とある君主の不幸な午後
「花、好きだよ」
孔明の手が、そっと花の頬にかかる髪を摘む。
花は顔を赤らめて、固まった。孔明は椅子に座り、花はその膝の間に立っているため、身動きがとれない。それに、孔明からの告白という珍しいことに、下から覗き込まれるという、いつもと違う要素が加わって、花の頭は現状を処理しきれていなかった。
「花も好きって言って」
孔明は甘えるように、花の首に手を回す。
花はますます固まった。
「で、軍師様はどうされたいんでしょうかね」
二人の甘い空気を遠慮なくぶち壊したのは、しかめっつらの晏而だった。
もちろん、今入ってきたのではなく、ずっと部屋の中にいた。玄徳の用を預かって、孔明の執務室を訪れたのだが、花が晏而にばかり構うので、孔明がしびれを切らした結果がこれだった。
「分かってるくせに」
孔明は、花を抱き寄せながら、ちらと晏而を見る。
「俺に出て行ってもらって、弟子と二人きりになりたいって?」
「正解」
死んでも出て行かない、と言いたくなるような笑顔だったが、晏而はぐっと堪えた。
孔明には逆らわない方が身のためだ。
特に、花絡みは。
孔明の腕の中の花を見る。顔はよく見えないが、真っ赤になっていることだろう。恥ずかしがっている顔も可愛いだろうな、と晏而はわずかに顔をにやけさせた。
「見るな」
晏而の視線に気づいて、孔明は隠すように花をさらに抱き寄せる。
晏而は、頬をひくと引き攣らせた。
まるで子供のような言い方だ。そう思ったら、脳裏に少年の頃のませた顔が蘇った。十年前も気に入らなかったが、やはり今も気に入らない。特に、自分だけちゃっかり花を手に入れるあたりがまったくもって気に入らなかった。
「ガキ」
「早く家に帰ったら? お父さん」
「っぐ」
せめて一太刀と振るった太刀は、さらりとかわされ、倍以上鋭い太刀が襲ってくる。諸葛孔明の本領だ。いつも一番痛いところを的確についてくる。小さい頃から可愛げはなかったが、本当にたちの悪い大人になってしまった。
「とにかく、俺は伝えたからなっ」
これ以上は部屋にいられない。いたくない。晏而は捨て台詞をはいて、部屋を飛び出した。
しかし、数歩行って足を止める。
さきほどのことは、晏而を追い払うための芝居とは分かっているが、それにしても良い雰囲気だった。
もしかしたら、このまま 。
晏而はごくりと生唾を飲みこむ。
花のかわいい声が聞けるか。
晏而の心に、邪な考えが浮かんだ。そろりと足が音を立てないよう方向を変える。
「ああ、晏而」
そこに、背中から声をかけられて、晏而は飛び上がった。
「うわぁぁ! 驚かすな! ……って、げ、玄徳様!」
「わ、悪かった」
振り向きながら怒鳴った晏而は、そこに立つ玄徳を見て青ざめた。
「す、すみません!」
慌てて廊下にはいつくばって、頭を下げる。
晏而たちが従うのは、花であるが、その花の主である玄徳は、当然晏而にとっても主だ。怒鳴りつけていい相手ではない。その場で斬られても仕方ないくらいだ。
「いや、俺が悪かった。すまん」
それなのに、玄徳は晏而を責めるどころか反省して謝ってくる。
「い、いいえ、本当に申し訳ありません」
額を床にこすりつける晏而に、玄徳は困った顔をしてその傍らに膝をついた。
「晏而、顔を上げてくれ。なあ、さっきの件だが、孔明には伝えてくれたか?」
「は、はい。ただ返事はいただけていませんが」
わずかに顔を上げて、晏而は答える。
「そうか。じゃあ、ちょうど良かったな。客が意外と早く帰って、時間ができたんだ。お前に使い走りさせて申し訳なかったが、直接話をしようと思って来た」
「さ、左様ですか って、玄徳様!?」
すたすたと遠ざかる玄徳の足音に、晏而ははっと顔を上げた。
「孔明、俺だ。入るぞ」
玄徳はノックもそこそこに、戸に手をかけている。
「玄徳様っ、今はまずいっ!」
晏而が声は一歩遅かった。
部屋の中から、どすん、どすん、となにやらひどい物音が上がる。
「し、師匠の馬鹿!」
続いて、花の可愛い悲鳴。
「わ、す、すまない!」
そして、うろたえて戸を素早く閉める玄徳。その顔は一瞬にして真っ赤になっている。
何を見たんだろう、と晏而が玄徳を少しだけ羨ましく思ったのは、孔明には絶対に内緒だった。