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誕生日ばなし(鴎芽)

 夕餉の後、やりたいことがあったのに、鴎外についてまわられている。この状況をどう打破したものか、芽衣は頭を悩ませていた。
「子リスちゃん。これはここでいいのかい?」
 鴎外は嬉々として、皿を掲げてみせた。
「あ、はい、そこで」
 芽衣が頷くと、鴎外は颯爽と皿を棚の中にしまう。鴎外の動作はいつも華麗だ。――あまり台所には似合わない。
「……あの、鴎外さん。何度も言うようですけど、片づけはやりますので、のんびりしていてください」
 芽衣は、もう何度目かになる、オブラートに包みこんだ退室勧告を行った。皿の片づけを手伝ってくれるのは嬉しいが、どうも勝手が違って落ち着かない。それに、今日は鴎外に見つからないようにやりたいことがあったのだ。今日に限って手伝いをする鴎外は、まるでそんな芽衣の事情を知ってからかっているかのようだ。
「今日は、お前を手伝うと決めたのだ」
 芽衣の願いは届かず、鴎外はぴしっと言い切った。
 鴎外は頑固というか、言い出したらきかないところがある。こう言うのならば、今日はずっと手伝ってくれるのだろう。
(今日じゃないと駄目なんだけどな……)
 芽衣はちらりと時計を見た。今日は鴎外が帰ってくるのが遅かった上に、芽衣が鴎外に諦めてもらおうと、ずるずると片づけを引き延ばしたせいで、時間はだいぶ遅い。芽衣が予定していた通りには、何もできそうになかった。
「ふたりで協力して家事をするのは夫婦のようではないか! 我々にはふさわしいだろう? これからの生活の予行練習だよ。何事も練習は大切だ」
 鴎外は、腕を広げて大演説をしている。完全に楽しんでいた。もう本当に芽衣に望みはない。
(…………うう)
 せっかく、明日の鴎外の誕生日のために、準備をしようと思っていたのに残念だ。芽衣はこっそりため息をつく。しかし、こっそりと思っていたのは芽衣だけで、鴎外はそれを見咎めていた。
「……まさかとは思うが、僕のことを邪魔だと思っているのではないだろうね」
「えっ、そ、そんなことないですよ」
 突然、すっと目を細めて見据えられ、芽衣は慌てて首を横に振る。
 邪魔とまでは思っていない。鴎外と一緒にいられるのは嬉しいし、手伝ってくれようという気持ちもとても嬉しい。しかし、今日は都合が悪かったのだ。
(…………いや、ちょっと……思ってたかな……)
 芽衣は自分の心を見つめて、それでも、今はいないでほしいと思っていた気持ちがあったと少し思い直す。
 鴎外の誕生日のお祝いの準備をしたかった。明日、フミさんが腕によりをかけた料理を作るはずだから、その邪魔にならないように、今夜やってしまおうと思ったのだ。このままでいくと、明日、フミさんの手伝いをするだけになってしまう。せっかく、本当の婚約者になってはじめての鴎外の誕生日だというのに、本当に残念だ。
 芽衣は、もう一度ため息をついた。
 鴎外は、ひとり考え込む芽衣をじっと見ていたが、二度目のため息を見ると、皿を置いて、芽衣に近寄った。
「きゃっ」
 音もなく突然、鴎外に抱え上げられて、芽衣は悲鳴を上げた。いわゆるお姫様抱っこ状態である。細身に見えて、軽々と抱き上げてしまう鴎外にも驚いたし、突然抱え上げられたことにも驚いた。
「お、鴎外さん、どうしたんですか?」
「お前が悪い子だから、お仕置きが必要と思ってね」
「お、お仕置き!?」
 鴎外はどことなく機嫌が悪そうで、その様子と、とんでもない言葉とに、芽衣は慄いた。鴎外がお仕置きと言ったら、本当にお仕置きをしそうだ。しかし、芽衣には、そんなことをされる理由が思い当たらなかった。
「ど、どうしてですか? 放してください!」
「駄目だ」
 不当なお仕置きは御免だと、芽衣はじたばたと暴れるが、鴎外はそれをものともせず軽く封じ込めた。
「あの、私、片づけをしないといけません」
 放してくれる気配が全くないので、芽衣は戦法を変えて、鴎外の責任感に訴えてみる。フミさんがもう帰ってしまっているから、片づけは芽衣の仕事だ。仕事はきちんとやらなくてはいけないだろう。
「後でいい」
「…………」
 しかし、鴎外に一蹴され、芽衣はそれ以上言うことを失った。そして、そのまま為す術もなく鴎外の部屋へと運ばれてしまう。
「さて、どうしたものか」
 自室に入ると、鴎外は部屋の中を見回した。狭くもないが広くもない。やれることの選択肢は限られている。
「あの……」
 何をされるのかという緊張感に堪えかねて、芽衣は、鴎外に声をかけた。
 しかし、それを無視して、鴎外は大股に歩き出した。まっすぐに奥の机に向かっている。
(ベッドじゃないんだ……って、私、何考えてるの!?)
 ベッドに運ばれなかったことに拍子抜けして、勝手にいかがわしい想像をしていたことに気づいた。ひどい妄想に顔が火照る。
(でも……お、お仕置きって、なにされるんだろう……)
 てっきりそういうお仕置きだと思い込んでいたので、芽衣はあらためて疑問に思った。そちら方面ではないお仕置きといえば、廊下に立たされるとか、校庭を十周走らされるとか、とにかく先生の手伝いをさせられるとか――鴎外が「先生」なだけに、学校でのお仕置きが脳裏に浮かぶ。しかしそういったことでもなさそうだ。
 そうこうしている間に、仕事机に辿りつき、鴎外はその椅子に座った。芽衣はもちろん解放されることはなく、鴎外の膝をまたぐように座らせられる。
「お、鴎外さん、おろしてください!」
 取らされた体勢の恥ずかしさに、芽衣は顔真っ赤にして声を上げた。膝からおりようと身をよじる。だが、鴎外はがっちりと芽衣の腰を掴んで離さなかった。
「駄目だ。お前は、自分が誰のものか、ちゃんと理解していないようだからね。しっかり分からせないといけない」
 鴎外は、芽衣の顎を取って、目を合わせてきた。それだけで、芽衣はどきどきして、顔に熱が集まってしまう。恥ずかしい距離なのに、どうして鴎外は平気なのかわからない。
「それで、お前はなぜ、この僕を邪魔だと思ったんだい?」
 鴎外にずばりと聞かれて、芽衣は驚いた。鴎外に、心の片隅で思っていたことを気づかれていたとは思わなかった。
「じゃ、邪魔だなんて……」
「正直に言わないのなら、その口はいらないね」
 少しは思ったが、それが全てではないと否定しようとすると、鴎外が苛立たしげに口をふさいできた。呼吸を奪うようなたっぷりとした口づけだ。芽衣は、すぐに息が上がってしまう。
「お、鴎外さん、やめてください……!」
「やめなくてはいけない理由がない」
 鴎外はしれっと言って、さらにキスをしてこようとする。しかし、触れる寸前でぴたりと止めて、芽衣の瞳を覗き込んできた。
「話す気になったかい?」
「……ど、どきどきして、話せません」
 芽衣は恥ずかしさを堪え、鴎外を非難するように見返した。
「ああ、本当だ。どきどきしているね」
 すると、あろうことか、鴎外は芽衣の胸に手を置いた。
「お、鴎外さん……!」
 芽衣は、目を剥いて絶句する。
「ん? もっと速くなったようだよ。大丈夫かい?」
 鴎外はとぼけたことを言いながら、どきどきと鼓動を速める芽衣の胸に、ますます手を押しつけてきた。
「っ……!」
 胸の上をやんわりと這う手に、ぞくりと体の奥から疼きがわく。芽衣はきつく眉根を寄せて、それを抑えつけようとした。
「そう強張るものではない。」
 鴎外は、そんな芽衣の頬に、ちゅっとキスをする。
「お、鴎外さん、やめてください……と!」
 芽衣は、鴎外の手を引きはがそうと掴むが、その手はびくともしなかった。
「それで?」
 鴎外は、芽衣の胸に手を置いたまま、再度問いかけてくる。
 どきどきと鼓動の音が聞こえるかのようだった。
 芽衣は鴎外を見ていられず、そっと視線を落とす。そのとき、部屋の机の上に置いてある時計が目に入った。
(……あ)
 カチッと短針と長針が合わさる。芽衣ははっと体を起こした。
「子リスちゃん?」
 唐突な動きに驚きながらも、芽衣がまた時計を見つめていることに気づくと、鴎外は不愉快そうに眉根を寄せた。
「鴎外さん」
 芽衣は、そんな鴎外の様子に気づかず、鴎外の腕を引く。
「お誕生日、おめでとうございます」
 二月十七日になった。芽衣はそれまでの流れを一切飛ばして言った。
「えっ……」
 鴎外は、目を瞬く。
「ほら、十七日になりましたよ?」
 芽衣は、きょとんとしている鴎外が珍しくて、笑って時計を指差した。長針はすでに短針からずれている。二月十七日零時一分だ。鴎外の涼やかな瞳が、柔らかく細められた。
「お前は、これを気にしていたのか。時計ばかり見ているから、僕との時間がつまらないのかと心配になったのだよ」
「す、すみません」
「謝ることではない。僕のことを考えてくれていたのだ。とても嬉しいよ、子リスちゃん」
 鴎外は本当に幸福そうに言うと、芽衣を抱きしめた。今日はじめての優しい抱擁に、芽衣もようやく自ら身を寄せることができた。「そうだ」
 鴎外はいいことを思いついたというように、声を弾ませる。
「どうしました?」
 そういうときは、あまりいいことではないことが多いような気がして、芽衣は恐る恐る窺った。
「今日はお前を抱きしめて始まったから、今日が終わるまでお前を抱きしめていることにしよう」
「はい?」
 鴎外の提案の非現実さに、芽衣は思いきり聞き返した。
 しかし、きっと、と芽衣は思う。鴎外が決めたのだから、この腕から逃れることはできないのだろう。


おわり

 

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