1
午後11時54分。
時計の針が規則正しく動く様を、芽衣は目を逸らせずに見つめていた。
秒針がぐるりと一回り。これを100回近く。長針もすでに一周を過ぎ、もう少しで一周半だ。
ベッドに腰をかけて、向かいのチェストの上にある置時計を睨むこと一時間半、芽衣は決心がつかずにいた。時計と向かい合うこの場所に縫いつけられたように座っている。
かちんと長針が動いた。
午後11時55分。
残り5分だ。
この悩みは時間制限付きだった。
タイムオーバーまでのカウントダウンが始まって、芽衣の心は、加速度的に焦りを増す。
しんと静まり返った部屋の中、時計の音が響く。
この時代の夜は深い。人の気配は薄れ、車の音も列車の音も聞こえない。
そして、隣の部屋の様子も――。
芽衣の視線が、わずかに時計の針から、その後ろの壁に逸れる。きれいなピンク色の壁紙が貼られた壁で隔てられた隣は、春草の部屋だ。
しっかりとした造りのこの屋敷の壁は厚く、隣の部屋の様子は少しも分からない。
――春草はもう寝てしまっただろうか。
少し前から、そんな不安も生まれていた。
もう日が変わる。課題で夜更けまで起きていることもあるが、そうでなければ寝ている可能性の高い時間だ。
しかし、もうひとつだけ、寝ていないかもしれない理由があって、そのために、芽衣は悩んでいた。
(こんなことなら、約束すればよかった……)
何度も思った後悔が再び湧いて出る。
夕食のとき、食べ終わった後、チャンスはあった。
そのときも、芽衣はぐずぐず迷って、春草に声をかけることができなかったのだ。
さらには、夕食の後からこんなに遅い時間になる前に、何時間もあった。もっと早い時間に決断できていれば、ここまで躊躇わずに、春草の部屋を訪ねられただろう。
芽衣の悩みはつまりそれだった。
春草の部屋を訪ねていいかどうか。
そして、いつもと違ってこれほど逡巡しているのは、その理由が実に恥ずかしいものだからだ。そのため、ふんぎりがつかなくて、こんな時間になってしまった。
芽衣の視線の先で、長針がまた動いた。
午後11時56分。
あと4分だ。
春草は常識的な人だから、こんな時間に訪ねたら、迷惑そうに顔を顰めるに違いない。
その様子がはっきり浮かぶ。
(でも……)
そんな顔が予想できるのに、行かないという選択肢を選べない。
芽衣は、すでに選んでいるのだ。
春草に迷惑がられても、一緒にいたい。
この時代の人には、あまり特別ではないのかもしれないけれど、明日は、春草の誕生日だった。
芽衣は、明日になったらいちばんに、春草におめでとうと言いたかった。
春草がそれを喜んでくれるかはわからなくて、ほんとうに芽衣の勝手な我がままなのだけれど、そうしたいという思いは消えない。
そう。行きたいのだ。
芽衣は、決意した。
そっと音を立てないように気をつけて、ドアノブを回す。
鴎外は規則正しい生活をする人だから、もう寝ているだろう。けれど、やはり軍人だから物音には敏感なはずだ。
そう思って芽衣は細心の注意を払い、そっと薄くドアを開けた。
廊下は灯りがついていないため、真っ暗だった。
しばし、暗さに目を慣れさせるため、芽衣はそのまま闇を見つめる。
そのとき、ガチャリとすぐ近くで、ドアが開く音がした。
芽衣はどくんと胸を鳴らす。
その鼓動に押し出されるように廊下に出た。
隣の部屋から漏れた灯りが、春草を照らしている。
芽衣の立てた足音に、春草がはっと振り返った。目が合う。
その途端、芽衣は春草に向かって駆け出した。
春草は、飛び込んでくる芽衣の腕を掴んで、自分の部屋の中にひきこむ。
ぱたん、とドアが閉まった。
どきどきと心臓が激しく鼓動している。
春草も同じ気持ちだったことが嬉しくて、胸がいっぱいだった。
たぶんそれは、春草も同じなのだと思う。
ぎゅっと抱きしめあう力の強さが同じだ。
言葉もいらなくて、ただ、そうして、三分後。
芽衣は顔を上げた。
春草の顔がすぐそばにある。
予想した迷惑そうな表情は、どこにもない。ほんの少し上気した熱っぽい顔に、芽衣はまた新たにどきどきした。
もしかしたら、自分も同じような顔をしているかもしれない。
そう思ったら、おかしくなって、芽衣は口元を緩めた。
そして。
「お誕生日おめでとうございます」
春草の誕生日に、芽衣はいちばんに伝える。
それがとても嬉しくて、しあわせだった。
2
翌朝、春草が食堂に入ると、先に席に着いていた鴎外が華やかな笑顔で振り返った。
「やあ、おはよう、春草」
「おはようございます」
鴎外に応じながら、春草は席に着く。
「誕生日おめでとう」
そして、さらりと鴎外は言った。
ヨーロッパでは、誕生日当日に祝うらしい。その文化に触れている鴎外は、春草の誕生日を祝わねばという使命感に、二週間ほど前から燃えていた。
その鴎外に、西洋に行ったことはないらしい芽衣がなぜか全力で同調して、屋敷の中は、春草の誕生日パーティー準備一色になっている。
そんな風習のない春草は、特別に、己の誕生日を祝うのは、なんだかくすぐったい。
けれど、そんな空気に、春草もいつのまにか感化されていて、今日が特別なのだと思うようになっていた。
年を重ねる今日という日を大切な人と過ごしたい。
そう、日が変わる前に、思ったのだ。
「ありがとうございます」
春草は昨夜のことを思い出しながら、鴎外に礼を言う。
鴎外は鷹揚に頷いた。
「今日は盛大にお祝いだ。フミさんがごちそうを作ってくれるから、早く帰ってくるように」
鴎外の話に合わせたかのように、ちょうど、フミがにこにこと味噌汁を運んで入ってきた。
「はい。腕によりをかけますね。春草さん、おはようございます。お誕生日おめでとうございます」
この数週間の騒ぎで、欧州かぶれしていないフミにも、すっかり浸透している。
「おはようございます。ありがとうございます、フミさん」
「お嬢さまもはりきっていらっしゃいましたから、楽しみにしていてくださいね」
フミはふふ、と笑って、味噌汁を卓の上に置く。
芽衣のはりきりようは、もちろん春草も知っていた。何を作るかとか部屋をどう飾るかとか、毎日、鴎外とフミと話していたからだ。
本人に言うつもりはないが、春草のために一生懸命になっているのは嬉しかったし、準備をしている姿が本当にとても楽しそうだったのも嬉しかった。今日の献立はパーティーまで秘密と言われているので、春草はまだ知らない。密かに楽しみにしているのは内緒だ。
「……彼女、大丈夫ですか?」
しかし、口をついて出るのは、いつものとおり、素直でない言葉だった。
「大丈夫ですよ。よくお勝手の仕事を手伝ってくださいますし」
フミは、そんな春草に笑って、芽衣を擁護する。
「ああ、そうだ、フミさん。ちゃんと最高級のまんじゅうを用意しておいてくれたまえ」
その傍らで、鴎外も笑顔でフミに言った。
何を作ろうとしているかは明白で、春草のすこしうきうきしていた気持ちが萎む。今日だけでも、世界中の饅頭が滅びればいいと思ったが、そんなことは起こらないだろう。
「あ、は、はい……」
凍りつく春草を見て、フミは気の毒そうにしながらも、家主には逆らえず頷く。
「おはようございます」
そこに、芽衣が入ってきた。
一瞬、春草と視線が絡むと、すぐに恥ずかしそうに逸らしてしまう。
そんなことをしたら、敏い鴎外に気取られると、春草はひやひやした。
「子リスちゃん、今日は春草の誕生日だよ」
鴎外は、ふたりの間に漂う甘酸っぱい空気に気づいているのかいないのか、それ以上何も言わずに席に着く芽衣に、そう声をかけた。
「あ、そ、そうでした」
言われて、芽衣は焦ったように顔を上げる。
「春草さん、お誕生日おめでとうございます」
あらためて、春草に向けられた顔は、こぼれんばかりの笑顔だった。
朝の陽の光の下で見る、その幸せそうな顔に、少し恥ずかしくなって、今度は春草が目を逸らしてしまう。
「……あ、ありがとう」
これでは、鴎外にからかわれてしまうと焦って、芽衣への返事が素っ気ないものになってしまった。
芽衣が気分を悪くしていないだろうかと窺うと、芽衣は全く気にしていない様子で、まだにこにこと笑っていた。
その顔を少ししまってほしいと、春草は心の中で顔を覆う。
「今日は、フミさんとお前が、パーティーの準備をしてくれるのだろう? 楽しみにしているよ」
「はい! がんばります!」
「まあ、本当は、せっかくの誕生日だから、ふたりで帝國ホテルにでもと思ったのだがね」
「遠慮しておきます」
以前断った話をぶり返す鴎外に、春草は間髪入れず言った。
「と春草が言うからなあ。しかし、つまらない男だな。子リスちゃんは泊まってみたかったかもしれないだろう?」
鴎外の言葉に、春草は、はっとして、芽衣を見る。
そんな真似は分不相応であるし、苦手でもあったので、一も二もなく断ってしまったが、確かに、芽衣はホテルに泊まってみたかったかもしれない。芽衣は、西洋文化に抵抗がないから、楽しめたかもしれない。
そういえば、聞くこともしなかったと春草は気まずく、芽衣を見た。
春草の視線を受けた芽衣は笑って首を横に振る。
「帝國ホテルは確かに入ってみたいですけど、でも、春草さんが行きたくないなら、行きたくありません」
芽衣の答えははっきりしていた。
「それに、せっかくこうして同じ家で暮らしているので、春草さんのお誕生日は、ここで、みんなでお祝いしたいです」
芽衣の言葉に、春草だけでなく、鴎外もフミも口元を綻ばせる。
「ああ、今日の主役は春草だからね。子リスちゃんの言う通りだ。僕たちは、春草が望むこと、楽しいことをしなくてはならない!」
芽衣の言うことに、大いに賛同して、鴎外は高らかに宣言した。
「春草さん、楽しみにしていてくださいね! おいしいものたくさん作りますから!」
芽衣が春草に笑いかけてくる。
「……フミさんの料理をね」
その笑顔にどきりとして、春草は目を逸らしながらいつもの癖で、ついそんなことを言ってしまった。
「春草さん!」
案の定、芽衣は頬を膨らませてむくれてしまう。いつもなら放っておいたりもするが、今日はさすがに少し申し訳なくなって、すぐに訂正した。
「冗談。君のも楽しみにしてる」
「は、はい……」
芽衣はわずかに目を見開いてから、恥ずかしそうに目を伏せる。
滅多にない春草の素直な態度に、戸惑ったのだろう。
そんな芽衣をかわいいと思ったが、触れるには、食卓と鴎外とフミという障害がある。
春草は我慢して、代わりに箸を取った。
「なにぼんやりしているの。せっかくフミさんが用意してくれた料理が冷めるよ」
ついでに、芽衣に意地悪を言う。
今、春草が我慢を強いられているのは、芽衣が可愛いせいだから仕方ないだろう。そんなことを言ったら、またむくれながらも、顔を真っ赤にするに違いない。
(……今度、気が向いたら、言ってみようかな……)
春草は、芽衣が慌てふためく様を想像して、小さく笑った。
「は、はいっ」
そんなことを思われているなどと知らない芽衣は、素直に慌てて同じように箸を取る。
そんな二人を、鴎外とフミは微笑ましそうに見守っていた。
3
芽衣は、よし、ときれいに片づけたサンルームを見回して、満足気に頷いた。
今日のパーティー会場の掃除は完了した。あとは、フミが帰ってきたら、一気にスパートだ。
最初は誕生日パーティーにピンときていなかったフミも、春草のためにがんばって準備しようとはりきっている。鴎外も一緒に献立を考えてくれたり、パーティー用に特別資金を出してくれたりと、協力してくれている。
この家のみんなで、春草の誕生日を祝えるのが嬉しいし楽しい。
今晩は、春草の好きなものをたくさん並べて、最後は、みんなでケーキを食べるのだ。
この時代の道具、材料では、ケーキ作りは難しいのだが、この二週間、いくつもの失敗を重ねて、どうにかおいしいものが作れるようになっていた。今日はうまく焼きたい。
フミが戻って来たら、早速ケーキ作りだ。
ふんふふーんと鼻歌混じりで、芽衣は台所に向かう。掃除のあとは、今日使うための食器を洗うのだ。
楽しくて仕方がなかった。
心が軽いと、体が軽い。
芽衣は鼻歌を歌いながらふきんを手にする。そして、軽やかにターンをして、固まった。
台所の入り口のところに、心底不審そうな目をした春草が立っていたのだ。
(み、見られた……!)
体中から、ぶわっと汗が噴き出す。
「……声をかけても返事がないから、いないのかと思った」
「お、お帰りなさい」
口から機械的に、言葉が出る。
ひどく日常的な響きに、このまま何事もなかったことにならないだろうかと、芽衣はふきんを握りしめ、春草の返事を待った。
「…………ただいま」
春草は、言いたいことを百万語ほど飲み込んだ顔で、まずそう言った。しかし、不審そうな目は、しっかりと芽衣に留まっている。
「……あのさ」
「は、はい……」
落ち着きがないとか、はしたないとか、呆れ混じりのそんな言葉が、頭の中をぐるぐる回る。
明治時代の女の子が歌いながら踊るところを、芽衣は見たことがない。そもそも同い年くらいの少女の知り合いがいないから、この時代のスタンダードを知りようもないのだが、しかし、この時代の人は、どの年齢のひともだいたいみんな落ち着いているように見えたから、女子学生といえども、歌いながら踊るようなことはしないように思えた。
春草には、また奇抜な子に見えたことだろう。
せっかく春草の誕生日なのに、気まずい雰囲気になってしまうのは嫌だ。変な子と思われて、気持ちがさめてしまったらどうしよう――と、そんなことを考えていたら、突然、春草が動いて、次の瞬間、芽衣は春草に抱きしめられていた。
「しゅ、しゅしゅ春草さん……!?」
「黙って」
予想していなかったことに驚いて、慌てて離れようとする芽衣を、春草は、子どもにするように、しっと制する。
春草にそう言われると何も言えなくなって、芽衣は口をつぐんだ。
温かい春草の胸に、どきどきと心臓が高鳴る。
どうして突然抱きしめてきたのかわからないが、こうして触れ合えるのは嬉しい。それに、浮かれているところを見られて、呆れられたわけではなかったようで、安心した。
しばらくすると、少しだけ、春草の腕の力が緩んだ。
それでも、まだ体は離れず、背中に回された腕はそのままだ。
芽衣も離れたくなくて、その距離のまま、ゆっくりと顔を上げて、春草を見る。
春草も芽衣を見つめていたが、ふいに何かを躊躇うように視線を少しさまよわせてから、芽衣の右肩辺りにそれを止めた。
「……あのさ……ちょっと恥ずかしいんだけど……」
そして、微妙に目を逸らしたまま言う。
春草の頬は、確かに少し赤らんでいた。
「え? 何がですか?」
芽衣は、よくわからず首を傾げた。
春草の声に、わずかに詰るような響きが込められていることには気づいたが、何を非難されているのかわからない。
「……君が浮かれているの、こっちが恥ずかしいんだけど」
すると、春草は睨むように、芽衣に視線を戻してきた。
「朝も、君があからさまだから、ゆうべ一緒にいたこと、鴎外さんに気づかれたらってひやひやした」
「あ、あからさまって……」
態度に出しているつもりはなかった。
鴎外に知られたら、盛大にからかわれるだろうことは目に見えていたので、隠さなくてはと気をつけていたくらいだ。しかし、その努力はあまり実を結んでいなかったらしい。
「その緩み切った顔、どうにかしなよ」
ひどい言われようだが、芽衣の顔がまずいのだとしたら、それは春草のせいだ。
芽衣は眉根を寄せ、少し強気に、春草に言い返そうとした。
「それは――」
「そんなに、俺の誕生日が嬉しいの?」
しかし、それより早く、春草に目を覗き込まれてしまう。
熱を帯びたまっすぐな目に、芽衣は一気に逆上せた。
「ねえ」
春草は、答えをねだるように重ねて聞いてくる。
わかっているのに聞くなんて、ずるいと思う。そう思いながらも、芽衣は答えないということできなかった。
「……う、嬉しいに決まってるじゃないですか」
芽衣は、せめてもの反撃をと思い、恥ずかしさをこらえて春草の目を見返す。春草の目がわずかに見開かれた。
「春草さんと一緒にいられて、春草さんと一緒に春草さんの誕生日をお祝いできて、とてもしあわせです」
春草に告げるなかで、恥ずかしさを越えて、しあわせな気持ちがこみあげてきた。
自然と顔が綻ぶ。
だから、お祝いの支度をするのはとても楽しい。
変な目で見られても、心が弾んで、浮かれてしまう。
これは全て、春草の誕生日だからだ。
春草と想いを交わし合って、この時代に残れなかったら、こんなしあわせな時間を過ごせなかった。
だから、今日がとても嬉しい。
春草といられることに感謝している。
「…………困るんだけど」
芽衣がしあわせいっぱいな気持ちでいたら、春草がぼそりと言った。
「え……?」
心をすべて曝け出して、返ってきた言葉が、「困る」。芽衣は愕然とした。今も温かい腕で抱きしめられているのに、芽衣の気持ちを春草はずっと困っていたというのだろうか。
「君さ、そんなかわいいこと言って、どうしたいの。君がかわいすぎて困る」
真意が掴めなくて困惑していると、春草の熱っぽい瞳に睨まれる。たちまち芽衣の不安は消え、代わりにかっと熱くなった。
「そ、そんなこと言われても……」
言わせておいて、それはない。
むしろ、どきどきさせられて困っているのは、芽衣の方だ。
「ねえ、俺の誕生日、祝ってくれる気があるなら――……」
春草の視線から逃れるように目を伏せた芽衣の腰を、春草はぐっと引き寄せる。
「そばにいて」
耳に直接吹き込まれた声に、どきりと胸が震えた。
春草はそのまま耳朶に軽く唇で触れていく。
ちゅっと湿った音が鼓膜を震わせる。
恥ずかしくて、どきどきして体が震えた。
「顔、真っ赤だけど、どうにかする約束、覚えてる?」
約束はしていないと言いたかったが、そんな口答えをするよりもなによりも、このどきどきし過ぎる状況を、芽衣はどうにかしたかった。
「…………な、なら、離れてください」
「離れていいの?」
またずるい質問だ。
そうやって言葉を引き出させるのだとわかっていても、芽衣は、春草の望む返事しかできない。それが、芽衣の気持ちだからだ。
「…………いや、です」
芽衣は、春草の袖を掴む。
春草は満足そうに、芽衣を抱きしめた。
「芽衣……」
そのまま口づけられそうになって、芽衣はふとふきんを握ったままだったことに気づき、さらにはもっと重要なことを思い出した。
「あ、あの、もう少しで、フミさんが帰ってくるので……」
芽衣も春草とこうしていたいが、こんなところをフミに見られたくない。かといって、春草の誕生日パーティーの準備も途中なので、どちらかの部屋に行って閉じこもることもできない。
芽衣は、離れがたい気持ちを抱きながらも、春草の胸を押し返す。
しかし、春草は逆に力をこめて、芽衣を抱きしめてくる。
「しゅ、春草さん!?」
「フミさんが帰ってくるまで」
フミが帰ってくることが伝わらなかったのかと不安になった芽衣に、春草は素早く言った。
「……はい」
温かな胸を、もう一度押し返すことはできなくて、芽衣は頷いた。
来年も再来年も、その先もずっと、一緒にいられたらいい。
芽衣はそっと春草に身を寄せて、目を閉じた。
4
その後、買い物から帰ってきたフミと、早めに仕事から帰ってきた鴎外と芽衣の三人で、春草の誕生日パーティーの準備が始まった。
鴎外も台所に立っていることが申し訳なくて、春草も手伝おうと何度も台所に行ったが、そのたびに、鴎外に主役は待っていろと追い返されていた。
食卓の上に並びきらないほどのごちそうに、バースデーケーキ。
鴎外が手に入れてきてくれたろうそくをケーキに立てて、部屋の明かりを消すと、ろうそくの柔らかな光が揺らめいた。
「春草さん、ふーって吹き消してください!」
「え? な……なにそれ、俺がやるの?」
芽衣が楽しそうに春草の袖を引く。
「ケーキ」も珍しいのに、それにろうそくを立てて、その火を吹き消すなんて聞いたことがない。
けれど、芽衣は当たり前のことのように頷いた。
「そうです。吹き消す前に、ちゃんとお願いごとするんですよ」
「子リスちゃんはよく知っているね。春草、これは西洋の習わしだ。願いごとをして、ろうそくの火を吹き消す。ひと息で全て吹き消すことができたら、願いが叶うと言われているのだよ」
鴎外は芽衣に感心してから、春草に詳しく説明してくれた。
「はあ……」
春草は、生返事をしながら、逃げ道はないと悟る。みんなが注視している中で、あまりやりたくはないが、仕方ないだろう。ろうそくの火を吹き消すくらいの文化でよかったと思えばいい。
(願いごとか……)
春草は、ちらと芽衣を見る。
もしも願いが叶うなら――。
春草は一度目を閉じて、それから息を吹きかけた。
ろうそくの火がふっと消える。
一瞬、真っ暗になるが、すぐにフミが部屋の明かりをつけてくれた。
全部ひと息で消えた。これで願いが叶うなんて信じたりはしないが、気分は悪くない。
「おめでとう! 春草」
ふうと息をついたとき、鴎外が拍手をして祝ってくれた。
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます」
芽衣とフミも、それに続く。
ぱちぱちと三人による大きな拍手が、部屋に響いた。
「あ、ありがとうございます」
気恥ずかしいが、とてもあたたかい。
できることなら、この瞬間を、絵に描きとめたいと思った。きっと、今の春草の心を写した、誰が見ても幸せな気持ちになる絵になるだろう。
「写真撮りたかったな」
隣で、芽衣が残念そうに漏らす。
「写真?」
「はい。記念に」
芽衣はなんでもないことのように簡単に言うが、写真なんてそう易々と撮れるものではない。こういうとき、彼女はいったい何者なのだろうと、少し遠く感じる。けれど、手法は違えど、この瞬間を残しておきたいという同じ想いを抱いたことに、芽衣をとても近くに感じる。
「なるほど。子リスちゃん、いい案だね。写真屋を呼べばよかったな」
鴎外は、芽衣に、ふむと感心して、あごに手を添えた。
「今日は残念だが、そうだ、今度この四人で撮りに行こうではないか!」
そして、顔を輝かせて、三人を振り返る。
「え、だ、旦那様。私は結構でございますよ」
鴎外の本気を察して、フミが慌てている。
「俺も写真なんていいです」
春草も、できれば辞退したかった。
写真には興味あるが、自分が写るのはあまり気が進まない。
「いいですね!」
そんな中、芽衣だけが、鴎外に賛成した。
「子リスちゃんは、理解があってよろしい。春草もフミさんも、これからの時代、写真のひとつやふたつに慣れておかなくては駄目だ」
鴎外は、きっぱりと言い放った。
これはもう、写真を撮りに行くことは決定だろう。
「はあ……」
春草は無駄な抵抗も試みず、曖昧に返事をした。
そして、次の休日、鴎外の号令のもと、四人でおめかしをして、写真屋に写真を撮りに行った。
鷹揚とした笑みを浮かべる鴎外と、楽しそうな芽衣と、大緊張のフミ、それに緊張で仏頂面の春草。
その顔が恥ずかしくてあまり見たくないのだが、それでも、この一葉は、見るたびにあたたかい気持ちにしてくれた。
「春草さん、お待たせしました」
ひょいと芽衣が、開いたままの襖の脇から顔を覗かせる。
きれいに髪をまとめて、身だしなみ程度の化粧をして、いちばん仕立てのいい着物を着ている。
写真の中の少女から、今、目の前にいる芽衣へとつながる。
たくさんの月日を共に過ごすことができた。
あの日、信じないながらも、ろうそくの火に願ったことが叶っている。
きっと、この先も叶い続けるだろう。
毎年、願いを重ねているのだから。
――ずっと君と一緒にいられますように。
「待ちくたびれた」
春草は、アルバムを閉じて、いつものように意地悪を言う。
「す、すみません」
芽衣もいつものように、少し慌てて謝った。
「写真屋が閉まったらどうしてくれるの」
「まだお昼なんですから閉まりませんって」
重ねて意地悪を言うと、少し反発してくる。
「でも、急ぎましょう」
けれど、すぐに心配そうな顔になって、芽衣は春草の手を取り急ぎ足で歩き出した。
忙しく変わる芽衣の表情がおかしくて、春草はこっそり笑う。
芽衣の言う通りまだ昼なのだから、店が閉まることはないだろう。それでも、春草に言われて心配になってしまうのだ。
――今日の写真は特別だから。
あの年から毎年、春草の誕生日に写真を撮るようになった。
そうして、アルバムはだいぶ膨らんだ。
あの年から何年経っただろう。
一枚目を撮ったときは、触れることに照れがあったのに、今はこうして触れることになんのためらいもない。芽衣が春草の手を取ることも、春草が芽衣の手を取ることも、当たり前のことになっていた。
あの日の約束通り、芽衣はずっとそばにいて、毎年春草の誕生日を祝ってくれている。
それはなんて幸福なのだろう。
「……ありがとう」
春草はそっと呟いた。
「え? 何か言いました?」
芽衣が振り返る。
「何も。ほら、急ぐよ」
春草は芽衣の手を握り直すと、その手にぎゅっと力を込めた。
「はい」
芽衣は嬉しそうに笑って頷く。
その笑顔が、春草を幸せな気持ちにしてくれるのは、あの頃から変わらない。
そして、これからもずっと。
おわり