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Category: 恋戦記

喜怒哀楽

 花の向こうで、成都の街並みが、孔明と花の歩く速度にあわせて流れていた。いつもの風景、いつもの帰り道、なんてことのない夕方だ。
 花は楽しそうに次から次へと話をしている。
 芙蓉とおやつに食べた菓子がおいしかったとか、城の庭に咲いている花がきれいだとか、昨日晏而と季翔に会ったとか。
 どれも取るに足らない話だ。
「孔明さん、聞いてますか!?」
 まるで、孔明の心の声が聞こえたかのように、突然、花が腰に手をあてて、孔明を睨みつけてくる。
 一瞬前まで楽しそうだった顔が、今は見事に顰められていた。
 跡が残りそうなほど、目一杯眉を寄せている。
 皺になるよ、と言ったら、さらに怒らせてしまうだろう。
 さて、どうするか。
「孔明さん?」
 花をじっと見つめたまま何も言わないでいると、花の目は、次第に不安そうに揺れ始めた。それでも応えず黙っていると、花は強く言ったことを後悔し出す。
 色んなことを経験しているのに、花の素直さは全く失われなかった。
 孔明は、花から視線を外す。
 息を飲む花に、思わず笑ってしまった。
「聞いてるよ」
 孔明は再び花に視線を戻す。
 振り回されている花は、大いに戸惑っているようだった。
 もちろん聞いている。花の話は全て漏らさず聞いている。たとえ、雨ですね、というような言葉でも、孔明にとっては大切だ。
 花が、ここにいて、話している。
 これほど素晴らしいことが他にあるだろうか。
「芙蓉殿と食べたお菓子は雲長殿のお手製だったんだろう?ばれたら大変だよ。それと、城の庭に咲いてるのは、スイカズラ。この時期に花をつけるんだ。好きなら家の庭にも植えようか?ああ、あと、晏而と季翔を見かけたら、見なかったことにして離れること。約束だよ?」
 花が話したこと全てにきちんと話を返すと、花は目を丸くして、それからとても嬉しそうに笑った。
「聞いててくれたんですね」
「もちろんだよ。君の話なんだから」
 孔明の返事に、花はさらに口元を緩めている。
「疑ったお詫びは?」
 そんな花に、孔明は師匠然として言った。
「すみません」
 花はもちろんすぐに謝る。
「うーん。落第」
 だが、孔明はもったいぶって頭を振った。そして、出し抜けに花の唇を奪う。
「これくらいはしてくれないと」
 唇を押し当てるだけの軽い口づけをして、孔明はそう言った。
「!!」
 花の顔が見る見る真っ赤になっていく。
 いい反応だ。
 往来で口づけるなど初めてのことだから仕方ない。
「さ、早く帰ろう。ボク、お腹ぺこぺこなんだ」
 孔明は、花の手を握り直して、引っ張った。
「あ、わっ、こ、孔明さん!」
 思惑通り、花がバランスを崩して、孔明の腕にすがりついてくる。
 花の重み、花の匂い。花の手。
「もう、引っ張らないでください!」
 唇を尖らせる花は、どこか楽しそうだ。
「うん、ごめん」
 孔明は謝って、けれど、花の腕を絡め取ったまま歩き出した。
 ずっと想像していた花が、この手の中にある。
 想像や夢の中とは違って、孔明の言動のひとつひとつに、鮮やかに、笑って、怒って、悲しんで、喜んでくれる。
 それが嬉しい。
 花がここにいる。
 泣きたくなるほど幸せだった。

お家に帰ろう

「花、君も今帰り?」
 廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
 その声にびっくりして、急いで振り返る。
 廊下の先に、帰り支度が済んだ様子の孔明が立っていた。
 花は期待に胸を膨らませる。
「孔明さんも、終わったんですか?」
「うん。今日は早く終わったんだ。一緒に帰ろう?」
「はい」
 花は嬉しくなって、口元を緩めて頷いた。
 すると、近づいて来た孔明が何も言わずに抱きしめてくる。
「こ、孔明さん!?」
 花は慌てたが、抵抗はしなかった。こんな機会は滅多にない。
「今、すごく抱きしめたくなった。駄目?」
 もう抱きしめているのに、孔明はそんなことを言った。
 花が駄目と言わないと知っているのだろう。
 もちろん、言わないのだが、なんだか悔しい。でも、駄目とは言わない。
「……駄目じゃないです」
 花はそう言って、少しだけ孔明に体を寄せた。
「うん。満足」
 しかし、孔明はすぐに花を解放する。その顔は言葉通り満足げだ。
 抱きしめたいから抱きしめて、満足したから離すだなんて、全く孔明は勝手だ。
 花は、離れてしまって、少し寂しいというのに。
「…………」
 花は、孔明と同じくらい唐突に、孔明の手を握った。
「は、花?」
 びっくりする孔明に、花は言う。
「あの、手を繋いで帰りたくなりました……」
「!」
「……駄目ですか?」
 孔明の返事は知っているが、花は聞いた。
 孔明は楽しそうに笑って、首を振る。
「駄目でしゃないよ」
 孔明は、花の手をしっかりと握り直して、引き寄せた。
「帰ろう」
「はい!」

 帰ろう、帰ろう。
 僕らの家へ。

 

後方注意

 仕事を終えて、花は街に出かけようとしていた。
 本当は芙蓉と二人で行く予定だったのだが、芙蓉に急な用ができてしまい、一人になってしまったのだ。
「晏而さん!」
 前方に馴染みの姿を見つけて、花は喜びもあらわに走り寄る。
「おう、道士様」
 晏而の方も、声をかけてきたのが花と見てとるや、その強面を嬉しそうに緩めた。ただ、元がごろつきのような風体のため、そんな親愛の情のこもった顔は、どちらかというと不気味だった。だが、晏而本人は気づいていないし、花もそんな風には思っていないので、二人の間では特に問題はない。
「どうしたんだ? こんなところで」
 晏而がいたのは、城門である。もうあと一歩で、外に出られるようなところだ。だいたい城の中で生活が済む花が来るのは珍しいことだった。
「街に行こうと思って」
「ひとりで? 道士様がひとりで街に出たらさらわれちまうぜ?」
 晏而は真顔で言いながら、顎をさする。
「大丈夫ですよ」
 心配しすぎる晏而に、花は笑った。
 成都は、よく警備されているため、治安は比較的良い。そのうえ、成都での暮らしも数年になって、どこが危ないかも頭に入っているので、ひとりでも十分歩けた。
「あ、でも、そうだ、晏而さん。これから時間ありますか? 良かったら一緒に行きません?」
 花は、いいことを思いついたと顔を輝かせて、晏而を誘う。
「元々芙蓉姫と出かける予定だったんですけど、都合が悪くなってしまって、一人になったんです。晏而さんが一緒に来てくれたら嬉しいです。とてもおいしいお菓子のお店ができたって、今、ちょっと評判なんですよ? 知ってますか?」
 元々京城で店を開いて繁盛し、それが長江を上って、西に進出してきたらしい。あの京城で流行るのだがら、評判通りおいしいのだろうと、花は十二分に期待している。
 それは、クレープ食べに行きませんか? と言っているようなものだが、その不調和に、花は気づかなかった。
「ああ、そりゃあっ……結構なお誘いなんだが、な……」
 花からのお誘いに晏而は、一瞬、喜色満面で頷こうとしながら、一転、トーンダウンして、言葉尻が鈍くなる。
「?」
 不自然な晏而に、花は首を傾げた。
 すると、晏而は、ちょいちょいと花の後ろを指差す。
 花は何も考えずに振り返って、固まった。
「何の話かな?」
 花の背後1メートルほどのところに、孔明が立っていた。笑顔が不自然なほど晴れやかだ。
「し、師匠!」
「りょ、亮、俺は無実だからなっ! 何にも言ってねえ!」
 花の叫びと晏而の釈明が重なった。二人とも顔を引き攣らせているのは同じだ。
「よりによって、こんな怖い顔のおじさんを、お菓子屋さんに誘わなくてもいいんじゃない? お客さんがみんな逃げちゃうよ?」
「おい、言葉に気をつけろ」
「なにか?」
「何でもありません」
 ちらりと視線を流されて、晏而はすぐに両手を挙げる。
「うん。そうだね」
 恭順な態度を示す晏而に、孔明は当然だといった様子で頷いた。それから、花を見る。
 花は再び固まった。孔明はまだ笑顔のままだ。はっきり言って怖い。
「まったく。芙蓉殿だから見逃したっていうのに」
 孔明はぶつぶつと言いながら、花の手を取った。
「おいで」
 ずんずん歩き出す孔明に引っ張られて、花は城の中に逆戻りだ。とても行きたくなかったが、ここで抵抗したらどうなるか分からない。
 花は、藁にもすがる気持ちで、晏而を振り返った。
 しかし、晏而は手を振って花を見送っている。
 花はそれを薄情だとは思わなかった。逆の立場だったら、花も同じことをしてしまうだろう。
 花は観念して、孔明に従った。

予感

 空に月が浮かんでいる。明日か明後日には、満ちるだろう。
 花は、月を見上げて、まるで太陽を見るときのように目を細めた。
 ひどく明るい。強い光が暗い空に滲んでいる。
 不思議な夜だ。
 夜なのに。
 明るい。
「やあ」
 不意に、背中から声をかけられた。
 花は驚くことなく振り返る。
 何となく、今夜、会える気がしたのだ。
「師匠」
 声の通り、すぐそばに、孔明が立っていた。
 手を伸ばせば届く。
「久しぶりですね」
 花は予想通りになったことが嬉しくて、笑って言った。
 しかし、孔明はなぜか驚いたような、困惑したような顔をする。
 花は首を傾げた。
「師匠、どうしました?」
「あ、いや……うん……」
 花に問われて、孔明は右頬を人差し指で掻いた。
「驚かないんだね」
「え?」
「ボク、今日来るって言ってあったっけ?」
「ああ」
 花は、孔明の戸惑いの理由が分かって、頷く。
 確かにいつもなら大いに驚くところだ。孔明の登場はいつも突然で、前触れがない。けれど、今夜は、予感があった。
「今日、師匠に会える気がしたんです」
 花は言う。
「予感的中です」
 そして、ピースサインを孔明に向けた。孔明にはどういったサインだか分からないだろうが、誇らしげなことは伝わっただろう。
 予感が当たったのが嬉しい。まるで、孔明と繋がっているみたいだ。
 それに、単純に、孔明に会えて嬉しかった。
 すると、孔明は、目をわずかに見張って、それから、ぎゅっと拳を握りしめる。
「ーーしちゃいけない」
 その呟きは、低く、今夜のわずかな闇に溶けてしまった。
「え?」
 花は、うまく聞き取れなくて、聞き返す。
「ううん、なんでもないよ」
 しかし、孔明は、いつもの笑顔で首を振った。
「師匠?」
 その笑顔に距離を感じて、花の心に不安が過ぎる。
 孔明との間隔は変わっていないのに、今は、手を伸ばしても、触れられない。そんな気がした。
 でも、どうしてだろう。
 花は戸惑う。
「今、大変でしょ? ボクに相談したいことがあるんじゃない?」
 だが、孔明は、花の不安には触れずにそう言った。
「……あ、はい。そうなんです」
 孔明に指摘され、花は自分が天幕から出て夜歩きしていた原因を思い出す。
 明日、策を提出しなければならないのに、まとまっていないのだ。
 だから、孔明に会いたかったのかもしれない。
「師匠に相談したくて、会いたかったんです。助かりました」
「うん、それは良かった」
 花が言うと、孔明は満足げに頷いた。
 また距離が縮まった気がする。
 花は嬉しくなって、相談事を話し始めた。
 二人の頭上では、いつのまにか広がった雲が、月をゆっくりと隠していく。時間と時間の狭間のような時が、動き出した。



 --ああ、どうか、ボクに恋などしないでほしい。

サイズ

 

 花は、とりあえず、目の前にある孔明の背中に抱きついてみた。
 腕を回して、孔明の腹の前で組む。
 やっぱりだ。
 花は思ったことを確認できて、一人で頷いた。
「は、花? どうしたの?」
 突然の花の行為に、孔明の声が珍しく上擦っている。
 肩越しに目が合った。
 花は、孔明から離れて元の位置ーー孔明の一歩後ろに戻る。
「確認です」
「はい?」
 花が言うと、孔明は不可解そうに眉を寄せた。
「何の?」
「師匠のサイズです」
「さいず」
 孔明は聞いたことのない言葉を復唱する。
 伝わる単語と伝わらない単語の境が曖昧なため、花は孔明に伝わっていないことに気づかずに、話を続けた。
「師匠って大きく見えないんですけど、やっぱり私より大きいんだなって。亮くんのサイズも知っているから余計なんでしょうね」
 普段は気にならないのに、前を歩く孔明がやけに大きく見えて、花は確かめたくなったのだ。
 今日は珍しく正装をしているからかもしれない。いつもより立派に見えて、まるで別人のようなのだ。
「…………」
 花の話し振りから、孔明は、サイズというのが体格と大体同じ意味だと推察した。だが、今の問題はそこではない。
 それを今のタイミングで確かめる必然性だとか、その確かめ方はどうだとか、言いたいことがたくさんできた。
 もしかしたら、まだ異性という認識が薄いのだろうかと、不安すら湧いてくる。
 けれど、そうではなくて、花のいつもの勤勉さで、考えていることで頭がいっぱいになった末の行動なのだろう。
 孔明はひとつ試してみた。
「それなら、こっちから確かめてみたら?」
 そう言って、花に向き直って、腕を開く。
 花はそんな孔明に一瞬きょとんとしてから、その意味を理解して、すぐに顔を赤くした。
「そ、そんなっ、恥ずかしいことできません!」
 花はぶんぶんと首を横に振る。
 突然後ろから抱きつくことは恥ずかしくはないのかと突っ込みたくなるくらいの反応だが、孔明はあえて指摘せずに流しておいた。
 それよりも、したいことがある。
「そう? じゃあ、ボクが確かめようかな」
「えっ?」
「花のサイズ」
 孔明はそう言って、顔を真っ赤にしている花をぎゅっと抱きしめた。
 花とは逆に、思ったよりも花の体は小さくて、胸の中に抱きこめてしまう。
「ほら、こっちの方が分かりやすいよ」
 孔明は花を抱き寄せて囁いた。

「私が恥ずかしいわ」
「全くです」
 二人の後ろを歩いていた芙蓉と晏而が、顔を引き攣らせて目を背ける。
「亮、いいなあ」
 季翔はひとり、羨ましそうに二人を見つめていた。

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