しあわせなゆめ
「ん……」
眠りから覚めて体を起こす。その拍子に、肩から何かが滑り落ちた。薄桃色の外套だ。孔明は急いで拾う。
「あ、師匠。おはようございます」
ちょうどそこに、外套の持ち主が現われた。お茶の道具一式を手に、部屋に入ってくる。
眠る前の最後の記憶は、花とこの執務室で仕事をしていたというものだ。机で居眠りをしてしまったらしい。机の上には、やりかけの仕事がそのままになっていた。
花はその隙に休憩の準備をしに行っていたのだろう。
外套を脱いでいる姿は、隆中を思い出して少し苦手だ。
「ぐっすり眠ってましたね」
「激務なんだねえ。そろそろ休暇を申請しないといけないな」
花の声は気遣うようだが、孔明は居眠りの気恥ずかしさを誤魔化すために軽口を叩く。
成都に入って整備して、その傍らで停戦の交渉も進めている。激務なことは誰しも認めてくれるだろうが、休暇は誰一人として認めてくれないだろう。もちろん、孔明も休むつもりはない。あともう少しで、戦のない世界が手に入るのだ。
「そうですね。でも、こんなところで寝てると、風邪ひいちゃいますから気をつけてくださいね」
孔明の軽口に、花は笑って応える。
孔明は、手にしていた外套を思い出した。
「ああ、これありがとう」
花のもとにいって、外套を差し出す。
「あ、はい」
花はお盆を卓の上に置くと、それを受け取って羽織った。
見慣れた花に戻って、孔明はこっそりほっとする。
「師匠、お茶しませんか? 雲長さんからお茶とお菓子をもらったんです」
花はそんな孔明に気づかずに、朗らかに誘ってくる。
「うん」
孔明は頷いて、椅子に座る。
花は、菓子の皿を孔明と自分の前に置き、お茶をいれ始めた。
「雲長さんが、師匠のために、あんまり甘くないお菓子を作ってくれたんですよ」
うきうきとした様子で話す花に、ほんの少し意地悪な気持ちが刺激される。
「ボクのためにか。じゃあ、これ全部ボクの分?」
「師匠。弟子にやさしさを」
孔明が、花の分の菓子の皿を引き寄せようとすると、花は強い力でそれを引き止める。
「ボクほどやさしい師匠もいないと思うけど?」
「こ、このどこがですか!?」
それほど雲長の菓子が食べたいのかと、また意地悪な気持ちが膨らむが、勝手すぎることは重々承知しているので、孔明はそっと皿から手を放した。
「やさしい師匠で良かったね」
「はい。ありがとうございます」
花はそれ以上争う構えは見せず、含むところたっぷりの声で礼を言う。争うより菓子をとったのだ。軍師として合格だ。その不満そうな顔さえなければ。
孔明は笑って菓子を手にした。
「うん、おいしいね」
雲長の菓子は、甘いものが得意でない孔明でも、おいしいと思える。
「はい!」
菓子のおいしさに、花もさきほどのわだかまりも忘れたようで、満開の笑顔で頷いた。
その爛漫とした幸せそうな様子に、孔明も嬉しくなった。
「師匠、あの」
しばらく話をしていると、花がためらいがちに声をかけてくる。
「君、太るよ」
「うっ……」
花が全てを言う前に、孔明は釘をさした。花が話をしながらちらちらと孔明の皿を気にしていたことには、当然気づいていた。孔明の策の内だからだ。
孔明の皿には、まだ菓子が残っている。放棄したと思われるのに十分な時間、置いておいたので、花も勇気を出したのだろう。もちろん、これは花にあげるために残していたものだ。
「食べたいならどうぞ」
孔明は、花の前に皿を押し出す。
「師匠、ひどいです」
花は恨めしそうに菓子と孔明の間で視線を上下させた。
全く太っていないのに体型を気にするのだから、女の子はわからない。
「でも、食べるんだろ?」
そして、それほど気にしているのに、花の結論は決まっていることも、矛盾に満ちている。
「はい。せっかくの雲長さんのお菓子を無駄にできません。今日だけですけど」
花は孔明の想像した通りに頷いて、皿を引き寄せた。
まったくもって面白い。だから、ついからかいたくなるのだ。
「それ、前も聞いた」
お菓子を掴もうとする花の手が止まる。
「師匠」
おいしいものがおいしくなくなる、と花の目が訴えている。
やはり予想通りの花の反応に、孔明は笑った。
「ふぁあーあ」
心地よい陽気に腹も膨れて、孔明は大きいあくびをした。
「もう少し寝た方がいいんじゃないんですか?」
花が笑って昼寝を勧めてくる。
「うん、そうだねえ」
孔明は頬杖をつき、重い頭を支えた。
「君もようやく師匠を労わることを覚えたようだね。えらいえらい。じゃあ、お言葉に甘えて……」
話しながらも眠いので、孔明は卓の上に突っ伏す。
「ここじゃなくて、部屋で寝た方がいいんじゃないんですか?」
「それはもう昼寝じゃないよね」
花の提案は、本格的な睡眠だ。そこまでする余裕はない。
「それなら、これをかけてください。少し肌寒いですから」
花はまた外套を脱いで、孔明の肩にかけた。
外套に残る花の温もりに、孔明はどきりとしてしまう。顔を伏せていてよかったと思った。動揺を見られずに済んだ。
「君が着てなさい」
眠気が飛んだ孔明は、体を起こして花に外套を返す。風邪を引いてしまいそうな気温の中、花を薄着でなどいさせられない。
「部屋から、師匠にかけるものを持ってきます。それまで使っててください」
花は、そう言って手を出さなかった。
それ以上、花の厚意に背くようなことが言えず、孔明は花に外套を返すことができなかった。
「……それじゃあ、ありがとう」
説得負けしたような気になって、少し悔しい。
「師匠を労わることを覚えたので」
悔しさが漏れてしまったのか、花はおどけてそう言った。
その目には、言葉通り労わりと想いが浮かんでいる。
「うん……」
孔明は顔を伏せた。花を見ていられない。花を留めたくなってしまう。そんな欲を、「制服」姿の花が戒めてくる。
手を掴むのと手を放すのは、どちらも勝手なのだろう。
それでも、花の幸せを願ってやまない。
「おやすみなさい、師匠」
やさしい声がかかる。
遠い昔と変わらない声だ。
「おやすみ」
孔明は、ほんの少し胸が苦しくなった。
「師匠、師匠。こんなところで寝てると、風邪引きますよ」
花の声に、孔明ははっと起き上がる。
「ごめっ、ん……」
部屋の中はがらんとして、ひんやり冷え切り、静かだった。
この部屋はずいぶん前から孔明だけのものだ。
「ああ……」
孔明は呟く。その声は、ぽつんと部屋の中に落ちた。
窓から、ちらちらと陽の光がさしこんでいる。
幸せな夢を、見ていた。
――――君は今、幸せ?
孔明はそっと目を伏せた。