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Category: こばなし

しあわせな手

※学園恋戦記


 学校からの帰り道、花と孔明は、途中にある喫茶店に立ち寄った。
 飲み物を置いて、ふたりでひとつのテーブルに、教科書とノートを広げて、それぞれ勉強を始める。
 もちろん、ふたりでいるのだから、孔明と話をしたりしたい。けれど、宿題はやらないといけない。しかしやっぱり孔明が気になって、ちらと見ると、孔明はすでに教科書を読んでいた。
 花は慌てて、同じように手元に視線を落とす。明日は、数学であてられる。宿題をやっておかないと大変だ。そんな気持ちもあって、問題に向き合っていると、いつのまにか、宿題に集中していた。
 そうしてしばらく宿題をやっていたが、ふと、半分こにしたテーブルの向こうで何も動いていないことに気づいた。教科書とノートは広げられたままなものの、何かを書いている様子がない。
 気になって顔を上げる。すると、孔明と視線がぶつかって、少し驚いた。
 今、たまたま目が合ったのだろうか。それとも、もしかして、見られていたのだろうか。そんなことを思ってしまい、花はどきどきと鼓動を速める。
「…………あ、あの、宿題、やらないんですか?」
 花は、そのどきどきを解消しようと、孔明に聞いた。
「うん。終わった」
「ええっ!?」
 孔明のあっさりとした答えに、花はびっくりした。
「お、終わったんですか!?」
 花はまだ、ようやく半分くらいだ。もともと孔明にどのくらいの宿題があったのかわからないが、スピードが違いすぎて申し訳ない。
「あの、じゃあ、帰りましょうか」
 花は、教科書を閉じようと手をかけた。花の宿題はまだまだ終わらないし、このままでは、孔明を待たせるだけだ。続きは家でやろうと思った。
「どうして?」
 孔明は、見てもいない教科書を片づけようともせず、不思議そうに聞いてくる。
「どうしてって。孔明さん、終わったんですよね」
「君は終わってないだろ?」
「は、はい」
「ならまだ帰っちゃだめだろう?」
「でも、孔明さん、宿題終わってるなら、もう他のことできるじゃないですか」
 孔明をいつまでも拘束しているのが申し訳ない。花だけが、宿題の時間を過ごせばいいのだ。そう思ったのだが、どうやら孔明には共感してもらえなかった。
「うーん」
 孔明は、困ったような、不満そうな顔で、小さく唸る。
 それから、唐突に、花のノートを指差した。
「ねえ、花。ひとつ前の問題、間違ってるよ」
「えっ?」
 花はその指につられてノートに視線を落とす。ざっと見ただけでは、どこが間違っているのか見つけられなかった。
「ど、どこですか?」
「自分で気づくのも大切だろ。もう一度見直してごらん」
 孔明の言い方は、まるで先生のようだ。
 花は言われるまま腰を落ち着けて、計算した式を頭から確かめていく。
「ああ、ほんとだ」
 そして、式の途中で、計算を間違えているのを発見した。
「孔明さん、やっぱりすごい。ぱっと見て間違いに気づくなんて」
 花は感心しながら、その問題をやり直す。
「見てたからね」
「えっ?」
 孔明がさらりと言った言葉が一瞬理解できず、花は顔を上げた。
 孔明はひどくしあわせそうな顔をしていた。
「君が解いてるの、見てたから。ずっと」
 顔を上げて、失敗した。
 みるみる顔に熱が集まって、真っ赤になってしまう。
 恥ずかしくて、孔明を見ていられず、花は俯いた。
「花」
 そんな花の手の甲を軽く指の先で叩いて、孔明が呼ぶ。
 花は、わずかに顔を上げた。と、花の手を押さえつけるようにして、孔明が身を乗り出してくる。そして、掠めるように唇が唇に触れた。
「!」
 花は手で唇を押さえ、急いで周りを見回した。幸いなことに目が合う人はおらず、ほっと胸を撫で下ろす。
「こ、孔明さん、こんなところで……!」
 花は孔明を睨んだ。
 睨まれているというのに、孔明の目が優しく細められる。
「まだ帰っちゃだめだろう?」
 孔明はさっきと同じことを言った。
 頬が熱くなるくらい、孔明から想いが伝わってくる。目に想いがこもっている。こんな目で見られていたのかと思うと、また恥ずかしくて、沸騰しそうだった。
 けれど、何てしあわせなのだろう。
 孔明の想いが、花を幸せにしてくれる。
 花は、重ねられていた孔明の手を、そっと握った。
「!」
 今度は、孔明が驚いたように目を剥く。
「……こうしていても、いいですか?」
 恥ずかしさよりも、ただ、孔明にもらった胸いっぱいに膨れ上がった想いを伝えたくて、花はぎゅっと手を握りしめる。
 きっと、この手から、花の気持ちが孔明に流れ込んでいることだろう。
「うん」
 孔明は頷くと、指を絡めて握り返してくれる。
 テーブルの上に繋いだ手を置いて、ふたりは顔を見合わせて笑った。

おわり

ハッピーバレンタイン

※学園恋戦記

「孔明さん!」
 前を歩く見慣れた孔明の後ろ姿を見つけて、花は嬉々として駆け寄った。
 こんなところで出会えるなんてとても丁度いい。
「おはよう」
 花の声に、孔明は足を止めて振り返った。
「おはようございます。ここで会えて良かったです」
 学園までの通学路の、まだ家寄りの地点というのは好都合だ。
「なにが?」
 それは、完全に花だけが了解している都合なので、孔明は首を傾げている。
「はい、これ。ハッピーバレンタイン!」
 そんな孔明に、花はかばんの中から取り出したチョコレートを差し出した。
 これは、孔明に渡そうと思って持ってきたものだ。
 どう渡そうかと頭を悩ませていたが、ここで渡せてよかった。学校で渡すのは難易度が高いし、放課後家に行くのはわざわざ感がある。だから、こうして偶然、学園のひとがが通らないところで会えて、本当に良かった。
(あ、あれ?)
 ラッキーな遭遇に花は大喜びだったのだが、孔明の反応は芳しくなかった。
「…………」
 孔明は差し出されたチョコレートを見つめたまま、どこか憮然としている。
 鞄を持っていない方の手は全く動きそうにもない。
 受け取る意思を微塵も感じられなかった。
「そんなに甘くないんですけど……チョコレート、ぜんぶ駄目でしたっけ? すみません」
 孔明は甘いものが苦手だ。それを知っていたので、甘さ控え目にしたのだが、もしかしたらチョコレートは食べない人だったのかもしれない。リサーチ不足だった。
 申し訳なくなって引っ込めようとすると、箱をがしっと掴まれた。
「??」
 その勢いと力強さは、孔明らしからぬもので、花は目を丸くした。
「大丈夫」
 孔明はぐぐっと箱を自分の方へと引き寄せながら言う。
「ありがとう。謹んで頂くよ」
 そして、ついには花の手から奪い取った。
 笑顔の御礼だが、本当に喜んでもらえているのか全くわからない。
 箱は若干変形してしまっているし、最前の孔明の態度も気になる。
 渡してよかったのだろうかと大いに不安だったが、返してとも言えないので、花はチョコレートを見送った。
「ええっと……一応手作りなので、お腹には気をつけてくださいね」
 こんなことを言ったら余計チョコレートの末路が心配になるが、念のため注意する。
 試食のときに変な味はしなかったので大丈夫だと思うし、そんなことを言われたところで気をつけようもないだろうが、もし食べた後で不調になったら、これが原因の可能性もある。知らせておくのがマナーだろうと思った。
「え、手作りなの?」
 しかし、孔明は予想に反して、どちらかといえば好意的な声を上げた。
「は、はい」
「ふーん」
 それから何かを考えるように唸り、最後に花に視線を定める。
 いったい何を考え、どんな結論に辿り着いたのか、あまり聞きたくないような気がした。
「お腹に気をつけろって言うようなものなら、花も一緒に食べてよ」
 孔明はにっこりと笑う。
「えっ、それは念のために言っただけで、たぶん大丈夫ですから」
「なら何も問題はないわけだ。君が食べないなら、食べたくない理由があるんじゃないかって思うけど?」
 それは孔明のために作ったもので、孔明に食べてほしいのだが、ここは花が頷かないと、孔明に食べてもらえないかもしれない。
「わかりました」
 花は観念して頷いた。
「じゃあ、はい」
 すると、孔明はチョコレートの箱を花の手の中に戻す。
「え?」
「やり直し」
 どうして返されたのかわからずきょとんとすると、孔明はべっと舌を出した。
「渡し方もちゃんと考えるように。放課後うちにおいで。お茶を用意しておくよ」
 そして、まるで先生のように落第を言い渡し、すたすたと歩いていってしまう。
 残された花は、呆然とその背中を見送った。
(ほ、本命だって気づかれた!?)
 焦りで汗がわく。
 まるで、このチョコレートに込めた想いを見透かしたような発言だった。
 今日はバレンタインで、孔明にチョコレートを渡したかったのだ。まだ告白する勇気はないから、それは告げずに、さらりと渡せたらと思っていた。
 うまくいったと思ったのに――。
 恥ずかしくて、顔に熱が集まるのを感じた。
 どんな顔をして、孔明の家を訪ねたらいいのだろう。
(うう……)
 花はチョコレートの箱を握りしめて、頭から湯気を立ち上らせた。


おわり

可逆性

 孔明が消えた。
 胸にぽっかりとあいた穴は埋められそうにない。
 喪失感と不安と、置いていかれたという悲しみ。
 それらが、花の中にあるものだった。
 ――どうして連れて行ってくれなかったんだろう。
 弟子だと言ってくれたのに。
 ――師匠って呼んでよ。
 孔明の声が蘇る。
 涙が溢れてしまった。
 頬を伝って、ぽとりぽとりと雨のように足元を濡らしていく。
「師匠……ししょ……」
 こんなところにひとりで残されても、花は無力なただの女子高校生だ。
 なにもできない。
 なにを見たらよいのかもわからない。
 道しるべだった孔明は消えてしまった。
 どうしたらいいのだろう。
 途方に暮れて、空を見上げた。
 きらきらと光る星を、花は読むことができない。空の様子から、何かを読み取ることもできない。
 まだたくさん教えてほしいことがある。
 孔明の往く道を共にいきたかった。
 花は、ぐっと拳を握りしめた。
「……師匠なら、どう考えるかな」
 わざと声に出して呟く。
 孔明なら、こんなときどうするか。
 これはもう思考の癖のようなものだ。壁にぶつかると、そう考えてしまう。
 孔明ならどうするか。どう考えるか。
 きっと、ここで立ち尽くしてなんていないだろう。
 花は握った拳の甲で涙を拭う。
「きっとまた会える」
 孔明の道を往ったらきっと。
 ゆっくりと拳をおろす。
 その瞳は強くまっすぐに北の星を見据えていた。


おわり

昼寝をいっしょに(あやかしごはん:謡凛)

 午後のぽかぽかとした陽射しが、ぽんぽこりん二階の居間に差し込んでいる。昼寝にはもってこいの陽気で、謡は昼ごはんの片づけを終えると、いそいそとその一等地に寝転がった。すぐに心地よい睡魔はやってくる。謡はもちろん抵抗などせずにそれに身を委ねた。


「ん……」
 眠りからゆっくりと目覚めた。寝覚めはいい方なので、すぐに眠気は消える。ぱちりと目を開けて、見開いた。
 すぐ隣に凛がいた。謡の方に顔を向けて横向きに眠っている。
 近い。ふたりの間は拳ひとつ分もない。
「っ~~~!!」
 謡は思わず叫びそうになって、慌てて手で口を塞いでしのいだ。
(な、なななんで、こいつがここに……!)
 安眠から一転、心臓がばくばくと限界まで鼓動を速めている。
 凛は気持ちよさそうに眠っていた。陽射しがやさしくその柔らかな白い頬に当たっている。
 ふわふわと光が舞う中、ぐっすり眠っている凛を見ていると、どきどきだけではなく、心の中にあったかいものが広がった。自分の隣で、安心して眠ってくれている。そのことがとてもしあわせだ。
 謡は上半身を起こし肘をついて頭を支える。そうして、凛の寝顔をもっとよく見つめた。
(へへ……)
 心があったかすぎてこそばゆい。いつまででも寝顔を見ていたい。凛といるとどきどきするけれど、それだけでなくこうしてあったかい気持ちになれた。見つめているだけで幸せで、けれど、ずっと見ていると、やっぱり足りなくなって触れたくなる。頬や髪に触れたり、抱きしめたくなる。
 こんな気持ちを、誰かに――しかも人間に――抱いたのははじめてで戸惑いもあるのだが、それは凛が特別であるという証、凛をきちんと想っている証にも思えていた。
 抱きしめるのはやりすぎだろうが、頬に少し触るくらいならいいだろう。その資格はあるはずだし、凛も嫌だとは思わないはずだ。
 言い訳めいたことを心の中に並べながら、謡は凛の頬へそろそろと手を伸ばした。
「ん……」
 しかし、その手がまさに頬に触れようとした瞬間、凛が小さく身じろいだ。
(っ!!)
 驚いた謡はわずかに飛び上がったものの、どうにか手を止めることができた。
(お、起きたのか……!?)
 なんというタイミングかと、驚かされてどきどきしている胸をおさえながら、凛を窺う。
 だが、凛は目覚めたわけではなかったようで、
「ん……うた……」
と、謡の名を呼んで、身を丸めた。
 寝ているのに名を呼ばれて、謡はさらにどきどきした。
 凛の夢の中にいるのだろうか。それはどんな夢なのだろう。
 そう気になって見つめていたら、凛の手が何かを求めるように伸ばされた。それはゆっくりと謡へと近づいてくる。
(え……)
 謡が凝視している間に、その手は謡のパーカーに届いた。まるでそれが目的のものだったかのように、ぎゅっと掴む。そして、凛は寝ているというのに、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「!」
 謡は口を押さえる。
 心臓が飛び出てしまうのではないかと思うほど、どきりとした。
(か、かわ……)
 嬉しさと恥ずかしさと愛しさ、それにわけがわからない色んな感情が体の中を逆巻き、頭のてっぺんから噴き出す。凛をめちゃくちゃに抱きしめたい衝動に駆られた。
(だ、駄目だ、オレ!)
 それをどうにかこうにか堪えて、謡ははあはあと肩で息をする。
 謡の大いなる動揺など知らず、凛はのんきに眠り続けている。
 謡は恨みがましく凛を見た。悔しいが可愛い。しかし、少し不安がもたげてくる。もし、隣にいるのが謡でなくても、凛は寝ぼけて同じようなことをするのだろうか。
(それは嫌だ)
 こんな姿を、他の誰にも見せたくない。凛が握りしめるのは自分だけがいい。自分にだけ甘えてほしい。
 むくむくと湧いてきた強い独占欲に、我が事ながら戸惑う。子ども染みているのか狭量なのか、それともこれが普通なのかわからない。けれど、それははっきりとある気持ちだった。
(……と、とかにく、居間で昼寝禁止だ!)
 謡はひとまず手に余る感情から目を背けて、凛を見た。このままここにいたら、誰がやって来るかわからない。凛を隠すのが先だ。
 謡は、凛を起こさないように細心の注意を払って抱き上げる。やせっぽちの体は驚くほど軽い。体重だけでなく、枝のように細い手足やうすい肩にも、謡は心配になる。
(最近はよく食うのにな)
 もっと一緒にごはんを食べようと思った。今もほとんど三食一緒に食べているけれど、これからもっと一緒に。そして、そのとき、こっそり凛の分は大盛りにして、凛に食べさせるのだ。気づかれないように、盛る量を少しずつ増やしていけば、凛も怪しまないに違いない。
(オレ様天才!)
 自分の考えにほくそ笑んだとき、ちょうど三階に着いた。
 同時に重大な問題に直面した。
(う……)
 凛の部屋と自分の部屋。どちらに行けばいいのだろう。
 凛の部屋に連れていくとなると、その部屋に留まるのはあまりよくないように思う。かといって、自分の部屋に凛を連れて行くのはもっとよくないのだろう。けれど、謡はまだ凛と一緒にいたかった。できればもう一眠りしたい。これらを解決する道は、回れ右をして居間に戻る、のように思ったが、それもできない。
 謡が固まっていると、凛がゆっくりと瞬きをして目を開けた。
「ん……ふぁ……」
「わ、悪い、起こしちまったか」
「謡? え、きゃ、な、なに!?」
 凛は、謡を見て首を傾げかけ、それから自分の置かれている状況に気づいて、顔を真っ赤にして慌てた。
「あ、暴れんな。落としちまうだろ」
 この程度で恥ずかしがるのが可愛いなと思いつつ、謡は凛を諌める。本当は、凛のかよわい力で暴れられたくらいで、その軽い体を落とすようなことは絶対にないのだが、動かないでいてくれた方が安全なのは確かなのでそう言った。
「え、あ、ご、ごめんなさい」
 勝手に抱え上げられているというのに、凛は謝って大人しくなる。同時に、落ちないようにか、ぎゅっと謡の胸あたりを掴んできた。
 その手が可愛い。
 謡は緩んでしまいそうになる顔を、慌てて引き締めた。
「お前、なんであんなところで昼寝してんだよ」
「なんでって……邪魔だった?」
「そうじゃねえ! あ、あんな、誰が通るかもわかんねーところでぐーすか寝るのは不用心だって言ってるんだ。部屋で寝ろ部屋で」
 謡が言うと、凛は目を伏せて、少し視線をさまよわせた。それから思い切りをつけたように顔を上げる。
「……う、謡が気持ちよさそうに寝てたから、一緒にお昼寝したいなって思ったの。……部屋でひとりは寂しい」
「なっ……」
 思いがけない凛の言葉に、謡は顔が熱くなる。
 言いたいことを言わないで鬱々としている凛に腹を立てて、思っていることを言えと言ってきたけれど、素直な凛は心臓に悪い。
 謡はふるふると体を震わせて、凛を力のかぎりに抱きしめたい衝動と戦った。かっと熱くなった今の気持ちのまま抱きしめたら、凛が痛いほどに力がこもってしまいそうだった。
「……じゃ、じゃあ、一緒に昼寝してやる。お前の部屋でいいな」
 どうにかそれだけ言えて、謡は凛の部屋へと向かう。
「う、謡、私、歩けるから、おろして」
 抱えられているのが恥ずかしいのか、凛は謡のパーカーを引いてそうお願いしてきた。
「う、うるせー。すぐだからおろすの面倒くせーっつーの!」
 凛を抱えていたいという本音は恥ずかしくて言えないから、謡は乱暴に言い放つ。実際、数歩で凛の部屋だ。凛を抱えたままドアを開け、中に入る。そして、凛をベッドに下ろした。
「ちゃんと布団かけろよ」
 心地よい重みと温かさがなくなって寂しい。そんな気持ちを悟られないように、謡はさっさと床にごろりと寝転がった。
「う、謡……」
 凛はベッドの上で座り込んだまま、頼りなげに謡を見つめてくる。その顔は寂しさを隠していない。
「……う、謡の隣がいい」
「っ!」
 恥ずかしさでいっぱいなのか、まだ眠いのか、目元が熱っぽく潤んでいる。そんな顔でお願いされて、謡はぼんっと爆発した。
 凛は謡の返事を待たずに、枕と毛布を掴むと、するりとベッドからおりて、謡の隣に滑りこむ。
「はい、枕。謡も毛布使おう?」
 そして、ふたりの間に枕を置いて、謡にも毛布をかけてきた。
「ほら」
 自ら先に横になって、ぽんぽんと、枕の空いている部分を叩いて、凛は謡を招く。
 そこに頭を乗せろということはわかった。
 わかったが、できるかどうかは別問題だ。
「ば、ばばば馬鹿!」
 そんなことはどきどきしすぎてできない。
 謡は真っ赤な顔も恥ずかしくて、凛がかけた毛布を払おうとした。
「謡はいや?」
 すると、凛が悲しそうに顔を歪ませる。
(ぐっ……)
 凛にそんな顔をさせてしまったことが申し訳なくなって、謡の手が止まった。嫌なわけがない。だが、承諾しないということは、嫌だと思われても仕方ない。謡は焦れて頭を掻いた。
「あ~くそっ。もうちょっとそっち寄れ」
 そして、結局、凛のお願いを聞き入れた。
「う、うん」
「ああ、落ちるだろ。もうちょっとこっちでいい」
 凛が不安定に上体だけ起こして大きく距離を取ろうとして、枕から落ちそうになるのを見て、謡は慌てて腕を差し入れて頭を支える。
 その腕に、肩から頭だけを上げている体勢が辛くなったのか、ぽふ、と凛の頭が落ちてきた。
 はからずも腕枕状態になってしまって、謡は固まる。
「ご、ごめんなさい」
「い、いい!」
 凛は慌ててまた頭を上げようとするが、謡はそれを押しとどめた。
 このままがいい。どきどきは限界に達しようとしているのに、凛に触れていたい気持ちが勝った。
「お、お前、落ちそうだからこのままでいいよな」
「……う、うん、わかった。ありがとう」
 謡の言い訳に、凛は素直に頷いて礼まで言った。
「そ、それに……俺はこのままがいい」
 謡が心配だけで言っているとしか思っていない凛に後ろめたい気持ちが湧いて、謡は本音を告げる。
「えっ……」
 凛は言葉に詰まって、顔を赤くした。白い頬がさっと朱に染まる様が愛しい。
「な、なんだよ。いいだろ別に。お、お前に触りたいって思ったって! お前は嫌なのかよ」
 謡は照れ隠しに乱暴に言い放つ。ついでにさっき凛に困らされた言葉を返してやった。
「……う、うん……いいよ。……私もこのままがいい」
 すると、凛は顔を真っ赤にしながらも小さく頷き、謡の腕に手を添えて頬をつける。
「お、おう……」
 素直に甘えてくる凛に、謡は返す言葉を失った。お返ししたと思ったのにそれを躱されて、見事なカウンターを決められてしまった。結局、凛にはかなわない。凛にどきどきさせられっぱなしだ。
「どきどきするね」
 凛は、まるで謡の心を見たかのようなことを言って、楽しそうにふふっと笑う。
「謡、おやすみ……」
「え……」
 それから、謡が呆気にとられるほどすぐに眠りに落ちていった。どうやらまだ眠気が勝っていたらしい。寝ぼけての甘えたがりだったようだ。どきどきするね、と言うわりに、全然緊張していない完全にリラックスした寝顔が悔しい。
(お、おやすみって……寝られねえし!!)
 凛とは対照的に、謡の目はぎんぎんに冴えていた。
 凛と一緒にいたいという希望は叶ったが近すぎる。凛の寝息がかかるこの距離で、腕枕をしての昼寝なんてできるはずがない。
 凛を隠したい、独り占めしたいという謡の勝手が招いた事態だから自業自得とはいえ、嬉しいような困ったような状況に、謡は頭を抱えるばかりだった。


おわり

ハッピーユアバースデー(チャリ芽)

 もう少しで年が明ける。広くない店の中は、蓄音機から流れるやさしいワルツで満ちていた。目を閉じれば、あの時代にいる気分になる懐かしい音色に、やわらかな空気が蘇るようだ。
 芽衣は力を抜いて、後ろに座るチャーリーの胸に頭を預けた。硬い胸に受け止められると安心する。
 ひとつの椅子にふたりで座って、恥ずかしく思うよりも落ち着くようになるなんて、この年のはじめには思わなかった。それに、好きなひととふたりで年越しをすることになるとも思っていなかった。
(ラッキーだったな)
 家族は親戚の家に行っている。急きょ決まったので、どうやってチャーリーと過ごそうかと悩んでいた芽衣は、もう友だちと約束をしてしまったと言って家に残った。明日は家族に合流するが、思いもかけず、簡単にチャーリーとの年越しが実現した。
「この曲が終わったら新年だよ、チャーリーさん」
 壁にかかった振り子時計を見て、芽衣は言う。
 テレビもつけずに大みそかを過ごすのもはじめてだ。新年は、テレビの中の誰かではなく、あの時計の鐘が教えてくれるだろう。
「今年はどんな年だった?」
 頭の上から、チャーリーの声が降ってくる。
(どんな年……)
 芽衣は宙へ視線を巡らせた。
「いい年だった? それともいやなことがあったかな」
 チャーリーの言葉に導かれるように、いいことやいやなことが脳裏に閃いては消えていく。
「聞かせてよ、芽衣ちゃん」
 ひょいとチャーリーが芽衣の肩越しに顔を覗き込んできて、視界にきらきらと光る銀色の髪が入った。間近で、赤い瞳と視線が絡んで、すこし体温が上昇する。触れ合うことに慣れてきたものの、こうして間近に顔を寄せられると、やはりどきどきした。
「うーん……誰かさんのせいで、明治時代に飛ばされたりして大変な年だった」
「あ、ははは」
 芽衣が照れ隠しで意地悪を言うと、チャーリーは笑って誤魔化した。芽衣もすぐに笑う。
「なんて冗談だよ。タイムスリップしたのは大変だったけど、でも行けて良かった」
 ほんのひと月だけのあの日々は、まるで夢のようだけれど、確かに芽衣の中に残っていて、とても大切だ。出会った人たちの顔も声も、触れた手も覚えている。戸惑うことも多かったのに、いつのまにか馴染んでいたのは、あの時代が心地よかったからだろう。それになにより、あの出来事がなかったら、いちばん大切なものを得ることができなかった。
「だって、チャーリーさんが明治に行かせてくれたから、こうして仲良くなることができたんだもの」
 芽衣は、チャーリーの手をぎゅっと握りしめる。
「ありがとう、チャーリーさん」
 そして、すぐそばにあるチャーリーの白い頬に、軽くキスをした。
「芽衣ちゃん」
 チャーリーは細い目を見開いて芽衣を見つめる。
 そんなチャーリーに、芽衣は笑ってしまった。
 そんなに驚かなくてもいいだろう。
 芽衣がチャーリーにキスをするのもはじめてではないし、チャーリーのことが好きなのだから、キスをしたいと思うのも当然だ。それにいつだってチャーリーにキスをしていい資格がある、と思う。
「今年は、とてもいい年だったよ」
 芽衣はきちんとほんとうの答えを伝えた。
「チャーリーさんと出会えて、好きになって、好きになってもらえて、こうして一緒に今年の終わりを過ごせて、新しい年を迎えられるんだから、ほんとうにいい年だった」
 言葉にするごとに、想いは確かなものになるようだ。
 ほんとうに幸せだと思う。
 この答えを、チャーリーはどう思っただろうかと視線を向けると、ふいにチャーリーが顔を傾けて、芽衣の唇を塞いだ。
「っ!」
 芽衣はびっくりして、目を開けたままキスを受ける。チャーリーはすぐに唇を離した。しかし、まだほんの少し動くだけで、唇に触れられる距離に顔が留まっている。芽衣はどきどきして、顔が赤くなるのを感じた。
 チャーリーが芽衣にキスをするのははじめてではないし、チャーリーが好いてくれてキスをしたいと思ってくれていることも承知している。それに、いつだって芽衣にキスをしてもいい。けれど、やっぱり突然されると驚くものなのだと、芽衣はさきほどの自分の考えをあらためた。
「ひとつ、間違ってるよ。芽衣ちゃん」
「間違ってる?」
「僕はずっと、君のことが好きだったから。君に好きになってもらえて、好きになったんじゃない。僕がずっと好きで、奇跡的なことに、君が僕を好きになってくれたんだ」
 チャーリーはとてもしあわせそうに笑った。
 その顔に、芽衣の胸はいっぱいになって、目が離せなくなる。
「ずっと、ずっと好きだったんだ」
 しかし、すぐにチャーリーにふたたび唇を塞がれて、芽衣は目を閉じた。
 今度は深い口づけに、チャーリーの手を握りしめる。チャーリーの唇からは、とろけるように熱い想いが伝わってくるけれど、芽衣の胸は、チャーリーの言葉が棘のように刺さって、ほんの少し切なく痛んだ。
 チャーリーはずっと好きでいてくれて、きっとこれからもずっと想ってくれる。芽衣がチャーリーのことを知る前から好きで、芽衣がチャーリーを置いて死んでしまっても、好きでいてくれるのかもしれない。
 チャーリーの長い時間の中で、芽衣がチャーリーに想いをあげられるのはほんのわずかしかないのだ。
 キスを終えると、芽衣は、チャーリーの方へ向くように、体を動かした。
「チャーリーさん、好きだよ」
 チャーリーの胸に抱きついて、想いを告げる。
「うん、僕も大好き」
 チャーリーも芽衣を抱きしめ返してくれた。
 その力強い腕にも、好きだと思う。
 好きだと思うごとに胸が苦しくなる。
「……チャーリーさんずるいよ」
「ええっ、どうして?」
 芽衣がぼそりと詰ると、チャーリーは慌てたように体を震わせた。
「私ももっと早く、チャーリーさんのこと好きになりたかった」
 ひとりで想っている時間は切ないけれど、好きな人に早く出会えたことは羨ましい。もっと早く出会えていたら、もっと長くチャーリーを好きでいられた。芽衣は十六年も損している。
「私、もっとたくさんチャーリーさんのことを好きでいたい」
「芽衣ちゃん……」
 チャーリーは困ったような、嬉しそうな、どちらともつかない声で、芽衣の名前を呟いた。
「ほんとうにしあわせだな」
 けれど、すぐに、心からしあわせそうにそう言って、芽衣を抱きしめる腕に力を込める。
 その腕に身を預けて、芽衣は目を閉じた。
(……ずっとこうしていられたらいいのにな)
 叶わないことだとわかりながらも思ってしまう。
「……ね、チャーリーさんって、いくつなの?」
 芽衣は、ふと疑問に思って聞いた。チャーリーの過ごしてきた時間はどれくらいで、芽衣を想っていた時間はどれくらいなのだろう。
「えっ……いくつ? 年? うーんどうなんだろう? 特に数えてなかったから、よくわからないや」
 チャーリーは探るように視線をさまよわせてから、結局、肩をすくめた。
「……それじゃあ、誕生日もわからないの?」
「うん。誕生日のある物の怪の方が珍しいと思うよ」
「そっか……」
 チャーリーの返事に、それもそうかと納得する。
 しかし、誕生日がわからないのも寂しい。
 そう思ってふいに壁の時計が目に入り、芽衣は閃いた。
「じゃあ、あした!」
「え?」
 突然声を上げた芽衣に、チャーリーは目を瞬く。
「チャーリーさんの誕生日、一月一日にしよう」
「な、なんで? ていうか、どうして誕生日を決めるの?」
「だって、チャーリーさんが生まれたことをお祝いしたいから。それに、昔は、お正月にみんな年をとってたんでしょう? ならチャーリーさんもいっしょ。だから、一月一日」
 芽衣は、我ながらいい案だと思って胸を張った。
「ね、いいよね?」
 しかし、一応、本人に意思を確認する。
「もちろん。芽衣ちゃんに決めてもらえるなんて幸せだよ」
 チャーリーは笑顔で頷いた。
 たぶん、誕生日にこだわっているのは芽衣だけで、チャーリーは芽衣が言うのならなんでもいいのだろう。それでも、チャーリーの誕生日を祝えるようになるのは嬉しい。
「そうしたら、何歳から始めようか?」
 三百歳くらいなのだろうか、それとも実は三十歳くらいなのだろうか。芽衣は、チャーリーの顔を検分しながら考えた。
「それなら……芽衣ちゃんと同い年がいいな」
「えっ……高校生は無理があると思うよ?」
 もじもじと照れ気味に希望を告げるチャーリーの厚かましさに一瞬言葉を失ったものの、芽衣はそっと諭す。
「芽衣ちゃん……お揃いで嬉しい! とか、もっとロマンチックな考え方しようよ。女子力低いよ?」
「じょ、女子力とかそういうことじゃないでしょ! チャーリーさん、どう見ても年上だし……」
 しかし、逆にチャーリーに心配そうに諭されて、芽衣はむきになって言い返した。かわいいものより牛が好きな時点で女子力については諦めているが、指摘されるとむっとするものだ。
 すると、チャーリーはおかしそうに笑ってから言った。
「僕がこうして生きるようになったのは、君と出会ったときからだから、君が生まれたときから、僕の年を数えたっていいじゃない」
 チャーリーのやさしい顔と言葉にもちろんどきどきする。けれど、芽衣は本当のことを知りたかった。チャーリーの生まれたときや場所やどうやって生きてきたのか――チャーリーのことを知りたいのだ。チャーリーは芽衣のことを知っているのに、芽衣は知らないなんてずるい。それでも、無理なことを言っているとわかるから芽衣は仕方なく頷いた。
「……まあ、チャーリーさんがそう言うなら」
「そんなに渋々?」
 そう、チャーリーが情けない顔をしたときだった。
 ゴーン、ゴーンと振り子時計が鳴った。
 いつのまにか蓄音機が止まっている。
 年が明けたのだ。
「わ、あけましておめでとう、チャーリーさん。今年もよろしく」
 芽衣は、会話を放り投げて、チャーリーに言った。
「うん。こちらこそ。あけましておめでとう」
 チャーリーも笑って応えてくれる。
 一年の終わりを大好きな人と過ごし、新しい年のはじまりを一緒に迎えられるのは、とてもしあわせだった。
 芽衣は、もういちど口を開く。
「お誕生日おめでとう、チャーリーさん」
 そして、今さっき決めた誕生日も祝う。
 チャーリーが生まれてくれて、芽衣はこんなにもしあわせなのだ。チャーリーが生を享けて、芽衣の前にいることを感謝したい。
「ありがとう」
 チャーリーはまた笑って応えてくれた。
「プレゼントはまた今度ね。急なことだったから」
「うん。楽しみにしているよ」
「今はこれで」
 そっと、今度は唇に、芽衣からキスをする。
「今年は一年ずっと一緒にいてね。それで、来年のお正月もいっしょに迎えよう?」
「もちろん。僕はずっと芽衣ちゃんのそばにいるよ。君が望むだけずっと」
 どこまでもやさしい言葉を聞きながら、芽衣はチャーリーを抱きしめた。

 

おわり

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