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Category: こばなし

このよき日に

 空は青く、高く、晴れ渡り、特別な一日が始まる。


「孔明さん!」
 戸口に立つ孔明に気づくと、花はぱっと顔を輝かせた。
 今にも駆け寄ってきそうな勢いだ。しかし、いつもと違ったかしこまった衣裳のため、胸元で小さく手を振るだけにとどまった。
 花の全身から放たれる喜びに、孔明も顔を綻ばせる。
 幸せだ。
 花と同じように、心に、純粋に喜びがわきあがってくる。
 けれど、その一方で、一点の曇りのない花の笑顔を見ていると、わずかに胸の奥が痛んだ。

 これでよかった?

 そう問いたくなる。
 ここにとどまってよかったのか――ずっと、元の世界にかえすことが、花のためによいことだと考えていた孔明には、わからなかった。
 今も、その考えは変わらない。
 けれど、きっと、よかったのだろう。
 そうも思えていた。
 花はとてもきれいに笑っている。
 今日の青空に負けないくらい、きれいで気持ちの良い笑顔だ。
 幸せなのだと信じられる。
 孔明も、幸福だった。
「うん」
 自分の問いかけに自分で返事をして、孔明は花のもとへいく。
 花は、当然何のことだかわからず、きょとんとしていた。
「とても綺麗だよ」
 そんな花に笑って、孔明はその額に口づける。
 すると、花は顔を赤らめて恥ずかしそうにしながらも、とても嬉しそうに笑った。
 思わずもっと触れたくなる気持ちをどうにか抑えて、孔明は花を離す。
「あ、あの、孔明さん」
 しかし、距離を取ろうとする孔明を、花は慌てたように引き止めた。
「ん?」
 孔明は首を傾げる。
 だが、花は自分から引き止めたのになぜかためらった。早く行かないと、芙蓉に怒られてしまうのはわかっているだろうに、もじもじしている。
「どうしたの?」
「こ、これからもよろしくお願いします!」
 うつむきがちの花の顔を覗き込もうとしたら、花に勢いよく頭を下げられてしまった。
 これからも。
 これまでも、よろしくしていたからの言葉だ。
 孔明の頬が緩む。
 これから共に過ごして、花といる時間が、花といなかった時間を上回ればいい。
「ああ。こちらこそ」
 孔明はそう言って、花を抱きしめた。

 今日はなんて素晴らしい日なのだろう。

迷子

 きょろきょろと周りを見回す。
 どうやら道を間違えてしまったようだ。
 街は見えず、ぽつんと一軒の家があった。質素だが、どことなく品のよい佇まいなのは、きちんと手入れがされているからだろう。
 家の前には、ひなたぼっこをしながら読書なのか、一人のおばあさんが書物を膝にのせて椅子に座っていた。
 人がいてくれて、ほっとする。足早に近寄ると、おばあさんは話しかけやすそうな雰囲気で、ますます安心した。
「あの、すみません」
「はい」
 声をかけると、おばあさんは膝の上の書物から顔を上げる。
 優しそうだ。
「あの、街に行きたいんですが……」
「ああ、でしたら」
 道に迷ったことを告げると、おばあさんは丁寧に教えてくれた。
 街道から外れてしまったようだが、すぐに戻れそうだ。
「ありがとうございます。助かりました」
 心から感謝して、頭を下げる。
「あら、あなた……」
 すると、おばあさんが何かに驚いたように声をもらした。
「?」
 顔を上げて、おばあさんを見ると、彼女は、手に持っていた本に目をとめている。
「あ、珍しいですよね」
 この世界では、こういった形の「本」はないのだ。細い竹を紐で綴って巻物にするのが普通だった。
 おばあさんが微笑む。
「がんばって」
「はい。ありがとうございました」
 僕はもう一度お礼を言って、歩き出した。


「花? お客さん?」
 家の中から、ひとりの老人が出てくる。話し声が中まで届いたのだろう。
 花は振り返って孔明を見る。
 お互い年を取った。しわも増えたし、髪は真っ白だ。
 本当に、長いこと一緒にいる。
「はい。道を尋ねられました」
「こんなところで?」
 孔明は不思議そうだ。
 確かにここは、街道沿いではないから、迷い込む方が難しいかもしれない。
 しかし、彼は来た。
「はい」
 花は頷く。
 懐かしい匂いがした。
 彼はどんな物語を作るのだろう。

鍋パーティー

 

「ナベ?」
 その言葉はもちろん知っている。だが、花が言っているのは、そのことではないようで、亮は聞き返した。
 「鍋にする」と、花は言ったのだ。
 意味がわからない。
「今日は寒いから、あったまるよ」
 しかし、花は亮の戸惑いに気づかず、楽しげにそんなことを言った。
 その手元には、色々な食材が入れられて煮られている鍋がある。
 おそらく、花の国で、この料理を「鍋」と呼ぶのだろうと、亮は見当をつけた。
 ややこしい。
「うまそうな匂いだな!」
「道士様! ナベできた?」
 そこに、 晏而と季翔が、ひょっこりと現れた。
 亮は思わず顔を顰めてしまう。せっかく花と二人きりの時間だったのに、台無しだ。
 しかし、女性の花と子供の亮の分にしては、鍋の中の食材の量が多すぎるので、このことは予想ずみだったが。
「どうして晏而たちが来るの?」
 つい憎まれ口を叩いてしまう。
「もちろん、道士様に呼ばれたからだ」
 そんな亮に、晏而は大人げなく勝利の笑みを向けてきた。
 亮は、頬をひきつらせる。
「道士様の手料理!」
 睨み合う晏而と亮に気づかず、季翔が嬉しそうに叫んだ。
「鍋は大勢で食べた方が楽しいですから」
 そして、その花の言葉で、亮は何も言えなくなってしまう。
 食事の間だけ停戦で、片づけは全て押し付けようと決めた。
「あー、晏而、肉ばっかり食うなよ!」
「それはてめぇだろ!」
 晏而と季翔は意地汚く、肉の取り合いをしている。
 亮は大いに呆れて、そっと白菜を食べた。
 けれど、ちらりと窺えば、花は楽しそうに笑っている。
「たくさん頂いたので、大丈夫ですよ」
「道士様、もう全部いれちゃお!」
「ああ、そうだな。どうせ全部食うんだ」
 肉が少なくなった鍋の中に、また山盛りの肉が投入された。亮には、見ているだけで胸やけを起こしそうな量だ。
 しかし、確かに、二人きりの食事ではこのにぎやかさはない。花も楽しそうだし、たまには大目に見ようと、亮は黙って豆腐を食べる。
「亮、お前は肉食っとけ」
 季翔の箸の先から肉を奪った晏而が、それを亮の皿に放り込んだ。
 一枚ではなく、四、五枚一気にだ。
 こんもりと山になった肉に、亮は眉根を寄せる。
「こんなにいらない」
「いいから食っとけ」
「いらないなら俺が食う!」
「お前はつゆでも飲んでろ!」
 横から季翔が肉を奪おうとすると、晏而の鉄拳が飛んだ。
 山盛りの肉に、亮はためいきをつく。
 しかし、湯気の向こうで、花が笑っていた。
 それを見ると、怒る気が失せてしまう。
 花が笑っているから許すが、次はない、と亮にしては大きな寛容を見せて、亮は肉を口の中に放り込んだ。


「っくしゅ」
 花のくしゃみに、孔明は顔を上げた。
 今日はひどく寒い。部屋の中でも吐く息が白かった。
 長椅子に並んで座って、孔明は読書、花は編み物をしていたが、花は時折手を止めて、手に息をかけていた。
 暖房をつけてはいるが、どうも寒い。
 孔明は書物を脇に置いた。
「花、手を貸して」
「はい?」
 孔明の唐突な呼びかけにもかかわらず、花は首を傾げながらも素直に手を差し出す。
 孔明はそれを握りしめた。
「冷たすぎる」
「孔明さんもです」
 あまりに冷たい花の手に、孔明は顔を顰める。
 しかし、花も同じような顔をした。
「うん、確かに」
 花の指摘通り、孔明の手も冷たく、花の手を温められるとは言えない。
 こんな寒い日は、いいものがあったはず、と孔明は記憶をたどって、思い出した。
「今日は鍋にしようか。あれあったまるよね」
 あったかい湯気が立ち上るにぎやかな食卓。遠い思い出だ。
「お鍋いいですね!」
 花も笑顔で頷いている。
 今日の夕飯は決まりだ。鍋はおいしい。
「……あ、晏而さんたちも呼びましょうか?」
「は?」
 その突拍子もない提案に、孔明は思わず素で聞き返してしまった。
「鍋は人数多い方が楽しくないですか?」
 そんな孔明の反応に、花は少し語気が弱くなる。
 それは、昔も聞いた。
 あのときは、花を独り占めする権利はなかったから、何も言えなかった。
 だが、昔と今では違うのだ。
「やだ。無理」
「無理ってなんですか」
 花は、不可解そうに眉根を寄せている。
 そんな顔をされても、無理なものは無理だ。花との時間を共有するつもりはない。
「ああ、でも、名前出すとさ、嫌な予感、というか……」
 しかし、言いながら、孔明は、嫌な予感が心の中に広がっていくのを感じた。こういう予感はよく当たる。
 そして、まるで孔明の言葉に応じるように、家の呼び鈴が鳴った。
 孔明と花は顔を見合わせる。
 これは、きっと、予感的中ということなのだろう。
 孔明は大きくため息をついた。

嫁です

 

 花は食材を抱えて、孔明の家に行った。
 玄徳軍は今まで仮住まいだったので、孔明たちも城内の部屋で済ませていたのだが、成都に腰を据えることになって、臣下たちも城下に家を持ち始めていた。その中でも一番といってもいいほど早く、孔明は家を構えた。
 上が作らないと下が作れないでしょ、というのが彼の言だったが、ひきこもれる場所がほしかっただけではないかと花は睨んでいる。
 そうでなければ、休みを毎回、家の中に閉じこもって過ごすはずがない。
 近頃は政務も落ち着いてきて、孔明も休みを取れるようになっていた。それでも月に一日、二日という少なさなのだが、その貴重な休みを、孔明は一日中、外に出ないで過ごすのだ。
 花は今までもたびたび孔明の家を訪ねていたが、先日、閉じこもっているばかりか食事もとっていないことを知り、今日は食事を作ろうと思って、仕事終わりにやってきたのだ。
「お邪魔します」
 中に声をかけながらも、勝手知ったる他人の家なので、どんどん奥へと進む。
「あー、花、いらっしゃい」
 家の主は、相変わらずだらしなく床に寝そべっていた。
「師匠……」
 その姿はまったく玄徳軍の重臣に見えない。というより大人としてどうかと思うだらしなさだ。家の中なのだからいいのかもしれないが、限度というものがある。それに親しい仲とはいえ、一応客が訪ねてきているのだから、寝そべったまま迎えるのもどうかと思う。
 ここは少し苦言を呈する必要がある、と花が口を開こうとしたときだった。
「?」
 台所の方から何やら音がするのを聞きとめて、顔を向ける。
 孔明は一人暮らしのはずだ。
 家を持ったり、休みをもらえたりしているものの、いまだ生活の大半は城で過ごしている。食事も城でとるのが常だった。そんなわけで、孔明の屋敷には決まった使用人がいない。
 だが、ついに世話をしてくれる人を雇ったのだろうかと思っていると、その台所の方から人が現れた。
「お、道士様だったか」
「あ、晏而さん!?」
 花はびっくりして大声をあげてしまう。
 それは、晏而だった。
 白い前掛けをつけ、菜箸を握っている。
 あまりにも似合わない。
 ひどい光景だ。
 いや、ひどいのは、ひどいと思ってしまう花だ。
 花は混乱を極めていた。
「な、なに……してるんですか?」
 見ればわかるのだが、聞いてしまう。
「こいつ、放っておくと何も食わないからよ。隆中のときから、たまに飯作ってやってんだ」
 晏而は親しい様子で孔明を指した。
「肉も野菜もちゃんと料理してやらないと、栄養とれないからな」
 そう言って、晏而は快活に笑う。
 前掛けに菜箸。
 台所からはいい匂いが漂ってきている。
「こいつは食わないうえに偏食だから、手間がかかってよ。根野菜はやらかくなるまで煮込まないと食わねえし、肉も――」
 嫁だ。
 孔明の嗜好を細かに語る晏而を前に、花はそっと買ってきた食材を背中に隠した。

すくう

 ゆらゆらと黒い水が揺れている。
 ここは暗い深い底の底。
 この暗さは知っている。これは光のない世界。己の目が閉じて、何も見えていない、彼女に出会う前の世界だ。
 ボクはまたここに戻った。
 それだけのことだ。
 こうなることはわかっていたし、それでもボクには手を放すことしか選べなかったのだから。
 彼女の、あの人のしあわせは別の世界にある。
 ただ――。
 そう、少しだけ、光を知ったこの目には、この世界は暗すぎる。
 ここが暗いと知ってしまった。
 終わりのない底に足がずぼりとはまり、体がからめとられるように沈んでいく。
 ボクは二度ともう、あの明るい日々へは戻れない。
 ボクをすくいあげられるのは、ただひとり、あの人だけだから。
 言葉さえ消えていくようなこの世界で、あの人の名だけは、最後まで失われずに持っていたいと願う。
 この意識がとけて、ボクがなくなるその瞬間まで。

 花。

 ボクははっと目を開いた。
 彼女の名を心に浮かべただけで、こんな暗い世界の中でも、鮮やかに光が生まれて、ボクの目を開かせる。
 そんな存在をなんていうのか、ボクは知らない。
 愛しさを超えて、ボクの中にあった。
 こぽりと、とまるで水の中のように、息が気泡を作る。その気泡は、ゆらゆらとどこまでも昇っていった。
 だいぶ下まで落ちたようだ。
 このままボクはなくなっていくのだろう。
 きっとそれも悪くない。

「師匠!」

 ボクがそっと目を閉じたとき、突然、声が響いた。
 暗い闇をうち払い、どんなに遠く離れていても、ボクに届く声。
 ボクは、目を開ける。
 その途端、思わず目をつぶってしまうほどの光が飛び込んできた。
 眩しい。
 けれど、ボクは見た。
 花がいた。
 ああ、ボクはもう一度生きていいのだろうか。
 いつも君に救われる。
 君にここからすくわれる。

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