秘密
「ふんふふーん、ふふーん」
上機嫌で歩く季翔の鼻歌が、秋の庭に響いていた。その手には、何やら色々なものが詰まった木箱がある。
今日はとてもよい天気だ。
その気持ちの良さに、季翔の足取りも軽い。いや、そうでなくても、いつでも季翔は軽かった。
「楽しそうだね」
「うげ、亮!」
突然目の前に現れた孔明に、季翔は潰れた悲鳴を上げる。
その驚き方はいつもと同じようで、それでいて、全く本気だった。
孔明はその微かな違和感に気づき、笑みを深める。
「なに? ボクだけど、ボクに会ったらまずかった?」
季翔が仕事をさぼるのは日常だ。それが孔明に見つかるのもまたいつものことである。だから、この動揺はそのためではないということだ。今日の季翔も、全く仕事をしているようには見えないのも確かだが、とにかく孔明と鉢合わせては都合の悪いことをしているのだろう。
それが何なのか、非常に興味をそそられた。
「そ、そんなこたねえぜ!」
季翔は大げさなほどに頭を後ろに逸らせる。
「俺とお前は、まぶだちじゃねえか! 苦楽を共にした、戦友! 熱い友情で結ばれた兄弟!」
そして、箱を片手で持って、もう一方の空いた手で、孔明の肩を抱いた。
友達なのか兄弟なのかさっぱり分からないが、孔明は友達になった覚えもないし、兄弟ではない。
孔明がとりあえず季翔の手を払おうとすると、それより早く、季翔が離れた。
「だがぁ、今は駄目だ!」
孔明から間合いを取ると、季翔は芝居がかった様で腕をぐっと突き出す。孔明にそれ以上近づくなということだ。
特に近づきたくもなかったので、孔明はその場に留まった。
「またあとで遊んでやるから! じゃあな!」
出会ってから今まで季翔と遊んだ記憶はない。
しかし、孔明がそれを告げるより早く、季翔の姿は消えていた。
逃げ足だけは速い。
「…………」
孔明はひとつ、息を吐いた。逃げる者を追いかけて捕まえ、白状させるのは、孔明の方法ではない。
「なんだろうね?」
呟く声は楽しげだ。
季翔一人で、孔明に黙って何かをしようと思いつくはずがない。当然共犯者がいるはずだ。もちろん晏而は関わっているだろう。それに、恐らく花も噛んでいる。あとは、城の中でどこまでの人が巻き込まれているかだ。誰から切り崩すのが面白いだろうか。
頭の中で考えを巡らせながら、孔明はゆったりと歩き出す。その足は、青州兵の詰め所に向かっていた。
青州兵の詰め所はいつも賑やかだ。活気に満ちているその中へ、ひょいと孔明が顔を出すと、兵の一人がすぐに気づいて声をかけてきた。
「これは孔明様。あいにく、晏而も季翔も出ておりまして……」
「うん、それを確かめたかったんだ」
兵の言葉に満足して、孔明はにっこりと笑う。
「は?」
きょとんとする青州兵に何の説明も与えず、欲しい言葉を得られた孔明はさっと踵を返した。
三人が密談するとなると、書庫しかない。孔明が訪れる確率が高いため、孔明に隠れて何かをするのは難しいだろうが、打ち合わせの痕跡くらいはあるだろう。
それにもしかしたら、花がいるかもしれない。
孔明はそう思って、書庫に向かった。
だが、書庫はしんと静かだった。誰の姿もない。中に入って、花の机の周りを見て回るが、これといったものは残っていなかった。
「ふむ……」
孔明は顎に手をあて、あらためてこの事態について考えようとする。
そのときだった。
「師匠!」
花の声で呼ばれる。
孔明が振り返ると、なぜか嬉しそうな顔の花が駆け寄ってきた。
「こんなところにいたんですか。探していたんです」
「ああ、ボクもだよ」
花の言葉を意外に思いつつも、孔明は言う。
季翔がこそこそしていたからこそ、秘密を暴いてやろうと思ったのだ。しかし、花は探していたという。いったい何をしようとしているのだろう。
「え? そうなんですか? 何かありました?」
孔明の返事に、花は目を丸くして、孔明の話を聞く構えを見せた。
孔明はそれに緩く頭を振る。孔明が聞きたいことと花の用事は、おそらく同一だろう。
「君の用件を先に聞くよ。どうしたの?」
「あ、じゃあ、一緒に来てください」
花は何の説明もせず、孔明の手を取った。
孔明は小さく目を剥く。花が自ら孔明の手を取ることなど、稀だ。
「ちょ、ちょっと、どうしたの?」
孔明が戸惑っているうちに、花は孔明を連れて歩き出す。
「こっちです、こっち」
花はなんだかとても楽しそうだった。その様子から、悪いことではないのだろうと思う。しかし、自分をさしおいて、晏而と季翔と謀を巡らせるのは、少々不満だ。あの二人よりもよほど頼れるはずなのだが。
そんなことを思いながら、孔明は花についていく。
花は庭に下りて、その隅にある東屋に向かっているようだった。
だんだんと東屋が近づくにつれ、そこに予想以上に多くの人がいるのを、孔明は見た。それになぜか東屋が、花や紐、布などで彩られている。その卓には、所狭しと色々と並べられているようだった。
いったい何事だろう。
「ああ、孔明、来たな」
東屋に着くと、花の手はするりと解かれてしまう。迎えてくれたのは、玄徳だ。それに雲長、翼徳、芙蓉に子龍までいる。晏而と季翔もあまり寛いだ様子ではないものの、そばにいた。
「みなさんお揃いで。どうされたんですか?」
孔明が尋ねると、芙蓉があからさまに呆れたようにため息をついた。
芙蓉に呆れられる覚えはない。
だが、芙蓉に聞くのも癪だったので、孔明は説明を求めて花を振り返った。
「花? どういうこと?」
すると、花に無数の花びらをかけられる。
「!?」
孔明はびっくりした。
赤、黄、白、桃、紫に青。たくさんの色の花びらが、宙を舞っている。
しかし、意味が分からない。
「お誕生日おめでとうございます!」
目を瞬く孔明に、花がそう声を上げた。すると、玄徳が率先して拍手をし、他の者たちも続く。
どうやら、祝福されているのは自分らしい。
「誕、生日?」
孔明は首を傾げかけて、ああ、と思い至った。そういえば、今日は自分の誕生日だ。暦はしっかり認識しているが、誕生日ということを意識していなかった。
「師匠、忘れてました?」
反応の鈍い孔明に、花は思い通りだといった満足げな顔で聞いてくる。
「うん。忘れてた」
正確に言えば、意識していなかったのだが、他人から見たら同じことだろう。
「やっぱり」
「大したことでもないし」
花の得意げな様子に、少しだけ負けず嫌いが刺激されて、孔明はそう言う。
すると、花は大きく反応した。
「大したことです! 私にとってはとても大切なことです。それは知っていてください」
「う、ん……」
花に真剣に言われて、孔明は頷く。
とても嬉しかった。
花が大切に想ってくれていることに触れて、心がじんわりと温まる。
誕生日が嬉しい。そんなことを思ったこともなかったのに、自分に誕生日があってよかったと、孔明は心から思った。
「でも、師匠にとっては忘れていてもいいことだったら、それでいいです」
勢いが良すぎたと反省したのか、花は身を引いて、声も落ち着かせて言う。
それでもいいのか、と孔明はほんの少し意外に思った。
そんな孔明の前で、花がにっこりと笑う。
「私が覚えておきますから」
孔明は目を見開いた。
「…………うん」
そして、静かに頷く。
自分の誕生日を花に託すというのは、ひどく幸せなことのように思えた。
心が浮き立って、頬が緩んでしまう。
花以外には見せない表情をしてしまいそうで、孔明は必死に取り繕った。花ならばいいが、玄徳たちや晏而、季翔には絶対に見られたくない。
「雲長兄い、もう食ってもいい?」
背後から、翼徳が待ちきれないと、ひそひそと雲長に話しかける声が聞こえてきた。気を遣っているようだが、一番遠くにいる孔明たちのところまで届いている。
「駄目だ。まずは主役からだ」
雲長はきっぱりと却下している。
「そんなぁ」
声はまだ小さいものの、その腹が翼徳の心を代弁して、きゅるるるると盛大に鳴く。
「雲長の言う通りだが、翼徳が飢えてしまうな。始めようか。孔明、どれがいい?」
玄徳がくすりと笑って、孔明に声をかけてきた。
「はい。どれでも」
孔明も今日はからかうのをやめて、翼徳のために速やかに宴に移れるようにそう言う。
しかし、それは伏龍にしては、あまりに浅慮だった。
「どれでもってことはないでしょう? 私の料理から召し上がったら?」
「待て。最初からそんな重量級なものを食べさせてどうする」
孔明の言葉によって、いらぬ火蓋が落とされてしまう。
「もう、早く食おう!」
芙蓉と雲長がばちばちと火花を散らすと、翼徳が泣き声を上げた。そんな翼徳に周りが笑う。
いつも通りの賑やかな場だ。
そんなところにいるのが少しだけ不思議で、けれど、花と目が合って、心が満ちる。
平和な国にできたなら、きっとこんな日が当たり前になるのだろう。
「ありがとうございます」
孔明は、そっと呟いた。