誕生日ばなし(藤芽)
そっと生垣の奥の家の様子を窺うと、しんと静まり返っていた。さきほど、玄関でも呼びかけてみたのだが、応答はなかった。居留守を使われているのかとも思ったが、本当に留守のようだ。
芽衣は、きょろきょろと周りを見回してから、えいっと生垣を飛び越える。不法侵入だが、きっと大丈夫だろう。芽衣は、最近八雲みたいになっているなと思いながら、そっと縁側から上がり込んだ。
家の中には、やはり人気はない。藤田は外出中のようだ。
(誕生日なのに、どこに行ってるのかな)
帝國ホテルにいる警察官に、藤田が今日は非番だと聞いたので来たのだが、空振りだ。
(もしかして……誰かにお祝いしてもらっているのかな)
がらんとした家は寂しくて、そんな心配が湧いてくる。心に不安が広がった。それならば、これはいらないものだ。芽衣は持ってきた食材や料理、お酒を見下ろす。藤田の誕生日をお祝いしたくて、買い集めた品だった。
(……これが無駄になるのは、もったいないな)
本当は、藤田をお祝いできないかもしれないことが嫌なのに、芽衣はわざとそう思って、自分の心を誤魔化した。
(……ちょっと買い物に行ってるだけかもしれない……)
芽衣は不安を振り切るように、勢いよく荷物を抱え上げる。とにかく準備をしてしまおうと、台所に向かった。何度か出入りしている間に、使い勝手がわかり出した、勝手知ったる他人の台所だ。芽衣はその台所に入ると、自分の家のように買ってきたものを調理台の上に並べた。温めるだけでいいものから、調理をしないといけないものまでさまざまある。せっかくだから、テーブルいっぱいに料理を並べて、たくさんお祝いしたいと思ったのだ。
「よし」
芽衣は、さっそく準備にとりかかった。
そうして、料理に専念すること三十分。現代よりも作業が大変なこともあって、芽衣は、すっかり、心配と留守宅にあがりこんだことを忘れて、料理に集中していた。
「おい、何をしている」
そのため、突然、背中にかけられた低い声に、芽衣は、とび上がって驚いた。しかし、すぐに状況を思い出す。完全なる不法侵入だ。そのうえ、勝手に台所を使っている。これは何という罪なのだろう。ここまで堂々とやらかしておきながら、芽衣はどうにか逃れる術はないかと焦る頭を働かせた。
「おい。聞いているのか?」
藤田の重ねての声に、汗がどっと湧き出る。
これはもう観念して、お縄につくしかないのかもしれない。
「おい!」
藤田の大きな声とともに、芽衣の体がふわりと浮かぶ。
強制排除しようと思ったのか、藤田が背後から芽衣の腰を掴んで持ち上げていた。
(うわっ……!)
そんな方法で軽々と持ち上げられてしまって、芽衣は驚いた。
足がぶらぶらしている。この年齢になってから、こんな風に持ち上げられたことはない。まるで子どもだ。
と、そのとき、芽衣は、台所の入り口に置かれた荷物に気がついた。紫の風呂敷に包まれた、なんだか頭を下げたくなるような、立派な佇まいのものだった。
(誰かにもらったプレゼント……?)
そう思いついて、ちくりと胸が痛む。
あんなに立派なものに込められた想いは、それ相応のものに思った。いったいどんな人にもらったのだろう。
(……女の人だったら、嫌だな……)
勝手に相手を想像して落ち込み、芽衣は俯く。
あの贈り物は、大人な藤田にぴったりのように思えた。留守宅に押しかけて、勝手にお祝いの準備を始めるような芽衣とは振る舞いが違う。芽衣はまるで子どもだ。ぶらつく足に、ますますその思いが強くなる。実際、藤田から見たら、子ども以外の何物でもないだろう。
「……ごめんなさい。帰ります」
どんどんマイナス思考に傾く間に、涙がこぼれてきそうになって、芽衣は慌てて言った。これで泣いたりしたら、藤田にさらに迷惑をかけることになる。
「は?」
藤田は面食らったように、きょとんとした。藤田の驚きは当然だ。勝手に家に上がりこんで、我が物顔で台所を使った挙げ句、全てを放り出して、帰ると言うのだ。いったい何なんだ、という気にもなるだろう。
「あの、ですので、おろしてくれませんか?」
身勝手なことはわかっている。ありえないくらいに図々しい。けれど、今の芽衣の頭の中は、一刻も早く、この場から立ち去りたいということでいっぱいだった。
「はあ」
藤田は、大きくため息をついた。
「訳が分からん」
呟かれた言葉が、ぐさりと胸に刺さる。わけがわからないことをしている自覚はあるが、藤田に呆れた声で言われるのは堪えた。
「だから、藤田さん……っ!」
芽衣は、もう一度おろしてほしいと訴えようとしたが、先に藤田が動いて、芽衣を抱え直し、子どもにするように、自分の腕に芽衣を座らせた。
「ふ、藤田さん!」
自分の希望と真逆のことをされて、芽衣は慌て、抗議する。
「お前は、用があって来たのではないのか?」
藤田はその声を聞き流し、散らかっている台所を一瞥した。
「もう、いいんです」
芽衣はぷいと顔を背けた。どうして意地を張ってしまうのだろう。ここで、そうだと頷き、誕生日のお祝いをしたいのだと言えば、藤田も嫌がらないとわかっているのに、できない。拗ねた気持ちを抑えられない。
自分がどこまでも子どもなことが腹立たしくなってきた。芽衣は八つ当たり気味に、紫の風呂敷包みを睨む。
「ん? あれか? あれは……」
藤田は、芽衣の不満気な視線に気づいたが、言い淀んで目を伏せてしまった。その様子に、芽衣の中の疑惑が深まり、胸が痛くなる。やましいものなのかもしれない。そう思ったら、ここにいるのが嫌になった。きっと芽衣が祝わなくてもいいのだ。
「は、放してください! 私、帰ります! 帰るんです!」
芽衣は、藤田の腕から逃れようとじたばたと暴れる。
「っ」
「きゃっ」
不意をつかれた藤田は、よろめいて、その場に尻餅をついた。ともすれば、芽衣は放り出されてもおかしくないような体勢だったのに、藤田は芽衣を抱きしめて、衝撃を一手に引き受けてくれた。
ただ、結果として、藤田に覆いかぶさるような形になってしまい、芽衣は慌てて離れようとする。しかし、藤田はそんな芽衣を抱きしめてはなさなかった。
「……………………帰ると言うな」
「え……?」
低く囁かれて、芽衣は思わず聞き返した。
「お前が帰るべき場所は、この家だ。結婚前に住まいを一緒にするのは認められないなどと、お前の保護者気取りの男が言う上に、お前がそれを尊重したいと言うから、帝國ホテルに戻ることを見逃しているが、お前の家はここだ。間違えるな」
藤田は厳しく芽衣に注意する。そして、忌々しそうに続けた。
「あんな男と、扉一つしか隔てていない部屋で暮らすなど、今すぐやめさせたいのだけどな……」
「藤田さん……」
あの藤田がやきもちをやいてくれている。厳しい口調にも愛情を感じて、芽衣の沈んでいた心は、嬉しさにふわりと舞い上がった。
「わ、私……ホテルには戻りません……。藤田さんが許してくれるなら」
芽衣は、そっと藤田の胸に身を寄せた。本当は、いつだって帰りたくない。藤田といつまでも一緒にいたい。いつもは、藤田を困らせてしまうと思って言えない言葉が、するりと出てきた。
「っ――」
藤田が驚いたように目を見張る。
「私、藤田さんのお誕生日をお祝いしたくて来たんです。すみません、勝手にあがりこんで。でも、あの、今日はずっと一緒にいさせてくれませんか? 藤田さんと一緒にいたいんです」
芽衣は、重ねて頼み込んだ。大切な人の特別な日を、一緒に過ごしたい。そんな想いを込めて藤田を見つめる。すると、藤田は、息を吐き、芽衣を抱き寄せた。
「それは、俺がお前に頼むことだ。俺の、望みだからな。……さっき……出かけるとき、その間に、お前が来るかもしれないなどと思って、俺は庭の窓を開けておいたんだ。……馬鹿な真似をしていると思いながら」
藤田がためらいがちに告げたことに、今度は芽衣が目を見開いた。
「ば、馬鹿な真似じゃありません。私、来ましたし! それに、藤田さんがそうやって思ってくれて嬉しいです!」
誕生日に芽衣がやって来ることを期待してくれていたなんて、嬉しすぎる。はしゃぐような気持ちで、芽衣は藤田に伝えた。
「……あの、藤田さん、あれは何なんですか?」
その勢いで、芽衣は例の風呂敷包みについて聞いてみる。まだ、あれが女の人からのプレゼントの可能性は残っているが、今ならそう聞いても、少しショックを受けるくらいで済むと思ったのだ。
「ああ。あれか。あれは……梅干しだ」
「梅干し?」
今度は藤田も答えてくれた。好きな相手に贈るには、意外と渋い中身だ。
「誕生日などめでたくもないが……だが、まあ、何にせよ、節目の日だ。こういったものを買うのも悪くないだろう」
分かりづらい言い方だが、どうやら自分へのプレゼントらしい。
「紀州の名品だ」
「そ、そうでしたか」
少し自慢げな藤田に頷きながら、芽衣は力が抜ける思いだった。勝手に女の人からのプレゼントだと思って、子どもっぽい自分と比べて、落ち込んで、騒いでしまったことが恥ずかしい。藤田にも申し訳なかった。
「しかし、お前は、どうしてあれがそんなに気になる?」
「えっ……と……」
逆に藤田に問われ、芽衣は気まずくて口ごもる。
「おい?」
「…………誰かからもらったのかなと思って。……きれいな包みだったので、女の人じゃないかって……思ってしまって」
藤田に覗き込まれて、芽衣は自分だけ言わないのはよくないと思い、正直に白状した。
「妬いたのか」
藤田はからかうように聞いてくる。
「はい」
その通りだったので、芽衣は素直に頷いた。すると、藤田の方が顔を赤らめてしまう。
「そ、そうか」
藤田にそんな反応をされると、芽衣も恥ずかしくなった。同じように顔を赤くして、目を伏せる。
「そ、そういえば、料理が途中だったな」
気恥ずかしい雰囲気が漂って居たたまれなくなったのか、藤田が慌てたように立ち上がろうとした。
「藤田さん」
けれど、芽衣はまだもう少し離れてほしくなくて、とっさに藤田の腕を引く。
「なんだ?」
振り返った藤田の唇に、そっと触れる。藤田が固まった。
「…………プ、プレゼントです」
芽衣は顔を真っ赤にして、藤田から離れる。
「さ、さあ、料理の続きをしましょう?」
そして、藤田を残して立ち上がろうとするが、ぐいと腕を引かれて、再び藤田の胸の中に抱きこまれてしまった。
「ふ、藤田さん!」
自分のしでかしたことに、心臓がばくばく言っているのに、藤田に抱きしめられて、芽衣の心臓は口から飛び出してしまいそうだった。
「おとなしくしろ」
離れようとする芽衣をぎゅっと抱きしめて、藤田は芽衣の顔を引き寄せる。
息が、唇にかかる。芽衣はそっと目を閉じた。
おわり