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Category: まこあん

夏祭り(まこあん)

2016.9.4 ブリデ4の無配
トリスタとあんずで夏祭り
※これだけリメンバーにひきずられてちょっとシリアスです

99.8%

『真くん、今大丈夫だったら、ガーデンテラスにきてもらえますか』


遊木真は、信じられない思いで、そのあんずからのメッセージを見た。
今日は2月14日。紛うことなくバレンタインデー、その日だ。
【ショコラフェス】の自分たちのライブも無事に大成功に終わって、用意したチョコレートも全部もらってもらえた。あれは夢ではない。歌って踊った。お客さんにチョコレートを配った記憶もある。――本当に緊張して手が震えたこともしっかりと。
自分たち――『Trickstar』の出番は午前中で、終わった後は、他のユニットのライブを見たり、放送委員の仕事をしたりで過ごし、今日のプログラムが全て終わって一息ついたところだった。『Trickstar』のみんなやあんずを探しに行こうとした矢先、制服のブレザーのポケットに入れていたスマートフォンが振動して、メッセージの着信を知らせたのだ。
今日はバレンタインデー。その当日の女の子からの呼び出し。『Trickstar』のグループ宛てではない、個人的なメッセージ。あんずは個人的に真に用事がある。
この特別な日に、個人的な用事――そこから導き出される結論に、真の心臓は破裂しそうなほど、どきどきと早鐘を打った。
震える指で、『すぐ行くね』と入力する。
(うわあぁぁあ、どうしよう……!!)
真は顔を耳まで真っ赤に染めながら、ふわふわと覚束ない足取りで、ガーデンテラスに向かった。






「あ、きたきた」
「ウッキ~おそーい」
「どこにいたんだ?」
ガーデンテラスに踏み込むなりかかったにぎやかな声に、真は一瞬、何事かわからなかった。
テラスのテーブルを、『Trickstar』の3人とあんずが囲んでいる。明星スバルは立ち上がって手招きして、衣更真緒はスマートフォンをいじる手を止めて笑顔を向けて、氷鷹北斗は腕組みをしてきまじめに問いかけて、真を迎えた。あんずもふだん通りの笑顔だ。告白への緊張や予定外の闖入者への困惑など見えない。つまり、この状況は予定されていたことで、ひとつ空いているイスは、真の席だろう。
(ああ、だよねー)
真は事態を把握し脱力する。ものすごい緊張から解放されて、膝をつく勢いだった。
あんずの用事は個人的なものではなく、3人はあんずと一緒にいたから、グループ宛てのメッセージではなかったのだ。
(ぼ、僕だけいなかったんだね……!)
寂しいことに気づいてしまい、悲しいやら情けないやらで、眼鏡がずれた。
「ウッキ~、早く座ってよ!」
「ご、ごめん」
力が抜けてその場に突っ立っていたら、スバルに催促されて、真は慌てて眼鏡を直しながら空いているイスに座る。
「見て見て!」
スバルはわくわくした顔で、テーブルの上を指差した。
そこには白い箱が置いてある。
なんだろうと思っている間に、あんずがそれに手をかけた。
「【ショコラフェス】、お疲れさまでした!」
そして、そう言いながら、箱のフタをぱかりと開ける。
現われたのは、星型のチョコレートケーキだった。チョコレートでコーティングされた表面はツヤツヤと輝いて、金箔のようなものが散ってキラキラしている。そのうえにのっているチョコレートの板には『Trickstar』と書かれていた。特製の『Trickstar』ケーキだ。
「うわあ!」
真は感嘆の声を上げた。
これはあんずのお手製なのだろう。自分たちのために、こんな特別なものを用意してくれたことに嬉しさが湧いてくる。
「あんずが作ってくれたんだ」
「『Trickstar』ケーキだ」
真緒と北斗はまるで真に自慢するかのように誇らしげだ。
その気持ちはわかる。こんなにすてきなものを作ってもらえて、胸が弾まないわけがない。
「すごい、すごいよ! ありがとう、あんずちゃん!」
「私も喜んでもらえて嬉しい」
真も興奮してあんずを振り返る。あんずは言葉通り嬉しそうに笑ってくれた。
(あ……やっぱりかわいいな……)
向けられた笑顔にきゅんとときめく。女の子は苦手なのに、なぜかあんずは違うのだ。ずっと特別だった。会話は難しくて後悔してばかりでももっと話したい。笑顔を向けられるとどうしたらいいかわからなくて困ってしまうのに、かわいいなと思って、もっと見たいと思う。
もっと、もっと仲良くなりたいと思うこの気持ちはきっと――。
意識をしたら、どきどきと脈が速まってしまって、真は慌ててあんずから目を逸らした。
「ほ、ほんとうにおいしそうだね!」
色んなことを誤魔化すために、そのままケーキに視線を移して褒めたたえる。
不自然に思われただろうかと心配したが、それは身を乗り出してきたスバルの勢いが吹き飛ばしてくれた。
「でしょでしょ! キラキラしてて最高だよね! 『Ra*bits』のはウサギ型でかわいかったけど、こっちはキラキラしてるからもっと好きだな」
スバルはとても幸せそうだ。いつも以上に顔が輝いている。きっとスバルがこうして喜んでくれるから、あんずもケーキをキラキラさせたのだろう。真が見ても、嬉しくなるような笑顔だから、あんずはもっと嬉しいに違いない。そう思ってあんずを見ると、あんずはやっぱりとても嬉しそうに笑っていた。その笑顔にまた真も幸せな気持ちになる。
「ウッキ~来るまで食べちゃ駄目だって、あんずが言うから待ってたんだぞ~」
「当然だ」
それから唇を尖らせたスバルに、北斗が呆れて言った。
「ついでに紅茶部から紅茶もらって、ティーセット借りたからな。みんな揃ったことだし、お疲れさま会しようぜ」
真緒が無造作に持ち上げるティーポットやカップがやけに高そうなのはそういうわけかと納得するも、それを知ったら知ったで生徒会長の完璧な笑顔がちらついて、真はむやみに緊張してしまう。
あまり茶器に触らないようにしようと決める真の傍らで、スバルが元気に声を上げた。
「ね、食べよう!」
「そうだ。せっかくだから記念写真撮らない?」
それにはっとして、真は提案する。このケーキを写真に残したいし、みんなとこうしている時間も残したい。「撮影」は好きではないけれど、カメラは好きだし、写真も嫌いでないと最近気がついた。
「あ、いいね! ウッキ~たまにいいこと言うよね!」
「あ、明星くんはたまにひどいこと言うよね」
すぐにスバルが賛成してくれたが、ひとこと余計だ。
「あんず、ケーキを持って座ってくれ」
「撮るよー」
あんずにケーキを持たせてイスに座らせ、その周りを真たちで囲む。カメラを持ってきていなかったので、真が腕を伸ばしてスマートフォンで撮った。
「どれどれ」
「お、よく撮れてるな」
念のため2枚撮った後、みんなで画面を覗き込む。
ぶれてもいないし、5人とも笑顔だ。いい写真が撮れた。
「ウッキ~送って~」
「うん、オッケー」
真は4人に画像をシェアしながら、写真を――写真の中の自分を、あらためて見る。
写真の中の自分は、「きれい」ではなくて、ちょっと間が抜けているように見えた。それはポップな色と形の眼鏡のためではなくて、これが遊木真なのだろう。ものすごく楽しそうだ。
(なんだかアホそうだなあ。氷鷹くんの言うとおりかも)
思わず笑みが漏れてしまう。
自分の写真を見て、楽しい気分になるなんて、モデルをやっていた頃は想像もしなかった。みんなと撮る写真は楽しい。これも宝物だ。
真はもう一度だけ見て、スマートフォンをしまった。
「よかったら俺のケーキもみんなで食べてくれよ。結構うまくできたんだ」
「ケーキ? サリ~が作ったの? 食べたい食べたい!」
おのおのが席に戻る中、真緒は座らずに奥へと身を翻す。
「そう。凛月と一緒にだけど」
戻ってきた真緒の手には、あんずが作ったものとは違うチョコレートケーキがあった。
「じゃーん! あんずがカロリーが気になるって言うから、低カロリーでおいしいやつを凛月に考えてもらったんだよ」
「真緒くん! 信じてた!! ありがとう!」
『Trickstar』ケーキの隣にそのケーキを置いた真緒の手を、あんずがひしと握りしめる。
(う、うらやましい! ……でもほんとにおいしそうだ)
あんずに手を握ってもらえていいなと羨む一方、真緒のケーキはシンプルながらもきれいに焼き上がっていてとてもおいしそうなので、そのごほうびも当然と思えた。しかも、事前にあんずの要望を聞いている代物だ。あんずが喜ばないわけがない。
(衣更くんってかっこいいよなあ……)
真緒はとてもスマートだ。気さくで親切で、空気も読めるし、ダンスも上手で、かっこいい男の子の見本のようだ。
(女の子ならなおさらかっこいいって思うよね……うう、あんずちゃんもかなあ……)
自分が女の子だったら真緒にときめくだろうと思える。だとしたらあんずもときめいているかもしれない。そんな想像をして、真は少し落ち込んだ。
「凛月がホワイトデー忘れるなって。あ、俺もな」
「うんうん。もちろん」
真緒は笑ってぽんぽんとあんずの手を叩く。あんずは嬉しそうに頷いた。
(い、衣更くん、なんて自然にホワイトデーの約束を……!)
その流れるように自然な約束に、真は驚愕した。いやもちろん、真緒の対人能力の高さは知っている。だが、こうもさらりと、「こんにちは」くらいの軽さで、ホワイトデーのお返しの約束を取り付けるなど、真には逆立ちしてもできない真似だ。真は信じられない思いで、真緒を見つめた。真緒は、真が思うよりもずっとハイレベルなのだ。
「あ、じゃあじゃあ俺もー! あんずこれもらってよ! 昨日一緒にやってくれたお礼」
そこに、反対側から明るい声が上がる。
真はびくっと肩を震わせてそちらを見た。
スバルが満面の笑みで、かわいらしくラッピングされた包みをあんずに差し出している。
こちらはこちらで、真緒とは違ったベクトルのコミュニケーション力を有した強者だ。
(明星くんもなんてナチュラルに……! あっ、待って待って、ぼ、僕も今がチャンスだ……!)
スバルの流れに乗る上手さに感心しかけて、真ははっと気がついた。
真もあんずにあげるチョコレートを用意している。今、足もとのバッグの中だ。どうやって渡そうかと頭を悩ませていたが、この流れに乗れば、自然に渡すことができる。この機会にあんずへ感謝を伝えたかったのは、みんな同じだったのだ。北斗はライブが終わってすぐにあんずに渡しているので、あとは真だけだ。渡さなかったら、むしろ真だけあげなかった人になってしまう。
(よ、よーし)
真はチョコレートを取り出すためにバッグを掴んだ。
しかし、真より先に、スバルの余計なひと言に、ぴくりと眉を動かした北斗が口を開いて、空気を一変させた。
「なんだと?」
「スバルくん……」
あんずはスバルから包みを受け取りながらも、残念そうな視線を向けている。
「明星、おまえ、昨日、あんずにラッピングを手伝わせたのか? あれはおまえがふざけてばかりいるから、反省させる意味も込めていたというのに」
「あ、あははは」
北斗にきつく睨まれて、スバルはようやく失言に気づいた。
「ほ、北斗くん、私は――」
「あんずは黙っていてくれ」
「はい。ごめんなさい」
フォローしようとするあんずを黙らせて、北斗のお説教が始まる。
「あーあ」
真緒は仕方なさそうに苦笑した。
(うわあ……今は渡せないよね……)
北斗は結構真面目に説教しているし、自分も関係しているからあんずはそわそわとふたりを気にしている。
ここで、チョコレートどうぞなんて差し出せるわけないし、そんなことをされたらあんずも困るだけだろう。
(うう……間が悪いな、僕……)
せめて北斗より先に動けていればと思っても後の祭りだ。真はすごすごとバッグを元に戻した。


スバルへの長いお説教は、真緒のとりなしでどうにか終わり、そのあとは楽しいお疲れさま会になったのだが、真の力では、どうにもチョコレートを渡すタイミングを見つけることも作ることもできないまま、会も終わった。紅茶部から借りた茶器や食器も洗い無事にひとつも欠けることなく返したので、あとは帰るだけだった。
「こんなもんか」
「ああ、戻ろう」
イスを整えて、真緒と北斗がそんな会話をしている。
(ど、どうしよう……)
このままでは帰宅まっしぐらだ。こんなにもバレンタインの雰囲気が満ちた中で、しかも絶好のビッグウェーブがあったにもかかわらず、チョコレートを渡せていないというのに、バレンタインから遠ざかるだけの帰り道、話が途切れないこの面子で、真があんずにチョコレートの件を切り出せる確率は限りなくゼロに近い。それに、渡すならやはり、お祭り感が漂う学院内にいる間だろう。ふつうなら、真が女の子にチョコレートを渡すなどできっこないことなのだが、今の学院は全体がそういう雰囲気だ。光もお世話になっている先輩にチョコレートを用意していた。そんなひとがたくさんいるから、真も紛れられる。確かに少し特別な想いも混じっているけれど、このチョコレートの主成分は感謝だ。あんずに、いつもありがとうと伝えたい。
(そうだ……いつもありがとうって言わなくっちゃ)
真は、バッグのチャックを少し開けて中に手を差し入れ、ちらとあんずを見た。
あんずは、重そうな紙袋を持ち上げようとしている。
真は慌ててバッグを肩に背負い、あんずのもとに行った。
「あんずちゃん、大荷物だね。フェスの小道具? 大丈夫? 持つよ?」
「あ、えっと、これはフェスのものじゃなくて、個人的なものだから、大丈夫だよ」
真が声をかけると、あんずはわずかに慌てたような動きをして、首を横に振る。
それを不思議に思ったものの、あんずが持つには結構大変そうなので、真は重ねて聞いた。
「個人的なもの? でも重そうだし、よければ持つよ?」
「あ、う、うん……」
しかし、やっぱりあんずからは困ったような返事が返ってくる。その反応に、真ははっとした。
「あ、ごめん、僕が触っちゃだめなやつだった?」
「そうじゃないんだけど……申し訳ないから」
「遠慮しなくていいのに。じゃあ、持つね?」
また空気を読めていない発言をしてしまったかと焦ったが、あんずの言葉にほっとして、真は荷物に手を伸ばす。
「あ、ありがとう」
あんずは気が進まないようだったが渡してくれた。
それは、見た目通りずっしりと重量感があった。
興味を引かれた真は、封をしていないし、隠してもいないということは見てもいいのだろうと勝手に判断して、ちらと中を覗く。そして、目を見張った。
紙袋の中には、かわいらしくラッピングされた包みがぎっしりと詰まっていた。いちばん上には、さきほどスバルが渡していた包みがある。つまりこれは全て――。
「も、もしかして、これ、チョコレート?」
「う、ん」
真が恐る恐る尋ねると、あんずは気まずそうに頷いた。
(うわー……!)
あんずが頑なに遠慮し、微妙な反応をするわけだと、納得する。
これは「個人的な」中でも、最も個人的な荷物であるし、この数から推しはかるに、知り合いの中であげていないのは真くらいかもしれない。気まずいのは真だ。
「モ、モテモテちゃんだね……はは」
乾いた笑いが口からこぼれる。
この時点であんずにチョコレートをあげていないなんて、あんずに感謝を抱いていないことを表明しているようなものだ。しかし、これはチャンスでもある。思いがけずチョコレートの話題になった今、実は僕も用意していたんだ、と渡すのはおかしくない。
(でも……)
ただ、手の中のずしりとした重みが、真の心を押し潰していた。バレンタインという浮かれた気分も、あんずにあげようというそわそわした気持ちも、いっしょくたに潰れている。こんなにたくさんもらっていたら、真があげてもあげなくても同じだろう。砂浜の砂粒のようなもので、あってもなくても変わらない。それに、今でもこれほどかさばって重いのに、真があげたら荷物を増やしてしまうことになる。これ以上は迷惑に違いない。
「そっかあ……」
真はため息をついた。せっかく作ったけれど、用意したチョコレートは真の胃袋に入ることに決定だ。
「や、やっぱり、自分で持つ」
そのため息を聞きつけて、あんずは紙袋を取り戻そうと手を伸ばしてくる。
「ごめん。今のは違うから! 大丈夫!」
真は慌てて笑顔を作って、あんずの手を避けた。ちょっと気が塞いでしまったのは自分のせいで、この紙袋を持つことは全く憂うつではない。
手が空ぶって、あんずは眉根を寄せた。
真の言葉が本当か探るように、じっと見つめてきたので、真は恥ずかしくなって目を逸らす。
「み、見つめられると困っちゃうな」
「……じゃあ、真くんの荷物持つ」
ただ真に持たせるばかりでは気が引けたのか、あんずは、真が肩にかけているデイバッグに手をかけた。
「大丈夫。気にしないでいいから」
「でも……」
「ほんとにほんとで大丈夫だよ!」
申し訳なさそうなあんずに笑顔で言って、真は体を揺すってあんずの手を振り払おうとする。
「あっ」
真のためらいから半分ほどチャックが開いていたところに、あんずが手をかけていたため、その拍子にバッグは大きく開き、中から唯一の荷物が飛び出して、ふたりの間にぽとりと落ちた。
ぽとりと。
(!!)
きれいにラッピングしたそれはあんずへのチョコレートだ。
あまりのできごとに、真は固まった。
あんずもなぜか同様に固まって、それを凝視している。
ふたりの視線を一身に集めたチョコレートは、当然ながら無言だ。
「あ……え、と……」
誤魔化せ、乗り切れ、と焦った頭が真を煽る。しかし、ここまでこれを渡すタイミングを作れなかったのに、この決定的にピンチな状況で、うまい誤魔化しなんて浮かんでくるはずもない。口は意味をなさない単語を発するだけで、頭は空転するばかりだ。
先に動いたのは、やっぱりあんずだった。
「ご、ごごめんなさい!」
慌ててチョコレートの包みを拾い、真に差し出す。
「い、いいの、いいの。気にしないで」
真はそそくさとそれを受け取った。泣き面に蜂とはこのことだろうか。運がなさすぎて泣きたい思いだ。
「でも、特別なものなんでしょう」
あんずは気遣わしげに包みを一瞥して、もう一度、ごめんなさい、と謝った。
「ど、どうしてそれを……!」
真はびっくりしてしまう。
(た、たたた確かに、あんずちゃんのことが好きだから、ちょっとはそんな気持ちもこもっちゃってるかもしれないけど、でも、告白とかそういうつもりじゃなくて、プロデューサーとしてもクラスメイトとしてもお世話になってるから、いつもありがとうって思って作ったのに、な、なんで特別ってばれちゃってるのかな……!)
勢いよく慌てふためく真に、あんずは少し戸惑ったように言った。
「え……だって、チョコレートは学校の受付があるから。これは個人的にもらったものなんでしょう?」
「え?」
あんずの言葉に、真はぴたりと思考を止める。それからあんずの誤解に気づいて、今度はぶんぶんと首を横に振った。
学院の生徒へのチョコレートは、学院が公式に窓口を設けていて、個人的に渡さないルールになっている。本来は、アイドルからお客さんに渡すフェスなのだが、そうはいってもチョコレートを渡したい女の子はたくさんいて、実際に持ってきてしまうため、学校がそのような対応をしていた。そのルールを外れて持っているチョコレートだから特別なものだと、あんずは思ったのだろう。特別な子にもらったものだと思ってしまっている。
よりによって、いちばん誤解されたくないあんずに誤解されてしまった。
特別なのは、あんずだけなのに――。
これは絶対に否定しなくてはいけないと、真は必死に言う。
「ち、違うよ! 違う! これはもらったものじゃなくて、あんずちゃんにあげようと思っ……っ!」
「え?」
そして、つい本当のことを口走ってしまって、真は息を飲んだ。
今度は、あんずがきょとんとする番だった。
「あああ、じゃなくて、これは自分チョコだから!」
真は無理矢理軌道修正して言い切る。
しかし、もちろん、誤魔化せるはずがない。
なんともいえない、気まずい沈黙が広がる。
「…………………………くれないの?」
数十秒の間の後、あんずが恐る恐るといった様子で言った。
真は観念する。
「……こんなにもらってて、これ以上増えても荷物になるだけで迷惑だと思うから……」
「迷惑なんかじゃないよ?」
あんずは驚いたように目を丸くして、強く首を振る。
「真くんからもらえるなら、すごく嬉しい」
それから、ほんとうに嬉しいことのように、ふわりと笑った。
(うわ……!)
その女の子らしい柔らかい笑顔に、真の心臓がどきんと跳ねる。その鼓動で一瞬にして沸騰した血液が頭に昇り、爆発した。
「だ、駄目だよ!!」
「え、なにが?」
突然悲鳴じみた声を上げながら顔を背ける真に、あんずは困惑している。当然だ。だが、それに説明することも、挙動不審さを収めることもできず、真は顔を背けたままチョコレートの包みをあんずの手に押しつけた。
「こ、これはあげるから! そんなふうに笑わないで!」
「え?」
「あ、あんずちゃんがかわいいから緊張しちゃって直視できないよ! ごめんね!」
真は紙袋を持ち上げて、それに顔を押しつける。こうすればあんずの顔は見えないし、赤い顔を見られずに済む。
そうして、真は、あんずの顔がみるみる赤くなっていく様を見逃した。
「ま、真くんもそういうこと言わないで。恥ずかしい……」
「あ、あんずちゃん……?」
あんずの声が震えているのが気になって、真は恐る恐る顔を出す。あんずは真のチョコレートで顔を隠していた。ほんの少しはみ出ている耳が真っ赤だ。
その姿に、あんずをとてもかわいく思って、胸がいっぱいになった。いつもあんずにときめくときよりは頭が真っ白になってしまうのに、今は、ずっと落ち着いていて、ずっとどきどきして、想いが膨らんで胸を押し上げている。
好きだなと思った。
「あんずちゃん、あの――」
荷物を抱え直して空いた右手がゆっくりとあんずの方へと伸びていく。
今、あんずがどんな顔をしているのか見たかった。あんずの顔を見たら、きっと、もっと好きになる。そんな予感がした。だから、顔を隠しているチョコレートの包みをおろしてほしい。
どきどきと鼓動が速まる。期待なのか緊張なのかはわからない。
あと、すこし――真の指先が、あんずの手首に触れるその寸前、ドンと真の背中になにかがぶつかった。
「ぐわっ!?」
「ウッキ~! あんず! なにしてるんだよ~遅いぞ!」
立ち止まっているふたりのもとに駆けてきたスバルが、真の背中に乗っかってきたのだ。背骨が折れるかと思うほどの衝撃に、眼鏡は落ちそうなほどずれ、真は悲鳴を上げたが、スバルは気にせずに、あんずの手の中のものに目を留めて笑った。
「あ、ウッキ~もあんずに渡したんだ。よかった。ウッキ~用意してないかもって、ホッケ~たちと話してたからさ」
「そ、そうなんだ。心配かけてごめんね」
さらりとひどいことを言われたような気がしたが、とりあえず真はずれた眼鏡を直して謝る。
「ま、真くん、変な音したけど、大丈夫?」
「う、うん。どうにか」
心配そうなあんずには、笑ってみせた。
つい一瞬前、あんずと真の間に漂っていた緊張感はきれいさっぱり吹き飛んでいる。真の手は、あんずに触れずに終わってしまった。
真は、ちらりと自分の右手を見る。
残念なような、ほっとしたような、真自身にも判別がつかない気持ちだ。
触れていたら、どうなっていたのだろう。
想いを告げてしまっていただろうか。
その可能性にどきりと心臓が跳ねて、顔が熱くなる。
真は手を握りしめた。
まだ、だめだ。
「ホッケ~とサリ~に置いていかれてちゃうよ! 行こう!」
真がぼんやりしている間に、スバルはあんずの手を取って、連れて行ってしまう。
「あ、待って!」
一歩遅れて、真は荷物を持ち直しながらふたりを追いかけた。
スバルは簡単にあんずに触れる。軽やかに踏み出していく。
それは羨ましくて眩しい。
そして、まだなのだと思えた。
真は、スバルたちに追いついてもいないから、必死に走らなくてはいけない。

走って、走って、いつか、この手がみんなに届いたら、きっとあんずにも触れることができるのだろう。


「ウッキ~、チョコ用意してたよ!」
「はーよかった」
「ああ。学院中で自分だけ渡していないと知ったら、落ち込むだろうからと心配だった」
北斗と真緒に追いつくやいなや、スバルは笑顔で報告した。ふたりは明らかに胸をなでおろしている。
「み、みんな、僕が用意してないと思ってたんだね。ていうか、みんなからもらったんだ……」
その反応も、北斗の漏らした情報も胸に刺さった。もしあそこでチョコレートが落ちなかったら、『Trickstar』で唯一どころか、学院中で唯一あげなかったひとになるところだったのだ。さすがにそれは砂浜の砂粒なんて存在感ではない。一生記憶に留まるレベルのものだ。
(よ、よかった……)
真は心からほっとする。
もちろん学院中のひとがチョコレートをあげているということも、そのなかに本命があるのではないかということも気になったが、あんすがみんなからチョコレートをもらうのは当然だと思うから、そこまで胸はざわつかなかった。
みんな、あんずに感謝している。あんずは何もしていないと言うかもしれないけれど、彼女はみんなに変化をもたらしている。
真も、その中のひとりだ。
「僕だって渡すよ? あんずちゃんに感謝してるから」
チョコレートを渡すとき、慌てすぎて、すっかり伝えるのを失念していた言葉を思い出した。
今はこれだけ――。
真は、あんずを見る。

「いつもありがとう、あんずちゃん」

 

今は感謝が99.8%のチョコレート。0.2%だけ、「好き」を練り込ませてもらっている。
けれど、いつか、100%の特別なチョコレートを渡せるように。
好きですと伝えられるように。

一生懸命走りたい。

 

おわり





◎おまけ


【ショコラフェス】まであと3日


「カロリー低いのかー……」
衣更真緒は、さきほど別れたあんずが残した言葉を反芻していた。
真緒の手の中には、食べてもらえなかったチョコレートケーキがある。カロリーが気になると言って、あんずは手を出さなかった。あんずなど全く太っていないのに、女子というものは不可解だ。
「あれ、衣更先輩。どうしたんですか、そんなとこに突っ立って」
ふいに背後から声をかけられて振り返ると、そこにはバスケ部の後輩の高峯翠がいた。
「あ、高峯。いいところに。これ食べないか?」
「えっ、それ、なんすか。すごく甘そう」
「う、そっか。悪かったな」
遠慮ない後輩のものすごく迷惑そうな顔に、真緒はすごすごとケーキを引っ込めた。
ふたり連続で断られて顔にがっかり感が出てしまったのか、翠はさすがに申し訳なさそうに謝りながら、それでも『流星隊』の準備の途中だからと去っていく。【ショコラフェス】までもう日がないから、どのユニットも祝日返上で準備に大忙しなのだ。
再びひとりになって、真緒はあらためて作ったケーキを見返した。とにかく余った材料を全部使い切ろうという代物なので、ケーキにはチョコレートクリームがたっぷりとのっている。確かにこれは、「カロリーが……」と言いたくなるのも、甘そうと顔を顰められるのも仕方ないと思えた。
「……うーん、やっぱり凛月か」
脳裏に、お菓子作りが得意なおさななじみ――朔間凛月の顔が浮かぶ。
せっかくだから、あんずにおいしく食べてもらえるようなものを作って、バレンタイン当日に渡すかと思った。これはあんずのために作ったわけではないが、食べてもらえなかったのは、やっぱりちょっとがっかりしたのもあるし、あんずにはお世話になっている。たまにはプレゼントもいいだろう。
ただ、ここからチョコレートクリームを除いただけで、低カロリーでおいしいケーキになるかがわからない。そんな上級者が作るようなものを、本を見てひとりで作るのは難しいし、これを一緒に作ってくれた鳴上嵐は今ごろ『Ra*bits』で手いっぱいだ――というより、嵐に相談したら、恋だのなんのとあらぬ誤解を受けて面倒なことになりそうだから、個人的なチョコ作りの手伝いを頼むことは遠慮したい。他にケーキを作れる知り合いはあんずだけだが、贈る相手のあんずには頼めない。となると、凛月しかいない。作り方と見た目に難ありだが、そこをどうにか自分が努力すれば、贈れるものなる――はずだ。
真緒はスマートフォンを取り出して、凛月に連絡を取った。すぐに返事がくるとは思っていないので、ケーキをどうにかしようと厨房に戻る。そうして、『Ra*bits』のメンバーにあげている間に、凛月から折り返しがあった。
中庭にいるというので行くと、隅のほうで芝生に転がっている大きな体を見つけて、予想の内ながら予想通りのことに、真緒は大いにため息をつく。フェスまであと3日だというのに、風邪を引いたらどうするつもりなのだろう。
「おい、凛月。風邪引くぞ」
「ん? ま~くん? どうしたの? なにかあった?」
体を揺すると、凛月はごろりと仰向けになった。寝転がってはいたが、寝てはいなかったらしい。だが眠そうだ。
「カロリー低めのチョコレートケーキ作りたいんだけど、手伝ってくれないか?」
「なにそれ。あんずにあげるの?」
凛月は目をこすりながら体を起こす。
だいぶ寝ぼけているのに的確だ。ただ、真緒がバレンタインにチョコレートを渡そうと思う相手など妹かあんずくらいで、そのうち、カロリー控えめという工夫をしてあげようと思うのはあんずくらいだというのは、凛月なら考えなくてもわかることだろうから、ずばりと言われても驚きはない。
(ああ、ごはんのお礼に、おばさんにもあげようかな)
ひとりぶんもふたりぶんも同じだろうと、真緒はあんずの母も人数に加える。
「ああ。さっきあんずにカロリーが気になるってチョコレートケーキ食べてもらえなくてさ。せっかくだから、バレンタイン当日にあげようかなーって。お前も忙しいところ悪いんだけど」
まったく忙しそうには見えないが、『Knights』も【ショコラフェス】に参加するのだから、その準備――の気配すら見えないが――で忙しいはずだ。
「ふわあ。べつに忙しくないけど、ちゃんとホワイトデー、俺の分もお返しもらってきてね」
「お、おう。あんずがくれるんだったらな。ていうか、忙しくないって、『Knights』は大丈夫なのか?」
「うん。だいじょうぶ。だから今日泊めて」
さすがお菓子作りが得意な者が3人もいる強豪ユニットは違う、と真緒が唸ったときだった。
「凛月先輩いぃぃい!」
ガーデンテラスに怨念がこもった声が響き渡った。
見れば、『Knights』の一年生、朱桜司が鬼の形相で凛月の名を呼んでいる。それは呼ぶというより叫んでいるといった方が正確だ。
「全くあのひとときたら! 【ショコラフェス】の準備が全っ然終わっていないというのに!」
「shit!」と舌打ちをはさみながら、司はぶつぶつ愚痴をこぼしていた。
「……思いっきり探されてるけど」
「ス〜ちゃんも探してる暇があったら準備すればいいのにねぇ」
「おまえだけは言っちゃいけないセリフだって、それ」
真緒はチョコレートケーキをひとりで作る未来が見えると思いながら、凛月を司へ差し出すべく、その腕を掴み、司を呼んだ。

 


【ショコラフェス】まであと2日


遊木真は、厨房を借りて、嵐に教わったトリュフをひとりで作っていた。
手順立てて操作すれば、そのように応えてくれる機械とは違って、お菓子は生ものだから扱いが難しい。もともと器用な方ではないので、最初はほんとうにうまくできなかったが、練習を重ねて、どうにか作れるようになってきた。
今作っているこれはショコラフェスでお客さんに配る用ではない。特別に贈りたい相手がいるのだ。だから、誰の手も借りず、自分の力で――と、天満光と同じことを思ってチャレンジしていた。
「できた!」
きれいにできあがったトリュフに、真は嬉しくなって声を上げる。
家で学校で時間を見つけては練習した甲斐あって、大きさも揃った、おいしいトリュフを作れるようになった。
(これなら喜んでくれるかな――)
あんずちゃん、と心の中で呟く。
それだけで、心の中に照れくさい、じたばたしたくなるような想いが膨らんで、真は、へへっと笑った。
「あれ、真くん」
そこにふいにあんずの声が響いて、真は飛び上がるほど驚いた。
「あ、ああああんずちゃん!?」
今、目の前に並んでいるのは、明日あんずにあげるつもりのチョコレートだ。あんずに見られるのはまずい。
(うわっ、まず……!)
真はとにかく隠さないとと焦り、チョコレートに覆いかぶさりかけて、それは怪しすぎると思いとどまったはいいものの、チョコレートは完全に無防備だ。払い落とすのもボウルをかぶせるのも間に合わない。いや、払い落とすのはだめだ。では、どうする――という問いに答えが出る前に、調理台の向こうに、あんずが現れた。
「追加で作ってるの?」
あんずの目はしっかりとチョコレートを捉えている。
もうだめだ。チョコレートはすっかり存在を知られてしまった。
「あ、う……うん」
自分の間の悪さに泣きたい思いで、真は頷く。
「きれいにできてるね。嵐くんいなくてもこんなに作れるなんて、真くん、すごいね」
ただ、あんずが目をきらきらと輝かせて褒めてくれたので、消沈した気持ちはふわりと舞い上がった。
「あ、い、一個食べてみてくれる?」
嬉しさから、つい言ってしまった言葉に、真は頭を抱える。
(って、なに言ってるんだよ! 僕!!)
二日後、あんずにあげるというのに、今食べさせてどうするのだろう。14日にあげたとき喜んでもらえたとしても、あのとき作っていたあれかと思って、驚きも喜びも半減だ。しかし、食べてみてと言っておいて、やっぱり駄目とも言えない。真は半泣きになりながら、必死に笑顔を保った。
「うん」
あんずは頷いて、ひとつ口の中に入れる。
すすめてしまったことに後悔する一方、あんずの評価も気になって、判決を待つ被告人のような気分で、真はあんずを見つめた。
「おいしい! これならお客さんも喜んでくれるね」
「よかった」
あんずは顔をほころばせて、太鼓判を押してくれる。
真はほっと胸をなでおろした。
お客さんが喜んでくれるのは嬉しい。けれど、本当はまだあんずだけでいい。あんずが喜んでくれれば、ちゃんとできたのだと実感できた。まだたくさんのひとの反応に返せるほどの余裕はない。
あんずはもぐもぐと幸せそうに食べている。それを見ているだけで、真も幸せだった。今これだけ喜んでくれているのだから、当日がっかりされてもいいかと思ってしまう。
(あ、今ってチャンスかも……聞いてみようかな……)
そんななかで、ずっと気になっていることを聞けるのではないかと思いつき、真は一気に緊張した。
聞きにくいことなのだ。けれど、ひどく気になる。どうしても気になる。
「あ、あのー……」
だから、真は恐る恐る切り出した。
「……あんずちゃんもチョコ、作ったりするの?」
「うん、作るよ」
真が一世一代くらいの思いでした質問に、あんずはあっさりと頷いた。
(つ、作るんだ……! でも、すごい軽い返事だな……!)
真はどきどきしながら、次の、最大の核心の質問に移る。
「あ、そ、そうなんだ~。ちなみに、誰にあげるのか聞いてもいいかな?」
それがいちばんの問題だ。
(き、聞けた! 今のは結構自然だったんじゃないかな!)
どきどきと心臓が早鐘を打ってやまない。しかし、声は震えなかったし、さりげなさを装えていたと思う。
「ご、ごめんね、こんな質問――」
「弟だよ。甘いもの好きだから、何か作ってってうるさくて」
取り繕って謝る真に、特に気にした様子もなく、あんずはそれにも答えてくれた。
「ふ、ふーん、弟さんかー」
がっかりしてほっとした。喜んでくれるといいね、と言いながら、自分も欲しかったな、と思う。
「あ、も、もういっこ食べる?」
けれど、そんなことは言えないので、真はチョコレートを差し出した。

 


【ショコラフェス】前日


「みんなの薄情者〜」
空き教室に、明星スバルの恨めしそうな声が響いた。
彼の前には、山積みの箱とラッピング袋にリボンがある。明日、【ショコラフェス】で配る予定のものだ。使うのは明日。だから、今日中にしっかり終わらせなければならない。しかし、スバルは飽きていた。
どうにもじっと座っての作業ができなくて、昼間、『Trickstar』のみんなで準備している間、飽きるに任せてふざけていたら、真面目なリーダーに叱られて、居残り作業を命じられてしまった。何の言い訳もできないほど完全に、自分のせいだ。
しかし、明日はライブがあるからと、さっさと帰ってしまうのは薄情ではないか、せめてスバルがさぼらないように見張るため、リーダーの氷鷹北斗くらいは残っていいものだ――なんてことも言えない。
みんなが正しくて、自分がいけない。だから、どうにかやらなくてはいけないのだけれど飽きている。みんなといるときも集中してできなかったのに、話し相手もいなくて孤独な中での作業など楽しい気配すらせず、全くやる気が起きない。お客さんのためだと気持ちを奮い立たせるのも限界だった。なんとも絶望的な状況だ。
「わ、と、と」
スバルが深いため息をついたとき、教室のドアが開いて、箱が入ってきた。
いや、今の声はあんずだ。
スバルが座っているところからは、だいたい箱しか見えなかったが、あんずが箱を運んでいるのだろう。
「あんず、なにしてるの!」
思いがけないすてきな闖入者に、スバルはステップを踏むような軽やかさで駆け寄った。ひとりきりでなくなって心がぴょんぴょん弾んでいる。あんずに抱きつきたいくらいだったが、それをしたら大変なことになることは予測できたので、とりあえずあんずの箱をもらうことにした。それを床に置くと、あんずのほっとした顔が現れる。
「あ、ありがとう、スバルくん」
「うん。片づけ? まだ残ってたの? サリ~と帰ったんじゃないの?」
「ちょっとやりたいこともあったし、会場の飾りつけの手直しを手伝ってて」
あんずはふうと息をついた。
会場からこれを運んできたのだとしたら、確かに大変だっただろう。今回はあんずの担当ではないから、こんなに遅くなるまで付き合わなくてもいいはずなのに、明日のフェスを成功させるために、あんずは一生懸命働いている。それにひきかえ自分は――とスバルはここでぐずぐずしていたことを反省した。
「スバルくんも遅いね」
「俺は……居残り」
あんずに話を振られて、どう答えようか一瞬迷ったが、スバルは素直に答えた。
あんずはちらりと教室の奥で広げられているものを見る。
「もしかして、ラッピング?」
「そう。ふざけてたらホッケ~にちゃんとやれって怒られちゃった」
「ふふ、じゃあ、てつだ――」
あんずは笑って、恐らく、手伝うよ、と言いかけて、口を閉ざした。
「どうしたの?」
中途半端に言葉を止めたあんずが不思議で、スバルは首を傾げる。
あんずならば、手伝いを申し出てくるだろうと思った。自分の行いを反省したスバルはそれを――本当に残念で仕方ないが――断ろうと準備していたのだ。だが、あんずが最後まで言ってくれなかったので、スバルも断れなかった。
「悩むな、と思って」
あんずは言葉通り、心底悩んでいるようで、眉根をぎゅっと寄せている。
「なにが?」
「手伝いたいけど、お客さんはスバルくんがラッピングしたものの方が喜ぶから、手を出しちゃだめかなって。包みを支えてるくらいならいいかもしれないけど……」
「俺が?」
「うん。だって、大好きなアイドルでしょ?」
あんずは大きく頷いた。
なんだかくすぐったくて、スバルは、珍しく照れて笑う。けれど、もっと聞きたくなって、あんずの方へ身を乗り出した。
「ねえねえ、あんずも? あんずも嬉しい? 俺がラッピングしたやつ」
「うん。私も嬉しいよ。『Trickstar』のファンだから」
「そっか〜」
あんずの言葉に、あたたかい気持ちが胸いっぱいに広がる。
「そうだ。私もね、まだもう少し作業が残ってるから。いっしょにやろう?」
「そうなんだ! うん、そうしよう! いっしょにいてくれるだけで嬉しいし!」
あんずの提案に、スバルは喜んで頷いた。
「あんずは何するの?」
「それが――」
スバルが尋ねると、あんずは箱の中のひとつをごそごそと探り出し、中から何やら取り出した。
「じゃーん」
それは、布で作られた飾りだった。真ん中に『Trickstar』という刺繍があって、リボンがついている。
「みんなの衣装、もう少しアレンジしたくて、飾りを作ってみました!」
「ほんとに!? 嬉しい!」
スバルはびっくりして嬉しくて、目を丸くして顔を輝かせた。
あんずの手には4つの飾りがあって、リボンの色が違っている。それぞれのことを考えて作ってくれたのだ。
「本当はこっそりつけておこうと思ったんだけど……」
「そうだったんだ! 明日、ホッケ~たち驚くだろうなあ」
失敗しちゃったと笑うあんずに笑い返し、スバルは3人の驚いた顔を想像して、わくわくした。元よりフェスは楽しみだったが、またひとつ楽しみが増えた。
「うん。喜んでくれるといいな」
「ぜったい喜ぶって! ほんとちょー嬉しい! ありがとう!」
スバルは喜び全開で、あんずに抱きついた。
みんながこれを喜ばないはずがない。夜遅くまで残っていたことに、北斗が苦言を呈するかもしれないが、その顔はすぐに緩むに違いない。
「わっ、ス、スバルくん、これまだマチ針ついてるから危ないよ」
抱きつかれたあんずは慌てて飾りを箱の中に入れる。
出会った頃は、抱きつくと離れようとしたり、腰が引けていたりしたのに、今では受け入れてくれている。それも嬉しかった。
「あんず、明日も俺たちのこと見ててね。特等席で!」
明日のライブは大成功だと確信して、スバルはあんずをぎゅっと抱きしめた。

 


【ショコラフェス】当日/午前


【ショコラフェス】の『Trickstar』のライブは大成功だった。パフォーマンスは素晴らしかったし、会場も大いに盛り上がった。これなら用意したチョコレートも全てもらってもらえるかもしれない。結果が出るのは、全てのユニットのライブが終わってからだが、手ごたえを感じてステージを下りられた。
衣装を着替えて片づける際、氷鷹北斗は、そっと胸の飾りを外す。これは、あんずが特別に作ってくれたものだから、手元に残しても問題はないだろう。
今回のフェスの宝物だ。
北斗は、それを大切にしまって、更衣室を出た。
「あんず」
ステージの方に戻って、隅で機材を整理しているあんずに声をかける。
「北斗くん、ライブお疲れさま。すごくよかったよ!」
北斗を見ると、あんずは興奮した面持ちで駆け寄ってきた。
その顔がなにより嬉しい。
あんずが転校してきて、その目がひとりひとりを見てくれたから、今日がある。本当に感謝してもしきれない。
「お前のおかげだ。あの飾り、ありがとう。大切にする」
「どういたしまして。喜んでくれて嬉しかった」
「あの飾りだけではなくて、いつも本当に感謝しているんだ。これをもらってほしい」
北斗は、用意していた包みを、あんずに差し出した。
中身はチョコレートだ。練習を重ねて、あんずに試食してもらったときもおいしいと言ってもらえたから、きっと大丈夫だろう。
「あ、ありがとう。嬉しい」
日本では、女性から男性に贈るケースばかりだから、あんずは驚いている。しかし、嬉しそうに笑って受け取ってくれた。
あんずが喜んでくれて嬉しくて、北斗も微笑む。
「あーホッケ〜が抜け駆けしてる!」
そこに、スバルの声が響き渡った。
「む」
そちらを見ると、制服に着替えたスバルと真緒がやってくるところだった。
「あんず、あんず! 俺も持ってきたから、あとで渡すね!」
「俺のもな」
ふたりとも、あんずの手の中のチョコレートを見て、我も我もと手を挙げる。
みんな考えることは同じかと、北斗は笑った。
「え……あ、ありがとう」
ただ、あんずはチョコレートをもらえるとは思っていなかったらしく、目を瞬かせた。
「私も、みんなに渡したいものがあるんだ。あとで渡すね」
「えっ、チョコレート? 本命?」
「あとでね」
スバルが顔を輝かせて尋ねるのに、あんずは笑ってはっきりとは答えなかった。
「阿呆。みんなに本命はないだろう」
「えーあるかもしれないじゃん! 俺たち四人みんな本命かもしれないじゃん!」
「……ん、てか真は?」
スバルが口にした「四人」に、真緒がそういえばといった顔で回りをきょろきょろと見る。
真はいなかった。
違和感なく話していたが、確かに最初からいない。
「あいつはこういうときいないな」
「ウッキ〜らしいね☆」
「そうじゃなくて、呼んでやろうぜ」
北斗とスバルが、真がいないことをただ受け入れていると、真緒が苦笑してスマートフォンを取り出した。
それを見て、北斗は真緒を止める。
「いや、後にしよう。あんずはこれから『Ra*bits』のライブを手伝うのだろう?」
「うん」
「そっか。じゃあ、また後でだな」
「ああ。あんずの仕事が終わったら、合流しよう」
あんずが渡したいものが何なのかは、北斗も気になる。
――チョコレートだったら、とても嬉しいと思った。今まで、甘いものが特に好きというわけでもなかったので、そんなことを思いもしなかったのに。
「終わったら連絡するね」
「ああ」
「がんばって~!」
仕事に戻るあんずを見送って、北斗たちは舞台裏を離れる。
「じゃあ『Ra*bits』のライブ見ていこうよ! しののんの応援したい!」
「そうだな。遊木にはそれを伝えよう」
スバルの提案に頷いて、北斗はスマートフォンを取り出した。

 

おまけおわり

僕らの昼休み戦争

4時間目終了のチャイムが鳴ると同時に、机に突っ伏していた明星スバルが元気いっぱいに起き上がった。
「昼休みだー!」
2年A組の昼休みは、毎日、このスバルの声で始まる。
全く授業を聞かれていなかった教師も、スバルのこの世の幸せを一身に集めたような顔には怒る気も失せるらしく、仕方なそうにして教室を出て行った。
一気に昼休みモードになった教室の中で、氷鷹北斗も昼食の支度のため、隣のあんずの席に自分の机をくっつける。その間に、Trickstarのメンバーであるスバルと遊木真がやって来て、北斗とあんずの前の席の椅子を拝借して座った。
ちなみにもうひとりのメンバー、衣更真緒は隣のクラスな上、生徒会やら幼馴染の世話やらで多忙の身のため、ユニットでランチミーティングをするとき以外は別だ。
だから、お昼のメンバーはこの4人というのが常で、4人揃ったところで、さあ昼食だと、それぞれ弁当や購買のパンなどを広げたとき、あんずが立ち上がった。
「私、パン買ってくるね。先に食べてて」
「え、あんずちゃん、今日購買だったの?」
「うん。寝坊しちゃって、お弁当作れなかったんだ」
失敗したと笑って告げるあんずに、真は、1時間ほど前の自分の行動を激しく呪った。
購買パンは、たいてい3時間目の授業中に入荷する。4時間目の終わりだともみくちゃになる上に、好きなパンを買えない可能性が高いので、3時間目が終わったらすぐに購買にダッシュするのが、購買パンを買うコツだ。
そして、今日の真はまさにそれを実践して、手元には購買パンの中でも人気が高く入手困難といわれるメロンパンと焼きそばパン、それにサンドウィッチがあった。
(し、知ってたら、あんずちゃんの分も買ってきたのにー!)
いつも自分で弁当を作ってくるあんずは、購買パン戦争を知らないだろう。
4時間目終了のチャイムがゴングとなり、みな一斉に購買を目指す。パン台に群がる生徒をかき分け、目的のパンを掴み、大混雑の会計を済ませなければならない。4時間目後に購買でパンを買うのは、体力的にも時間的にもロスが大きいのだ。
だから、あんずがパンを買う予定だと知っていたら、絶対に声をかけた。自分の分だけ買ってきてしまって、本当に申し訳ない。
(それに、いいところ見せられたかもしれないチャンスを~! 僕のバカ!)
悔しさに、ぐぐぐっと手に力が入る。
購買の建物は、アイドル科の校舎から少し離れたところにあるので、3時間目と4時間目の間の5分休みで行って戻ってくるのは、結構難易度が高い。女の子の足ではぎりぎりアウトかもしれない。
それを真がやってみせて、あんずの望むパンをゲットしてきたら、いつも情けないところばかり見られているから低いであろう――もしかしたらヘタレと思われているかもしれない――あんずの真への評価が少しはアップしたかもしれない。
(いやでも待てよ……)
しかし、購買パン戦争を知らないあんずには、5分休憩でパンを買ってくることの偉大さは理解してもらえないかもしれない。そんな無理をして、とまた気を遣われてしまう可能性の方が高い。それに、購買パンに命を賭けている男なんてかっこいいはずがない。
それよりも、3時間目の終わりに行かなかったら、今、あんずと一緒に買いに行けたのだと気づいて、頭を抱えた。
自然にふたりっきりになれるビッグチャンスを逃してしまったのだ。
Trickstarは、メンバー4人中3人が同じクラスで、仲もいいから、だいたい一緒にいる。そのため、あんずとふたりっきりという状況はなかなかなかった。誰にも邪魔されず、あんずとふたりになるのは結構難しいのだ。いや、実際は、女の子が苦手な真には、あんずとふたりっきりは大変困るのだが――困るけれどやっぱり嬉しい。
(テンパるだろうけど、パンを買いに行くという共通の目的があるから話題もあるし――)
パンを買いに行って戻ってくるくらいの間は持つだろう。
――何パンが好き? へえ、メロンパン。うん、僕も好きなんだ。おいしいよね、メロンパン。……。…………。
(お、終わっちゃった……!)
想像の中の会話も盛り上がらず終わって、真は愕然とする。
女の子が苦手な口下手のコミュニケーション能力に難ありのくせに、パンの話題だけで持つなんて考えが甘かったのだ。
(うう、だから僕は駄目なんだ。メロンパン買えて今日はついてるなって調子に乗ってる場合じゃなかった)
昼休みが始まった直後まで、購買パンヒエラルキーにおける自分の戦利品に、圧倒的な優越感を抱いていた。しかし、今となってはそんなものは紙屑同然だった。せっかくのパンたちも輝きを失っている。
「場所は大丈夫か?」
しおしおとする真の傍らで、北斗が委員長然としてあんずに聞いた。
彼女が転校してきてから結構経つが、北斗はまだまだ面倒を見るべき転校生という扱いをする。
もしかしたら、面倒を見ていたいのかもしれないと思って、真はしょげながらもやっとした。
「うん。大丈夫」
「そうか」
しかし、あんずがしっかりと頷くと、北斗はすぐに引き下がった。
それを見て、真が逆に突っ込んでしまう。
(ああ、そうじゃない、そうじゃないよ、氷鷹くん! それベストアンサーじゃない!)
そこは、心配だから一緒についていく、と言うべきだ。委員長でリーダーの北斗ならそれを言える。
購買は戦場だ。あんずはその激しさを知らない転校生なのだから、その世話役である北斗は一緒に行って、守ってあげるべきだろう。
それに彼女のことが気になるのなら――これは真の想像だが――、あんずをひとりで行かせるべきではない。
学内には、プロデューサーとしてだったり、彼女自身にだったりはあるが、あんずに興味を持っている輩がたくさんいる。彼女がひとりでふらふら歩いていたら、そんな輩たちが、これ幸いと声をかけてくるだろう。その魔の手からも守るべきだ。
(同じクラスなのはものすごいアドバンテージで、氷鷹くんがクラス委員長で、Trickstarでもあるから、僕みたいのがあんずちゃんのそばにいられるんだよね)
これで、全ての要素がなかったら、真は、あんずと知り合いでもなかっただろう。
別のクラスだったらまず話しかけられないし、同じクラスでも北斗が委員長でなかったら、あんずは別の生徒に預けられていたはずだから、やっぱり真は話しかけるきっかけを掴めなかっただろう。真がTrickstarのメンバーでなくてもまた、別世界の人だったはずだ。
(途方もなくラッキーなんだよね)
そういったもろもろが重なって、幸運なことに、真はあんずと仲良くさせてもらっている。
きっと、自分のラッキーポイントは、そこで使い果たしてしまっているだろう。
この先、ラッキーは見込めない。だから、自分の力でどうにかしなければいけない。
あんずと他の男が仲良くなるのが嫌ならば、告白をして彼氏になり、その権利を手に入れるべきだ。しかし、今告白するのは唐突すぎるし、あまりにも玉砕が明らかだから、彼女を好きな者として、他の男のチャンスを潰すべきだろう。つまり、そう、購買まで一緒に行くのだ。
(お、男を見せろ! 遊木真!)
自分に檄を飛ばして、真は勢いよく立ち上がる。
「あんずちゃん! って、あ、あれ? あんずちゃん?」
購買への同行を申し出ようとしたのに、あんずの姿は忽然と消えていた。
びっくりした拍子にずれた眼鏡を直して周りを見ても、あんずは見当たらない。
「どうしたの、ウッキ~。あんずなら、ウッキ~がうんうん唸ってる間に行っちゃったよ?」
すでに弁当を食べ始めているスバルが、口をもぐもぐさせながら言う。
「えっ。ええー」
あまりに残念な展開に、真は、体中に入っていた力が抜けて、へなへなと椅子に腰を落とした。
「ウッキ~も追加のパン買いに行きたかったの?」
スバルの言葉に、そうか、と真は今さら気づく。
(ああ……僕のバカ……)
もうひとつ、パンを追加したいと言えばよかったのだ。なんて自然な同行の理由だろう。
しかし、それに気づいたからといって、今から追いかけるのは間が抜けているし、それをする勇気もない。
(意気地なしめ)
自分で自分を責めて、真はそれに落ち込んだ。
そして、あんずが購買に行って、10分が経って、20分が経った。
案の定、あんずは戻ってきていない。
いくら激混みの購買でも、これほど時間がかかることはないから、誰かに掴まっているのだろうという疑いは、時間を追うごとに濃くなって、25分が経とうとしている今、確信に変わっていた。
あんずは、誰かに声をかけられて、お昼を一緒に過ごしているに違いない。
(うう、不自然でも追いかければよかった)
後悔を抱きながら、空いている席を見て、ひとつも着信のないスマートフォンを見る。
せめて、あんずから連絡があったらとスバルや北斗のスマートフォンの様子も窺っているが、ふたりのものも沈黙していた。
あんずは、もし他の人に昼を誘われて、それを受けることにしたら、連絡をくれる子だ。その隙を与えない相手といるのか、その連絡も忘れるほどに楽しい時間を過ごしているのか――。
真はスマートフォンを裏返してため息をつく。
目の前には、メロンパンとサンドウィッチが手つかずで残っていた。食べていてと言われたのに、あんずを待っていた結果、食べられずにいたものたちだ。
あんずが戻ってこないことで、食欲も失せていったので、ひもじくはなかったが、切ない。胸がいっぱいだ。
「あんず戻ってこないなー」
すでに弁当を完食して寛いでいたスバルが、スマートフォンをいじりながら言う。
「そ、そそうだよね! 遅いよね!」
あんずが購買に行って10分経った辺りから気になって、口にするのを我慢していた、待望の話題を振られて、真は勢いよく食いついた。それから、前のめりすぎただろうかと慌て、取り繕って椅子に深く座り直す。
しかし、北斗もスバルも、真の過剰な反応を気にした様子はなかった。
「ああ、確かにな」
北斗も自分のスマートフォンを一瞥する。あんずからの連絡はないらしい。
(さ、探しに行くって言ったら、変に思われるかな。それよりもまずラインかな)
真は、ちらとふたりを見て、そわそわとする。
「氷鷹」
そのとき、教師が教室の入り口から北斗を呼んだ。
「はい」
「次の授業、講堂に変わったから、みんなに伝えておいてくれ」
北斗が立ち上がると、教師はそう告げて行ってしまう。
「!」
次の授業は、この教室の予定だった。講堂までは移動に時間がかかる。あんずが、教室だと思って昼休みを過ごしていたら遅刻するだろう。
つまり、あんずへの連絡が必要だ。
と思った瞬間、スバルが、
「あんずにラインするね」
とスマートフォンをいじりだした。
(明星くんすばやい……)
瞬発力の差を恨めしく思って見ていると、スバルが手を止めた瞬間、すぐ近くで覚えのある振動があった。
「ん?」
北斗が隣の席に目を向ける。
「あんずのだ」
そして、椅子の上に置いてある、あんずのバッグの外側についているポケットに、彼女のスマートフォンが入っているのを見つけた。
連絡できないわけだと、真は少しだけ心が軽くなる。
連絡ができないほど強引な真似をされている、もしくは、連絡を忘れるほど楽しい時間を過ごしている、の二択ではなくなった。
そして、今度こそ立ち上がった。
「ぼ、僕、あんずちゃん探してくる」
「俺も行こう」
「俺も俺も」
真に続いて、北斗もスバルも立ち上がる。
真はほっとした。ひとりでも行くつもりでいたが、2人も来てくれると心強い。あんずが他の男子生徒と仲良く話しているところに出くわして、割って入っていける自信があまりなかった。
北斗が副委員長にクラスへの周知を任せると、3人で教室を出る。
「お、よう。どうした3人揃ってぞろぞろと。サッカーでもやるのか?」
まずは購買に向かおうと、階段を下りて一階に行くと、Trickstarのメンバーのひとり、衣更真緒と鉢合わせた。
「サリ~! あんず見なかった?」
スバルが真緒に答えずに、逆に聞く。
「あんず? ああ、さっき1年と一緒にいたな」
会話の受け答えが成立しないことに慣れている真緒は、気分を害した様子もなく、あっさりとスバルに答えた。
「えっ」
「誰?」
「どこだ?」
初っ端から有力な情報にぶつかって、三人は真緒に詰め寄る。
その勢いに気圧されて、真緒は一歩下がった。
「な、なんだよ、お前ら」
「いいから。誰? それにどこにいたの?」
そんな真緒の袖をくいくいと引っ張り、スバルが尋ねる。
「1年の高峯。なんか深刻そうな顔で中庭に連れられてってた」
真緒の目撃情報に、真は血の気が引いた。
深刻な顔に、人気の少ない中庭から導き出される可能性はひとつだ。
(し、深刻!? それって、まさかまさか告白……!)
くらりと眩暈がした。
それは、何より恐れていたことだった。
あんずと高峯がどの程度親しいのか知らないが、告白という特別なステップを踏んだら、親密度は跳ねあがるだろう。
今、あんずにその気はなくても、まずはお友だちからとか言って、デートをしちゃうかもしれない、昼休みも登下校も一緒になって、そしてますます仲良くなって、ついには付き合うなんてことに――とそこまで妄想して、真は頭をぶんぶんと振った。
(ま、まだ告白って決まったわけじゃないんだからよそう)
まずはあんずを見つけることが一番だ。
「中庭だね! 行こう! ホッケ~、ウッキ~!」
「うん!」
「ああ」
中庭目指して駆け出すスバルに、真と北斗も走ってついていく。
「お、おい、廊下は走るなって!」
廊下を全力疾走する3人に、生徒会役員でもある真緒は注意するが、彼らが聞くはずもない。
みるみる小さくなっていく3人の背中を見つめ、真緒は唇を歪めた。
気にするな、絶対厄介事だ、と真緒の頭の中で、警鐘が鳴り響いている。
「って――ああ、くそっ」
しかし、放っておけばいいのに放っておけない性分の真緒は、結局、三人のあとを追いかけたのだった。


***


その20分ほど前、教室を出て、購買に着いたあんずは、呆然としていた。
そこは戦場だった。パン台に群がる生徒たち、荒々しく掴みとられていくパンたち――男子生徒も女子生徒も関係なく、押し合いへし合いですごい熱気だ。
完全になめていた、コンビニの気分だった、と立ち尽くしていると、
「あれ、先輩」
と、声をかけられた。
「高峯君」
振り返ると、そこには背の高い1年生、高峯翠がいた。
「ひとりですか?」
「うん、そうだよ」
翠は、あんずの周りをきょろきょろと見ている。
翠は不思議そうだが、あんずには何がおかしいのかわからず首を傾げた。
「珍しいっすね、先輩がひとりでいるなんて」
「そうかな?」
「うん、いつもクラスの人たちと一緒でしょ。怖い人に絡まれてブルーだったけど、ひとりの先輩って珍しいから、ちょっとラッキーかも」
翠は力なく笑った。全く元気のない顔だ。いつものことながら、絡まれて、彼の心は折れてしまったのかもしれない。きっと1秒でも早く家に帰りたいと思っているのだろう。
それなのに、自分と会ってラッキーかもと笑ってくれる気持ちが、あんずは嬉しかった。
「じゃあ、今日はラッキーな日ということで、ここで私に会ったラッキーな高峯君の望みをひとつ叶えてあげます。わー、高峯くん、ラッキー!」
もっと翠の気分を上げてあげたくて、あんずはぱちぱちと手を叩く。
翠は意表をつかれたように目を瞬いたが、すぐに嬉しそうに笑った。
その笑顔は疲れたところはどこにもなくて、あんずも嬉しくなる。
「本当に? なんでも?」
「私にできることなら」
「じゃあ、こっち来て」
「え?」
パンを一個おごる程度のことを想定していたあんずは、翠に腕を取られて引っ張って行かれて、びっくりした。
もしかしたら時間がかかることになるかもしれないと思い、北斗たちに遅くなると伝えようとスマートフォンを探して、持ってきていないことに気づく。
(わ、しまった。ごめんなさい)
いったん教室に戻って、みんなに話にいけるような雰囲気でもない。翠はあんずの腕をしっかり掴んでるし、その足はずんずん迷いなく進んでいる。
先に食べていてと言ってはあるので待ってはいないだろうが、連絡しないで遅くなることは申し訳なく、あんずは心の中で謝った。
そうして、翠に連れていかれたのは、中庭だった。
人のいない隅っこまできて、ベンチに並んで座る。
こんなところまで来てすることに、あんずは全く見当がつかない。
「あの、じゃあ、お願いします」
翠はなぜか少し赤らんだ顔で、ぺこりと頭を下げる。
「う、うん。それで、何をすれば――!」
いいのか、と聞き終える前に、翠は答えを行動で伝えた。
翠は体を折り曲げて上半身を横たえると、あんずの膝に頭をのせたのだ。
「た、高峯くん!?」
これはいわゆる膝枕では、とあんずが焦って立ち上がろうとすると、翠の恨めしげな目とぶつかった。
「ラッキーな日にしてくれるんじゃなかったんですか」
その一言に、浮きかけた腰が元に戻る。
確かに、翠の望みをひとつ叶えてあげると言ったのは、あんずだ。これが、翠の願いなら受け入れるべきなのだろう。
「えーと……」
しかし、膝枕など初めての経験で、頭は大混乱していた。
こんなことを望まれるなんて思いもしなかったのだ。
他人の頭が、しかも男の子の頭が、自分の太ももの上にあるのは、非常に恥ずかしい。けれど、耐えられないかと言われたら、がんばればそうでもなさそうだった。
人気のない場所なので、誰かに見られる心配もない。障害は自分の羞恥心だけだ。
「あの、こんなことでラッキーなの?」
あんずはどうしてもわからなくて聞いてみた。
おいしいものを食べるとか宿題を肩代わりしてもらうとかの方がラッキーではないだろうかと思うのだ。
あんずもこれほど恥ずかしいのだから、頭を乗せている翠も恥ずかしいのではないだろうかとも思う。逆の立場を想像したら、やっぱり顔が火照るほど恥ずかしい。
「ラッキーですよ。先輩に膝枕してもらえるなんて、俺が不幸じゃなかったら有り得ないから。自慢してまわりたいくらい。……自慢したらまた絡まれるからしないけど」
しかし、翠は恥ずかしそうなそぶりは少しもなく、こくりと頷いた。
「そ、そう……」
自慢云々も含めてあんずにはさっぱりわからないが、翠本人がラッキーだと言うのだから、そうなのだろう。
違うことへの転換は難しそうだ。
(仕方ない……)
この昼休みの間、あんずが恥ずかしさに耐えたら、翠は、今日はいい日だと思ってくれるのだ。教室に戻る時間を考えて、昼休みの残りはあと20分くらいだろう。その間の我慢だ。恥ずかしいが、約束したのだから腹を決めようと、あんずは羞恥心を追いやる努力をする。
そして、これはプロデューサーの課題だと考えてみたらどうだろうと思いついた。
アイドルが気分を損ねたり、拗ねたりしていたら、プロデューサーとして、その気持ちを和ませなくてはならないだろう。
それに、アイドルはやはり幸福感があるといい。それは、ファンにも伝わるし、アイドルから幸福感をもらえたら、ファンはますますアイドルを好きになるはずだ。
アイドル自身も、たくさん大変なことがあっても、心の状態を保っていられればいいパフォーマンスができる。
翠は後ろ向きに考えがちだから、小さなことでも幸福だと思うように感度を上げていければいい。
ゆるキャラ好きであるように、小さいマスコットを好ましく思うようだから、自分より小さなあんずに甘えることは、幸福度が高いことなのかもしれない。
アイドルひとりひとりに合わせた、気分の上げ方を考えるべきだ。
(たとえば、Trickstarのメンバーだったら――)
恥ずかしさを紛らわせるために、わざとこの「課題」を堅苦しく真面目に考えていたのだが、そのうちにあんずは夢中になっていた。
「今日いい日だな。……これから悪いことがあったら、先輩のとこに行ってもいい?」
「うん、いいよ」
だから、そんな翠の問いかけは、あんずの耳には届いていたが、頭にまでは届かず、返事も若干上の空だった。
翠はそれに気づいて、むっと顔を上げる。
「先輩ってさ――」
「!?」
翠を意識しないように、頭の中の考えに集中していたあんずは、突然、翠の手が頬に触れて驚いた。
翠に視線を落とすと、じっとあんずを見つめている翠の視線とぶつかる。
その不満そうな顔に、さっきまで幸福感を感じていたはずなのに、どうしたのだろうと疑問を持った。
そのときだった。
「あんず殿!」
ベンチの後ろの生垣から、突然、人が飛び出してきた。
「わあっ!」
あんずは心底驚いて、体を震わせる。
目の前には、翠と同じ一年生の自称忍者、仙石忍がいた。
頭や肩に葉っぱがついているから、生垣から飛び出してきたのは、彼に間違いない。
「あんず殿、いいところで会えたでござるよ!」
忍は嬉しそうに目をきらきらと輝かせている。
ここで会えたことを喜んでくれているようだがしかし、あんずの膝の上の翠をまるっきり無視しているし、生垣の中から出てきて、偶然ここで会いました、といった顔をしているし、その諸々の完全なスルーっぷりに、あんずは大いに戸惑った。
(え、忍者だから? 忍者だから!?)
忍者だから膝枕にも動揺しないのだろうかそれとも見えないのだろうかと、滅茶苦茶な思考まで浮かんでくる。
「あんず殿に召しあがっていただきたくて、秘蔵の甘い梅干しを持ってきたでござるよ~!」
しかも、忍は、あんずの戸惑いをよそに、話を進めていく。
梅干しの話は以前にした。そのときもらった梅干しはとても酸っぱくて、顔を顰めてしまったら、別の甘めの梅干しを持ってきてくれると言われたのだ。
その話はいいのだが、それよりも、やっぱり忍には突っ込んでもらいたい。
(この状況はおかしいでしょう!)
膝枕を指摘されないことに理不尽に怒りを抱いて、あんずは忍を睨むように見据える。それに、忍が現われても、起き上がろうとしない翠の背中も叩いた。
「仙石くん――」
「はい、あーん」
「えっ?」
とにかく膝枕を無視している状況を解消するため、恥ずかしさを堪えて自ら申告しようとしたあんずの前に、忍が梅干しを差し出す。
「あーんでござるよ?」
忍はとてもいい笑顔で、あんずに口を開くように促した。
「い、いい。もらうにしても、自分で食べるから。それよりも――」
「あんず殿は、翠くんには膝枕をしてあげるのに、拙者のあーんは駄目なのでござるか?」
あんずが固辞すると、忍はしゅんと肩を落とした。
(き、気づいてたのー!? って当たり前か。でも、じゃあなんでスルーしてたの……?)
完全な無視っぷりに、本当に気づいていないのでは、と少し疑い始めていたのだが、さすがにそれはなかったらしい。
しかし、となると、どうして何も触れなかったのだろうと疑問だった。
「た、高峯くん、起きて」
だが、それよりもまず、膝枕の中止だ。忍が気づいているのであれば、こそこそ合図を送る必要もない。あんずは、翠の体をゆさゆさと揺らした。
しかし、翠の反応は、あんずの予想外のものだった。
「えーなんでですか」
「な、なんでって、仙石くんの前だよ? 恥ずかしいでしょ」
不満たらたらといった様子で抵抗する翠に、あんずはびっくりする。
通りすがりの見知らぬ人ならまだしも、同学年の同じユニットのメンバーに膝枕をしているところを見られるのは恥ずかしいはずだ。
そう思ったのに、翠は、
「……俺は恥ずかしくないっす」
と言って、顔を伏せてしまった。
起きるつもりはないという意思表示に、あんずは唖然とする。
「うう、うらやましいでござる」
そのうえ、あんずの驚きに拍車をかけるように、忍もぽつりと呟いた。
「う、うらやましいの? 仙石くんだったら、忍術の修行の方が嬉しいんじゃない?」
「に、忍術の修行!?」
忍は1オクターブくらい高い声を上げた。
ものすごくわかりやすく嬉しそうだ。
やはり、忍には、忍者関係がいちばんだろう。
「そうだよね。仙石くんは、膝枕より忍術だよね」
「あんず殿、それはいったいどういうことでござるか?」
あんずがほっとして呟いたことに、忍は首を傾げた。
「膝枕と忍術の修行、どっちかをしてあげるって言ったら、仙石くんは忍術だよねっていう話だよ」
「そ、それは、あんず殿がしてくださるということでござるか?」
「うん」
「!」
忍は息を飲み、口を手の甲で押さえた。
(ん?)
忍の反応に、あんずの胸がざわつく。
忍はちらちらと翠を見て、そしてほんのりと頬を赤く染めた。
「そ、それなら、拙者……あんず殿に膝枕してもらいたいでござる」
「ええっ!?」
あんずはびっくりして、思わず大きな声を上げた。
(ひ、膝枕強すぎ……!)
忍者がアイデンティティの忍にまで選ばれるとは思わなかった。
それぞれの趣味嗜好に合わせた方法を採るべきだと考えたが、みんな一律女性に膝枕してもらえばいいということだろうか。
レコーディングのときやダンスレッスンのときは、常に膝枕係の女性を配備しておけば、気分が乗らないから歌えないとか踊りたくないと駄々を捏ねるアイドルたちの気分を上げることができるということだろうか。
(…………)
自分で設定した課題の思いがけない結論に、あんずは顔を強張らせた。
この結論が正しいのならば、たとえば、Trickstarの面々も、女の子の膝枕に喜ぶということになる。
(うーん……)
しかし、あの4人では、スバル以外、喜んで寛いでいる様がうまく想像できなかった。
北斗はおばあちゃんなら喜びそうだが、真緒はがちがちに緊張しそうだし、真はそもそも女の子とふたりっきりという状況が無理なはずだ。
けれど、翠と忍だって、彼らの口から聞くまでは、こんなことを喜ぶなんて思わなかったから、あんずの印象などあてにならないのだろう。
つまりは、真たちも喜ぶ可能性は極めて高いわけで、プロデューサーとしては、彼らのパフォーマンスを上げるために最善を尽くさなければいけないわけで――。
(私が用意した女の子に膝枕されて喜んでる真くんたちを見ることになるんだ……)
なかなか破廉恥な想像と心に浮かんだ言葉のえげつなさに、あんずはますます顔を強張らせる。
あまりそういったことはしたくないし、そんな様も見たくないと思った。
「あんず殿? どうしたでござるか?」
色々と想像してしまって暗い気持ちになったあんずを、忍が心配そうに覗き込んでくる。
「あ、ご、ごめんね。なんでもないよ」
あんずは、慌てて顔を上げた。
こればかりは聞いてみなくてはわからないだろうと、妄想を振り払った頭で思う。
まだサンプルは2だ。それがたまたま2/2だったのか、サンプル数が増えていっても、100%のままなのかは検証する必要がある。
「あんず殿、やはりこの秘蔵の梅干しを召し上がってくだされ! この梅干しはおいしいでござるよ! ささ、あんず殿、あーん」
忍は、再び梅干しをあんずに差し出してきた。
いつもより明るいトーンの声は、あんずを気遣ってくれているからだろう。
目の前の梅干しを見つめながら、忍の優しい気持ちに、それくらいはいいかと思う。
「あーん」
忍に促されるまま、あんずはおずおずと口を開けた。
そこに梅干しが迫ってくると、甘い梅干しだと言われているものの、すっぱさが蘇って、あんずは思わず目を閉じる。
「あ、あんずちゃん!」
そのとき、突如、その場に悲鳴のような声が響いた。
あんずはぱちっと目を開ける。
「真くん――に、スバルくんに、北斗くん、真緒くん? みんな揃ってどうしたの」
血相を変えたTrickstarのメンバーが駆け込んでくるのを見て、あんずは目を瞬かせた。
真が泣きそうに見えるがどうしたのだろう。何かあったのだろうかと心配になる。
「あんずー!! 俺って男がいながらなにしてんの! 浮気? 浮気?」
「え? 浮気?」
真を追い越していちばんにあんずのもとに到達したスバルが、あんずにぎゅうぎゅうと抱きついた。
いつもながらスバルの言動はトリッキーだ。
(トリックスターだけに。――って、私も真くんみたいになってる……)
よくわからないことを言われるのにも、頻繁なスキンシップにも、こんなことを思っていられるくらい、あんずは最近慣れつつある。
しかし、次に続いたスバルの言葉には、あんずも目を剥いた。
「今、ちゅーしようとしてたでしょ! しかも膝枕してるし! ずるいー。俺もして?」
「ちゅ……!? し、してないよ!」
事実無根の誤解を力いっぱい否定しながら、スバルたちのいたところから見たら、そう見えたのかと、顔が熱くなる。
もしかして、真が暗い顔をしているのも、その勘違いのせいだろうかと、真を窺うと目を逸らされてしまった。
(う……)
つきんと胸が痛む。
「あ、あのね――」
あんずは慌てて説明しようとする。
これにはすべて事情があるし、忍とキスをしようとしていたわけではない。
「うわっ」
「?」
それをきちんと話そうとしたら、突然、抱きついていたスバルが悲鳴を上げて離れていったので、あんずはそちらに気を取られた。
「お前はどさくさに紛れて抱きつくなっての」
真緒がスバルの襟首を掴んで、あんずから引き剥がしたのだ。
「ほら、1年も離れろ、離れろ」
ついで、真緒は翠と忍もあんずの側から追い立てる。
ようやく翠の重さが消えて、あんずはほっとした。
「あんず」
そのあんずの腕を取り、北斗がベンチから立たせ、自分の背中に庇う。
「合意なのに……」
翠が不満そうにぼそりと呟いた。
翠にしてみたら、あんずの提案のもと、一緒に過ごしていたのに、忍に邪魔された挙げ句、あんずを取られてしまったのだ。やっぱりついていない日だとがっかりもする。
「ご、ごごご合意!? あんずちゃん、高峯くんと……?」
真は、ここに来るまでに膨らませていた妄想が爆発して、翠の告白が成功して、ふたりは晴れて恋人同士になったのかと、顔面を蒼白にさせた。
「ちょっと落ち着け」
恐慌状態の真にチョップしてから、真緒はあんずを見る。
「あー色々突っ込みたいことがあるんだけど、とりあえず、今の状況をいちから説明してくれ、あんず」
真緒に指名されて、あんずは全員の視線を集めた。
「う、うん」
大勢の目に少々怯んだが、あんずは頷いて経緯を話し始める。
購買前で翠と会ったこと、いつも憂鬱そうな翠を励ましたかったこと、突然忍が現れたこと、梅干しをもらおうとしていたこと――。
順を追って話しながら、ちらちらと真を見たが、真の硬い顔はいつまでも崩れなかった。
そのことに、あんずは、思いのほか、心が重くなる。
説明をしたところで、真の印象はよくないのだろう。
見られないから大丈夫、ということは、誰かに見られたらよろしくないことだというわけで、そういうことはやはりしてはいけないのだと、今さらながら思った。
「――というわけなんです」
「わかった」
あんずが話し終えると、真緒はため息とともに頷いた。
「高峯、お前下心丸出しすぎるし、あんずもまともに受けるな」
そして、翠とあんずそれぞれにチョップをする。
その呆れた目に、あんずは身を小さくした。
「ごめんなさい」
「……すみません」
あんずが謝ると、翠も小さく真緒に頭を下げた。
「仙谷も、忍術はほどほどにしろよ。副会長に見つかったら1時間は説教されるぞ」
「わ、わかったでござる。見つからないようにするでござる」
「わかってねーな」
注意しても、忍術を自重する方向にはいかない忍に、真緒は顔を顰めたが、次は説教好きの副会長に任せようと、それ以上言うことはしなかった。
「じゃあ、はい、1年は解散」
真緒は、翠と忍の肩を押す。
「……はい」
「はい。失礼するでござる」
ふたりは少し不満そうだったが、素直に従って、そこから立ち去った。
ふたりがいなくなると、真緒は、はー、ともう一度、息を吐く。
その深い呆れをはらんだため息に、あんずはさらに身を小さくした。
「ていうか、あんず、軽率すぎるだろ」
「ごめんなさい。こんなことになるとは思わなくて……。パン1個おごるとか、宿題いっしょにやるとか、そういうことを思ってたんだけど、高峯くんのゆるキャラ好きを甘くみてました」
「ゆるキャラ?」
「高峯くん、ゆるキャラが好きで、ぬいぐるみとかグッズも好きなんだけど、私もゆるキャラみたいに見えるらしくて。ゆるキャラカウントであんなこと言ったんだと思う。ほら、きぐるみって抱きつきたくなるでしょ?」
「あー……そこからかー」
真緒はぽりぽりと頬を掻いた。
そこからがどこからかわからず、あんずは首を傾げる。
「どういうこと?」
「あ、あんずちゃんはゆるキャラなんかじゃない!」
しかし、あんずの問いかけは、突如として、真緒を押しのけて前に出てきた真によって、吹き飛ばされた。
真は、あんずの手を取って、ぐっと力を込め、強く主張している。
「お、おう」
それはみんなわかっているけど、どうした真、と言いたいのをぐっと堪えて、真緒は頷いた。
真の顔がとても真剣だったからだ。
「ま、真くん?」
突然手を握りしめられたあんずはドキドキして、真を窺った。
ずっと視線を逸らしていた真が、今はまっすぐにあんずを見つめている。
その目の力に息が詰まった。
それに、真の手はあんずの手がすっぽりおさまるくらい大きいし、握りしめてくる力は振り解けないほど強い。
自分とは違う、男の子なのだと意識してしまって、ひどく恥ずかしかった。
「君は、かわいい女の子なんだ。みんな、君と仲良くなりたいって思ってるし、みんな男だから、ちょっと触りたいって思うし。だから、本当に気をつけて。なんでも望みを叶えてあげるなんて、もう絶対に言っちゃ駄目だ。調子に乗ってもっと変なこと言ってくる奴もいるかもしれない」
真は怖いくらい真剣な顔をしている。
心から心配してくれているのも、軽率なあんずの言動を咎めているのもわかる。
けれど、それよりもなによりも、あんずは、正面きって真面目に、かわいいと言われて、触りたいなどと言われて、もうそれだけでいっぱいいっぱいだった。
「う、うん。ごめんなさい……」
真を見るのも恥ずかしくて、赤くなった顔を下に向ける。
「え……?」
ふと、真があんずの様子に気づいて、きょとんとした。
「ウ、ウッキ~があんず口説いてる!」
ぽかんとしていた他の三人たちの中で、スバルがいちばんに我に返って、はやし立てる。
すると、真も自分が言ったことに気づいて、あんず以上に顔を赤くした。
「えっ、あ、ち、違う! あ、いや、違わなくて、その……」
「ウッキ~、告っちゃえよー!」
「ええ!! な、なななななに言ってるの、明星くん!」
告れ、告れ、と煽るスバルに、真は盛大に動揺して、ぱっとあんずの手を放した。
あんずは解放された手を軽くおさえ、まだドキドキしている胸にあてる。
――真はかわいいと思ってくれているのだろうか、真も、触りたいと思うのだろうか。
真のようにわーわーと喚きたい気分だ。
手が熱い気がする。顔はまだ火照っている。
「小学生は少し黙っとけ」
「ふごっ」
真緒がスバルの口を塞ぐと、真も騒ぐのを止め、辺りは静かになった。
広がる沈黙に、あんずが恐る恐る顔を上げると、真緒と目が合う。
「でもほんと、遊木の言う通り、もっとすごいこと――たとえば、キスさせろとか言われたかもしれないんだぜ? 男ん中に女ひとりなんだから、もっと警戒心持て」
「う、うん、そうだね。ごめんなさい」
真緒はもう一度、釘をさした。
真緒の言うことはもっともで、あんずは自分の軽率さを反省してしょんぼりと肩を落とす。
「で、困ったときは俺たちに頼れよ?」
そのあんずの顔を覗き込んで、真緒はにっこりと笑う。
しっかり怒って、しっかりフォローする。真緒はさすがにいつも周りの人間の面倒を見ているだけあって絶妙だ。
「うん。ありがとう」
あんずも心がほぐれて顔を綻ばせた。
「最低限、電話は持ち歩くこと」
北斗がそう言いながら、あんずの手の上に、あんずのスマートフォンを置いた。
「わ、ありがとう。みんなに連絡しようと思ったんだけど忘れちゃってて」
「じゃあ、戻るぞ。次の授業、講堂になったんだ」
歩き出した北斗に続いて、みんなで校舎に向かう。昼休みはもう残りわずかだ。5人の足は自然と速まった。
「あ、それで、探しに来てくれたの? ありがとう」
「そうそう! お礼は膝枕でいいよ!」
真緒から解放されたスバルがくるりと向きを変え、あんずに抱きつこうとする。
「えっ!? だ、駄目だよ! 明星くん!」
真が飛び上がって、あんずとスバルの間に滑り込んだ。
「ウッキ~、邪魔ー」
「はいはい、お前が邪魔だ」
真緒が、真を躱そうとするスバルの襟首を掴んで引きずる。
「サリ~!」
「お前たち、静かに歩けないのか」
ぎゃあぎゃあと騒ぐスバルたちに、北斗が顔を顰めて注意した。
結果的に、あんずと真は並ぶことになって、気まずい沈黙がふたりの間に広がった。
前を歩く3人の喧騒が遠い。
ふたりとも気になっているのは、さきほどの真の発言で、あんずは、それがとても気になるが突っ込みようがなくて、真はそれについてどう言ったらいいのかわからなくて、黙りこくってしまう。
その沈黙を破ったのは、あんずだった。
「あ、あの、真くん」
「は、はいっ!?」
一気に緊張が高まった真は、声が裏返ってしまった。
かっこ悪い死にたいと真は落ち込むが、言おうとしていたことに気を取られていてあんずは、全く気にしていなかった。
「あの、真くんも、女の子に膝枕してもらいたいって思う?」
あんずは、恐る恐る、例の課題の結論について尋ねる。
真の発言はものすごく気になるが、どう触れたらいいのか結局わからなかったので、諦めた。だから、もうひとつ気になっていることについて聞いてみたのだ。
翠や忍が特別なのか、一般的に男性は膝枕が好きなのか。
あんずは、真の答えが気になった。
「えっ……?」
さきほどの発言について聞かれると思っていた真は、全く予想していなかった質問に、固まった。
女の子に膝枕をしてもらいたいか――その質問の意図はなんだろう、どう答えればあんずの気に入るのだろう、と真の頭はめまぐるしく回転を始める。
女の子に膝枕をしてもらいたいかもらいたくないかでいったら、それはもちろん、ものすごく興味があるから、自分はしてもらいたい派だと思うけれど、それをそのまま告げたら、ただの女の子好きみたいで、あんずの質問の意図がわからないまま――頷いてもいいかどうかの温度感がわからないまま――答えるのは危険だし、そもそも誰でもいいわけではなくて、あんずがいいという前提の話なので、あんず以外の女の子に膝枕をしてもらいたいとは思わないと言ったら、それはもうほとんど告白といっていいようなものでそんなことはできなくて、それならば、いっそのこと膝枕には興味がないと言ってしまえば、硬派でかっこいいと思われるだろうかとも思うが、もしかしたら、このふりから、あんずに膝枕をしてもらえることに発展するかもしれないから、簡単にそちらに舵もきれないし、膝枕になど興味がないと言い切れるくらいなら、男子高校生をやってはいないわけで、つまり。
「べ、ベスアンがわからないよ~~!!」
たくさんの分岐と結末に真の頭はパンクして、そこから走って逃げ出すという結論を出した。
「真くん!?」
突然走り去った真にびっくりして、あんずは呆然と見送る。
「おいおい。ちょっとは1年見習えよ」
スバルたちとじゃれあいながらも、後ろの様子を気にしていた真緒は、大きくため息をついた。
しかし、今回ばかりは首を突っ込んでよかったな、としみじみ思う。
真緒が一緒に来なかったら、膝枕の現場は収拾つかなかっただろう。悲惨な結果になったに違いない。
ああいうときに北斗はあまり役に立たないし、スバルは論外だし、真はアレだ――すでにその姿は消えている――。
真が走り去った方角を見て、真緒はもう一度ため息をついた。
あんずを見れば、気に障ったことを言ってしまったのだろうかと心配そうだった。
「あんず、気にすんな。男には色々あるんだよ」
真緒はひとまずフォローを入れながら、ユニットの練習のときもぎくしゃくするんだろうなと想像して、どうするかなと頭を掻いた。


おわり

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