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Category: 恋戦記

恋し愛し

 

 愛しい。
 愛しい。

 君の手を握り、目を閉じる。
 眠りにつく不安はほんの少し。
 心の底にこびりついた不安のかけらがまだしつこく残っている。
 目覚めたときに、君はいるだろうか。
 目が覚めたら、「ここ」だろうか。
 君はここにいていいのだろうか。
 自己不信が胸を刺す。
 苦しいほどに恋しい。
「花」
 そっと囁いて、その肩を抱き寄せる。そして、その少女らしい柔らかな肢体を抱きしめた。
 腕の中に愛しい少女を抱く喜びと不安。それらが混じって、胸に染みていく。
 気持ちよさそうに眠る花から返事はない。
 少しためらってから、その薄く開いた唇に、素早くかすかに触れる。
 想うごとに愛しく、触れるごとに恋しい。
 君を手に入れられるのはいつだろう。
 この心が満ちるのはいつだろう。


 恋しい。
 愛(かな)しい。

夢の中の君

 長椅子の上に体を伸ばして、孔明が寝ている。
 このままでは風邪を引いてしまうだろうと思い、花は毛布をかけた。
 そして、再び自分の椅子に戻ろうとしたところで、手を掴まれる。
「花」
「師匠、寝てなかったんですか?」
「ううん。寝てたよ」
 ぱっちりと開いた孔明の目は、全く眠気がない。
 狸寝入りだったのかと少し憤慨すると、孔明は心外そうに首を振った。
「ねえ、花。好きだよ」
 唐突な告白に、花の思考回路は停止する。
 孔明は、まっすぐに花を見つめていた。
 混乱する。
「ど、どうしたんですか、師匠」
「師匠じゃないでしょ」
 孔明の両の腕が伸びて、肩にかかった。まるでぶらさがるような姿勢で、強請るように見つめられる。
「こ、孔明さん……?」
「うん、よくできました」
 孔明は嬉しそうに笑うと、腕に力を込めて、花を長椅子の上にひきずりこんだ。
「こ、孔明さん!」
 慌てる花をよそに、孔明はがっちりと花を抱きしめて、その首筋に顔を埋める。花は固まった。孔明の髪が喉元をくすぐる。首に息がかかる。唇が触れる。
「花、すき……」
 孔明はまるで子供のような声でそう呟いた。
 どきどきと花の鼓動が速まる。いつにない甘い囁きと熱い抱擁が嬉しくないわけがない。孔明の手に任せてしまおうと、花の体から力が抜けかかる。
 けれど、視界の端に戸を捉えて、花は一気に我に返った。戸には鍵がかかっていない。人が入ってきたら大変だ。
 「孔明さん、離して、ください」
 花は孔明の拘束を解こうと身をよじるが、孔明の腕はしっかりと体に絡みついて逃げられなかった。
「? 孔明さん……?」
 しかし、そのとき、花の耳は、すーすーという安らかな寝息を拾った。
 見れば、孔明は再び目を閉じている。そして、完全に寝ている。
 その意外と幼い寝顔に、花はため息をついた。

混乱

 戻りたい、と言う不安げな、頼りない声。
 これはどういうことだろう。
 頭は混乱しているのに、それでも、彼女に必要なものに導くために口は勝手に動く。
 彼女の姿はあのときのままだ。いや、少し幼くも見える。不安がそのまま顔に表れている。素直なのだ。
 10年前と変わらず。
 いや、と、何の証も得ていないのに、目の前の少女が「彼女」であると考える己に首を振る。
 彼女は「彼女」なのだろうか。
 それは分からない。けれど、分かってしまう。
 この少女は、「彼女」だ。

 花。

 ボクは君と出会って、君はボクと出会って。

「師匠」
 と、彼女の声が聞こえる。
 その柔らかな声音に、幼いながらも軽く嫉妬を覚えたものだ。
 彼女は、自分を導いてくれたという師匠を、とても尊敬していた。
 どくん、と心臓が大きく脈打つ。
 師匠とは誰のことだ。
 まさか。
 いや。

 彼女は、今、ここに現れた。

 あのときのように、突如として。
 そして、あのときと同じように消えるのだろう。


 ああ、天よ。
 ボクが彼女の師だなんて、残酷すぎやしまいか。


 花。



 心が爆ぜてしまいそうだ。

遠雷

 遠くで、空が轟いた。一瞬、閃く稲妻。雷だ。
 花は体を強張らせた。
 雷は苦手だった。
 できれば遠くに行ってほしかったが、音はどんどん近づいてくる。
 あちらの世界にいたときは、家族の誰かにくっついて、雷が過ぎるのを待った。でも、今は、そんなことをできる相手はいない。一人ぼっちで船に揺られている。
 花は、せめてもと寝台の上で膝を抱えて、シーツを頭から被った。
「花?」
 そのとき、灯が室内に差し込まれ、孔明が顔を覗かせた。
 花は、はっと顔を上げる。
「し、しょう……」
 びっくりした。誰かに来てほしいと願ったら来てくれた。偶然だろうが、絶妙なタイミングだった。
「どうしたの? 膝を抱えて」
 孔明は中に入ってくると、灯を卓の上に置いて、花の隣に座った。寝台が軋む。
「雷、苦手?」
「…………はい……」
 的確な質問に、花は素直に頷いた。
「そっか」
 孔明はそう頷くと、シーツごと花の体を抱き寄せる。
「!」
 花はますますびっくりした。
 玄徳なら分かる。雲長や翼徳もたぶんここまでは驚かない。けれど、孔明は、触れることを好まないような気がしていた。
 だから、躊躇いもせず抱きしめられて、花は大いに驚いた。
 孔明は、シーツの上から花の耳を塞いでくれる。
 雷の音が聞こえなくなった。その代わりに、孔明の心臓の音が聞こえてくる。
 とくん、とくんと規則正しい心臓の音。
 なぜか、とても落ち着いた。
「雷、やっぱり苦手なんだ」
 微かに聞こえた孔明の呟きに違和感を覚えて、花は身を捩る。
「師匠?」
「ん?」
 シーツの中から、孔明を見ると、孔明はいつになく優しい眼差しで応じてくれた。
 その瞳に、花は一瞬見とれた。尋ねようと思ったことが消えてしまう。
「……あの……なんでもないです」
 花はゆるく首を振って、再び孔明の胸に顔を押しつけた。
「うん」
 孔明も小さく頷いて、それ以上は訊いてこない。
 雷は遠く、響いていた。

猫100匹

 

「なるほど」
「はい…………」
 書庫の中には、心から納得したように頷く玄徳と、彼の前で項垂れるように頭を縦に振る花がいた。
「ほんと、すみません」
 花は深く深く頭を下げる。
「いや、大丈夫だ」
 そんな花に、玄徳は優しく
 その手がいつものようにぽんぽんと花の頭を撫でる。
 花はほっとしたようにわずかに笑顔を見せた。
「何の話かお伺いしてもよろしいですか?」
 温かな雰囲気に包まれた書庫に、ひとつの細い影が伸びた。
「孔明」
「師匠」
 玄徳と花は同時に振り返って、気まずそうに声を上げる。やましいことは何もしていないのに、落ち着かない気持ちになるのはなぜだろう。
 孔明から発せられる異様なぴりっとした空気に、玄徳ですら緊張した。花はすでに固まっている。
 と、玄徳は、孔明の視線が集中しているのが己の手だと気づいた。
「あっ、と、すまん」
 慌てて花から手を外す。
「あ、いや、大した話じゃないんだ」
 孔明が不機嫌なのだと気づいた玄徳は、すぐに孔明の疑惑を払拭しようとするが、言葉の選択を誤った。
「その大した話ではない話を聞きたいのですが……」
 孔明の笑顔がいっそう晴れやかなものになる。
 はじめて触れる孔明の不穏な空気に、玄徳の頭は完全に停止してしまった。
「あ、わ、私がいけないんです!」
 このままでは玄徳が死んでしまうと花は急いで二人の間に割って入る。孔明の瞳が説明を求めて花に移った。その瞳だけ笑っていない笑顔をまともに見て、花はごくりと唾を飲む。だが、ここできちんとした説明をしなければ玄徳の二の舞だ。
「玄徳さんから借りた本を間違えて子龍さんに貸してしまって、たまたまその本を探していた雲長さんに子龍さんが渡したら、翼徳さんが部屋から持っていって、そのあと書庫に入れておいたって言うんですけど……」
 まるで作り話のような本当の話だった。勘違いなどが重なって、結局行方知れずになってしまったのだ。
「どこにいったか分からなくなったてこと?」
 その話を一応信じたのか、孔明は疑うような言葉は吐かずに聞いた。
「はい」
 花は肩を落として頷く。玄徳から借りた本と自分の本の装丁が似ていて、間違えて渡してしまった花のミスから始まったことだ。
 玄徳は笑って許してくれているが申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「うーん。もしかして、これ?」
 孔明はまっすぐ奥の書棚に向かっていくと、迷いもせず一冊の本を抜き出した。
 それはまさに、花が探していた本だった。
「こ、これです! どうして師匠、知ってるんですか!?」
 その本に飛びついて、花は目を丸くする。
 孔明には本のタイトルもどんな本かも説明していない。それに、花は一人で半日ほど、玄徳と一緒に小一時間ほど探しても見つけられずにいた。
 まるで魔法のようだ。
「この間から見たことのない本があるなと思ってたんだよね。玄徳様の本でしたか」
 孔明はすっきりした顔で、玄徳に本を渡す。
 しかし、花はますます驚いた。
「見たことのない本って……この書庫の本、どこに何があるか把握しているんですか?」
「もちろん。雲長殿らしく、きちんと整理された書庫で助かるよ」
 孔明はなんでもないことのように言うが、この書庫はとても立派で、花の高校の図書室より広かった。中は、図書室のように規則正しく本棚が並び、壁も扉以外はすべて書棚になっている。蔵書は竹簡も含めて数え切れないほどだ。
 その蔵書を位置まですべて把握し、増減が分かるなど、普通のことではない。
 やっぱり師匠は頭がいいんだ、と花は感服した。
「それではもう用は済みましたね」
「あ、ああ」
 孔明は二人の背を押すようにして、書庫から外に出て、扉をきっちりと閉める。
「花、頼みたいことがあるから、あとで執務室に来て。ボクはちょっと寄るところがあるから先に行くけど……」
 孔明はそこで言葉を区切って、ちらりと玄徳を見る。
「必ず来るように」
 それからまた花に視線を戻してそう言った。あの一瞥は、一瞬だったが、玄徳には十分すぎるほど言いたいことが伝わった。
「……はい」
 花に拒否権はなかった。
 孔明が去ると、二人は同時に大きく息を吐いた。
「…………あいつ、猫かぶってたんだな」
 玄徳がぽつりと呟く。
「はい。師匠は猫をたくさん引き連れてるんです」
「ああ……なるほど」
 二人の脳裏には、無数の猫を指揮する孔明の姿が浮かんでいた。

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