孔花読本
夏口の城では、孔明を歓迎する宴が開かれていた。
「ちょっと、誰か花にお酒飲ませたの?」
賑やかな宴席を裂くように、芙蓉が怒気をはらんだ声を上げる。
「ん? ああ……」
その声に視線を投げた玄徳は、芙蓉の怒りの理由を見て取って頷いた。
芙蓉の隣で花が床に丸くなって眠っている。
そのあどけない寝顔に、玄徳の顔も緩んだが、じろりと芙蓉に容赦なく睨まれて、慌てて顔を引き締めた。
「雲長、花を部屋まで連れて行ってくれないか?」
玄徳は、隣にいた素面と変わらない雲長に声をかける。
「はい」
雲長はすぐに立ち上がろうとするが、それを芙蓉が制した。
「だーれが、雲長殿に。そんな辛気臭い顔で運ばれたら、花がかわいそう」
「しっ……」
芙蓉も少し酔っているようで、いつも以上に遠慮がない。花の前に仁王立ちになって、雲長を近づかせまいと腕を横にまっすぐ伸ばした。
「それに、力仕事は翼徳殿の仕事でしょう?」
芙蓉は、翼徳を探して部屋の中に視線を巡らせる。しかし、その瞳が翼徳を見つけたとき、一瞬にして落胆の色を浮かべた。
「――って、問題外だわ」
翼徳は部屋の隅で倒れていた。宴はまだ半ばだったが、完全に潰れている。もしかしたら、彼の部下が早々に酒をたくさん飲ませてノックアウトさせたのかもしれない。
使えない翼徳に、芙蓉は舌打ちをした。
「仕方ないな。俺が運ぼう」
玄徳は、芙蓉がどうにも収まらないのを見て、腰を上げる。
しかし、そこは、芙蓉も臣下の礼を失してはいなかった。
「玄徳様のお手を煩わせるわけにはまいりませんわ!」
「あ、ああ……じゃあ、どうする?」
芙蓉の剣幕に気おされて、玄徳はすぐに手を引っ込める。少々残念に思ったことは、芙蓉には内緒だ。今の芙蓉に逆らったら何をされるか分からない。
しかし、雲長も駄目、翼徳も駄目、玄徳も駄目では、どうしようもない。いくら芙蓉が武術自慢だからといって、花を運べる力はないだろう。
玄徳はどうしたものかと部屋を見回して、ぴったりの人物を見つけた。
宴席に加わらず、部屋の隅で静かに待機している子龍だ。芙蓉も納得するだろう。
「子龍、花を頼めるか?」
玄徳が声をかけると、子龍が眉一つ動かさず頭を下げた。
「はい。承知いたしました」
今度は芙蓉も異論を唱えなかった。
「私も一緒に行くわ」
軽々と花を抱えて部屋を出て行く子龍の後を追いかけて、芙蓉も出て行った。
「ああ、すまんな、孔明」
玄徳はすっかり蚊帳の外となっていた主賓の孔明に気づいて謝る。
孔明はじっと花たちが消えた方を、厳しい顔で見つめていたが、玄徳を振り返ったときは、いつもの食えない笑顔だった。
「いいえ、不肖の弟子が、みなさんにご迷惑をおかけしまして」
「いいや。花はよくやってくれている。軍の皆からの信頼も厚い。それに最近はどうも人気が高いらしくてな。花を娶りたいと名乗りを上げてくる始末で」
玄徳がぼやくように言ったとき、ぱりんと何かが割れる音がした。
見れば、孔明の手に握られていた杯が粉々に砕けている。
「こ、孔明!?」
玄徳は驚いて、腰を浮かせた。
しかし、当の本人はいつも通りに笑って、手を払う。幸いひどい怪我はないようだが、ところどころ軽く血が流れている。
「ああ、これは驚きました。杯がひとりでに割れるなど奇異なこともあるものですね」
孔明は朗らかに笑って手を布巾で拭う。
「あ、ああ……」
明らかに孔明が割ったように見えたが、杯がひとりでに割れたことにしなければならない空気を感じ取って、玄徳は無理矢理頷いた。
「ま、まあ、俺も、身寄りを作るなら結婚が一番だとは思うんだが、生半可な奴に花を任せられんし、何より本人の気持ちが大切だからな」
「そうですね」
続けた言葉に、孔明の同意を得たのにほっとして、玄徳はさらに続けてしまう。
「考える策は一流なのに、普段は少し頼りないところが可愛いんだろうな。花はまだ幼いところがあるからな」
まるで保護者のように言って、顎をさする玄徳の見えないところで、孔明は苦虫を潰したような顔で呟いた。
「本当に、まったくね」
その声はとても不機嫌そうだったが、誰の耳にも届くことはなかった。
「玄徳さん、おはようございます。花です」
翌日、花は玄徳に呼ばれて彼の私室を訪れていた。朝からの呼び出しに少し緊張する。昨夜は孔明の歓迎会だったのに、途中から記憶がない。気づいたら、きちんと夜着を着て、寝台の中にいた。
酒を飲んだわけではなく、疲れがたまっていて限界だったのだ。特使として仲謀軍に出向いてからずっと、気を張っていた。ようやく、玄徳軍に戻ってこられて、馴染んだ人たちの中で、ほっとしたのだろう。
「ああ、入ってくれ」
玄徳の声に、花は扉を開ける。
中では、玄徳が編み物をしている最中だったようで、一区切りつけてから顔を上げた。花を見ると優しい瞳がさらに柔らかくなる。
「おはよう。具合はどうだ? 昨日は疲れが出たか?」
自分のそばに手招きする玄徳に従って、花はその隣に座った。
「はい。昨日はすみませんでした。私……寝ちゃったみたいで」
花は恥ずかしくて目を伏せる。いくら疲れていたとはいえ、宴席で寝果てるなどみっともない。
玄徳は、そんな花に笑って頭を撫でた。
「芙蓉と子龍に礼を言うんだな。子龍が部屋まで連れていって、芙蓉が介抱していたから」
「そ、そうなんですか……」
侍女の誰かが世話をしてくれたと思っていた花は、恐縮して身を小さくした。芙蓉はまだいいけれど、子龍は呆れていることだろう。顔を合わせづらいが、あとで礼を言わないといけない。
「あ、あの……それで、お話というのは……私の具合のことですか?」
花は気を取り直して聞いた。朝、侍女から玄徳に呼ばれているといわれて、部屋を訪れたのだ。
「ああ、そうだった。今しか時間が取れなくてな。すまんな、朝から呼び出して」
「いいえ」
謝る玄徳に、花はすぐ首を横に振る。
「孔明が仕官をしてくれたが、花、お前にも今まで通り軍にいてほしい。お前が戦を好まないことは分かっているが、お前の力も貸してほしいんだ」
あらためてこういった話をする玄徳の誠実さに、花は胸が熱くなった。玄徳のこういうところについていきたくなる。力になりたいと思うのだ。雲長たちの気持ちがよく分かる。
「はい」
迷うことはない。玄徳に力を貸して、この世界を平和にすると決めた。それは亮くんとの約束でもある。
花がきっぱりと頷くと、玄徳は嬉しそうに目を細めた。それを見て、花も嬉しくなる。
「そうしたら、これから花には、孔明の下で働いてもらいたいんだが、いいか?」
「は、はい!」
花は、ぱっと顔を輝かせて頷いた。
「師匠と一緒は嬉しいか?」
その素直な反応に、玄徳もつい笑みを漏らしてしまう。
「はい。勉強になりますから」
花は大きく頷いた。これまでもずっと、孔明に導かれてきた。本が手元にないときも、孔明の助言で切り抜けられた。だから、孔明がそばにいてくれることは、とても心強かった。
「そうか……まあ、明日からでいいから、今日はゆっくりするといい」
玄徳は昨夜の孔明の様子を思い出して、少し複雑な気分になる。
孔明と花では温度差があるようだ。孔明は、師匠と弟子以上の感情を抱いているように見えたが、うまくやっていけるだろうか。
しかし、玄徳の心配をよそに、花はこれからのことに思いを馳せて気分が上がった。その勢いで、玄徳の手元に視線を向ける。
「今度は何を作っているんですか?」
「ああ、これか。翼徳にせがまれてな。あいつの槍につけるものを作っているんだが。このあとの色が決まらなくてなあ」
玄徳は悩ましげに編んでいたものを見つめ、うーんと唸る。それから、花を振り返って聞いた。
「花は何がいいと思う?」
「そうですね……紫色ならはえるんじゃないでしょうか?」
「そうだな。そうしようか」
二人であれこれと糸を取り出して、どの紫色が良いかと話していると、戸を叩く音がそれを中断させた。
「玄徳様、孔明です」
続いて孔明の声がかかる。
「ん? ああ、入ってくれ」
玄徳は手を止めて、孔明に応じた。
「失礼します。……あ、花もいたの」
部屋に入ってきた孔明は、玄徳の隣に座っている花を見て、意外そうな顔をする。
「お、おはようございます、師匠」
朝から孔明の姿を見るというのが不思議な気分だったが、とりあえず花は挨拶をした。
「うん、おはよう」
孔明からも挨拶が返ってくる。これはこれで奇妙な感じだ。今まで神出鬼没で、時間も場所も選ばずに現れては消えていた師匠だけに、普通の生活が思い浮かばない。しかし、玄徳に仕官したのだから、この城で暮らすのだろうし、このように朝会ったりするのも当然のことになるのだろう。
「それじゃあ、私は失礼します」
真面目な話が始まると思って、花はすぐに腰を上げた。
「ああ。ありがとうな」
「は、はい」
玄徳ににっこりと微笑まれ、花は少し頬を赤らめて部屋を出た。
花は玄徳の部屋を出た足でまっすぐ子龍のもとに向かう。御礼を言うなら早い方がいいと思ったのだ。
子龍は厩にいた。
「子龍さん、おはようございます」
「おはようございます」
馬の毛を梳いている子龍に声をかけると、子龍は手を止めて丁寧に挨拶を返した。
「昨日はありがとうございました。……すみません、部屋まで運んでもらったみたいで」
「いえ。玄徳様のご命令でしたし」
子龍はいつも通りの淡々とした口調で、首を振る。特に呆れられてはいないようで、花はほっとした。
「あの、私も手伝います」
孔明のもとに行くのは明日からだから、今日は一日時間が空いている。
いつも子龍には乗馬を教えてもらっているので、その御礼も兼ねて何かしたかった。
「あ、ああ、いえ、もうだいたい終わりましたから。お気持ちだけ頂戴いたします」
子龍は普段は見せない柔らかい表情で、花に言う。
「それより、花殿。時間があるなら、馬に乗っていかれますか?」
「え? でも、子龍さん、これから鍛錬じゃ?」
「いえ。今日は時間がありますから……」
遠慮する花に、子龍が首を振りかけたときだった。子龍の視線が一点に定まる。
「孔明殿」
驚いたような子龍の声に、花もびっくりして振り返った。
厩舎の入り口に、孔明が立っている。あまりに似合わない光景に、子龍も花も言葉が出てこなかった。
「花。ここにいたのか」
孔明はにこにこと、そんな二人のもとにやって来る。
「師匠、どうしたんですか?」
どうやら探されていたらしいと知って、花は首を傾げた。孔明のもとで働くのは明日からだったはずだ。
「うん、ちょっと一緒に来てくれるかな」
「は、はい」
玄徳に明日からと言われているとはいえ、何か仕事があるのならそちらを優先しないといけないだろう。乗馬の練習もしたかったが、花は諦めて子龍に頭を下げた。
「子龍さん、すみません。また今度」
「はい。いつでもお声がけください」
子龍は気分を害した様子もなく、少しだけ微笑んで見送ってくれた。
「師匠、何かあったんですか?」
厩舎を出ながら、花は孔明に尋ねる。
「うん、ちょっと」
孔明は詳しく説明せず、少し早足で厩舎を離れた。花は置いていかれないように大股でついていく。
そうして孔明と連れ立って廊下を歩いていると、後ろから軽快な足音が駆け寄ってきた。
花が何事だろうと思っている間に、どんと背中に衝撃を受ける。
「花! 果物あげる!」
背後から抱きついてきたのは翼徳で、花の目の前に果物を差し出していた。
「わ、翼徳さん。すごいですね」
翼徳の大きな手の中には、おいしそうな果物がたくさんあって、花は思わず目を輝かせる。
「だろう? 俺さあ、昨日途中で寝ちゃって、ごちそう食べ損ねちゃったから。花は? いっぱい食べた?」
「私も、寝ちゃいました」
「俺とおんなじだね」
「そうですね」
二人はふふ、と笑いあう。
「翼徳殿、なにか急がれていたようでしたが、用件はそれだけですか?」
孔明がにこやかに二人の間に割って入る。表情も声も和やかなのに、花も翼徳もなぜか背筋が冷えた。
「あ、そ、そうだ。雲長兄が呼んでたよ? おれ、伝えてくれって頼まれてたんだっけ」
「雲長さんが?」
「うん。孔明にもこれあげる。じゃあね」
翼徳は孔明の手の中にも果物を押しつけて、そそくさといなくなってしまった。
「師匠、すみません、行ってきてもいいですか?」
「うん。先に済ませてしまおう」
一人で行こうと思ったら、孔明もついてくる様子だったので、そのまま二人で、雲長が待つ台所へ向かう。
「遅くなってすみません、雲長さん」
中に入りながら声をかけると、洗いものをしていた雲長がゆっくりと振り返った。
「いや、どうせ翼徳が伝えるのを忘れていたんだろう……ああ、孔明殿も一緒か」
雲長は、孔明を見て、少し驚いたように目を大きくする。
「呼んでるって聞いたんですけど、何かありました?」
「ああ。お前の味覚は俺に近い。ちょっとこの味をみてくれるか?」
雲長は、ちらちらと孔明を気にしながらも、新作らしい料理を花の前に差し出した。
「うわあ、プリン!」
花はそれを見るなり歓声を上げた。それは、紛れもなくプリンだった。まさかこちらの世界で食べられようとは思ってもいなかったので、感激だ。
「ぷりん?」
「あ、私の国のプリンというお菓子に似ていたので」
「そうか。なら、プリンと呼ぶことにするか」
雲長の創作料理だったらしく、プリンという名に決まってしまった。
「なんだか翼徳さんに申し訳ないですね」
翼徳は用事の中身を知らない様子だった。雲長が新作のお菓子を作っていたと知ったら、悔しがるに違いない。
「あいつは何を食ってもうまいしか言わないから、参考にならん」
「確かに」
花は笑いながらプリンを口にする。
「甘いものばかり食べていると太るよ」
孔明はプリンを口に運ぶ花をじっと見て、不吉なことを言った。
「!」
花はどきりとする。翼徳からは果物をもらって、雲長からはお菓子をもらって、確かに高カロリーのものばかりだ。
「ああ、でも、君はもうすこしふくよかになった方がいいかもね」
孔明の瞳が悪戯っぽく光ったと思ったら、次の瞬間、孔明に抱きしめられていた。
「こうして抱きしめたとき、抱き心地がよくなるからね」
「し、師匠!」
いつも通りのスキンシップでも、人の見ている前では恥ずかしくて、花はすぐさま抗議する。
しかし、孔明は歯牙にもかけず、そのままちらりと雲長を見た。
「ねえ? 雲長殿」
雲長は、孔明の視線に言外のことを感じ取る。敵に回してはいけない存在だと、雲長は一瞬にして判断した。
「忙しいところ呼びつけてすまなかったな。もういいぞ」
「え? で、でも……」
まだ一口しか食べていないうえに、感想も言っていない。
戸惑う花に、雲長は残りのプリンを包んで花の手の中に押し込んだ。
「部屋に持っていけばいい」
雲長に追い出されるように台所を出て、花は首を捻る。いったい雲長はどうしてしまったのだろう。
「さすが関雲長、といったところかな」
「師匠?」
台所を出ると、孔明は少しだけ後ろを振り返り、楽しそうに笑った。
「あ、いたいた、花!」
今度こそ孔明の部屋に向かおうとしたところで、芙蓉に呼び止められる。
「芙蓉姫。昨日はありがとうございました」
「そんなこといいのよ。疲れてたんでしょう? 私こそ気づかないでごめんなさい。それより今時間ある?」
「え?」
「街に買い物に行くの、付き合ってくれない?」
「あ、その……」
芙蓉の誘いは魅力的だったが、孔明も何か用があるはずだ。花は、孔明をちらと見た。
「花は疲れているって、芙蓉姫ご自身も仰ったように思いますが?」
孔明はにこやかに芙蓉の矛盾を突く。
「私は孔明殿じゃなくて、花に聞いているし、誘っているんですが?」
芙蓉はその陰険さに、不快感を露にした。
二人の間に火花が散る。
「あー疲れたー」
すると、孔明は突然そう言って、花に抱きついた。
「し、師匠!!?」
花は焦って、慌てて孔明を引き離そうとする。けれど、孔明の力は意外に強く、びくともしなかった。
「僕、知らないひとたちの間で疲れちゃった。花、明日からのことについて、僕の部屋で話したいんだけど」
「は、はい」
孔明に離すつもりがないと感じた花は、とにかく芙蓉の前から逃げ出したくて必死に頷いた。
「というわけで、芙蓉姫、買い物はまた今度」
ひらひらと手を振って、花を連れ去る孔明に、芙蓉は口の端を引き攣らせる。
「タチの悪いのが入ったわ」
ぼそりと呟いた芙蓉は、顔を顰めて二人を見送った。
ようやく孔明の部屋に落ち着いて、二人でお茶を飲む。卓の上には、翼徳からもらった果物と雲長からもらったプリンが並べられていた。
「君はいつもこんな感じなの?」
「は、はい……?」
なんとなく、孔明の機嫌が悪いように感じて、花は言葉尻も弱く頷く。「いつもこんな感じ」が指すものが、朝からのみんなとのことだとしたら、その通りだ。
孔明は深くため息をついて、頬杖をついた。その物憂げな顔に、花は不安になる。
「……そういえば、周公瑾、孫仲謀も……いや曹孟徳だって…………」
ぶつぶつと呟く声は低く速く、花には知っている人たちの名前しか拾えなかった。
「あの頃は晏而だけだったのに……」
しまいには、卓に突っ伏してしまう孔明に、花は心配になる。
「し、師匠?」
「なんでもないよ。ちょっとこれまでとこれからについて頭が痛かっただけ」
孔明は、もう一度大きくため息をついて、目を閉じた。