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Category: めいこい

ハッピーユアバースデー(チャリ芽)

 もう少しで年が明ける。広くない店の中は、蓄音機から流れるやさしいワルツで満ちていた。目を閉じれば、あの時代にいる気分になる懐かしい音色に、やわらかな空気が蘇るようだ。
 芽衣は力を抜いて、後ろに座るチャーリーの胸に頭を預けた。硬い胸に受け止められると安心する。
 ひとつの椅子にふたりで座って、恥ずかしく思うよりも落ち着くようになるなんて、この年のはじめには思わなかった。それに、好きなひととふたりで年越しをすることになるとも思っていなかった。
(ラッキーだったな)
 家族は親戚の家に行っている。急きょ決まったので、どうやってチャーリーと過ごそうかと悩んでいた芽衣は、もう友だちと約束をしてしまったと言って家に残った。明日は家族に合流するが、思いもかけず、簡単にチャーリーとの年越しが実現した。
「この曲が終わったら新年だよ、チャーリーさん」
 壁にかかった振り子時計を見て、芽衣は言う。
 テレビもつけずに大みそかを過ごすのもはじめてだ。新年は、テレビの中の誰かではなく、あの時計の鐘が教えてくれるだろう。
「今年はどんな年だった?」
 頭の上から、チャーリーの声が降ってくる。
(どんな年……)
 芽衣は宙へ視線を巡らせた。
「いい年だった? それともいやなことがあったかな」
 チャーリーの言葉に導かれるように、いいことやいやなことが脳裏に閃いては消えていく。
「聞かせてよ、芽衣ちゃん」
 ひょいとチャーリーが芽衣の肩越しに顔を覗き込んできて、視界にきらきらと光る銀色の髪が入った。間近で、赤い瞳と視線が絡んで、すこし体温が上昇する。触れ合うことに慣れてきたものの、こうして間近に顔を寄せられると、やはりどきどきした。
「うーん……誰かさんのせいで、明治時代に飛ばされたりして大変な年だった」
「あ、ははは」
 芽衣が照れ隠しで意地悪を言うと、チャーリーは笑って誤魔化した。芽衣もすぐに笑う。
「なんて冗談だよ。タイムスリップしたのは大変だったけど、でも行けて良かった」
 ほんのひと月だけのあの日々は、まるで夢のようだけれど、確かに芽衣の中に残っていて、とても大切だ。出会った人たちの顔も声も、触れた手も覚えている。戸惑うことも多かったのに、いつのまにか馴染んでいたのは、あの時代が心地よかったからだろう。それになにより、あの出来事がなかったら、いちばん大切なものを得ることができなかった。
「だって、チャーリーさんが明治に行かせてくれたから、こうして仲良くなることができたんだもの」
 芽衣は、チャーリーの手をぎゅっと握りしめる。
「ありがとう、チャーリーさん」
 そして、すぐそばにあるチャーリーの白い頬に、軽くキスをした。
「芽衣ちゃん」
 チャーリーは細い目を見開いて芽衣を見つめる。
 そんなチャーリーに、芽衣は笑ってしまった。
 そんなに驚かなくてもいいだろう。
 芽衣がチャーリーにキスをするのもはじめてではないし、チャーリーのことが好きなのだから、キスをしたいと思うのも当然だ。それにいつだってチャーリーにキスをしていい資格がある、と思う。
「今年は、とてもいい年だったよ」
 芽衣はきちんとほんとうの答えを伝えた。
「チャーリーさんと出会えて、好きになって、好きになってもらえて、こうして一緒に今年の終わりを過ごせて、新しい年を迎えられるんだから、ほんとうにいい年だった」
 言葉にするごとに、想いは確かなものになるようだ。
 ほんとうに幸せだと思う。
 この答えを、チャーリーはどう思っただろうかと視線を向けると、ふいにチャーリーが顔を傾けて、芽衣の唇を塞いだ。
「っ!」
 芽衣はびっくりして、目を開けたままキスを受ける。チャーリーはすぐに唇を離した。しかし、まだほんの少し動くだけで、唇に触れられる距離に顔が留まっている。芽衣はどきどきして、顔が赤くなるのを感じた。
 チャーリーが芽衣にキスをするのははじめてではないし、チャーリーが好いてくれてキスをしたいと思ってくれていることも承知している。それに、いつだって芽衣にキスをしてもいい。けれど、やっぱり突然されると驚くものなのだと、芽衣はさきほどの自分の考えをあらためた。
「ひとつ、間違ってるよ。芽衣ちゃん」
「間違ってる?」
「僕はずっと、君のことが好きだったから。君に好きになってもらえて、好きになったんじゃない。僕がずっと好きで、奇跡的なことに、君が僕を好きになってくれたんだ」
 チャーリーはとてもしあわせそうに笑った。
 その顔に、芽衣の胸はいっぱいになって、目が離せなくなる。
「ずっと、ずっと好きだったんだ」
 しかし、すぐにチャーリーにふたたび唇を塞がれて、芽衣は目を閉じた。
 今度は深い口づけに、チャーリーの手を握りしめる。チャーリーの唇からは、とろけるように熱い想いが伝わってくるけれど、芽衣の胸は、チャーリーの言葉が棘のように刺さって、ほんの少し切なく痛んだ。
 チャーリーはずっと好きでいてくれて、きっとこれからもずっと想ってくれる。芽衣がチャーリーのことを知る前から好きで、芽衣がチャーリーを置いて死んでしまっても、好きでいてくれるのかもしれない。
 チャーリーの長い時間の中で、芽衣がチャーリーに想いをあげられるのはほんのわずかしかないのだ。
 キスを終えると、芽衣は、チャーリーの方へ向くように、体を動かした。
「チャーリーさん、好きだよ」
 チャーリーの胸に抱きついて、想いを告げる。
「うん、僕も大好き」
 チャーリーも芽衣を抱きしめ返してくれた。
 その力強い腕にも、好きだと思う。
 好きだと思うごとに胸が苦しくなる。
「……チャーリーさんずるいよ」
「ええっ、どうして?」
 芽衣がぼそりと詰ると、チャーリーは慌てたように体を震わせた。
「私ももっと早く、チャーリーさんのこと好きになりたかった」
 ひとりで想っている時間は切ないけれど、好きな人に早く出会えたことは羨ましい。もっと早く出会えていたら、もっと長くチャーリーを好きでいられた。芽衣は十六年も損している。
「私、もっとたくさんチャーリーさんのことを好きでいたい」
「芽衣ちゃん……」
 チャーリーは困ったような、嬉しそうな、どちらともつかない声で、芽衣の名前を呟いた。
「ほんとうにしあわせだな」
 けれど、すぐに、心からしあわせそうにそう言って、芽衣を抱きしめる腕に力を込める。
 その腕に身を預けて、芽衣は目を閉じた。
(……ずっとこうしていられたらいいのにな)
 叶わないことだとわかりながらも思ってしまう。
「……ね、チャーリーさんって、いくつなの?」
 芽衣は、ふと疑問に思って聞いた。チャーリーの過ごしてきた時間はどれくらいで、芽衣を想っていた時間はどれくらいなのだろう。
「えっ……いくつ? 年? うーんどうなんだろう? 特に数えてなかったから、よくわからないや」
 チャーリーは探るように視線をさまよわせてから、結局、肩をすくめた。
「……それじゃあ、誕生日もわからないの?」
「うん。誕生日のある物の怪の方が珍しいと思うよ」
「そっか……」
 チャーリーの返事に、それもそうかと納得する。
 しかし、誕生日がわからないのも寂しい。
 そう思ってふいに壁の時計が目に入り、芽衣は閃いた。
「じゃあ、あした!」
「え?」
 突然声を上げた芽衣に、チャーリーは目を瞬く。
「チャーリーさんの誕生日、一月一日にしよう」
「な、なんで? ていうか、どうして誕生日を決めるの?」
「だって、チャーリーさんが生まれたことをお祝いしたいから。それに、昔は、お正月にみんな年をとってたんでしょう? ならチャーリーさんもいっしょ。だから、一月一日」
 芽衣は、我ながらいい案だと思って胸を張った。
「ね、いいよね?」
 しかし、一応、本人に意思を確認する。
「もちろん。芽衣ちゃんに決めてもらえるなんて幸せだよ」
 チャーリーは笑顔で頷いた。
 たぶん、誕生日にこだわっているのは芽衣だけで、チャーリーは芽衣が言うのならなんでもいいのだろう。それでも、チャーリーの誕生日を祝えるようになるのは嬉しい。
「そうしたら、何歳から始めようか?」
 三百歳くらいなのだろうか、それとも実は三十歳くらいなのだろうか。芽衣は、チャーリーの顔を検分しながら考えた。
「それなら……芽衣ちゃんと同い年がいいな」
「えっ……高校生は無理があると思うよ?」
 もじもじと照れ気味に希望を告げるチャーリーの厚かましさに一瞬言葉を失ったものの、芽衣はそっと諭す。
「芽衣ちゃん……お揃いで嬉しい! とか、もっとロマンチックな考え方しようよ。女子力低いよ?」
「じょ、女子力とかそういうことじゃないでしょ! チャーリーさん、どう見ても年上だし……」
 しかし、逆にチャーリーに心配そうに諭されて、芽衣はむきになって言い返した。かわいいものより牛が好きな時点で女子力については諦めているが、指摘されるとむっとするものだ。
 すると、チャーリーはおかしそうに笑ってから言った。
「僕がこうして生きるようになったのは、君と出会ったときからだから、君が生まれたときから、僕の年を数えたっていいじゃない」
 チャーリーのやさしい顔と言葉にもちろんどきどきする。けれど、芽衣は本当のことを知りたかった。チャーリーの生まれたときや場所やどうやって生きてきたのか――チャーリーのことを知りたいのだ。チャーリーは芽衣のことを知っているのに、芽衣は知らないなんてずるい。それでも、無理なことを言っているとわかるから芽衣は仕方なく頷いた。
「……まあ、チャーリーさんがそう言うなら」
「そんなに渋々?」
 そう、チャーリーが情けない顔をしたときだった。
 ゴーン、ゴーンと振り子時計が鳴った。
 いつのまにか蓄音機が止まっている。
 年が明けたのだ。
「わ、あけましておめでとう、チャーリーさん。今年もよろしく」
 芽衣は、会話を放り投げて、チャーリーに言った。
「うん。こちらこそ。あけましておめでとう」
 チャーリーも笑って応えてくれる。
 一年の終わりを大好きな人と過ごし、新しい年のはじまりを一緒に迎えられるのは、とてもしあわせだった。
 芽衣は、もういちど口を開く。
「お誕生日おめでとう、チャーリーさん」
 そして、今さっき決めた誕生日も祝う。
 チャーリーが生まれてくれて、芽衣はこんなにもしあわせなのだ。チャーリーが生を享けて、芽衣の前にいることを感謝したい。
「ありがとう」
 チャーリーはまた笑って応えてくれた。
「プレゼントはまた今度ね。急なことだったから」
「うん。楽しみにしているよ」
「今はこれで」
 そっと、今度は唇に、芽衣からキスをする。
「今年は一年ずっと一緒にいてね。それで、来年のお正月もいっしょに迎えよう?」
「もちろん。僕はずっと芽衣ちゃんのそばにいるよ。君が望むだけずっと」
 どこまでもやさしい言葉を聞きながら、芽衣はチャーリーを抱きしめた。

 

おわり

ハッピーウィッシュバースデー(鏡芽)


  その日のお座敷は いつもの紅葉先生のもの
  いつものように指名を受けて いつものように末席で
  上座の唄も踊りもそっちのけで のんびり過ごして
  零時になる前に
  そっと ふたりで抜け出した
  今日が何の日か もちろん承知している
 「鏡花さん、お誕生日おめでとうございます」
  芽衣は ぎゅっと 愛しい人を抱きしめた


 ***

 

 日がかわれば、鏡花の誕生日。
 宴席を抜け出した鏡花と芽衣は、こっそり音二郎に取ってもらった別室に飛び込んだ。
 二人が宴会を抜け出したことは、紅葉やその連れの文士たちにばれないように、音二郎がしこたま飲ませている。酒を飲んでくれればそのぶん料亭はもうかるし、置屋にも見返りがくるからみんながハッピーだ。支払う紅葉には少し負担がかかるかもしれないが、愛弟子の誕生日ということで、良心に痛む胸を見ない振りした。
 芽衣のいたところでは、個々の誕生日を祝うのだと話したら、音二郎は「鏡花の誕生日大作戦」に大いに盛り上がって、料亭の別室の手配から、紅葉たちの気を引くことまで、なんでも引き受けてくれた。そのおかげで、鏡花と芽衣は、誰に気づかれることなく、宴席を抜け出すことができたのだった。
「はあ」
 八畳ほどの部屋に入るなり、鏡花は息を吐きながら、芽衣を抱きしめる。前触れもなく胸に抱き寄せられて、芽衣はどきどきした。鏡花からはいつものお香に混じって、アルコールの匂いがする。それにいつもと違うことを意識させられて、少し緊張した。
 料亭の中では小さめの部屋にふたりきり。熱気に満ちたお座敷とうってかわって、ひんやりとして静かで、にぎやかな声や音色がかすかに聞こえてくるばかりだ。
 部屋を借りちまえばいいんだよ、という音二郎のすすめに従って、―-というか、なすがままというか、その話をした次の日には、部屋を手配しておいたから、と言われたのだが――部屋を借りたはいいものの、音二郎は何と言ったのか、部屋の隅には布団が敷いてあった。枕はひとつなので例の茶屋で見たものよりは健全に見える。音二郎は休憩用とでも言ったのかもしれない。だが、意識してしまう。
「うまくいったね。きっと誰も気づいてないよ」
 一方、鏡花は、楽しそうに無邪気に言った。
 鏡花は部屋に入るなり、芽衣を抱きしめて、布団に背を向ける形で座ったから、まだこの存在に気づいていないのかもしれない。できれば、あまりこれには触れないでほしいと思うが、狭い部屋の中で、ずっと気づかないということもないだろう。ひとまずは、そのときまであれには触れないことにして、芽衣は目を転じた。
「はい。音二郎さんのおかげです。ほんとうにたくさん飲ませてましたよね」
 みんな明日も仕事だろうに、大丈夫だろうかと心配になるくらい、へべれけだった。家に帰れるのかも心配になる。
「ああ。それだよ。川上に、こんなに借りを作って、あとで何を言ってくるか……」
 音二郎の名を出すと、鏡花はあからさまに顔を顰めた。腕が自由なら頭を抱えそうなほどだ。
「音二郎さん、からかうくらいだと思いますよ」
 芽衣は、その激しい懊悩をやわらげようと、笑って言った。
 どうだったんだ、とにやにや笑いながら聞いてくる音二郎が、たやすく思い浮かぶ。
「あんたは川上がどんな男かわかってなさすぎる」
 しかし、鏡花は納得せず、憮然として、軽く芽衣を睨んだ。
「あんたにはいい顔してるかもしれないけど、どれだけ意地が悪くてしつこくて、無茶苦茶で、がさつで――」
 鏡花は、音二郎の悪口をどこまでも並び立てていく。
 鏡花が神経質なら音二郎はデリカシーがない。
 そんなふたりがこれほど仲がよいのだから、人間は面白いものだと思ってしまう。
「鏡花さんと音二郎さんは、本当に仲良しですね」
 まだ続いている鏡花の悪口に割って入って、芽衣は言った。
 鏡花はぴたりと止まり、芽衣を信じられなさそうに見る。
「なっ……。あ、あんた、耳までグズなの!? 今の聞いてた?」
「はい。聞いていましたよ」
 鏡花の反応など予想済みだ。だから、どんなにきゃんきゃんと言われても、芽衣はまったく堪えなかった。
(あ……!)
 そのとき、部屋の時計がかちりと零時ちょうどを指し示した。
 芽衣はそれを見て、音二郎の悪口から芽衣がいかにグズかの講釈へと移行して話し続ける鏡花の腕を引く。
「鏡花さん、お誕生日おめでとうございます」
「え?」
 芽衣が前置きもなく言うと、鏡花はきょとんとした。
 その薄い反応に焦れて、芽衣は時計を指差す。
「ほら、四日になりました」
「あ、ああ」
 鏡花も時計を見て、日がかわったことを認識した。
「お誕生日おめでとうございます」
 芽衣はあらためて、鏡花に言う。
 今日は、鏡花の誕生日。特別な日だ。
「う、うん……あ、ありがとう」
 今度は、鏡花は照れ臭そうに少し頬を赤く染めた。
「あ、あのさ、芽衣……」
 そして、意気込んだ顔で、芽衣に何かを言おうとする。
「はい?」
 芽衣は何だろうと思いながら、鏡花の赤い顔を見つめた。
「…………」
 鏡花の頬が、心なしかより赤くなったように見える。
(どうしたんだろう?)
 芽衣は、ますます鏡花を見つめた。
 すると、ふいと鏡花が視線をそらしてしまう。だがすぐに戻ってきて、芽衣の目とぶつかると、わずかに体を揺らした。
「…………」
「……」
「…………」
「……」
 待てど暮らせど、鏡花は話し出さない。
「鏡花さん?」
 結局、芽衣が先に口を開いた。
「いや、その……」
 鏡花は、弾かれたように反応するが、やっぱり固まってしまう。
 しばらく、そんなおかしな鏡花を見つめていたが、芽衣は、鏡花の向こうに床の間を見て、そこに置かれているものを見つけると、そのままではいられなくなった。
「鏡花さん、ちょっとすみません」
 身じろいで、鏡花の腕の中から出る。
「え?」
 立ち上がる芽衣に、鏡花は慌てた顔をした。
 それを見て疑問に思ったものの、芽衣は床の間に向かう。そこには、部屋に置いておいてと頼んだ、芽衣の風呂敷包みがあった。芽衣はそれを手にして、鏡花のもとに戻る。
「よ、よかった……」
 鏡花の前に座り直すと、鏡花はほっとしたように息をついた。
「? なにがですか?」
「あ、いや、なんでもないよ。それより、なんだよ、それ」
 鏡花の様子のおかしさは気になるが、鏡花に手の中のものを指差されて、芽衣はそちらを先に済ませることにした。
 風呂敷包みを外すと、中からは、きれいな木箱があらわれる。
「鏡花さん、これ、誕生日プレゼントです。よかったら」
 芽衣は、それを鏡花に差し出した。
「え、ぷ、ぷれぜんと?」
「あ、すみません。贈り物のことです。誕生日なので、お祝いしたくて」
 鏡花のきょとんとした顔に、芽衣は慌てて言い直した。
「へ、へえ。いい心がけじゃないか」
 すると、鏡花はとても嬉しそうに、木箱を受け取り、いそいそとそれを開けた。
 芽衣は、少し緊張して、鏡花の反応を待つ。
 一応、鏡花が好きなものを用意したつもりだが、もしかしたら好みに合わない可能性もある。
 そう芽衣がじっと見つめている先で、鏡花は包みを開け終わり、中のものを取り出した。
「わあ、ウサギの筆入れじゃないか」
 芽衣が選んだのは、ふたの部分に白いウサギの装飾をあしらった黒の漆の筆入れだ。
 それを見て、鏡花の目がきらきらと輝いた。これは、鏡花のウサギグッズ審査を通ったとみていいだろう。
 ウサギグッズならよほどのことでない限り大丈夫だと思っていたが、ちゃんと気に入ってもらえて、芽衣はほっとして嬉しくなった。
「これなら、使ってもらえるかなって思ったんですけど」
「うん。大きさもちょうどいいし。何と言っても、このウサギがいいよね。目が赤くて僕のウサギにそっくりだし」
 鏡花はうっとりと筆入れをながめつすがめつしてから、はっと我に返ってその顔を引き締めた。
「――って、あ、あ、あんたにしてはいい選択だね」
 鏡花は、まるで興味はないけれどもらってやる、という顔をして言う。しかし、筆入れを木箱にしまう手つきは、ひどく丁寧だ。
 その手や、さきほどの顔や、思わず出ていたうっとりとした言葉から、今のは照れ隠しで、プレゼントを気に入ってくれていることはわかるのだが、今日くらいは素直な言葉も聞きたい。
「あんまり好みじゃなかったですか?」
 芽衣は少し残念そうな顔を作って、鏡花の顔を窺った。
 すると、鏡花は、一瞬、言葉に詰まってから、顔を赤くしてそっぽを向いてしまう。
「き、気に入ったって言ってるんだよ! ……大事にする。あんたからの贈り物だし」
 最後は、ぼそりとだけれど、芽衣がほしい言葉を言ってくれて、芽衣は顔を綻ばせた。
「嬉しいです。鏡花さんが喜んでくれて」
 ウサギグッズなら大丈夫とわかっていても緊張したし、あれこれと大いに悩んだ。だから、鏡花が思ったとおりに喜んでくれて、芽衣はほんとうに嬉しかった。
 鏡花は、そんな芽衣を、目を瞠って見つめる。
「あ、あのさ、芽衣」
 それから、木箱をそっと脇に置くと、拳ほどとしかあいていないふたりの距離をにじり寄って詰めてきた。
 こつんと膝がしらがぶつかる。
 そのまま抱き寄せられるような距離と勢いだったが、鏡花は空いた手をぎゅっと握りしめて、腿の上に置いた。
「きょ、今日は僕の誕生日だからね、ぼ、僕にくっついたりしてもいいけど!?」
 そして、まるで怒っているくらいの強い口調で言い放った。
(……ええっ、と……?)
 芽衣は目を瞬く。
 つまり、これは、許可を与えているようで、鏡花にくっつけと所望されているのだろう。
 突然そんなことを言われて、芽衣は大いに戸惑った。
「な、なに、嫌なわけ!?」
 芽衣が鏡花を見つめたまま固まっていると、鏡花は焦れたように催促してくる。
「あ、いえ、嫌ってわけじゃ……」
「じゃあ、早く、く、くくくっついたら?」
「は、はあ……」
 それを要求するのに、これほど動揺して、恥ずかしそうなのに、どうして鏡花はいつものように自ら抱きしめてこないのだろう。そうしたら、芽衣もこれほど恥ずかしく思うことはないのに、と芽衣は動けない理由を鏡花になすりつけた。鏡花にくっつくのは嫌ではない。ただあまりに唐突で、脈絡も情緒もなさすぎてびっくりして、あらためてそんなことをするのは恥ずかしい。
 芽衣がそうやって固まっていると、鏡花の赤らんだ顔に少しずつ悲しそうな表情が浮かび出した。どうやら、芽衣が嫌がって、拒絶されたように感じているらしい。
「ええっと、それじゃあ失礼して……」
 芽衣は、慌てて、やる意志があることを表明する。
 鏡花にくっつくのが嫌なわけではないし、いつだって鏡花を悲しませるのは嫌だ。それに今日はなんといっても、鏡花の誕生日だ。
(あ……)
 芽衣は、ふと閃いた。
 今日は、誕生日だから、鏡花はしてもらいたいのだろうか。たまには、芽衣から触れてほしいと思っているのかもしれない。もし、芽衣が逆に、いつも鏡花に触れるばかりで、鏡花から触れられなかったら、たまにはそうしてほしいと思うだろう。
 いつも、芽衣も鏡花に触れたい。しかし、そう思ったときには、鏡花が触れてくれているので、芽衣から触れなくても済んでいた。
(鏡花さん……)
 まるで子ウサギのようにぎゅっと拳を握りしめて待っている姿が、いじらしい。
「鏡花さん」
 芽衣は鏡花にそっと呼びかけて、その手を取った。
「あ……」
 鏡花が驚いたように顔を上げる。
 取った手を引いて、鏡花を胸に抱く。
 鏡花がいつもしてくれるときは、芽衣の体はすっぽりと鏡花の胸の中におさまるのだが、体の大きさが違うからそうはいかない。それでも、芽衣は鏡花の体を包むようにと、抱きしめた。
 鏡花が自分の腕の中にいるというのは、抱きしめられるのとまた違った、鏡花を有しているような充足感を得て、心が満ちた。
「め、めめめ芽衣!?」
 鏡花が焦ったように、体を起こそうとするのを、ぎゅっとおさえつける。
「鏡花さん、お誕生日おめでとうございます。こうして一緒にお誕生日を過ごせて、とても幸せです」
 芽衣は、鏡花のさらさらの髪を撫でて、その頭に頬を寄せた。
 起き上がろうとしていた鏡花の動きが止まる。
 そして、そろりと背中に腕が回った。
「うん。僕も。あんたと一緒にこうしていられて嬉しい。幸せだよ」
 鏡花は、芽衣に応えてくれた。
(嬉しいな……)
 今、キスをしたい、と思う。
 鏡花が抱きしめたあと、よく接吻をするのは、今の芽衣と同じ衝動が湧くからかもしれないと思った。
 触れると、心の奥底から、鏡花が愛しい気持ちが湧いて広がって、もっと触れたくなる。
 芽衣は鏡花の顔を覗きこむために、体勢をかえようと思い、ほんの少し腕の力を抜いた。
 その途端、鏡花の体に力が入って、そのまま後ろに倒される。
(わ……)
 鏡花に抱きしめられたまま、畳の上に重なって転がった。
 鏡花の重みに、どきどきする。
 そして、今さらながら、胸の上に鏡花の頭があることに、恥ずかしくなった。さっきは自ら押しつけるような真似をしたのだが、それを意識するのとしないのとでは、大きく違う。
 芽衣が焦っていると、鏡花はすぐに体を起こしてくれたのでほっとした。
 鏡花の体がそっと伸びて、唇に触れるだけのキスをする。
 したいと思っていたけれど、してもらえたら、なんだかとてもどきどきして、じんわりと頬が熱くて、芽衣はただ鏡花を見つめた。
「……あんたって色々反則すぎる」
 鏡花は、芽衣をなじって、もう一度口づける。
 今度はもう少し長く、唇が触れ合って、鏡花の体も芽衣の上に落ちてきた。
 鏡花は、そのまま芽衣を背中から抱えるようにして抱きしめ、畳みの上で横向きに寝そべる。そうして、芽衣のうなじや耳の裏に唇をつけていった。
「んっ、きょ、鏡花さん、くすぐったいです」
 触れられるだけならまだしも、たまに強く吸われるとくすぐったい。芽衣は笑いながら畳の上で身じろいだ。
「っつ」
 そのうちに、畳で強く手の甲をこすってしまって、皮がすりむける程度の小さな傷がついた。
「だ、大丈夫? ごめん」
 小さな悲鳴を聞き取って、鏡花が慌てて体を起こす。
「大丈夫です。なんともありません」
 芽衣は傷ともいえないすりむけを見て、心配そうな鏡花に笑ってみせた。
 鏡花もそれを見てほっとした顔をしたが、なぜかそのままの体勢で、じっと考え込んでしまった。
「鏡花さん?」
 芽衣が不思議に思って呼びかけると、鏡花はごくりと喉を鳴らす。鏡花に覆いかぶさられているから、喉が動くのがよく見えた。いったいなにを緊張しているのだろうと、ますます不思議に思う。
「……あ、あっちに布団もあるけど、あそこでごろごろする? あ、あんたがここでいいなら、別にいいけど」
 すると、鏡花は顔を赤くしながら、そう言った。
「え……」
 芽衣の顔も赤くなってしまう。
(ふ、布団……)
 芽衣はちらりと部屋の奥に用意された布団を見た。
 この部屋に入ったときのどきどきが戻ってくる。狭い部屋。誰もこない部屋。ここに鏡花とふたりっきり。それがどきどきしないでいられようか。
 実は、今日、このあとどうすればいいのだろう、と芽衣は少し困っていた。
 鏡花の誕生日を日がかわったときから一緒に過ごしたい。
 誕生日の前日に遅いお座敷が入ったとき、芽衣が思ったのはそれだった。少し抜け出して、おめでとうと言って、それでまたお座敷に戻れるチャンスがあるだろうかと思ったのだ。
 それを音二郎に話すと、部屋を借りたらいいと言ってくれて、ほんとうに借りてくれて、朝まで借り切ったから自由に使えと、言ってくれた。置屋には外泊を誤魔化してやると、頼もしく請け負ってくれた。今日の音二郎の飲みっぷりからすると、少し、ちゃんとやってくれるか不安になる言葉だが、信じていいだろう。鏡花も芽衣も帰らなくていい。ここに朝までいていい。
 朝まで。
 朝まで?
 自問自答してしまう。
 鏡花と一緒にいられるのは嬉しいが、朝までというのはそういうことになるのだろうか。結婚はまだだが婚約はしていて、つい先日紅葉の怒りも解けて、周りのひとに正式にお披露目会も行った。結婚までカウントダウンだ。そんな身で、ためらうのもおかしい話なのだろうか。
(でも……)
 結論が出ずに、ぐるぐるしてしまう。
 ふと、頬に、鏡花の手が触れた。
 はっと鏡花を見る。
「そんな困った顔するなよ」
 鏡花こそ困った顔をして、芽衣を見下ろしていた。
「ご、ごめんなさい。あの……」
 また拒絶したと思われて、傷つけてしまったかと焦って、芽衣は決して鏡花が嫌いなわけではないのだと伝えようとする。
 しかし、鏡花は、特になにも気にしていない顔で、芽衣の隣にごろりと転がった。
「あれはあんたが使えばいいよ。僕はこのへんで寝るから」
 鏡花は座布団をたたんで頭の下に置く。
 つまり、さきほどのは、ただの添い寝のお誘いだったらしい。
 芽衣は、そうわかって、勢いよく起き上がった。
「い、いいえ! 今日は、鏡花さんの誕生日ですから、あれは鏡花さんが使ってください!」
 一緒に寝るだけなら、なにもためらうことはない。だが、それをそのまま伝えることは恥ずかしくて、鏡花に布団を譲るだけにした。本当はもう一組布団を借りられればいいのだが、ここにふたりでいることを知られたくないので、それはできない。
 布団を並べて眠れたら楽しかっただろうな、とほんの少し残念に思う。
「いいよ。あんたが使いなよ。畳の上で寝かせて、あんたが風邪引いたら、僕が面倒見なくちゃいけないだろ」
 鏡花はさも面倒そうに手を振った。
 鏡花の発言に、芽衣は首を傾げる。
「鏡花さんが面倒を? 大丈夫ですよ、音二郎さんが――」
「それが嫌だから、僕が置屋に行ってやるって言ってるんだよ!」
 置屋暮らしなのだから、鏡花の手を煩わせることはない、と言おうとしたら、鏡花に目を剥かれて怒られた。
「あ、その……すみません。ありがとうございます」
 芽衣は謝って、礼を言う。
 鏡花のやきもちに触れたり、本気で来てくれようとしているのだと知ったりして、胸のうちが嬉しさでぽかぽかと温かくなった。
「なに、そのにやけた顔」
 鏡花に睨まれても、なんともない。
「いえ。風邪ひいたときに、鏡花さんが来てくれるなんて嬉しいなって思って」
 芽衣はありのままを告げた。
「あ、あああんたね……」
 すると、みるみる鏡花の顔が赤くなる。
 鏡花は、きっと、何を言っても布団を芽衣に使わせてくれるだろう。鏡花だけが使うことはない。しかし、鏡花が風邪をひいてしまわないか心配だ。ならば、やはりふたりで一緒に使うのがいちばんだろう。
 それをどう、鏡花に望んでもらおうかと考え、芽衣はひとつのことを思いついた。
「あの、鏡花さん。寝る前にひとつ、聞いてください」
 芽衣は、寝転がっている鏡花の隣に正座する。
「今日は誕生日なので、三つお願い事を叶えてあげます」
「へ? 願い事?」
 唐突な話に、鏡花は思いっきりきょとんとした。
「はい。できることならなんでも喜んできくんです」
 芽衣は、どこまでもふつうの顔をして、真面目に言う。
 この時代のひとは、自分の誕生日を祝う習慣がない。だからこそ、音二郎は鏡花の誕生日大作戦にノリノリになったのだ。その習慣を知っているのは芽衣だけで、その芽衣がもっともらしく言えば、鏡花もそういうものだと騙されることだろう。
「みっつ……それも、あんたのいたところの習慣なの?」
 思ったとおり、鏡花は、気を引かれたように体を起こす。
「はい。日がかわって二刻までの魔法の時間です。遊びのようなものですけど。あ、ひとつめは、さっき、鏡花さんに言われてくっついたので、叶えたということで……」
「え、なんだよ、それ。後から言うなんてずるいだろ!」
 芽衣があまり変なことを言われないように、お願いの個数を減らそうと画策すると、鏡花はすぐに口を尖らせた。
 言われて、芽衣も、ずるいかなと思い直す。
「わかりました。確かにそうですね。じゃあ、ひとつめからどうぞ」
「ど、どうぞって、そんな……」
 芽衣が聞く態勢を取ると、鏡花はたじろいだ。
 確かに、願いごとをどうぞ、と言われて、すぐにあれとこれとなんて言うのは難しいだろう。鏡花が一緒に寝ようと言いやすいようにするにはどうしたらいいかと考えた末の思いつきだったのだが、うまくなかったかもしれない。けれど、そんな適当な思いつきだったが、鏡花は三つ何を願うのだろうという興味が湧いてしまって、取り下げられなかった。自分だったら、そんなことを言われたら、何を願うだろうとも思う。
「じゃ、じゃあ、ひとつめ」
 そんなことを思っていると、視線の先で、鏡花が考えを固めたような顔をした。
「はい」
 芽衣は少し緊張して待つ。
「……接吻してよ」
 鏡花は少し顔を赤らめて言った。しかし、その目は、ほんとうに芽衣がするのかと窺うようだ。
「わ、わかりました」
 芽衣は恥ずかしい気持ちをおさえ、動じていないかのように振る舞って頷いた。
 内心、最初からハードルの高いお願いが来てしまったと、心臓がばくばく言っている。しかし、喜んで叶えなくてはいけないルールを自分で決めたのだから、恥ずかしがってはいられない。さっきは自らしたいと思ったのだから、大丈夫だ。できる、と自分に言い聞かせた。
 座っている鏡花に口づけをするために、芽衣は膝で立つ。そうして、さらに近づこうとして、鏡花の両の目とばっちりぶつかった。見られたままはさすがに気まずい。
「え、えっと、目を閉じてください」
 芽衣は、それ以上進めなくなって、鏡花に頼む。
「わ、わかった」
 鏡花はじっと見ていたことに気づいていなかったのか、少し恥ずかしそうな顔をしてから目を閉じた。
 鏡花は、ぎゅっと目をつぶっている。
 そうやって、キスを待たれていると、それはそれで、なんだかとても恥ずかしかった。
 あまりまじまじと見たことはなかったが、鏡花の顔はきれいだ。
 その唇に、触れる。
 意識すると、どきどきと心臓が乱れだした。
(だ、駄目だって……さっとやって、終わらせないと……)
 鎮まれ心臓、と芽衣は胸を押さえる。
「な、なにしてるんだよ!」
 ほんの数秒の逡巡だったが、目を閉じている鏡花には長く感じたのか、鏡花はうっすらと目を開けて、怒った。
「は、はい、すみません。今します」
 芽衣は謝って、鏡花の肩に手を置く。
 鏡花は再び目を閉じてくれた。
(見なければいいんだ)
 鏡花を見ていると緊張してしまうと気づき、芽衣は、鏡花に置いた手を、肩から頬に動かした。こうすれば、目を閉じても、ずれることはないだろう。
 芽衣は目を閉じて、顔を近づける。
 触れて、離れる。
 やわらかな感触を感じたか感じないかくらいの、わずかな接触。
 それが、精一杯だった。
「はい」
 芽衣は、鏡花から離れて、正座し直す。
 鏡花がゆっくりと目を開いた。
 その顔は、とてつもなく不満そうだ。
「あのさ。今のって、したってことになるの?」
 声も不満いっぱいだった。
「な、なりますよ! 触れたじゃないですか!」
 全身からたちのぼる不満のオーラに気圧されながらも、芽衣は主張した。キスはした。それは確かだ。
「全っ然、わからなかった! やり直し」
 鏡花は、力を込めて首を横に振る。
「そ、それは、ふたつめのお願いですか?」
「はあ? いっこめのやり直しだよ!」
「そ、そういうの聞いていたら、いつまでも終わらないからだめですよ」
 自由自在のマイルールなので、鏡花の要望を受け入れることもできるのだが、恥ずかしい方が先立って、芽衣は逃げた。
「……わかった」
 鏡花は不満顔のままで頷く。
 まったくわかっていない顔だが大丈夫だろうかと思っていたら、胸元を掴まれた。
「きゃっ……んっ」
 そのまま引き寄せられて、もう一度、唇が重なる。
 芽衣がしたキスとは比べものにならないほど、しっかりと唇が触れた。
「来年は、こういうのって言ってからにするよ」
 唇を離すと、鏡花はそう言って、また軽く口づける。
(来年……)
 明日には、これは方便だと伝えるつもりだったので、芽衣は気まずくなった。今告げてしまおうかと心が揺れる。しかし、決まる前に鏡花に抱き寄せられてしまった。
「ふたつめは、今日、隣で寝てほしい」
 まるで、芽衣の心を覗いたかのようなお願いごとに、芽衣はびっくりする。そう言ってくれればいいと思って仕掛けたことだが、まさか本当にそれをそのまま言ってくれるとは思わなかった。
 もしかしたら、鏡花はこの無茶苦茶な話に気づいているのかもしれない。それで、話にのってくれているのかもしれない。どちらかはわからない。ただ、そうであっても、そうでなくても、目的は達成できたからよしとしよう。
「はい」
 芽衣は楽観的にそう思って、鏡花に頷いた。
 ふたりで並んで布団に入る。
 どきどきはしたが、恥ずかしいというよりも、あったかくて嬉しい。
 芽衣が鏡花の方を向いて横になると、鏡花も同じように芽衣の方を見て横になった。
 どちらからともなく手を握る。
 あたたかい。
 しあわせで、胸がいっぱいになる。
「鏡花さん……」
 すぐそこの鏡花に、芽衣はそっと呼びかける。
「なに?」
 鏡花もささやくように応えた。
「三つ目のお願い、聞いてもいいですか?」
 芽衣が勝手に定めた日がかわってから二刻――一時間がもう少しできてしまう。
 その前に、三つ目を願ってほしい。
 芽衣は最後の願いを知りたかった。
「みっつ目は……」
 問われて、鏡花は目を細める。
「ずっとそばにいて」
 真剣な声に、とくんと心臓が鼓動した。
「今日だけじゃなくて、あしたも、来年も、もっとずっとずっと先―-僕が消えるときまで」
 鏡花の手が、ぎゅっと芽衣の手を握りしめる。
「ずっと」
 祈るように切なくて、とても優しい声。
 芽衣は胸がいっぱいになって鏡花の手を握り返した。
「はい」
 そして、強く頷く。
「ずっと、そばにいます。来年も、再来年も、ずっと……私が消えるときまで、こうして鏡花さんのそばに」
 消えるときなんて悲しいことは想像したくないし、あまりうまくできない。けれど、いつかの未来、その日も、鏡花の傍らにいたい。そばにいてほしい。
 最後まで、ずっと一緒にいたい。
「鏡花さん、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう」
 ふたりは微笑み合い、そっと目を閉じた。


おわり

ハッピーホームバースデー(春芽)

  1

 午後11時54分。
 時計の針が規則正しく動く様を、芽衣は目を逸らせずに見つめていた。
 秒針がぐるりと一回り。これを100回近く。長針もすでに一周を過ぎ、もう少しで一周半だ。
 ベッドに腰をかけて、向かいのチェストの上にある置時計を睨むこと一時間半、芽衣は決心がつかずにいた。時計と向かい合うこの場所に縫いつけられたように座っている。
 かちんと長針が動いた。
 午後11時55分。
 残り5分だ。
 この悩みは時間制限付きだった。
 タイムオーバーまでのカウントダウンが始まって、芽衣の心は、加速度的に焦りを増す。
 しんと静まり返った部屋の中、時計の音が響く。
 この時代の夜は深い。人の気配は薄れ、車の音も列車の音も聞こえない。
 そして、隣の部屋の様子も――。
 芽衣の視線が、わずかに時計の針から、その後ろの壁に逸れる。きれいなピンク色の壁紙が貼られた壁で隔てられた隣は、春草の部屋だ。
 しっかりとした造りのこの屋敷の壁は厚く、隣の部屋の様子は少しも分からない。
 ――春草はもう寝てしまっただろうか。
 少し前から、そんな不安も生まれていた。
 もう日が変わる。課題で夜更けまで起きていることもあるが、そうでなければ寝ている可能性の高い時間だ。
 しかし、もうひとつだけ、寝ていないかもしれない理由があって、そのために、芽衣は悩んでいた。
(こんなことなら、約束すればよかった……)
 何度も思った後悔が再び湧いて出る。
 夕食のとき、食べ終わった後、チャンスはあった。
 そのときも、芽衣はぐずぐず迷って、春草に声をかけることができなかったのだ。
 さらには、夕食の後からこんなに遅い時間になる前に、何時間もあった。もっと早い時間に決断できていれば、ここまで躊躇わずに、春草の部屋を訪ねられただろう。
 芽衣の悩みはつまりそれだった。
 春草の部屋を訪ねていいかどうか。
 そして、いつもと違ってこれほど逡巡しているのは、その理由が実に恥ずかしいものだからだ。そのため、ふんぎりがつかなくて、こんな時間になってしまった。
 芽衣の視線の先で、長針がまた動いた。
 午後11時56分。
 あと4分だ。
 春草は常識的な人だから、こんな時間に訪ねたら、迷惑そうに顔を顰めるに違いない。
 その様子がはっきり浮かぶ。
(でも……)
 そんな顔が予想できるのに、行かないという選択肢を選べない。
 芽衣は、すでに選んでいるのだ。
 春草に迷惑がられても、一緒にいたい。
 この時代の人には、あまり特別ではないのかもしれないけれど、明日は、春草の誕生日だった。
 芽衣は、明日になったらいちばんに、春草におめでとうと言いたかった。
 春草がそれを喜んでくれるかはわからなくて、ほんとうに芽衣の勝手な我がままなのだけれど、そうしたいという思いは消えない。
 そう。行きたいのだ。
 芽衣は、決意した。
 そっと音を立てないように気をつけて、ドアノブを回す。
 鴎外は規則正しい生活をする人だから、もう寝ているだろう。けれど、やはり軍人だから物音には敏感なはずだ。
 そう思って芽衣は細心の注意を払い、そっと薄くドアを開けた。
 廊下は灯りがついていないため、真っ暗だった。
 しばし、暗さに目を慣れさせるため、芽衣はそのまま闇を見つめる。
 そのとき、ガチャリとすぐ近くで、ドアが開く音がした。
 芽衣はどくんと胸を鳴らす。
 その鼓動に押し出されるように廊下に出た。
 隣の部屋から漏れた灯りが、春草を照らしている。
 芽衣の立てた足音に、春草がはっと振り返った。目が合う。
 その途端、芽衣は春草に向かって駆け出した。
 春草は、飛び込んでくる芽衣の腕を掴んで、自分の部屋の中にひきこむ。
 ぱたん、とドアが閉まった。
 どきどきと心臓が激しく鼓動している。
 春草も同じ気持ちだったことが嬉しくて、胸がいっぱいだった。
 たぶんそれは、春草も同じなのだと思う。
 ぎゅっと抱きしめあう力の強さが同じだ。
 言葉もいらなくて、ただ、そうして、三分後。
 芽衣は顔を上げた。
 春草の顔がすぐそばにある。
 予想した迷惑そうな表情は、どこにもない。ほんの少し上気した熱っぽい顔に、芽衣はまた新たにどきどきした。
 もしかしたら、自分も同じような顔をしているかもしれない。
 そう思ったら、おかしくなって、芽衣は口元を緩めた。
 そして。
「お誕生日おめでとうございます」
 春草の誕生日に、芽衣はいちばんに伝える。
 それがとても嬉しくて、しあわせだった。

  2

 翌朝、春草が食堂に入ると、先に席に着いていた鴎外が華やかな笑顔で振り返った。
「やあ、おはよう、春草」
「おはようございます」
 鴎外に応じながら、春草は席に着く。
「誕生日おめでとう」
 そして、さらりと鴎外は言った。
 ヨーロッパでは、誕生日当日に祝うらしい。その文化に触れている鴎外は、春草の誕生日を祝わねばという使命感に、二週間ほど前から燃えていた。
 その鴎外に、西洋に行ったことはないらしい芽衣がなぜか全力で同調して、屋敷の中は、春草の誕生日パーティー準備一色になっている。
 そんな風習のない春草は、特別に、己の誕生日を祝うのは、なんだかくすぐったい。
 けれど、そんな空気に、春草もいつのまにか感化されていて、今日が特別なのだと思うようになっていた。
 年を重ねる今日という日を大切な人と過ごしたい。
 そう、日が変わる前に、思ったのだ。
「ありがとうございます」
 春草は昨夜のことを思い出しながら、鴎外に礼を言う。
 鴎外は鷹揚に頷いた。
「今日は盛大にお祝いだ。フミさんがごちそうを作ってくれるから、早く帰ってくるように」
 鴎外の話に合わせたかのように、ちょうど、フミがにこにこと味噌汁を運んで入ってきた。
「はい。腕によりをかけますね。春草さん、おはようございます。お誕生日おめでとうございます」
 この数週間の騒ぎで、欧州かぶれしていないフミにも、すっかり浸透している。
「おはようございます。ありがとうございます、フミさん」
「お嬢さまもはりきっていらっしゃいましたから、楽しみにしていてくださいね」
 フミはふふ、と笑って、味噌汁を卓の上に置く。
 芽衣のはりきりようは、もちろん春草も知っていた。何を作るかとか部屋をどう飾るかとか、毎日、鴎外とフミと話していたからだ。
 本人に言うつもりはないが、春草のために一生懸命になっているのは嬉しかったし、準備をしている姿が本当にとても楽しそうだったのも嬉しかった。今日の献立はパーティーまで秘密と言われているので、春草はまだ知らない。密かに楽しみにしているのは内緒だ。
「……彼女、大丈夫ですか?」
 しかし、口をついて出るのは、いつものとおり、素直でない言葉だった。
「大丈夫ですよ。よくお勝手の仕事を手伝ってくださいますし」
 フミは、そんな春草に笑って、芽衣を擁護する。
「ああ、そうだ、フミさん。ちゃんと最高級のまんじゅうを用意しておいてくれたまえ」
 その傍らで、鴎外も笑顔でフミに言った。
 何を作ろうとしているかは明白で、春草のすこしうきうきしていた気持ちが萎む。今日だけでも、世界中の饅頭が滅びればいいと思ったが、そんなことは起こらないだろう。
「あ、は、はい……」
 凍りつく春草を見て、フミは気の毒そうにしながらも、家主には逆らえず頷く。
「おはようございます」
 そこに、芽衣が入ってきた。
 一瞬、春草と視線が絡むと、すぐに恥ずかしそうに逸らしてしまう。
 そんなことをしたら、敏い鴎外に気取られると、春草はひやひやした。
「子リスちゃん、今日は春草の誕生日だよ」
 鴎外は、ふたりの間に漂う甘酸っぱい空気に気づいているのかいないのか、それ以上何も言わずに席に着く芽衣に、そう声をかけた。
「あ、そ、そうでした」
 言われて、芽衣は焦ったように顔を上げる。
「春草さん、お誕生日おめでとうございます」
 あらためて、春草に向けられた顔は、こぼれんばかりの笑顔だった。
 朝の陽の光の下で見る、その幸せそうな顔に、少し恥ずかしくなって、今度は春草が目を逸らしてしまう。
「……あ、ありがとう」
 これでは、鴎外にからかわれてしまうと焦って、芽衣への返事が素っ気ないものになってしまった。
 芽衣が気分を悪くしていないだろうかと窺うと、芽衣は全く気にしていない様子で、まだにこにこと笑っていた。
 その顔を少ししまってほしいと、春草は心の中で顔を覆う。
「今日は、フミさんとお前が、パーティーの準備をしてくれるのだろう? 楽しみにしているよ」
「はい! がんばります!」
「まあ、本当は、せっかくの誕生日だから、ふたりで帝國ホテルにでもと思ったのだがね」
「遠慮しておきます」
 以前断った話をぶり返す鴎外に、春草は間髪入れず言った。
「と春草が言うからなあ。しかし、つまらない男だな。子リスちゃんは泊まってみたかったかもしれないだろう?」
 鴎外の言葉に、春草は、はっとして、芽衣を見る。
 そんな真似は分不相応であるし、苦手でもあったので、一も二もなく断ってしまったが、確かに、芽衣はホテルに泊まってみたかったかもしれない。芽衣は、西洋文化に抵抗がないから、楽しめたかもしれない。
 そういえば、聞くこともしなかったと春草は気まずく、芽衣を見た。
 春草の視線を受けた芽衣は笑って首を横に振る。
「帝國ホテルは確かに入ってみたいですけど、でも、春草さんが行きたくないなら、行きたくありません」
 芽衣の答えははっきりしていた。
「それに、せっかくこうして同じ家で暮らしているので、春草さんのお誕生日は、ここで、みんなでお祝いしたいです」
 芽衣の言葉に、春草だけでなく、鴎外もフミも口元を綻ばせる。
「ああ、今日の主役は春草だからね。子リスちゃんの言う通りだ。僕たちは、春草が望むこと、楽しいことをしなくてはならない!」
 芽衣の言うことに、大いに賛同して、鴎外は高らかに宣言した。
「春草さん、楽しみにしていてくださいね! おいしいものたくさん作りますから!」
 芽衣が春草に笑いかけてくる。
「……フミさんの料理をね」
 その笑顔にどきりとして、春草は目を逸らしながらいつもの癖で、ついそんなことを言ってしまった。
「春草さん!」
 案の定、芽衣は頬を膨らませてむくれてしまう。いつもなら放っておいたりもするが、今日はさすがに少し申し訳なくなって、すぐに訂正した。
「冗談。君のも楽しみにしてる」
「は、はい……」
 芽衣はわずかに目を見開いてから、恥ずかしそうに目を伏せる。
 滅多にない春草の素直な態度に、戸惑ったのだろう。
 そんな芽衣をかわいいと思ったが、触れるには、食卓と鴎外とフミという障害がある。
 春草は我慢して、代わりに箸を取った。
「なにぼんやりしているの。せっかくフミさんが用意してくれた料理が冷めるよ」
 ついでに、芽衣に意地悪を言う。
 今、春草が我慢を強いられているのは、芽衣が可愛いせいだから仕方ないだろう。そんなことを言ったら、またむくれながらも、顔を真っ赤にするに違いない。
(……今度、気が向いたら、言ってみようかな……)
 春草は、芽衣が慌てふためく様を想像して、小さく笑った。
「は、はいっ」
 そんなことを思われているなどと知らない芽衣は、素直に慌てて同じように箸を取る。
 そんな二人を、鴎外とフミは微笑ましそうに見守っていた。

  3

 芽衣は、よし、ときれいに片づけたサンルームを見回して、満足気に頷いた。
 今日のパーティー会場の掃除は完了した。あとは、フミが帰ってきたら、一気にスパートだ。
 最初は誕生日パーティーにピンときていなかったフミも、春草のためにがんばって準備しようとはりきっている。鴎外も一緒に献立を考えてくれたり、パーティー用に特別資金を出してくれたりと、協力してくれている。
 この家のみんなで、春草の誕生日を祝えるのが嬉しいし楽しい。
 今晩は、春草の好きなものをたくさん並べて、最後は、みんなでケーキを食べるのだ。
 この時代の道具、材料では、ケーキ作りは難しいのだが、この二週間、いくつもの失敗を重ねて、どうにかおいしいものが作れるようになっていた。今日はうまく焼きたい。
 フミが戻って来たら、早速ケーキ作りだ。
 ふんふふーんと鼻歌混じりで、芽衣は台所に向かう。掃除のあとは、今日使うための食器を洗うのだ。
 楽しくて仕方がなかった。
 心が軽いと、体が軽い。
 芽衣は鼻歌を歌いながらふきんを手にする。そして、軽やかにターンをして、固まった。
 台所の入り口のところに、心底不審そうな目をした春草が立っていたのだ。
(み、見られた……!)
 体中から、ぶわっと汗が噴き出す。
「……声をかけても返事がないから、いないのかと思った」
「お、お帰りなさい」
 口から機械的に、言葉が出る。
 ひどく日常的な響きに、このまま何事もなかったことにならないだろうかと、芽衣はふきんを握りしめ、春草の返事を待った。
「…………ただいま」
 春草は、言いたいことを百万語ほど飲み込んだ顔で、まずそう言った。しかし、不審そうな目は、しっかりと芽衣に留まっている。
「……あのさ」
「は、はい……」
 落ち着きがないとか、はしたないとか、呆れ混じりのそんな言葉が、頭の中をぐるぐる回る。
 明治時代の女の子が歌いながら踊るところを、芽衣は見たことがない。そもそも同い年くらいの少女の知り合いがいないから、この時代のスタンダードを知りようもないのだが、しかし、この時代の人は、どの年齢のひともだいたいみんな落ち着いているように見えたから、女子学生といえども、歌いながら踊るようなことはしないように思えた。
 春草には、また奇抜な子に見えたことだろう。
 せっかく春草の誕生日なのに、気まずい雰囲気になってしまうのは嫌だ。変な子と思われて、気持ちがさめてしまったらどうしよう――と、そんなことを考えていたら、突然、春草が動いて、次の瞬間、芽衣は春草に抱きしめられていた。
「しゅ、しゅしゅ春草さん……!?」
「黙って」
 予想していなかったことに驚いて、慌てて離れようとする芽衣を、春草は、子どもにするように、しっと制する。
 春草にそう言われると何も言えなくなって、芽衣は口をつぐんだ。
 温かい春草の胸に、どきどきと心臓が高鳴る。
 どうして突然抱きしめてきたのかわからないが、こうして触れ合えるのは嬉しい。それに、浮かれているところを見られて、呆れられたわけではなかったようで、安心した。
 しばらくすると、少しだけ、春草の腕の力が緩んだ。
 それでも、まだ体は離れず、背中に回された腕はそのままだ。
 芽衣も離れたくなくて、その距離のまま、ゆっくりと顔を上げて、春草を見る。
 春草も芽衣を見つめていたが、ふいに何かを躊躇うように視線を少しさまよわせてから、芽衣の右肩辺りにそれを止めた。
「……あのさ……ちょっと恥ずかしいんだけど……」
 そして、微妙に目を逸らしたまま言う。
 春草の頬は、確かに少し赤らんでいた。
「え? 何がですか?」
 芽衣は、よくわからず首を傾げた。
 春草の声に、わずかに詰るような響きが込められていることには気づいたが、何を非難されているのかわからない。
「……君が浮かれているの、こっちが恥ずかしいんだけど」
 すると、春草は睨むように、芽衣に視線を戻してきた。
「朝も、君があからさまだから、ゆうべ一緒にいたこと、鴎外さんに気づかれたらってひやひやした」
「あ、あからさまって……」
 態度に出しているつもりはなかった。
 鴎外に知られたら、盛大にからかわれるだろうことは目に見えていたので、隠さなくてはと気をつけていたくらいだ。しかし、その努力はあまり実を結んでいなかったらしい。
「その緩み切った顔、どうにかしなよ」
 ひどい言われようだが、芽衣の顔がまずいのだとしたら、それは春草のせいだ。
 芽衣は眉根を寄せ、少し強気に、春草に言い返そうとした。
「それは――」
「そんなに、俺の誕生日が嬉しいの?」
 しかし、それより早く、春草に目を覗き込まれてしまう。
 熱を帯びたまっすぐな目に、芽衣は一気に逆上せた。
「ねえ」
 春草は、答えをねだるように重ねて聞いてくる。
 わかっているのに聞くなんて、ずるいと思う。そう思いながらも、芽衣は答えないということできなかった。
「……う、嬉しいに決まってるじゃないですか」
 芽衣は、せめてもの反撃をと思い、恥ずかしさをこらえて春草の目を見返す。春草の目がわずかに見開かれた。
「春草さんと一緒にいられて、春草さんと一緒に春草さんの誕生日をお祝いできて、とてもしあわせです」
 春草に告げるなかで、恥ずかしさを越えて、しあわせな気持ちがこみあげてきた。
 自然と顔が綻ぶ。
 だから、お祝いの支度をするのはとても楽しい。
 変な目で見られても、心が弾んで、浮かれてしまう。
 これは全て、春草の誕生日だからだ。
 春草と想いを交わし合って、この時代に残れなかったら、こんなしあわせな時間を過ごせなかった。
 だから、今日がとても嬉しい。
 春草といられることに感謝している。
「…………困るんだけど」
 芽衣がしあわせいっぱいな気持ちでいたら、春草がぼそりと言った。
「え……?」
 心をすべて曝け出して、返ってきた言葉が、「困る」。芽衣は愕然とした。今も温かい腕で抱きしめられているのに、芽衣の気持ちを春草はずっと困っていたというのだろうか。
「君さ、そんなかわいいこと言って、どうしたいの。君がかわいすぎて困る」
 真意が掴めなくて困惑していると、春草の熱っぽい瞳に睨まれる。たちまち芽衣の不安は消え、代わりにかっと熱くなった。
「そ、そんなこと言われても……」
 言わせておいて、それはない。
 むしろ、どきどきさせられて困っているのは、芽衣の方だ。
「ねえ、俺の誕生日、祝ってくれる気があるなら――……」
 春草の視線から逃れるように目を伏せた芽衣の腰を、春草はぐっと引き寄せる。
「そばにいて」
 耳に直接吹き込まれた声に、どきりと胸が震えた。
 春草はそのまま耳朶に軽く唇で触れていく。
 ちゅっと湿った音が鼓膜を震わせる。
 恥ずかしくて、どきどきして体が震えた。
「顔、真っ赤だけど、どうにかする約束、覚えてる?」
 約束はしていないと言いたかったが、そんな口答えをするよりもなによりも、このどきどきし過ぎる状況を、芽衣はどうにかしたかった。
「…………な、なら、離れてください」
「離れていいの?」
 またずるい質問だ。
 そうやって言葉を引き出させるのだとわかっていても、芽衣は、春草の望む返事しかできない。それが、芽衣の気持ちだからだ。
「…………いや、です」
 芽衣は、春草の袖を掴む。
 春草は満足そうに、芽衣を抱きしめた。
「芽衣……」
 そのまま口づけられそうになって、芽衣はふとふきんを握ったままだったことに気づき、さらにはもっと重要なことを思い出した。
「あ、あの、もう少しで、フミさんが帰ってくるので……」
 芽衣も春草とこうしていたいが、こんなところをフミに見られたくない。かといって、春草の誕生日パーティーの準備も途中なので、どちらかの部屋に行って閉じこもることもできない。
 芽衣は、離れがたい気持ちを抱きながらも、春草の胸を押し返す。
 しかし、春草は逆に力をこめて、芽衣を抱きしめてくる。
「しゅ、春草さん!?」
「フミさんが帰ってくるまで」
 フミが帰ってくることが伝わらなかったのかと不安になった芽衣に、春草は素早く言った。
「……はい」
 温かな胸を、もう一度押し返すことはできなくて、芽衣は頷いた。
 来年も再来年も、その先もずっと、一緒にいられたらいい。
 芽衣はそっと春草に身を寄せて、目を閉じた。

  4

 その後、買い物から帰ってきたフミと、早めに仕事から帰ってきた鴎外と芽衣の三人で、春草の誕生日パーティーの準備が始まった。
 鴎外も台所に立っていることが申し訳なくて、春草も手伝おうと何度も台所に行ったが、そのたびに、鴎外に主役は待っていろと追い返されていた。
 食卓の上に並びきらないほどのごちそうに、バースデーケーキ。
 鴎外が手に入れてきてくれたろうそくをケーキに立てて、部屋の明かりを消すと、ろうそくの柔らかな光が揺らめいた。
「春草さん、ふーって吹き消してください!」
「え? な……なにそれ、俺がやるの?」
 芽衣が楽しそうに春草の袖を引く。
 「ケーキ」も珍しいのに、それにろうそくを立てて、その火を吹き消すなんて聞いたことがない。
 けれど、芽衣は当たり前のことのように頷いた。
「そうです。吹き消す前に、ちゃんとお願いごとするんですよ」
「子リスちゃんはよく知っているね。春草、これは西洋の習わしだ。願いごとをして、ろうそくの火を吹き消す。ひと息で全て吹き消すことができたら、願いが叶うと言われているのだよ」
 鴎外は芽衣に感心してから、春草に詳しく説明してくれた。
「はあ……」
 春草は、生返事をしながら、逃げ道はないと悟る。みんなが注視している中で、あまりやりたくはないが、仕方ないだろう。ろうそくの火を吹き消すくらいの文化でよかったと思えばいい。
(願いごとか……)
 春草は、ちらと芽衣を見る。
 もしも願いが叶うなら――。
 春草は一度目を閉じて、それから息を吹きかけた。
 ろうそくの火がふっと消える。
 一瞬、真っ暗になるが、すぐにフミが部屋の明かりをつけてくれた。
 全部ひと息で消えた。これで願いが叶うなんて信じたりはしないが、気分は悪くない。
「おめでとう! 春草」
 ふうと息をついたとき、鴎外が拍手をして祝ってくれた。
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます」
 芽衣とフミも、それに続く。
 ぱちぱちと三人による大きな拍手が、部屋に響いた。
「あ、ありがとうございます」
 気恥ずかしいが、とてもあたたかい。
 できることなら、この瞬間を、絵に描きとめたいと思った。きっと、今の春草の心を写した、誰が見ても幸せな気持ちになる絵になるだろう。
「写真撮りたかったな」
 隣で、芽衣が残念そうに漏らす。
「写真?」
「はい。記念に」
 芽衣はなんでもないことのように簡単に言うが、写真なんてそう易々と撮れるものではない。こういうとき、彼女はいったい何者なのだろうと、少し遠く感じる。けれど、手法は違えど、この瞬間を残しておきたいという同じ想いを抱いたことに、芽衣をとても近くに感じる。
「なるほど。子リスちゃん、いい案だね。写真屋を呼べばよかったな」
 鴎外は、芽衣に、ふむと感心して、あごに手を添えた。
「今日は残念だが、そうだ、今度この四人で撮りに行こうではないか!」
 そして、顔を輝かせて、三人を振り返る。
「え、だ、旦那様。私は結構でございますよ」
 鴎外の本気を察して、フミが慌てている。
「俺も写真なんていいです」
 春草も、できれば辞退したかった。
 写真には興味あるが、自分が写るのはあまり気が進まない。
「いいですね!」
 そんな中、芽衣だけが、鴎外に賛成した。
「子リスちゃんは、理解があってよろしい。春草もフミさんも、これからの時代、写真のひとつやふたつに慣れておかなくては駄目だ」
 鴎外は、きっぱりと言い放った。
 これはもう、写真を撮りに行くことは決定だろう。
「はあ……」
 春草は無駄な抵抗も試みず、曖昧に返事をした。

 そして、次の休日、鴎外の号令のもと、四人でおめかしをして、写真屋に写真を撮りに行った。

 鷹揚とした笑みを浮かべる鴎外と、楽しそうな芽衣と、大緊張のフミ、それに緊張で仏頂面の春草。

 その顔が恥ずかしくてあまり見たくないのだが、それでも、この一葉は、見るたびにあたたかい気持ちにしてくれた。


「春草さん、お待たせしました」
 ひょいと芽衣が、開いたままの襖の脇から顔を覗かせる。
 きれいに髪をまとめて、身だしなみ程度の化粧をして、いちばん仕立てのいい着物を着ている。
 写真の中の少女から、今、目の前にいる芽衣へとつながる。
 たくさんの月日を共に過ごすことができた。
 あの日、信じないながらも、ろうそくの火に願ったことが叶っている。
 きっと、この先も叶い続けるだろう。
 毎年、願いを重ねているのだから。

 ――ずっと君と一緒にいられますように。

「待ちくたびれた」
 春草は、アルバムを閉じて、いつものように意地悪を言う。
「す、すみません」
 芽衣もいつものように、少し慌てて謝った。
「写真屋が閉まったらどうしてくれるの」
「まだお昼なんですから閉まりませんって」
 重ねて意地悪を言うと、少し反発してくる。
「でも、急ぎましょう」
 けれど、すぐに心配そうな顔になって、芽衣は春草の手を取り急ぎ足で歩き出した。
 忙しく変わる芽衣の表情がおかしくて、春草はこっそり笑う。
 芽衣の言う通りまだ昼なのだから、店が閉まることはないだろう。それでも、春草に言われて心配になってしまうのだ。
 ――今日の写真は特別だから。
 あの年から毎年、春草の誕生日に写真を撮るようになった。
 そうして、アルバムはだいぶ膨らんだ。
 あの年から何年経っただろう。
 一枚目を撮ったときは、触れることに照れがあったのに、今はこうして触れることになんのためらいもない。芽衣が春草の手を取ることも、春草が芽衣の手を取ることも、当たり前のことになっていた。
 あの日の約束通り、芽衣はずっとそばにいて、毎年春草の誕生日を祝ってくれている。
 それはなんて幸福なのだろう。
「……ありがとう」
 春草はそっと呟いた。
「え? 何か言いました?」
 芽衣が振り返る。
「何も。ほら、急ぐよ」
 春草は芽衣の手を握り直すと、その手にぎゅっと力を込めた。
「はい」
 芽衣は嬉しそうに笑って頷く。
 その笑顔が、春草を幸せな気持ちにしてくれるのは、あの頃から変わらない。
 そして、これからもずっと。

おわり

どこかで避暑でも(神楽坂組)

 明るくなってから置屋に帰ってきた音二郎は、至極上機嫌だった。
「お帰りなさい」
「おう、帰ったぜ」
 朝というよりは午に近い時間だが、まだ酒が残っているかのように機嫌がいい。
 帰ってきた音二郎はスーツ姿だった。昨日のお座敷は一緒だったので、宴席の後、音奴として客と飲みに行ったことは芽衣も知っている。だが、今、スーツ姿ということは、そのうえ、また別のグループで――「川上音二郎」の知り合いたちと――飲んでいたらしい。よほど楽しい酒だったのだろう。音二郎はその余韻に浸るかのように鼻歌まじりだ。「にしても、今日はひときわ暑ぃな」
 上着を脱いだ音二郎は暑さにぼやきながら、シャツのボタンを、ひとつ、ふたつと外す。
 一番上ははじめから外れていたから、シャツはほとんどはだけた。そのうえ、風を送るために、その胸元をぱたぱたとはためかせるものだから、ちらちらと素肌が見える。
 いつもは着物に隠れて意識しなくて済む引き締まった胸元に、芽衣はどきりとして慌てて目を逸らした。
(い、意識しちゃだめ……)
 あそこにいるのは音奴、あそこにいるのは音奴、と念仏のように繰り返す。
 そして、心臓の落ち着きを確かめるために、もう一度音二郎に視線を戻して、また、どきりとしてしまった。
(…………っ)
 長い足を投げ出して座り、暑そうにしている様は、まるで映画のワンシーンのようだ。
 思わず見とれそうになった芽衣は、そのことに気づいて、また急いで目を逸らす。
(や、役者さんなんだから、当然だよね)
 格好良いのも、芽衣がどきどきしてしまうのも、現代で言えば、テレビに出ているような人なのだから、仕方のないことだ。
 願わくば、できるかぎり早く音奴の姿に戻ってほしい。
 そうしたら、この乱れた動悸も落ち着くことだろう。
「は、はい。今日はほんとうに暑いですね」
 芽衣は平静を装って音二郎に頷いた。そして、団扇をとって風を送る。
 暑さが落ち着けば、すぐに音奴の着物を着てくれるかもしれないと思っての振る舞いだ。
「お、ありがてえ」
 そんな芽衣の心中を知らず、音二郎は嬉しそうに身を乗り出してくる。
 芽衣は、思わず近づかれた分だけ退いた。
「ん?」
 その気まずい距離感に、音二郎の眉がぴくりと動く。機嫌よかった顔が一瞬にして曇る。
「どうした?」
「な、なにがでしょう」
 問いながら近づいてくる音二郎から、芽衣は尻をずって逃げる。男装であまり近づかないでほしかった。
「なにがって……おい、こっち見やがれ」
 音二郎に手首を取られて、芽衣の顔はかっと赤くなってしまう。
 それに気づくと、音二郎の雰囲気が和らいだ。
「ん? なんだ、お前、もしかして照れてるのか?」
 音二郎に図星をさされて、ますます顔が赤くなる。
「お前もようやく、この川上音二郎様の魅力に気づいたか?」
 音二郎は、わっはっはと豪快に笑った。
「お、男の人の格好は慣れてなくて……」
「は? 俺は男だっつーの。お前もそろそろちゃんとわかれ」
 芽衣が正直に言うと、上々に戻った機嫌を損ねてしまったらしく、音二郎は眉根を寄せた。
「そ、それはわかってます」
「わかってねえ。ほら、こっち見ろよ」
「み、見られません」
 ぐいと腕を引かれるが、意識してしまうと、どう見たらよいものかわからなくなった。今のままでは、音二郎を見た途端、顔がトマトのように真っ赤になってしまいそうだ。
「なんだ、そりゃ」
 頑なに顔を背ける芽衣に、 音二郎はおかしそうに笑う。
「お前はほんとにかわいいよな」
 ついには、音二郎の大きな手が、頬に触れた。「音奴」とは緊張しない距離、行為なのに、音二郎だと、そんな戯言にもどきどきして緊張してしまう。
「あ、あんまり近づかないでください。音二郎さん、暑いんですよね?」
「ああ、そうだ。暑いは暑いが――もっと近づいたら、お前がどうなるのか見てみてえな」
 頬に置いた手にわずかに力がこもる。
 音二郎の体がゆっくりと近づいてきた。
 芽衣の体などすっぽり収まってしまう大きな体。
 射止めるように強い眼差し。
 いやでも、音二郎が男の人なのだとわかってしまう。
「お、おおお音二郎さん!!」
 芽衣は目をぎゅっとつぶって、音二郎を思いきり押した。
「あっはっは」
 動揺あらわな芽衣に、音二郎は大笑いして、されるがまま離れてくれる。そして、芽衣が置いた団扇を取ると自分を扇いだ。
「それにしても、どうにもならねえ暑さだな」
 ひとしきりからかって満足したのか、音二郎は話を暑さに戻した。
「そうですね」
 芽衣はほっとしながら頷く。
 音二郎の言うとおり、今日はここ最近でいちばん暑い。じっとしていても空気が熱くて息苦しいほどだ。当然のことながら、この時代にはクーラーなんてものはないので、芽衣は少々こたえていた。
「あー暑いな。――そうだ! どっか涼しいとこにでも行くか」
 音二郎は名案を閃いたとばかりに、手を打つ。
「え?」
「海とかよ。たまにはいいだろ? 一泊くらい。うまいもんも食えるぞ」
 海と聞いて、あわびにさざえ、伊勢海老、新鮮な魚たち、魅力的な食材が、芽衣の脳裏に一瞬にして浮かんだ。
 もちろん、一番の好物は肉だが、芽衣は基本的に食べることが大好きだ。
「な、どうだ?」
 芽衣の返事を確信しているかのように自信たっぷりに見てくる音二郎の目。
 それにまた少しどきりとしながらも、芽衣は大きく頷こうとした。
 反対する理由はもちろんない。
「は、は――」
 と、そのとき、突然、すぱーんと襖が開かれて、
「駄目に決まってんだろっ!!」
と、一喝された。
 芽衣も音二郎も、ぽかんと突然現れた書生――鏡花を見つめた。
「未婚の男女がふたりっきりで旅行だなんて何考えてるんだよ!!」
 ふたりの驚きなど置いてきぼりに、鏡花は断固反対と言い募る。
「い、いや待てよ。なんでお前がここにいるんだ。ここは関係者以外立ち入り禁止だぜ、鏡花ちゃん。ばれたら座敷出入り禁止にされるぞ」
 その勢いに飲まれかけて、どうにか我に返った音二郎は、鏡花をたしなめた。旅行への口出しより何より、ここに堂々と入り込んでいることがまず問題だ。
「ふんっ。今はみんな部屋を出払っていることは確認済みだよ。だからあんたもそんな格好でも堂々と入れたんだろ!」
 鏡花はそうふんぞりかえって言いながらも、さすがに襖を開け放ったままはまずいと思ったのか、部屋の中に入ってきっちりと閉めた。
「ああ? 俺のことつけてたのか?」
 鏡花の言い様に、音二郎は眉根を寄せる。
 それに対し、鏡花は目を見開いて吠えた。
「ちーがーう! どうして僕が川上なんかをつけなきゃなんないのさ! 偶然ここの前を通りかかったら、あんたが置屋に入っていくのが見えたからね、文句を言うために寄ったんだよ!」
「文句だ?」
「あんた、この間も、ひとのいない間に勝手に部屋に入って原稿読んだだろ。まだ書きかけだから駄目だって言ってるのに!」
「勝手にじゃねえよ。ちゃんと家人に断ったぜ」
「僕に断れ!」
「断ったら見せてくれねえだろ」
「当然だろ!」
 どこまでも平行線の会話だ。
 鏡花の原稿を盗み見ない音二郎も、音二郎に協力的な鏡花も想像できないので、これは永遠に解消されないだろう。ここで幸いなことは、音二郎が不法侵入でなかったことだと、芽衣はこそりと思っていた。
「じゃあ、断りはいれられねえな。俺はホンの具合が気になるんだからよ」
「どこまで図々しいんだよ! 僕の仕事の進捗をあんたに気にされる筋合いはないね!」
 鏡花はものすごい形相で音二郎を睨みつけている。
 鏡花の主張はどれももっともだ。
(ごめんなさい、鏡花さん)
 お姐さんに代わって、芽衣は心の中で鏡花に謝る。これまでの経験上、口に出したらまた一揉めするので、謝罪は胸の内におさめておいた。
「あーそれより鏡花ちゃんよ、お前、最近詰まってんじゃねえのか?」
 と、突然、音二郎は心配そうに尋ねた。
「え?」
 鏡花はびっくりした顔で音二郎を見返す。
 どうやら図星だったようだ。
 さすがに神楽坂一の芸者だけてあって、人の好不調を見抜くことに長けている。
「原稿、先週からちっとも進んでねえじゃねえか」
 さすが音二郎さん、と芽衣が思うのと同時に、音二郎はそんなことを言った。
(ん……?)
 芽衣は首を傾げる。
「あ、あんた、そんなにちょくちょく覗きに来てるわけ!?」
 芽衣の疑問は、鏡花が言葉にしてくれた。
 音二郎は売れっ子芸者の洞察力を発揮したわけではなく、頻繁に勝手に覗きに行っているという話だ。
 鏡花はわなわなと拳を震わせている。
「ちゃんと先生には断り入れてるぜ? 鏡花ちゃんには友だちが少ないから、ちょくちょく遊びに来てやってくれって言われたくらいだ」
「先生に取り入るな! ああもういい! とにか、金輪際下宿に近づくなよ!」
 にやにやする音二郎に、鏡花は顔を真っ赤にして怒鳴った。
 そして、踵を返してかけてぴたりと止まる。
(あれ? どうしたのかな、鏡花さん)
 いつもなら、それを捨て台詞に、怒って出て行くようなタイミングだったのに、鏡花はそのまま動かなかった。 
 予想を裏切られて、芽衣は首を傾げる。
 音二郎も芽衣と同じように不思議そうだ。音二郎も、鏡花の癇癪のようにぴしゃりと閉まる襖を想像していたのだろう。
「わかってるよね、あんた」
 鏡花を見守っていると、不意にきつく睨まれた。
「え? 何のことですか?」
 何の心当たりもな聞き返すと、鏡花は焦れたように声を荒げた。
「だから! 未婚の男女がふたりっきりで旅行なんて、非常識だってわかってるよね! しかも、この川上とだなんて!」
 言われて、芽衣は気づく。
(あ、そっか……)
 ここは明治時代で、音二郎は男性だ。夫婦でも恋人でもない男女が二人きりで旅行するなんて、現代でも奇異なことと見られるのに、いわんや明治時代をやだ。音二郎とは共に暮らしているから、姉というか兄というか、家族のような存在に思ってしまっているが、もっと気をつけなければいけない関係なのだ。
「やだねえ。女同士水入らずの旅にけちつけなさんな」
 しかし、納得した芽衣に対して、音二郎は芽衣を抱き寄せ、音奴の口調で鏡花に反論する。
 さっきはどきどきした距離も、音奴だと思ったら、特に何とも思わないから不思議だ。
「あんたは男だろ! どさくさに紛れてこの子に触るなよ!」
 芽衣がのんきにそんなことを思っていると、鏡花は目をつりあげて、音二郎を怒った。
「別に俺がこいつに触ろうが、ふたりきりで旅行しようが、鏡花ちゃんには関係ねえだろ?」
 音二郎は、まるで鏡花に見せつけるように、芽衣をさらに抱き寄せる。
「なにか問題でもあるのか? なあ、鏡花ちゃんよ」
「ぐっ……」
 音二郎ににやにやと詰め寄られて、鏡花は言葉を詰まらせた。
 ふたりの会話が途切れたので、芽衣は口を開く。
 鏡花のおかげで、ひとつ、いい案を思いついたのだ。
「鏡花さん、ありがとうございます」
「え?」
 突然の感謝に、鏡花は戸惑ったように芽衣を見た。
「音二郎さんには、音奴姐さんの格好で行ってもらえば、周りに変に思われないですよね。気づかなかったので、言ってもらえてよかったです」
 音二郎の言うとおり、女子旅をすればいいのだ。この時代に、女性同士で旅をする風習があるかはわからないが、結婚前の男女が旅行するよりは奇異な目で見られないだろう。音二郎は出かけるとなると男装が多いので、言われなければ、そのまま行ってしまっていたはずだ。危ないところだった。
「おいこら、ちょっと待て。俺は女の格好でなんか行かねえぞ」
「えっ、それは困ります」
 きっぱりと音二郎に断られて、芽衣は慌てて音二郎を振り返った。
 音二郎は、苦虫を潰したような渋面をしている。
「ぶふっ」
 一方、背後で、鏡花が吹き出した。
 音二郎の形良い眉がぴくりと動く。
「俺は絶対に男の格好で行くからな! そうじゃなかったら、旅行はやめだ!」
 そして、まるで宣言のようにそう言った。
「ええ! そんな!」
 伊勢えびやあわびやさざえが、手を振って遠のいていく。
(だめ、待って!)
 もう口の中は、海の幸を食べる準備ができていた。
 芽衣は彼らを引き止めるため、急いで頭を振り絞る。
 どうしたらよいだろう。
 一番簡単なのは、男装の音二郎との旅行を承知することだ。芽衣としては全く問題はないのだが、明治という時代と鏡花が許してくれないだろう。
 まるで秩序の番人のように、鏡花は芽衣が頷かないように見張っている。
 ――――鏡花。
 鋭い眼差しを向ける鏡花にあらためて気づいて、芽衣ははっとした。
「じゃ、じゃあ、鏡花さんも一緒に行ってください!」
 芽衣は、思いついたことをそのまま口にする。
「はあ?」
 鏡花は思い切り眉根を寄せた。
「二人っきりが駄目なら、三人ならいいですよね? 鏡花さん、私のあわびのために協力してください!」
 芽衣は、ぱんと音が鳴るほど勢いよく手を合わせて鏡花にお願いした。
 これなら未婚の男女がふたりきりで旅行ということも、音二郎が男装で行くことも同時に解決する。
 海の幸に目が眩んでいる芽衣には、鏡花が行きたいかどうかは問題ではなかった。
「な、なに言い出すんだよ、あんた。そういう問題じゃないだろ! ぼ、僕が行ったところで、未婚の男女が連れ立って旅行するのは変わらないだろ!」
「それはほら、修学旅行とか部活の合宿だとか思えばいいじゃないですか!」
「は? なんだよ、それは?」
「ああ、えっと…………」
 鏡花に眉根を寄せられて、学校行事が通じない時代なのだと気づく。芽衣はすぐに
「じゃなかったら、きょうだいとか親戚というのはどうでしょう?」
「あんたはなんでそんなに積極的なんだよ! そうじゃなくて、あんたは、男と旅行するのをなんとも思わないわけ!?」
「鏡花さんこそ、どうしてそんなに消極的なんですか! あわびやさざえを食べたくないんですか!!」
 苛立ったようにきつく言う鏡花につられて、芽衣も声を荒げる。
「生かもしれないって心配なんですか? 大丈夫ですよ! 東京で食べるより絶対新鮮ですし、それでも心配なら鏡花さんの分は火を通してもらいましょう! ね?」
 芽衣は、これで安心だろうと鏡花に笑いかけた。
「ね、って……あんた……」
 鏡花は二の句がつげず口ごもる。
 芽衣は、鏡花ですら論点はそこではないと言い出せないほどのオーラを立ち上らせていた。
「鏡花ちゃん、観念しろ」
 音二郎が、そっと鏡花の肩に手を置いた。
「もうこうなったら止められねえよ。肉以外でも、こんだけ目の色変えるっつーのは予想外だったけどな」
「ああ……」
 こそこそと音二郎に言われて、鏡花も頷く。
「ま、こいつも暑さに参ってたからよ。ちょっと涼しいところに行ってうまいもんいっぱい食うのはいいだろうし。それによ、鏡花ちゃんもこいつと同じだろ?」
「え?」
「どうせ、この暑さにやられてばてて、あんまり食ってないだろ。涼しいところに行って、気分転換すりゃ筆も進むってもんだ」
「なっ、そ、それはあんたには関係ないだろ! 言っておくけど、あの作品の上演許可はまだ出してないんだからね!」
「よーし。そうと決まったら、善は急げだ」
 喚く鏡花から離れ、音二郎は上着を掴む。
 鏡花を説得してくれたのかと、芽衣は期待に胸を膨らませた。
「なにも決まってないだろ!」
 しかし、それを、鏡花がすぐに打ち砕く。
 どうやら音二郎も説得に失敗したらしいと芽衣はがっかりした。
 海の幸への道が閉ざされてしまった。
「鏡花ちゃんが行きたくねえって言うなら仕方ねえ。俺たちは夫婦だって言えば白い目で見られねえよ」
 肩を落とす芽衣に、音二郎が第三の解決案を出した。
「はあ?」
 脇で鏡花が素っ頓狂な声を上げるが、芽衣はその手があったかと膝を打つ。
「証明してみせなきゃなんねえことはねえし、適当に言っておけばいいだろ」
「それもそうですね」
 夫婦は気恥ずかしいから、やはり兄妹でと思いながら、芽衣が頷いていると、鏡花がものすごい剣幕で詰め寄ってきた。
「あんた、なに納得してるんだよ! 川上と夫婦だなんていいわけ!?」
「え、そ、それは――」
「あーあー、どこに行こうかなー。温泉も外せねーよなー」
 その後ろで、音二郎が鏡花を煽る。
「お、おおおお温泉!?」
 鏡花は見事に音二郎の狙い通りに激しく動揺した。
「な、お前も入りたいだろ、温泉」
「は、はあ……」
 音二郎が鏡花をからかっているのだろうから、芽衣の返事は曖昧なものになってしまった。
 温泉と聞いて胸は弾んだが、それをそのまま言って、火に油を注ぎたくなかったし、かといって入りたくないと嘘を言うことも違うように思えてできなかった。
「あ、あんた、温泉に入るつもり?」
 しかし、そんな中途半端な返事でも、鏡花は信じられないものを見るような目で、芽衣を振り返った。
「え、えっと……温泉に行くなら入りたいですけど……鏡花さんは、行っても入らないんですか?」
 温泉に行くのに、入らないという選択肢はない。その質問自体がナンセンスで不思議だった。だが、そこで、鏡花は潔癖症だから、温泉なんてもってのほかなのかもしれないと気づく。気持ち悪いというのなら無理強いはできないが、それは実にもったいなく思えた。
「気持ち悪いなら無理には言いませんけど、温泉、気持ちいいですよ。鏡花さんも入りましょう?」
 広い湯船で手足を伸ばして温泉につかったら、原稿漬けの鏡花の疲れもとれるだろう。もし食わず嫌いをしているのならもったいない。
 芽衣はそう思って、鏡花に言った。
「は、入りましょうって……あんた、な、なな何言ってるんだよ! ぼ、僕はそもそも旅行に行くなんて言ってないし……温泉に入るなんて……」
 すると、なぜか鏡花は、かあっと顔を赤くしてしまった。
「えっ、鏡花さん?」
 その鏡花の反応がわからなくて、芽衣は首を傾げかけ、はっと気づく。
「きょ、鏡花さん、もしかして、一緒にって思いました? ち、違いますよ! 一緒にじゃないですよ! 鏡花さん、なに想像してるんですか!」
 言いながら、少し想像してしまって、芽衣も顔が火照ってしまった。鏡花と一緒に温泉に入るなんて、できるわけがない。恥ずかしすぎる。
「ばっ、ぼ、僕はそんなこと……」
 芽衣の指摘に、鏡花は目を大きく見開き、否定しようとするが、大いに動揺している。芽衣の言う通りの勘違いをしたのは明らかだった。
「おいおい、鏡花ちゃん。なんつー想像してくれてんだ? ん? こいつと温泉入りたいって?」
 音二郎がにやにやと笑って鏡花の肩を抱く。
「う、うううるさい! あんたが温泉なんて言うのが悪いんだ!」
 鏡花は、八つ当たり気味に、その腕を払った。
「ま、二人きりは認められねえが、三人で入るってのはいいかもな」
 払われた腕を組み、音二郎は楽しそうに顎を撫でる。
「は? よ、よくないですよ!!」
 音二郎のとんでもない発言に、芽衣はぶんぶんと首を横に振って反対した。
「あっはっはっ。お前、ゆでタコみたいになってるぜ?」
 必死な芽衣を見て、音二郎はおかしそうに笑う。
 顔が赤いことを指摘するなら、もっとかわいい物にたとえてほしいとちらりと思ったが、今はタコでもいいから、駄目だということを伝えたい。
「よくないですからね!」
「ああ。まあ、それはひとまず置いておくか」
 芽衣が念押しすると、音二郎はうんうんと軽く頷いた。
(だ、大丈夫かな……)
 完全にはなくならなかったことに、一抹の不安を覚える。
 もしかしたら、音二郎はまだ酒が残っているのかもしれない。
 ここはもう一度くらい言っておこうと、芽衣は口を開くが、それより先に音二郎は次の行動に移ってしまった。
「よし、じゃあ行くぞ!」
 音二郎は、手にしていた上着を肩にかける。
 まるで近所の店に行くような気軽さだが、これは旅行に出発しようと言っているのだ。
「えっ、今からですか?」
 まさか今の今出発するとは思わなくて、芽衣は驚いた。
「こんな暑いところ、さっさと逃げ出すに限るだろ。今晩は座敷も入ってねえし、休みもらうなら今日がいちばんだ」
 音二郎らしい即断即決だ。
 それに、そう言われると、確かに今出発するのがいちばんだと、芽衣は納得した。
「鏡花ちゃん、今回は特別に、俺とこいつのふたり旅についてきてもいいんだぜ」
 音二郎はにやにやと笑って、鏡花に言う。
「ぐっ……うぅぅう」
 鏡花は言葉を詰まらせて歯ぎしりした。
「新婚だっつって楽しもうな、いろいろと」
 音二郎は、そんな鏡花にさらに見せつけるように芽衣を抱き寄せる。
「お、音二郎さん……」
 低い声で囁かれて、芽衣はどきどきした。たぶん音二郎の思う壺なのだろうが頬に熱が集まってしまう。
「あぁあああ!」
 突然、鏡花が奇声を上げた。
「僕も行く!」
 そして、音二郎と芽衣を睨みつけて言う。
 全く楽しい旅行への参加を表明するような様相ではない。怒りもあらわの忌々しそうな表情だった。
「きょ、鏡花さん、無理しなくても……」
 芽衣が思わずそう言うと、鏡花はますます目を吊り上げて睨んできた。
「なに、僕が一緒にいったらまずいわけ?」
「ち、違います、全然。大歓迎です!」
 芽衣は慌てて盛大に首と手を振る。
「よーし。ようやく決まったな」
「わ、は、離せ!」
 芽衣を不満そうに見ていた鏡花の首根っこを、音二郎ががっちりと掴んだ。
 ようやく鏡花から行くという言葉を引き出せて、満足そうだった。
「行くぞ!」
 そして、反対の手で芽衣の手を取り歩き出す。
「わ、は、はい」
 音二郎に手を引かれながら、何の支度もしていないと思ったが、まあいっかと思い直した。
 きっとこの旅行も平穏無事には済まないのだろうけれど――。
(楽しみだな)
 わくわくする気持ちが膨らんで、芽衣の足取りは軽かった。


おわり

ハッピースイートバースデー(八芽)


 6月27日金曜日の午後、芽衣は、帝國ホテルの八雲の部屋のリビングルームで、ソファに座って英字新聞を読んでいた。
 最近は、八雲が取っている新聞を読ませてもらって、英語の勉強をしている。辞書は手放せないが、わからなかったら、すぐに教えてもらえる相手がいるので、なかなか捗った。我ながら、以前よりは、すらすらと読めるようになっていると思っている。
 八雲は隣に座って、本を読んでいた。金曜日の午後は講義がないため、こうして一緒に過ごすのが習わしのようになっていた。
 そんないつも通りの静かな午後、部屋の呼び鈴が鳴らされた。
「芽衣サンは座っていてください。私が頼んだのですよ」
 芽衣が顔を上げると、八雲がそう言って芽衣を制し、入り口の方へと歩いていく。ルームサービスにコーヒーでも頼んだのかもしれないと思い、芽衣は再び新聞に目を落とした。
 しかし、そこに、八雲が軽やかに戻ってきたので、芽衣の目はそちらに釘づけになる。その手に、予想外のものを持っていたからだ。
「芽衣サン! 見てくださーい! こちらのケーキ! クリームがたっぷりで、とてもおいしそうですよ。いかがです?」
 スキップで戻ってきた八雲は、そう言って、たくさんの大きなイチゴがきれいに並んだショートケーキを差し出した。八雲の言うとおり、生クリームがたっぷりかかっていて、とてもおいしそうだ。
「わあ」
 芽衣は、目を輝かせた。丸い大きなケーキは、わくわくする。食べたときのことを考えれば涎が出てしまう。
「それとも、チョコレートケーキの方がお好みですか?」
 八雲は、ショートケーキを脇に置くと、後から続いて現われた給仕が押すワゴンから、今度は、まるでエナメルのように光り輝くチョコレートケーキをとって、差し出してきた。こちらもチョコレートクリームがたっぷりと使われていて、とてもおいしそうだ。
「ああ、ですが、タルトも捨てがたいですね」
 八雲は、芽衣の返事を待たずに、それも置くと、今度はフルーツたっぷりのタルトを持ち上げた。初夏の瑞々しい果物がふんだんに使われた、目にも楽しい、おいしそうなタルトだ。
 さすがは帝國ホテル。どのケーキも申し分なくおいしそうだ。
 だが、しかし、である。
 ケーキはそれだけではおさまらず、また、マカロンやビスケットなどの焼き菓子もたくさん運ばれてきて、最初はときめいた芽衣も、戸惑いを覚えた。
「芽衣サンは、どのケーキがお好きですか?」
 八雲はにこにこと聞いてくる。
「ええっと……」
 芽衣は返事に困った。
 部屋には、最後に運ばれてきた紅茶の良い香りが漂う。テーブルの上には、誰しも一度は夢見る「お菓子の山」さながらの、たくさんのお菓子が置かれている。これは現実だろうか。いったいどうしたのだろう。
「たくさん召し上がってくださいね」
 返事に窮する芽衣に構わず、八雲は、いつものように優しく笑いかけてきた。
「あ、ありがとうございます……」
 芽衣は御礼を言ってから、楽しそうな八雲を窺う。そして、聞いてみた。
「あ、あの……八雲さん。どうして、こんなにケーキやお菓子を頼んだんですか?」
 ケーキも洋菓子も、通常のルームサービスにはないものばかりだ。八雲が特別に頼んだのだろう。どうして、今日、突然、こんなことを思い立ったのか不思議だった。八雲は甘いものが好きな方だが、それにしてもいちどに食べられる量ではない。食べきれなかったら捨ててしまうことになるのだろうか。誰かにお裾分けできればいいが、八雲が、意味もなく、そんなもったいないことをするとは思えなかった。
 その理由が知りたくて、芽衣が尋ねると、八雲はいつも以上に優しく微笑んだ。八雲の笑顔は見慣れているはずなのに、芽衣は思わず頬を赤く染めてしまう。
(や、やっぱり、すてきだよね、八雲さん)
 芽衣は、八雲に悟られないように、どきどきと脈打つ胸をおさえた。
「今日は、どうしても、貴女とケーキパーティーをしたかったのですよ」
 さきほどの質問に、八雲はそう答えた。
(ケーキパーティー……?)
 芽衣は、テーブルの上を見渡す。確かに、これはパーティーにふさわしい。しかし、どうして、突然ケーキパーティーなのかがわからない。それとも、芽衣が考えるような深い理由はなくて、本当に単にケーキパーティーがしたかったのだろうか。
 なんとなく、違和感を覚えた。もっと別の理由があるのではないかと思う。
「ああ、芽衣サン。どうせならビーフパーティーだったらもっと良かった、という顔をなさってますね。申し訳ありません」
 芽衣が考え込むと、八雲が顔を覗き込んできた。
「そ、そんなこと思ってません!」
 芽衣は慌てて否定する。誤解はもちろん、突然近くに八雲の顔が現れたことにも慌てた。八雲はくすりと笑って、離れていく。
「そうですか。芽衣サンは、甘いもの、お好きですよね?」
「はい。大好きです」
 芽衣は、力強く頷いた。
 それはもちろん好きだ。肉とは別腹なところもいい。
「それはよかった」
 八雲は嬉しそうに頷いてから、少し顔を引き締めた。その顔は、なぜか気まずそうにも見える。芽衣がどうしてだろうと思っているうちに、八雲はまた口を開いた。
「……そうですねえ。実は、理由は、もうひとつあります」
「もうひとつ?」
 それこそが、このケーキパーティーの理由だろう。このユニークな行為に、いったいどんな理由があるのかと、芽衣は八雲の言葉を待つ。
「はい。今日が私のバースデーだからです」
 そして、八雲は、さらりと言った。
 バースデー。
 英語から日本語に翻訳するまでもない。頭にすっと入ってきた。
「や、八雲さん、今日、お誕生日なんですか!」
 芽衣は目を剥いて、声を上げた。思わず、立ち上がってしまう。
 今日が、八雲の誕生日だと知らなかった。
(今日って、なん日……6月27日……)
 芽衣は、さっとカレンダーに目を走らせ、日にちを確認する。
 6月27日。八雲が生まれた大切な日。
 なぜそれを今まで知らずにいたのか、衝撃的だった。
「ど、どうして、もっと早く言ってくれないんですか!」
 このパーティーがバースデーパーティーならば、最初からそうすると言ってくれればいい。そう思って言ってしまってから、芽衣は間違いに気づいた。
「じゃない。……ごめんなさい、私、知らなくて」
 責められるべきは、大切な人の誕生日を知らずにいた芽衣の方だ。それなのに、八雲を非難してしまって、消え入りたいほど、申し訳なく恥ずかしかった。
「謝ることなんてありません。私が言わなかったのですから」
 それなのに、八雲はやっぱり優しい。
 そっと取られた手に引き寄せられて、芽衣は八雲の胸におさまる。
「でも、私、聞きもしないで……」
 本当にそれが、申し訳なくてたまらなかった。どうして今まで聞かなかったのか、不思議で仕方ない。
(星占いとかないからかな……)
 そんなことに原因を求めてしまう。あとは、この時代の人々が誕生日を重視していないという外部環境のせいにもしたくなる。しかし、西洋人の八雲と現代人の芽衣には、あまりあてはまらない話だ。
「いえ、私が聞かせなかったのですよ。ですから、貴女が謝ることはないのです」
「え?」
 あれこれと原因を考える芽衣に、八雲が言った。すぐには理解できず、芽衣は聞き返す。
「貴女は、ご自分の誕生日を忘れていて、大切な日を祝うこともできません。それに、誕生日を思い出したら、他のことも思い出してしまうかもしれません。そうしたら、貴女はどこかに行ってしまうのではないかと思って……だから、誕生日の話は避けていました。本当は、私の誕生日をアピールして、貴女に祝っていただきたかったのですが……。我慢していました」
 八雲は申し訳なそうに微笑んだ。
「私はずるいのです。そんなことを考えながら、結局、我慢し切れず、無理矢理祝っていただこうとしました。ですから、貴女が謝ることも、申し訳なく思うこともないのです。私が悪いのですから」
 さきほど少し気まずそうな顔をしたように見えたのは、目の錯覚ではなかったようだ。八雲は、自分のずるさに、後ろめたいものを抱えていたのだろう。
 芽衣は大きく首を横に振った。全く八雲は悪くない。ずるくもない。とても優しいと思った。
「八雲さんは、ずるくありません! それに、無理矢理なんて言わないでください。私も八雲さんのお誕生日、お祝いしたいですから! 本当に、ちゃんとお祝いしたかったです……」
 芽衣は、心から残念で、目を伏せる。こうした形ではなく、きちんと八雲の誕生日を祝いたかった。
「今、こうして祝っていただいているではありませんか」
「そうじゃなくて、ちゃんと、私がお祝いしたかったんです! 八雲さんが準備するんじゃなくて、私がケーキとかごちそうとか準備して、プレゼントも用意して……」
 八雲の優しいフォローに、芽衣は顔を上げ、言い募る。
 八雲自身にさせるのではなく、芽衣が準備したかったのだ。今日は、プレゼントも用意していない。お祝いの言葉すら、準備していないのだ。
「芽衣サンは優しい方ですね。そんなに優しいと、どこかの悪いおまわりさんにつけこまれてしまいますよ」
 だが、優しい八雲にそんなことを言われてしまった。意図的に話をずらされて、芽衣は少し不満を覚える。冗談めかすことで、どちらが悪いという話を終わらせるつもりなのだろう。
「……大丈夫ですよ。そんなおまわりさんはいませんから」
「それはどうでしょうか」
 八雲の大人な態度に、芽衣が少し拗ね気味に返事をすると、八雲は、ちゅっと芽衣の唇を掠めていった。
「!」
 不意打ちのキスに、芽衣はびっくりする。そんな芽衣の鼻先で笑って、八雲は笑った。
「私は、大切なマイフェアリーを捕まえようと手ぐすね引いているおまわりさんを知っているような気もしますが――。あー、今のは、バースデープレゼントですよ。ありがとうございます、芽衣サン」
 芽衣は胸をどきどきさせながら、その笑顔を見つめ、ひとつ、思いつく。
「八雲さん。私、誕生日を6月27日にします」
「え……?」
 唐突すぎたのか、八雲はきょとんと首を傾げた。
 今日を誕生日にする。それはとてもいい考えに思えた。
「どうせ忘れてしまっているんだから、自分で決めてもいいと思いませんか? 誕生日。ないのも不便ですし。だから、八雲さんと同じ今日を誕生日にしようと思います。……いいですか?」
 いい考えだと思ったが、先人の許可は必要だと思って、芽衣は八雲を窺う。すると、話を理解した八雲は頬を上気させて頷いた。
「……も、もちろんです! 誕生日が貴女と同じだなんて、なんて素晴らしいのでしょう!」
 八雲は、感極まったように言って、芽衣を抱きしめる。
「本当に貴女は素敵な方ですね」
「それなら、八雲さんが素敵だからです」
「えっ……」
「八雲さんが優しいから、私も優しくなれるし、八雲さんにしあわせにしてもらっているから、私も八雲さんをしあわせにしたいと思うんです」
 目を瞬く八雲に、芽衣は笑った。どうしてこれほど与えてくれているのに無自覚なのだろう。
「本当に……神に感謝します」
 八雲は一度天を仰ぎ、それから芽衣を大切に抱きしめた。
 お互いに顔を見合って、口を開く。
「お誕生日おめでとうございます、八雲さん」
「ハッピーバースデー、芽衣サン」
 声が重なる。二人は、顔を見合わせたまま笑い合った。


おわり

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