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Category: こばなし

混乱

 戻りたい、と言う不安げな、頼りない声。
 これはどういうことだろう。
 頭は混乱しているのに、それでも、彼女に必要なものに導くために口は勝手に動く。
 彼女の姿はあのときのままだ。いや、少し幼くも見える。不安がそのまま顔に表れている。素直なのだ。
 10年前と変わらず。
 いや、と、何の証も得ていないのに、目の前の少女が「彼女」であると考える己に首を振る。
 彼女は「彼女」なのだろうか。
 それは分からない。けれど、分かってしまう。
 この少女は、「彼女」だ。

 花。

 ボクは君と出会って、君はボクと出会って。

「師匠」
 と、彼女の声が聞こえる。
 その柔らかな声音に、幼いながらも軽く嫉妬を覚えたものだ。
 彼女は、自分を導いてくれたという師匠を、とても尊敬していた。
 どくん、と心臓が大きく脈打つ。
 師匠とは誰のことだ。
 まさか。
 いや。

 彼女は、今、ここに現れた。

 あのときのように、突如として。
 そして、あのときと同じように消えるのだろう。


 ああ、天よ。
 ボクが彼女の師だなんて、残酷すぎやしまいか。


 花。



 心が爆ぜてしまいそうだ。

遠雷

 遠くで、空が轟いた。一瞬、閃く稲妻。雷だ。
 花は体を強張らせた。
 雷は苦手だった。
 できれば遠くに行ってほしかったが、音はどんどん近づいてくる。
 あちらの世界にいたときは、家族の誰かにくっついて、雷が過ぎるのを待った。でも、今は、そんなことをできる相手はいない。一人ぼっちで船に揺られている。
 花は、せめてもと寝台の上で膝を抱えて、シーツを頭から被った。
「花?」
 そのとき、灯が室内に差し込まれ、孔明が顔を覗かせた。
 花は、はっと顔を上げる。
「し、しょう……」
 びっくりした。誰かに来てほしいと願ったら来てくれた。偶然だろうが、絶妙なタイミングだった。
「どうしたの? 膝を抱えて」
 孔明は中に入ってくると、灯を卓の上に置いて、花の隣に座った。寝台が軋む。
「雷、苦手?」
「…………はい……」
 的確な質問に、花は素直に頷いた。
「そっか」
 孔明はそう頷くと、シーツごと花の体を抱き寄せる。
「!」
 花はますますびっくりした。
 玄徳なら分かる。雲長や翼徳もたぶんここまでは驚かない。けれど、孔明は、触れることを好まないような気がしていた。
 だから、躊躇いもせず抱きしめられて、花は大いに驚いた。
 孔明は、シーツの上から花の耳を塞いでくれる。
 雷の音が聞こえなくなった。その代わりに、孔明の心臓の音が聞こえてくる。
 とくん、とくんと規則正しい心臓の音。
 なぜか、とても落ち着いた。
「雷、やっぱり苦手なんだ」
 微かに聞こえた孔明の呟きに違和感を覚えて、花は身を捩る。
「師匠?」
「ん?」
 シーツの中から、孔明を見ると、孔明はいつになく優しい眼差しで応じてくれた。
 その瞳に、花は一瞬見とれた。尋ねようと思ったことが消えてしまう。
「……あの……なんでもないです」
 花はゆるく首を振って、再び孔明の胸に顔を押しつけた。
「うん」
 孔明も小さく頷いて、それ以上は訊いてこない。
 雷は遠く、響いていた。

猫100匹

 

「なるほど」
「はい…………」
 書庫の中には、心から納得したように頷く玄徳と、彼の前で項垂れるように頭を縦に振る花がいた。
「ほんと、すみません」
 花は深く深く頭を下げる。
「いや、大丈夫だ」
 そんな花に、玄徳は優しく
 その手がいつものようにぽんぽんと花の頭を撫でる。
 花はほっとしたようにわずかに笑顔を見せた。
「何の話かお伺いしてもよろしいですか?」
 温かな雰囲気に包まれた書庫に、ひとつの細い影が伸びた。
「孔明」
「師匠」
 玄徳と花は同時に振り返って、気まずそうに声を上げる。やましいことは何もしていないのに、落ち着かない気持ちになるのはなぜだろう。
 孔明から発せられる異様なぴりっとした空気に、玄徳ですら緊張した。花はすでに固まっている。
 と、玄徳は、孔明の視線が集中しているのが己の手だと気づいた。
「あっ、と、すまん」
 慌てて花から手を外す。
「あ、いや、大した話じゃないんだ」
 孔明が不機嫌なのだと気づいた玄徳は、すぐに孔明の疑惑を払拭しようとするが、言葉の選択を誤った。
「その大した話ではない話を聞きたいのですが……」
 孔明の笑顔がいっそう晴れやかなものになる。
 はじめて触れる孔明の不穏な空気に、玄徳の頭は完全に停止してしまった。
「あ、わ、私がいけないんです!」
 このままでは玄徳が死んでしまうと花は急いで二人の間に割って入る。孔明の瞳が説明を求めて花に移った。その瞳だけ笑っていない笑顔をまともに見て、花はごくりと唾を飲む。だが、ここできちんとした説明をしなければ玄徳の二の舞だ。
「玄徳さんから借りた本を間違えて子龍さんに貸してしまって、たまたまその本を探していた雲長さんに子龍さんが渡したら、翼徳さんが部屋から持っていって、そのあと書庫に入れておいたって言うんですけど……」
 まるで作り話のような本当の話だった。勘違いなどが重なって、結局行方知れずになってしまったのだ。
「どこにいったか分からなくなったてこと?」
 その話を一応信じたのか、孔明は疑うような言葉は吐かずに聞いた。
「はい」
 花は肩を落として頷く。玄徳から借りた本と自分の本の装丁が似ていて、間違えて渡してしまった花のミスから始まったことだ。
 玄徳は笑って許してくれているが申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「うーん。もしかして、これ?」
 孔明はまっすぐ奥の書棚に向かっていくと、迷いもせず一冊の本を抜き出した。
 それはまさに、花が探していた本だった。
「こ、これです! どうして師匠、知ってるんですか!?」
 その本に飛びついて、花は目を丸くする。
 孔明には本のタイトルもどんな本かも説明していない。それに、花は一人で半日ほど、玄徳と一緒に小一時間ほど探しても見つけられずにいた。
 まるで魔法のようだ。
「この間から見たことのない本があるなと思ってたんだよね。玄徳様の本でしたか」
 孔明はすっきりした顔で、玄徳に本を渡す。
 しかし、花はますます驚いた。
「見たことのない本って……この書庫の本、どこに何があるか把握しているんですか?」
「もちろん。雲長殿らしく、きちんと整理された書庫で助かるよ」
 孔明はなんでもないことのように言うが、この書庫はとても立派で、花の高校の図書室より広かった。中は、図書室のように規則正しく本棚が並び、壁も扉以外はすべて書棚になっている。蔵書は竹簡も含めて数え切れないほどだ。
 その蔵書を位置まですべて把握し、増減が分かるなど、普通のことではない。
 やっぱり師匠は頭がいいんだ、と花は感服した。
「それではもう用は済みましたね」
「あ、ああ」
 孔明は二人の背を押すようにして、書庫から外に出て、扉をきっちりと閉める。
「花、頼みたいことがあるから、あとで執務室に来て。ボクはちょっと寄るところがあるから先に行くけど……」
 孔明はそこで言葉を区切って、ちらりと玄徳を見る。
「必ず来るように」
 それからまた花に視線を戻してそう言った。あの一瞥は、一瞬だったが、玄徳には十分すぎるほど言いたいことが伝わった。
「……はい」
 花に拒否権はなかった。
 孔明が去ると、二人は同時に大きく息を吐いた。
「…………あいつ、猫かぶってたんだな」
 玄徳がぽつりと呟く。
「はい。師匠は猫をたくさん引き連れてるんです」
「ああ……なるほど」
 二人の脳裏には、無数の猫を指揮する孔明の姿が浮かんでいた。

距離について

「師匠って孟徳さんに似てますね」
 間近にある孔明の顔を見つめていた花は、頭に浮かんだことをそのまま口にした。
「はぁ?」
 その途端、孔明の眉が大きく上がる。
「どこが? 何が? ボクのどこを見て、そんなこと言うの?」
 孔明の様子に、花はまずいことを言ったと気づいた。
 孔明が、孟徳に対して、特別悪い感情を持っているようには見えなかったが、「似ている」と言われるのはあまりいい気持ちはしないらしい。
 考えてみたら、孔明と孟徳はどこにも共通点はない。孔明は黒髪で、孟徳は赤髪。孔明は猫目だけども、孟徳は垂れ目だ。いや、そんな外見的特徴だけでなく、生まれも考え方も趣味嗜好も全く違う。花は、二人をひとつひとつ照らし合わせて、首を傾げた。
 そんな二人を捕まえて、「似ている」と言ってしまったのはどうしてだろう。
 ふと、目が、近くにある孔明の顔を捉える。
 ああ、そうか、と花は気づいた。
「いえ、あの、人との距離が近いところとか」 
「人との距離?」
 孔明は思いがけないことだったらしく、語尾を上げて、眉を寄せた。そして、自分たちの距離を見直す。
 ぴったりとくっついた体。間近にある顔。
 孔明は、口の端をひきつらせた。
「……曹孟徳にもこんなことをされたってこと?」
 不機嫌さを露に、孔明が言う。
「えっ?」
 指摘されて、花は自らの体勢を顧みた。
 孔明が、花に意識させるように、花の腰に回した手に力を込める。
 「こんなこと」が抱擁を指していると察して、花は慌てて首を横に振った。
「い、いいえ!」
「じゃあ、どうして曹孟徳が人との距離が近いって知ってるの?」
「それは……あの……その……」
 孔明の不機嫌さが恐ろしくて、花は頭の中が真っ白になる。そのとき、手が膝の上のものに触れた。一筋の光明に、花は目を輝かせる。
「あ、こ、これ!」
 さきほど孔明に渡されたばかりの書簡を孔明の眼前に突きつけた。まるで水戸黄門の印籠だ。
「玄徳さんに届けてきます! 失礼します!!」
 孔明の返事も聞かず、その手を振り解くと、花は急いで長椅子から立ち上がり、部屋を飛び出していく。
 慌しく閉じられた扉を見つめ、孔明はひとつ、ため息をついた。
「……まったく」
 花の何でもない様子から、特に何かがあったわけではなさそうだが、孟徳に近寄られたことは事実だろう。孟徳が花に触れたかと思うと、ぐつぐつと煮えてくる気持ちもある。
 これは、お仕置きが必要に違いない。
 孔明は人の悪い笑みを浮かべて、どんなお仕置きにしようかと考え始めた。

 掛け布を飛ばす勢いで、起き上がる。
 真っ暗だった。蒸し暑い。夏の空気は重く、まとわりつくようだ。息苦しい。
 体中から汗がふきでていた。
 荒く息を継ぎ、顔を手で覆う。
 怖い。
 震える体を、どうすることもできない。
 この夢を見るのはどのくらい振りだろう。以前は、寝る度に見て、飛び起きていたのに、忘れていた。
 この夢を、忘れていられたことが、信じられない。
 彼女が、いなくなる夢。
 絶対に捕まえられない夢。
 それは夢ではなく、現実に起こったことだ。
 あの日を毎夜、繰り返し見ていた。
 いつから、見なくなったのだろう。彼女が再び、目の前に現れてからだろうか。
 喉の奥で、笑いが漏れた。
 彼女がいることを受け入れていない振りをして、彼女がいると思っている。だから、夢も見なくなり、そのことすら忘れていたのだ。
 何と都合のいい頭だろう。
 結局、自分の信じたいものを信じている。
 彼女がいると思っている。
 二度目は耐えられるだろうか。
 失うくらいなら、欲しくない。
 触れたくない。
 それなのに、愛しい気持ちが逆巻いて、体を突き破ってしまいそうになる。
 花。
 名前を呼んでも、届かない。
 ここに繋ぎとめられない。

 花。

 名前を呼んで。

 ボクを置いていかないで。

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