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Category: こばなし

くしゃみ3回

「はっくしょん」
 と、大きなくしゃみが部屋に響く。
 大丈夫かな、と、花が顔を上げたら、立て続けに2回。
「っくしょん、くしょん」
 合計3回だ。
「師匠、大丈夫ですか?」
 花は自分の席から立ち上がり、手巾を差し出す。
「ありがとう。なんだろ、風邪引いたかな」
 孔明はそれを受け取って、鼻を拭いた。
 花は、開け放している窓を見る。
「窓、閉めましょうか?」
「いや大丈夫」
 孔明は首を横に振った。
 その窓からは、そよと爽やかな風が入ってくる。今は夏に向かって、だんだんと暑くなっている時季だ。窓を開けていないと、むっとするくらいだった。
「私の世界では、くしゃみを3回すると、誰かに想われてるって言われているんですよ」
「そうなの?」
「はい」
 くしゃみは誰かが噂話をしているサインで、回数によって意味が違うと聞いたことがある。
 悪いことを言われている回数もあるから、3回で良かった、などと呑気に考えていた花は、じっと孔明が見つめていることにしばらく気づかなかった。
 ふと、痛いほどの視線を感じて顔を上げると、まっすぐ向けられている孔明の瞳とぶつかる。
「な、なにか?」
 孔明の物言いたげな顔に、花は嫌な予感を覚えながら尋ねた。孔明がもったいぶっているときは、たいてい花にとってあまりよくないことが起こるのだ。
「君のことだよね」
「え?」
 孔明が何と言うかと警戒していた花は、意表を突かれてきょとんと聞き返した。いったい何を指しているのか分からない。
 すると孔明は、さらりと続けた。
「ボクのこと好きなのって」
「あ、あの……」
 花は、恥ずかしくて言葉に窮する。
「違うの?」
「あ、いえ、あの好き……っですけど、そうじゃなくて……この話は、まだ知られていない気持ちのことで、私みたいなことじゃなくて……」
 孔明に鋭く突かれて、花は、首を縦に振ったり、横に振ったりと、慌てふためいた。言葉が尻すぼみになっていったのは、孔明の瞳がじっと見据え続けていたからだ。
「それでもいいの? そのどこかのだれかの気持ちに気づいたらさ、望まない結果が待っているかもしれないんだよ?」
 孔明に言われて、花は目を見張る。そんなことまで考えていなかった。もし、そうなってしまったら、のんきに笑ってなどいられない。
「……よく、ないです。ごめんなさい、師匠」
「よくできました」
 花が肩を落として謝ると、孔明はにっこり笑った。そして、体を伸ばして、花の唇を掠め取る。
「!!」
 花はびっくりして唇を押さえるが、口から出たのは言葉ではなく、
「っくしゅん」
という小さなくしゃみがひとつ。
「くしゅん、くしゅん」
 続いて2回。
 合計3回は、惚れられくしゃみだ。
 しん、と一瞬、部屋が静まり返る。
「それは絶対にボクだから」
 孔明は子供のように主張した。
「……はい」
 花は、孔明の手巾を受け取りながら頷く。
 初夏の気配をはらんだ風が、窓からそよと吹き込んだ。

こどもの日・5月6日

 今日は五月五日。元の世界では「こどもの日」だ。
「カシワモチ?」
「ショウブユ?」
「コイノボリ?」
 疑問符を浮かべる面々に、花はひとつひとつ知っている限りの知識で説明した。
「なるほど。餡を包んだ餅に、菖蒲を浮かべた湯、それに鯉のぼりか」
 玄徳が、顎に手をあてた格好で、うーんと唸る。
「柏餅、作ってみようか?」
 雲長がすっと手を挙げた。それにぴくりと反応したのは芙蓉だ。
「あら、雲長殿のお手を煩わせるまでもありませんわ。私が作ります」
「だが、芙蓉姫は柏餅を知らないだろう?」
「まるで自分は知っているような口ぶりですこと」
 二人の間に火花が散る。そして、ふんと目を逸らすと、我先にと台所へ向かっていった。廊下を走らないあたりが、二人らしい。
「…………」
 それを四人は黙って見送った。
「花は子龍と菖蒲をもらってきてくれるか? 鯉のぼりは、俺たちがなんとかしよう」
 玄徳は、隣の翼徳をちらと見て、花に笑いかけた。手先の器用な玄徳なら、鯉のぼりも作れてしまうだろう。
「はい」
 見知らぬ行事なのに、どうにかしようとしてくれる玄徳の気持ちが嬉しくて、花は思いっきり頷く。
 そんな花に玄徳も頬を緩めた。
「お前の国は、本当に平和だったんだな。子供の成長をみんなで祝う。  いい習慣だな」
「はい」
 よしよし、と玄徳は花の頭を撫でる。
 くすぐったいけれど、大きい手が心地よくて、花は顔を綻ばせた。


 子龍と二人で近くの農家に菖蒲をもらって城に戻ると、廊下の向こうから歩いてくる孔明と出会った。
「師匠!」
「どうしたの? なんだか楽しそうだね」
 孔明は足を止めて、小走りで自分のもとにやってくる花を迎える。
「はい。今日はこどもの日なんです」
「こどもの日? ああ、君の国のならわし?」
 孔明は素早く察した。
「はい」
 ふん、と孔明は花が胸に抱いている菖蒲を見る。
「それはどうするの?」
「お風呂に入れるんです」
「それで?」
「それだけです。体が丈夫になるんですよ」
「へえ」
 孔明に教えることもあるのだな、と少し嬉しくなった花は、孔明の瞳が悪戯っぽく光ったことに気づかなかった。
「花、一緒にお風呂に入って?」
 唐突に、孔明が花の袖を引く。
「え?」
 少し高めの声と、甘えたような視線、それに言われたことのとんでもなさに、花は目を白黒させた。
 予想通りの花の反応に、孔明はにっこり笑う。
「今日は『こどもの日』なんでしょ。ボク、今日だけ亮に戻るからさ、甘やかしてよ」
「そ、そういう日じゃありません!」
 花はようやく我に返って、慌てて首を横に振った。
 しかし、孔明は自分の思いつきを気に入ったのか、花の袖をくいくいと引っ張って、子供のように首を傾げる。
「ボク、子供だから菖蒲湯の入り方わからないなあ」
「湯船に浮かべればいいんです」
 これ以上話をしていたら、よくない方向に行きそうだと、花は後ずさった。こちらの世界に残って、孔明と過ごした時間もそれなりになっている。そのなかで経験したあれやこれやが頭の中を駆け巡って、花に警告を与えていた
「あ、あの師匠、玄徳さんたちが待っているので……」
 しかし、孔明が花を見逃すはずもなく、花が下がった分だけ間合いを詰める。
「弟子として、師匠の背中を流してはくれないの?」
「し、師匠なんですか、亮くんなんですか!?」
 花は声も顔も引き攣らせて身を引いた。対する孔明は、まるで鼠を追いつめる猫さながら、ゆったりと花に手を伸ばす。
「うーん。どっちでもいいかな。君が一緒にお風呂に入ってくれるなら」
 孔明はそう言うなり花の手を強く引き、その体を背中から抱き締めた。そして、花のうなじに鼻先をこすりつけ、軽く唇で触れる。
「いい匂い」
「し、師匠、やめてください!」
 首に触れる孔明の唇の感触に、変な気持ちを刺激されてしまいそうで、花は悲鳴を上げた。
「あ、あの、孔明殿、花殿、私は先に玄徳様のところに行っております」
 それまで何の口も挟むこともできずに固まっていた子龍は花の悲鳴に我を取り戻すと、早口でそう言って走り去っていく。子龍の姿はあっという間に見えなくなった。
「し、子龍さん!」
 慌てて呼び止めた花の声も空しく響く。逃げ出した子龍がどう思ったかと考えると、花は顔から火が噴き出しそうなくらい恥ずかしかった。
「師匠! もう、変なことしないでください!」
 花は涙目になって孔明を睨みつけ、身をよじる。
 そんな顔は男を喜ばせるだけだよ、と心の中でため息をつきながら、孔明は手を緩めて花を解放した。そのとたん、花は脱兎のごとく駆けていく。
 孔明はやれやれと頭を振った。
「君があんまり楽しそうだと、元の世界が恋しいのかって、心配になるじゃないか」
 孔明の呟きは、いつものごとく花には届かない。
 孔明は、ひとつ伸びをして、ゆっくりと花たちのあとを追いかけた。


 翌日。
 今日もよい天気だったので、玄徳、雲長、芙蓉と花の四人は、東屋でお茶をしていた。翼徳は席につかず庭を駆け回って遊んでいて、子龍は少し離れたところで控えている。孔明はいつものように掴まらず、声をかけることさえできていなかった。
「ころっけの日?」
 少し不審そうに、玄徳が聞き返す。
「……はい」
 花は身を縮ませて頷いた。
「確か昨日はこどもの日とか……」
「はい……」
「まさか一年中毎日何かの日なのか?」
「たぶん……私も詳しくはないですけど」
 花が知らないだけで、きっと何でもない日というのはないのだろう。
「そうか……」
 玄徳は複雑そうに黙ってしまった。
 昨日、いい習慣だな、と笑ってくれた玄徳を思い出して、花はとても申し訳なく思う。毎日何かの記念日などという国は、こちらの世界では考えられないだろう。しかも、今日ははよりにもよって「コロッケの日」という語呂合わせだ。
「ねえ、ころっけって何?」
 芙蓉に問われて、花はこの世界にコロッケがないことに気づいた。
「あ、コロッケは、おいもを潰して揚げたもののことなんです」
「おいもを揚げる?」
 ぴくりと芙蓉の柳眉が上がる。その瞳が、雲長を素早く一瞥した。雲長はそ知らぬ顔でお茶を啜る。しかし、全力で話に集中していた。
「ほくほくして、美味しいんですよ」
 花は二人の様子に気づかずに、のんきに笑う。
「そうだ。私、作りましょうか?」
 昨日は、雲長と芙蓉による「柏餅」の競作が行われ、それぞれとても美味しいものを作ってくれた。どんなものか知らず、花の拙い説明だけで、あれだけ完成度の高いものを作りあげるのだから、二人とも本当に大した腕だ。
 そんな二人の足もとにも及ばないけれど、あちらの世界の料理を振舞うのも楽しいかもしれない、と花は思った。
「花が?」
 静かに火花を散らしていた芙蓉と雲長が、気を削がれて花を見る。
「作れ    
 玄徳も興味を引かれて、作れるのかと問おうとしたが、その声は別の声にかき消されてしまった。
「だめ」
 東屋に忽然と現れた孔明が、きっぱりと言って、花の腕を引く。
「わ、し、師匠!?」
 突然現れた孔明にびっくりしたところに、急に腕を強く引かれてバランスを崩した花は、孔明の腕の中に倒れこんだ。
「まだ仕事が残っているでしょ?」
 じ、と孔明の黒い瞳がまっすぐに花の瞳を覗き込む。
「え、でも、今日はもういいって……!」
 何となく孔明の機嫌がよくないことを感じて、花は語気も弱くなる。そんな花の口を、孔明は手で塞いだ。
「玄徳様、申し訳ありません。失礼します」
 そのまま孔明は玄徳ににっこり笑って頭を下げると、花をひきずって東屋を出て行く。
「ほんと、厄介な男を選んじゃったわね……」
 芙蓉が顔を引き攣らせて呟いた。
「まあ、花がいいなら……いいんじゃないか」
 玄徳はフォローするも、いつになく弱い言葉だ。
「それにしても……ころっけ、ね」
 芙蓉は、ちらと雲長を見る。
 それに対し、雲長は興味がないという顔で立ち上がった。
「玄兄、俺も戻ります」
 その澄まし顔に、芙蓉がいつものように腹を立てたのも、そのあとコロッケ戦争が起きたのも言うまでもない。

君といる幸せ

 午後の仕事があらかた片付いて、二人は卓を囲んで座っていた。
「師匠、はいどうぞ」
 花はお茶をいれて、孔明に差し出す。
「ありがとう」
 孔明はそれを受け取って、一口飲んだ。
 先日、芙蓉姫にお茶の美味しいいれ方を教わったからと、花は張り切ってお茶をいれてくれた。いつでも花のお茶は特別だけれど、今日は一生懸命自分のためにお茶をいれている姿がプラスされたので、孔明は上機嫌だった。
 緩みそうになる頬を引き締めながら、孔明は花を見る。
 花は自分の分を手元に置くと、そっと視線を窓の外へ流した。
 その瞳が遠い。
 何を見ているのだろう。
 孔明の心の中に、じわりと不安が広がっていく。
 今すぐどこかへ消えてしまいそうで、怖い。
 孔明は、何も言うことができなかった。この時を進めたら、花が消えてしまう。そんな気がして、息もできない。とうに覚悟を決めているのに、いざとなると失うことを恐れている。
 手の中にある花がいれてくれたお茶。それだけでない。部屋の中は、花でいっぱいだった。
 ここにはいない人なのに。
 それを分かっているはずなのに。
 孔明は、ぐっと自分の心を戒めた。鎖で縛りつけないと、花への想いは簡単に溢れてしまうから。今まで何度、自らきつく締め付けたことだろう。孔明の心は、ずっと血を流し続けている。
 そんな苦しい静寂を破ったのは、花だった。
「今日は天気がいいですね」
 そして、瞳が孔明に向けられる。
 それだけで、孔明は心の底から安堵した。
 時間が動き出す。
 けれど、本当は止まったままなのだと知っている。彼女が手の中から消えた日からずっと、置き去りにされたままなのだ。
「そうだね」
 頷きながら、強張る笑顔を誤魔化すためにお茶を飲む。
 そして、ようやく働きはじめた頭で、花の思考を読み取った。
「外に行こうか?」
「いいんですか!?」
 花はぱっと顔を輝かせる。
 ずっと部屋の中に閉じこもりきりだったから、天気の良い外に目を奪われたのだろう。そして、外に行きたいと思い、孔明に言っていいものか悩んでいた。
 冷静になれば、花の心を知るのは簡単だ。
「うん。今日はだいたい終わったし。のんびりするのも大切だよ」
 孔明はそう言ってまだ熱いお茶を飲み干すと、立ち上がる。
 そして、花の手をとって、立ち上がらせた。
「あ……」
 そんな小さなことで頬を染める花に、孔明は微笑む。しかし一方で、心の奥底がちくりと痛んだ。
 花の柔らかな手を握り締めると、ここに在ると思ってしまう。
 けれど、この温もりは幻。
 いつか還さなくてはいけないものだ。
「……君が……幸せであれば……」
 強がりではない心からの想いを、そっと口にする。
 届かなくていい。
 ただ、花をずっと想っている。
 それだけで、十分だ。
「え? 師匠、何か言いました?」
 首を傾げる花に、今度こそ孔明はいつも通りの笑顔を浮かべた。
「ううん、なにも。誰にも見つからない、いい昼寝の場所があるんだ。君には特別教えてあげるよ」
 孔明は、光に溢れた部屋の外へと花を連れ出した。

ぼくらはいつかも同じ空を見た

 きれいな星月夜だった。
 もう少しで満ちる膨らんだ月は白く輝いて、無数の星が群青色の空を埋め尽くすようにきらきらと瞬いている。
 とても澄んだ、清かな空気。
 さあっと風が吹いて、誰もがふとそんな空を見上げた。


 花が人々の前で本を消して見せたその夜、城内で、献帝主催の宴が開かれた。
 広間には、孟徳や仲謀をはじめ昼間と同じ顔触れが集まっている。そこに、豪華な料理や上等な酒が次から次へと運ばれてきていた。それらの多くは、孟徳や仲謀たち、宴に出席している者からの貢物だ。長安は長く都としての機能がなかったから、物資はそれほど充実していない。人も揃っていない。しかし、今夜は、玄徳、孟徳、仲謀の働きによって、かつてのような華やかな熱気に満ちていた。
 花が献帝を連れて、長安に着いたとき、街は静かで、城はひっそりとしていた。けれど、今日までに、あっという間に人や物が集まり、献帝を得て、まるで眠りから覚めたように街は蘇った。
 「皇帝」がどれほどのものか、今回のことで、花ははじめて理解したように思う。
 皇帝の下、停戦と私兵の禁止が言い渡されたから、国が割れるような戦はもう起こらないはずだ。しかし、まだ、誰もが安心して暮らせる国には遠い。しなければならないことはたくさんあって、ほとんど何もできていない。何も為せていない。
 けれど、確かに何かが動き出している気配を、花も感じていた。
 今日を境に、この国は変わっていく。
 心が熱くなるような、そんな気配を。


 酒が進み、広間に、どこか砕けた雰囲気が広がって、みんなが自由に動いて、話し相手を変えるようになった頃、花は酒席を離れて廊下へ出た。
 熱気がこもった広間と違って、外はひんやりとして気持ちがいい。
 にぎやかな場所が苦手なわけではないが、騒ぎを離れて、花はほっと息を吐いた。
(星がきれいだな)
 見上げるまでもなく、屋根の間から見える空が視界に入って、その空を埋める星に目を奪われる。
 花のいた時代と違って、空気がきれいで闇が濃いからだろう、星の輝きはとても強く、小さな星まで見ることができた。
 きれいな星空に惹かれて、廊下から下りる。
 星はまるで撒いたかのように散らばって、きらきらと光っていた。
 群青色の空を照らす白い月。きらきらと瞬く無数の星々。
 花は空を見つめた。
 広間のにぎわいが聞こえる。また、それとは逆に、しんと静かな夜の空気を感じる。
 一瞬のような永遠のような、ここにいるのが不思議なような、広い空。
 ひどく遠いところまで来たような気もするけれど、この空に馴染みがあるような気もする。
 何度もこの空を見たような――。
 ほんの少し口から漏れた息が、空気を震わせた。
「花ちゃん、ごめんね。遅くなって」
 そのとき、突然声をかけられて、花は驚いて振り返る。
 いつのまにか、すぐそばに孟徳がいた。花が広間を出るときは、大勢の人に囲まれていた。それだけで、孟徳がどれだけ国内に影響力を持っているかわかると思った。その孟徳が突如として現われて、なぜか謝っている。
「え、っと……?」
 詫びられる心当たりがなくて、花は首を傾げた。遅くなってと言われても、そもそも約束もしていない。
 孟徳は戸惑う花の表情を満足げに見て、にっこりと笑った。
「こうしてひとりで外に出たのは、俺とゆっくり話したいって思ってくれたからなんでしょ? 俺も君と話したいと思っていたから、ちょうどいいな」
 孟徳は、にこにこと人懐っこい笑顔を浮かべて、するりと花の手を取る。
「わ、い、いえ……」
 花は、慌ててその手を引き抜こうとしたが、それよりも早く、孟徳の手を乱暴に払いのける大きな手があった。
「おい、おっさん。こそこそ抜け出したと思ったら、やっぱりか」
「仲謀さん」
 花はまた、突然現れた仲謀に驚いた。
 仲謀もまた、珍しく西に出てきたと、大勢のひとに群がられていたはずだ。
「逢瀬を邪魔するなんて無粋だな、仲謀」
「逢瀬だ? こいつは戸惑ってるように見えたけどな」
「見間違えだろ。花ちゃんと俺は仲良く話していた。ね、花ちゃん」
「えっと……」
 笑いかけてくる孟徳に、正直に答えるのは気まずく思い、花は笑って返事を誤魔化した。
「うちの軍師に御用ですか、孟徳殿、仲謀殿」
 そこに、よく通る声が響く。
「玄徳」
 孟徳が煩わしそうに呟いて振り返った。
 廊下に現れたのは玄徳で、まっすぐに三人のもとに向かってくる。
 玄徳も、献帝の後見人として、ふたりと同じようにたくさんの人に囲まれていた。
(だ、大丈夫かな……)
 主役ともいえる三人が三人とも宴席を外れて、今、広間はどうなっているのだろうと気になった。
(師匠がいるから大丈夫か)
 ここに孔明がいないことが幸いだ。孔明ならばうまくやってくれているだろう。
 廊下から下りてきた玄徳は、主に孟徳から隠すように、花の前に立った。
「花、今日はご苦労だったな」
「は、はい」
 花に向けられる顔はとても優しいが、完全に孟徳を無視しているのが気になってしまう。
「おい、玄徳。邪魔をするな。俺と花ちゃんは楽しく話をしていたんだ。お前は仲謀を連れて宴に戻れ。邪魔だ」
 案の定、孟徳が不快そうに割って入ってきた。
「あなたとこいつをふたりきりにさせるほど愚かではありません」
 誰に対しても感じのいい対応をする玄徳が、ひどく険がある顔で孟徳を見るので、花ははらはらしてしまう。
「うちの軍師とどんなお話を?」
「許にこないかという話だ」
「なっ……」
「え?」
「は?」
 そんな話は全くしていない。びっくりする花の隣で、玄徳は目を剥き、仲謀も驚いた。
「花ちゃん。益州みたいな田舎に引っ込んでいたら、世の中のことがわからなくなるよ。政のことを教えてあげるから、うちにくるといい」
 三人の反応など構わず、孟徳は花に笑顔を向ける。
 孟徳のところに行く行かないは別として、その話には心が動かされた。
 益州は他の地域から隔っていて、だからこそ拠点として選んだのだが、他の情報が入りにくいというのは確かだ。そして、花が、この国についてまだ知らないことばかりということもまた確かだった。
「そ、それなら、江東に来た方がよっぽどいいぜ。外ともつながってて、人も物も行き来が活発だ」
 孟徳の話に、江東に誇りを持っている仲謀も参戦してくる。
 江東も行ったことはあるが、この目できちんと見たとは言い難い。考えてみれば、これまで、この国のどこの街も戦いの間逗留しただけで、街の仕組みなどをじっくり見たことはなかった。花がちゃんと国の中を見たと言えるのは、十年前、黄巾党とともに歩いたときだけだろう。
「商人になるつもりなら江東でもいいだろうけどな。政を学ぶならだんぜん許がいい」
「はっ、腐った政で何を学べるっつーんだよ」
「うちの軍師だ。勝手なことを言わないでいただきたい」
 言い争うふたりに、玄徳も口を挟んで、三人は花の頭の上で睨み合った。
「はい。我が君の仰る通り。我が弟子の進路を師匠のいないところであれこれ取沙汰するのはやめていただけますか」
 三人が全員一歩も引かない、膠着した空気を破ったのは、孔明だった。
「師匠」
 花は、孔明の姿を見てほっとするとともに、広間が気になった。
「師匠まで出てきちゃって中は大丈夫ですか。陛下は……」
 宴の盛り上がりもさることながら、玄徳も孔明も花もいなくて、献帝が心細く思っていたらと心配だ。
「陛下はお休みになられたよ」
「そうでしたか」
 思わず広間の方へ行きかけて、孔明の言葉に足を止める。孔明は、献帝の付添をきちんとしてから、こちらに来たらしい。花が安心すると、孔明は少し不満そうに眉根を寄せた。
「君さ、他に言うことは?」
「他に?」
 孔明の考えていることが分からず、花は首を傾げる。
 孔明は軽くため息をついてから、居並ぶ君主たちを示した。
「君がふらふら出て行くから、こんなことになるんだよ」
「こんなことって。私のせいみたいに言わないでください」
 自分の主君もいるのにひどい言い種だ。それに、三人が集まっているのを、花のせいにされるのはたまらない。
「君のせいだろ。みんな君と話したくて出てきたんだから。ひとりでふらふらするのは禁止。強引な勧誘に遭うよ?」
「はあ」
 まるで元の世界の繁華街に行くときの注意のようだと思って、花は少しおかしかった。
「なに笑ってるの」
「わ、笑ってません」
 表情は変えなかったはずなのに、孔明に目敏く気づかれて、花は慌てて首を横に振る。
「まあ、酔っ払ったおじさんだらけの宴なんて息が詰まるだろうから、抜け出したくなる気持ちはわかるけどさ」
「ちょっとだけと思って。外の空気を吸おうと思ったんです」
 孔明に少し理解を示されて、花も小さく頷いた。
「でも、空がきれいだなって思いまして――」
 花は空を見上げる。すると、四人も同じように空を仰いだ。
 雲一つない晴れた夜空。
 今まで命を賭けて対峙してきた者と、こうして静かに空を見るなんて不思議な気分だ。
 けれど、これでいい。
「あしたは晴れですね、師匠」
 花は、水気のない空を見て、明日の快晴を予想した。
 孔明に笑いかけると、孔明は大げさにため息をつく。
「なんですか、それ」
「なんだろうね」
 孔明は肩を竦めるだけで答えてくれなかった。
「皆さん、お連れの方が探していましたよ。それに、陛下が下がられて、群がる相手を失った客人たちが手持無沙汰で反乱の相談を始める前に、速やかに務めに戻ってください」
 孔明は花から三人に視線を移して、にこやかに促す。
「孔明、お前な、花ちゃんとの会話をかっさらった挙げ句、面倒事を押しつけやがって」
 孟徳にじろりと睨まれても、孔明は全く気にしていない。
「お前を見ているとうちのを思い出すな」
 すると、孟徳は興ざめしたように視線を逸らした。
「やべ。子敬に怒られる」
 仲謀もお目付け役の存在を思い出して、慌てて身を翻す。
「気がのらないが仕方ない」
 玄徳はため息をついて苦笑した。
「花ちゃん、さっきの話、考えておいてね」
「孟徳殿」
 最後に花にウィンクをする孟徳の襟首を掴んで、玄徳が連れて行く。
 三人が去って行って、花は息を吐いた。
 静かなところで息抜きと思ったのに、結局騒がしくなってしまった。
「君はモテモテだねえ」
「そんなんじゃありません」
 三人を見送っていると、孔明にからかように言われて、花は軽く睨む。
 孔明は笑って手を後ろに回して組んだ。
「ねえ、花。ひとつ聞きたいんだけど」
「はい、なんでしょう?」
 軽い調子の孔明に、花は何の構えもせずに聞く。
「君はなんで残ったの?」
 けれど、孔明の質問は真面目なものだった。
「あのとき、君の世界に帰れたんじゃないの?」
「師匠はほんとうに何でもわかるんですね」
 あの本のことなど、孔明の範疇を超えているだろうに、その理もわかってしまうなんて、孔明はほんとうに賢人なのだなと、花はあらためて思う。
「きっと望めば帰れたと思います」
 花は隠さずに言う。
「……望まなかったということ?」
 孔明の目がほんの少し細くなった。
「はい。ここにいたいって思いました」
 この世界の存在ではない自分がここにいていいのかはわからないが、ここにいたいと思って、帰る術がなくなったのだから、ここにいてもいいのだろう。
「君の世界は平和で豊かで、ここよりももっと大きな可能性が広がっているのに、ここに残りたかったの?」
 孔明はまるで信じられないというように、花を見てくる。
「元の世界がどんなに素敵でも、ここじゃないですから。私、ここでやりたいことがあるんです」
 自分なりに一生懸命戦ったこの国をもっとずっと見ていたい。もっとよくしていきたい。
「……それに、師匠は残ってほしいって言ってたと思いますけど」
 そんな想いの後押しをしてくれたひとつは、孔明の言葉だというのに、この孔明の否定的ともいえる態度は、少し不安になってしまう。
 花のそんな心内を察したのか、孔明は花を見つめる眼差しを和らげた。
「ボクは君が残ってくれて嬉しいよ。君をこれから鍛え上げて、士元が六で君が三でボクが一くらいの働きになるのがボクの夢だ」
「その後ろ向きな夢はなんですか。確か、同士が必要だって言っていたと思うんですけど」
「あれ、そうだっけ。ボクの隠居生活実現のために協力してくれるって話じゃなかったっけ? ほんとみんな伏龍って呼ぶなら、ボクのことを働かせないでほしいよね」
「師匠、勤労意欲をもっと出してください」
 舌を出して冗談を言う孔明に、花も軽口で応じると、孔明は心地よさそうに笑った。
 それから冗談めいた空気を消して、花に向き直る。
「――この国は危険で貧しくて未熟で、やることがたくさんだ。君が残ってくれて本当に嬉しいよ。ありがとう、花」
 孔明は、花をまっすぐに見つめて言った。
 その真摯な言葉に、胸が熱くなる。
 本がない自分など、役に立つものではないだろう。しかし、孔明はそれを承知の上で望んでくれているのだ。本がなくても、この国を想う気持ちが同じだから、同士と言ってくれる。
「はい。がんばります」
 花は孔明の目を見てしっかりと頷いた。
 そして、ひとつ、さきほど浮かんだ考えがまた戻ってきた。
 孔明は期待をかけてくれているが、実際、花にできることは少なく、知っていることもわずかだ。
 まずは、たくさん知りたかった。
「あの、師匠」
 ただの思いつきだったが、花は言ってしまえと口を開く。
「なに?」
「さっきの話なんですけど……」
「さっき?」
「はい。孟徳さんや仲謀さんのお話です」
「君、まさかどっちかに行きたいの?」
 孔明は、ぎょっとしたように眉根を寄せた。
「いいえ。違います」
 その大きな反応に、花は慌てて首を横に振る。
「ただ、孟徳さんたちの言うことももっともだなって思って。私はこの国のことをあまり知りません。この国のために働きたいけど、ちゃんと知らないんじゃ、本当に何もできないと思うんです。だから、国の中を見て回ってもいいですか?」
 このまま成都に戻ったら、きっと孟徳の言うとおり、成都のことしか見えなくなるだろう。成都に腰を落ち着ける前に、この国を見て回りたかった。
「戦がなくなった国の様子を知りたいですし、孟徳さんの言う政も聞きたい、仲謀さんの言う外との交流も見てみたい。他にもたくさん、戦のときには見られないものを見てきたいんです」
 花の渾身の訴えを聞くと、孔明はどこか嬉しそうに満足げに微笑んだ。
「うん。行っておいで。いい勉強になるよ」
「あ、ありがとうございます!」
 孔明に賛成してもらえて、花は胸が躍った。孔明が味方につけば、玄徳たちに反対されてもどうにかなる。
「でもひとつだけ、約束してほしい」
 うきうきする花に、孔明は釘を刺すように付け足した。
「は、はい。なんでしょう?」
 その固い口調に、ものすごく難しい課題を言い渡されるのかと怯えながら聞く。
 孔明がずいっと顔を寄せてきて、花はさらに緊張した。
「君が見たいものを見終わったら、ボクのところに戻ってくること」
 孔明が口にしたのは、花の予想外のことだった。
 孔明の静かな瞳に、胸がとくんと震える。
「ほかにいたい場所ができても、旅が終わったらいったん戻りなさい。それが条件」
 とくんとくんと心臓が鼓動を速めていく。
 孔明の言葉が嬉しくて、胸が熱くなった。
「ほ、ほかにいたい場所なんてできませんよ。師匠に教えてほしいことがたくさんありますし、師匠のところに帰ります」
 孔明のもと以外のところに行くなど想像もつかない。花がいたいのは、孔明のそばだ。孔明にはまだまだ教えてもらいたい。孔明のもとに戻るから、旅に出るのだ。
 鼻先で、孔明がにっこりと笑った。
「そう? それなら良かった。君には、手伝ってもらいたいことがたくさんあるからさ。君の仕事はちゃんと積んで、帰りを待ってるよ」
 するりと離れていく孔明に、一抹でない不安を覚える。
 言葉通り、山積みの仕事を用意していそうだ。
「いえ、仕事は積まずに片づけてください」
「えー。自分は遊び回っているのに、師匠ひとりに働かせるつもり?」
「言い方が悪すぎます!」
「じゃあ、旅立ちの前に師匠をじゅうぶん労わっていってよ」
「えっ? 労わる?」
 また嫌な予感しかしないことを言う孔明に、花は焦った。
「なにしてもらおうかなあ。楽しみだなあ」
「師匠、あの、ちょっと、お土産たくさん買ってくるので許してください!」
 孔明は楽しそうに考えながら建物の中に戻っていく。
 花はそれを追いかけて、階段を上がる。そうして建物の中に入る前に、もう一度だけ空を見上げた。
(やっぱり明日は晴れだな)
 空には満天の星。
 明日は気持ちよく晴れるだろう。
 花は笑ってから、孔明の背に向かって走り出した。

光に満ち 幸に満ち

 にぎやかな宴が行われている広間を抜けて、廊下に出ると、花はほっと息を吐いた。辺りは静かで少しひんやりとしていて、火照った体と気持ちを静めてくれた。
 広い空を仰げば、星が美しく瞬いている。
 群青色の空に、まばゆい星々。
 その遥かに広く美しい夜空に、ほんのわずか胸が詰まって、涙がこみあげてきそうになる。
「こんなところで主役がぶらぶらしてちゃ駄目だろ」
 そんなとき、背中に、低く荒っぽい声がかかって、涙はひっこんだ。かけられた声は、声の主を知らなければ、このまま振り返らずに逃げ出してしまいそうなほど、柄の悪いものだった。
「晏而さん、こんばんは」
 もちろん、花は笑顔で振り返る。
 数メートル先の庭に立っているのは、予想通り晏而だ。予想外なのは、晏而が衛兵姿なことだった。
「こんばんはって、あいかわらずのんきだな、あんたは」
 晏而は呆れたように眉根を寄せている。花は少しだけ晏而に怒っていたので、そんな晏而に顔を顰め返した。
「晏而さん、探したんですよ。どうして来てくれなかったんですか?」
「すまねえ。衛兵風情には、ちょっと敷居が高いんだよ」
 花が言うと、晏而はばつが悪そうに頬を掻いた。
「大丈夫って、師匠も玄徳さんも言ってました。私は晏而さんと季翔さんにも出てほしかったです。師匠と私の結婚式」
 花は本当に残念に思っていた。
 今日は、孔明と花の婚儀の日だった。玄徳の軍師ということでたいそう盛大なものとなったが、花は、孔明と同じように、不思議な縁でつながって、今もこうしてここに共にいる晏而と季翔に参列してほしかったのだ。
 けれど、二人は来なかった。
「いいんだ、いいんだ。こうして、道士様の晴れ姿を見られたんだから」
 晏而は手を振って、花の訴えを止めさせる。
 花は素直に従って口を閉じた。約束をすっぽかされても怒りが少しだけだったのは、晏而たちが遠慮する気持ちも分かるからだ。玄徳をはじめ、偉い人たちが居並ぶ中、あまりうるさくない玄徳軍とはいえ、晏而たちは居づらいだろう。
 それに、晏而は、もしかしたら、こうして花の様子を見るために来てくれたのかもしれない。その気持ちが嬉しくて、花はそれ以上何かを言う気にはなれなかった。
「はい。どうですか?」
 花は、来てくれた礼を言う代わりに、晏而によく見えるよう手を広げて見せた。
 芙蓉が仕立ててくれた婚礼衣裳は美しい。似合っているかは別として、この衣装を着られて幸せだった。
 晏而は眩しそうに目を細めて、花を見つめる。
「綺麗じゃねえか」
 晏而の目は、まるで父親のような慈しみを湛えていた。こわい声も、とても優しく聞こえる。
「……ありがとうございます」
 晏而に謙遜したり、否定したりする気持ちは起きず、花は素直に賛辞を受け入れた。
 晏而は、心から、今日を祝ってくれている。
 なんて幸せなのだろう。
 胸がいっぱいになって、さっきひっこんだ涙がまたこみあげてきた。
「こんな時代の、こんな世だがよ。あんたの幸せを祈ってる。それで、世の中も幸せにしてくれ」
 晏而の言葉に、脳裏を、遠い遠い世界がよぎる。
 もう二度と戻ることのできない場所と大切な人たち。
 彼らに胸を張れるよう、晏而の言う通り、ここで幸せに、選んだ道をしっかりと歩いていきたい。
「はい」
 花は決意を新たにして頷いた。
「それと、あいつをよろしくな」
 あいつとはもちろん孔明のことだろう。まるで父や兄のようだ。昔から晏而と亮は奇妙な関係だったが、父であり兄であり友なのだろう。
「はい。師匠……孔明さんと、しあわせになります」
 花はそれにもしっかりと頷く。
「ああでも、あの亮に持っていかれるかあ!」
 すると、晏而は堪えきれないというように、悔しそうに天を仰いだ。
 その様がおかしくて、花は笑う。あの亮とこんなことになるとは、花も思わなかった。
「それで、あの亮に持っていかれた気分はどう?」
 そんな和やかな場に、突然、不穏な声が響いた。
「師匠!」
「げえっ」
 花と晏而は一斉に振り返って、廊下の先に孔明を見つけると、悲鳴のような声を上げた。
 孔明はつかつかとやって来る。
「おいおい、お前まで出て来ちまってどうする。主役が揃っていないなんて、なんて宴だよ」
 晏而が孔明を非難するが、逃げ腰だ。
「婚儀の夜に、新妻を口説いているのを見過ごせるわけないだろう?」
 花の隣までやって来た孔明は、花をぐいと抱き寄せた。
「わ、し、師匠」
 孔明の力強さと温かさに、花はどきどきしてしまう。
「また師匠って言ってる。孔明さんだろ?」
「す、すみません……」
 顔を近づけて注意されて、花は顔を赤くして謝った。
 何でもいいが、近すぎる。晏而の前でなくても恥ずかしい距離なのに、晏而に見られていると思うと、どんどん顔が火照ってしまった。
 そんな花の反応は想定通りなのか、孔明は楽しそうに笑っている。
「あーあーあーあー見せつけやがってよ。なんだ、お似合いだって言わせてぇのか? それともなんだ、幸せそうで何よりだ、とでも言わせてぇのかよ! 死んでも言わねえよ! お前に道士様はもったいねえっての!」
 面前で親密ぶりをアピールされた晏而は、柄の悪さを遺憾なく発揮して、孔明に向かって吠えた。
「負け惜しみも甚だしいね。早く仕事に戻ったら?」
「言われなくても戻るっつーの! 孔明様」
 わざとらしく様をつけて呼ぶと、晏而は負け犬よろしく駆け出した。しかし、数歩行って止まる。それから、振り返った晏而は、ひどく真面目な顔をしていた。
「孔明、長生きしろよ」
「なんだよ、それ」
 おしあわせにでも、道士様をよろしくでもない、はなむけの言葉に、孔明が少し憮然としている。
「道士様を悲しませるんじゃねえってことだ!」
 そんな孔明に、晏而が怒鳴った。
「ああ。そんなの当たり前じゃないか。」
 すると、孔明は、言葉通り当然といった様子で頷いた。
 相手を悲しませないように――。
(私も、孔明さんを悲しませることなんてないようにします)
 花も晏而に答えたかったが、二人の間に入るのは躊躇われて、心の中で返事をした。
 どんなときも、喜びに満ちることは難しいかもしれないけれど、困難なときには、孔明の支えとなって、孔明に支えてもらって、二人で生きていけたらいいと思う。
「わかってるならいい」
 晏而は小さく頷くと、今度こそ仕事に戻っていった。
 二人きりになって、再び静寂が広がる。
「あの……」
 花は、孔明から離れようと身じろいだ。そろそろ宴に戻らないと、芙蓉に怒られるだろう。しかし、孔明の腕は緩まなかった。
「こんな時代の、こんな世か……」
 ぽつりと、孔明が呟く。
 花は目を見開いた。
「ししょ……孔明さん、聞いてたんですか?」
「うん。晏而さん、こんばんは、から」
「最初からじゃないですか」
 それならば、早く出てくればいいのにと呆れるのと同時に、ということは、もうだいぶ長い間、新郎新婦が席を外しているということだと気づき、宴席がますます心配になった。
「だって、大切な新妻が誘惑されているように見えたから」
 孔明は花の目を探るように見てくる。
 新妻だとか誘惑だとかの慣れない単語に、花はまた恥ずかしくなった。
「そ、そんなことされません! 晏而さんですよ?」
「ああ、そうだね。晏而だもんね」
 花が恥ずかしさを吹き飛ばすために強く抗議すると、孔明は笑いながら頷いた。
 その態度が軽く感じられ、きちんと気持ちを受け止めてもらえているのか不満で、花は言う。
「私が好きなのは孔明さんです」
 孔明は一瞬目を瞠りながらも、すぐに笑った。
「うん。そうだね。ボクも好きだよ」
 自分が言う分には勢いもあってさらりと言えたが、孔明に言われるとくすぐったい。
 そして、とても幸せで、満ちる。
 孔明も、同じように幸せに思ってくれていると嬉しいと思って、花は孔明を窺った。しかし、それは、孔明が強く抱きしめてきたために果たせなかった。けれど、その抱擁が答えのように思う。花もその背中に腕を回して、孔明の体を抱きしめた。
「花。ボク、長生きするよ」
 孔明がしてくれる約束は、きっと果たされる。
 花は頷いた。
「お願いします。私も長生きしますね」
「うん、そうしてくれると嬉しいな」
 花と孔明は顔を見合わせると、笑い合った。

 ふたりの上にはきらきらと金の星。


 健やかなときも病めるときも、共に。
 きっと、この道は、光に満ち幸に満ちて輝くだろう。

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