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光に満ち 幸に満ち

 にぎやかな宴が行われている広間を抜けて、廊下に出ると、花はほっと息を吐いた。辺りは静かで少しひんやりとしていて、火照った体と気持ちを静めてくれた。
 広い空を仰げば、星が美しく瞬いている。
 群青色の空に、まばゆい星々。
 その遥かに広く美しい夜空に、ほんのわずか胸が詰まって、涙がこみあげてきそうになる。
「こんなところで主役がぶらぶらしてちゃ駄目だろ」
 そんなとき、背中に、低く荒っぽい声がかかって、涙はひっこんだ。かけられた声は、声の主を知らなければ、このまま振り返らずに逃げ出してしまいそうなほど、柄の悪いものだった。
「晏而さん、こんばんは」
 もちろん、花は笑顔で振り返る。
 数メートル先の庭に立っているのは、予想通り晏而だ。予想外なのは、晏而が衛兵姿なことだった。
「こんばんはって、あいかわらずのんきだな、あんたは」
 晏而は呆れたように眉根を寄せている。花は少しだけ晏而に怒っていたので、そんな晏而に顔を顰め返した。
「晏而さん、探したんですよ。どうして来てくれなかったんですか?」
「すまねえ。衛兵風情には、ちょっと敷居が高いんだよ」
 花が言うと、晏而はばつが悪そうに頬を掻いた。
「大丈夫って、師匠も玄徳さんも言ってました。私は晏而さんと季翔さんにも出てほしかったです。師匠と私の結婚式」
 花は本当に残念に思っていた。
 今日は、孔明と花の婚儀の日だった。玄徳の軍師ということでたいそう盛大なものとなったが、花は、孔明と同じように、不思議な縁でつながって、今もこうしてここに共にいる晏而と季翔に参列してほしかったのだ。
 けれど、二人は来なかった。
「いいんだ、いいんだ。こうして、道士様の晴れ姿を見られたんだから」
 晏而は手を振って、花の訴えを止めさせる。
 花は素直に従って口を閉じた。約束をすっぽかされても怒りが少しだけだったのは、晏而たちが遠慮する気持ちも分かるからだ。玄徳をはじめ、偉い人たちが居並ぶ中、あまりうるさくない玄徳軍とはいえ、晏而たちは居づらいだろう。
 それに、晏而は、もしかしたら、こうして花の様子を見るために来てくれたのかもしれない。その気持ちが嬉しくて、花はそれ以上何かを言う気にはなれなかった。
「はい。どうですか?」
 花は、来てくれた礼を言う代わりに、晏而によく見えるよう手を広げて見せた。
 芙蓉が仕立ててくれた婚礼衣裳は美しい。似合っているかは別として、この衣装を着られて幸せだった。
 晏而は眩しそうに目を細めて、花を見つめる。
「綺麗じゃねえか」
 晏而の目は、まるで父親のような慈しみを湛えていた。こわい声も、とても優しく聞こえる。
「……ありがとうございます」
 晏而に謙遜したり、否定したりする気持ちは起きず、花は素直に賛辞を受け入れた。
 晏而は、心から、今日を祝ってくれている。
 なんて幸せなのだろう。
 胸がいっぱいになって、さっきひっこんだ涙がまたこみあげてきた。
「こんな時代の、こんな世だがよ。あんたの幸せを祈ってる。それで、世の中も幸せにしてくれ」
 晏而の言葉に、脳裏を、遠い遠い世界がよぎる。
 もう二度と戻ることのできない場所と大切な人たち。
 彼らに胸を張れるよう、晏而の言う通り、ここで幸せに、選んだ道をしっかりと歩いていきたい。
「はい」
 花は決意を新たにして頷いた。
「それと、あいつをよろしくな」
 あいつとはもちろん孔明のことだろう。まるで父や兄のようだ。昔から晏而と亮は奇妙な関係だったが、父であり兄であり友なのだろう。
「はい。師匠……孔明さんと、しあわせになります」
 花はそれにもしっかりと頷く。
「ああでも、あの亮に持っていかれるかあ!」
 すると、晏而は堪えきれないというように、悔しそうに天を仰いだ。
 その様がおかしくて、花は笑う。あの亮とこんなことになるとは、花も思わなかった。
「それで、あの亮に持っていかれた気分はどう?」
 そんな和やかな場に、突然、不穏な声が響いた。
「師匠!」
「げえっ」
 花と晏而は一斉に振り返って、廊下の先に孔明を見つけると、悲鳴のような声を上げた。
 孔明はつかつかとやって来る。
「おいおい、お前まで出て来ちまってどうする。主役が揃っていないなんて、なんて宴だよ」
 晏而が孔明を非難するが、逃げ腰だ。
「婚儀の夜に、新妻を口説いているのを見過ごせるわけないだろう?」
 花の隣までやって来た孔明は、花をぐいと抱き寄せた。
「わ、し、師匠」
 孔明の力強さと温かさに、花はどきどきしてしまう。
「また師匠って言ってる。孔明さんだろ?」
「す、すみません……」
 顔を近づけて注意されて、花は顔を赤くして謝った。
 何でもいいが、近すぎる。晏而の前でなくても恥ずかしい距離なのに、晏而に見られていると思うと、どんどん顔が火照ってしまった。
 そんな花の反応は想定通りなのか、孔明は楽しそうに笑っている。
「あーあーあーあー見せつけやがってよ。なんだ、お似合いだって言わせてぇのか? それともなんだ、幸せそうで何よりだ、とでも言わせてぇのかよ! 死んでも言わねえよ! お前に道士様はもったいねえっての!」
 面前で親密ぶりをアピールされた晏而は、柄の悪さを遺憾なく発揮して、孔明に向かって吠えた。
「負け惜しみも甚だしいね。早く仕事に戻ったら?」
「言われなくても戻るっつーの! 孔明様」
 わざとらしく様をつけて呼ぶと、晏而は負け犬よろしく駆け出した。しかし、数歩行って止まる。それから、振り返った晏而は、ひどく真面目な顔をしていた。
「孔明、長生きしろよ」
「なんだよ、それ」
 おしあわせにでも、道士様をよろしくでもない、はなむけの言葉に、孔明が少し憮然としている。
「道士様を悲しませるんじゃねえってことだ!」
 そんな孔明に、晏而が怒鳴った。
「ああ。そんなの当たり前じゃないか。」
 すると、孔明は、言葉通り当然といった様子で頷いた。
 相手を悲しませないように――。
(私も、孔明さんを悲しませることなんてないようにします)
 花も晏而に答えたかったが、二人の間に入るのは躊躇われて、心の中で返事をした。
 どんなときも、喜びに満ちることは難しいかもしれないけれど、困難なときには、孔明の支えとなって、孔明に支えてもらって、二人で生きていけたらいいと思う。
「わかってるならいい」
 晏而は小さく頷くと、今度こそ仕事に戻っていった。
 二人きりになって、再び静寂が広がる。
「あの……」
 花は、孔明から離れようと身じろいだ。そろそろ宴に戻らないと、芙蓉に怒られるだろう。しかし、孔明の腕は緩まなかった。
「こんな時代の、こんな世か……」
 ぽつりと、孔明が呟く。
 花は目を見開いた。
「ししょ……孔明さん、聞いてたんですか?」
「うん。晏而さん、こんばんは、から」
「最初からじゃないですか」
 それならば、早く出てくればいいのにと呆れるのと同時に、ということは、もうだいぶ長い間、新郎新婦が席を外しているということだと気づき、宴席がますます心配になった。
「だって、大切な新妻が誘惑されているように見えたから」
 孔明は花の目を探るように見てくる。
 新妻だとか誘惑だとかの慣れない単語に、花はまた恥ずかしくなった。
「そ、そんなことされません! 晏而さんですよ?」
「ああ、そうだね。晏而だもんね」
 花が恥ずかしさを吹き飛ばすために強く抗議すると、孔明は笑いながら頷いた。
 その態度が軽く感じられ、きちんと気持ちを受け止めてもらえているのか不満で、花は言う。
「私が好きなのは孔明さんです」
 孔明は一瞬目を瞠りながらも、すぐに笑った。
「うん。そうだね。ボクも好きだよ」
 自分が言う分には勢いもあってさらりと言えたが、孔明に言われるとくすぐったい。
 そして、とても幸せで、満ちる。
 孔明も、同じように幸せに思ってくれていると嬉しいと思って、花は孔明を窺った。しかし、それは、孔明が強く抱きしめてきたために果たせなかった。けれど、その抱擁が答えのように思う。花もその背中に腕を回して、孔明の体を抱きしめた。
「花。ボク、長生きするよ」
 孔明がしてくれる約束は、きっと果たされる。
 花は頷いた。
「お願いします。私も長生きしますね」
「うん、そうしてくれると嬉しいな」
 花と孔明は顔を見合わせると、笑い合った。

 ふたりの上にはきらきらと金の星。


 健やかなときも病めるときも、共に。
 きっと、この道は、光に満ち幸に満ちて輝くだろう。

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