きれいな星月夜だった。
もう少しで満ちる膨らんだ月は白く輝いて、無数の星が群青色の空を埋め尽くすようにきらきらと瞬いている。
とても澄んだ、清かな空気。
さあっと風が吹いて、誰もがふとそんな空を見上げた。
花が人々の前で本を消して見せたその夜、城内で、献帝主催の宴が開かれた。
広間には、孟徳や仲謀をはじめ昼間と同じ顔触れが集まっている。そこに、豪華な料理や上等な酒が次から次へと運ばれてきていた。それらの多くは、孟徳や仲謀たち、宴に出席している者からの貢物だ。長安は長く都としての機能がなかったから、物資はそれほど充実していない。人も揃っていない。しかし、今夜は、玄徳、孟徳、仲謀の働きによって、かつてのような華やかな熱気に満ちていた。
花が献帝を連れて、長安に着いたとき、街は静かで、城はひっそりとしていた。けれど、今日までに、あっという間に人や物が集まり、献帝を得て、まるで眠りから覚めたように街は蘇った。
「皇帝」がどれほどのものか、今回のことで、花ははじめて理解したように思う。
皇帝の下、停戦と私兵の禁止が言い渡されたから、国が割れるような戦はもう起こらないはずだ。しかし、まだ、誰もが安心して暮らせる国には遠い。しなければならないことはたくさんあって、ほとんど何もできていない。何も為せていない。
けれど、確かに何かが動き出している気配を、花も感じていた。
今日を境に、この国は変わっていく。
心が熱くなるような、そんな気配を。
酒が進み、広間に、どこか砕けた雰囲気が広がって、みんなが自由に動いて、話し相手を変えるようになった頃、花は酒席を離れて廊下へ出た。
熱気がこもった広間と違って、外はひんやりとして気持ちがいい。
にぎやかな場所が苦手なわけではないが、騒ぎを離れて、花はほっと息を吐いた。
(星がきれいだな)
見上げるまでもなく、屋根の間から見える空が視界に入って、その空を埋める星に目を奪われる。
花のいた時代と違って、空気がきれいで闇が濃いからだろう、星の輝きはとても強く、小さな星まで見ることができた。
きれいな星空に惹かれて、廊下から下りる。
星はまるで撒いたかのように散らばって、きらきらと光っていた。
群青色の空を照らす白い月。きらきらと瞬く無数の星々。
花は空を見つめた。
広間のにぎわいが聞こえる。また、それとは逆に、しんと静かな夜の空気を感じる。
一瞬のような永遠のような、ここにいるのが不思議なような、広い空。
ひどく遠いところまで来たような気もするけれど、この空に馴染みがあるような気もする。
何度もこの空を見たような――。
ほんの少し口から漏れた息が、空気を震わせた。
「花ちゃん、ごめんね。遅くなって」
そのとき、突然声をかけられて、花は驚いて振り返る。
いつのまにか、すぐそばに孟徳がいた。花が広間を出るときは、大勢の人に囲まれていた。それだけで、孟徳がどれだけ国内に影響力を持っているかわかると思った。その孟徳が突如として現われて、なぜか謝っている。
「え、っと……?」
詫びられる心当たりがなくて、花は首を傾げた。遅くなってと言われても、そもそも約束もしていない。
孟徳は戸惑う花の表情を満足げに見て、にっこりと笑った。
「こうしてひとりで外に出たのは、俺とゆっくり話したいって思ってくれたからなんでしょ? 俺も君と話したいと思っていたから、ちょうどいいな」
孟徳は、にこにこと人懐っこい笑顔を浮かべて、するりと花の手を取る。
「わ、い、いえ……」
花は、慌ててその手を引き抜こうとしたが、それよりも早く、孟徳の手を乱暴に払いのける大きな手があった。
「おい、おっさん。こそこそ抜け出したと思ったら、やっぱりか」
「仲謀さん」
花はまた、突然現れた仲謀に驚いた。
仲謀もまた、珍しく西に出てきたと、大勢のひとに群がられていたはずだ。
「逢瀬を邪魔するなんて無粋だな、仲謀」
「逢瀬だ? こいつは戸惑ってるように見えたけどな」
「見間違えだろ。花ちゃんと俺は仲良く話していた。ね、花ちゃん」
「えっと……」
笑いかけてくる孟徳に、正直に答えるのは気まずく思い、花は笑って返事を誤魔化した。
「うちの軍師に御用ですか、孟徳殿、仲謀殿」
そこに、よく通る声が響く。
「玄徳」
孟徳が煩わしそうに呟いて振り返った。
廊下に現れたのは玄徳で、まっすぐに三人のもとに向かってくる。
玄徳も、献帝の後見人として、ふたりと同じようにたくさんの人に囲まれていた。
(だ、大丈夫かな……)
主役ともいえる三人が三人とも宴席を外れて、今、広間はどうなっているのだろうと気になった。
(師匠がいるから大丈夫か)
ここに孔明がいないことが幸いだ。孔明ならばうまくやってくれているだろう。
廊下から下りてきた玄徳は、主に孟徳から隠すように、花の前に立った。
「花、今日はご苦労だったな」
「は、はい」
花に向けられる顔はとても優しいが、完全に孟徳を無視しているのが気になってしまう。
「おい、玄徳。邪魔をするな。俺と花ちゃんは楽しく話をしていたんだ。お前は仲謀を連れて宴に戻れ。邪魔だ」
案の定、孟徳が不快そうに割って入ってきた。
「あなたとこいつをふたりきりにさせるほど愚かではありません」
誰に対しても感じのいい対応をする玄徳が、ひどく険がある顔で孟徳を見るので、花ははらはらしてしまう。
「うちの軍師とどんなお話を?」
「許にこないかという話だ」
「なっ……」
「え?」
「は?」
そんな話は全くしていない。びっくりする花の隣で、玄徳は目を剥き、仲謀も驚いた。
「花ちゃん。益州みたいな田舎に引っ込んでいたら、世の中のことがわからなくなるよ。政のことを教えてあげるから、うちにくるといい」
三人の反応など構わず、孟徳は花に笑顔を向ける。
孟徳のところに行く行かないは別として、その話には心が動かされた。
益州は他の地域から隔っていて、だからこそ拠点として選んだのだが、他の情報が入りにくいというのは確かだ。そして、花が、この国についてまだ知らないことばかりということもまた確かだった。
「そ、それなら、江東に来た方がよっぽどいいぜ。外ともつながってて、人も物も行き来が活発だ」
孟徳の話に、江東に誇りを持っている仲謀も参戦してくる。
江東も行ったことはあるが、この目できちんと見たとは言い難い。考えてみれば、これまで、この国のどこの街も戦いの間逗留しただけで、街の仕組みなどをじっくり見たことはなかった。花がちゃんと国の中を見たと言えるのは、十年前、黄巾党とともに歩いたときだけだろう。
「商人になるつもりなら江東でもいいだろうけどな。政を学ぶならだんぜん許がいい」
「はっ、腐った政で何を学べるっつーんだよ」
「うちの軍師だ。勝手なことを言わないでいただきたい」
言い争うふたりに、玄徳も口を挟んで、三人は花の頭の上で睨み合った。
「はい。我が君の仰る通り。我が弟子の進路を師匠のいないところであれこれ取沙汰するのはやめていただけますか」
三人が全員一歩も引かない、膠着した空気を破ったのは、孔明だった。
「師匠」
花は、孔明の姿を見てほっとするとともに、広間が気になった。
「師匠まで出てきちゃって中は大丈夫ですか。陛下は……」
宴の盛り上がりもさることながら、玄徳も孔明も花もいなくて、献帝が心細く思っていたらと心配だ。
「陛下はお休みになられたよ」
「そうでしたか」
思わず広間の方へ行きかけて、孔明の言葉に足を止める。孔明は、献帝の付添をきちんとしてから、こちらに来たらしい。花が安心すると、孔明は少し不満そうに眉根を寄せた。
「君さ、他に言うことは?」
「他に?」
孔明の考えていることが分からず、花は首を傾げる。
孔明は軽くため息をついてから、居並ぶ君主たちを示した。
「君がふらふら出て行くから、こんなことになるんだよ」
「こんなことって。私のせいみたいに言わないでください」
自分の主君もいるのにひどい言い種だ。それに、三人が集まっているのを、花のせいにされるのはたまらない。
「君のせいだろ。みんな君と話したくて出てきたんだから。ひとりでふらふらするのは禁止。強引な勧誘に遭うよ?」
「はあ」
まるで元の世界の繁華街に行くときの注意のようだと思って、花は少しおかしかった。
「なに笑ってるの」
「わ、笑ってません」
表情は変えなかったはずなのに、孔明に目敏く気づかれて、花は慌てて首を横に振る。
「まあ、酔っ払ったおじさんだらけの宴なんて息が詰まるだろうから、抜け出したくなる気持ちはわかるけどさ」
「ちょっとだけと思って。外の空気を吸おうと思ったんです」
孔明に少し理解を示されて、花も小さく頷いた。
「でも、空がきれいだなって思いまして――」
花は空を見上げる。すると、四人も同じように空を仰いだ。
雲一つない晴れた夜空。
今まで命を賭けて対峙してきた者と、こうして静かに空を見るなんて不思議な気分だ。
けれど、これでいい。
「あしたは晴れですね、師匠」
花は、水気のない空を見て、明日の快晴を予想した。
孔明に笑いかけると、孔明は大げさにため息をつく。
「なんですか、それ」
「なんだろうね」
孔明は肩を竦めるだけで答えてくれなかった。
「皆さん、お連れの方が探していましたよ。それに、陛下が下がられて、群がる相手を失った客人たちが手持無沙汰で反乱の相談を始める前に、速やかに務めに戻ってください」
孔明は花から三人に視線を移して、にこやかに促す。
「孔明、お前な、花ちゃんとの会話をかっさらった挙げ句、面倒事を押しつけやがって」
孟徳にじろりと睨まれても、孔明は全く気にしていない。
「お前を見ているとうちのを思い出すな」
すると、孟徳は興ざめしたように視線を逸らした。
「やべ。子敬に怒られる」
仲謀もお目付け役の存在を思い出して、慌てて身を翻す。
「気がのらないが仕方ない」
玄徳はため息をついて苦笑した。
「花ちゃん、さっきの話、考えておいてね」
「孟徳殿」
最後に花にウィンクをする孟徳の襟首を掴んで、玄徳が連れて行く。
三人が去って行って、花は息を吐いた。
静かなところで息抜きと思ったのに、結局騒がしくなってしまった。
「君はモテモテだねえ」
「そんなんじゃありません」
三人を見送っていると、孔明にからかように言われて、花は軽く睨む。
孔明は笑って手を後ろに回して組んだ。
「ねえ、花。ひとつ聞きたいんだけど」
「はい、なんでしょう?」
軽い調子の孔明に、花は何の構えもせずに聞く。
「君はなんで残ったの?」
けれど、孔明の質問は真面目なものだった。
「あのとき、君の世界に帰れたんじゃないの?」
「師匠はほんとうに何でもわかるんですね」
あの本のことなど、孔明の範疇を超えているだろうに、その理もわかってしまうなんて、孔明はほんとうに賢人なのだなと、花はあらためて思う。
「きっと望めば帰れたと思います」
花は隠さずに言う。
「……望まなかったということ?」
孔明の目がほんの少し細くなった。
「はい。ここにいたいって思いました」
この世界の存在ではない自分がここにいていいのかはわからないが、ここにいたいと思って、帰る術がなくなったのだから、ここにいてもいいのだろう。
「君の世界は平和で豊かで、ここよりももっと大きな可能性が広がっているのに、ここに残りたかったの?」
孔明はまるで信じられないというように、花を見てくる。
「元の世界がどんなに素敵でも、ここじゃないですから。私、ここでやりたいことがあるんです」
自分なりに一生懸命戦ったこの国をもっとずっと見ていたい。もっとよくしていきたい。
「……それに、師匠は残ってほしいって言ってたと思いますけど」
そんな想いの後押しをしてくれたひとつは、孔明の言葉だというのに、この孔明の否定的ともいえる態度は、少し不安になってしまう。
花のそんな心内を察したのか、孔明は花を見つめる眼差しを和らげた。
「ボクは君が残ってくれて嬉しいよ。君をこれから鍛え上げて、士元が六で君が三でボクが一くらいの働きになるのがボクの夢だ」
「その後ろ向きな夢はなんですか。確か、同士が必要だって言っていたと思うんですけど」
「あれ、そうだっけ。ボクの隠居生活実現のために協力してくれるって話じゃなかったっけ? ほんとみんな伏龍って呼ぶなら、ボクのことを働かせないでほしいよね」
「師匠、勤労意欲をもっと出してください」
舌を出して冗談を言う孔明に、花も軽口で応じると、孔明は心地よさそうに笑った。
それから冗談めいた空気を消して、花に向き直る。
「――この国は危険で貧しくて未熟で、やることがたくさんだ。君が残ってくれて本当に嬉しいよ。ありがとう、花」
孔明は、花をまっすぐに見つめて言った。
その真摯な言葉に、胸が熱くなる。
本がない自分など、役に立つものではないだろう。しかし、孔明はそれを承知の上で望んでくれているのだ。本がなくても、この国を想う気持ちが同じだから、同士と言ってくれる。
「はい。がんばります」
花は孔明の目を見てしっかりと頷いた。
そして、ひとつ、さきほど浮かんだ考えがまた戻ってきた。
孔明は期待をかけてくれているが、実際、花にできることは少なく、知っていることもわずかだ。
まずは、たくさん知りたかった。
「あの、師匠」
ただの思いつきだったが、花は言ってしまえと口を開く。
「なに?」
「さっきの話なんですけど……」
「さっき?」
「はい。孟徳さんや仲謀さんのお話です」
「君、まさかどっちかに行きたいの?」
孔明は、ぎょっとしたように眉根を寄せた。
「いいえ。違います」
その大きな反応に、花は慌てて首を横に振る。
「ただ、孟徳さんたちの言うことももっともだなって思って。私はこの国のことをあまり知りません。この国のために働きたいけど、ちゃんと知らないんじゃ、本当に何もできないと思うんです。だから、国の中を見て回ってもいいですか?」
このまま成都に戻ったら、きっと孟徳の言うとおり、成都のことしか見えなくなるだろう。成都に腰を落ち着ける前に、この国を見て回りたかった。
「戦がなくなった国の様子を知りたいですし、孟徳さんの言う政も聞きたい、仲謀さんの言う外との交流も見てみたい。他にもたくさん、戦のときには見られないものを見てきたいんです」
花の渾身の訴えを聞くと、孔明はどこか嬉しそうに満足げに微笑んだ。
「うん。行っておいで。いい勉強になるよ」
「あ、ありがとうございます!」
孔明に賛成してもらえて、花は胸が躍った。孔明が味方につけば、玄徳たちに反対されてもどうにかなる。
「でもひとつだけ、約束してほしい」
うきうきする花に、孔明は釘を刺すように付け足した。
「は、はい。なんでしょう?」
その固い口調に、ものすごく難しい課題を言い渡されるのかと怯えながら聞く。
孔明がずいっと顔を寄せてきて、花はさらに緊張した。
「君が見たいものを見終わったら、ボクのところに戻ってくること」
孔明が口にしたのは、花の予想外のことだった。
孔明の静かな瞳に、胸がとくんと震える。
「ほかにいたい場所ができても、旅が終わったらいったん戻りなさい。それが条件」
とくんとくんと心臓が鼓動を速めていく。
孔明の言葉が嬉しくて、胸が熱くなった。
「ほ、ほかにいたい場所なんてできませんよ。師匠に教えてほしいことがたくさんありますし、師匠のところに帰ります」
孔明のもと以外のところに行くなど想像もつかない。花がいたいのは、孔明のそばだ。孔明にはまだまだ教えてもらいたい。孔明のもとに戻るから、旅に出るのだ。
鼻先で、孔明がにっこりと笑った。
「そう? それなら良かった。君には、手伝ってもらいたいことがたくさんあるからさ。君の仕事はちゃんと積んで、帰りを待ってるよ」
するりと離れていく孔明に、一抹でない不安を覚える。
言葉通り、山積みの仕事を用意していそうだ。
「いえ、仕事は積まずに片づけてください」
「えー。自分は遊び回っているのに、師匠ひとりに働かせるつもり?」
「言い方が悪すぎます!」
「じゃあ、旅立ちの前に師匠をじゅうぶん労わっていってよ」
「えっ? 労わる?」
また嫌な予感しかしないことを言う孔明に、花は焦った。
「なにしてもらおうかなあ。楽しみだなあ」
「師匠、あの、ちょっと、お土産たくさん買ってくるので許してください!」
孔明は楽しそうに考えながら建物の中に戻っていく。
花はそれを追いかけて、階段を上がる。そうして建物の中に入る前に、もう一度だけ空を見上げた。
(やっぱり明日は晴れだな)
空には満天の星。
明日は気持ちよく晴れるだろう。
花は笑ってから、孔明の背に向かって走り出した。