師匠と弟子
元の世界でよく耳にした歌が、なんとなく口をついて出た。
花はそのまま歌いながら、書簡の整理と掃除に励む。今日はよく晴れていて、この別邸の大変な数の書簡の片づけにはもってこいだった。誰もいないし、来る予定もないということが、花の口と気を緩ませていたのかもしれない。最終的に、鼻歌というレベルではなくなって、はっきりと歌い出していた。
「それは、君の国の歌?」
そのため、突然そう声をかけられたときは、完全に隙だらけで、文字通り、飛び上がるほど驚いた。
振り返ると、部屋の入り口に、今、ここにはいないはずの師匠がのんきに立っていた。その顔を見るに、特別驚かせようと思っていたわけではないようだ。
「こ、孔明さん、今日は一日中お城じゃ……」
「あ、驚かせた? ごめん、ごめん。来るはずだったお客様が今日は到着しないって知らせがきたから、帰らせてもらったんだ。今日は君、ここの片づけするって言ってたし、ボクも手伝おうと思って」
「そうでしたか。びっくりしました」
花が胸をおさえて言うと、孔明はどことなく不服そうな顔をした。
「だいぶ気持ち良さそうだったけど、それじゃ、誰か入ってきても気づかないんじゃない? 危ないなあ」
「う……気をつけます」
孔明の指摘はもっともで、花は何も言い返せずに頷く。
すると、その鼻先に、ずいと包みが差し出された。
「わかったならよろしい。じゃあ、はいこれ差し入れ。熱いうちに食べよう?」
「わ、ありがとうございます」
孔明が買ってきてくれたものは、焼きまんじゅうで、まだほかほかと温かかった。
花は手早くお茶の支度をして、ふたりで縁側に座る。
「ねえ、さっき、君が口にしていたのって、君の国の歌?」
おいしいおまんじゅうを食べながら、孔明はさきほどの歌について聞いてきた。
「はい。元の世界のアイドルの歌で」
「あいどるって?」
「アイドルというのは……芸能人――歌を歌ったり、お芝居をしたりすることが職業の人たちのことで、さっきの歌を歌ってたひとたちもとても人気があるんですよ」
元の世界にいたときは、「アイドル」という言葉を気軽に使っていたけれど、それを知らない人に説明するのは難しいのだな、と思いながら、花は言う。
「人気があるって、国の中で?」
「はい。この国よりはとても小さい国ですけど、国中のひとみんな知ってる歌です」
「へえ、それはすごいね。その人たちは国中を歌って回ってるってこと?」
「それもたまにはしますけど、それよりもテレビでみんな知るんです」
「てれび?」
聞いたことのない単語に、孔明が首を傾げる。
「はい。元の世界では、ほとんどの家にテレビという機械があって、それで色々な番組――演目を見ることができるんです」
あまり詳しく元の世界のことを話したら、また孔明が元の世界の方が素晴らしいと思ってしまうだろうかと、少し不安に思いながら答えたが、そんなことはなく、孔明は、その目に好奇心をいっぱいにして、さらに聞いてきた。
「それはすごいね。それじゃあ、国のどこかで戦があったりしたら、それは瞬時に国中の人が知るんだ」
「そうですね。遠い国のことも、その日のうちに知れたりします」
「へえぇ」
孔明に問われるまま、元の世界の話をする。孔明の疑問は尽きず、なかには、花が説明できないものもあった。花が知らないとまた別のことを聞き、興味深そうにその瞳を動かしている。無尽の好奇心を満たそうとする姿はまるで子どものようで、質問に答える立場は自分が師匠に戻ったみたいに思えて、花は少しおかしくなった。
「どうしたの?」
花が笑うと、孔明が気づいて尋ねてくる。
「あ、いえ、今日は私が師匠みたいだなって思いまして」
「ああ」
花は素直に答えた。孔明は、自らの質問攻めに気づいたらしい。
「すみません。孔明さんのようにちゃんと答えられない師匠で」
「いいや。とても興味深かったよ」
「もっと色んなことを勉強していればな……」
花は、あらためて、過去何度も思ったことを思い、小さなため息をついた。
元の世界でもっともっと知識を蓄えていたら、この世界で大いに役に立ったことだろう。悔やんでも仕方ないとわかっていても悔やんでしまう。
「君がもっと師匠らしくしたいっていうなら、させてあげるよ」
孔明は言うが早いか、するりと正座をしている花の膝に頭をのせた。
「こ、孔明さん! これは師匠をいたわる行為じゃなかったんですか!?」
ふいに太ももにかかった重みや、さらさらとした髪の感触に、思わず腰を浮かせそうになって、花はどうにかふみとどまる。
「今は、勤勉な弟子へのごほうび」
孔明は悪びれもせずにそう言った。
口で敵うはずがないので、花はそれ以上何を言うのをやめる。まだ恥ずかしさがあるだけで、こうするのが嫌いなわけではない。
「いいですよ、亮くん」
花は師弟ごっこにのって、孔明の頭を撫でる。さらさらと指を滑る黒髪が気持ちいい。
しかし、なぜか孔明から何の反応もなくて、花は手を止めた。
膝の上の孔明の体は、少し強張っているようにも感じる。
「……孔明さん?」
もしかして、照れているのだろうか、とわずかに期待して顔を覗き込もうとしたら、孔明が身じろいだ。
「亮くん、でしょ。師匠」
孔明は冗談めかして言って、ちゅ、とむき出しの膝に口づけしてくる。
柔らかい唇の感触と、少し触れた舌に、一気に体温が上昇した。
「りょ、亮くんはそんなことしませんっ!」
びくっと跳ねてしまった心臓を誤魔化すために、花はわざと強めに言う。
「えー、したいって思ってたかもしれないじゃない」
「まさか。亮くんはまじめでいい子で、師匠みたいに不純な気持ちはいっさいありません!」
孔明の言い様に、あの亮がそんな不埒なことを考えるはずがないと、花は拳を握りしめてきっぱりと首を横に振った。
「いやいやいや、その亮はボクなんだけど……」
孔明は複雑そうに視線を下に流す。
「ふぁーあ」
しかし、そのまま大きなあくびをすると、もぞもぞと、寝やすい体勢を探るかのように動いた。
「師匠?」
「横になったら眠くなっちゃった」
すでに目を閉じている孔明の顔はあどけなくて、花は知られないよう笑う。
孔明は毎日忙しい。こんな時間は貴重だ。
この時間を、まるで守っているように思えて、花は嬉しくなって孔明の頭を撫でた。
「いいですよ。寝てください」
「うん。ありがとう……」
花の手に誘われるように、孔明は眠りに落ちていく。
「ちゃんと……ここに、いて……ね」
意識が完全になくなる寸前、孔明の手が、花の手を握りしめた。
その手は、花を繋ぎとめるように強い。
「…………はい」
花はそっと頷いて、もう一方の手で孔明の頭を撫でた。
おわり