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2016年04月

昼寝の季節

 暑い夏の終わりは、雨と雷。
 ひとしきり嵐のように荒れたあと、爽やかな秋風が吹いた。
「涼しくなりましたね」
「うん。おかげで昼寝も快適」
 花は壁に背を預けて、孔明は花の膝に頭を預けて、休憩時間だ。
 夏の間はさすがに暑くて、汗ばんだ肌に触れてほしくない、と花が断っていたので、久しぶりな気がした。
「ねえ、師匠。これって、ほんとに寝やすいんですか?」
 花は前から思っていた疑問をぶつけてみる。常々、昼寝用の枕を用意しておいた方がいいのではと思っていた。そのほうがしっかりと休むことができるのではないかと。
 しかし、孔明は軽く頷いた。
「うん。だってほら、肌にすぐ触れるよ」
 ちゅっと花の膝に孔明の唇が触れる。
「ひゃっ!」
 びっくりした花は、思わず中腰になって身を引いた。
 ごとん、と孔明の頭が床に転がる。
「痛いよ、花。暴力反対」
「こっちはセクハラ反対です」
 頭を押さえて泣きべそをかく孔明に悪いとは思いながらも、花はそう非難し返した。
「せくはら?」
 孔明は首を傾げるが、花はその単語を説明するつもりはなかった。この世界に広めても仕方ない。
「……大人しく寝てください」
 花は、座りなおして、ぽんぽんと膝を叩く。
 だが、孔明は意表を突かれたような顔で、一瞬、固まった。
「? どうかしました?」
「あ、う、ううん。なんでもない」
 孔明は慌てて首を振って、再び横になる。
 さらりと孔明の黒髪が、花の足を撫でた。その感触が少し気持ちが良くてお気に入りなのは孔明に内緒だった。
 花は孔明の髪の中に指を埋める。
「……順応性が高いのも心配かもしれない」
 頭を撫でられながら、孔明はぼそりと呟いた。膝枕なんてと可愛らしく赤面していたのはついこの間のことだったのに。もう羞恥の外にあるのだとしたら、警戒もしなくなってしまうのだろうか。孔明は少しだけ不安になった。
「え?」
「なんでもない。さー寝よう。一眠りしてまた仕事だ」
 呟きを聞き取れなかった花に首を振って、孔明は目を閉じる。
 からっとした秋の空気はほどよく睡気を誘った。

恋し愛し

 

 愛しい。
 愛しい。

 君の手を握り、目を閉じる。
 眠りにつく不安はほんの少し。
 心の底にこびりついた不安のかけらがまだしつこく残っている。
 目覚めたときに、君はいるだろうか。
 目が覚めたら、「ここ」だろうか。
 君はここにいていいのだろうか。
 自己不信が胸を刺す。
 苦しいほどに恋しい。
「花」
 そっと囁いて、その肩を抱き寄せる。そして、その少女らしい柔らかな肢体を抱きしめた。
 腕の中に愛しい少女を抱く喜びと不安。それらが混じって、胸に染みていく。
 気持ちよさそうに眠る花から返事はない。
 少しためらってから、その薄く開いた唇に、素早くかすかに触れる。
 想うごとに愛しく、触れるごとに恋しい。
 君を手に入れられるのはいつだろう。
 この心が満ちるのはいつだろう。


 恋しい。
 愛(かな)しい。

夢の中の君

 長椅子の上に体を伸ばして、孔明が寝ている。
 このままでは風邪を引いてしまうだろうと思い、花は毛布をかけた。
 そして、再び自分の椅子に戻ろうとしたところで、手を掴まれる。
「花」
「師匠、寝てなかったんですか?」
「ううん。寝てたよ」
 ぱっちりと開いた孔明の目は、全く眠気がない。
 狸寝入りだったのかと少し憤慨すると、孔明は心外そうに首を振った。
「ねえ、花。好きだよ」
 唐突な告白に、花の思考回路は停止する。
 孔明は、まっすぐに花を見つめていた。
 混乱する。
「ど、どうしたんですか、師匠」
「師匠じゃないでしょ」
 孔明の両の腕が伸びて、肩にかかった。まるでぶらさがるような姿勢で、強請るように見つめられる。
「こ、孔明さん……?」
「うん、よくできました」
 孔明は嬉しそうに笑うと、腕に力を込めて、花を長椅子の上にひきずりこんだ。
「こ、孔明さん!」
 慌てる花をよそに、孔明はがっちりと花を抱きしめて、その首筋に顔を埋める。花は固まった。孔明の髪が喉元をくすぐる。首に息がかかる。唇が触れる。
「花、すき……」
 孔明はまるで子供のような声でそう呟いた。
 どきどきと花の鼓動が速まる。いつにない甘い囁きと熱い抱擁が嬉しくないわけがない。孔明の手に任せてしまおうと、花の体から力が抜けかかる。
 けれど、視界の端に戸を捉えて、花は一気に我に返った。戸には鍵がかかっていない。人が入ってきたら大変だ。
 「孔明さん、離して、ください」
 花は孔明の拘束を解こうと身をよじるが、孔明の腕はしっかりと体に絡みついて逃げられなかった。
「? 孔明さん……?」
 しかし、そのとき、花の耳は、すーすーという安らかな寝息を拾った。
 見れば、孔明は再び目を閉じている。そして、完全に寝ている。
 その意外と幼い寝顔に、花はため息をついた。

混乱

 戻りたい、と言う不安げな、頼りない声。
 これはどういうことだろう。
 頭は混乱しているのに、それでも、彼女に必要なものに導くために口は勝手に動く。
 彼女の姿はあのときのままだ。いや、少し幼くも見える。不安がそのまま顔に表れている。素直なのだ。
 10年前と変わらず。
 いや、と、何の証も得ていないのに、目の前の少女が「彼女」であると考える己に首を振る。
 彼女は「彼女」なのだろうか。
 それは分からない。けれど、分かってしまう。
 この少女は、「彼女」だ。

 花。

 ボクは君と出会って、君はボクと出会って。

「師匠」
 と、彼女の声が聞こえる。
 その柔らかな声音に、幼いながらも軽く嫉妬を覚えたものだ。
 彼女は、自分を導いてくれたという師匠を、とても尊敬していた。
 どくん、と心臓が大きく脈打つ。
 師匠とは誰のことだ。
 まさか。
 いや。

 彼女は、今、ここに現れた。

 あのときのように、突如として。
 そして、あのときと同じように消えるのだろう。


 ああ、天よ。
 ボクが彼女の師だなんて、残酷すぎやしまいか。


 花。



 心が爆ぜてしまいそうだ。

遠雷

 遠くで、空が轟いた。一瞬、閃く稲妻。雷だ。
 花は体を強張らせた。
 雷は苦手だった。
 できれば遠くに行ってほしかったが、音はどんどん近づいてくる。
 あちらの世界にいたときは、家族の誰かにくっついて、雷が過ぎるのを待った。でも、今は、そんなことをできる相手はいない。一人ぼっちで船に揺られている。
 花は、せめてもと寝台の上で膝を抱えて、シーツを頭から被った。
「花?」
 そのとき、灯が室内に差し込まれ、孔明が顔を覗かせた。
 花は、はっと顔を上げる。
「し、しょう……」
 びっくりした。誰かに来てほしいと願ったら来てくれた。偶然だろうが、絶妙なタイミングだった。
「どうしたの? 膝を抱えて」
 孔明は中に入ってくると、灯を卓の上に置いて、花の隣に座った。寝台が軋む。
「雷、苦手?」
「…………はい……」
 的確な質問に、花は素直に頷いた。
「そっか」
 孔明はそう頷くと、シーツごと花の体を抱き寄せる。
「!」
 花はますますびっくりした。
 玄徳なら分かる。雲長や翼徳もたぶんここまでは驚かない。けれど、孔明は、触れることを好まないような気がしていた。
 だから、躊躇いもせず抱きしめられて、花は大いに驚いた。
 孔明は、シーツの上から花の耳を塞いでくれる。
 雷の音が聞こえなくなった。その代わりに、孔明の心臓の音が聞こえてくる。
 とくん、とくんと規則正しい心臓の音。
 なぜか、とても落ち着いた。
「雷、やっぱり苦手なんだ」
 微かに聞こえた孔明の呟きに違和感を覚えて、花は身を捩る。
「師匠?」
「ん?」
 シーツの中から、孔明を見ると、孔明はいつになく優しい眼差しで応じてくれた。
 その瞳に、花は一瞬見とれた。尋ねようと思ったことが消えてしまう。
「……あの……なんでもないです」
 花はゆるく首を振って、再び孔明の胸に顔を押しつけた。
「うん」
 孔明も小さく頷いて、それ以上は訊いてこない。
 雷は遠く、響いていた。

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