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User: tati_kirakira

遣らずの雨(鴎芽)

 ぶるりと体が震えた。
 肌寒さに、手を伸ばして、そこにあるはずの温もりを探す。しかし、それは、ただ、シーツの冷たい感触に触れただけだった。
 芽衣はゆっくりと目を開ける。
 外は雨が降っているようだ。
 さーさーと雨の音が聞こえる。
 芽衣は、毛布の中で目を覚まし、おかしなことに気がついた。
 服を着ていない。
 一気に、頭が覚醒した。
(な、ななななんで!?)
 昨夜、寝たときは服を着ていたはずだ。それなのに、なぜ今着ていないのか、わけがわからなかった。
(……ね、寝ぼけて脱いだとかだったら、どうしよう)
 もう先に起きているようだが、この寝台を使っていたのは芽衣だけではない。
 それなのに、そんなことをしていたら最悪だ。
 芽衣は、おろおろしながら、とにかく服を探そうと毛布をかぶって起き上がった。
「おはよう、子リスちゃん」
 そんな芽衣の目の前に、いつも通りにこやかな笑みを浮かべた鴎外が現れる。行水をしてきたのか、手ぬぐいを持っていた。
 芽衣はびくっと体を震わせ、毛布をきつくかきあわせる。寝ぼけて服を脱いでいたなんて、鴎外に知られたくない。
「お、おはようございます」
「うん。いい朝とはいいがたい天気だが、まあ雨も悪いものではないね。今日は、昼には晴れるそうだが」
 鴎外は答えながら、そっと窓の外へと目をやった。
 鴎外は、晴れることをあまり好ましく思っていないようだ。
 芽衣は、憂いを帯びた切れ長の瞳に、見惚れてしまってから、そんな場合ではないと思い出す。
「あ、そ、そうなんですか」
 鴎外に返事をしながら、服はどこだろうと部屋を見渡す。
 寝ぼけて脱いでしまったのなら、ベッドの周りに落ちているのだろうと思ったのだが、床の上はきれいなものだった。
 しかし、床に散らばっていたとしたら、鴎外が見つけるはずで、鴎外が何も言ってこないのはおかしいと気づいて行き詰まった。
 いったい服はどこいってしまったのだろう。
「どうしたんだい、子リスちゃん。毛布をかぶったままで」
 ついには、鴎外に不審そうに問われてしまった。
「寒いのかい? なら、僕が温めてあげ――」
「い、いいです!」
 鴎外が近づいてきそうになったので、芽衣は全力で首を横に振る。
 とにかく、どうしてこういう状況になったのかはっきりするまでは、鴎外に知られたくない。恥ずかしすぎる。
「あまり強く拒絶されると、傷つくのだがね」
 鴎外の口の端が少しひきつっている。
 芽衣はそれを見て、慌てて謝った。
「あ、ご、ごめんなさい。そ、そうじゃないんです……」
 鴎外を拒絶したわけではなくて、芽衣には今のっぴきならない事情があるのだ。しかし、それを伝えるわけにもいかなくて、芽衣はおろおろと視線をさまよわせる。
「あ、あの、鴎外さん、先に、下におりていてください。朝餉の支度、そろそろできてますよね」
 結局、話を変えることにして、芽衣はそっと鴎外を促した。
 鴎外に部屋から出てもらえれば、芽衣の状態を知られることもなく、ゆっくり服を探すこともできる。もしかしたら、寝台の反対側に落ちているのかもしれない。
「それなら、一緒に行こうではないか」
 しかし、芽衣の希望に反して、鴎外にもっともな誘いを受けてしまった。
「それは……その……私は後から行きますから」
 言い訳にもなっていないことを言って、芽衣はぎゅっと毛布を握りしめる。
 何となくだが、鴎外は部屋から出ていきそうにない雰囲気だ。
(うう……どうしよう……)
 鴎外を相手に、うまくしのぐ術など、芽衣にはない。
 心底困った末に、ふと、鴎外を見ると、なんだかひどく楽しそうに見えた。
 芽衣は、若干の違和感を覚えて、それを見極めようと、鴎外を見つめる。
 すると、芽衣の視線に気づいたのか、鴎外の口元が引き締まった。
 それを見て、ぴんときた。
 どうして、その可能性に気づかなかったのだろう。
 鴎外だ。
 鴎外が服を隠したのだ。
 なぜそんなことをしたのかは分からないが、饅頭茶漬けといい、鴎外のやることは、たまに芽衣の想像を超えている。
「お、鴎外さん! 私の服を返してください!」
 芽衣は犯人と決めて、鴎外に訴えた。
「うん?」
 鴎外は小首を傾げて、何のことだといった顔で見返してくる。
 その顔に、鴎外ではないのだろうかと、不安がもたげた。
「ほら、子リスちゃん。いつまでも毛布をかぶっていないで、一緒に朝餉に行こうではないか」
 芽衣が戸惑っている間に、鴎外が近づいてくる。
「こ、ここ来ないでください」
 芽衣は、後ずさるが、すぐに背中が壁にぶつかってしまった。
「来ないで、とはまた、夫に対してひどい言い草ではないか」
 鴎外は悲しそうな顔をしながらも、芽衣の体の両脇に手をついて、体を伸ばしてくる。
「んっ……」
 唇が軽く触れる。
 芽衣は思わず目を閉じて、それを受け入れた。
 やわらかな唇が押しつけられて、離れた。
 そっと目を開けると、鴎外はまだ息がかかるほどの距離にいる。
「おはようのキスをしなければいけないだろう? 今度は、お前からだ」
 鴎外はその距離で、キスを要求した。
 見慣れているはずなのに、鴎外の端正な顔に見惚れてしまう。どきどきと胸が高鳴った。
 しかし、ほんのわずか残った冷静な部分が、こんなことをしている場合ではないと、芽衣に訴えてくる。
 芽衣は、一度、無理矢理、鴎外から目を逸らした。鴎外を見ていたら、どきどきが収まらない。ときめいていては、きちんと質すこともできない。
 芽衣は、がんばって顎を引いて、鴎外から距離を取った。
「お、鴎外さんっ、早くしないと、フミさんが呼びに来てしまいます」
 ただでさえ寝坊して、フミを手伝えていなくて申し訳ないのに、呼びに来てくれたときに、たとえフミにはわからないとしても、服を着ていない状態でベッドの中にいるのは居たたまれない。それに、もし、何かの弾みで、フミにばれてしまったら、恥ずかしくて、一週間は顔を合わせられない。
「服はどこですか」
 芽衣は、もう一度尋ねた。まっすぐ鴎外を見据える。
 鴎外はおもむろに体を起こして、腕を組んだ。
「そんなに服を着たいかい?」
 大真面目な顔で、鴎外は聞いてくる。
 どうして服を着たくないという発想があるのか、そちらの方が不思議だ。そう思ってから、行水を日課とするうちに、鴎外は、人より服への執着が薄くなってしまったのかもしれないと思い直した。
 ならば、しっかりと主張しないと伝わらないだろう。
「着たいです、もちろん」
 芽衣は、力強く頷いた。
「ふむ…………」
 すると、鴎外は息をついて、押し黙ってしまった。
 何をそれほど、考え込むことがあるのだろう。
 鴎外は、芽衣の服を隠したことを肯定していないが、否定もしていない。意図は分からないが、鴎外の仕業とみて間違いないだろう。
 芽衣はあらためて部屋の中を見回した。芽衣の服は見当たらない。どこかに隠したのか、芽衣の部屋に置いてきたのかもしれない。
 芽衣のタンスがある部屋は、隣の隣だ。そこに行けば、着ていた浴衣が見つからなくても、服はある。だが、その途中、フミに遭遇してしまったら、恥ずかしすぎる。ただ、部屋までは、ほんのわずかな距離だ。フミに出会わないことに賭けるか――。
 芽衣は考えながら、部屋の中を見回して、ふと、その目を鴎外のタンスに留めた。
(そうだ)
 それを見て、この状況を変えられることを思いつき、ベッドから飛び降りる。
「芽衣?」
 毛布をかぶったまま、突然俊敏に動き出した芽衣に、鴎外は不審そうに問いかけてきた。しかし、何をしようとしているのか見定めたいのか、止めることはしない。
 それをいいことに、芽衣は、勝手に鴎外のタンスを漁り、浴衣を引っ張り出した。
 鴎外は大きいので、浴衣ももちろん、芽衣の体には合わないが、浴衣ならば端折れば、それなりに着られる。洋服を借りるよりはましだろう。そして、毛布をかぶって動き回るのとは、天地の差だ。
 芽衣は、そう考えて、鴎外の浴衣を借りることにした。
「これでよし、と」
 毛布の中で、どうにか身につけて、最後に帯を軽くしめる。そうして、芽衣は一息ついた。鴎外から隠れるために、毛布の中で着るのは大変だったが、とにかく服を着られた安堵感は大きかった。
 芽衣は、堂々と毛布の中から立ち上がる。
 鴎外の着物はたっぷりと布が余ってしまっていて、ぶかぶかなのは否めない。しかし、自分の部屋に服を取りに行くのには十分だ。
「芽衣……」
 鴎外が、芽衣を凝視して固まっている。
「ちょ、ちょっと借りますね」
 鴎外の様子に、この格好は、みっともなさすぎたのかもしれないと、芽衣は焦った。とにかく早く部屋を出ようと思って、毛布をベッドに片づけに行く。
「きゃっ」
 そのとき、突然、後ろから抱きしめられた。
「お、おおおお鴎外さん?」
 唐突な抱擁にびっくりして、芽衣が振り返ろうとすると、くるりと体を反転させられる。そして、正面から抱きしめられた。
 見上げた鴎外の瞳は、熱を帯びている。いつも涼やかなのに、息が止まるほど熱っぽくて、芽衣の熱も上がるようだ。
「鴎外さん、あの……」
 芽衣は、見ていられなくて目を伏せる。
 再び、どきどきと心臓が早く鼓動を打ち始めた。
「本当にお前は、僕の想像を超えることをする」
 鴎外は、手の甲で、芽衣の頬をそっと撫でていく。
 それは、芽衣の台詞だ。さきほど、芽衣も、鴎外に対して同じことを思った。
「鴎外さんに言われたくありません」
「僕はいたって常識的な人間ではないか」
「そ、それこそ、私の台詞です。っ!」
 芽衣が唇を尖らせると、その唇に、鴎外は軽くキスをした。
 不意をつかれて、芽衣は顔が真っ赤になってしまう。
「そうだろうか」
 しかし、鴎外は、ひどく真面目な顔で、芽衣を見つめていた。
 思わず反論の言葉を失うほど真剣な瞳に、芽衣も鴎外を見つめ返す。
(……鴎外さん?)
 軽口の応酬のつもりでいた芽衣は、戸惑った。
 鴎外は、いったい、何を思っているのだろう。
「お――」
「こんなに可愛いのは、常識を外れている」
「なっ……」
 しかし、どうしたのかと問おうとしたとき、鴎外はそう言って笑った。真面目なことを言われると思って構えていた芽衣は、さらに顔が熱くなってしまう。
「本当のことなのに、恥ずかしいのかい」
 赤くなる芽衣に、鴎外はおかしそうに笑った。どうやらからかわれただけらしい。
「僕の服を着た子リスちゃんは、可愛さが百倍増しだ」
 鴎外はご満悦そうに芽衣を見つめ、こめかみにキスをした。
 自分の服を手に入れるための苦肉の策だったのに、鴎外を喜ばせることになるとは、思いもしなかった。
「今度から、お前は僕の服を着るといい。ああ、でも、僕の前でだけだ」
「は、はい」
 あまり可愛いと言われると、この格好は相当恥ずかしいものなのだと思えて、芽衣は頷きながらも目を伏せる。
 すると、鴎外は顎をそっと掴んで、目を覗き込んできた。
「お前は、僕のことだけを見て、僕のことだけを考えていればいいのだよ」
 鴎外の声が耳を震わせる。深い色の瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。
「わかったかい」
 返事は、ひとつしかない。
「はい」
 芽衣はしっかりと頷いた。


 その後、実は、フミは屋敷にいないと知らされた。体調を崩してしまい、今日は休ませてほしいと、今朝、彼女の夫が伝えにきていたそうだ。
 芽衣は、その呼び鈴にも気づかず、のんきに寝ていたらしい。鴎外が気づいて、対応してくれたというのが、何とも申し訳なかった。
 フミのことは心配だったが、屋敷にいなかったというのは、ほっとした。だからこそ、鴎外もあんな悪戯をしたのかもしれない。
 窓を叩く雨の音に、鴎外に寄りかかって微睡んでいた芽衣は、少し顔を上げた。鴎外は、昼には止むと言っていたが、その予報は外れたようだ。
「ああ、晴れなかったね」
 肩越しに外を見る芽衣の視線に気づいて、鴎外も読んでいた本から顔を上げ、窓の方へと視線を流した。
「よかった」
 降り続けている雨を見て、鴎外はそう漏らす。
「雨が好きなんですか?」
 芽衣は意外に思って聞いた。
 鴎外には、どちらかというと、晴れが似合うように思う。
(ああ、でも、鴎外さんは雨も似合うかも)
 しかし、そう思ったそばから、芽衣は自分の考えを翻した。
 華やかな雰囲気と、まっすぐな気性には、突き抜けるような青空が似合うと思ったが、執筆をしているときや、読書をして思索に耽っているときなどは、雨がよく似合う、哲学者のような雰囲気をまとっている。
 どちらの鴎外も素敵なことには変わりない、と芽衣は、誰かが聞いたら、ひどいのろけだと顔を顰めるようなことを思った。
「そうだなあ。雨は嫌いではないが……やはり、晴れの方が好ましい。清々しいではないか」
 鴎外は、いったん頷きながらも、最終的には、晴れに軍配を上げた。
 鴎外らしい理由に、芽衣は笑って頷く。
「ただ、今夜は満月だ。雨が降れば、月を隠してくれるだろう? お前を奪われる心配をしなくていいから、満月の日の雨は実にいい」
 しかし、続けて、今日の雨を賞賛した。
「え……」
 思いがけない言葉に、芽衣は目を瞬いた。
 ここに来て、もう何度、満月の夜を過ぎたことだろう。
 それでもまだ、鴎外はそんな心配を抱えているなんて、知らなかった。
「僕は、いつになったら、お前を手に入れることができるのだろうね」
 鴎外は、芽衣の髪を指に絡ませながら呟く。
 芽衣はさらに驚いた。
 折に触れ、鴎外は、芽衣は自分のものだと言っているのに、どういうことだろう。それに、これまでも、これからも、芽衣は、ずっと、鴎外のものだ。想いを交わしあったときから、ずっと。
 そんな寂しそうな顔で、そんなことを言わないでほしい。
 胸が痛い。
「私は、鴎外さんのものですよ」
「突然、僕の前に現れて、目を離したら、同じように突然、消えてしまいそうだというのに。お前は、この世の理の中にいるかい?」
 鴎外が芽衣を見た。
 その瞳は、少しだけ不安そうだ。いつも自信に満ちているだけに、揺れる眼差しは、胸を衝いた。
 さきほど常識云々の話をしたとき、可愛いなどと軽口にしていたが、本当は、これを言いたかったのではないだろうか。
「私は、ここにいます」
 芽衣は、しっかりと肯定してから、鴎外の胸に頬を寄せる。体温を伝えれば、鴎外も実感できるのではないかと思った。
「うん、もちろんだ。それに、僕がどこにも行かせない」
 すると、鴎外は笑って頷き、それ以上に力強い言葉を告げて、芽衣を抱き寄せた。
 今まで、この笑顔に、堂々とした言葉に、強い抱擁に、いつも安心させてもらっていた。
 しかし、この笑顔の下で、まだ拭えない不安を抱いているのだ。
 あの赤い月が遠くなってもまだ。
「毎日雨なら、ずっとこうしていられるのだがね。結局、いずれ晴れてしまう」
 鴎外は、また窓の外を見て、呟いた。
 今日の雨が、鴎外の心も湿らせ、弱らせているのかもしれない。
(……もしかして……)
 芽衣は、ひとつ思いついた。
 服を隠したのも、芽衣がどこにも行けないようにだろうか。服を着ないで、どこかに行くことはない。どこにも行けない。
 奇抜だが、理にかなっている。鴎外らしい考えのように思った。
(何度も、僕のものだと言うのも、不安があるから――)
 芽衣は体を起こす。
 鴎外に守られて、たくさん安心させてもらっているのに、鴎外を不安にさせているばかりで、それに気づかないなんて、なんてひどいのだろう。
 自分が情けなくて、腹立たしくて、鴎外に申し訳なくて、泣いてしまいそうだ。だが、今は泣けない。
 芽衣は、その頬に手を添えて、鴎外の顔を覗き込む。
「芽衣?」
 突然の行為に、鴎外は首を傾げた。
「鴎外さん。好きです」
 芽衣は前置きもなく告げる。
 謝罪や感謝や色んな言葉が脳裏をよぎったが、どれよりもふさわしいのは、それだと思った。
 芽衣は鴎外が好きだ。だから、不安にならないでほしい。
 鴎外は虚を衝かれたように、小さく目を見開いた。
「どうしたんだい、突然」
「今、伝えたくなりました」
 芽衣は、泣きたい気持ちを堪えて微笑む。
 他に、どうしたらいいのかわからない。どの言葉も適当でないと思う。しかし、それでも足りない。鴎外の不安を、きれいに取り除きたい。
 不安になんて思わなくていい。
 鴎外のことを想っている。
 この心から体まで、すべて、鴎外のものだ。
「鴎外さんのこと、好きなんです」
 芽衣はもう一度告げた。
「僕も愛しているよ」
 鴎外は優しく笑って、頬にある芽衣の手を握った。それから、体を起こして、芽衣に口づける。
 鴎外には、芽衣のもどかしい気持ちまで、伝わってしまったのかもしれない。
 いたわるような口づけだった。
 また、鴎外にもらってしまった。
 雨が止まなければいいと思う。
 それで、鴎外の不安がなくなるのなら、晴れの日などいらない。雨が降り続けて、月を隠していればいい。
 ずっと、ここにいられるように――。
 芽衣は、祈るように思って、目を閉じた。

 

 

おわり

パジャマパーティーは朝まで


※めいこいFCの小咄動画「パジャマパーティー編」ネタです。未視聴の方はお気をつけください

 

 


「だーかーらー! 菱田から言えって!」
「泉が言いなよ」
「すーすー」
 不毛な言い争いと寝息が響いている春草の部屋に向かって、芽衣は階段を上がっていた。その手には、フミが用意していった夜食がある。
 鴎外との話が弾んで夜遅くなったため、鏡花が屋敷に泊まることになったのだが、客間を使ってもらうのではなく、春草の部屋に集まって寝るのだという。いわゆるお泊り会だ。
(お泊り会なんて楽しそうだな)
 恐らく鴎外が言い出したことで、部屋の主は嫌がっているのではないだろうかとは思われるが、それでも、いつもと違う夜は特別だ。壁一枚隔てた向こうは三人と思うと、同じ屋根の下で、芽衣だけひとりきりで寝るのが、少し寂しい気にもなってくる。
 しかし、男性三人のお泊り会に混ざるのは、芽衣も気が引けるし、きっと芽衣が想像する以上に問題があるだろう。鴎外は歓迎してくれそうだが、春草と鏡花は白い目で見てきそうだ。
(……たとえば……)
 芽衣の頭の中に、春草の面倒そうな、心の距離を大いに感じる顔が浮かぶ。
『君ってさ、本当に図々しいよね。夜食が食べたくてこんなところまで来るなんてさ』
 まるで芽衣の体の中の全てが胃袋であるかのような、異物を見る目だ。
(私の分はフミさんが別に用意してくれました!)
 芽衣は、自分の想像ということを忘れて、妄想の中の春草に反論した。
(それに……)
 今度は、鏡花の目を吊り上げて怒った顔が浮かんでくる。
『あんた、何考えてるのさ! み、未婚の男女が同じ部屋で寝泊まりするなんて、破廉恥極まりない!』
 そして弾丸のような非難が聞こえた。
(…………なしだ)
 想像上の二人の反応を受けて、芽衣はそう結論づけた。
 お泊り会なんて楽しそうだし、興味もあるが、参加してはいけないものだった。軽はずみな発言をする前に気づけて良かったと胸を撫で下ろしたとき、ちょうど春草の部屋の前に着いた。
 屋敷の作りはしっかりしているので、中の様子は窺えない。
 盛り上がっているかなと思いながら、芽衣はノックをした。
 その向こう側では、ノックによって、ぴたりと春草と鏡花の口論が止み、ぱちりと鴎外が目を開けていた。
 すでにフミは帰っているため、この屋敷の中にいるのは、ここにいる三人と、もうひとりの居候だけだと、三人の脳裏に、同時に芽衣の顔が浮かぶ。そして、三人はそれぞれをすばやく一瞥した。一瞬、三すくみのような、こう着感が部屋を支配する。
「すみません」
 だが、それを、ノックに続いた芽衣の緊張感のない声が破った。
「ひゃっ」
 その声に、鏡花は心臓を跳ね上がらせて息を飲む。密かに大いに気にしていた芽衣の突然の登場に、激しく動揺していた。
「ど――」
 部屋の主として、春草が応じようと戸に向かう。しかし、その行く手に、えんじ色の羽織が広がって、彼は目を瞠った。
「鴎外さん」
 寝ていたはずの鴎外が、春草に一歩先んじていた。
「子リスちゃん。どうしたんだい」
 鴎外は、そのまま戸を開け、芽衣を迎える。
「あ、鴎外さん」
 芽衣は、春草ではなく鴎外が出てきたことに少し驚いたが、すぐに盆を差し出してみせた。
「フミさんが、皆さんにって用意してくれた夜食を持ってきました」
「ありがとう。子リスちゃん」
「いえ」
 笑顔で礼を言ってくれる鴎外に、芽衣も微笑む。
「――?」
 しかし、鴎外がそれ以上微動だにしないので、芽衣の頭は、膨らむ疑問に次第に傾いていった。
 鴎外は完璧な笑顔だ。
(??)
 夜食を中に運び入れたいのだが、鴎外に動く気配は全くない。
「今まで忘れていたわけ?」
 成り行き上、鴎外と見つめ合っていると、鴎外の向こうから、冷めた春草の声が飛んできた。
 芽衣ははっとそちらを見やる。鴎外が戸口を塞ぐようにして立っているので、部屋の中の様子はよく見えないが、ちょうど春草の呆れ顔だけはしっかり見えた。
「ち、違います。夜食なので、少し時間を置いて持ってきたんです」
 鴎外の肩越しに、芽衣は春草に弁解する。
「鴎外さんはもう寝てたよ」
 だが、それは一瞬にして、打ち破られた。
「えっ、す、すみません!」
 芽衣は驚いて、目の前の鴎外を仰ぎ見る。それは確かに遅すぎると言われて当然だ。
「そんなことはない。子リスちゃんは、実にいい時に持ってきてくれた!」
 しかし、鴎外は軽く首を横に振ると、力強く芽衣を肯定してくれた。それから、自分の肩にかけていた羽織を脱ぎ、芽衣にかけてくる。ふんわりと煙草混じりの鴎外の匂いが広がった。
「? 鴎外さん?」
 こんなことは初めてで、芽衣は戸惑う。鴎外の温もりが残る羽織は、芽衣の心をどきどきさせるのに十分だった。
「さあ、子リスちゃん、入りたまえ。一緒にパジャマパーティーを楽しもうではないか!」
 しかし、鴎外は、そんな芽衣をよそに、満面の笑みで手を広げ、道を開けた。
「え……!」
 参加できなくて寂しいと思ってはいたが、諸々の理由から諦めるという結論に至っていた芽衣は戸惑って、春草と鏡花に視線を移す。二人の反応を確かめるためだ。予想通り鴎外は歓迎してくれたが、二人は違うだろう。
「わあああ、あ、あああんた、何て格好してるんだよ!」
 そうして、目が合った途端、鏡花が叫び声を上げて、ぱっと風を切る音が聞こえそうなほど勢いよく顔を背けた。その顔は首筋まで真っ赤だ。
「えっ、す、すみません」
 そんな反応をされると、芽衣も恥ずかしくなる。夜食を運んだらそのまま寝るつもりだったので寝間着のままで来たのだが、よくなかったらしい。鴎外が羽織をかけてくれた理由がわかった。
「本当に、君は軽率だよね」
 春草の声も目も、いつも以上に冷たい。
「う……」
 その通りだと思って、芽衣は言い返せずに縮こまった。
「こらこら春草、子リスちゃんを脅かすものではないよ。それに、泉くんもそんなに騒ぐものではない」
 すると、鴎外が華麗に割って入って、春草と鏡花を諌めた。
「ここは子リスちゃんの家で、こんな時間なのだ。寝間着でいるのは至極当然ではないか。我々だって、そうだろう?」
「ですが、泉がいます」
「ひ、ひひひひ菱田はいいのかよ!」
「俺は、同じ屋敷で暮らしているんだから、もう何度も遭遇済みに決まってるだろ」
「!!」
 春草が呆れをたっぷり詰めたため息を吐きながら言うと、鏡花は目を剥いて、息を飲んだ。
(遭遇って……。人を物の怪か何かみたいに……)
 春草の言い様に不満を覚え、芽衣はその気持ちを丸出しにした視線を送ってしまう。
「なに、その顔」
 それに気づいて、春草が顔を顰める。
「もしかして不満でも――」
「あ、ああああんたさ!」
 いつもの春草の辛口な言葉が続きそうだったが、鏡花が突然声を裏返しながら割って入ってきたので、それは免れた。
「いくら一緒に暮らしてるからって、ひ、菱田や森さんの前でそんな格好でうろうろするなんて、何考えてるのさ!」
 代わりに、鏡花に激しく非難される。
 お泊り会に参加したら怒られるだろうと予想していたが、参加しなくても怒られてしまった。結局、どうあっても鏡花には怒られるのだろう。
「す、すみませんでした、軽率で」
 芽衣はすぐに謝った。
 二人の気分を害してしまったのならば申し訳ないし、迷惑そうな春草と、非常識だと非難するような鏡花と、満面の笑みをうかべている鴎外に、嵐の予感しかしなくて、夜食を置いてさっさと逃げ出したいというのもあった。
 その盆を、さっと鴎外に取られる。
「いいのだよ。これで、子リスちゃんも、パジャマパーティーに参加できるのだから。――春草」
 そして、鴎外は、盆を春草に渡しながら、もう一方の手で芽衣の手を取った。
「で、でも……」
 ぎゅっと手を握られて、どうにも逃げられなくなり、芽衣は弱る。
 鴎外はそう言うが、参加は全く許されていない雰囲気だ。
「今、とても楽しい話をしていたのだよ」
 それをただ一人感じ取っていない鴎外は、言葉通り実に楽しそうに話し始めた。
「お、鴎外さん!」
 春草はぎょっとして声を張り上げた。鴎外の言う楽しい話が、「コイバナ」であることは明らかで、それを芽衣を交えてするなんてことは、春草はごめんだった。
「本気で、彼女もここで寝かせるつもりですか?」
「ああ。もちろん。春草は、子リスちゃんを仲間外れにするのかい?」
「仲間外れとかそういう話ではありません」
 まるで春草が人非人であるかのような言い方に、春草はむっとした様子で正した。
「一つ屋根の下にいるというのに、子リスちゃんだけ一人きりというのはかわいそうだろう? みんなでいた方が楽しいに決まっている。泉くんもそうは思わないかい?」
「あ、えっ、ぼ、僕っ、ですか!?」
 出し抜けに、鴎外に水を向けられて、鏡花はびくりと肩を震わせた。
「ああ、泉くんだ」
 鴎外は笑っているが、圧倒的なプレッシャーを感じさせる。
「は、はいっ、そのー……それは……」
 芽衣ですら感じるのだから、当の鏡花はもっとだろう。いつも舌鋒鋭い鏡花がたじたじとしていた。
「その、確かに、ひとりは寂しい……ああいや、けど、でも、未婚の男女が同じ部屋で寝起きするのは、その……あんまりよくないんじゃないかなーというか……」
 鴎外と芽衣の間で視線をさまよわせて、もごもごと口の中で意見を述べた。
 鏡花にいつものキレがない。憧れの人に正面切って盾突くような真似は、いくら鏡花でもできないようだ。
 今日の日中、鴎外と話しているときにも見た、借りてきた猫のような鏡花が珍しくて、芽衣は思わず見つめてしまう。
(あ、鏡花さんだから、借りてきたウサギかな……)
 芽衣は、自分の思いつきがうまく思えて、ふふっと笑った。
「君さ」
 そのとき、春草に声をかけられて、芽衣はぎくりと体を強張らせた。
(い、今の、見られた!? 緊張感がないって怒られそうだ)
 芽衣のことで紛糾しているのに、その傍らで、まるで他人事のように笑っているのだから、春草に呆れられてもおかしくはない。
 芽衣は、遅ればせながら緊張して、春草を振り返った。
「は、はい」
「夜食置いたんだから、さっさと行きなよ」
 春草は、芽衣がのんきに笑っていたところは見ていなかったのか触れず、そう言ってきた。
 どうしてまだここに留まっているのか、疑問でしかないといった様子だ。
 注意されなかったことにほっとしながらも、芽衣は困ってしまった。ここにいるのは、芽衣の自由意思ではない。芽衣の手は鴎外に握られたままなのだ。だから、春草に迷惑を全面に押し出されても、どうしようもなかった。
「その……」
 芽衣はちらりと繋がれた手に視線をやって、残りたくて残っているわけではないと、春草に訴えた。
 それに対し、春草は、そんなものは問題ではないと言わんばかりに、眉間に皺を寄せる。
 振り払えるだろうということだろうか。
 確かに思いきり手を振ったら離れるかもしれないが、それは過剰すぎるように思えて、躊躇ってしまう。
 すると、二人の動きに気づいた鴎外が、繋いだ手を持ち上げて、軽く接吻した。
「いいのだよ、子リスちゃんはここにいなさい。春草は照れているだけなのだから」
「っ」
「ひっ」
「違います」
 その西洋風の振る舞いに、芽衣は固まり、鏡花は息を飲んで、春草は素早く否定した。
「だいたい、布団はどうするんです? もう敷けませんよ」
 春草は再びため息をつくと、部屋の中を示してみせた。春草の部屋は狭くはないが、布団を三組横に並べて敷いていっぱいだった。これ以上、布団を敷く余地はない。物理的に無理だと、春草は冷静に指摘した。
「僕の布団を使えばいい」
 鴎外の返答は淀みない。
 春草は念のために聞いてみた。
「……鴎外さんはどうするんです?」
「無論、僕の布団を使うよ」
 鴎外は今度も滑らかに答えた。全く曇りのない笑顔だ。
「ん?」
 しかし、どこか違和感を覚え、芽衣は首を傾げる。
 それを解消してくれたのは、やはり春草だった。
「それは、ふたりで同じ布団を使うということでしょうか」
 春草が低い声で、鴎外に問う。
「えええっ!!」
 鏡花がとうとう鴎外を非難するような悲鳴を上げた。
 芽衣も驚きに目を見開いて、鴎外を凝視する。それは、いくらこの時代の常識がない芽衣でも固辞したい。
「やれやれ。それでは、もう一組、布団を持ってくることにしようか。少しずつ重ねれば四つ敷けるだろう」
 全員から否定的な反応を受けて、鴎外は肩を竦めた。まるで譲歩しているような素振りだが、それは鴎外以外の誰の望みでもない。
「い、いえ、鴎外さん。私、自分の部屋に戻ります」
 このままでは、ここに泊まることになってしまいそうだと、芽衣は急いで首を横に振った。
「子リスちゃん。遠慮しなくていいのだよ」
 だが、芽衣の主張は軽くいなされ、鴎外に紳士的に微笑まれてしまう。
「いえ、遠慮ではなく――わっ」
 芽衣が重ねて首を横に振ろうとしたとき、鴎外が突然ぐいと繋いでいた芽衣の手を引いた。
「ひとりは寂しいだろう?」
 傾く芽衣の体をそっと支え、ひどく優しく目を覗き込んでくる。
 繕ったり、誤魔化したりすることができなくなるような視線だ。どきどきと芽衣の心拍数が上がっていく。
「鴎外さん!」
「も、森さんっ!?」
 春草と鏡花が、焦ったように声を上擦らせて、鴎外を呼んだ。
 その声に、芽衣がそちらを見ようとしたら、鴎外は、芽衣の頬に手をやって、視線を外すことを許さなかった。
「お、鴎外さん……」
「ん?」
 じっと見つめられて、頬が紅潮していく。
「そ、それは……寂しい……です、けど……」
 否定しなくてはいけないところなのに、芽衣はつい本音を漏らしてしまった。
 壁一枚隔てた向こうで、みんなが仲良くお泊り会をしているのに参加できないのは、なんだか寂しい。そう思ったのは事実だ。
 寂しいと言ってしまったことが恥ずかしくて、頬がさらに赤らむ。間近にある鴎外の瞳を見ていられず、芽衣はそっと目を伏せた。
「子リスちゃん……」
 手を掴んでいた鴎外の手に力がこもり、小さく震える。それから、ぱっと手が放された。
「わかった。なら、僕が子リスちゃんの部屋に泊まろう!」
 そして、鴎外はその手を振り上げて、高らかに宣言した。
「鴎外さん。なぜそうなるんですか」
「えっ!」
 鴎外の自由な発言には慣れている春草はすかさず突っ込むが、その隣で、慣れていない鏡花は驚いて飛び上がっている。
 芽衣もびっくりした。全く思いも寄らない提案だ。
「春草は、子リスちゃんが、ここに泊まるのは反対なのだろう? だが、子リスちゃんは寂しいと言っている。ならば、僕が子リスちゃんの部屋に泊まりに行かねばなるまい!」
 芽衣がぱちぱちと目を瞬いていると、春草の問いかけに、鴎外はまるで騎士然とした態度で答えた。
「なるまいって……」
 とうとう春草も額を押さえてしまう。三人の中では最も鴎外のことを知っている春草は、ここで四人で寝るか、隣の芽衣の部屋で、鴎外と芽衣が一緒に寝るかしか道がないと悟ったのだ。そのどちらも、春草は歓迎できるものではなくて、頭が痛かった。
「お、鴎外さん! やっぱり私、ここでみんなと一緒にお泊りさせてもらいます! 鴎外さんの言う通り、せっかく一つ屋根の下にいるんですから、みんなでいた方が楽しいですよね! ね!」
 遅れて芽衣も察して、慌てて鴎外に訴えた。ここで四人かあちらで二人か。どちらも常識から外れているのであれば、より外れていない方を選択したい。
「お、お布団持ってきますね!」
 鴎外の昂揚した様子から、もたもたしていたら、ここで四人もなしになってしまいそうに思えて、それ以上何かを言われないうちにと、芽衣は春草の部屋を飛び出した。
 廊下を走りながら、このまま戻らなくてもいいのではないかという考えが頭を掠める。しかし、それは鴎外を自室に招くこととイコールだ。
(まあ……鴎外さんの言う通り、ひとりは寂しいなってちょっと思ったから……いいって思おう……)
 春草と鏡花も成り行きを全て見ていたのだ。芽衣の失言があったにせよ、仕方がなかったと思ってくれるだろう。
 芽衣はため息をついて、自分をそう納得させた。

 この後、芽衣の布団をどこに敷くかでまたひと騒ぎ、鴎外がコイバナを始めようとしてもうひと騒ぎと、屋敷は明け方まで静かになることはなく、フミの夜食は大いに感謝されたのだった。


おわり

誕生日ばなし(藤芽)

 そっと生垣の奥の家の様子を窺うと、しんと静まり返っていた。さきほど、玄関でも呼びかけてみたのだが、応答はなかった。居留守を使われているのかとも思ったが、本当に留守のようだ。
 芽衣は、きょろきょろと周りを見回してから、えいっと生垣を飛び越える。不法侵入だが、きっと大丈夫だろう。芽衣は、最近八雲みたいになっているなと思いながら、そっと縁側から上がり込んだ。
 家の中には、やはり人気はない。藤田は外出中のようだ。
(誕生日なのに、どこに行ってるのかな)
 帝國ホテルにいる警察官に、藤田が今日は非番だと聞いたので来たのだが、空振りだ。
(もしかして……誰かにお祝いしてもらっているのかな)
 がらんとした家は寂しくて、そんな心配が湧いてくる。心に不安が広がった。それならば、これはいらないものだ。芽衣は持ってきた食材や料理、お酒を見下ろす。藤田の誕生日をお祝いしたくて、買い集めた品だった。
(……これが無駄になるのは、もったいないな)
 本当は、藤田をお祝いできないかもしれないことが嫌なのに、芽衣はわざとそう思って、自分の心を誤魔化した。
(……ちょっと買い物に行ってるだけかもしれない……)
 芽衣は不安を振り切るように、勢いよく荷物を抱え上げる。とにかく準備をしてしまおうと、台所に向かった。何度か出入りしている間に、使い勝手がわかり出した、勝手知ったる他人の台所だ。芽衣はその台所に入ると、自分の家のように買ってきたものを調理台の上に並べた。温めるだけでいいものから、調理をしないといけないものまでさまざまある。せっかくだから、テーブルいっぱいに料理を並べて、たくさんお祝いしたいと思ったのだ。
「よし」
 芽衣は、さっそく準備にとりかかった。
 そうして、料理に専念すること三十分。現代よりも作業が大変なこともあって、芽衣は、すっかり、心配と留守宅にあがりこんだことを忘れて、料理に集中していた。
「おい、何をしている」
 そのため、突然、背中にかけられた低い声に、芽衣は、とび上がって驚いた。しかし、すぐに状況を思い出す。完全なる不法侵入だ。そのうえ、勝手に台所を使っている。これは何という罪なのだろう。ここまで堂々とやらかしておきながら、芽衣はどうにか逃れる術はないかと焦る頭を働かせた。
「おい。聞いているのか?」
 藤田の重ねての声に、汗がどっと湧き出る。
 これはもう観念して、お縄につくしかないのかもしれない。
「おい!」
 藤田の大きな声とともに、芽衣の体がふわりと浮かぶ。
 強制排除しようと思ったのか、藤田が背後から芽衣の腰を掴んで持ち上げていた。
(うわっ……!)
 そんな方法で軽々と持ち上げられてしまって、芽衣は驚いた。
 足がぶらぶらしている。この年齢になってから、こんな風に持ち上げられたことはない。まるで子どもだ。
 と、そのとき、芽衣は、台所の入り口に置かれた荷物に気がついた。紫の風呂敷に包まれた、なんだか頭を下げたくなるような、立派な佇まいのものだった。
(誰かにもらったプレゼント……?)
 そう思いついて、ちくりと胸が痛む。
 あんなに立派なものに込められた想いは、それ相応のものに思った。いったいどんな人にもらったのだろう。
(……女の人だったら、嫌だな……)
 勝手に相手を想像して落ち込み、芽衣は俯く。
 あの贈り物は、大人な藤田にぴったりのように思えた。留守宅に押しかけて、勝手にお祝いの準備を始めるような芽衣とは振る舞いが違う。芽衣はまるで子どもだ。ぶらつく足に、ますますその思いが強くなる。実際、藤田から見たら、子ども以外の何物でもないだろう。
「……ごめんなさい。帰ります」
 どんどんマイナス思考に傾く間に、涙がこぼれてきそうになって、芽衣は慌てて言った。これで泣いたりしたら、藤田にさらに迷惑をかけることになる。
「は?」
 藤田は面食らったように、きょとんとした。藤田の驚きは当然だ。勝手に家に上がりこんで、我が物顔で台所を使った挙げ句、全てを放り出して、帰ると言うのだ。いったい何なんだ、という気にもなるだろう。
「あの、ですので、おろしてくれませんか?」
 身勝手なことはわかっている。ありえないくらいに図々しい。けれど、今の芽衣の頭の中は、一刻も早く、この場から立ち去りたいということでいっぱいだった。
「はあ」
 藤田は、大きくため息をついた。
「訳が分からん」
 呟かれた言葉が、ぐさりと胸に刺さる。わけがわからないことをしている自覚はあるが、藤田に呆れた声で言われるのは堪えた。
「だから、藤田さん……っ!」
 芽衣は、もう一度おろしてほしいと訴えようとしたが、先に藤田が動いて、芽衣を抱え直し、子どもにするように、自分の腕に芽衣を座らせた。
「ふ、藤田さん!」
 自分の希望と真逆のことをされて、芽衣は慌て、抗議する。
「お前は、用があって来たのではないのか?」
 藤田はその声を聞き流し、散らかっている台所を一瞥した。
「もう、いいんです」
 芽衣はぷいと顔を背けた。どうして意地を張ってしまうのだろう。ここで、そうだと頷き、誕生日のお祝いをしたいのだと言えば、藤田も嫌がらないとわかっているのに、できない。拗ねた気持ちを抑えられない。
 自分がどこまでも子どもなことが腹立たしくなってきた。芽衣は八つ当たり気味に、紫の風呂敷包みを睨む。
「ん? あれか? あれは……」
 藤田は、芽衣の不満気な視線に気づいたが、言い淀んで目を伏せてしまった。その様子に、芽衣の中の疑惑が深まり、胸が痛くなる。やましいものなのかもしれない。そう思ったら、ここにいるのが嫌になった。きっと芽衣が祝わなくてもいいのだ。
「は、放してください! 私、帰ります! 帰るんです!」
 芽衣は、藤田の腕から逃れようとじたばたと暴れる。
「っ」
「きゃっ」
 不意をつかれた藤田は、よろめいて、その場に尻餅をついた。ともすれば、芽衣は放り出されてもおかしくないような体勢だったのに、藤田は芽衣を抱きしめて、衝撃を一手に引き受けてくれた。
 ただ、結果として、藤田に覆いかぶさるような形になってしまい、芽衣は慌てて離れようとする。しかし、藤田はそんな芽衣を抱きしめてはなさなかった。
「……………………帰ると言うな」
「え……?」
 低く囁かれて、芽衣は思わず聞き返した。
「お前が帰るべき場所は、この家だ。結婚前に住まいを一緒にするのは認められないなどと、お前の保護者気取りの男が言う上に、お前がそれを尊重したいと言うから、帝國ホテルに戻ることを見逃しているが、お前の家はここだ。間違えるな」
 藤田は厳しく芽衣に注意する。そして、忌々しそうに続けた。
「あんな男と、扉一つしか隔てていない部屋で暮らすなど、今すぐやめさせたいのだけどな……」
「藤田さん……」
 あの藤田がやきもちをやいてくれている。厳しい口調にも愛情を感じて、芽衣の沈んでいた心は、嬉しさにふわりと舞い上がった。
「わ、私……ホテルには戻りません……。藤田さんが許してくれるなら」
 芽衣は、そっと藤田の胸に身を寄せた。本当は、いつだって帰りたくない。藤田といつまでも一緒にいたい。いつもは、藤田を困らせてしまうと思って言えない言葉が、するりと出てきた。
「っ――」
 藤田が驚いたように目を見張る。
「私、藤田さんのお誕生日をお祝いしたくて来たんです。すみません、勝手にあがりこんで。でも、あの、今日はずっと一緒にいさせてくれませんか? 藤田さんと一緒にいたいんです」
 芽衣は、重ねて頼み込んだ。大切な人の特別な日を、一緒に過ごしたい。そんな想いを込めて藤田を見つめる。すると、藤田は、息を吐き、芽衣を抱き寄せた。
「それは、俺がお前に頼むことだ。俺の、望みだからな。……さっき……出かけるとき、その間に、お前が来るかもしれないなどと思って、俺は庭の窓を開けておいたんだ。……馬鹿な真似をしていると思いながら」
 藤田がためらいがちに告げたことに、今度は芽衣が目を見開いた。
「ば、馬鹿な真似じゃありません。私、来ましたし! それに、藤田さんがそうやって思ってくれて嬉しいです!」
 誕生日に芽衣がやって来ることを期待してくれていたなんて、嬉しすぎる。はしゃぐような気持ちで、芽衣は藤田に伝えた。
「……あの、藤田さん、あれは何なんですか?」
 その勢いで、芽衣は例の風呂敷包みについて聞いてみる。まだ、あれが女の人からのプレゼントの可能性は残っているが、今ならそう聞いても、少しショックを受けるくらいで済むと思ったのだ。
「ああ。あれか。あれは……梅干しだ」
「梅干し?」
 今度は藤田も答えてくれた。好きな相手に贈るには、意外と渋い中身だ。
「誕生日などめでたくもないが……だが、まあ、何にせよ、節目の日だ。こういったものを買うのも悪くないだろう」
 分かりづらい言い方だが、どうやら自分へのプレゼントらしい。
「紀州の名品だ」
「そ、そうでしたか」
 少し自慢げな藤田に頷きながら、芽衣は力が抜ける思いだった。勝手に女の人からのプレゼントだと思って、子どもっぽい自分と比べて、落ち込んで、騒いでしまったことが恥ずかしい。藤田にも申し訳なかった。
「しかし、お前は、どうしてあれがそんなに気になる?」
「えっ……と……」
 逆に藤田に問われ、芽衣は気まずくて口ごもる。
「おい?」
「…………誰かからもらったのかなと思って。……きれいな包みだったので、女の人じゃないかって……思ってしまって」
 藤田に覗き込まれて、芽衣は自分だけ言わないのはよくないと思い、正直に白状した。
「妬いたのか」
 藤田はからかうように聞いてくる。
「はい」
 その通りだったので、芽衣は素直に頷いた。すると、藤田の方が顔を赤らめてしまう。
「そ、そうか」
 藤田にそんな反応をされると、芽衣も恥ずかしくなった。同じように顔を赤くして、目を伏せる。
「そ、そういえば、料理が途中だったな」
 気恥ずかしい雰囲気が漂って居たたまれなくなったのか、藤田が慌てたように立ち上がろうとした。
「藤田さん」
 けれど、芽衣はまだもう少し離れてほしくなくて、とっさに藤田の腕を引く。
「なんだ?」
 振り返った藤田の唇に、そっと触れる。藤田が固まった。
「…………プ、プレゼントです」
 芽衣は顔を真っ赤にして、藤田から離れる。
「さ、さあ、料理の続きをしましょう?」
 そして、藤田を残して立ち上がろうとするが、ぐいと腕を引かれて、再び藤田の胸の中に抱きこまれてしまった。
「ふ、藤田さん!」
 自分のしでかしたことに、心臓がばくばく言っているのに、藤田に抱きしめられて、芽衣の心臓は口から飛び出してしまいそうだった。
「おとなしくしろ」
 離れようとする芽衣をぎゅっと抱きしめて、藤田は芽衣の顔を引き寄せる。
 息が、唇にかかる。芽衣はそっと目を閉じた。


おわり

誕生日ばなし(鴎芽)

 夕餉の後、やりたいことがあったのに、鴎外についてまわられている。この状況をどう打破したものか、芽衣は頭を悩ませていた。
「子リスちゃん。これはここでいいのかい?」
 鴎外は嬉々として、皿を掲げてみせた。
「あ、はい、そこで」
 芽衣が頷くと、鴎外は颯爽と皿を棚の中にしまう。鴎外の動作はいつも華麗だ。――あまり台所には似合わない。
「……あの、鴎外さん。何度も言うようですけど、片づけはやりますので、のんびりしていてください」
 芽衣は、もう何度目かになる、オブラートに包みこんだ退室勧告を行った。皿の片づけを手伝ってくれるのは嬉しいが、どうも勝手が違って落ち着かない。それに、今日は鴎外に見つからないようにやりたいことがあったのだ。今日に限って手伝いをする鴎外は、まるでそんな芽衣の事情を知ってからかっているかのようだ。
「今日は、お前を手伝うと決めたのだ」
 芽衣の願いは届かず、鴎外はぴしっと言い切った。
 鴎外は頑固というか、言い出したらきかないところがある。こう言うのならば、今日はずっと手伝ってくれるのだろう。
(今日じゃないと駄目なんだけどな……)
 芽衣はちらりと時計を見た。今日は鴎外が帰ってくるのが遅かった上に、芽衣が鴎外に諦めてもらおうと、ずるずると片づけを引き延ばしたせいで、時間はだいぶ遅い。芽衣が予定していた通りには、何もできそうになかった。
「ふたりで協力して家事をするのは夫婦のようではないか! 我々にはふさわしいだろう? これからの生活の予行練習だよ。何事も練習は大切だ」
 鴎外は、腕を広げて大演説をしている。完全に楽しんでいた。もう本当に芽衣に望みはない。
(…………うう)
 せっかく、明日の鴎外の誕生日のために、準備をしようと思っていたのに残念だ。芽衣はこっそりため息をつく。しかし、こっそりと思っていたのは芽衣だけで、鴎外はそれを見咎めていた。
「……まさかとは思うが、僕のことを邪魔だと思っているのではないだろうね」
「えっ、そ、そんなことないですよ」
 突然、すっと目を細めて見据えられ、芽衣は慌てて首を横に振る。
 邪魔とまでは思っていない。鴎外と一緒にいられるのは嬉しいし、手伝ってくれようという気持ちもとても嬉しい。しかし、今日は都合が悪かったのだ。
(…………いや、ちょっと……思ってたかな……)
 芽衣は自分の心を見つめて、それでも、今はいないでほしいと思っていた気持ちがあったと少し思い直す。
 鴎外の誕生日のお祝いの準備をしたかった。明日、フミさんが腕によりをかけた料理を作るはずだから、その邪魔にならないように、今夜やってしまおうと思ったのだ。このままでいくと、明日、フミさんの手伝いをするだけになってしまう。せっかく、本当の婚約者になってはじめての鴎外の誕生日だというのに、本当に残念だ。
 芽衣は、もう一度ため息をついた。
 鴎外は、ひとり考え込む芽衣をじっと見ていたが、二度目のため息を見ると、皿を置いて、芽衣に近寄った。
「きゃっ」
 音もなく突然、鴎外に抱え上げられて、芽衣は悲鳴を上げた。いわゆるお姫様抱っこ状態である。細身に見えて、軽々と抱き上げてしまう鴎外にも驚いたし、突然抱え上げられたことにも驚いた。
「お、鴎外さん、どうしたんですか?」
「お前が悪い子だから、お仕置きが必要と思ってね」
「お、お仕置き!?」
 鴎外はどことなく機嫌が悪そうで、その様子と、とんでもない言葉とに、芽衣は慄いた。鴎外がお仕置きと言ったら、本当にお仕置きをしそうだ。しかし、芽衣には、そんなことをされる理由が思い当たらなかった。
「ど、どうしてですか? 放してください!」
「駄目だ」
 不当なお仕置きは御免だと、芽衣はじたばたと暴れるが、鴎外はそれをものともせず軽く封じ込めた。
「あの、私、片づけをしないといけません」
 放してくれる気配が全くないので、芽衣は戦法を変えて、鴎外の責任感に訴えてみる。フミさんがもう帰ってしまっているから、片づけは芽衣の仕事だ。仕事はきちんとやらなくてはいけないだろう。
「後でいい」
「…………」
 しかし、鴎外に一蹴され、芽衣はそれ以上言うことを失った。そして、そのまま為す術もなく鴎外の部屋へと運ばれてしまう。
「さて、どうしたものか」
 自室に入ると、鴎外は部屋の中を見回した。狭くもないが広くもない。やれることの選択肢は限られている。
「あの……」
 何をされるのかという緊張感に堪えかねて、芽衣は、鴎外に声をかけた。
 しかし、それを無視して、鴎外は大股に歩き出した。まっすぐに奥の机に向かっている。
(ベッドじゃないんだ……って、私、何考えてるの!?)
 ベッドに運ばれなかったことに拍子抜けして、勝手にいかがわしい想像をしていたことに気づいた。ひどい妄想に顔が火照る。
(でも……お、お仕置きって、なにされるんだろう……)
 てっきりそういうお仕置きだと思い込んでいたので、芽衣はあらためて疑問に思った。そちら方面ではないお仕置きといえば、廊下に立たされるとか、校庭を十周走らされるとか、とにかく先生の手伝いをさせられるとか――鴎外が「先生」なだけに、学校でのお仕置きが脳裏に浮かぶ。しかしそういったことでもなさそうだ。
 そうこうしている間に、仕事机に辿りつき、鴎外はその椅子に座った。芽衣はもちろん解放されることはなく、鴎外の膝をまたぐように座らせられる。
「お、鴎外さん、おろしてください!」
 取らされた体勢の恥ずかしさに、芽衣は顔真っ赤にして声を上げた。膝からおりようと身をよじる。だが、鴎外はがっちりと芽衣の腰を掴んで離さなかった。
「駄目だ。お前は、自分が誰のものか、ちゃんと理解していないようだからね。しっかり分からせないといけない」
 鴎外は、芽衣の顎を取って、目を合わせてきた。それだけで、芽衣はどきどきして、顔に熱が集まってしまう。恥ずかしい距離なのに、どうして鴎外は平気なのかわからない。
「それで、お前はなぜ、この僕を邪魔だと思ったんだい?」
 鴎外にずばりと聞かれて、芽衣は驚いた。鴎外に、心の片隅で思っていたことを気づかれていたとは思わなかった。
「じゃ、邪魔だなんて……」
「正直に言わないのなら、その口はいらないね」
 少しは思ったが、それが全てではないと否定しようとすると、鴎外が苛立たしげに口をふさいできた。呼吸を奪うようなたっぷりとした口づけだ。芽衣は、すぐに息が上がってしまう。
「お、鴎外さん、やめてください……!」
「やめなくてはいけない理由がない」
 鴎外はしれっと言って、さらにキスをしてこようとする。しかし、触れる寸前でぴたりと止めて、芽衣の瞳を覗き込んできた。
「話す気になったかい?」
「……ど、どきどきして、話せません」
 芽衣は恥ずかしさを堪え、鴎外を非難するように見返した。
「ああ、本当だ。どきどきしているね」
 すると、あろうことか、鴎外は芽衣の胸に手を置いた。
「お、鴎外さん……!」
 芽衣は、目を剥いて絶句する。
「ん? もっと速くなったようだよ。大丈夫かい?」
 鴎外はとぼけたことを言いながら、どきどきと鼓動を速める芽衣の胸に、ますます手を押しつけてきた。
「っ……!」
 胸の上をやんわりと這う手に、ぞくりと体の奥から疼きがわく。芽衣はきつく眉根を寄せて、それを抑えつけようとした。
「そう強張るものではない。」
 鴎外は、そんな芽衣の頬に、ちゅっとキスをする。
「お、鴎外さん、やめてください……と!」
 芽衣は、鴎外の手を引きはがそうと掴むが、その手はびくともしなかった。
「それで?」
 鴎外は、芽衣の胸に手を置いたまま、再度問いかけてくる。
 どきどきと鼓動の音が聞こえるかのようだった。
 芽衣は鴎外を見ていられず、そっと視線を落とす。そのとき、部屋の机の上に置いてある時計が目に入った。
(……あ)
 カチッと短針と長針が合わさる。芽衣ははっと体を起こした。
「子リスちゃん?」
 唐突な動きに驚きながらも、芽衣がまた時計を見つめていることに気づくと、鴎外は不愉快そうに眉根を寄せた。
「鴎外さん」
 芽衣は、そんな鴎外の様子に気づかず、鴎外の腕を引く。
「お誕生日、おめでとうございます」
 二月十七日になった。芽衣はそれまでの流れを一切飛ばして言った。
「えっ……」
 鴎外は、目を瞬く。
「ほら、十七日になりましたよ?」
 芽衣は、きょとんとしている鴎外が珍しくて、笑って時計を指差した。長針はすでに短針からずれている。二月十七日零時一分だ。鴎外の涼やかな瞳が、柔らかく細められた。
「お前は、これを気にしていたのか。時計ばかり見ているから、僕との時間がつまらないのかと心配になったのだよ」
「す、すみません」
「謝ることではない。僕のことを考えてくれていたのだ。とても嬉しいよ、子リスちゃん」
 鴎外は本当に幸福そうに言うと、芽衣を抱きしめた。今日はじめての優しい抱擁に、芽衣もようやく自ら身を寄せることができた。「そうだ」
 鴎外はいいことを思いついたというように、声を弾ませる。
「どうしました?」
 そういうときは、あまりいいことではないことが多いような気がして、芽衣は恐る恐る窺った。
「今日はお前を抱きしめて始まったから、今日が終わるまでお前を抱きしめていることにしよう」
「はい?」
 鴎外の提案の非現実さに、芽衣は思いきり聞き返した。
 しかし、きっと、と芽衣は思う。鴎外が決めたのだから、この腕から逃れることはできないのだろう。


おわり

 

誕生日ばなし(音芽)

「帰ったぞっと」
 ふすまが開いて、音二郎が入ってきた。芽衣は、はっと鏡台の掛け布を下ろす。
「お、お帰りなさい」
 振り返ることができなかったので、芽衣は鏡台の上の小物を片づけているふりをしてやり過ごそうとした。
 今日は劇団の仕事で外出していたから、酔っ払っているはずだ。そして、そういうときは、まっすぐに布団に入ってしまうから、芽衣には構わないはずだ。
 芽衣はどきどきしながら、音二郎が部屋を横切るのを待った。布団は、音二郎の分も敷いてある。朝まで帰ってこないと分かっていても、もしかしたらと思ってしまい、毎日、念のために敷いていたことが功を奏した。音二郎は、獲物を見つけた虎のように布団に向かうだろう。
(……どうして、今日に限って早いわけ……!)
 音二郎がばたんと転がる音を待ちながら、芽衣は、心の中でため息をついた。
 最近は、劇団の用で出て行ったら、翌日まで帰らないことが常だったのに、その日のうちに帰ってくるなんて、不意打ちすぎる。
(用事が早く終わったのかな……)
 劇団の仕事は楽しそうだから、たとえ用事が済んでも、置屋のことなど忘れて、時間が許す限り、劇団の仕事をしてくると思っていた。そして、そのために、明日まで帰ってこないと油断していた。
(……よりによって今日……)
 いつもなら、音二郎が帰ってきてくれるのは嬉しいことなのに、今日は喜べない。逆に恨めしく思ってしまう。なんという間の悪さだろう。
 そうして、芽衣がもう一度ため息をつこうとしたときだった。
「ん? なんだ、寂しいじゃねえか。顔見せろよ」
と、音二郎が肩を掴んできた。
「わっ!」
 音二郎は布団に行くものだと思って無警戒だった芽衣は、されるがまま、音二郎に顔を見られてしまった。
「……っ!?」
 その瞬間、音二郎は息を飲み、顔いっぱいに驚愕が広がる。
 芽衣は、すぐに手をかざして、音二郎の視線から隠した。
「お前、どうした、その髪!」
 しかし、もちろん、音二郎にはばっちりと見られてしまっていた。音二郎は眉根をきつく寄せた険しい顔で、芽衣の手を掴んで外させ、その前髪をあらわにした。芽衣の前髪はちりちりだった。サイドも前側は焦げている。これは、料理に挑戦した残念な結果だった。
「すみません、ちょっと、不注意で」
 芽衣は、ちりちりになった髪を見られたことが恥ずかしくて俯いた。音二郎にこんなみっともない姿を見られたくなかったから、髪を切ったりまとめたりしようと思って、鏡を見ていたのだ。
「不注意? どういうことだ?」
「それは……」
 真剣に聞いてくる音二郎に、芽衣は口ごもる。
 こうなった経緯はもちろん話すことはできるのだが、できれば、それは明日まで言いたくなかった。
(音二郎さんの誕生日のお祝いの準備をしてて、こうなった、なんて、言えない……)
 今かけている心配に加えて、気遣われてしまうかもしれない。
 それに、芽衣は、音二郎の驚く顔が見たかった。今のように、驚いて青ざめるのではなく、驚いて、嬉しそうにしてくれるだろう音二郎が見たい。そのためには、話すのはうまくないだろう。少しでも話したら、敏い音二郎は全てを察してしまうかもしれない。ふだん料理をしない芽衣が料理を試みたという時点で、怪しさまんさいだ。ここは誤魔化しきるのが一番だろう。
「ほんとうに大したことじゃないんです」
「大したことじゃねえんなら、よけい話せるだろ」
「う……」
 音二郎の言う通りだ。芽衣は言葉を詰まらせた。
(ど、どうしよう……)
 急いで、この窮地を切り抜ける方法を考えようとするけれど、頭は空転するばかりだ。
「……どうしてわけを話せねえんだ?」
 その間に、音二郎の雰囲気が硬くなっていた。芽衣が話さないことに、苛々しているようだ。
「話せないわけでは……ないんですけど……」
 その空気に圧されて、芽衣の決意が鈍る。音二郎を怒らせてまで隠すことではない。それでは本末転倒だ。しかし、やっぱり話すということも決められないでいると、音二郎がしびれを切らしてしまった。
「ああ、もういい。わかった」
 音二郎は苛立たしげに言って、布団にごろりと寝転がる。
(お、怒らせちゃった!)
 背中を向けられて、芽衣は頭が真っ白になりかけた。だが、すぐに謝って説明しようと思い立ち、音二郎のもとににじり寄る。
「お、音二郎さん」
「話したくないなら話さなきゃいい」
 音二郎はしっかり怒っている。
「お、音二郎さん……」
 音二郎が怒ることなど滅多にない。かつて見たことがないと言っていいほどだ。そんないつにないことに、芽衣は一瞬怯んだ。けれど、勇気を振り絞って、音二郎のスーツを引く。
「あの……少し、早いですけど……お誕生日おめでとうございます」
 音二郎の背中がぴくりと反応した。
「明日、音二郎さんのお誕生日だから、お祝いにケーキを作ろうと思ったんですけど、失敗してしまって。かまどを爆発させてしまったんです……」
「ば、爆発!?」
 音二郎が飛び起きた。その顔は、さっき以上に驚いている。しかし、芽衣は、音二郎が振り返ってくれたことに、ほっとした。
「いやいや、お前、ほっとするところじゃねえだろう」
 音二郎にすかさず突っ込まれ、芽衣は顔を赤くした。
「あ、これは、音二郎さんが私を見てくれたので、よかったなと思って……きゃっ!」
 説明している間に、音二郎が急に腕を引いてきたので、芽衣は驚いて声を上げてしまった。
「かわいいこと言ってくれるじゃねえか」
 音二郎は、ぎゅっと芽衣を抱きしめてくる。その力強さにどきどきしながらも、芽衣は音二郎の胸に体を預けた。
「……すまなかった。お前の髪、誰かにいじめられたんじゃねえかって思ってよ。俺は、お前に、そういうことを話してもらねえ情けない男なんだって、思っちまったんだ」
「そ、そんなことされてませんよ」
 音二郎の発想に、芽衣はびっくりした。
「ああ。ここの置屋は気のいい奴ばかりだからな。けど、万が一は有り得るだろう? お前、最近きれいになってきたしよ」
 音二郎は顔を覗き込んできて、頬を撫でた。
 間近にある音二郎の端正な顔と、頬を撫でる大きな手に、どきどきと胸の鼓動が速まってくる。
「…………ほ、ほめたって何も出ませんよ」
「いつでも口説きたくなるようないい女だってことだろ」
 音二郎は恥ずかしがる芽衣に笑って、軽く口づけた。不意打ちのようなキスに、芽衣は顔を赤くして、身を縮める。音二郎は、芽衣のそんな反応が気に入ったように、芽衣の唇をなぞった。
「っ」
 ぞくぞくと震えのような感覚が腰の辺りから湧いてくる。芽衣はぎゅっと音二郎のスーツを握りしめた。
「誕生日、覚えててくれたんだな」
「あたりまえです」
 嬉しそうな音二郎に、芽衣は少し憤って答える。好きな人の誕生日なのだから当然だ。
「お前と一緒に過ごしたいと思って早く帰ってきたのに、なんだか歓迎されてないようだったからな。帰ってきちゃまずかったかと悲しくなったぜ?」
 すると、音二郎にからかうように言われて、芽衣は慌てて謝った。
「す、すみません……お祝いの準備ができていなかったので、焦ってしまったんです」
「そんなの、お前がいてくれればいいんだよ」
 音二郎は笑って、額に口づけた。予想通りの言葉に、芽衣は心の中でため息をつく。だから、芽衣が思いきり祝うためにも、こっそり準備したかったのだけれど、結局うまくいかなかった。
「しっかし、爆発ってのは、物騒な話だな。怪我はないのか? 被害は髪とかまどだけか?」
「はい。かまども掃除をすれば大丈夫みたいです」
 正しく言えば、爆発したのはかまどではなく、中にいれたケーキだった。どうしてケーキが爆発したのかは、永遠の謎だ。
「そりゃよかった。まあ髪は残念だが、少しの間我慢すりゃまた伸びてくるからな」
 音二郎は、慰めるように頭を撫でる。伸びてくるとは言っても、女性にとって髪は大事なものだとわかっているのだろう。その眼差しは労わるようだった。
「はい」
 芽衣は、この髪を、音二郎に嫌がられなければ、それでよかった。
「本当にお前は目が離せねえ女だな。もう危ない真似はすんじゃねえぞ。その、なんだったか? そいつを食べたいからってよ」
「ケーキですか?」
「そうだ、それ」
「わ、私が食べたいから作ろうと思ったんじゃありません。音二郎さんの誕生日だから作ろうと思ったんです」
 音二郎の言い草に、芽衣はすぐに首を振った。自分の食い意地が張っていて、大騒動を起こしたのとは違う。そこははっきり否定しておきたい。
「俺の誕生日だから?」
 この時代にはケーキを食べる習慣がないのか、音二郎は不思議そうな顔をしていた。
「はい。誕生日にはケーキがつきものですから」
「んーよくわからねえけどよ。どうせ祝ってくれるんなら、そんな危ねえことよりも、もっと違う方法でどうだ?」
「ケーキは危なくありません!」
「あーわかった、わかった」
「お、音二郎さん、何してるんですか」
 芽衣を軽くいなしながら布団に押し倒してくる音二郎に、芽衣は焦って聞いた。音二郎の目的は明白で、これはいわゆる無駄な抵抗というやつだ。
「まあ。誕生日だしよ。お前にいいことしてもらってもバチは当たんねえよな」
 音二郎はにやりと笑って、芽衣の口をその唇で塞いだ。


おわり

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