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Category: こばなし

迷子

「師匠?」
 ふと気づけば、隣に孔明の姿がなかった。
 大きな通りが、知らん顔で伸びている。そこにたくさんの人がいるが、誰も花のことなど見向きもしない。
 不安が一気に心の中に広がった。
「師匠!」
 誰も知らない街なのだ。玄徳の使いとして、視察に来ただけで、全て孔明に任せていた。城へ帰る道どころか、この街の地理も分からない。
 花は手に取っていた髪飾りを置いて、通りの真ん中へと転がり出た。
 周りを見回す。
 賑やかな大通りだ。
「師匠! 師匠!?」
 叫ぶ花に、通行人が訝しげな視線を向けた。けれど、花は構っていられなかった。
 孔明がいない。
 怖い。
 足もとが揺れる。
 頭の中には、ちょっとはぐれてしまっただけ、人が多くて見失っているだけ、という冷静な声が響いているのに、孔明が突然いなくなることなど、珍しいことではないだろう、と、この街と玄徳の城との大まかな位置関係は分かっているのだから、道を聞きながら行けば、帰れるはずだろう、と次々と考えが湧いてくるのに、駄目だった。
 誰も知らない街。
 ひとりぼっち。
 迷子?
 置き去り?
「師匠!!!!」
 堪らず花は叫んだ。
「花!」
 その呼び声に応えるように、名を呼ばれる。
 振り返ると、孔明がいた。焦ったように、息を切らして。
 花は、その場にぺたりと座り込む。
「師匠ぉぉ」
 安心したら、涙がこぼれてきた。離れていたのはほんの数分だったろう。それなのに、ぽろぽろ流れる涙は止まらない。
 花は自分でも分からなかった。どうしてあれほど不安になったのか、どうしてこれほど安心しているのか。
「花……」
 孔明は花のもとに駆け寄って、跪く。その手はわずかに震えながら、おそるおそる花に伸ばされた。
 指先が、花の髪に触れる。そのとたん、まるで熱いものに触れたかのように引っ込んだ。それから、また手が伸びて、今度はしっかりと、花を掴まえる。
「大丈夫」
 孔明に抱き寄せられて、花は体中から力が抜けた。
「ごめんね」
「どうして師匠が謝るんですか。私が余所見してたんです」
「うん。でも、君のことを一人にしちゃったから」
 孔明は、ごめん、ともう一度謝る。
 孔明は何も悪くないのに、と思いながらも、花はなぜか胸が苦しくて、言葉を継げなかった。
 代わりにぎゅっと孔明の腕を握り締める。
 もう決して離さないように。

ドーナツ作ろう

「これで、どうだ?」
 雲長が台所から持ってきたのは、まさに花が思い描いたとおりのドーナツだった。
「こ、これです! これがドーナツです!!」
 花は感動して叫ぶ。ドーナツが食べたくなったが、何と何をどれくらい混ぜてどう作るのかあやふやだったところ、どんな感じだったか伝えただけで、雲長は見事に作ってのけたのだ。
「うまそー!」
 さっそく翼徳が手を伸ばした。
「さすがだな、雲長」
 玄徳もひとつとる。
「悔しいわ。悔しいわ」
 芙蓉は悔しがりながらも、むしゃむしゃと食べた。
「うまーい」
「翼徳。花のだ。お前ばかり食べるな」
 翼徳がすでに三つ目に入るのを見て、雲長が釘をさす。
「だって、これ、すげーうまいよ?」
「ああ。この蜜のかかり具合が絶妙だな」
「悔しいわ。悔しいわ」
「雲長さん、ありがとうございます!」
 本物のドーナツに再会できて、花は目をキラキラさせた。
「ああ。いつでも言え」
 そんな花に、雲長は、珍しく、優しく顔を和らげる。
 二人の間に穏やかな良い空気が流れたときだった。
 ぬっと新たな手がドーナツに伸びる。
「師匠!?」
 いつもはお茶に加わらない孔明が、いつのまにか花の背後に立っていた。
 ドーナツを一つ頬張って、なにやら唸る。
「小麦7、砂糖1、卵2の割合で、混ぜて揚げるんだね。それから蜜につけて出来上がり」
 そして、すらすらとドーナツについて分析してみせた。
「師匠、すごい。食べただけで分かるんですか?」
 花の賞賛の眼差しが、今度は孔明に向けられる。
「これくらい簡単だよ」
「さすが師匠。何でも分かっちゃうんですね」
「いやー、それほどでもないよ」
 照れたように頭を掻きながら、孔明は翼徳を押しのけて、花の隣に座る。
「師匠、お茶飲みますか?」
「ありがとう」
 花はいそいそと孔明のためにお茶の用意を始めた。
「…………」
 雲長と玄徳と芙蓉は顔を見合わせる。
 そして、同時に大きなため息をついた。

携帯電話

「あっ、ああ、ああ……」
 花の残念そうな無念そうな声に、孔明は本から顔を上げた。
「どうしたの?」
 隣に座る花の手の中には、何からできているのか分からないモノがあった。孔明にとっては見知らぬものだが、花がずっと大切そうに持ち歩いているので見慣れたものだった。
「ケータイの充電が切れちゃったんです」
「けーたいのジュウデン?」
 聞きなれない言葉に、孔明は首を傾げる。
「あ、これがケータイで、充電というのは、ケータイを動かすためにバッテリーに電気を溜めることです」
 花は手の中のピンクの物体を掲げるだけでなく、背面を分解して、中から四角いものを取り出してみせた。
「何をするものなの?」
「離れている人と話ができる機械なんです。メール……文章もやりとりできて、写真も撮れるんですよ」
「ふーん」
 どうやって離れている人と話をするのか、文章をやりとりするのか、写真というのは何なのか、と分からないことは多かったが、なかなか高機能らしいということは分かった。
「家族の写真が入っていたので、なるべく充電をもたせるようにしてたんですけど……」
 花は携帯電話を細い指でさすっている。
 その瞳は、携帯電話を通して、遠い、元の世界を見ているようだった。
 隣にいるのに、遠い。
 孔明は、たまらず花を抱きしめた。
「し、師匠!?」
「うん」
 突然の行為に、花は慌てている。
 孔明は頷いた。
「師匠?」
 今度は、少し心配そうな声で問いかけてくる。
「うん……」
 孔明はただ頷いた。
 すると、少し間を置いてから、花の手が背中に伸びる。
 その手の温かさに、孔明は目を閉じた。

乙女の覚悟

「師匠!」
 花は、廊下の先に目当ての孔明を見つけて、呼び止めた。
 振り返ったところを、首を伸ばして、唇を掠め取る。
 柔らかな唇の感触。驚いたように見開かれる孔明の瞳。
 花はぎゅっと目をつぶって、突き飛ばすように孔明から離れた。
 とんでもないことをしたと分かっている。それでも、今日は覚悟を決めて、孔明を探していたのだ。
 孔明は、思い出したようにしか触れてこない。キスも片手で足りるほどしかしていなかった。そして、最後のキスは日にちを思い出せないほど昔のことだ。
 触れたときの、胸が締め付けられるような、甘く蕩けるような、あの幸せな一瞬が忘れがたくて、日々孔明が触れてくれないだろうかと期待していた。けれど、孔明はさっぱりそんな素振りを見せず、むしろ花に触れるのを避けているかのようだった。
 だから、花は強行手段に出たのだ。孔明に触れたいという気持ちを、おさえることができなかった。
 はしたないとか恥ずかしいとかそういった気持ちはもちろんあったが、それよりも強く触れたいと思った。
(かなも、自分からすることもあるって言ってたし……)
 花は、自分への言い訳を心の中で呟く。
 だが、初めて自分からしたキスは、あまりに緊張し過ぎて、なんだか分からなかった。
 それに、孔明の反応など見られるはずがない。恥ずかしいのと、怖いのとで胸がドキドキしていた。花は、そのまま回れ右をして、逃げ去ろうとする。
 しかし、孔明はそんなに甘くなかった。
「待ちなさい」
 ぐいっと襟首を掴まれて、引き戻される。
「……ほんとに、人の努力も知らないで」
 孔明の声からは、感情が消えていた。
 花は青ざめ、後悔する。そして、いまさらながら、この世界が、元の世界と違うことを思い出した。女性はより貞淑であることを求められているのだ。それを忘れて、自分からキスをするなんて、馬鹿だった。
 自己嫌悪に苛まれていた花は、ふと、周りが暗くなったことに気づいて、わずかに視線を上げる。いつのまにか孔明に壁に押し付けられるように押さえ込まれていた。
「? ししょ……っ!」
 いったい何事かと問おうとした花の唇に、孔明の唇が重なる。
 柔らかな感触に、花はびっくりした。
 どうしてキスをされているのか。怒ったのではないのか。呆れたのではないか。
 孔明の意図が見えなくて、花は混乱した。
 そんな花の口の中に、するりと舌が入ってくる。
「!」
 花は驚愕に目を見開いた。
 孔明の舌が口の中で蠢いている。まるで息を奪うような荒い口づけは初めてで、頭の中が真っ白になった。そのうえ、孔明の手がゆっくりと腰を撫でていて、体の芯からむずがゆいような、熱いものがじんわり広がっていく。
 その熱の正体を知らない花は、戸惑い、不安に感じた。ただそれから逃れたくて、身を捩る。しかし、拘束する力は強く、びくともしなかった。
「っ…………やっ!」
 花は小さく悲鳴を上げる。
 孔明が、唇を離れ、首筋に吸いついたのだ。強く吸われて、ぞくりと体が震える。
 立っていられなくてすがりつく花を、ゆっくりと廊下に座らせて、孔明はにっこり笑った。
「こういうことされる覚悟があるなら、次もやってごらん」
 じんじんと疼く首に手をあて、花は自分の浅はかさを心から反省した。

とある君主の不幸な午後

「花、好きだよ」
 孔明の手が、そっと花の頬にかかる髪を摘む。
 花は顔を赤らめて、固まった。孔明は椅子に座り、花はその膝の間に立っているため、身動きがとれない。それに、孔明からの告白という珍しいことに、下から覗き込まれるという、いつもと違う要素が加わって、花の頭は現状を処理しきれていなかった。
「花も好きって言って」
 孔明は甘えるように、花の首に手を回す。
 花はますます固まった。
「で、軍師様はどうされたいんでしょうかね」
 二人の甘い空気を遠慮なくぶち壊したのは、しかめっつらの晏而だった。
 もちろん、今入ってきたのではなく、ずっと部屋の中にいた。玄徳の用を預かって、孔明の執務室を訪れたのだが、花が晏而にばかり構うので、孔明がしびれを切らした結果がこれだった。
「分かってるくせに」
 孔明は、花を抱き寄せながら、ちらと晏而を見る。
「俺に出て行ってもらって、弟子と二人きりになりたいって?」
「正解」
 死んでも出て行かない、と言いたくなるような笑顔だったが、晏而はぐっと堪えた。
 孔明には逆らわない方が身のためだ。
 特に、花絡みは。
 孔明の腕の中の花を見る。顔はよく見えないが、真っ赤になっていることだろう。恥ずかしがっている顔も可愛いだろうな、と晏而はわずかに顔をにやけさせた。
「見るな」
 晏而の視線に気づいて、孔明は隠すように花をさらに抱き寄せる。
 晏而は、頬をひくと引き攣らせた。
 まるで子供のような言い方だ。そう思ったら、脳裏に少年の頃のませた顔が蘇った。十年前も気に入らなかったが、やはり今も気に入らない。特に、自分だけちゃっかり花を手に入れるあたりがまったくもって気に入らなかった。
「ガキ」
「早く家に帰ったら? お父さん」
「っぐ」
 せめて一太刀と振るった太刀は、さらりとかわされ、倍以上鋭い太刀が襲ってくる。諸葛孔明の本領だ。いつも一番痛いところを的確についてくる。小さい頃から可愛げはなかったが、本当にたちの悪い大人になってしまった。
「とにかく、俺は伝えたからなっ」
 これ以上は部屋にいられない。いたくない。晏而は捨て台詞をはいて、部屋を飛び出した。
 しかし、数歩行って足を止める。
 さきほどのことは、晏而を追い払うための芝居とは分かっているが、それにしても良い雰囲気だった。
 もしかしたら、このまま      
 晏而はごくりと生唾を飲みこむ。
 花のかわいい声が聞けるか。
 晏而の心に、邪な考えが浮かんだ。そろりと足が音を立てないよう方向を変える。
「ああ、晏而」
 そこに、背中から声をかけられて、晏而は飛び上がった。
「うわぁぁ! 驚かすな! ……って、げ、玄徳様!」
「わ、悪かった」
 振り向きながら怒鳴った晏而は、そこに立つ玄徳を見て青ざめた。
「す、すみません!」
 慌てて廊下にはいつくばって、頭を下げる。
 晏而たちが従うのは、花であるが、その花の主である玄徳は、当然晏而にとっても主だ。怒鳴りつけていい相手ではない。その場で斬られても仕方ないくらいだ。
「いや、俺が悪かった。すまん」
 それなのに、玄徳は晏而を責めるどころか反省して謝ってくる。
「い、いいえ、本当に申し訳ありません」
 額を床にこすりつける晏而に、玄徳は困った顔をしてその傍らに膝をついた。
「晏而、顔を上げてくれ。なあ、さっきの件だが、孔明には伝えてくれたか?」
「は、はい。ただ返事はいただけていませんが」
 わずかに顔を上げて、晏而は答える。
「そうか。じゃあ、ちょうど良かったな。客が意外と早く帰って、時間ができたんだ。お前に使い走りさせて申し訳なかったが、直接話をしようと思って来た」
「さ、左様ですか    って、玄徳様!?」
 すたすたと遠ざかる玄徳の足音に、晏而ははっと顔を上げた。
「孔明、俺だ。入るぞ」
 玄徳はノックもそこそこに、戸に手をかけている。
「玄徳様っ、今はまずいっ!」
 晏而が声は一歩遅かった。
 部屋の中から、どすん、どすん、となにやらひどい物音が上がる。
「し、師匠の馬鹿!」
 続いて、花の可愛い悲鳴。
「わ、す、すまない!」
 そして、うろたえて戸を素早く閉める玄徳。その顔は一瞬にして真っ赤になっている。
 何を見たんだろう、と晏而が玄徳を少しだけ羨ましく思ったのは、孔明には絶対に内緒だった。

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