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Category: こばなし

静かの海

 この世界との齟齬はない。
 太陽も月も同じだ。
 空も大地も変わりない。
 けれど、違うのだ。
 ここにいて、いいのだろうか。


 ふと、目が覚めた。
 暗い。狭い。痛い。野に近い匂いがする。
 ーー天幕の中だ。
 暗闇の中で、目をぱっちりと開く。
 そして、隣で寝る花を起こさないよう配慮しながら体を起こした。
 夜明けまでどれくらいだろう。
 星を見て確かめようと体を起こして、それが中途半端に止まった。
 目が隣のふとんに釘づけになる。
 そこはもぬけの殻だった。まるで誰もいなかったように、きれいだ。
 一瞬、現実を拒絶しかけて、なんとか踏みとどまる。
 緩く頭が動き始めた。
 確かめろ。考えろ。
 脳からの指令がやっと指先に到達して、亮はふとんの中に手を入れる。
 薄いふとんは冷たかった。
 血液が冷えた。
 おやすみと言って、薄暗い天幕のなかで笑っていたのを覚えている。
 手を握れば良かった。
 明日を容易に信じてしまうとは、なんて愚かなのだろう。
 還ってしまったのか。
 確かめろ。考えろ。
 亮は天幕を飛び出した。
 高く青く月が輝いている。満月だ。
 目は星の位置をとらえ、頭は勝手に時間を計っているが、亮はそれを無視して、花がどこにいるのかを考える。
 もし、ここにまだいるのなら、そう遠くには行っていないはずだ。
 いるだろうか。
 いてほしい。
 まだ、そのときではないはずだ。

「花!」
 天幕からそう離れていない野原で、その姿を見つけて、亮は叫んだ。
 花がゆっくりと振り返る。
「亮くん。起こしちゃった?」
 まるで、いつも通りだ。
 不安になって、焦って、息を切らしている自分が、道化のようだった。
「ごめんね、こんなところまで探しに来させちゃって」
 花は申し訳なさそうに謝る。
 このひとは、天女なのだろうか。
 ここにいて、こんなにも普通の女性(ひと)に見えるのに。
 亮は、色々な言葉を飲み込んで、努めていつも通りに振舞った。
「こんなところで何してるの? 冷えるよ?」
「うん。海を見てたの」
 うみ。
 月の間違いか。
 そんな気持ちが顔に出ていたのか、花は優しく笑って言った。
「月には海があるんだよ」
 そうして、月を振り仰ぐ。
 月は清かに輝いている。
 くらくらした。
 月の光を浴びて、花はまるで消えてしまいそうだった。
「…………あなたの帰るところの月に?」
 わずかに声が震えてしまう。
 いつか花は帰る。それを胸に刻んで過ごしているけれど、それを受け入れるのはいまだ難しい。
 ずっと、そばにいてほしかった。
「そう」
 花は曖昧に頷く。
 少し違和感を覚えて、亮は花を見つめた。
 花が想っているのは、帰るところではないのだろうか。
 救いたい、大切な人たちのいる場所以外に、花には帰る場所があるのだろうか。
 まるでそんな遠い目をしている。
 届かない。
 亮は、花の世界の外にいる。
 花が遠い。
 どうしたら届くのだろう。
 絶望的な距離を感じて、亮は俯く。
 きっと、このひとは届かない人なのだ。
 繋いではいられない。
 返さなければいけないのだ。
 動けない亮のもとに、花がやってくる。そして、何の躊躇いもなく、その手を取った。
「寒いね。戻ろう?」
 花は亮の手を握って歩き出す。
 亮は何も言えずにそれに従った。
 離すことができなくなるかもしれないから、自分からは繋げない。
 繋いだ手を見つめて、亮は泣いてしまいそうだった。
「花」
「なあに?」
「今度、教えて。あなたの世界のこと」
「……うん」


 月に海はあるのだろうか。
 どんなに目を凝らしても、ボクには見えない。

 

指輪

「君と約束するにはどうしたらいいかな」
「……指輪、ですかね」
 ぎゅっと凝縮すると、そんなような会話があって、今、花の左手の薬指には指輪がはまっている。
 シンプルなリングに、碧い石が一つついた、ささやかなものだ。
 花は、自分の薬指に指輪がはめられていることが不思議で、時間があればそれを眺めてしまう。
 結婚など、もっとずっと先のことだと思っていた。
「言葉で言ってもらえたらいいですよ」
 先般の質問に、花は初めはそう答えたのだ。
 しかし、孔明は納得していない風で、
「言葉はボクと君にしか見えないだろう? もしかしたら、君とボクの間でも、見えているものは違うかもしれない。周りにも知らしめることができて、かつ、君とボクにも見える方法がいいんだ。君はボクの奥さんなんだって分かるのがいい」
 と言った。
 だから、花は結婚指輪のことを思い出して、それを教えたのだ。
 そして、孔明がこの指輪をくれた。
 花が指輪を不思議に思うのは、実感がわかないからだろう。今まで指輪を欲しいと思ったことはないし、こういう意味で指輪を贈られるなど夢にも思っていなかった。
 だから、不思議で、見てしまう。
 ただ、指輪を見ていると、とても幸せな気持ちになった。
 慣れない重みは、そこにある約束を知らせてくれる。
 花は、そっと薬指をおさえた。知らず、頬が緩む。
 そのとき、廊下の先に、同じ指輪を同じ指にはめている人を見つけた。
 まだ見慣れない違和感のある様だ。
 花が一人で指輪をつけていたところで、その習慣のないこの世界ではあまり意味がないし、それに指輪の交換なんでしょう、と花につけさせたのだ。
 孔明に指輪はあまり似合わない。その異様さに、その話は瞬く間に城内に伝わって、同じ指輪をつけている花のことももちろん広まった。
 そのときは、たくさんの人に注目され、質問されて、とても恥ずかしかったが、一通り話が伝わると、周りも静かになった。もちろん、城内で知らない者はいない。孔明の目論見は達成されたのだ。
「師匠!」
 花は走っていって、後ろからその腕を取る。 
「おっと……君か」
 孔明は読んでいた書物をおろして、表情を緩めた。
「今、終わりですか?」
「うん」
「一緒に行ってもいいですか?」
「うん、もちろん」
 頷く孔明の薬指には、石のついた指輪。
 花はそれをちらと見て、小さく笑った。

走って、走って

 息が上がる。
 足がもつれそうだ。
 でも、走って。
 足よ動け。
 走らないと追いつけない。
 どんなに走っても追いつかない。
 それでも。
「つかまえ、た!」
 突然後ろから二の腕を強く引かれて、花はバランスを崩しかけた。
 その体を支えてくれたのは、引っ張った当の本人、孔明だった。
「師匠? どうしたんですか?」
 花は驚いて、問う。
 孔明の額には汗が浮かび、息は切れていた。
 あまりにも珍しい光景だ。
「うん。君に会いたくて」
 孔明はにっこりと笑って、花の腕を離した。
 花は書簡を抱え直して、孔明に向き直る。
「今、師匠の部屋に行くところでしたよ?」
「うん、そうだね」
 孔明は頷いた。
 花はその静かな様子を見つめ、考える。
 孔明が走ってきたのは、部屋とは逆方向だ。花が部屋に行っても、孔明は不在だっただろう。
「師匠が会いたいと思ってくれるなら、いつでも会えますよ」
 花は言う。
「私はいつでも師匠に会いたいですから」
 追いついたのだろうか。
 捕まえられたのだろうか。
「うん」
 孔明は花の手を握り締めて頷いた。

こたつでみかん

 花の手の中には、みかんのような大きさの柑橘系の果物があった。
 名前は聞いたが忘れてしまった。「みかん」でないことは確かだ。しかし、もらったときにひとつ食べて、味もみかんとそっくりだったので、もうみかんと呼ぶことにしようと思っている。
 自室に戻った花は、ひとつ食べようとして、手を止めた。
 みかんといえばこたつと思うのは、単純すぎるだろうか。この世界にこたつはないが、思い出すとあの温もりが恋しくなった。
 花は、きょろきょろと部屋の中を見回した。
 こたつの雰囲気を味わえるかもしれない。
 寝台から掛け布を持ってきて、脚の低い机にかける。天板はなくてもいいだろう。中を暖めたいところだが、部屋の中で代用できそうなものは火鉢くらいだった。それを中に入れたら危険すぎるので我慢する。
 花は即席こたつの中に入ってみた。
 すーすーしているが、こたつ気分を味わえなくもない。
「花? ボクだけど、今いい?」
 そのとき、戸の向こうから孔明の声がかかった。
「はい。どうぞ」
 花はこたつに入ったまま返事をする。
 戸を開けて入ってこようとした孔明は、室内の様子に眉を顰めた。
「何してるの?」
「あ、こたつでみかんを……」
「コタツでミカン?」
 首を傾げる孔明に、花は素早く説明した。
「なるほど。コタツでミカンなわけだ」
「はい」
 孔明は、擬似こたつと「みかん」を指差して納得したように頷いた。
「じゃあ、ボクも」
「えっ?」
 孔明はするりと花の隣に座って、こたつに足を入れる。
「これはなかなかいいね」
「師匠、狭いです」
 満足そうな孔明に、花は唇を尖らせた。
 こたつマナーがなっていない上、あまり大きくない机のため、二人で並んで座るのはとても窮屈だった。
「ひとつの辺に一人が入るんです。あっちに行ってください」
 花は自分の向かい側を指し示した。
「いいじゃない。くっついてた方があったかい」
 孔明は意に介さず、花に擦り寄って、みかんに手を伸ばす。
 これ以上は言っても仕方ないらしい。
 それに確かに孔明の言うとおり、暖める機能のない擬似こたつでは、くっついていたほうが暖かい。
 触れる肩に少しどきどきするのは、気のせいだろう。
「師匠、あの……」
 少し離れてくださいと言おうとした花の口に、孔明がみかんを放り込む。
「おいしいね」
 孔明も一房口にした。
 まあ、いいか。
 花はそう思って、素直にみかんを咀嚼する。
「……はあ」
 すると、すぐ隣でため息をつかれた。思わせぶりなため息だ。
「どうしました?」
「なんでもなーい」
 しかし、尋ねても孔明は答えず、ごろりと寝転がって目を閉じてしまった。
 ここで昼寝をしていくらしい。
 花は気にせず、残りのみかんを食べ始めた。

海の向こう

 水面が白い太陽の光を受けて、銀色にも輝いている。空は大きく開け、どこまでも青く澄んでいた。
「海が珍しい?」
 背後から声をかけられ、花ははっと振り返る。
 孔明がすぐそばに立っていた。
 いつもなら、こんな近くに来られても気配に気づかないなんて緩みすぎだよ、などといった言葉をもらう場面ではあるが、孔明は口を閉じている。
 その顔はひどく平坦で、心の内を読ませなかった。ということは、知られたくないことを考えているのだろうと思えるくらいには、花も孔明を理解するようになっていた。
「いえ、あの、反対で……」
 花はゆるく首を振った。
 きっと孔明は心を痛めてしまうと思いながらも、本当のことを告げる。
「懐かしかったんです」
「懐かしい」
 孔明はまるでその言葉の意味を確かめるように呟いた。
「はい。私の住んでいたところは海が近かったので」
 国の懐深くにある成都では海を臨めない。
 長江や黄河は海のように見えるが、やはり本物の海を見ると、あれらは河で、海とは違うと思った。
 豊かに水を湛え、どこまで広く遥かな海。
 あの向こうにはーー。
「この海の向こうに、君の世界があるのかな」
 孔明が花の隣に立って、眩しそうに海を見つめた。
 照り返しがきつい。
「…………どうでしょうか」
 花は曖昧に答える。
 海を渡ったら、たどり着くのだろうか。たどり着きたいだろうか。
 でも、行けない気がする。諦めではなく、そう思う。きっと、どこにもたどり着けない。ここに戻ってくるだろう。
「私の世界だったら、この先に、私の国があるんですけど」
 花は思ったことは心にしまい、そう言った。
「そう」
 孔明は短く頷く。
 何か言葉が続きそうだったので、花は孔明をしばし見つめた。
 しかし、孔明はただ海を見つめて口を閉ざしたままだった。
「はい」
 花は頷いて、海へと視線を転じた。
 湿り気を帯びた風が頬を撫でて舞い上がる。海鳥の声が遠くに聞こえた。

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