Entry

雪はきらい

 

 孔明は隆中の山の中を、自分の庵に向かって急いでいた。
 早くしないと、間に合わない。
 指まで覆う手甲を中綿の入ったあたたかいものにしているのに、指はかじかんでいた。足先も相当冷えているのを感じる。
 と、ひらひらと目の前を白いものが散り落ちた。
 孔明は足を止める。そして、微かに顔を顰め、少しだけ視線を上げた。
 すると、まるでそれを合図のようにして、視界いっぱい、狭い空を埋めるように突然雪が現われ、落ちてくる。
 間に合わなかった。
 孔明は息をつく。
 雪は嫌いだ。
 そっと手を差し出すと、雪が手のひらに落ちて、融ける。
 それを見て、孔明は苦痛にも似た表情を顔に浮かべた。
 ぐっと唇をしばり、再び歩き出す。
 今日はこのまま降り続け、積もるだろう。その前に、庵に戻りたかった。
 雪は好きでない。
 手の上で、たやすく融けて消えてしまう。
 その儚さは、痛い記憶を刺激して、胸の内を苦いもので満たした。
 この道はちゃんと繋がっているだろうか。
 孔明は、ぎゅっと開いていた手を握りしめる。
「……雪は嫌いだ」
 その呟きは、はらはらと降る雪の中に埋もれた。


 翌日も寒かった。
 薄くても布団の中から出たくない。
 孔明は、差し込む陽はなかったことにして、もう一度寝ようと目を閉じかけた。
「おい! 馬鹿っ! なにやってんだ、てめえはよ!」
 しかし、そのとき、外から、ここにないはずの粗野な声が聞こえてきて、ぱちっと目を開ける。
「うおっ、いってーよ!」
 それに応じるしまりのない声も知ったものだ。
 だが、寒い。
 孔明は少しもためらうことなく、もう一度目を閉じた。
「馬鹿! そうじゃねえだろっ!」
「えー、でもよー、こっちの方がよくない?」
「よくねーよ! 元に戻せ! あ、いや、待て!」
「うわっ、わっ」
「なにしやがる!」
「っはあ、よかった。首もげるところだったぜ」
「ふぃー」
 いったい何をしているのか、はしゃいだ声はやむことがない。その上、さっぱり要領を得ず、孔明の苛々は頂点に達した。
 寒さも忘れて薄い掛布を蹴り飛ばし、粗末な戸を乱暴に開ける。
「その、しまりのない、落としどころの見えない会話、やめてくれない?」
 孔明は、不機嫌を全面に出して、その会話の主たち――晏而と季翔を睨みつけた。
 二人はきょとんとしている。
 突然、怒られた理由がさっぱりわからないのだ。
 ただの雑談に、目的と論理性を求めることの方がどうかしている。
「安眠妨害」
 孔明がそう言い足すと、晏而たちも納得した顔になった。
「もう午だぜ?」
 だが、そこは長い付き合いで、晏而は即座にそう返す。
「ボクが何時まで寝てようといいだろう? それより人の家の軒先で、何を勝手にやってるんだ」
 孔明が冷たく言い放つと、晏而と季翔は、それぞれ左と右に避けた。
 そこに現われたのは、大きな雪だるまだった。どんと一段目がかなり大きい雪玉で、上に乗っている雪玉は、季翔の立っている側が少し崩れていた。
「子供?」
 孔明はすっと目を細くする。
「お前に言われると、心から腹立つぜ」
 晏而は、大仰に顔を顰めた。
「お前の友達のイノシシたちは、今冬眠中だから寂しかろうと思った俺たちの思いやりを鼻で笑いやがって」
「いらない」
 晏而のからかい混じりの言葉に、孔明はむっとする。友ならいるはずだ。一人くらい心当たりがある。
「せっかく考えて日陰に作ってやったんだぜ?」
「頼んでない」
「つれねーなあ。ここ、ならしばらく融けねーぞ?」
「だな。こいつがいなくなる頃には春になってるだろ。そしたらイノシシたちも起きてくる」
 晏而と季翔の言葉に、孔明は小さく目を見張った。
 固まりになった雪。手のひらの上の雪。
 雪は手の上で融けて、掴まえられないから嫌だった。
 けれど、形を変えてしまえば、長くいられるものもあるのだ。
 どうして、それに気づかなかったのだろう。
 春まで残る雪を知っているのに、手の上の雪だけしか見ていなかった。
「……君たちって、たまにいいこと言うよね」
 孔明は雪だるまを見つめながら言う。それから、その目を晏而と季翔に向けた。
「ボクと、頭の作りが違うんだね、きっと」
「だから、心から腹立つな、お前」
 孔明がにっこり笑うと、晏而はその凶悪な顔を、ますます無法者のようにゆがめる。
 孔明は、いつもの通り笑顔を保った。
 本当にまだまだだ。
 まだ、あの人には会えないのだろう。
 無知すぎる。
 もっと武器を磨かなければいけないのだ。
 それをわからせてくれた晏而と季翔には、心の中でこっそり感謝する。しかし、やはり生来の負けず嫌いのため、それを表に出すことはなかった。
「でもやっぱり、雪は嫌いだ」
「あ?」
 ぼそりと呟かれた言葉を聞き取れず、晏而が聞き返す。
「寒い」
 孔明はそれには答えず、素早く戸を閉め閂をおろした。
「あ、亮! てめえ!」
 何をされたのか気づいた晏而は、すぐに戸に飛びつき、がたがたと揺するが、時はすでに遅い。
「君たちは、雪でも元気に遊んでるじゃないか。ボクは寒いから寝なおすよ」
 孔明はあくびをしながら、布団の中に戻っていった。
「いれろー! 人非人!」
「寒いよ! 亮! 中に入れろよ!!」
 晏而と季翔が喚いている。
 次に起きたときには入れてやるか、と思いながら、孔明は二度寝に落ちた。

Pagination