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風化

 少しずつ失われていく。失われていくことさえ気づかないうちに。
 彼女の香りはどんなものだっただろう。
 彼女の声は、どんなものだったろう。
 彼女の大きさは。
 顔は。
 どんな風に笑って、怒って、悩んで、泣いていただろう。
 彼女の瞳は、涙で滲んでよく見えない。
 師匠、と呼ぶ声が遠い。
 どこにでもいるような、けれど、世界中のどこを探してもいない彼女。

 ――彼女?

 ボクは、どうして手を放してしまったんだっけ。


「孔明様」
 補佐官に声をかけられ、孔明は顔を上げた。
 補佐官の顔を見た途端、今考えていたことがわからなくなる。頭の一部分に靄がかかったようだ。
「どうした?」
 それでも、孔明は、常の癖で、なんでもない顔をして、彼に答える。しかし、頭の中では、今、失った思考を思い出そうと必死だった。だが、その端もとらえることができない。
「いえ、片づけをしておりましたら、このようなものが出てまいりまして。誰かの物のようなのですが、主が見当たりません。処分してもよろしいでしょうか?」
 そう言って、彼が差し出したのは、文箱だった。若い女性が好みそうな、綺麗な意匠のものだ。
「ああ、それは――」
 孔明の口が勝手に開く。考えるまでもなく体が動いた。しかし、言葉はそれ以上出てこない。
 喉がつかえた。
 誰かのもの、だったような気がする。見覚えがあるような気がする。
 しかし、思い出せない。
 ――思い出す? 何を?
 頭の中をぐちゃぐちゃにかきまぜられたような感じだった。気持ちが悪い。吐き気が襲ってきた。
 何か、大事なことを失っているような気がする。
 それなのに、それが何かわからない。
 さっき、何を考えていただろう。
「それは――――、もらっておく」
 誰のものかわからない――でも、誰かのものであったと思う文箱。
「はい」
 孔明は、補佐官からそれを受け取って、手にした重さに、胸がじくりと痛んだ。

 何か大切な約束があったような――。


 ――師匠。


 彼女ももう忘れただろうか。

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