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毎日想う

 彼女の声はどこにいても届いて、気づけば、彼女の姿を目で追っていた。
 恋をしているのだと、すぐに気づいた。
 だから、彼女が目の前から消えてしまったときは、とても混乱したけれど、それからも毎日、彼女のことを想った。
 再会して、また恋をして、信じられないことに彼女を得ることができた今も、毎日。
 毎日、彼女を想っている。


 すでに真夜中といっていい時間だった。辺りはしんと静まり、夜の気配に包まれている。城の中で起きているのは、見回りの衛兵と孔明くらいだろう。
 ふと、明かりの揺らぎが目に留まって、孔明は手を止めた。
 気づけば処理した書簡がこんもりと山を作っている。
 短く昼の休憩をとってから、気づけば今だ。間の時間は盗まれたかのように記憶にないが、書簡の山が、孔明がしていたことを明らかにしている。
 しかし、集中力がぷつりと切れてしまった。
 孔明は目を書簡から離して、筆をぶらぶらさせる。頬杖をついて、一息吐くと、ぼんやり、花はもう寝ているだろうかと思った。
 今日の夕飯は何だろう。
 せっかく作ってくれたのに食べなかったら、残念に思うだろうか。
 起きて待ってたりしていないだろうか。
 いや、花のことだから、孔明を待っているうちにうたた寝をしていることだろう。最近蒸す日が続いたが、今日は少し肌寒い。うたた寝などしていたら、風邪を引いてしまう。
 それはよくない。早く帰って、花を寝台に寝かせてあげないと、と思って、孔明は、ちら、と書簡を見た。
 残りはあと少しだ。
 しかし、切れた集中力は戻らない。
 そして、花のもとに行きたい。
「うーん」
 孔明は背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。
 仕事を片づけるべきだとは分かっている。
 まだ大丈夫だからと後回しにした結果がこれだ。
 だが、明日でいいような気もする。
 明日でいいんじゃないだろうか。
「孔明さん?」
 花の声が聞こえた。
 いつでも花の声は頭の中で再現できるが、こんなにもはっきりと幻聴が聞こえるのは、疲れているからだろう。
 やっぱり帰った方がいいらしい。
 帰ろう、と孔明は心を決める。
「孔明さん、どうしたんですか?」
 もう一度はっきりと、それも近くから花の声が聞こえた。
 あまりにも明瞭な声に、孔明ははっと顔を起こす。
 目の前に、花がいた。
「き、君! どうしたの?」
 孔明は思わず腰を浮かせてしまう。
 確かに花だ。何度か見たことのある幻ではない。
「あ、あの……」
 花は孔明の勢いに驚いたように、口ごもった。
「まさか、ボクの帰りが遅いから様子を見に来たとかじゃないよね!? 夜、一人で外を歩いたら危ないだろう?」
 もし花に何かあったらと想像するだけで、胆が冷える。
「い、いえ、あの……半分正解で半分外れです」
 孔明が顔を青くすると、花は慌てて言った。
「どういうこと?」
「書庫の仕事が遅くなったので、孔明さんが終わるのを待っていたんです。でも全然出てこないので、覗いてみたら、ぼんやりしていたので……」
「ああ、そうだったんだ」
 孔明はほっと胸を撫で下ろす。夜道を一人で歩いたわけではないと知って、ひどく安心した。
「外がすごく暗かったので、一緒に帰りたいなって思ったんです」
 怖いから、とは言わずに、花は言う。
 滅多に聞けない甘えた言葉に、孔明は、今すぐ花を抱きしめたくなった。しかし、執務机が邪魔をして、手を伸ばしても花に届かない。
「か、帰ろう! すぐに帰ろう!」
 孔明は急いで筆を置いた。硯も何もこのままでいい。明かりだけ消して、今すぐ家に帰るのだ。
「駄目ですよ。それ、今日中ですよね」
 だが、花は孔明の手元の書簡を指差す。
「大丈夫。明日の朝一番でも全く問題ないよ」
「大丈夫じゃありません」
 孔明がにっこり笑って花の指摘を聞き流そうとすると、花はきっぱりと首を振った。そこには、さきほど甘えてくれた甘さの欠片もない。
「……君、前より厳しくない?」
 孔明は思わず唇を尖らせてしまった。
「そんなことないですよ。私も手伝うので、終わらせてしまいましょう?」
 だが、花は全く構わず、机を回って隣に来る。
「…………うん。じゃあそうしてもらおうかな」
「はい!」
 孔明が観念して頷くと、仕事をするというのに、花はとても嬉しそうに返事をした。
「がんばって終わらせて、早く帰りましょう」
 花はうきうきしているようにも見える手つきで、処理の終わった書簡の整理を始める。
 一緒にいられるのが嬉しい。一緒に帰れるのが嬉しい。
 花の気持ちが伝わってきて、孔明の頬は緩んでしまう。
「そうだね。早く帰って、君と一緒に寝たいな」
 孔明は、花が勘違いするような言い方を選んで呟いた。
「えっ!?」
 花は手にしていた書簡を取り落とす。見事な反応だ。
「今、なに想像したの?」
 孔明はにやにやと尋ねる。
「なにも!」
 花は首を振るが、その耳まで真っ赤だった。
「なにも?」
 孔明は問い返しながら、花の腕を引く。
「えっ、わっ!」
 そして、バランスを崩して倒れる花を、膝の上に抱きかかえた。
「ちょっと休憩しよう」
 ようやく花を抱きしめることができて、孔明は満足する。
 花の温もり、花の匂い。それら全てに癒された。
「駄目です!早く終わらせましょう」
 しかし、花はぴしっと孔明の手を叩くと、さっさと孔明から離れてしまう。
「……やっぱり厳しくない?」
 結婚して数年経つと、甘い関係など望めないのだろうか。
 孔明は、手を取るだけで顔を赤くしていた頃の花を想い、わずかに寂しくなる。
「そんなことないですよ」
 花はそう言うなり、孔明に素早く口づけた。
「!」
 びっくりしている間に、花は離れてしまう。全く味わえなかった。
「も、もう一回」
「駄目です。仕事、終わらせてからです」
 それは、仕事が終わったらもう一回があるということだろうか。
「…………」
 ならば筆を取らざるをえないではないか。
 孔明は、乱暴に置いた筆を再び手にする。
「……どこでこんなこと覚えたんだろ」
「え?」
 思わず孔明がぼやくと、花はきょとんとして聞き返してきた。
「ボクに仕事をさせる特効薬ってこと」
 分かっているくせに、と思いながら、孔明は筆を走らせる。
 しかし、花は不思議そうに目を瞬いた。
「……私は、孔明さんにしたかっただけですよ」
 花の言葉に、孔明は手が止まる。そして、机に突っ伏した。
 花を視界から外さないと、どうにかなってしまいそうだった。
 本当に、どれだけ想っても足りない。愛しさはあとからあとから湧いてくる。
「こ、孔明さん?」
 戸惑ったような花の呼びかけに、孔明はゆっくり体を起こした。
 まだ転げまわってしまいそうな心をどうにか押さえて、花を見る。
 花が好きだと想った。
「好きだよ」
 想ったら、口にしていた。
 花は驚いたように目を見張る。
 自分はあれだけのことをしておいて、これだけのことで驚くのだから敵わない。
「伝えたかっただけ」
 孔明は続けた。
 想いを告げたのは、花と同じ原理だ。
 ただ、愛しくて。好きだから。
「……はい」
 孔明の気持ちが伝わったのか、花は嬉しそうに笑って頷いた。

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