すくう
ゆらゆらと黒い水が揺れている。
ここは暗い深い底の底。
この暗さは知っている。これは光のない世界。己の目が閉じて、何も見えていない、彼女に出会う前の世界だ。
ボクはまたここに戻った。
それだけのことだ。
こうなることはわかっていたし、それでもボクには手を放すことしか選べなかったのだから。
彼女の、あの人のしあわせは別の世界にある。
ただ――。
そう、少しだけ、光を知ったこの目には、この世界は暗すぎる。
ここが暗いと知ってしまった。
終わりのない底に足がずぼりとはまり、体がからめとられるように沈んでいく。
ボクは二度ともう、あの明るい日々へは戻れない。
ボクをすくいあげられるのは、ただひとり、あの人だけだから。
言葉さえ消えていくようなこの世界で、あの人の名だけは、最後まで失われずに持っていたいと願う。
この意識がとけて、ボクがなくなるその瞬間まで。
花。
ボクははっと目を開いた。
彼女の名を心に浮かべただけで、こんな暗い世界の中でも、鮮やかに光が生まれて、ボクの目を開かせる。
そんな存在をなんていうのか、ボクは知らない。
愛しさを超えて、ボクの中にあった。
こぽりと、とまるで水の中のように、息が気泡を作る。その気泡は、ゆらゆらとどこまでも昇っていった。
だいぶ下まで落ちたようだ。
このままボクはなくなっていくのだろう。
きっとそれも悪くない。
「師匠!」
ボクがそっと目を閉じたとき、突然、声が響いた。
暗い闇をうち払い、どんなに遠く離れていても、ボクに届く声。
ボクは、目を開ける。
その途端、思わず目をつぶってしまうほどの光が飛び込んできた。
眩しい。
けれど、ボクは見た。
花がいた。
ああ、ボクはもう一度生きていいのだろうか。
いつも君に救われる。
君にここからすくわれる。