、まるで太陽を見るときのように目を細めた。
 ひどく明るい。強い光が暗い空に滲んでいる。
 不思議な夜だ。
 夜なのに。
 明るい。
「やあ」
 不意に、背中から声をかけられた。
 花は驚くことなく振り返る。
 何となく、今夜、会える気がしたのだ。
「師匠」
 声の通り、すぐそばに、孔明が立っていた。
 手を伸ばせば届く。
「久しぶりですね」
 花は予想通りになったことが嬉しくて、笑って言った。
 しかし、孔明はなぜか驚いたような、困惑したような顔をする。
 花は首を傾げた。
「師匠、どうしました?」
「あ、いや……うん……」
 花に問われて、孔明は右頬を人差し指で掻いた。
「驚かないんだね」
「え?」
「ボク、今日来るって言ってあったっけ?」
「ああ」
 花は、孔明の戸惑いの理由が分かって、頷く。
 確かにいつもなら大いに驚くところだ。孔明の登場はいつも突然で、前触れがない。けれど、今夜は、予感があった。
「今日、師匠に会える気がしたんです」
 花は言う。
「予感的中です」
 そして、ピースサインを孔明に向けた。孔明にはどういったサインだか分からないだろうが、誇らしげなことは伝わっただろう。
 予感が当たったのが嬉しい。まるで、孔明と繋がっているみたいだ。
 それに、単純に、孔明に会えて嬉しかった。
 すると、孔明は、目をわずかに見張って、それから、ぎゅっと拳を握りしめる。
「ーーしちゃいけない」
 その呟きは、低く、今夜のわずかな闇に溶けてしまった。
「え?」
 花は、うまく聞き取れなくて、聞き返す。
「ううん、なんでもないよ」
 しかし、孔明は、いつもの笑顔で首を振った。
「師匠?」
 その笑顔に距離を感じて、花の心に不安が過ぎる。
 孔明との間隔は変わっていないのに、今は、手を伸ばしても、触れられない。そんな気がした。
 でも、どうしてだろう。
 花は戸惑う。
「今、大変でしょ? ボクに相談したいことがあるんじゃない?」
 だが、孔明は、花の不安には触れずにそう言った。
「……あ、はい。そうなんです」
 孔明に指摘され、花は自分が天幕から出て夜歩きしていた原因を思い出す。
 明日、策を提出しなければならないのに、まとまっていないのだ。
 だから、孔明に会いたかったのかもしれない。
「師匠に相談したくて、会いたかったんです。助かりました」
「うん、それは良かった」
 花が言うと、孔明は満足げに頷いた。
 また距離が縮まった気がする。
 花は嬉しくなって、相談事を話し始めた。
 二人の頭上では、いつのまにか広がった雲が、月をゆっくりと隠していく。時間と時間の狭間のような時が、動き出した。



 --ああ、どうか、ボクに恋などしないでほしい。

サイズ

 

 花は、とりあえず、目の前にある孔明の背中に抱きついてみた。
 腕を回して、孔明の腹の前で組む。
 やっぱりだ。
 花は思ったことを確認できて、一人で頷いた。
「は、花? どうしたの?」
 突然の花の行為に、孔明の声が珍しく上擦っている。
 肩越しに目が合った。
 花は、孔明から離れて元の位置ーー孔明の一歩後ろに戻る。
「確認です」
「はい?」
 花が言うと、孔明は不可解そうに眉を寄せた。
「何の?」
「師匠のサイズです」
「さいず」
 孔明は聞いたことのない言葉を復唱する。
 伝わる単語と伝わらない単語の境が曖昧なため、花は孔明に伝わっていないことに気づかずに、話を続けた。
「師匠って大きく見えないんですけど、やっぱり私より大きいんだなって。亮くんのサイズも知っているから余計なんでしょうね」
 普段は気にならないのに、前を歩く孔明がやけに大きく見えて、花は確かめたくなったのだ。
 今日は珍しく正装をしているからかもしれない。いつもより立派に見えて、まるで別人のようなのだ。
「…………」
 花の話し振りから、孔明は、サイズというのが体格と大体同じ意味だと推察した。だが、今の問題はそこではない。
 それを今のタイミングで確かめる必然性だとか、その確かめ方はどうだとか、言いたいことがたくさんできた。
 もしかしたら、まだ異性という認識が薄いのだろうかと、不安すら湧いてくる。
 けれど、そうではなくて、花のいつもの勤勉さで、考えていることで頭がいっぱいになった末の行動なのだろう。
 孔明はひとつ試してみた。
「それなら、こっちから確かめてみたら?」
 そう言って、花に向き直って、腕を開く。
 花はそんな孔明に一瞬きょとんとしてから、その意味を理解して、すぐに顔を赤くした。
「そ、そんなっ、恥ずかしいことできません!」
 花はぶんぶんと首を横に振る。
 突然後ろから抱きつくことは恥ずかしくはないのかと突っ込みたくなるくらいの反応だが、孔明はあえて指摘せずに流しておいた。
 それよりも、したいことがある。
「そう? じゃあ、ボクが確かめようかな」
「えっ?」
「花のサイズ」
 孔明はそう言って、顔を真っ赤にしている花をぎゅっと抱きしめた。
 花とは逆に、思ったよりも花の体は小さくて、胸の中に抱きこめてしまう。
「ほら、こっちの方が分かりやすいよ」
 孔明は花を抱き寄せて囁いた。

「私が恥ずかしいわ」
「全くです」
 二人の後ろを歩いていた芙蓉と晏而が、顔を引き攣らせて目を背ける。
「亮、いいなあ」
 季翔はひとり、羨ましそうに二人を見つめていた。

今はどの空の下

 

 それは寝耳に水の話だった。
「師匠、もう一回」
 花は自分の耳が信じられずに聞き返す。
「ん? だから、辞めてきた」
 孔明は、さきほどと同じ、どこまでも軽く告げた。まるで、挨拶をするような気軽さだ。
 何をという言葉が抜けているが、言われずとも分かる。
 玄徳の下を辞したという話だ。
 花は目の前が真っ暗になった。
「もうさ、だいぶ落ち着いたし、整ってきたし、人も集まった。いい頃合だと思うんだよね」
 そんな花をよそに、孔明はすらすらと話を続ける。
「ほら、ボクってもともと仕官とか向いてないように思わない? 結構無理してたというか……そろそろ本当の自分らしく生きたいというか。旅にでも出ようかなってーー」
「ま、待ってください!」
 花は自分でも驚くほど大きな声で、孔明を制した。
「う、うん」
 孔明も驚いて言葉を止める。
「どういうことですか? どうするんですか? どうして……どうして勝手に決めるんですか!」
 突然の話に、頭の中はぐちゃぐちゃだった。出てくる言葉も混乱している。
 言いたいことはそれではない。
 それではなくて。
 花は、孔明の袖を掴んだ。
「わ、私も一緒に行って、いいですか?」
 我がままだろうか。
 孔明はきっと言葉よりも多くのことを考えて、玄徳のもとを去ろうとしている。
 花にはその全ては分からない。ただ孔明と一緒にいたいと思う。孔明の隣で、孔明と一緒に世界を見ていたい。
 それだけの理由で、玄徳や国を放り出して、いいのだろうか。
 そんな思いが湧いて苦しい。
 孔明は、袖を掴む花の手をそっと外した。
「師匠……!」
 拒絶されたかと落胆しかけた瞬間、孔明が花の手を握り締めてきた。
「うん。もちろん。そのつもりだよ。君の分も一緒に暇乞いしてきた」
 孔明は悪戯っぽく笑う。
 花は目を見開き、そして堪らず孔明に抱きついた。
「師匠は勝手です!」
「あれ、迷惑だった?」
 孔明はまだからかってくる。
 花は、安心して涙が滲んだ目で、孔明を睨んだ。
「意地悪です」
「うん、そうだね」
 孔明はくすくす笑っている。
「でも……大好きです」
 花は、もう一度ぎゅっと公明に抱きついた。
 孔明は虚を衝かれたように、目を見開いて、それから花を強く抱きしめた。


「さ、出発しようか?」
「はい」
 片手で持てるだけの荷物を手に、もう一方の手は愛しい人の手を取って。
 そうして軽やかに、飛ぶように、世界を巡ろう。
 世界に訪れる春を追って。

Hello, New year!

 

「よいしょ、っと」
 孔明が、ひらりと花の隣に立った。さすがに手馴れた様子だ。
「師匠、さすがですね」
 花は思わず口に出してしまった。
 案の定、孔明が複雑そうな顔をする。
「それ、誉めてないでしょ」
「すみません」
 花は否定もせずに謝った。
 孔明は、何か言いたげに口を開いたが、いったん閉じて、また開いた。
「で、こんなところにみんなを集めて、何をしようって言うんだい?」
 孔明は、花の後ろにいる人たちに視線を流す。
 花の後ろには、玄徳をはじめ、顔なじみが揃っていた。そして、孔明が「こんなところ」と言う、みんなが座っているところは、屋根の上である。
 君主以下、国の主要なものたちが、雁首を並べて、屋根の上にいるのは異常な光景だ。けれど、屋根の上には、雲長もいるため、国内で、彼らを窘められる者はいなかった。
 ここに集まるよう呼びかけたのは花である。そのため、玄徳たちのほかに、晏而と季翔の姿もあった。
「はい。あの、あ……」
 説明しようとした花は、前方に目的のものを見つけて、言葉を止めてしまう。
 それを見て、孔明も振り返った。
「おや」
 東の空が赤く滲み、夜と混ざり合っている。夜明けだ。大きな太陽がわずかにその頭を出していた。
「これは……」
 玄徳も見入る。
「きれい」
 芙蓉が頬を緩めて呟いた。
「なかなか」
 雲長もまんざらでない顔で頷く。
「すっげー」
 翼徳は目を輝かせて見つめた。
「心が洗われますね」
 静かに控えていた子龍も、いつのまにか立ち上がっている。
 今や座っているものは誰もいなかった。
「きれいだなあ」
「ああ」
 晏而と季翔も徐々に姿を現す太陽から目を離さない。
「私の国では、新年の日の出を見る習慣があるんです。家族とか、仲のいい友だちとかと見にいくものなので、みなさんを誘ってしまいました」
 こちらの世界では、初日の出という習慣はないと聞いたので、断られるのを承知で声をかけたのだが、全員来てくれた。
「こんな時間に、ありがとうございます」
「いいや、こちらこそ誘ってくれてありがとう。おかげでいいものを見ることができた」
 玄徳が笑って、花の頭を撫でる。
 玄徳にお礼を言われて、花も嬉しかった。自然と笑みがこぼれてしまう。
 すると、そんな花の腕を、孔明がぐいといささか乱暴に引いた。
「来年は二人っきりで見よう?」
「し、師匠!」
 孔明に抱きこまれて、花は焦る。
「聞こえてますけど、孔明殿」
 芙蓉が頬をひきつらせて孔明をにらみつけた。
「聞こえるように言ってますから」
 それに対して、孔明は不遜に笑ってみせる。
「亮、お前なあ……」
 晏而が年長者として諌めようと一歩前に出たときだった。
「あ! みんな、見て見て!」
 翼徳が興奮したように声を上げる。
 見れば、太陽が完全にその姿を現そうとしていた。
 世界が明るくなっていく。
 新しい年の始まりだ。
 朝日が昇りきると、誰ともなく顔を見合わせた。
「今年もよろしくお願いします」

 きっと今年はいい年になる。
 ハロー、新年。

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