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猫100匹

 

「なるほど」
「はい…………」
 書庫の中には、心から納得したように頷く玄徳と、彼の前で項垂れるように頭を縦に振る花がいた。
「ほんと、すみません」
 花は深く深く頭を下げる。
「いや、大丈夫だ」
 そんな花に、玄徳は優しく
 その手がいつものようにぽんぽんと花の頭を撫でる。
 花はほっとしたようにわずかに笑顔を見せた。
「何の話かお伺いしてもよろしいですか?」
 温かな雰囲気に包まれた書庫に、ひとつの細い影が伸びた。
「孔明」
「師匠」
 玄徳と花は同時に振り返って、気まずそうに声を上げる。やましいことは何もしていないのに、落ち着かない気持ちになるのはなぜだろう。
 孔明から発せられる異様なぴりっとした空気に、玄徳ですら緊張した。花はすでに固まっている。
 と、玄徳は、孔明の視線が集中しているのが己の手だと気づいた。
「あっ、と、すまん」
 慌てて花から手を外す。
「あ、いや、大した話じゃないんだ」
 孔明が不機嫌なのだと気づいた玄徳は、すぐに孔明の疑惑を払拭しようとするが、言葉の選択を誤った。
「その大した話ではない話を聞きたいのですが……」
 孔明の笑顔がいっそう晴れやかなものになる。
 はじめて触れる孔明の不穏な空気に、玄徳の頭は完全に停止してしまった。
「あ、わ、私がいけないんです!」
 このままでは玄徳が死んでしまうと花は急いで二人の間に割って入る。孔明の瞳が説明を求めて花に移った。その瞳だけ笑っていない笑顔をまともに見て、花はごくりと唾を飲む。だが、ここできちんとした説明をしなければ玄徳の二の舞だ。
「玄徳さんから借りた本を間違えて子龍さんに貸してしまって、たまたまその本を探していた雲長さんに子龍さんが渡したら、翼徳さんが部屋から持っていって、そのあと書庫に入れておいたって言うんですけど……」
 まるで作り話のような本当の話だった。勘違いなどが重なって、結局行方知れずになってしまったのだ。
「どこにいったか分からなくなったてこと?」
 その話を一応信じたのか、孔明は疑うような言葉は吐かずに聞いた。
「はい」
 花は肩を落として頷く。玄徳から借りた本と自分の本の装丁が似ていて、間違えて渡してしまった花のミスから始まったことだ。
 玄徳は笑って許してくれているが申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「うーん。もしかして、これ?」
 孔明はまっすぐ奥の書棚に向かっていくと、迷いもせず一冊の本を抜き出した。
 それはまさに、花が探していた本だった。
「こ、これです! どうして師匠、知ってるんですか!?」
 その本に飛びついて、花は目を丸くする。
 孔明には本のタイトルもどんな本かも説明していない。それに、花は一人で半日ほど、玄徳と一緒に小一時間ほど探しても見つけられずにいた。
 まるで魔法のようだ。
「この間から見たことのない本があるなと思ってたんだよね。玄徳様の本でしたか」
 孔明はすっきりした顔で、玄徳に本を渡す。
 しかし、花はますます驚いた。
「見たことのない本って……この書庫の本、どこに何があるか把握しているんですか?」
「もちろん。雲長殿らしく、きちんと整理された書庫で助かるよ」
 孔明はなんでもないことのように言うが、この書庫はとても立派で、花の高校の図書室より広かった。中は、図書室のように規則正しく本棚が並び、壁も扉以外はすべて書棚になっている。蔵書は竹簡も含めて数え切れないほどだ。
 その蔵書を位置まですべて把握し、増減が分かるなど、普通のことではない。
 やっぱり師匠は頭がいいんだ、と花は感服した。
「それではもう用は済みましたね」
「あ、ああ」
 孔明は二人の背を押すようにして、書庫から外に出て、扉をきっちりと閉める。
「花、頼みたいことがあるから、あとで執務室に来て。ボクはちょっと寄るところがあるから先に行くけど……」
 孔明はそこで言葉を区切って、ちらりと玄徳を見る。
「必ず来るように」
 それからまた花に視線を戻してそう言った。あの一瞥は、一瞬だったが、玄徳には十分すぎるほど言いたいことが伝わった。
「……はい」
 花に拒否権はなかった。
 孔明が去ると、二人は同時に大きく息を吐いた。
「…………あいつ、猫かぶってたんだな」
 玄徳がぽつりと呟く。
「はい。師匠は猫をたくさん引き連れてるんです」
「ああ……なるほど」
 二人の脳裏には、無数の猫を指揮する孔明の姿が浮かんでいた。

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