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2016年04月05日

しあわせなゆめ

 

「ん……」
 眠りから覚めて体を起こす。その拍子に、肩から何かが滑り落ちた。薄桃色の外套だ。孔明は急いで拾う。
「あ、師匠。おはようございます」
 ちょうどそこに、外套の持ち主が現われた。お茶の道具一式を手に、部屋に入ってくる。
 眠る前の最後の記憶は、花とこの執務室で仕事をしていたというものだ。机で居眠りをしてしまったらしい。机の上には、やりかけの仕事がそのままになっていた。
 花はその隙に休憩の準備をしに行っていたのだろう。
 外套を脱いでいる姿は、隆中を思い出して少し苦手だ。
「ぐっすり眠ってましたね」
「激務なんだねえ。そろそろ休暇を申請しないといけないな」
 花の声は気遣うようだが、孔明は居眠りの気恥ずかしさを誤魔化すために軽口を叩く。
 成都に入って整備して、その傍らで停戦の交渉も進めている。激務なことは誰しも認めてくれるだろうが、休暇は誰一人として認めてくれないだろう。もちろん、孔明も休むつもりはない。あともう少しで、戦のない世界が手に入るのだ。
「そうですね。でも、こんなところで寝てると、風邪ひいちゃいますから気をつけてくださいね」
 孔明の軽口に、花は笑って応える。
 孔明は、手にしていた外套を思い出した。
「ああ、これありがとう」
 花のもとにいって、外套を差し出す。
「あ、はい」
 花はお盆を卓の上に置くと、それを受け取って羽織った。
 見慣れた花に戻って、孔明はこっそりほっとする。
「師匠、お茶しませんか? 雲長さんからお茶とお菓子をもらったんです」
 花はそんな孔明に気づかずに、朗らかに誘ってくる。
「うん」
 孔明は頷いて、椅子に座る。
 花は、菓子の皿を孔明と自分の前に置き、お茶をいれ始めた。
「雲長さんが、師匠のために、あんまり甘くないお菓子を作ってくれたんですよ」
 うきうきとした様子で話す花に、ほんの少し意地悪な気持ちが刺激される。
「ボクのためにか。じゃあ、これ全部ボクの分?」
「師匠。弟子にやさしさを」
 孔明が、花の分の菓子の皿を引き寄せようとすると、花は強い力でそれを引き止める。
「ボクほどやさしい師匠もいないと思うけど?」
「こ、このどこがですか!?」
 それほど雲長の菓子が食べたいのかと、また意地悪な気持ちが膨らむが、勝手すぎることは重々承知しているので、孔明はそっと皿から手を放した。
「やさしい師匠で良かったね」
「はい。ありがとうございます」
 花はそれ以上争う構えは見せず、含むところたっぷりの声で礼を言う。争うより菓子をとったのだ。軍師として合格だ。その不満そうな顔さえなければ。
 孔明は笑って菓子を手にした。
「うん、おいしいね」
 雲長の菓子は、甘いものが得意でない孔明でも、おいしいと思える。
「はい!」
 菓子のおいしさに、花もさきほどのわだかまりも忘れたようで、満開の笑顔で頷いた。
 その爛漫とした幸せそうな様子に、孔明も嬉しくなった。

「師匠、あの」
 しばらく話をしていると、花がためらいがちに声をかけてくる。
「君、太るよ」
「うっ……」
 花が全てを言う前に、孔明は釘をさした。花が話をしながらちらちらと孔明の皿を気にしていたことには、当然気づいていた。孔明の策の内だからだ。
 孔明の皿には、まだ菓子が残っている。放棄したと思われるのに十分な時間、置いておいたので、花も勇気を出したのだろう。もちろん、これは花にあげるために残していたものだ。
「食べたいならどうぞ」
 孔明は、花の前に皿を押し出す。
「師匠、ひどいです」
 花は恨めしそうに菓子と孔明の間で視線を上下させた。
 全く太っていないのに体型を気にするのだから、女の子はわからない。
「でも、食べるんだろ?」
 そして、それほど気にしているのに、花の結論は決まっていることも、矛盾に満ちている。
「はい。せっかくの雲長さんのお菓子を無駄にできません。今日だけですけど」
 花は孔明の想像した通りに頷いて、皿を引き寄せた。
 まったくもって面白い。だから、ついからかいたくなるのだ。
「それ、前も聞いた」
 お菓子を掴もうとする花の手が止まる。
「師匠」
 おいしいものがおいしくなくなる、と花の目が訴えている。
 やはり予想通りの花の反応に、孔明は笑った。

「ふぁあーあ」
 心地よい陽気に腹も膨れて、孔明は大きいあくびをした。
「もう少し寝た方がいいんじゃないんですか?」
 花が笑って昼寝を勧めてくる。
「うん、そうだねえ」
 孔明は頬杖をつき、重い頭を支えた。
「君もようやく師匠を労わることを覚えたようだね。えらいえらい。じゃあ、お言葉に甘えて……」
 話しながらも眠いので、孔明は卓の上に突っ伏す。
「ここじゃなくて、部屋で寝た方がいいんじゃないんですか?」
「それはもう昼寝じゃないよね」
 花の提案は、本格的な睡眠だ。そこまでする余裕はない。
「それなら、これをかけてください。少し肌寒いですから」
 花はまた外套を脱いで、孔明の肩にかけた。
 外套に残る花の温もりに、孔明はどきりとしてしまう。顔を伏せていてよかったと思った。動揺を見られずに済んだ。
「君が着てなさい」
 眠気が飛んだ孔明は、体を起こして花に外套を返す。風邪を引いてしまいそうな気温の中、花を薄着でなどいさせられない。
「部屋から、師匠にかけるものを持ってきます。それまで使っててください」
 花は、そう言って手を出さなかった。
 それ以上、花の厚意に背くようなことが言えず、孔明は花に外套を返すことができなかった。
「……それじゃあ、ありがとう」
 説得負けしたような気になって、少し悔しい。
「師匠を労わることを覚えたので」
 悔しさが漏れてしまったのか、花はおどけてそう言った。
 その目には、言葉通り労わりと想いが浮かんでいる。
「うん……」
 孔明は顔を伏せた。花を見ていられない。花を留めたくなってしまう。そんな欲を、「制服」姿の花が戒めてくる。
 手を掴むのと手を放すのは、どちらも勝手なのだろう。
 それでも、花の幸せを願ってやまない。
「おやすみなさい、師匠」
 やさしい声がかかる。
 遠い昔と変わらない声だ。
「おやすみ」
 孔明は、ほんの少し胸が苦しくなった。


「師匠、師匠。こんなところで寝てると、風邪引きますよ」


 花の声に、孔明ははっと起き上がる。
「ごめっ、ん……」
 部屋の中はがらんとして、ひんやり冷え切り、静かだった。
 この部屋はずいぶん前から孔明だけのものだ。
「ああ……」
 孔明は呟く。その声は、ぽつんと部屋の中に落ちた。
 窓から、ちらちらと陽の光がさしこんでいる。
 幸せな夢を、見ていた。

 ――――君は今、幸せ?

 孔明はそっと目を伏せた。

春立ちて

 花が雲長への届け物を終え、孔明の執務室に戻ろうと廊下を歩いていると、向こうから、玄徳付きの文官が弱り顔でやって来るのが見えた。
「花殿!」
 同じような立場の彼とは顔なじみで、あちらもすぐに花に気づき、助かった、といった顔で駆け寄ってくる。
「どうしました?」
「玄徳様が孔明様にご用命なのですが、孔明様の姿がお部屋に見当たらず……あなたもいらっしゃらなかったので弱っておりました」
「わかりました。私も師匠を探しますね」
「ありがとうございます! 助かります!」
 青年は見つけられる気がしなかったのか、花の言葉にたいへん喜んで、涙を流しそうな勢いで感謝した。
 そんなに難しいことなのだろうか、と、別の方へ駆けていく青年を見送りながら、花は思う。
 確かに神出鬼没で得体が知れない感はあるが、今は、城の中にいることがわかっているのだから探しやすい。
(――城の中に、いるよね……)
 花は、はたと危険な可能性に気づいて、一瞬固まった。
 だが、すぐに師匠を信じようと首を横に振る。
 孔明は、今、以前と違って、玄徳に仕官している身だ。立場も仕事もある。あの執務室の机の上の書簡を片づけないまま、どこかにふらりと出かけるなんて、そんなことありえ――ないと言い切るのが、花には難しかった。
 もしかしたらあるかも、と思いながら、花は、とりあえず、廊下からおりてみる。
「師匠ー? 師匠ー?」
 屈みこんで、縁の下を覗いた。奥の方は暗くてよく見えない。
「花。何してるの?」
 もう少し潜ろうとしたとき、頭上から声をかけられた。
 花は、半分縁の下に入りかけていた体を引き戻し、顔を上げる。
 すると、呆れ顔の芙蓉とぶつかった。
「あ……師匠を探していて……」
 花は、自分の行動のおかしさを承知しているので、目が泳いでしまう。
「あなたの師匠はそんなところにいる可能性があるの?」
 芙蓉は不審そうに眉を顰めている。
 ますます孔明の評価を下げてしまったようだ。
「探しても、見当たらないらしいんだ」
 花は、孔明のために弁解した。
 あの青年は、色々通常探すようなところを探して回って、見当たらないから困っていたのだろうと思う。
 つまり、今、孔明は、仕事で関係するところにはいないということだ。
 縁の下よりは、屋根の上の方が可能性は高いだろうけれど、と思って、花はちらりと屋根を見る。
 孔明はまるで猫のようなのだ。木の上にいれば、屋根の上にもいる。
「あ」
 花は猫を思い浮かべて、ぴんときた。
「え?」
「わかった! ちょっと行ってくるね」
 花は、孔明の居所に見当がついて、衣を翻して駆け出す。
「師匠も師匠なら弟子も弟子ね」
 芙蓉は欄干に頬杖をついて、苦笑した。


 建物を離れた庭の隅に、日当たりのよい場所がある。人があまり来ることもないそこは、花も先日偶然見つけた休憩場所だった。
「師匠―?」
 そこに駆けていくと、予想通り、孔明がごろりと転がっていた。
 求めた姿を見つけられて、どこか安心する。それに、見つけることができて嬉しかった。
 近づいていくと、すやすやと気持ち良さそうに熟睡している様に、思わず笑みがこぼれてしまう。
 まさに猫のようなひなたでの昼寝だった。
 起こすのが忍びなくなる。
 叶うならば、花も隣に寝転がって、一緒に昼寝をしたいようなのどかさだ。
 だが、青年の困った顔から察するに、きっと急いで玄徳のもとに連れていった方がよい案件なのだろう。
 花は心を鬼にして、孔明の体を揺すった。
「師匠、すみません、起きてください。玄徳さんが呼んでるそうですよ」
「ん、んー……はな?」
 ごろごろはするが、寝汚くない孔明は、すぐに目をこすりながら起き上がる。
 体を起こして、一度大きく伸びをすると、しゃっきりとした顔になって、花を見た。
「おはよう」
「おはようございます。すみません、起こしてしまって。玄徳さんが呼んでるそうです」
「玄徳様が? なんだって?」
「用事の中身は聞いてなくて。ただ、玄徳さんのところの文官さんが、師匠のこと血相変えて探していたので」
「うーん。そう」
 孔明は心当たりがないのか、わずかに首を捻った。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「いいんでしょうか?」
「君に聞かせられない話は、あんまり聞きたくないからね」
 孔明はひとつ欠伸をして、立ち上がった。


「玄徳様、孔明です」
「ああ、孔明。入ってくれ」
 玄徳の部屋には、玄徳一人だった。
 例の文官の姿はない。まだ城内を探しているのかもしれない。
「花も一緒か。ちょうどよかった」
 孔明に続いて花も入っていくと、玄徳は邪魔がるどころか歓迎してくれた。
 花は、何の話だろうと身構える。
「さっき、いい桃をもらったんだ。お前たちも、籠ひとつもらってくれ」
 しかし、そんな花の前に、どーんと籠いっぱいの桃が現われた。
「…………」
 花は言葉を失う。
 急用、ではなかったようだ。
「なるほど」
 孔明がぽつりと呟く。
 その静かな声に、花は隣を見られなかった。
 近頃は落ち着いてきたとはいえ、まだまだ孔明は休憩がたまにしか取れないほど忙しい。さきほどの昼寝も、久しぶりの至福の時間だったことだろう。
 それを邪魔してしまって、申し訳なさすぎた。
「ん? どうした?」
 二人の間に走る緊張感に、玄徳が首を傾げる。
「玄徳様、ありがとうございます」
 孔明はそれには答えず、にっこり笑って籠を受け取った。
「あ、ああ」
 困惑気味の玄徳を置いて、二人は部屋を出る。
「師匠、すみません! 用事を確かめてから声をかけにいけば良かったです」
 花はすぐに謝った。
「いいよ。でもまあ、ボクの一週間ぶりの休憩時間がふいになったわけだけど」
「すみません」
 いいよと言いながら責めてくる孔明に、花は深く頭を下げる。
 すると、孔明が笑ったような気配がして、するりと手が伸びてきた。
 孔明に手を握られ、花はとっさに顔を上げる。
 孔明は楽しそうに笑っていた。
 どうやら、からかわれたらしい。
「じゃあ、昼寝に付き合って。もう少し休憩することにした」
 孔明の誘いに、花は破顔した。
「はい!」

 ぽかぽかとした陽だまりに、ふたりでごろりと寝転がり目を閉じれば、桃の匂いに包まれた眠りに落ちていく。

風化

 少しずつ失われていく。失われていくことさえ気づかないうちに。
 彼女の香りはどんなものだっただろう。
 彼女の声は、どんなものだったろう。
 彼女の大きさは。
 顔は。
 どんな風に笑って、怒って、悩んで、泣いていただろう。
 彼女の瞳は、涙で滲んでよく見えない。
 師匠、と呼ぶ声が遠い。
 どこにでもいるような、けれど、世界中のどこを探してもいない彼女。

 ――彼女?

 ボクは、どうして手を放してしまったんだっけ。


「孔明様」
 補佐官に声をかけられ、孔明は顔を上げた。
 補佐官の顔を見た途端、今考えていたことがわからなくなる。頭の一部分に靄がかかったようだ。
「どうした?」
 それでも、孔明は、常の癖で、なんでもない顔をして、彼に答える。しかし、頭の中では、今、失った思考を思い出そうと必死だった。だが、その端もとらえることができない。
「いえ、片づけをしておりましたら、このようなものが出てまいりまして。誰かの物のようなのですが、主が見当たりません。処分してもよろしいでしょうか?」
 そう言って、彼が差し出したのは、文箱だった。若い女性が好みそうな、綺麗な意匠のものだ。
「ああ、それは――」
 孔明の口が勝手に開く。考えるまでもなく体が動いた。しかし、言葉はそれ以上出てこない。
 喉がつかえた。
 誰かのもの、だったような気がする。見覚えがあるような気がする。
 しかし、思い出せない。
 ――思い出す? 何を?
 頭の中をぐちゃぐちゃにかきまぜられたような感じだった。気持ちが悪い。吐き気が襲ってきた。
 何か、大事なことを失っているような気がする。
 それなのに、それが何かわからない。
 さっき、何を考えていただろう。
「それは――――、もらっておく」
 誰のものかわからない――でも、誰かのものであったと思う文箱。
「はい」
 孔明は、補佐官からそれを受け取って、手にした重さに、胸がじくりと痛んだ。

 何か大切な約束があったような――。


 ――師匠。


 彼女ももう忘れただろうか。

星見

「師匠、星の見方を教えてください」
 先に休ませた花が、少しして部屋に戻ってくると、決意を固めた顔で言った。
 今日の空は、雲が出ているからとか、雨が降っているからとか、言い逃れができないくらいに晴れている。しかも若い月だから、星の独壇場だ。
 きらきらきらきら。
 まばゆいばかりに輝いている。
 孔明は忌々しくそれを一瞥して、花に視線を戻した。
 花の考えは簡単だ。例の本以外の導が欲しいのだろう。
 ――そんなこと、しなくてもいいのに。
「やだよ。こんなに暑いのに」
 孔明は、花に本当に嫌なのだと悟られないように、ただ面倒くさいから断っているのだと見えるように気をつけて、わざとだらしなく机に伏せる。
「今日は昨日ほどじゃありませんし、それにほら、冷たいものもらってきました」
 しかし、今日の花は本気だった。孔明が言いそうなことに対して、きちんと準備をしてきている。
 これは厄介だ。
 孔明は起き上がり、花が差し出した冷たい飲み物をありがたく飲みながら、考える。
 星を見るなら、新月の晩の方がよかったはずだ。それを今日まで待ったのは、このところ夜でもひどく暑かったからだろう。
 やっぱり花だと思う。でも一方で、これは花なのかとも思う。彼女は「花」だったけれど、もともと彼女はこんなことを考えたりはしなかった。こんな望みを、元の世界でも持ちえただろうか。
「……確かに、これはおいしいけど、でも、やっぱり今は駄目」
 孔明は、ほんのり甘い飲み物には合格を出し、花には舌を出す。
 一瞬のうちに、花の顔が不満げに曇った。
 そんな顔をされても、孔明に教えるつもりはない。そんなこと、できるはずがなかった。
 花の星があるかどうか怖くて見られないのに、どうやって人に教えられるだろう。
 花がいるのもいないのも知るのが怖い。
 星など、見たくない。
「今は、早く寝れるんだったら、さっさと寝て、体と頭を休めること優先。ボク、言わなかった? 早くおやすみって」
 孔明は羽扇を取って、自らを扇いだ。部屋にこもっている生暖かい空気が、頬にあたる。
「……言われました、けど……」
 花は頷きながらもまだ諦めないようだ。しかし、揺れ始めている。
「けどもなにもないよ。星を見るなんて、一朝一夕で身につくものじゃないんだから、今から学んでも役に立たない」
 これは本当のことだ。
 今、花がそれを知ったところで、覚えた頃には全て終わっているだろう。
 全て――。
 胸の奥が疼く。
 孔明はそれを感じながら、そよそよと花に風を送った。
「君は、星よりも先に文字が読めるようにならなくちゃ駄目だろ」
「うっ……」
 孔明の指摘に、花は言葉を詰まらせる。これなら、もう少しだけ食い下がったら諦めるだろう。
 孔明は心の中でほっとしながら続けた。
「わかったなら早く休むこと。襄陽はボクが落とすといっても、何があるかわからないんだから、体調は整えておいてね」
 もちろん、万が一にも何かがないように準備をしている。明日、青州兵を見たら、花はどんな顔をするのだろう。何を思うだろう。
 喜ぶだろうか。
 眉間にしわを寄せている花を見つめながら、孔明はぼんやりと思う。
「……わかりました……すみません」
 花は険しい顔を緩めて謝った。
 孔明の予想よりも早い撤退だ。最初の心意気を思えば、説得に応じるのが簡単すぎる。孔明は意外に思って、花を見つめ、その心を探ろうとした。
「寝ます。おやすみなさい」
 しかし、花は頭を下げて、孔明に背を向けてしまう。
「…………」
 もう少し話をして、花の心変わりを知りたかったが、孔明には呼び止める言葉がなかった。
 何を言っても、話が星を見ることに戻ってしまう。諦めることを望んだのだから、これでいいのだ。このまま出ていってくれればいい。
 そう思った矢先、花が足を止め、振り返った。
「……文字が読めるようになったら、教えてくださいね」
 やっぱり諦めきれないといった顔で、花は言う。
 孔明は、その一言で、花の気持ちを察した。孔明の言葉をそのまま受け取って、順序を追って学んでいこうと思ったのだろう。花らしい真面目さだ。
「いいよ」
 それならば、花がこの世界の文字を読めるようになるよりも先に、この戦を終わらせる。
 世界から戦がなくなれば、花にはもう、この世界の文字も、星の読み方も必要ないだろう。
 だから、孔明は軽く頷いた。
「ありがとうございます! 私がんばりますね」
 だが、花は、孔明のそんな心中など知らず、素直に喜んでいる。
「私、自分の星を見てみたいんです」
 そして、まっすぐに真剣な顔で言った。
 その顔には、覚えがある。
 遠い昔、自分もこんな顔で、必死に同じものを見ようとしていた。
 胸がずきずきと疼く。
 駄目だよと言いたくなって、どうにか堪えた。
 いつでも、いちばん言いたいことは伝えられないのだ。
「おやすみなさい。師匠も早く休んでくださいね」
 花は真剣な顔をしまって柔らかく笑うと、部屋を出て行く。
 花がいないと、部屋は、とたんにがらんと殺風景になった。花が帰った後の世界もきっと、こんな感じなのだろう。 
 そのときには、星を見ることもできるだろうか。
 孔明は思う。
 星を読むほど、世界の動静が気になるだろうか。
 少し、自信がなかった。

孤独

 

 ボクが心の中で思っていることを全て話したら、おそらく、ほとんど誰も真剣にとりあってはくれないだろう。
 理解ができない人が大半で、そうでない人は笑うはずだ。そして、ほんのわずかな数えられる人は、聞いてくれる。
 それくらい、おかしなことを考えているのだ。
 理解できないのは、知らないから。それを見たことがないから、思い描けない。夢を見ることもできない。
 笑うのは、それを知ってはいるけれど、信じていないから。信じられないのは、やはり見たことがないからだろう。
 けれど、ボクは知っている。
 見ている。触れている。
 「戦のない世界」がもたらすものを知っているから、その世界を思い描くことができる。
 きっと、その世界は、彼女のようにあたたかいだろう。


「ふくりゅう、先生?」
 身なりは簡素だが、常人ではない風格を備え、それ以上に世の中を見渡してもこの人以上に爽やかな人はいないといった好青年に道を問われた女は大いに首を捻る。
 青年は、伏龍先生の庵へ行くにはこの道でいいのかと、山からおりてきた女に聞いたのだ。
「あ、もしかして、山ん中の孔明とかっていう人のことか?」
 女の連れの男が、こちらも首を傾げながらも、青年に確かめる。青年のように立派な者が訪ねていく相手には思えなかったのだ。
「え、あの!?」
 女は、まさかそんなことはないだろうと言わんばかりに驚いている。背負っている山菜がたくさん詰まった籠が揺れたくらいだ。
 二人の反応はなかなかよくない。
 それを見て、青年は、連れの男二人と視線を交わしあった。
「あんたみたいな立派な人が、あんな変人を訪ねることはないよ」
「ああ、そうだ。明るいときは家ん中にこもって、夜になったら山からおりてきて、村や街を物色してるらしい」
「人が住んでる気配はあるのに、いつ行っても姿はない。若い男らしいって話もあるけど、人嫌いの偏屈爺だよ、きっと」
「行っても仕方ない。わるいことは言わない、やめときな」
 二人の熱心なすすめに、青年は困惑している。
 そんな彼らの頭上で、なるほど、と孔明は納得した。
 これが、「伏龍」の名声にもかかわらず、客が少ない理由だろう。
 村の者にあれほど気味悪がられている者を登用しようなどとは思うまい。
 だが、それでも彼は来るのだろう。
 孔明は青年を見つめた。
 さわやかな風貌の中で、その瞳は意志が強そうな光を宿している。
 どんな変わりものでも、使える者ならば招きたいはずだ。
 玄徳軍は、人手不足だから。
 彼女に出会えないまま、ここまで来てしまった。
 劉玄徳は、庵を訪ねるために、男女に礼を言って、山道を登り出している。
 誰もいないけどね、と思いながら見送って、人の気配が遠ざかった頃に、孔明は木の枝から飛び降りた。
 玄徳はもちろん、関雲長、張翼徳相手に気配を消し続けるのは疲れるものだ。
 凝ってしまった肩を回しながら、孔明は街道へ出る。
 彼女と再会することなく、時はここまで来てしまった。
 玄徳の招請を受けたら、隠者の生活も終わる。
 今、玄徳には確かに孔明が必要だ。
 しかし――。
 この世界から戦をなくすのは、自分の役目だったのだろうか。
 それならば、彼女は何のために来たのだろう。
 この道を行けば、彼女と会えると思っていた。

 ボクは、このままひとりで、戦のない世界を夢見るのだろうか。

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