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乙女の覚悟

「師匠!」
 花は、廊下の先に目当ての孔明を見つけて、呼び止めた。
 振り返ったところを、首を伸ばして、唇を掠め取る。
 柔らかな唇の感触。驚いたように見開かれる孔明の瞳。
 花はぎゅっと目をつぶって、突き飛ばすように孔明から離れた。
 とんでもないことをしたと分かっている。それでも、今日は覚悟を決めて、孔明を探していたのだ。
 孔明は、思い出したようにしか触れてこない。キスも片手で足りるほどしかしていなかった。そして、最後のキスは日にちを思い出せないほど昔のことだ。
 触れたときの、胸が締め付けられるような、甘く蕩けるような、あの幸せな一瞬が忘れがたくて、日々孔明が触れてくれないだろうかと期待していた。けれど、孔明はさっぱりそんな素振りを見せず、むしろ花に触れるのを避けているかのようだった。
 だから、花は強行手段に出たのだ。孔明に触れたいという気持ちを、おさえることができなかった。
 はしたないとか恥ずかしいとかそういった気持ちはもちろんあったが、それよりも強く触れたいと思った。
(かなも、自分からすることもあるって言ってたし……)
 花は、自分への言い訳を心の中で呟く。
 だが、初めて自分からしたキスは、あまりに緊張し過ぎて、なんだか分からなかった。
 それに、孔明の反応など見られるはずがない。恥ずかしいのと、怖いのとで胸がドキドキしていた。花は、そのまま回れ右をして、逃げ去ろうとする。
 しかし、孔明はそんなに甘くなかった。
「待ちなさい」
 ぐいっと襟首を掴まれて、引き戻される。
「……ほんとに、人の努力も知らないで」
 孔明の声からは、感情が消えていた。
 花は青ざめ、後悔する。そして、いまさらながら、この世界が、元の世界と違うことを思い出した。女性はより貞淑であることを求められているのだ。それを忘れて、自分からキスをするなんて、馬鹿だった。
 自己嫌悪に苛まれていた花は、ふと、周りが暗くなったことに気づいて、わずかに視線を上げる。いつのまにか孔明に壁に押し付けられるように押さえ込まれていた。
「? ししょ……っ!」
 いったい何事かと問おうとした花の唇に、孔明の唇が重なる。
 柔らかな感触に、花はびっくりした。
 どうしてキスをされているのか。怒ったのではないのか。呆れたのではないか。
 孔明の意図が見えなくて、花は混乱した。
 そんな花の口の中に、するりと舌が入ってくる。
「!」
 花は驚愕に目を見開いた。
 孔明の舌が口の中で蠢いている。まるで息を奪うような荒い口づけは初めてで、頭の中が真っ白になった。そのうえ、孔明の手がゆっくりと腰を撫でていて、体の芯からむずがゆいような、熱いものがじんわり広がっていく。
 その熱の正体を知らない花は、戸惑い、不安に感じた。ただそれから逃れたくて、身を捩る。しかし、拘束する力は強く、びくともしなかった。
「っ…………やっ!」
 花は小さく悲鳴を上げる。
 孔明が、唇を離れ、首筋に吸いついたのだ。強く吸われて、ぞくりと体が震える。
 立っていられなくてすがりつく花を、ゆっくりと廊下に座らせて、孔明はにっこり笑った。
「こういうことされる覚悟があるなら、次もやってごらん」
 じんじんと疼く首に手をあて、花は自分の浅はかさを心から反省した。

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