Entry

Category: こばなし

秘密

 

「ふんふふーん、ふふーん」
 上機嫌で歩く季翔の鼻歌が、秋の庭に響いていた。その手には、何やら色々なものが詰まった木箱がある。
 今日はとてもよい天気だ。
 その気持ちの良さに、季翔の足取りも軽い。いや、そうでなくても、いつでも季翔は軽かった。
「楽しそうだね」
「うげ、亮!」
 突然目の前に現れた孔明に、季翔は潰れた悲鳴を上げる。
 その驚き方はいつもと同じようで、それでいて、全く本気だった。
 孔明はその微かな違和感に気づき、笑みを深める。
「なに? ボクだけど、ボクに会ったらまずかった?」
 季翔が仕事をさぼるのは日常だ。それが孔明に見つかるのもまたいつものことである。だから、この動揺はそのためではないということだ。今日の季翔も、全く仕事をしているようには見えないのも確かだが、とにかく孔明と鉢合わせては都合の悪いことをしているのだろう。
 それが何なのか、非常に興味をそそられた。
「そ、そんなこたねえぜ!」
 季翔は大げさなほどに頭を後ろに逸らせる。
「俺とお前は、まぶだちじゃねえか! 苦楽を共にした、戦友! 熱い友情で結ばれた兄弟!」
 そして、箱を片手で持って、もう一方の空いた手で、孔明の肩を抱いた。
 友達なのか兄弟なのかさっぱり分からないが、孔明は友達になった覚えもないし、兄弟ではない。
 孔明がとりあえず季翔の手を払おうとすると、それより早く、季翔が離れた。
「だがぁ、今は駄目だ!」
 孔明から間合いを取ると、季翔は芝居がかった様で腕をぐっと突き出す。孔明にそれ以上近づくなということだ。
 特に近づきたくもなかったので、孔明はその場に留まった。
「またあとで遊んでやるから! じゃあな!」
 出会ってから今まで季翔と遊んだ記憶はない。
 しかし、孔明がそれを告げるより早く、季翔の姿は消えていた。
 逃げ足だけは速い。
「…………」
 孔明はひとつ、息を吐いた。逃げる者を追いかけて捕まえ、白状させるのは、孔明の方法ではない。
「なんだろうね?」
 呟く声は楽しげだ。
 季翔一人で、孔明に黙って何かをしようと思いつくはずがない。当然共犯者がいるはずだ。もちろん晏而は関わっているだろう。それに、恐らく花も噛んでいる。あとは、城の中でどこまでの人が巻き込まれているかだ。誰から切り崩すのが面白いだろうか。
 頭の中で考えを巡らせながら、孔明はゆったりと歩き出す。その足は、青州兵の詰め所に向かっていた。
 青州兵の詰め所はいつも賑やかだ。活気に満ちているその中へ、ひょいと孔明が顔を出すと、兵の一人がすぐに気づいて声をかけてきた。
「これは孔明様。あいにく、晏而も季翔も出ておりまして……」
「うん、それを確かめたかったんだ」
 兵の言葉に満足して、孔明はにっこりと笑う。
「は?」
 きょとんとする青州兵に何の説明も与えず、欲しい言葉を得られた孔明はさっと踵を返した。
 三人が密談するとなると、書庫しかない。孔明が訪れる確率が高いため、孔明に隠れて何かをするのは難しいだろうが、打ち合わせの痕跡くらいはあるだろう。
 それにもしかしたら、花がいるかもしれない。
 孔明はそう思って、書庫に向かった。
 だが、書庫はしんと静かだった。誰の姿もない。中に入って、花の机の周りを見て回るが、これといったものは残っていなかった。
「ふむ……」
 孔明は顎に手をあて、あらためてこの事態について考えようとする。
 そのときだった。
「師匠!」
 花の声で呼ばれる。
 孔明が振り返ると、なぜか嬉しそうな顔の花が駆け寄ってきた。
「こんなところにいたんですか。探していたんです」
「ああ、ボクもだよ」
 花の言葉を意外に思いつつも、孔明は言う。
 季翔がこそこそしていたからこそ、秘密を暴いてやろうと思ったのだ。しかし、花は探していたという。いったい何をしようとしているのだろう。
「え? そうなんですか? 何かありました?」
 孔明の返事に、花は目を丸くして、孔明の話を聞く構えを見せた。
 孔明はそれに緩く頭を振る。孔明が聞きたいことと花の用事は、おそらく同一だろう。
「君の用件を先に聞くよ。どうしたの?」
「あ、じゃあ、一緒に来てください」
 花は何の説明もせず、孔明の手を取った。
 孔明は小さく目を剥く。花が自ら孔明の手を取ることなど、稀だ。
「ちょ、ちょっと、どうしたの?」
 孔明が戸惑っているうちに、花は孔明を連れて歩き出す。
「こっちです、こっち」
 花はなんだかとても楽しそうだった。その様子から、悪いことではないのだろうと思う。しかし、自分をさしおいて、晏而と季翔と謀を巡らせるのは、少々不満だ。あの二人よりもよほど頼れるはずなのだが。
 そんなことを思いながら、孔明は花についていく。
 花は庭に下りて、その隅にある東屋に向かっているようだった。
 だんだんと東屋が近づくにつれ、そこに予想以上に多くの人がいるのを、孔明は見た。それになぜか東屋が、花や紐、布などで彩られている。その卓には、所狭しと色々と並べられているようだった。
 いったい何事だろう。
「ああ、孔明、来たな」
 東屋に着くと、花の手はするりと解かれてしまう。迎えてくれたのは、玄徳だ。それに雲長、翼徳、芙蓉に子龍までいる。晏而と季翔もあまり寛いだ様子ではないものの、そばにいた。
「みなさんお揃いで。どうされたんですか?」
 孔明が尋ねると、芙蓉があからさまに呆れたようにため息をついた。
 芙蓉に呆れられる覚えはない。
 だが、芙蓉に聞くのも癪だったので、孔明は説明を求めて花を振り返った。
「花? どういうこと?」
 すると、花に無数の花びらをかけられる。
「!?」
 孔明はびっくりした。
 赤、黄、白、桃、紫に青。たくさんの色の花びらが、宙を舞っている。
 しかし、意味が分からない。
「お誕生日おめでとうございます!」
 目を瞬く孔明に、花がそう声を上げた。すると、玄徳が率先して拍手をし、他の者たちも続く。
 どうやら、祝福されているのは自分らしい。
「誕、生日?」
 孔明は首を傾げかけて、ああ、と思い至った。そういえば、今日は自分の誕生日だ。暦はしっかり認識しているが、誕生日ということを意識していなかった。
「師匠、忘れてました?」
 反応の鈍い孔明に、花は思い通りだといった満足げな顔で聞いてくる。
「うん。忘れてた」
 正確に言えば、意識していなかったのだが、他人から見たら同じことだろう。
「やっぱり」
「大したことでもないし」
 花の得意げな様子に、少しだけ負けず嫌いが刺激されて、孔明はそう言う。
 すると、花は大きく反応した。
「大したことです! 私にとってはとても大切なことです。それは知っていてください」
「う、ん……」
 花に真剣に言われて、孔明は頷く。
 とても嬉しかった。
 花が大切に想ってくれていることに触れて、心がじんわりと温まる。
 誕生日が嬉しい。そんなことを思ったこともなかったのに、自分に誕生日があってよかったと、孔明は心から思った。
「でも、師匠にとっては忘れていてもいいことだったら、それでいいです」
 勢いが良すぎたと反省したのか、花は身を引いて、声も落ち着かせて言う。
 それでもいいのか、と孔明はほんの少し意外に思った。
 そんな孔明の前で、花がにっこりと笑う。
「私が覚えておきますから」
 孔明は目を見開いた。
「…………うん」
 そして、静かに頷く。
 自分の誕生日を花に託すというのは、ひどく幸せなことのように思えた。
 心が浮き立って、頬が緩んでしまう。
 花以外には見せない表情をしてしまいそうで、孔明は必死に取り繕った。花ならばいいが、玄徳たちや晏而、季翔には絶対に見られたくない。
「雲長兄い、もう食ってもいい?」
 背後から、翼徳が待ちきれないと、ひそひそと雲長に話しかける声が聞こえてきた。気を遣っているようだが、一番遠くにいる孔明たちのところまで届いている。
「駄目だ。まずは主役からだ」
 雲長はきっぱりと却下している。
「そんなぁ」
 声はまだ小さいものの、その腹が翼徳の心を代弁して、きゅるるるると盛大に鳴く。
「雲長の言う通りだが、翼徳が飢えてしまうな。始めようか。孔明、どれがいい?」
 玄徳がくすりと笑って、孔明に声をかけてきた。
「はい。どれでも」
 孔明も今日はからかうのをやめて、翼徳のために速やかに宴に移れるようにそう言う。
 しかし、それは伏龍にしては、あまりに浅慮だった。
「どれでもってことはないでしょう? 私の料理から召し上がったら?」
「待て。最初からそんな重量級なものを食べさせてどうする」
 孔明の言葉によって、いらぬ火蓋が落とされてしまう。
「もう、早く食おう!」
 芙蓉と雲長がばちばちと火花を散らすと、翼徳が泣き声を上げた。そんな翼徳に周りが笑う。
 いつも通りの賑やかな場だ。
 そんなところにいるのが少しだけ不思議で、けれど、花と目が合って、心が満ちる。
 平和な国にできたなら、きっとこんな日が当たり前になるのだろう。
「ありがとうございます」
 孔明は、そっと呟いた。

みんなで肝試し

 「花? いる?」
 扉がノックされ、孔明の声がかかった。
「はい!」
 花は読んでいた書簡を放り出して扉に飛びつく。孔明が部屋を訪ねてくるのは珍しい。今日は仕事も終わっているし、もしかしてデートに誘ってくれるのかと淡い期待が湧いた。
「今空いてる?」
 戸を開けると、孔明は出し抜けにそう尋ねてくる。期待が確信に近づいて、花は満面に笑みを浮かべて頷いた。
「はい!」
「そう。良かった。じゃあちょっと付き合って」
 孔明もにっこりと笑って、花の手を引いて歩き出す。繋いだ手を見つめて、花はどきどきしながらついていった。
 どこに行くのだろう。街に出るのだろうか。デートなどいつ以来だろうか。花の心の中で、色々な考えが浮かんでは消えていく。
「はい。じゃあ、これ」
 上の空で歩いていた花は、孔明にそう言われてはっと我に返った。
 いつのまにか二人は立ち止まっていた。ここは城の中庭だ。土を掘り返す人、木を植えている人、土嚢を積んでいる人など、たくさんの人々が忙しそうに動いている。しかし、ここは城の中庭だ。いったい何をしているのだろう。
 ここは、子龍たちが鍛錬をしたり、子供たちが遊んだり、女たちが語らったりする場所だ。稀に、きちんとした式典も行われる。そんな場所をいじくり回したら、雲長にどんな大目玉を食らうか分からない。それなのに、誰も彼もが一生懸命作業に取り組んでいた。
「あの、師匠、これはいったい?」
 そして今、花が孔明に差し出されているのは、柳の枝だ。全く意図が読めない。花は説明を求めて孔明を見るが、孔明はそれには応えず花に柳の枝を握らせた。
「それをあそこに立てて」
「は、はあ……」
「そのあとは、水溜りを作るから」
「水溜り?」
「そう」
「どうしてそんな……」
「今、空いてるんでしょう?」
「はい」
「じゃあ、手伝って」
 孔明はにっこり笑うと、他の指示をするために花から離れていってしまった。花は柳の枝を握りしめて、そのつれない背中を見送る。これは仕事だ。ただ人手が足りなかったから連れて来られただけだ。デートだと思って浮かれていた心は、平手で地面に叩きつけられてしまった。
「花! 花もお手伝い?」
「翼徳さん」
 暗くため息を吐いた花に、明るく声をかけてきたのは翼徳だった。翼徳も例にもれず大木を手にしている。それをどうしろと言われているのかは、あまり聞きたくなかった。
「翼徳さん! これは何なんですか?」
「知らない。孔明に手伝ってって言われたから手伝ってる」
 そんな呑気なと花はさらに肩を落とした。孔明のことだから、理由がないわけはないだろうし、玄徳や雲長にはしっかり話が通っているとは思うが、少しくらい説明がほしい。それに、やはり、孔明に確かめていないため、本当に玄徳たちは知っているのだろうかという不安は拭いきれなかった。
 雲長の怒り顔が脳裏にちらつく。けれども、孔明に言われたことをやらないわけにはいかない。花はすっきりしない思いを抱えながらも、のろのろと体を動かし始めた。


「で?」
 優雅に扇を広げて口元を隠し、孟徳がちらりと視線を玄徳に流した。
 「みんな仲良くなるために親睦会をしてね」という献帝からの書簡が三国に届けられ、そこには成都に集まるようにと書かれていた。そのため、孟徳は元譲と文若を連れてやって来ていた。しかし、親睦を深めるための宴が催されるはずの広間は、がらんとしていて全く宴の準備がされていない。いくら蜀が発展していないといっても、賓客を迎えるのにこれはない。何か企みがあるのかと、孟徳は玄徳を鋭く見据えた。
 そのまるで敵を見るかのような孟徳の視線に、玄徳の後ろに控えている雲長や翼徳、子龍、芙蓉らがわずかに身を硬くした。
「これはどういうことかな?」
「献帝お気に入りの遊びを皆さまにも楽しんでいただこうという趣向ですよ、孟徳殿」
 玄徳の代わりに、その隣に立つ孔明が答えた。
「献帝お気に入りの遊び?」
「ええ」
 孟徳は不思議そうに眉を寄せる。あの献帝が今さら遊びに興味を持つのかと意外に思ったのだ。孔明は頷いて説明をしようと口を開く。しかし、その前に、広間に天真爛漫な声が響き渡った。
「はーなーちゃーん!!」
「きたよー!!」
 童女のように愛らしいが年齢不詳の大喬と小喬が子犬のように広間に駆けこんでくる。そして、玄徳にも孟徳にも目もくれず、まっすぐ孔明の隣に立つ花のもとにやって来た。
「こんにちはー」
「お招きありがとうございます」
「だ、大喬さん、小喬さん……あの……」
 優雅に挨拶をする大喬と小喬に、花は困ってしまう。花は、孔明のおまけのようなもので、この広間には先に挨拶すべき人がたくさんいるのだ。招いたのは献帝であり、主催しているのは玄徳であり、国の有力者は孟徳である。色んなことが飛ばされている。
「あの、玄徳さんに……」
 花が二人に玄徳たちに挨拶をしてもらおうと促そうとしたとき、再び広間に騒がしく人が入ってきた。
「だぁぁ、お前ら! 俺より先に行くんじゃねえっつーの! しかも人ん家で走るな! 孫家の面子が潰れるだろっ!」
 息を切らして現れたのは仲謀だった。肩で大きく息をしている様子は、孫家当主が全力疾走したことを広間にいる全員に余すところなく知らせていたが、仲謀は大喬と小喬に注意をした。
「あ、兄上。廊下を走ってはいけません。ここは、家ではないんですよ」
 そのあとからやって来た尚香も、若干息を上げている。似た者兄妹だな、と全員が思った。
「んなっ、お、俺はいいんだよ!」
 尚香に対して、仲謀が根拠もなく胸を張る。
「何がいいんですか。尚香様の仰る通りです。孫家当主として落ち着きのないところを他国に見せては、それこそ孫家の面子に関わりますよ、仲謀様」
 そこに、公瑾が呆れ顔で登場した。これには、仲謀もぐっと言葉を詰まらせて、口を閉ざしてしまう。
「まあ、いいではないですか。広い廊下は走りたくもなるものですよ」
 最後に、子敬がのんびりと笑いながら広間に入ってきた。
「仲謀、公瑾に怒られてるー」
「ダサーイ」
「ねー、花ちゃん」
 大喬達が言いたい放題に囃し立てると、仲謀はこめかみを震わせる。
「お前らは黙ってろ! てか、こっちに来い!!」
 仲謀の怒声に、大喬と小喬は顔を見合わせて肩を竦めた。
「大喬! 小喬!!」
「はーい」
 二人は舌を出しながらも仲謀に従う。
 呉の一行の到着に、広間は一気に賑やかになった。花は見慣れた光景だが、玄徳たちは目を瞬いている。確かに蜀にはない騒がしさだ。
「…………て、お、おう、待たせたな」
 仲謀は、広間中の視線を集めていることにようやく気づき、玄徳と孟徳にわずかに会釈らしきものをした。


「では」
 孔明が一歩前へ出た。それだけで、場がぴんと緊張する。孔明が、略装ではあるが滅多にしない正装をしているのも、何かが始まることを匂わせていた。
「皆様揃いましたので、本日の宴について、私からご説明いたします」
「宴の説明? なんだ、そりゃ。宴なんて食って飲んでりゃいいんだろ」
 恭しく頭を下げる孔明に、仲謀が眉を寄せる。すると、公瑾が額に青筋を浮かべて、にっこりと笑顔で仲謀を振り返った。
「仲謀様、私の話を聞いていませんでしたね」
「えーっと……」
 仲謀は公瑾から目を逸らして、周りに救いを求めたが、尚香をはじめ全員が視線を逸らした。
「肝試しだ」
 そのとき、公瑾の背後から音もなく早安が現れてずばりと言った。
「うわ、隠し子!」
 大喬と小喬が同時に声を上げる。
「隠し子言うな!」
 早安は即座に言い返す。
「だって本当のことだもん。ねえ、公瑾」
「私に振らないでください」
「あんたに振らないで誰に振るんだよ」
「いや、ていうか、突っ込みたいところが色々あるんだけどよ。とりあえず、あいつの話を聞かせてくれ」
 ぎゃあぎゃあと再び騒がしく言い合いを始める大喬たちを制して、仲謀は説明を求めて孔明を見た。
「いいんですか? 進めて」
「お、おうよ」
 冷たい孔明の視線にわずかにくじけそうになりながらも、仲謀は偉そうな態度を崩さず横柄に頷く。
「そちらの仰るとおり、本日は、『肝試し』を皆さまに楽しんでいただこうと準備させていただきました」
「キモダメシ?」
 仲謀は聞きなれない単語に首を傾げた。
「夏の風物詩だね。色々と仕掛けをされた暗い道を男女で歩くんだ」
 孟徳が若干の偏見を織り交ぜて仲謀に吹き込む。
「男女という決まりはなかったと思いますが?」
 すかさず文若が口を出した。
「男同士で行ってもつまらんだろう? 分かってないなあ、文若は」
「そこに何か分からねばならない要素があるのですか?」
「それが分からないから、お前は結婚できないんだよ」
「なっ……それとこれとは関係ないでしょう!」
「大アリだよ。ねえ、花ちゃん。そう思わない?」
「えっ……」
 突然、孟徳に話を振られて花は戸惑う。
「彼女には関係ないでしょう!」
 文若がいつになく慌てた様子で孟徳の腕を引いた。
「関係ないのかなあ? ねえ、花ちゃん。肝試し、良かったら――」
 どさくさに紛れて花を誘おうとした孟徳の前に、孔明が立った。もちろん、花の姿を隠すように。
「今宵の趣向を気に入っていただけたようで嬉しいです」
 微笑をたたえる孔明に、孟徳も余裕の笑みを浮かべた。
「いい趣向だね、諸葛亮。俺は花ちゃんと行かせてもらうよ」
「陛下のご希望です。先日、肝試しを体験されてひどくお気に召したようで」
 孟徳がきっぱりと言うのを正面から無視して、孔明は再び玄徳の隣に戻る。その孔明の華麗な無視っぷりに、文若と元譲は素直に感心した。
「みなでやるように、とのお達しがあった」
 玄徳はあまり乗り気ではないらしく、孟徳と孔明の陰険な雰囲気にも気づかずに、ため息まじりに孔明の言葉を継いだ。
「ああ……」
 それであの書簡か、と仲謀も納得だ。
「それでどうやるんだ?」
「本日は得点制が面白いのではないかということで、城の中庭に会場を作りました。そこに隠された札を回収してください。札には点数が書いてあり、集めた札の合計点が高い組が勝ち、となります」
「なるほど。面白そうだな」
「いいね」
 基本的に負けず嫌いの孟徳も仲謀も異存はないようだ。
「では、それぞれの国ごとに組を作って回っていただこうと思いますので、ご準備をお願いいたします」
「お言葉ですが、孔明殿。それでは、『親睦会』とやらにならないのではありませんか?」
「よく言った、周公瑾! 全くその通りだ。陛下は、我々が親睦を深めることを望んでおられるんだろう? それなら混ぜた方が陛下のご意向に沿うことになる。さあ混ざろう」
 公瑾が異を唱えると、孟徳が手を打って同意した。孟徳の魂胆は見え見えだが、公瑾の言葉には一理ある。だが、孔明は余裕な態度を微塵も崩さなかった。
「いえ。そうしたいのは山々なのですが、実は、優勝組には陛下からの贈り物がありまして。これがまた、一つきりしかない結構な置物なのです。もし混合組を作ったら、それをどこが所有するかで揉めるかもしれない。戦の始まりはたいていそんな些細なことです。そうなってしまったら、陛下は深く御心を痛められることでしょう」
「……なるほど」
 公瑾はすぐに頷いた。
「孔明殿の言う通りだ。孟徳、諦めろ」
 それ以上孟徳の醜態を晒したくない元譲が、孟徳の肩を引く。
「い・や・だ」
 しかし、孟徳はその手を振り払った。
「元譲、よく考えろよ。このままだと、俺たちは男三人で肝試しに行かなくちゃならないんだぞ? いいか、肝試しの醍醐味は、怖がる女の子を優しく抱擁するところにある」
 力説する孟徳に、元譲だけでなくそこにいる全員が、腐ってると肩を落とした。
「尚香、聞くな」
 仲謀が妹の耳を塞ぐ。
「そうだね。尚香ちゃんは耳を塞いでいた方がいいよー」
「悪い大人だねー」
 大喬と小喬も尚香を守るようにその前に立った。
「すまない、孔明殿。進めてくれ」
 元譲は孟徳を無視して、孔明を促す。
「それ以外にも問題はあるぞ。俺たちは三人だ。蜀の連中は、地の利もある上に、数の利もあるじゃないか。お前たち、みんな出るんだろ?」
 孟徳は、玄徳の後ろにずらりと控える雲長たちを見回して言った。
「いえ、仕掛けを準備した翼徳殿と私、それに私の弟子は参加いたしません。参加するのは、玄徳様と雲長殿、子龍殿に芙蓉殿です。中庭は仕掛けを造った私たちしか道が分からないほど変わっていますので、地の利も数の利もありませんよ。ちなみに、人力が必要な仕掛けには、各国から人手を借りていますので、贔屓などはありません」
 いつの間にそんな手配をしていたのかと、君主たちは胡散臭そうに孔明を見る。孔明はどこ吹く風でその視線を受け流した。
「花ちゃんは参加できないの?」
「は、はい。仕掛けを作りましたから。私が一緒だと、不公平です」
 諦めきれない孟徳は、花に直接問う。それに対して、花はきっぱりと断れた。このために作業を手伝わせたのかと、花はようやく孔明の意図を理解する。
「そっかあ」
 花にはっきりと言われて、孟徳は渋々ながらも納得したようだった。
「ちゅーぼー、ちゅーぼー、私たちも行くからね!」
「こんな楽しそうなこと、絶対譲らないから」
「お前らじゃ数になんねーよ」
 一方、人数の多い呉一行は、騒々しくメンバー選出を始めた。
「私は遠慮したいです」
「ふぉ、ふぉ、若い人にお任せしますぞ」
 軍師二人は面倒くさがってそっと辞退の手を挙げる。
「お前たち、戦力が何言いやがる」
「早安が是非にと申しております」
「おい!」
「兄上! 私も参ります」
「尚香、お前はやめておけ」
「私も孫家のために何かしたいのです!」
 尚香は真面目に仲謀に訴えるが、いつものごとく仲謀は取り合わない。
「尚香ちゃん、可愛いなあ」
 そんな尚香に、孟徳が相好を崩した。それに気づいて仲謀は慌てて尚香の手を引く。
「ああ、いや、尚香。一緒に来い。お前の力が必要だ」
「は、はい! 兄上!!」
 尚香は頬を紅潮させて気合の入った返事をした。仲謀に期待されることなどほとんどないので、尚香の気分は一気に上がっていた。
「狭量だな、孫仲謀。玄徳には差し出すくせに、俺はダメなのか?」
「ダメに決まってるだろ。あんたとあいつじゃ雲泥の差だ!」
「言うね、若造」
「うるせーよ、おっさん」
 二人の間に火花が散る。
 せっかく仲良くするために集まったのに、これでは逆効果だ。
「もう仲謀! 仲良くするために来たんでしょ?」
 見かねて、花は仲謀を諭した。孟徳も良くないが、面と向かって失礼なことを言っているのは仲謀の方だと思ったからだ。
「ちっ」
 花に怒られると、仲謀は舌打ちをしてそっぽを向く。
「いいなあ。俺も花ちゃんに叱られたいな。『孟徳さん! 駄目です!』みたいに言ってくれないかなあ」
 孟徳の腐った発言は、全員に無視された。花も身の危険を感じて一歩下がる。その前に、そっと雲長たちが立ってくれた。
「あ、いいこと思いついた」
 すると、まるで無視は許さないとばかりに、孟徳は手を挙げる。孟徳以外の全員が、絶対にいいことではないと確信して、誰も合いの手を入れない。だが、そんなことで孟徳は挫けなかった。



「ね、勝った組は花ちゃんを自分のところに招待できるっていうのはどう?」
「孟徳、もうやめないか!」
 目を剥く玄徳軍の面々を見て、慌てて元譲が孟徳を制そうとする。しかし、意外なところから援護が上がった。
「それ、いい! 曹孟徳いいこと言う!」
「さっすがー。仲謀とは違うね!!」
 大喬と小喬の諸手を挙げての賛成に、元譲の手が宙を掻く。
「だいたい花ちゃんを独り占めしすぎだよねー」
「友だちのところに遊びに行くくらい認めてあげてもいいのにねー」
「きっと誰かさんが邪魔してるんだよ」
 ちろりと大喬と小喬は孔明を見るが、孔明は全く目を合わせなかった。
「なんか感じ悪いしー」
「そうそう。感じ悪い。花ちゃんを独占しすぎだ」
 大喬と小喬の同意を得て、孟徳は勢いづいた。
「なあ、玄徳。いいだろう? 三国の親睦のために、花ちゃんを親善大使にしよう」
「いや……その…………」
 迂闊に返事をしたら、自国の軍師に国を滅ぼされてしまうのではないかと恐れ、玄徳は孔明に視線を流した。
 全員の視線を集めて、孔明はひとつ、息を吐く。
「仕方ありませんね」
「え?」
 一番驚いたのは玄徳だった。
「彼女はモノではないのですが、親善大使と言われてしまっては、お断りができません。三国が和して一国となることが、献帝のご意向もあることですし」
「こ、孔明? いいのか?」
 まさか孔明が受け入れるとは思わなかった玄徳は、思わず聞いてしまう。しかし、すぐに玄徳は己の粗忽さを後悔した。
「要は、玄徳様が勝てばいいんです。頑張ってくださいね、玄徳様」
 孔明は朗らかなまでの笑顔を浮かべていた。
「あ、ああ……善処する」
「玄徳様、ご武運を」
 明らかに、励まされているのではなく脅されている。その激しいプレッシャーに、玄徳は胸を押さえた。
「げ、玄徳様、大丈夫ですわ。私たちがついております」
「そ、そうです、玄兄。玄兄が一人で抱えることはありません」
 普段は犬猿の仲の芙蓉と雲長が協力して玄徳を励ます始末だ。
「玄徳様、この子龍、命に代えても勝利を御手に!」
 子龍もまるで戦地に赴くような顔で胸に手を当てた。
 玄徳軍の必死さに、他の二組は哀れみの目を向ける。
「それでは、始めましょうか」
 そんな彼らの様子には構わず、孔明はマイペースに仕切った。孔明の先導で、中庭の会場に全員でぞろぞろと移動する。
「中は一本道ではありませんが、間隔を空けて入っていただきたいので、入る順番を決めましょう」
 孔明はそう言って三君にクジを引かせた。その結果、一番手は仲謀、二番手は孟徳、最後に玄徳となった。クジ運の悪さに、玄徳がますます重い空気をまとう。
「玄兄! 大丈夫です!!」
「少しくらい入るのが遅れたところで、我らの勝利は揺らぎません!」
 雲長たちが必死に玄徳を慰める横で、仲謀たちが入り口に立った。
 柳の枝で飾られた入り口は、それはおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。
「あ、兄上……」
 尚香が仲謀の肩にぎゅっとしがみついた。
「待っててもいいんだぞ?」
「い、いえ。行きます!」
「じゃあ、俺から離れんなよ」
 震えながらも首を振る尚香に、仲謀は笑って手を取った。
「本格的だねー」
「楽しそー」
 そんな二人の横を、すたすたと大喬と小喬が歩いていく。そのあとを早安が無言でついていった。
「お、おい! だから勝手に行くなって!!」
 仲謀は尚香を連れて、慌てて三人を追いかける。五人の騒がしい声や足音は、すぐに聞こえなくなった。
「子敬殿、公瑾殿。宴席を用意しております。お待ちになるのでしたら、そちらで」
 孔明は、不参加を勝ち取った軍師二人にそう促した。
「ですが、仲謀様を待たずに酒席はいささか心苦しいですなあ」
「長い夜になりますから、仲謀殿も納得されましょう」
「……そう、ですな。行きましょうか、公瑾殿」
 孔明の言葉に含みを感じ取って、子敬は公瑾を振り仰ぐ。公瑾もまた、孔明の言葉から素直に引き下がるべきだと感じて、子敬に頷いた。
「はい。それでは下がらせていただきましょう」
「翼徳殿、ご案内を」
「うん、分かった」
 元来た道を戻っていく三人を見送る。次は、孟徳たちだ。
「我らも行くか」
 文若は心底辞退したそうな顔をしていたが、元譲に促されて歩き出す。
「花ちゃん。君のために頑張るよ」
 孟徳は懲りずに花にウィンクをした。
「孟徳!」
 元譲がその襟首を掴んで、ずるずると引きずっていく。
「応援しててね!」
 その状態でも、花に手を振りながら、孟徳は暗闇の中に消えていった。
 残ったのは、沈痛な面持ちの玄徳軍一行だ。このミッションに失敗したら、どんな地獄が待っているか分からない。
「行きましょう、玄兄!」
「勝利を我らの手に!」
 定められた時間を迎えると、四人は意気込んで中に飛び込んでいった。
 急に辺りが静かになる。花はそっと孔明を窺った。
「変なことになっちゃいましたね」
 孟徳のおかげで、話が妙な方向に行ってしまった。今日は、みんなで楽しく遊ぶ日だったはずなのに、遊びのムードではなくなっている。
「まあ、想定内かな」
 孔明は肩を竦めた。
「そのために、ボクが仕切ったわけだし」
「え?」
「仕切り側にいれば、結果なんてどうにでもできるでしょ」
 孔明は手元から高得点の書かれた札を取り出した。昼間、孔明に言われるまま設置した花には見覚えのある図柄だった。
 まさか、玄徳たちの得点が低かったら入れ替えるということだろうか。
「師匠、それ不正……」
「じゃあ、何? 君は誰かのところに行きたいの?」
 孔明に鋭く問われて、花は言葉を詰まらせる。
 孟徳のところや仲謀のところに遊びに行きたくないといえば嘘になる。どちらもそれなりにお世話になって、よくもしてもらった。親しみを感じてもいる。特に、尚香や大喬、小喬は、この世界の数少ない友達なのだ。遊びに行けるなら行きたい。
 しかし、今問われているのはそういうことではない。ようやく花もそれくらいのことは判断がつくようになっていた。
「いえ……その…………師匠のそばが、いいです」
 花は恥ずかしさを堪えてそう告げる。その赤い項に、孔明は少しだけ頬を緩ませた。
「なら、文句を言わない」
「……でも……」
 結局孔明が操作するなら、今みんなが一生懸命やっていることは無駄になるということだ。とても心苦しい。
「まあ、でもきっと、こんな物は必要ないよ」
 そんな花の心を見越したかのように、孔明はひらひらと札を振る。
「夜が明けても決着つかないはずだから」
「? どういうことですか?」
「ボクは相手から札を奪ってはいけないとは言ってない。言ってないってことは禁じられていないって、曹孟徳も孫仲謀も気づいてるだろうね。それに時間制限も設けていない。つまり、彼らは有限の札を巡って一晩中争えることになる。みんななんだかんだいって負けず嫌いだし」
「…………」
 あっさりと言う孔明に花は言葉を失った。そこまで見通した上で、孔明はきちんとルールを作っていないのだ。
「だから、玄徳様たちに分があるよ。武闘派が揃ってるし。ボクの大事な弟子のために、玄徳様には勝ってもらわないと」
「師匠ってほんと……」
 芙蓉によく言われる「厄介な人を好きになったわね」というフレーズが頭の中を駆け巡る。確かにと花は今さらながらに思った。孔明が敵だったら、生まれてきたことを後悔するような気分になるに違いない。
「惚れ直した?」
 言葉を呑む花に、孔明が自分勝手な解釈をつける。
「いえ……」
「違うの?」
 花が反射的に首を振ると、孔明はぴくりと眉を動かした。
「え? あ、あの、その……」
 顔を覗き込まれて花は焦る。いつのまにか孔明がすぐそばに来ていた。
「ひどいなあ、君は」
「ひ、ひどいのはどっちですか!」
 今は孔明だけには言われたくない。
 すると、孔明はわざとらしく傷ついた顔をして見せて、言った。
「ボクはただ、君が好きなだけだよ」
「!!」
 目を見開く花に笑って孔明はその腕を引く。そして、その柔らかな唇を掠め取った。


 結局、孔明の読み通り、朝日が昇るまで死闘が繰り広げられ、その熾烈な戦いは、死か勝利かを迫られていた玄徳軍が、最後まで食い下がる孟徳を振り切って、勝利した。
 そして翌日、中庭では、敵味方関係なく三国の面々が、枕を並べて倒れている様が見られた。
「平和でいいですなあ」
 子敬がのんびりと呟いた。

 三国はこんなにも平和になりました。

Trick or Treat !

「お菓子の代わりにイタズラ?」
 今日はハロウィーンなんですと、雲長に無理を言って作ってもらったパンプキンパイを差し出す花に、孔明が聞き返す。
 しかし、孔明はその指を書物に挟んだままだ。仕事は終わっているが、調べ物をしていたのだろう。机の上には、いくつかの書物が積まれていた。
 タイミングが悪かったかなと思いながら花は答える。
「はい。子供が仮装して、近くの家をそう言って回ってお菓子をもらうんです」
「ふーん」
 孔明は面白そうに目を細めて、手を本から抜いた。
 しかし、パンプキンパイには手を伸ばしてくれない。
 雲長が作ってくれたパンプキンパイは、パイの上にもたっぷりとクリームがのった豪華版だ。見た目はひどく甘そうな風情だが、その実、クリームはさっぱりしていて甘さ控えめだ。すでに翼徳とたっぷり味見をしていたので、花も自信を持って孔明に薦めることができる。
「じゃあ、お菓子をあげなかったら、イタズラしてくれるんだ」
「え?」
「どんなイタズラしてくれるの?」
「私はしませんよ? それにお菓子をあげているのは私ですよ?」
 孔明の発言を理解できず、花は首を傾げた。どうしてお菓子よりイタズラを選ぶのだろう。雲長の作ったパンプキンパイは絶品だというのに。
 花がのんきにそんなことを思っている傍らで、孔明はにっこりと笑っていた。
「じゃあ、ボクがしていいんだ」
「えっ?」
 あっと思う間もなく、孔明に引き寄せられて、その膝の上に座らされてしまう。パンプキンパイの皿はいつのまにか孔明の手の中だ。それを机の上に置いて、孔明はさらに花を抱き寄せる。そして、その細い首に唇を寄せた。
「っ!?」
 柔らかな唇の感触に、ぞくりと体が震える。
「し、師匠……!」
 花は身を硬くして抗議の声を上げた。孔明の思惑をようやく知ったが、後の祭りだ。
 孔明はもちろんそれを無視して、花の首の裏に手を回し、もう一方の手を花の膝に置いた。その手は、膝から腿をゆっくりと撫でていく。
 ぞくぞくと体が震えた。腰が疼く。
「や……、し、しょ……」
 花が身をよじって腕の中から逃れようとすると、孔明は花の首をぺろりと舐めてから体を起こした。
 その目はひどく熱っぽい。
 どきりと心臓が跳ねた。
 孔明はまっすぐに花を見つめている。
 血液が沸騰して、逆流した。
 訳が分からない。
 孔明の濡れた視線も、体をまさぐる手も、思考を蕩かしてしまう。
 息が上がる。
「し……」
 そのとき、花の目が、パンプキンパイをとらえた。
 その瞬間、ハロウィーンを思い出す。
 お菓子。
 イタズラ。
 孔明の顔が迫っている。
「お、おおお菓子あげます!」
 花は夢中で、近づいてくる孔明の顔の前にずいとパンプキンパイを差し出した。が、勢いあまって、パンプキンパイは孔明の顔に激突してしまう。
「あ……!」
 パンプキンパイには、クリームがたっぷりのっていたはずで。
 花は恐る恐る皿を引いた。
「はーなー」
 孔明の顔は見事にクリームまみれになっていた。
「ご、ごめんなさい! 師匠!!」
 花は慌てて手巾を取り出し、孔明の顔を拭こうとする。しかし、その手を孔明が掴んだ。
「師匠?」
「これは花に綺麗にしてもらう」
「はい。あの、今、拭きますから」
「そんなことしたらもったいないだろう? 雲長殿に申し訳ないよ」
 孔明は真っ白な顔のまま、妙に格好つけて頭を振った。
 その姿は少し滑稽だ。そう思ったが、もちろん口にはできない。口にはできないが、やはりおかしい。花はこっそりと笑いを堪えた。
「だから、花が舐めて」
 そんな花に、孔明はそう言った。
「はい?」
 孔明の言葉はしばしば理解できない。
 花はきょとんとして聞き返した。
 今、孔明は何と言ったのだろう。
「はい」
 しかし、花の様子に構わず、孔明は顔を突き出した。
 顔にはたっぷりのクリーム、それを花が綺麗にしなくてはいけなくて、孔明は舐めてと言っている。
「! な、ななな何言ってるんですか! で、できません! そんなこと!!」
 ようやく言葉がつながった花は、慌てふためいて首を振った。
「何事もできるできないじゃなくて、やるかやらないかだよ、花」
 まるで師匠の口ぶりで、花を諭すように孔明は言う。
「師匠ぉ」
「だーめ」
 花は泣いて許しを請うたが、孔明はきっぱりと首を横に振った。
 心から本気らしい。
 エイプリルフールに続いての惨事に、もうあちらの行事はすまいと花は固く心に決めたのだった。

孔花読本

 夏口の城では、孔明を歓迎する宴が開かれていた。
「ちょっと、誰か花にお酒飲ませたの?」
 賑やかな宴席を裂くように、芙蓉が怒気をはらんだ声を上げる。
「ん? ああ……」
 その声に視線を投げた玄徳は、芙蓉の怒りの理由を見て取って頷いた。
 芙蓉の隣で花が床に丸くなって眠っている。
 そのあどけない寝顔に、玄徳の顔も緩んだが、じろりと芙蓉に容赦なく睨まれて、慌てて顔を引き締めた。
「雲長、花を部屋まで連れて行ってくれないか?」
 玄徳は、隣にいた素面と変わらない雲長に声をかける。
「はい」
 雲長はすぐに立ち上がろうとするが、それを芙蓉が制した。
「だーれが、雲長殿に。そんな辛気臭い顔で運ばれたら、花がかわいそう」
「しっ……」
 芙蓉も少し酔っているようで、いつも以上に遠慮がない。花の前に仁王立ちになって、雲長を近づかせまいと腕を横にまっすぐ伸ばした。
「それに、力仕事は翼徳殿の仕事でしょう?」
 芙蓉は、翼徳を探して部屋の中に視線を巡らせる。しかし、その瞳が翼徳を見つけたとき、一瞬にして落胆の色を浮かべた。
「――って、問題外だわ」
 翼徳は部屋の隅で倒れていた。宴はまだ半ばだったが、完全に潰れている。もしかしたら、彼の部下が早々に酒をたくさん飲ませてノックアウトさせたのかもしれない。
 使えない翼徳に、芙蓉は舌打ちをした。
「仕方ないな。俺が運ぼう」
 玄徳は、芙蓉がどうにも収まらないのを見て、腰を上げる。
 しかし、そこは、芙蓉も臣下の礼を失してはいなかった。
「玄徳様のお手を煩わせるわけにはまいりませんわ!」
「あ、ああ……じゃあ、どうする?」
 芙蓉の剣幕に気おされて、玄徳はすぐに手を引っ込める。少々残念に思ったことは、芙蓉には内緒だ。今の芙蓉に逆らったら何をされるか分からない。
 しかし、雲長も駄目、翼徳も駄目、玄徳も駄目では、どうしようもない。いくら芙蓉が武術自慢だからといって、花を運べる力はないだろう。
 玄徳はどうしたものかと部屋を見回して、ぴったりの人物を見つけた。
 宴席に加わらず、部屋の隅で静かに待機している子龍だ。芙蓉も納得するだろう。
「子龍、花を頼めるか?」
 玄徳が声をかけると、子龍が眉一つ動かさず頭を下げた。
「はい。承知いたしました」
 今度は芙蓉も異論を唱えなかった。
「私も一緒に行くわ」
 軽々と花を抱えて部屋を出て行く子龍の後を追いかけて、芙蓉も出て行った。
「ああ、すまんな、孔明」
 玄徳はすっかり蚊帳の外となっていた主賓の孔明に気づいて謝る。
 孔明はじっと花たちが消えた方を、厳しい顔で見つめていたが、玄徳を振り返ったときは、いつもの食えない笑顔だった。
「いいえ、不肖の弟子が、みなさんにご迷惑をおかけしまして」
「いいや。花はよくやってくれている。軍の皆からの信頼も厚い。それに最近はどうも人気が高いらしくてな。花を娶りたいと名乗りを上げてくる始末で」
 玄徳がぼやくように言ったとき、ぱりんと何かが割れる音がした。
 見れば、孔明の手に握られていた杯が粉々に砕けている。
「こ、孔明!?」
 玄徳は驚いて、腰を浮かせた。
 しかし、当の本人はいつも通りに笑って、手を払う。幸いひどい怪我はないようだが、ところどころ軽く血が流れている。
「ああ、これは驚きました。杯がひとりでに割れるなど奇異なこともあるものですね」
 孔明は朗らかに笑って手を布巾で拭う。
「あ、ああ……」
 明らかに孔明が割ったように見えたが、杯がひとりでに割れたことにしなければならない空気を感じ取って、玄徳は無理矢理頷いた。
「ま、まあ、俺も、身寄りを作るなら結婚が一番だとは思うんだが、生半可な奴に花を任せられんし、何より本人の気持ちが大切だからな」
「そうですね」
 続けた言葉に、孔明の同意を得たのにほっとして、玄徳はさらに続けてしまう。
「考える策は一流なのに、普段は少し頼りないところが可愛いんだろうな。花はまだ幼いところがあるからな」
 まるで保護者のように言って、顎をさする玄徳の見えないところで、孔明は苦虫を潰したような顔で呟いた。
「本当に、まったくね」
 その声はとても不機嫌そうだったが、誰の耳にも届くことはなかった。


「玄徳さん、おはようございます。花です」
 翌日、花は玄徳に呼ばれて彼の私室を訪れていた。朝からの呼び出しに少し緊張する。昨夜は孔明の歓迎会だったのに、途中から記憶がない。気づいたら、きちんと夜着を着て、寝台の中にいた。
 酒を飲んだわけではなく、疲れがたまっていて限界だったのだ。特使として仲謀軍に出向いてからずっと、気を張っていた。ようやく、玄徳軍に戻ってこられて、馴染んだ人たちの中で、ほっとしたのだろう。
「ああ、入ってくれ」
 玄徳の声に、花は扉を開ける。
 中では、玄徳が編み物をしている最中だったようで、一区切りつけてから顔を上げた。花を見ると優しい瞳がさらに柔らかくなる。
「おはよう。具合はどうだ? 昨日は疲れが出たか?」
 自分のそばに手招きする玄徳に従って、花はその隣に座った。
「はい。昨日はすみませんでした。私……寝ちゃったみたいで」
 花は恥ずかしくて目を伏せる。いくら疲れていたとはいえ、宴席で寝果てるなどみっともない。
 玄徳は、そんな花に笑って頭を撫でた。
「芙蓉と子龍に礼を言うんだな。子龍が部屋まで連れていって、芙蓉が介抱していたから」
「そ、そうなんですか……」
 侍女の誰かが世話をしてくれたと思っていた花は、恐縮して身を小さくした。芙蓉はまだいいけれど、子龍は呆れていることだろう。顔を合わせづらいが、あとで礼を言わないといけない。
「あ、あの……それで、お話というのは……私の具合のことですか?」
 花は気を取り直して聞いた。朝、侍女から玄徳に呼ばれているといわれて、部屋を訪れたのだ。
「ああ、そうだった。今しか時間が取れなくてな。すまんな、朝から呼び出して」
「いいえ」
 謝る玄徳に、花はすぐ首を横に振る。
「孔明が仕官をしてくれたが、花、お前にも今まで通り軍にいてほしい。お前が戦を好まないことは分かっているが、お前の力も貸してほしいんだ」
 あらためてこういった話をする玄徳の誠実さに、花は胸が熱くなった。玄徳のこういうところについていきたくなる。力になりたいと思うのだ。雲長たちの気持ちがよく分かる。
「はい」
 迷うことはない。玄徳に力を貸して、この世界を平和にすると決めた。それは亮くんとの約束でもある。
 花がきっぱりと頷くと、玄徳は嬉しそうに目を細めた。それを見て、花も嬉しくなる。
「そうしたら、これから花には、孔明の下で働いてもらいたいんだが、いいか?」
「は、はい!」
 花は、ぱっと顔を輝かせて頷いた。
「師匠と一緒は嬉しいか?」
 その素直な反応に、玄徳もつい笑みを漏らしてしまう。
「はい。勉強になりますから」
 花は大きく頷いた。これまでもずっと、孔明に導かれてきた。本が手元にないときも、孔明の助言で切り抜けられた。だから、孔明がそばにいてくれることは、とても心強かった。
「そうか……まあ、明日からでいいから、今日はゆっくりするといい」
 玄徳は昨夜の孔明の様子を思い出して、少し複雑な気分になる。
 孔明と花では温度差があるようだ。孔明は、師匠と弟子以上の感情を抱いているように見えたが、うまくやっていけるだろうか。
 しかし、玄徳の心配をよそに、花はこれからのことに思いを馳せて気分が上がった。その勢いで、玄徳の手元に視線を向ける。
「今度は何を作っているんですか?」
「ああ、これか。翼徳にせがまれてな。あいつの槍につけるものを作っているんだが。このあとの色が決まらなくてなあ」
 玄徳は悩ましげに編んでいたものを見つめ、うーんと唸る。それから、花を振り返って聞いた。
「花は何がいいと思う?」
「そうですね……紫色ならはえるんじゃないでしょうか?」
「そうだな。そうしようか」
 二人であれこれと糸を取り出して、どの紫色が良いかと話していると、戸を叩く音がそれを中断させた。
「玄徳様、孔明です」
 続いて孔明の声がかかる。
「ん? ああ、入ってくれ」
 玄徳は手を止めて、孔明に応じた。
「失礼します。……あ、花もいたの」
 部屋に入ってきた孔明は、玄徳の隣に座っている花を見て、意外そうな顔をする。
「お、おはようございます、師匠」
 朝から孔明の姿を見るというのが不思議な気分だったが、とりあえず花は挨拶をした。
「うん、おはよう」
 孔明からも挨拶が返ってくる。これはこれで奇妙な感じだ。今まで神出鬼没で、時間も場所も選ばずに現れては消えていた師匠だけに、普通の生活が思い浮かばない。しかし、玄徳に仕官したのだから、この城で暮らすのだろうし、このように朝会ったりするのも当然のことになるのだろう。
「それじゃあ、私は失礼します」
 真面目な話が始まると思って、花はすぐに腰を上げた。
「ああ。ありがとうな」
「は、はい」
 玄徳ににっこりと微笑まれ、花は少し頬を赤らめて部屋を出た。

 花は玄徳の部屋を出た足でまっすぐ子龍のもとに向かう。御礼を言うなら早い方がいいと思ったのだ。
 子龍は厩にいた。
「子龍さん、おはようございます」
「おはようございます」
 馬の毛を梳いている子龍に声をかけると、子龍は手を止めて丁寧に挨拶を返した。
「昨日はありがとうございました。……すみません、部屋まで運んでもらったみたいで」
「いえ。玄徳様のご命令でしたし」
 子龍はいつも通りの淡々とした口調で、首を振る。特に呆れられてはいないようで、花はほっとした。
「あの、私も手伝います」
 孔明のもとに行くのは明日からだから、今日は一日時間が空いている。
 いつも子龍には乗馬を教えてもらっているので、その御礼も兼ねて何かしたかった。
「あ、ああ、いえ、もうだいたい終わりましたから。お気持ちだけ頂戴いたします」
 子龍は普段は見せない柔らかい表情で、花に言う。
「それより、花殿。時間があるなら、馬に乗っていかれますか?」
「え? でも、子龍さん、これから鍛錬じゃ?」
「いえ。今日は時間がありますから……」
 遠慮する花に、子龍が首を振りかけたときだった。子龍の視線が一点に定まる。
「孔明殿」
 驚いたような子龍の声に、花もびっくりして振り返った。
 厩舎の入り口に、孔明が立っている。あまりに似合わない光景に、子龍も花も言葉が出てこなかった。
「花。ここにいたのか」
 孔明はにこにこと、そんな二人のもとにやって来る。
「師匠、どうしたんですか?」
 どうやら探されていたらしいと知って、花は首を傾げた。孔明のもとで働くのは明日からだったはずだ。
「うん、ちょっと一緒に来てくれるかな」
「は、はい」
 玄徳に明日からと言われているとはいえ、何か仕事があるのならそちらを優先しないといけないだろう。乗馬の練習もしたかったが、花は諦めて子龍に頭を下げた。
「子龍さん、すみません。また今度」
「はい。いつでもお声がけください」
 子龍は気分を害した様子もなく、少しだけ微笑んで見送ってくれた。
「師匠、何かあったんですか?」
 厩舎を出ながら、花は孔明に尋ねる。
「うん、ちょっと」
 孔明は詳しく説明せず、少し早足で厩舎を離れた。花は置いていかれないように大股でついていく。
 そうして孔明と連れ立って廊下を歩いていると、後ろから軽快な足音が駆け寄ってきた。
 花が何事だろうと思っている間に、どんと背中に衝撃を受ける。
「花! 果物あげる!」
 背後から抱きついてきたのは翼徳で、花の目の前に果物を差し出していた。
「わ、翼徳さん。すごいですね」
 翼徳の大きな手の中には、おいしそうな果物がたくさんあって、花は思わず目を輝かせる。
「だろう? 俺さあ、昨日途中で寝ちゃって、ごちそう食べ損ねちゃったから。花は? いっぱい食べた?」
「私も、寝ちゃいました」
「俺とおんなじだね」
「そうですね」
 二人はふふ、と笑いあう。
「翼徳殿、なにか急がれていたようでしたが、用件はそれだけですか?」
 孔明がにこやかに二人の間に割って入る。表情も声も和やかなのに、花も翼徳もなぜか背筋が冷えた。
「あ、そ、そうだ。雲長兄が呼んでたよ? おれ、伝えてくれって頼まれてたんだっけ」
「雲長さんが?」
「うん。孔明にもこれあげる。じゃあね」
 翼徳は孔明の手の中にも果物を押しつけて、そそくさといなくなってしまった。
「師匠、すみません、行ってきてもいいですか?」
「うん。先に済ませてしまおう」
 一人で行こうと思ったら、孔明もついてくる様子だったので、そのまま二人で、雲長が待つ台所へ向かう。
「遅くなってすみません、雲長さん」
 中に入りながら声をかけると、洗いものをしていた雲長がゆっくりと振り返った。
「いや、どうせ翼徳が伝えるのを忘れていたんだろう……ああ、孔明殿も一緒か」
 雲長は、孔明を見て、少し驚いたように目を大きくする。
「呼んでるって聞いたんですけど、何かありました?」
「ああ。お前の味覚は俺に近い。ちょっとこの味をみてくれるか?」
 雲長は、ちらちらと孔明を気にしながらも、新作らしい料理を花の前に差し出した。
「うわあ、プリン!」
 花はそれを見るなり歓声を上げた。それは、紛れもなくプリンだった。まさかこちらの世界で食べられようとは思ってもいなかったので、感激だ。
「ぷりん?」
「あ、私の国のプリンというお菓子に似ていたので」
「そうか。なら、プリンと呼ぶことにするか」
 雲長の創作料理だったらしく、プリンという名に決まってしまった。
「なんだか翼徳さんに申し訳ないですね」
 翼徳は用事の中身を知らない様子だった。雲長が新作のお菓子を作っていたと知ったら、悔しがるに違いない。
「あいつは何を食ってもうまいしか言わないから、参考にならん」
「確かに」
 花は笑いながらプリンを口にする。
「甘いものばかり食べていると太るよ」
 孔明はプリンを口に運ぶ花をじっと見て、不吉なことを言った。
「!」
 花はどきりとする。翼徳からは果物をもらって、雲長からはお菓子をもらって、確かに高カロリーのものばかりだ。
「ああ、でも、君はもうすこしふくよかになった方がいいかもね」
 孔明の瞳が悪戯っぽく光ったと思ったら、次の瞬間、孔明に抱きしめられていた。
「こうして抱きしめたとき、抱き心地がよくなるからね」
「し、師匠!」
 いつも通りのスキンシップでも、人の見ている前では恥ずかしくて、花はすぐさま抗議する。
 しかし、孔明は歯牙にもかけず、そのままちらりと雲長を見た。
「ねえ? 雲長殿」
 雲長は、孔明の視線に言外のことを感じ取る。敵に回してはいけない存在だと、雲長は一瞬にして判断した。
「忙しいところ呼びつけてすまなかったな。もういいぞ」
「え? で、でも……」
 まだ一口しか食べていないうえに、感想も言っていない。
 戸惑う花に、雲長は残りのプリンを包んで花の手の中に押し込んだ。
「部屋に持っていけばいい」
 雲長に追い出されるように台所を出て、花は首を捻る。いったい雲長はどうしてしまったのだろう。
「さすが関雲長、といったところかな」
「師匠?」
 台所を出ると、孔明は少しだけ後ろを振り返り、楽しそうに笑った。
「あ、いたいた、花!」
 今度こそ孔明の部屋に向かおうとしたところで、芙蓉に呼び止められる。
「芙蓉姫。昨日はありがとうございました」
「そんなこといいのよ。疲れてたんでしょう? 私こそ気づかないでごめんなさい。それより今時間ある?」
「え?」
「街に買い物に行くの、付き合ってくれない?」
「あ、その……」
 芙蓉の誘いは魅力的だったが、孔明も何か用があるはずだ。花は、孔明をちらと見た。
「花は疲れているって、芙蓉姫ご自身も仰ったように思いますが?」
 孔明はにこやかに芙蓉の矛盾を突く。
「私は孔明殿じゃなくて、花に聞いているし、誘っているんですが?」
 芙蓉はその陰険さに、不快感を露にした。
 二人の間に火花が散る。
「あー疲れたー」
 すると、孔明は突然そう言って、花に抱きついた。
「し、師匠!!?」
 花は焦って、慌てて孔明を引き離そうとする。けれど、孔明の力は意外に強く、びくともしなかった。
「僕、知らないひとたちの間で疲れちゃった。花、明日からのことについて、僕の部屋で話したいんだけど」
「は、はい」
 孔明に離すつもりがないと感じた花は、とにかく芙蓉の前から逃げ出したくて必死に頷いた。
「というわけで、芙蓉姫、買い物はまた今度」
 ひらひらと手を振って、花を連れ去る孔明に、芙蓉は口の端を引き攣らせる。
「タチの悪いのが入ったわ」
 ぼそりと呟いた芙蓉は、顔を顰めて二人を見送った。


 ようやく孔明の部屋に落ち着いて、二人でお茶を飲む。卓の上には、翼徳からもらった果物と雲長からもらったプリンが並べられていた。
「君はいつもこんな感じなの?」
「は、はい……?」
 なんとなく、孔明の機嫌が悪いように感じて、花は言葉尻も弱く頷く。「いつもこんな感じ」が指すものが、朝からのみんなとのことだとしたら、その通りだ。
 孔明は深くため息をついて、頬杖をついた。その物憂げな顔に、花は不安になる。
「……そういえば、周公瑾、孫仲謀も……いや曹孟徳だって…………」
 ぶつぶつと呟く声は低く速く、花には知っている人たちの名前しか拾えなかった。
「あの頃は晏而だけだったのに……」
 しまいには、卓に突っ伏してしまう孔明に、花は心配になる。
「し、師匠?」
「なんでもないよ。ちょっとこれまでとこれからについて頭が痛かっただけ」
 孔明は、もう一度大きくため息をついて、目を閉じた。

スキスキスー

 孔明はすっかり花の膝の上で眠ってしまっている。
 肌に触れそうな唇にどきどきしたが、孔明が寝てしまったのでそれもすぐに収まった。
 長閑な昼下がり、しんと静まり返った部屋に孔明の寝息が微かに響く。
 警戒心が足りない、とは孔明が言えるセリフなのだろうか。男に気をつけろというのなら、今のこの状況こそ問題ではないか。
 そう文句を言いたいところだが、相手は暢気な顔で寝ているから叶わない。
 それに、孔明を男の人の中に数えるのかどうか、微妙なところだ。
 誰にでも膝を貸すわけでもないし、孔明以外にこんなことをする人はいない。その孔明が師匠であるならば、気をつけることはないように思った。
 もし他の人にこの状況を見られたら恥ずかしいけれど、部屋のなかは二人きりだからどうということもない。
「…………」
 花はじっと孔明を見る。孔明は、起きているときより幼く見えた。
 そっと指を滑らせ、髪をかきあげてみる。
 過去で出会った聡明そうな少年の面影は、少し残っていた。
 あの日々は、孔明にとっては十年も前のこと、けれど花にとってはつい先日のことだ。
 別れたときの亮の顔を、鮮明に覚えている。交わした約束も鮮やかだ。
「……亮くん」
 起こさないように気をつけて、小さな声で呼んでみる。
 もちろん返事はない。
 けれど、亮の声が耳に蘇った。
「花」
 と、少し大人びた声。
 しかしすぐに、もっと大人の声が、
「花」
 と呼ぶ。
 孔明の声だ。
 この見知らぬ世界で、いつも花を導いてくれた声。
「亮くん…………師匠……」
 隆中の山中でも、泰山の山中でも、孔明との出会いが花の道を開いてくれたのだ。 ここでは玄徳のもとへと導いてくれて、過去ではずっと隣にいて支えてくれた。
 孔明がいなければ、この世界で生きていられなかっただろう。
「……ありがとうございます」
 花はそっと囁く。
 自分に居場所を与えてくれた孔明が、自分の膝などでゆっくりできるのなら、いくらでも差し出したい。
 だから、やっぱり孔明が心配することはないのだ。
 こうして膝を貸すのは、孔明だけなのだから。
 孔明は人の心に敏感にならないといけないと花に言うけれど、孔明はそれを分かっているのだろうか。
 花はもう一度孔明の髪に触れる。
 黒髪はさらさらしていて気持ち良かった。
「師匠の髪、手触りいいな。シャンプー、特別なのかな」
 指にすべる感触が気に入って、花は何度も孔明の髪を梳く。
 この世界にシャンプーなどないけれど、そう思わずにはいられない。それとも食べるものが違うのだろうか、と花は真剣に考えた。
 そして、亮も髪はさらさらだったな、と思い出す。過去ではひとつの天幕で身を寄せ合って寝た仲だ。
「気持ちいい」
 花は頬を緩めて、孔明の頭を撫でる。
 その気持ち良さに、そのうち眠くなってきた。
「ふわ……」
 花は欠伸をひとつかみ殺す。
 ぽかぽかした陽気が部屋の中に充満して、花を眠りの世界へと誘った。


「まったく……どれだけ煽れば気が済むの?」
 こくり、こくりと舟を漕いでいる花を見上げ、孔明はぼやいた。
 花に触れているだけでドキドキしているのに、何度も頭を撫でられて体が熱くて仕方ない。
 狸寝入りで花を騙った罰は、自分の身に倍になって返ってきた。
 孔明は自分の業の深さにため息をつく。
 そして、居眠りしている花を起こさないように起き上がり、逆に花を抱えて再び床に転がった。
 あの花を、再びこの腕に抱くことができるなんて夢のようだ。
 腕の中の花は、ひどく小さい。
 十年前、なんでもないふりをして寄り添ったときは、ようやく腕が回るくらいだったのに。
 花がひどく頼りなく感じて、確かに腕の中に抱いているのに、本当にいるか不安になってしまう。
 孔明は腕に力を込めた。
「大好きだよ」
 孔明は、夢の中の花に届くようにと、その耳に囁く。
 夢の中ならば、夫婦でも恋人でも、望むままに何にだってなれる。
 それは、目覚めたときに消える魔法。
 夢の中だけは自由に。
 今度こそ、孔明は眠りに落ちていく。

 目覚めた花が、孔明の腕の中に捕らえられているのを知って、忠告をきちんと聞けば良かったと後悔するのは、それから二時間後のことだった。

Pagination