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君といる幸せ

 午後の仕事があらかた片付いて、二人は卓を囲んで座っていた。
「師匠、はいどうぞ」
 花はお茶をいれて、孔明に差し出す。
「ありがとう」
 孔明はそれを受け取って、一口飲んだ。
 先日、芙蓉姫にお茶の美味しいいれ方を教わったからと、花は張り切ってお茶をいれてくれた。いつでも花のお茶は特別だけれど、今日は一生懸命自分のためにお茶をいれている姿がプラスされたので、孔明は上機嫌だった。
 緩みそうになる頬を引き締めながら、孔明は花を見る。
 花は自分の分を手元に置くと、そっと視線を窓の外へ流した。
 その瞳が遠い。
 何を見ているのだろう。
 孔明の心の中に、じわりと不安が広がっていく。
 今すぐどこかへ消えてしまいそうで、怖い。
 孔明は、何も言うことができなかった。この時を進めたら、花が消えてしまう。そんな気がして、息もできない。とうに覚悟を決めているのに、いざとなると失うことを恐れている。
 手の中にある花がいれてくれたお茶。それだけでない。部屋の中は、花でいっぱいだった。
 ここにはいない人なのに。
 それを分かっているはずなのに。
 孔明は、ぐっと自分の心を戒めた。鎖で縛りつけないと、花への想いは簡単に溢れてしまうから。今まで何度、自らきつく締め付けたことだろう。孔明の心は、ずっと血を流し続けている。
 そんな苦しい静寂を破ったのは、花だった。
「今日は天気がいいですね」
 そして、瞳が孔明に向けられる。
 それだけで、孔明は心の底から安堵した。
 時間が動き出す。
 けれど、本当は止まったままなのだと知っている。彼女が手の中から消えた日からずっと、置き去りにされたままなのだ。
「そうだね」
 頷きながら、強張る笑顔を誤魔化すためにお茶を飲む。
 そして、ようやく働きはじめた頭で、花の思考を読み取った。
「外に行こうか?」
「いいんですか!?」
 花はぱっと顔を輝かせる。
 ずっと部屋の中に閉じこもりきりだったから、天気の良い外に目を奪われたのだろう。そして、外に行きたいと思い、孔明に言っていいものか悩んでいた。
 冷静になれば、花の心を知るのは簡単だ。
「うん。今日はだいたい終わったし。のんびりするのも大切だよ」
 孔明はそう言ってまだ熱いお茶を飲み干すと、立ち上がる。
 そして、花の手をとって、立ち上がらせた。
「あ……」
 そんな小さなことで頬を染める花に、孔明は微笑む。しかし一方で、心の奥底がちくりと痛んだ。
 花の柔らかな手を握り締めると、ここに在ると思ってしまう。
 けれど、この温もりは幻。
 いつか還さなくてはいけないものだ。
「……君が……幸せであれば……」
 強がりではない心からの想いを、そっと口にする。
 届かなくていい。
 ただ、花をずっと想っている。
 それだけで、十分だ。
「え? 師匠、何か言いました?」
 首を傾げる花に、今度こそ孔明はいつも通りの笑顔を浮かべた。
「ううん、なにも。誰にも見つからない、いい昼寝の場所があるんだ。君には特別教えてあげるよ」
 孔明は、光に溢れた部屋の外へと花を連れ出した。

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