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2016年04月

携帯電話

「あっ、ああ、ああ……」
 花の残念そうな無念そうな声に、孔明は本から顔を上げた。
「どうしたの?」
 隣に座る花の手の中には、何からできているのか分からないモノがあった。孔明にとっては見知らぬものだが、花がずっと大切そうに持ち歩いているので見慣れたものだった。
「ケータイの充電が切れちゃったんです」
「けーたいのジュウデン?」
 聞きなれない言葉に、孔明は首を傾げる。
「あ、これがケータイで、充電というのは、ケータイを動かすためにバッテリーに電気を溜めることです」
 花は手の中のピンクの物体を掲げるだけでなく、背面を分解して、中から四角いものを取り出してみせた。
「何をするものなの?」
「離れている人と話ができる機械なんです。メール……文章もやりとりできて、写真も撮れるんですよ」
「ふーん」
 どうやって離れている人と話をするのか、文章をやりとりするのか、写真というのは何なのか、と分からないことは多かったが、なかなか高機能らしいということは分かった。
「家族の写真が入っていたので、なるべく充電をもたせるようにしてたんですけど……」
 花は携帯電話を細い指でさすっている。
 その瞳は、携帯電話を通して、遠い、元の世界を見ているようだった。
 隣にいるのに、遠い。
 孔明は、たまらず花を抱きしめた。
「し、師匠!?」
「うん」
 突然の行為に、花は慌てている。
 孔明は頷いた。
「師匠?」
 今度は、少し心配そうな声で問いかけてくる。
「うん……」
 孔明はただ頷いた。
 すると、少し間を置いてから、花の手が背中に伸びる。
 その手の温かさに、孔明は目を閉じた。

乙女の覚悟

「師匠!」
 花は、廊下の先に目当ての孔明を見つけて、呼び止めた。
 振り返ったところを、首を伸ばして、唇を掠め取る。
 柔らかな唇の感触。驚いたように見開かれる孔明の瞳。
 花はぎゅっと目をつぶって、突き飛ばすように孔明から離れた。
 とんでもないことをしたと分かっている。それでも、今日は覚悟を決めて、孔明を探していたのだ。
 孔明は、思い出したようにしか触れてこない。キスも片手で足りるほどしかしていなかった。そして、最後のキスは日にちを思い出せないほど昔のことだ。
 触れたときの、胸が締め付けられるような、甘く蕩けるような、あの幸せな一瞬が忘れがたくて、日々孔明が触れてくれないだろうかと期待していた。けれど、孔明はさっぱりそんな素振りを見せず、むしろ花に触れるのを避けているかのようだった。
 だから、花は強行手段に出たのだ。孔明に触れたいという気持ちを、おさえることができなかった。
 はしたないとか恥ずかしいとかそういった気持ちはもちろんあったが、それよりも強く触れたいと思った。
(かなも、自分からすることもあるって言ってたし……)
 花は、自分への言い訳を心の中で呟く。
 だが、初めて自分からしたキスは、あまりに緊張し過ぎて、なんだか分からなかった。
 それに、孔明の反応など見られるはずがない。恥ずかしいのと、怖いのとで胸がドキドキしていた。花は、そのまま回れ右をして、逃げ去ろうとする。
 しかし、孔明はそんなに甘くなかった。
「待ちなさい」
 ぐいっと襟首を掴まれて、引き戻される。
「……ほんとに、人の努力も知らないで」
 孔明の声からは、感情が消えていた。
 花は青ざめ、後悔する。そして、いまさらながら、この世界が、元の世界と違うことを思い出した。女性はより貞淑であることを求められているのだ。それを忘れて、自分からキスをするなんて、馬鹿だった。
 自己嫌悪に苛まれていた花は、ふと、周りが暗くなったことに気づいて、わずかに視線を上げる。いつのまにか孔明に壁に押し付けられるように押さえ込まれていた。
「? ししょ……っ!」
 いったい何事かと問おうとした花の唇に、孔明の唇が重なる。
 柔らかな感触に、花はびっくりした。
 どうしてキスをされているのか。怒ったのではないのか。呆れたのではないか。
 孔明の意図が見えなくて、花は混乱した。
 そんな花の口の中に、するりと舌が入ってくる。
「!」
 花は驚愕に目を見開いた。
 孔明の舌が口の中で蠢いている。まるで息を奪うような荒い口づけは初めてで、頭の中が真っ白になった。そのうえ、孔明の手がゆっくりと腰を撫でていて、体の芯からむずがゆいような、熱いものがじんわり広がっていく。
 その熱の正体を知らない花は、戸惑い、不安に感じた。ただそれから逃れたくて、身を捩る。しかし、拘束する力は強く、びくともしなかった。
「っ…………やっ!」
 花は小さく悲鳴を上げる。
 孔明が、唇を離れ、首筋に吸いついたのだ。強く吸われて、ぞくりと体が震える。
 立っていられなくてすがりつく花を、ゆっくりと廊下に座らせて、孔明はにっこり笑った。
「こういうことされる覚悟があるなら、次もやってごらん」
 じんじんと疼く首に手をあて、花は自分の浅はかさを心から反省した。

とある君主の不幸な午後

「花、好きだよ」
 孔明の手が、そっと花の頬にかかる髪を摘む。
 花は顔を赤らめて、固まった。孔明は椅子に座り、花はその膝の間に立っているため、身動きがとれない。それに、孔明からの告白という珍しいことに、下から覗き込まれるという、いつもと違う要素が加わって、花の頭は現状を処理しきれていなかった。
「花も好きって言って」
 孔明は甘えるように、花の首に手を回す。
 花はますます固まった。
「で、軍師様はどうされたいんでしょうかね」
 二人の甘い空気を遠慮なくぶち壊したのは、しかめっつらの晏而だった。
 もちろん、今入ってきたのではなく、ずっと部屋の中にいた。玄徳の用を預かって、孔明の執務室を訪れたのだが、花が晏而にばかり構うので、孔明がしびれを切らした結果がこれだった。
「分かってるくせに」
 孔明は、花を抱き寄せながら、ちらと晏而を見る。
「俺に出て行ってもらって、弟子と二人きりになりたいって?」
「正解」
 死んでも出て行かない、と言いたくなるような笑顔だったが、晏而はぐっと堪えた。
 孔明には逆らわない方が身のためだ。
 特に、花絡みは。
 孔明の腕の中の花を見る。顔はよく見えないが、真っ赤になっていることだろう。恥ずかしがっている顔も可愛いだろうな、と晏而はわずかに顔をにやけさせた。
「見るな」
 晏而の視線に気づいて、孔明は隠すように花をさらに抱き寄せる。
 晏而は、頬をひくと引き攣らせた。
 まるで子供のような言い方だ。そう思ったら、脳裏に少年の頃のませた顔が蘇った。十年前も気に入らなかったが、やはり今も気に入らない。特に、自分だけちゃっかり花を手に入れるあたりがまったくもって気に入らなかった。
「ガキ」
「早く家に帰ったら? お父さん」
「っぐ」
 せめて一太刀と振るった太刀は、さらりとかわされ、倍以上鋭い太刀が襲ってくる。諸葛孔明の本領だ。いつも一番痛いところを的確についてくる。小さい頃から可愛げはなかったが、本当にたちの悪い大人になってしまった。
「とにかく、俺は伝えたからなっ」
 これ以上は部屋にいられない。いたくない。晏而は捨て台詞をはいて、部屋を飛び出した。
 しかし、数歩行って足を止める。
 さきほどのことは、晏而を追い払うための芝居とは分かっているが、それにしても良い雰囲気だった。
 もしかしたら、このまま      
 晏而はごくりと生唾を飲みこむ。
 花のかわいい声が聞けるか。
 晏而の心に、邪な考えが浮かんだ。そろりと足が音を立てないよう方向を変える。
「ああ、晏而」
 そこに、背中から声をかけられて、晏而は飛び上がった。
「うわぁぁ! 驚かすな! ……って、げ、玄徳様!」
「わ、悪かった」
 振り向きながら怒鳴った晏而は、そこに立つ玄徳を見て青ざめた。
「す、すみません!」
 慌てて廊下にはいつくばって、頭を下げる。
 晏而たちが従うのは、花であるが、その花の主である玄徳は、当然晏而にとっても主だ。怒鳴りつけていい相手ではない。その場で斬られても仕方ないくらいだ。
「いや、俺が悪かった。すまん」
 それなのに、玄徳は晏而を責めるどころか反省して謝ってくる。
「い、いいえ、本当に申し訳ありません」
 額を床にこすりつける晏而に、玄徳は困った顔をしてその傍らに膝をついた。
「晏而、顔を上げてくれ。なあ、さっきの件だが、孔明には伝えてくれたか?」
「は、はい。ただ返事はいただけていませんが」
 わずかに顔を上げて、晏而は答える。
「そうか。じゃあ、ちょうど良かったな。客が意外と早く帰って、時間ができたんだ。お前に使い走りさせて申し訳なかったが、直接話をしようと思って来た」
「さ、左様ですか    って、玄徳様!?」
 すたすたと遠ざかる玄徳の足音に、晏而ははっと顔を上げた。
「孔明、俺だ。入るぞ」
 玄徳はノックもそこそこに、戸に手をかけている。
「玄徳様っ、今はまずいっ!」
 晏而が声は一歩遅かった。
 部屋の中から、どすん、どすん、となにやらひどい物音が上がる。
「し、師匠の馬鹿!」
 続いて、花の可愛い悲鳴。
「わ、す、すまない!」
 そして、うろたえて戸を素早く閉める玄徳。その顔は一瞬にして真っ赤になっている。
 何を見たんだろう、と晏而が玄徳を少しだけ羨ましく思ったのは、孔明には絶対に内緒だった。

くしゃみ3回

「はっくしょん」
 と、大きなくしゃみが部屋に響く。
 大丈夫かな、と、花が顔を上げたら、立て続けに2回。
「っくしょん、くしょん」
 合計3回だ。
「師匠、大丈夫ですか?」
 花は自分の席から立ち上がり、手巾を差し出す。
「ありがとう。なんだろ、風邪引いたかな」
 孔明はそれを受け取って、鼻を拭いた。
 花は、開け放している窓を見る。
「窓、閉めましょうか?」
「いや大丈夫」
 孔明は首を横に振った。
 その窓からは、そよと爽やかな風が入ってくる。今は夏に向かって、だんだんと暑くなっている時季だ。窓を開けていないと、むっとするくらいだった。
「私の世界では、くしゃみを3回すると、誰かに想われてるって言われているんですよ」
「そうなの?」
「はい」
 くしゃみは誰かが噂話をしているサインで、回数によって意味が違うと聞いたことがある。
 悪いことを言われている回数もあるから、3回で良かった、などと呑気に考えていた花は、じっと孔明が見つめていることにしばらく気づかなかった。
 ふと、痛いほどの視線を感じて顔を上げると、まっすぐ向けられている孔明の瞳とぶつかる。
「な、なにか?」
 孔明の物言いたげな顔に、花は嫌な予感を覚えながら尋ねた。孔明がもったいぶっているときは、たいてい花にとってあまりよくないことが起こるのだ。
「君のことだよね」
「え?」
 孔明が何と言うかと警戒していた花は、意表を突かれてきょとんと聞き返した。いったい何を指しているのか分からない。
 すると孔明は、さらりと続けた。
「ボクのこと好きなのって」
「あ、あの……」
 花は、恥ずかしくて言葉に窮する。
「違うの?」
「あ、いえ、あの好き……っですけど、そうじゃなくて……この話は、まだ知られていない気持ちのことで、私みたいなことじゃなくて……」
 孔明に鋭く突かれて、花は、首を縦に振ったり、横に振ったりと、慌てふためいた。言葉が尻すぼみになっていったのは、孔明の瞳がじっと見据え続けていたからだ。
「それでもいいの? そのどこかのだれかの気持ちに気づいたらさ、望まない結果が待っているかもしれないんだよ?」
 孔明に言われて、花は目を見張る。そんなことまで考えていなかった。もし、そうなってしまったら、のんきに笑ってなどいられない。
「……よく、ないです。ごめんなさい、師匠」
「よくできました」
 花が肩を落として謝ると、孔明はにっこり笑った。そして、体を伸ばして、花の唇を掠め取る。
「!!」
 花はびっくりして唇を押さえるが、口から出たのは言葉ではなく、
「っくしゅん」
という小さなくしゃみがひとつ。
「くしゅん、くしゅん」
 続いて2回。
 合計3回は、惚れられくしゃみだ。
 しん、と一瞬、部屋が静まり返る。
「それは絶対にボクだから」
 孔明は子供のように主張した。
「……はい」
 花は、孔明の手巾を受け取りながら頷く。
 初夏の気配をはらんだ風が、窓からそよと吹き込んだ。

こどもの日・5月6日

 今日は五月五日。元の世界では「こどもの日」だ。
「カシワモチ?」
「ショウブユ?」
「コイノボリ?」
 疑問符を浮かべる面々に、花はひとつひとつ知っている限りの知識で説明した。
「なるほど。餡を包んだ餅に、菖蒲を浮かべた湯、それに鯉のぼりか」
 玄徳が、顎に手をあてた格好で、うーんと唸る。
「柏餅、作ってみようか?」
 雲長がすっと手を挙げた。それにぴくりと反応したのは芙蓉だ。
「あら、雲長殿のお手を煩わせるまでもありませんわ。私が作ります」
「だが、芙蓉姫は柏餅を知らないだろう?」
「まるで自分は知っているような口ぶりですこと」
 二人の間に火花が散る。そして、ふんと目を逸らすと、我先にと台所へ向かっていった。廊下を走らないあたりが、二人らしい。
「…………」
 それを四人は黙って見送った。
「花は子龍と菖蒲をもらってきてくれるか? 鯉のぼりは、俺たちがなんとかしよう」
 玄徳は、隣の翼徳をちらと見て、花に笑いかけた。手先の器用な玄徳なら、鯉のぼりも作れてしまうだろう。
「はい」
 見知らぬ行事なのに、どうにかしようとしてくれる玄徳の気持ちが嬉しくて、花は思いっきり頷く。
 そんな花に玄徳も頬を緩めた。
「お前の国は、本当に平和だったんだな。子供の成長をみんなで祝う。  いい習慣だな」
「はい」
 よしよし、と玄徳は花の頭を撫でる。
 くすぐったいけれど、大きい手が心地よくて、花は顔を綻ばせた。


 子龍と二人で近くの農家に菖蒲をもらって城に戻ると、廊下の向こうから歩いてくる孔明と出会った。
「師匠!」
「どうしたの? なんだか楽しそうだね」
 孔明は足を止めて、小走りで自分のもとにやってくる花を迎える。
「はい。今日はこどもの日なんです」
「こどもの日? ああ、君の国のならわし?」
 孔明は素早く察した。
「はい」
 ふん、と孔明は花が胸に抱いている菖蒲を見る。
「それはどうするの?」
「お風呂に入れるんです」
「それで?」
「それだけです。体が丈夫になるんですよ」
「へえ」
 孔明に教えることもあるのだな、と少し嬉しくなった花は、孔明の瞳が悪戯っぽく光ったことに気づかなかった。
「花、一緒にお風呂に入って?」
 唐突に、孔明が花の袖を引く。
「え?」
 少し高めの声と、甘えたような視線、それに言われたことのとんでもなさに、花は目を白黒させた。
 予想通りの花の反応に、孔明はにっこり笑う。
「今日は『こどもの日』なんでしょ。ボク、今日だけ亮に戻るからさ、甘やかしてよ」
「そ、そういう日じゃありません!」
 花はようやく我に返って、慌てて首を横に振った。
 しかし、孔明は自分の思いつきを気に入ったのか、花の袖をくいくいと引っ張って、子供のように首を傾げる。
「ボク、子供だから菖蒲湯の入り方わからないなあ」
「湯船に浮かべればいいんです」
 これ以上話をしていたら、よくない方向に行きそうだと、花は後ずさった。こちらの世界に残って、孔明と過ごした時間もそれなりになっている。そのなかで経験したあれやこれやが頭の中を駆け巡って、花に警告を与えていた
「あ、あの師匠、玄徳さんたちが待っているので……」
 しかし、孔明が花を見逃すはずもなく、花が下がった分だけ間合いを詰める。
「弟子として、師匠の背中を流してはくれないの?」
「し、師匠なんですか、亮くんなんですか!?」
 花は声も顔も引き攣らせて身を引いた。対する孔明は、まるで鼠を追いつめる猫さながら、ゆったりと花に手を伸ばす。
「うーん。どっちでもいいかな。君が一緒にお風呂に入ってくれるなら」
 孔明はそう言うなり花の手を強く引き、その体を背中から抱き締めた。そして、花のうなじに鼻先をこすりつけ、軽く唇で触れる。
「いい匂い」
「し、師匠、やめてください!」
 首に触れる孔明の唇の感触に、変な気持ちを刺激されてしまいそうで、花は悲鳴を上げた。
「あ、あの、孔明殿、花殿、私は先に玄徳様のところに行っております」
 それまで何の口も挟むこともできずに固まっていた子龍は花の悲鳴に我を取り戻すと、早口でそう言って走り去っていく。子龍の姿はあっという間に見えなくなった。
「し、子龍さん!」
 慌てて呼び止めた花の声も空しく響く。逃げ出した子龍がどう思ったかと考えると、花は顔から火が噴き出しそうなくらい恥ずかしかった。
「師匠! もう、変なことしないでください!」
 花は涙目になって孔明を睨みつけ、身をよじる。
 そんな顔は男を喜ばせるだけだよ、と心の中でため息をつきながら、孔明は手を緩めて花を解放した。そのとたん、花は脱兎のごとく駆けていく。
 孔明はやれやれと頭を振った。
「君があんまり楽しそうだと、元の世界が恋しいのかって、心配になるじゃないか」
 孔明の呟きは、いつものごとく花には届かない。
 孔明は、ひとつ伸びをして、ゆっくりと花たちのあとを追いかけた。


 翌日。
 今日もよい天気だったので、玄徳、雲長、芙蓉と花の四人は、東屋でお茶をしていた。翼徳は席につかず庭を駆け回って遊んでいて、子龍は少し離れたところで控えている。孔明はいつものように掴まらず、声をかけることさえできていなかった。
「ころっけの日?」
 少し不審そうに、玄徳が聞き返す。
「……はい」
 花は身を縮ませて頷いた。
「確か昨日はこどもの日とか……」
「はい……」
「まさか一年中毎日何かの日なのか?」
「たぶん……私も詳しくはないですけど」
 花が知らないだけで、きっと何でもない日というのはないのだろう。
「そうか……」
 玄徳は複雑そうに黙ってしまった。
 昨日、いい習慣だな、と笑ってくれた玄徳を思い出して、花はとても申し訳なく思う。毎日何かの記念日などという国は、こちらの世界では考えられないだろう。しかも、今日ははよりにもよって「コロッケの日」という語呂合わせだ。
「ねえ、ころっけって何?」
 芙蓉に問われて、花はこの世界にコロッケがないことに気づいた。
「あ、コロッケは、おいもを潰して揚げたもののことなんです」
「おいもを揚げる?」
 ぴくりと芙蓉の柳眉が上がる。その瞳が、雲長を素早く一瞥した。雲長はそ知らぬ顔でお茶を啜る。しかし、全力で話に集中していた。
「ほくほくして、美味しいんですよ」
 花は二人の様子に気づかずに、のんきに笑う。
「そうだ。私、作りましょうか?」
 昨日は、雲長と芙蓉による「柏餅」の競作が行われ、それぞれとても美味しいものを作ってくれた。どんなものか知らず、花の拙い説明だけで、あれだけ完成度の高いものを作りあげるのだから、二人とも本当に大した腕だ。
 そんな二人の足もとにも及ばないけれど、あちらの世界の料理を振舞うのも楽しいかもしれない、と花は思った。
「花が?」
 静かに火花を散らしていた芙蓉と雲長が、気を削がれて花を見る。
「作れ    
 玄徳も興味を引かれて、作れるのかと問おうとしたが、その声は別の声にかき消されてしまった。
「だめ」
 東屋に忽然と現れた孔明が、きっぱりと言って、花の腕を引く。
「わ、し、師匠!?」
 突然現れた孔明にびっくりしたところに、急に腕を強く引かれてバランスを崩した花は、孔明の腕の中に倒れこんだ。
「まだ仕事が残っているでしょ?」
 じ、と孔明の黒い瞳がまっすぐに花の瞳を覗き込む。
「え、でも、今日はもういいって……!」
 何となく孔明の機嫌がよくないことを感じて、花は語気も弱くなる。そんな花の口を、孔明は手で塞いだ。
「玄徳様、申し訳ありません。失礼します」
 そのまま孔明は玄徳ににっこり笑って頭を下げると、花をひきずって東屋を出て行く。
「ほんと、厄介な男を選んじゃったわね……」
 芙蓉が顔を引き攣らせて呟いた。
「まあ、花がいいなら……いいんじゃないか」
 玄徳はフォローするも、いつになく弱い言葉だ。
「それにしても……ころっけ、ね」
 芙蓉は、ちらと雲長を見る。
 それに対し、雲長は興味がないという顔で立ち上がった。
「玄兄、俺も戻ります」
 その澄まし顔に、芙蓉がいつものように腹を立てたのも、そのあとコロッケ戦争が起きたのも言うまでもない。

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