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誕生日ばなし(音芽)

「帰ったぞっと」
 ふすまが開いて、音二郎が入ってきた。芽衣は、はっと鏡台の掛け布を下ろす。
「お、お帰りなさい」
 振り返ることができなかったので、芽衣は鏡台の上の小物を片づけているふりをしてやり過ごそうとした。
 今日は劇団の仕事で外出していたから、酔っ払っているはずだ。そして、そういうときは、まっすぐに布団に入ってしまうから、芽衣には構わないはずだ。
 芽衣はどきどきしながら、音二郎が部屋を横切るのを待った。布団は、音二郎の分も敷いてある。朝まで帰ってこないと分かっていても、もしかしたらと思ってしまい、毎日、念のために敷いていたことが功を奏した。音二郎は、獲物を見つけた虎のように布団に向かうだろう。
(……どうして、今日に限って早いわけ……!)
 音二郎がばたんと転がる音を待ちながら、芽衣は、心の中でため息をついた。
 最近は、劇団の用で出て行ったら、翌日まで帰らないことが常だったのに、その日のうちに帰ってくるなんて、不意打ちすぎる。
(用事が早く終わったのかな……)
 劇団の仕事は楽しそうだから、たとえ用事が済んでも、置屋のことなど忘れて、時間が許す限り、劇団の仕事をしてくると思っていた。そして、そのために、明日まで帰ってこないと油断していた。
(……よりによって今日……)
 いつもなら、音二郎が帰ってきてくれるのは嬉しいことなのに、今日は喜べない。逆に恨めしく思ってしまう。なんという間の悪さだろう。
 そうして、芽衣がもう一度ため息をつこうとしたときだった。
「ん? なんだ、寂しいじゃねえか。顔見せろよ」
と、音二郎が肩を掴んできた。
「わっ!」
 音二郎は布団に行くものだと思って無警戒だった芽衣は、されるがまま、音二郎に顔を見られてしまった。
「……っ!?」
 その瞬間、音二郎は息を飲み、顔いっぱいに驚愕が広がる。
 芽衣は、すぐに手をかざして、音二郎の視線から隠した。
「お前、どうした、その髪!」
 しかし、もちろん、音二郎にはばっちりと見られてしまっていた。音二郎は眉根をきつく寄せた険しい顔で、芽衣の手を掴んで外させ、その前髪をあらわにした。芽衣の前髪はちりちりだった。サイドも前側は焦げている。これは、料理に挑戦した残念な結果だった。
「すみません、ちょっと、不注意で」
 芽衣は、ちりちりになった髪を見られたことが恥ずかしくて俯いた。音二郎にこんなみっともない姿を見られたくなかったから、髪を切ったりまとめたりしようと思って、鏡を見ていたのだ。
「不注意? どういうことだ?」
「それは……」
 真剣に聞いてくる音二郎に、芽衣は口ごもる。
 こうなった経緯はもちろん話すことはできるのだが、できれば、それは明日まで言いたくなかった。
(音二郎さんの誕生日のお祝いの準備をしてて、こうなった、なんて、言えない……)
 今かけている心配に加えて、気遣われてしまうかもしれない。
 それに、芽衣は、音二郎の驚く顔が見たかった。今のように、驚いて青ざめるのではなく、驚いて、嬉しそうにしてくれるだろう音二郎が見たい。そのためには、話すのはうまくないだろう。少しでも話したら、敏い音二郎は全てを察してしまうかもしれない。ふだん料理をしない芽衣が料理を試みたという時点で、怪しさまんさいだ。ここは誤魔化しきるのが一番だろう。
「ほんとうに大したことじゃないんです」
「大したことじゃねえんなら、よけい話せるだろ」
「う……」
 音二郎の言う通りだ。芽衣は言葉を詰まらせた。
(ど、どうしよう……)
 急いで、この窮地を切り抜ける方法を考えようとするけれど、頭は空転するばかりだ。
「……どうしてわけを話せねえんだ?」
 その間に、音二郎の雰囲気が硬くなっていた。芽衣が話さないことに、苛々しているようだ。
「話せないわけでは……ないんですけど……」
 その空気に圧されて、芽衣の決意が鈍る。音二郎を怒らせてまで隠すことではない。それでは本末転倒だ。しかし、やっぱり話すということも決められないでいると、音二郎がしびれを切らしてしまった。
「ああ、もういい。わかった」
 音二郎は苛立たしげに言って、布団にごろりと寝転がる。
(お、怒らせちゃった!)
 背中を向けられて、芽衣は頭が真っ白になりかけた。だが、すぐに謝って説明しようと思い立ち、音二郎のもとににじり寄る。
「お、音二郎さん」
「話したくないなら話さなきゃいい」
 音二郎はしっかり怒っている。
「お、音二郎さん……」
 音二郎が怒ることなど滅多にない。かつて見たことがないと言っていいほどだ。そんないつにないことに、芽衣は一瞬怯んだ。けれど、勇気を振り絞って、音二郎のスーツを引く。
「あの……少し、早いですけど……お誕生日おめでとうございます」
 音二郎の背中がぴくりと反応した。
「明日、音二郎さんのお誕生日だから、お祝いにケーキを作ろうと思ったんですけど、失敗してしまって。かまどを爆発させてしまったんです……」
「ば、爆発!?」
 音二郎が飛び起きた。その顔は、さっき以上に驚いている。しかし、芽衣は、音二郎が振り返ってくれたことに、ほっとした。
「いやいや、お前、ほっとするところじゃねえだろう」
 音二郎にすかさず突っ込まれ、芽衣は顔を赤くした。
「あ、これは、音二郎さんが私を見てくれたので、よかったなと思って……きゃっ!」
 説明している間に、音二郎が急に腕を引いてきたので、芽衣は驚いて声を上げてしまった。
「かわいいこと言ってくれるじゃねえか」
 音二郎は、ぎゅっと芽衣を抱きしめてくる。その力強さにどきどきしながらも、芽衣は音二郎の胸に体を預けた。
「……すまなかった。お前の髪、誰かにいじめられたんじゃねえかって思ってよ。俺は、お前に、そういうことを話してもらねえ情けない男なんだって、思っちまったんだ」
「そ、そんなことされてませんよ」
 音二郎の発想に、芽衣はびっくりした。
「ああ。ここの置屋は気のいい奴ばかりだからな。けど、万が一は有り得るだろう? お前、最近きれいになってきたしよ」
 音二郎は顔を覗き込んできて、頬を撫でた。
 間近にある音二郎の端正な顔と、頬を撫でる大きな手に、どきどきと胸の鼓動が速まってくる。
「…………ほ、ほめたって何も出ませんよ」
「いつでも口説きたくなるようないい女だってことだろ」
 音二郎は恥ずかしがる芽衣に笑って、軽く口づけた。不意打ちのようなキスに、芽衣は顔を赤くして、身を縮める。音二郎は、芽衣のそんな反応が気に入ったように、芽衣の唇をなぞった。
「っ」
 ぞくぞくと震えのような感覚が腰の辺りから湧いてくる。芽衣はぎゅっと音二郎のスーツを握りしめた。
「誕生日、覚えててくれたんだな」
「あたりまえです」
 嬉しそうな音二郎に、芽衣は少し憤って答える。好きな人の誕生日なのだから当然だ。
「お前と一緒に過ごしたいと思って早く帰ってきたのに、なんだか歓迎されてないようだったからな。帰ってきちゃまずかったかと悲しくなったぜ?」
 すると、音二郎にからかうように言われて、芽衣は慌てて謝った。
「す、すみません……お祝いの準備ができていなかったので、焦ってしまったんです」
「そんなの、お前がいてくれればいいんだよ」
 音二郎は笑って、額に口づけた。予想通りの言葉に、芽衣は心の中でため息をつく。だから、芽衣が思いきり祝うためにも、こっそり準備したかったのだけれど、結局うまくいかなかった。
「しっかし、爆発ってのは、物騒な話だな。怪我はないのか? 被害は髪とかまどだけか?」
「はい。かまども掃除をすれば大丈夫みたいです」
 正しく言えば、爆発したのはかまどではなく、中にいれたケーキだった。どうしてケーキが爆発したのかは、永遠の謎だ。
「そりゃよかった。まあ髪は残念だが、少しの間我慢すりゃまた伸びてくるからな」
 音二郎は、慰めるように頭を撫でる。伸びてくるとは言っても、女性にとって髪は大事なものだとわかっているのだろう。その眼差しは労わるようだった。
「はい」
 芽衣は、この髪を、音二郎に嫌がられなければ、それでよかった。
「本当にお前は目が離せねえ女だな。もう危ない真似はすんじゃねえぞ。その、なんだったか? そいつを食べたいからってよ」
「ケーキですか?」
「そうだ、それ」
「わ、私が食べたいから作ろうと思ったんじゃありません。音二郎さんの誕生日だから作ろうと思ったんです」
 音二郎の言い草に、芽衣はすぐに首を振った。自分の食い意地が張っていて、大騒動を起こしたのとは違う。そこははっきり否定しておきたい。
「俺の誕生日だから?」
 この時代にはケーキを食べる習慣がないのか、音二郎は不思議そうな顔をしていた。
「はい。誕生日にはケーキがつきものですから」
「んーよくわからねえけどよ。どうせ祝ってくれるんなら、そんな危ねえことよりも、もっと違う方法でどうだ?」
「ケーキは危なくありません!」
「あーわかった、わかった」
「お、音二郎さん、何してるんですか」
 芽衣を軽くいなしながら布団に押し倒してくる音二郎に、芽衣は焦って聞いた。音二郎の目的は明白で、これはいわゆる無駄な抵抗というやつだ。
「まあ。誕生日だしよ。お前にいいことしてもらってもバチは当たんねえよな」
 音二郎はにやりと笑って、芽衣の口をその唇で塞いだ。


おわり

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