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Category: こばなし

風化

 少しずつ失われていく。失われていくことさえ気づかないうちに。
 彼女の香りはどんなものだっただろう。
 彼女の声は、どんなものだったろう。
 彼女の大きさは。
 顔は。
 どんな風に笑って、怒って、悩んで、泣いていただろう。
 彼女の瞳は、涙で滲んでよく見えない。
 師匠、と呼ぶ声が遠い。
 どこにでもいるような、けれど、世界中のどこを探してもいない彼女。

 ――彼女?

 ボクは、どうして手を放してしまったんだっけ。


「孔明様」
 補佐官に声をかけられ、孔明は顔を上げた。
 補佐官の顔を見た途端、今考えていたことがわからなくなる。頭の一部分に靄がかかったようだ。
「どうした?」
 それでも、孔明は、常の癖で、なんでもない顔をして、彼に答える。しかし、頭の中では、今、失った思考を思い出そうと必死だった。だが、その端もとらえることができない。
「いえ、片づけをしておりましたら、このようなものが出てまいりまして。誰かの物のようなのですが、主が見当たりません。処分してもよろしいでしょうか?」
 そう言って、彼が差し出したのは、文箱だった。若い女性が好みそうな、綺麗な意匠のものだ。
「ああ、それは――」
 孔明の口が勝手に開く。考えるまでもなく体が動いた。しかし、言葉はそれ以上出てこない。
 喉がつかえた。
 誰かのもの、だったような気がする。見覚えがあるような気がする。
 しかし、思い出せない。
 ――思い出す? 何を?
 頭の中をぐちゃぐちゃにかきまぜられたような感じだった。気持ちが悪い。吐き気が襲ってきた。
 何か、大事なことを失っているような気がする。
 それなのに、それが何かわからない。
 さっき、何を考えていただろう。
「それは――――、もらっておく」
 誰のものかわからない――でも、誰かのものであったと思う文箱。
「はい」
 孔明は、補佐官からそれを受け取って、手にした重さに、胸がじくりと痛んだ。

 何か大切な約束があったような――。


 ――師匠。


 彼女ももう忘れただろうか。

星見

「師匠、星の見方を教えてください」
 先に休ませた花が、少しして部屋に戻ってくると、決意を固めた顔で言った。
 今日の空は、雲が出ているからとか、雨が降っているからとか、言い逃れができないくらいに晴れている。しかも若い月だから、星の独壇場だ。
 きらきらきらきら。
 まばゆいばかりに輝いている。
 孔明は忌々しくそれを一瞥して、花に視線を戻した。
 花の考えは簡単だ。例の本以外の導が欲しいのだろう。
 ――そんなこと、しなくてもいいのに。
「やだよ。こんなに暑いのに」
 孔明は、花に本当に嫌なのだと悟られないように、ただ面倒くさいから断っているのだと見えるように気をつけて、わざとだらしなく机に伏せる。
「今日は昨日ほどじゃありませんし、それにほら、冷たいものもらってきました」
 しかし、今日の花は本気だった。孔明が言いそうなことに対して、きちんと準備をしてきている。
 これは厄介だ。
 孔明は起き上がり、花が差し出した冷たい飲み物をありがたく飲みながら、考える。
 星を見るなら、新月の晩の方がよかったはずだ。それを今日まで待ったのは、このところ夜でもひどく暑かったからだろう。
 やっぱり花だと思う。でも一方で、これは花なのかとも思う。彼女は「花」だったけれど、もともと彼女はこんなことを考えたりはしなかった。こんな望みを、元の世界でも持ちえただろうか。
「……確かに、これはおいしいけど、でも、やっぱり今は駄目」
 孔明は、ほんのり甘い飲み物には合格を出し、花には舌を出す。
 一瞬のうちに、花の顔が不満げに曇った。
 そんな顔をされても、孔明に教えるつもりはない。そんなこと、できるはずがなかった。
 花の星があるかどうか怖くて見られないのに、どうやって人に教えられるだろう。
 花がいるのもいないのも知るのが怖い。
 星など、見たくない。
「今は、早く寝れるんだったら、さっさと寝て、体と頭を休めること優先。ボク、言わなかった? 早くおやすみって」
 孔明は羽扇を取って、自らを扇いだ。部屋にこもっている生暖かい空気が、頬にあたる。
「……言われました、けど……」
 花は頷きながらもまだ諦めないようだ。しかし、揺れ始めている。
「けどもなにもないよ。星を見るなんて、一朝一夕で身につくものじゃないんだから、今から学んでも役に立たない」
 これは本当のことだ。
 今、花がそれを知ったところで、覚えた頃には全て終わっているだろう。
 全て――。
 胸の奥が疼く。
 孔明はそれを感じながら、そよそよと花に風を送った。
「君は、星よりも先に文字が読めるようにならなくちゃ駄目だろ」
「うっ……」
 孔明の指摘に、花は言葉を詰まらせる。これなら、もう少しだけ食い下がったら諦めるだろう。
 孔明は心の中でほっとしながら続けた。
「わかったなら早く休むこと。襄陽はボクが落とすといっても、何があるかわからないんだから、体調は整えておいてね」
 もちろん、万が一にも何かがないように準備をしている。明日、青州兵を見たら、花はどんな顔をするのだろう。何を思うだろう。
 喜ぶだろうか。
 眉間にしわを寄せている花を見つめながら、孔明はぼんやりと思う。
「……わかりました……すみません」
 花は険しい顔を緩めて謝った。
 孔明の予想よりも早い撤退だ。最初の心意気を思えば、説得に応じるのが簡単すぎる。孔明は意外に思って、花を見つめ、その心を探ろうとした。
「寝ます。おやすみなさい」
 しかし、花は頭を下げて、孔明に背を向けてしまう。
「…………」
 もう少し話をして、花の心変わりを知りたかったが、孔明には呼び止める言葉がなかった。
 何を言っても、話が星を見ることに戻ってしまう。諦めることを望んだのだから、これでいいのだ。このまま出ていってくれればいい。
 そう思った矢先、花が足を止め、振り返った。
「……文字が読めるようになったら、教えてくださいね」
 やっぱり諦めきれないといった顔で、花は言う。
 孔明は、その一言で、花の気持ちを察した。孔明の言葉をそのまま受け取って、順序を追って学んでいこうと思ったのだろう。花らしい真面目さだ。
「いいよ」
 それならば、花がこの世界の文字を読めるようになるよりも先に、この戦を終わらせる。
 世界から戦がなくなれば、花にはもう、この世界の文字も、星の読み方も必要ないだろう。
 だから、孔明は軽く頷いた。
「ありがとうございます! 私がんばりますね」
 だが、花は、孔明のそんな心中など知らず、素直に喜んでいる。
「私、自分の星を見てみたいんです」
 そして、まっすぐに真剣な顔で言った。
 その顔には、覚えがある。
 遠い昔、自分もこんな顔で、必死に同じものを見ようとしていた。
 胸がずきずきと疼く。
 駄目だよと言いたくなって、どうにか堪えた。
 いつでも、いちばん言いたいことは伝えられないのだ。
「おやすみなさい。師匠も早く休んでくださいね」
 花は真剣な顔をしまって柔らかく笑うと、部屋を出て行く。
 花がいないと、部屋は、とたんにがらんと殺風景になった。花が帰った後の世界もきっと、こんな感じなのだろう。 
 そのときには、星を見ることもできるだろうか。
 孔明は思う。
 星を読むほど、世界の動静が気になるだろうか。
 少し、自信がなかった。

孤独

 

 ボクが心の中で思っていることを全て話したら、おそらく、ほとんど誰も真剣にとりあってはくれないだろう。
 理解ができない人が大半で、そうでない人は笑うはずだ。そして、ほんのわずかな数えられる人は、聞いてくれる。
 それくらい、おかしなことを考えているのだ。
 理解できないのは、知らないから。それを見たことがないから、思い描けない。夢を見ることもできない。
 笑うのは、それを知ってはいるけれど、信じていないから。信じられないのは、やはり見たことがないからだろう。
 けれど、ボクは知っている。
 見ている。触れている。
 「戦のない世界」がもたらすものを知っているから、その世界を思い描くことができる。
 きっと、その世界は、彼女のようにあたたかいだろう。


「ふくりゅう、先生?」
 身なりは簡素だが、常人ではない風格を備え、それ以上に世の中を見渡してもこの人以上に爽やかな人はいないといった好青年に道を問われた女は大いに首を捻る。
 青年は、伏龍先生の庵へ行くにはこの道でいいのかと、山からおりてきた女に聞いたのだ。
「あ、もしかして、山ん中の孔明とかっていう人のことか?」
 女の連れの男が、こちらも首を傾げながらも、青年に確かめる。青年のように立派な者が訪ねていく相手には思えなかったのだ。
「え、あの!?」
 女は、まさかそんなことはないだろうと言わんばかりに驚いている。背負っている山菜がたくさん詰まった籠が揺れたくらいだ。
 二人の反応はなかなかよくない。
 それを見て、青年は、連れの男二人と視線を交わしあった。
「あんたみたいな立派な人が、あんな変人を訪ねることはないよ」
「ああ、そうだ。明るいときは家ん中にこもって、夜になったら山からおりてきて、村や街を物色してるらしい」
「人が住んでる気配はあるのに、いつ行っても姿はない。若い男らしいって話もあるけど、人嫌いの偏屈爺だよ、きっと」
「行っても仕方ない。わるいことは言わない、やめときな」
 二人の熱心なすすめに、青年は困惑している。
 そんな彼らの頭上で、なるほど、と孔明は納得した。
 これが、「伏龍」の名声にもかかわらず、客が少ない理由だろう。
 村の者にあれほど気味悪がられている者を登用しようなどとは思うまい。
 だが、それでも彼は来るのだろう。
 孔明は青年を見つめた。
 さわやかな風貌の中で、その瞳は意志が強そうな光を宿している。
 どんな変わりものでも、使える者ならば招きたいはずだ。
 玄徳軍は、人手不足だから。
 彼女に出会えないまま、ここまで来てしまった。
 劉玄徳は、庵を訪ねるために、男女に礼を言って、山道を登り出している。
 誰もいないけどね、と思いながら見送って、人の気配が遠ざかった頃に、孔明は木の枝から飛び降りた。
 玄徳はもちろん、関雲長、張翼徳相手に気配を消し続けるのは疲れるものだ。
 凝ってしまった肩を回しながら、孔明は街道へ出る。
 彼女と再会することなく、時はここまで来てしまった。
 玄徳の招請を受けたら、隠者の生活も終わる。
 今、玄徳には確かに孔明が必要だ。
 しかし――。
 この世界から戦をなくすのは、自分の役目だったのだろうか。
 それならば、彼女は何のために来たのだろう。
 この道を行けば、彼女と会えると思っていた。

 ボクは、このままひとりで、戦のない世界を夢見るのだろうか。

きらきら

 朝はいつも通りに訪れて、夜は静かに更けていく。
 そんな毎日は、まるで夢のようだと思っていた。
 ここが夢の世界ならば、現実なのだろう。


 見上げれば、空に散らばる星は、その顔ぶれをかえていた。
 しばらく雨が続いていたので、久しぶりの星空だ。
 紺色の空を見つめていると、視界に自らの白い息が入った。
 陽が出ている時ですら寒く、夜は更に冷え、感覚的にはまだまだ冬だ。残暑という言葉があるならば、残冬というのもあるのだろう。冬が残っている、というのがまさに今にぴったりだった。
 しかし、空はすでに春だ。
 人の感覚という不確かなものとは違って、確実に絶対的に刻まれていく時が見える。
 もう、あれから九年だ。
 人生の半分近く、彼女を求めている。そしてすぐに、人生の大部分になるのだろう。
 役者は揃いつつあるのに、彼女だけいない。
 道を間違えただろうか。
「…………」
 孔明は戸を閉めた。
 明日が来るなら、久しぶりの晴天だ。


 彼女はいつも光の中にいる。
 孔明は胸をぎゅっと押さえた。
 どくんどくんと心臓が大きく脈打っている。
 眩しくて目をすがめながらも、視線を逸らせなかった。
 期待が湧いて広がり、先走りそうになる衝動をどうにか堪える。
 光の中心に、彼女がいた。
 その姿を見て、体中から力が抜ける。
 ああ、この道で良かったんだ。


 この道で。


 空は、春の星が輝いている。
 また季節は一巡りしていた。
 去年と同じ顔ぶれだけれど違う空。
 同じ春ではなく、時は進んでいる。
 去年の今頃は何をしていただろうかと、孔明はふと思った。
「孔明さん?」
 そのとき、背後から声をかけられ、孔明は振り返る。
「そんな薄着でいると、風邪引きますよ」
 花が上着を持って、孔明がごろりと横になっている廊下に出てきた。
 すでに廊下で寝転がることを注意してこない。
 花が譲歩した点だ。
 共に暮らせば、お互い自分の主張を緩めなければならないことも出てくる。花は孔明にきちんとするよう強く求めるのをやめたし、孔明は花の意に沿うよう少しは生活態度を正しているつもりだ。
「空がどうかしました?」
 孔明がじっと星を見ているのを、花は見ていたのだろう。その顔は心配そうだった。孔明が星空に何かを見出したと思っているのだろう。
 孔明はむくりと起き上がった。
「もう春だなあと思って」
 そして、のんびりと言う。本当に、それ以外に何も思っていなかったのだが、花に伝わるかが大切だ。
 花は孔明の言葉に、一瞬不可解そうな顔をしたが、すぐに納得したように笑顔を浮かべた。
「星ですか?」
「うん、そうだよ。もう春だ」
 孔明が空を見上げると、花もつられて顔を上げる。
 今日は久しぶりの晴天だ。昼間は雨だったのだが、夜になって晴れて、きれいな星空になった。
 春の星だ。
「早く陽気も空に追いついて、暖かくなるといいですね」
 花の言葉に、孔明は少し驚いた。まさか同じことを思う人間がいるなど、思わなかったのだ。
 けれど、花が同じことを感じてくれて嬉しい。
 それが花で嬉しかった。
「そうだねえ。昼寝にちょうどいいよねえ」
「孔明さん」
 浮かれた心の内を隠す孔明の発言は不用意で、花の声が少し険しくなる。
「そういえば、昼間、玄徳さんの使いの方が来て、孔明さんを探していました。今日はお城に行くって言ってましたよね? どこに行っていたんですか?」
「えーっと……」
 余計なことを思い出させてしまったようだ。花の顔が怖い。
 孔明はどう返事をしようかと、考えを巡らせた。
 花は、ここはまだ譲歩してくれないらしい。
「あ……」
 花のお説教を聞き流しながら、孔明は思い出した。
 去年の今頃も、こんな会話をしていた。
 おかしくて、つい笑ってしまう。
 すると、花の方から寒波が押し寄せてきた。
「孔明さん! 何がおかしいんですか!」
 花の怒った声に、孔明は、ごめんごめんと謝りながらも、笑い続けてしまう。
 これが笑わずにいられるだろうか。
 なんて平和なのだろう。
 明日は晴れる。
 きっと、春の気をはらんだ陽の光が射して、暖かくなるだろう。


 君がいる。


 世界はきらきらと輝いている。


 なんて、愛しい、素晴らしい日々だろう。

雪はきらい

 

 孔明は隆中の山の中を、自分の庵に向かって急いでいた。
 早くしないと、間に合わない。
 指まで覆う手甲を中綿の入ったあたたかいものにしているのに、指はかじかんでいた。足先も相当冷えているのを感じる。
 と、ひらひらと目の前を白いものが散り落ちた。
 孔明は足を止める。そして、微かに顔を顰め、少しだけ視線を上げた。
 すると、まるでそれを合図のようにして、視界いっぱい、狭い空を埋めるように突然雪が現われ、落ちてくる。
 間に合わなかった。
 孔明は息をつく。
 雪は嫌いだ。
 そっと手を差し出すと、雪が手のひらに落ちて、融ける。
 それを見て、孔明は苦痛にも似た表情を顔に浮かべた。
 ぐっと唇をしばり、再び歩き出す。
 今日はこのまま降り続け、積もるだろう。その前に、庵に戻りたかった。
 雪は好きでない。
 手の上で、たやすく融けて消えてしまう。
 その儚さは、痛い記憶を刺激して、胸の内を苦いもので満たした。
 この道はちゃんと繋がっているだろうか。
 孔明は、ぎゅっと開いていた手を握りしめる。
「……雪は嫌いだ」
 その呟きは、はらはらと降る雪の中に埋もれた。


 翌日も寒かった。
 薄くても布団の中から出たくない。
 孔明は、差し込む陽はなかったことにして、もう一度寝ようと目を閉じかけた。
「おい! 馬鹿っ! なにやってんだ、てめえはよ!」
 しかし、そのとき、外から、ここにないはずの粗野な声が聞こえてきて、ぱちっと目を開ける。
「うおっ、いってーよ!」
 それに応じるしまりのない声も知ったものだ。
 だが、寒い。
 孔明は少しもためらうことなく、もう一度目を閉じた。
「馬鹿! そうじゃねえだろっ!」
「えー、でもよー、こっちの方がよくない?」
「よくねーよ! 元に戻せ! あ、いや、待て!」
「うわっ、わっ」
「なにしやがる!」
「っはあ、よかった。首もげるところだったぜ」
「ふぃー」
 いったい何をしているのか、はしゃいだ声はやむことがない。その上、さっぱり要領を得ず、孔明の苛々は頂点に達した。
 寒さも忘れて薄い掛布を蹴り飛ばし、粗末な戸を乱暴に開ける。
「その、しまりのない、落としどころの見えない会話、やめてくれない?」
 孔明は、不機嫌を全面に出して、その会話の主たち――晏而と季翔を睨みつけた。
 二人はきょとんとしている。
 突然、怒られた理由がさっぱりわからないのだ。
 ただの雑談に、目的と論理性を求めることの方がどうかしている。
「安眠妨害」
 孔明がそう言い足すと、晏而たちも納得した顔になった。
「もう午だぜ?」
 だが、そこは長い付き合いで、晏而は即座にそう返す。
「ボクが何時まで寝てようといいだろう? それより人の家の軒先で、何を勝手にやってるんだ」
 孔明が冷たく言い放つと、晏而と季翔は、それぞれ左と右に避けた。
 そこに現われたのは、大きな雪だるまだった。どんと一段目がかなり大きい雪玉で、上に乗っている雪玉は、季翔の立っている側が少し崩れていた。
「子供?」
 孔明はすっと目を細くする。
「お前に言われると、心から腹立つぜ」
 晏而は、大仰に顔を顰めた。
「お前の友達のイノシシたちは、今冬眠中だから寂しかろうと思った俺たちの思いやりを鼻で笑いやがって」
「いらない」
 晏而のからかい混じりの言葉に、孔明はむっとする。友ならいるはずだ。一人くらい心当たりがある。
「せっかく考えて日陰に作ってやったんだぜ?」
「頼んでない」
「つれねーなあ。ここ、ならしばらく融けねーぞ?」
「だな。こいつがいなくなる頃には春になってるだろ。そしたらイノシシたちも起きてくる」
 晏而と季翔の言葉に、孔明は小さく目を見張った。
 固まりになった雪。手のひらの上の雪。
 雪は手の上で融けて、掴まえられないから嫌だった。
 けれど、形を変えてしまえば、長くいられるものもあるのだ。
 どうして、それに気づかなかったのだろう。
 春まで残る雪を知っているのに、手の上の雪だけしか見ていなかった。
「……君たちって、たまにいいこと言うよね」
 孔明は雪だるまを見つめながら言う。それから、その目を晏而と季翔に向けた。
「ボクと、頭の作りが違うんだね、きっと」
「だから、心から腹立つな、お前」
 孔明がにっこり笑うと、晏而はその凶悪な顔を、ますます無法者のようにゆがめる。
 孔明は、いつもの通り笑顔を保った。
 本当にまだまだだ。
 まだ、あの人には会えないのだろう。
 無知すぎる。
 もっと武器を磨かなければいけないのだ。
 それをわからせてくれた晏而と季翔には、心の中でこっそり感謝する。しかし、やはり生来の負けず嫌いのため、それを表に出すことはなかった。
「でもやっぱり、雪は嫌いだ」
「あ?」
 ぼそりと呟かれた言葉を聞き取れず、晏而が聞き返す。
「寒い」
 孔明はそれには答えず、素早く戸を閉め閂をおろした。
「あ、亮! てめえ!」
 何をされたのか気づいた晏而は、すぐに戸に飛びつき、がたがたと揺するが、時はすでに遅い。
「君たちは、雪でも元気に遊んでるじゃないか。ボクは寒いから寝なおすよ」
 孔明はあくびをしながら、布団の中に戻っていった。
「いれろー! 人非人!」
「寒いよ! 亮! 中に入れろよ!!」
 晏而と季翔が喚いている。
 次に起きたときには入れてやるか、と思いながら、孔明は二度寝に落ちた。

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