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遣らずの雨(鴎芽)

 ぶるりと体が震えた。
 肌寒さに、手を伸ばして、そこにあるはずの温もりを探す。しかし、それは、ただ、シーツの冷たい感触に触れただけだった。
 芽衣はゆっくりと目を開ける。
 外は雨が降っているようだ。
 さーさーと雨の音が聞こえる。
 芽衣は、毛布の中で目を覚まし、おかしなことに気がついた。
 服を着ていない。
 一気に、頭が覚醒した。
(な、ななななんで!?)
 昨夜、寝たときは服を着ていたはずだ。それなのに、なぜ今着ていないのか、わけがわからなかった。
(……ね、寝ぼけて脱いだとかだったら、どうしよう)
 もう先に起きているようだが、この寝台を使っていたのは芽衣だけではない。
 それなのに、そんなことをしていたら最悪だ。
 芽衣は、おろおろしながら、とにかく服を探そうと毛布をかぶって起き上がった。
「おはよう、子リスちゃん」
 そんな芽衣の目の前に、いつも通りにこやかな笑みを浮かべた鴎外が現れる。行水をしてきたのか、手ぬぐいを持っていた。
 芽衣はびくっと体を震わせ、毛布をきつくかきあわせる。寝ぼけて服を脱いでいたなんて、鴎外に知られたくない。
「お、おはようございます」
「うん。いい朝とはいいがたい天気だが、まあ雨も悪いものではないね。今日は、昼には晴れるそうだが」
 鴎外は答えながら、そっと窓の外へと目をやった。
 鴎外は、晴れることをあまり好ましく思っていないようだ。
 芽衣は、憂いを帯びた切れ長の瞳に、見惚れてしまってから、そんな場合ではないと思い出す。
「あ、そ、そうなんですか」
 鴎外に返事をしながら、服はどこだろうと部屋を見渡す。
 寝ぼけて脱いでしまったのなら、ベッドの周りに落ちているのだろうと思ったのだが、床の上はきれいなものだった。
 しかし、床に散らばっていたとしたら、鴎外が見つけるはずで、鴎外が何も言ってこないのはおかしいと気づいて行き詰まった。
 いったい服はどこいってしまったのだろう。
「どうしたんだい、子リスちゃん。毛布をかぶったままで」
 ついには、鴎外に不審そうに問われてしまった。
「寒いのかい? なら、僕が温めてあげ――」
「い、いいです!」
 鴎外が近づいてきそうになったので、芽衣は全力で首を横に振る。
 とにかく、どうしてこういう状況になったのかはっきりするまでは、鴎外に知られたくない。恥ずかしすぎる。
「あまり強く拒絶されると、傷つくのだがね」
 鴎外の口の端が少しひきつっている。
 芽衣はそれを見て、慌てて謝った。
「あ、ご、ごめんなさい。そ、そうじゃないんです……」
 鴎外を拒絶したわけではなくて、芽衣には今のっぴきならない事情があるのだ。しかし、それを伝えるわけにもいかなくて、芽衣はおろおろと視線をさまよわせる。
「あ、あの、鴎外さん、先に、下におりていてください。朝餉の支度、そろそろできてますよね」
 結局、話を変えることにして、芽衣はそっと鴎外を促した。
 鴎外に部屋から出てもらえれば、芽衣の状態を知られることもなく、ゆっくり服を探すこともできる。もしかしたら、寝台の反対側に落ちているのかもしれない。
「それなら、一緒に行こうではないか」
 しかし、芽衣の希望に反して、鴎外にもっともな誘いを受けてしまった。
「それは……その……私は後から行きますから」
 言い訳にもなっていないことを言って、芽衣はぎゅっと毛布を握りしめる。
 何となくだが、鴎外は部屋から出ていきそうにない雰囲気だ。
(うう……どうしよう……)
 鴎外を相手に、うまくしのぐ術など、芽衣にはない。
 心底困った末に、ふと、鴎外を見ると、なんだかひどく楽しそうに見えた。
 芽衣は、若干の違和感を覚えて、それを見極めようと、鴎外を見つめる。
 すると、芽衣の視線に気づいたのか、鴎外の口元が引き締まった。
 それを見て、ぴんときた。
 どうして、その可能性に気づかなかったのだろう。
 鴎外だ。
 鴎外が服を隠したのだ。
 なぜそんなことをしたのかは分からないが、饅頭茶漬けといい、鴎外のやることは、たまに芽衣の想像を超えている。
「お、鴎外さん! 私の服を返してください!」
 芽衣は犯人と決めて、鴎外に訴えた。
「うん?」
 鴎外は小首を傾げて、何のことだといった顔で見返してくる。
 その顔に、鴎外ではないのだろうかと、不安がもたげた。
「ほら、子リスちゃん。いつまでも毛布をかぶっていないで、一緒に朝餉に行こうではないか」
 芽衣が戸惑っている間に、鴎外が近づいてくる。
「こ、ここ来ないでください」
 芽衣は、後ずさるが、すぐに背中が壁にぶつかってしまった。
「来ないで、とはまた、夫に対してひどい言い草ではないか」
 鴎外は悲しそうな顔をしながらも、芽衣の体の両脇に手をついて、体を伸ばしてくる。
「んっ……」
 唇が軽く触れる。
 芽衣は思わず目を閉じて、それを受け入れた。
 やわらかな唇が押しつけられて、離れた。
 そっと目を開けると、鴎外はまだ息がかかるほどの距離にいる。
「おはようのキスをしなければいけないだろう? 今度は、お前からだ」
 鴎外はその距離で、キスを要求した。
 見慣れているはずなのに、鴎外の端正な顔に見惚れてしまう。どきどきと胸が高鳴った。
 しかし、ほんのわずか残った冷静な部分が、こんなことをしている場合ではないと、芽衣に訴えてくる。
 芽衣は、一度、無理矢理、鴎外から目を逸らした。鴎外を見ていたら、どきどきが収まらない。ときめいていては、きちんと質すこともできない。
 芽衣は、がんばって顎を引いて、鴎外から距離を取った。
「お、鴎外さんっ、早くしないと、フミさんが呼びに来てしまいます」
 ただでさえ寝坊して、フミを手伝えていなくて申し訳ないのに、呼びに来てくれたときに、たとえフミにはわからないとしても、服を着ていない状態でベッドの中にいるのは居たたまれない。それに、もし、何かの弾みで、フミにばれてしまったら、恥ずかしくて、一週間は顔を合わせられない。
「服はどこですか」
 芽衣は、もう一度尋ねた。まっすぐ鴎外を見据える。
 鴎外はおもむろに体を起こして、腕を組んだ。
「そんなに服を着たいかい?」
 大真面目な顔で、鴎外は聞いてくる。
 どうして服を着たくないという発想があるのか、そちらの方が不思議だ。そう思ってから、行水を日課とするうちに、鴎外は、人より服への執着が薄くなってしまったのかもしれないと思い直した。
 ならば、しっかりと主張しないと伝わらないだろう。
「着たいです、もちろん」
 芽衣は、力強く頷いた。
「ふむ…………」
 すると、鴎外は息をついて、押し黙ってしまった。
 何をそれほど、考え込むことがあるのだろう。
 鴎外は、芽衣の服を隠したことを肯定していないが、否定もしていない。意図は分からないが、鴎外の仕業とみて間違いないだろう。
 芽衣はあらためて部屋の中を見回した。芽衣の服は見当たらない。どこかに隠したのか、芽衣の部屋に置いてきたのかもしれない。
 芽衣のタンスがある部屋は、隣の隣だ。そこに行けば、着ていた浴衣が見つからなくても、服はある。だが、その途中、フミに遭遇してしまったら、恥ずかしすぎる。ただ、部屋までは、ほんのわずかな距離だ。フミに出会わないことに賭けるか――。
 芽衣は考えながら、部屋の中を見回して、ふと、その目を鴎外のタンスに留めた。
(そうだ)
 それを見て、この状況を変えられることを思いつき、ベッドから飛び降りる。
「芽衣?」
 毛布をかぶったまま、突然俊敏に動き出した芽衣に、鴎外は不審そうに問いかけてきた。しかし、何をしようとしているのか見定めたいのか、止めることはしない。
 それをいいことに、芽衣は、勝手に鴎外のタンスを漁り、浴衣を引っ張り出した。
 鴎外は大きいので、浴衣ももちろん、芽衣の体には合わないが、浴衣ならば端折れば、それなりに着られる。洋服を借りるよりはましだろう。そして、毛布をかぶって動き回るのとは、天地の差だ。
 芽衣は、そう考えて、鴎外の浴衣を借りることにした。
「これでよし、と」
 毛布の中で、どうにか身につけて、最後に帯を軽くしめる。そうして、芽衣は一息ついた。鴎外から隠れるために、毛布の中で着るのは大変だったが、とにかく服を着られた安堵感は大きかった。
 芽衣は、堂々と毛布の中から立ち上がる。
 鴎外の着物はたっぷりと布が余ってしまっていて、ぶかぶかなのは否めない。しかし、自分の部屋に服を取りに行くのには十分だ。
「芽衣……」
 鴎外が、芽衣を凝視して固まっている。
「ちょ、ちょっと借りますね」
 鴎外の様子に、この格好は、みっともなさすぎたのかもしれないと、芽衣は焦った。とにかく早く部屋を出ようと思って、毛布をベッドに片づけに行く。
「きゃっ」
 そのとき、突然、後ろから抱きしめられた。
「お、おおおお鴎外さん?」
 唐突な抱擁にびっくりして、芽衣が振り返ろうとすると、くるりと体を反転させられる。そして、正面から抱きしめられた。
 見上げた鴎外の瞳は、熱を帯びている。いつも涼やかなのに、息が止まるほど熱っぽくて、芽衣の熱も上がるようだ。
「鴎外さん、あの……」
 芽衣は、見ていられなくて目を伏せる。
 再び、どきどきと心臓が早く鼓動を打ち始めた。
「本当にお前は、僕の想像を超えることをする」
 鴎外は、手の甲で、芽衣の頬をそっと撫でていく。
 それは、芽衣の台詞だ。さきほど、芽衣も、鴎外に対して同じことを思った。
「鴎外さんに言われたくありません」
「僕はいたって常識的な人間ではないか」
「そ、それこそ、私の台詞です。っ!」
 芽衣が唇を尖らせると、その唇に、鴎外は軽くキスをした。
 不意をつかれて、芽衣は顔が真っ赤になってしまう。
「そうだろうか」
 しかし、鴎外は、ひどく真面目な顔で、芽衣を見つめていた。
 思わず反論の言葉を失うほど真剣な瞳に、芽衣も鴎外を見つめ返す。
(……鴎外さん?)
 軽口の応酬のつもりでいた芽衣は、戸惑った。
 鴎外は、いったい、何を思っているのだろう。
「お――」
「こんなに可愛いのは、常識を外れている」
「なっ……」
 しかし、どうしたのかと問おうとしたとき、鴎外はそう言って笑った。真面目なことを言われると思って構えていた芽衣は、さらに顔が熱くなってしまう。
「本当のことなのに、恥ずかしいのかい」
 赤くなる芽衣に、鴎外はおかしそうに笑った。どうやらからかわれただけらしい。
「僕の服を着た子リスちゃんは、可愛さが百倍増しだ」
 鴎外はご満悦そうに芽衣を見つめ、こめかみにキスをした。
 自分の服を手に入れるための苦肉の策だったのに、鴎外を喜ばせることになるとは、思いもしなかった。
「今度から、お前は僕の服を着るといい。ああ、でも、僕の前でだけだ」
「は、はい」
 あまり可愛いと言われると、この格好は相当恥ずかしいものなのだと思えて、芽衣は頷きながらも目を伏せる。
 すると、鴎外は顎をそっと掴んで、目を覗き込んできた。
「お前は、僕のことだけを見て、僕のことだけを考えていればいいのだよ」
 鴎外の声が耳を震わせる。深い色の瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。
「わかったかい」
 返事は、ひとつしかない。
「はい」
 芽衣はしっかりと頷いた。


 その後、実は、フミは屋敷にいないと知らされた。体調を崩してしまい、今日は休ませてほしいと、今朝、彼女の夫が伝えにきていたそうだ。
 芽衣は、その呼び鈴にも気づかず、のんきに寝ていたらしい。鴎外が気づいて、対応してくれたというのが、何とも申し訳なかった。
 フミのことは心配だったが、屋敷にいなかったというのは、ほっとした。だからこそ、鴎外もあんな悪戯をしたのかもしれない。
 窓を叩く雨の音に、鴎外に寄りかかって微睡んでいた芽衣は、少し顔を上げた。鴎外は、昼には止むと言っていたが、その予報は外れたようだ。
「ああ、晴れなかったね」
 肩越しに外を見る芽衣の視線に気づいて、鴎外も読んでいた本から顔を上げ、窓の方へと視線を流した。
「よかった」
 降り続けている雨を見て、鴎外はそう漏らす。
「雨が好きなんですか?」
 芽衣は意外に思って聞いた。
 鴎外には、どちらかというと、晴れが似合うように思う。
(ああ、でも、鴎外さんは雨も似合うかも)
 しかし、そう思ったそばから、芽衣は自分の考えを翻した。
 華やかな雰囲気と、まっすぐな気性には、突き抜けるような青空が似合うと思ったが、執筆をしているときや、読書をして思索に耽っているときなどは、雨がよく似合う、哲学者のような雰囲気をまとっている。
 どちらの鴎外も素敵なことには変わりない、と芽衣は、誰かが聞いたら、ひどいのろけだと顔を顰めるようなことを思った。
「そうだなあ。雨は嫌いではないが……やはり、晴れの方が好ましい。清々しいではないか」
 鴎外は、いったん頷きながらも、最終的には、晴れに軍配を上げた。
 鴎外らしい理由に、芽衣は笑って頷く。
「ただ、今夜は満月だ。雨が降れば、月を隠してくれるだろう? お前を奪われる心配をしなくていいから、満月の日の雨は実にいい」
 しかし、続けて、今日の雨を賞賛した。
「え……」
 思いがけない言葉に、芽衣は目を瞬いた。
 ここに来て、もう何度、満月の夜を過ぎたことだろう。
 それでもまだ、鴎外はそんな心配を抱えているなんて、知らなかった。
「僕は、いつになったら、お前を手に入れることができるのだろうね」
 鴎外は、芽衣の髪を指に絡ませながら呟く。
 芽衣はさらに驚いた。
 折に触れ、鴎外は、芽衣は自分のものだと言っているのに、どういうことだろう。それに、これまでも、これからも、芽衣は、ずっと、鴎外のものだ。想いを交わしあったときから、ずっと。
 そんな寂しそうな顔で、そんなことを言わないでほしい。
 胸が痛い。
「私は、鴎外さんのものですよ」
「突然、僕の前に現れて、目を離したら、同じように突然、消えてしまいそうだというのに。お前は、この世の理の中にいるかい?」
 鴎外が芽衣を見た。
 その瞳は、少しだけ不安そうだ。いつも自信に満ちているだけに、揺れる眼差しは、胸を衝いた。
 さきほど常識云々の話をしたとき、可愛いなどと軽口にしていたが、本当は、これを言いたかったのではないだろうか。
「私は、ここにいます」
 芽衣は、しっかりと肯定してから、鴎外の胸に頬を寄せる。体温を伝えれば、鴎外も実感できるのではないかと思った。
「うん、もちろんだ。それに、僕がどこにも行かせない」
 すると、鴎外は笑って頷き、それ以上に力強い言葉を告げて、芽衣を抱き寄せた。
 今まで、この笑顔に、堂々とした言葉に、強い抱擁に、いつも安心させてもらっていた。
 しかし、この笑顔の下で、まだ拭えない不安を抱いているのだ。
 あの赤い月が遠くなってもまだ。
「毎日雨なら、ずっとこうしていられるのだがね。結局、いずれ晴れてしまう」
 鴎外は、また窓の外を見て、呟いた。
 今日の雨が、鴎外の心も湿らせ、弱らせているのかもしれない。
(……もしかして……)
 芽衣は、ひとつ思いついた。
 服を隠したのも、芽衣がどこにも行けないようにだろうか。服を着ないで、どこかに行くことはない。どこにも行けない。
 奇抜だが、理にかなっている。鴎外らしい考えのように思った。
(何度も、僕のものだと言うのも、不安があるから――)
 芽衣は体を起こす。
 鴎外に守られて、たくさん安心させてもらっているのに、鴎外を不安にさせているばかりで、それに気づかないなんて、なんてひどいのだろう。
 自分が情けなくて、腹立たしくて、鴎外に申し訳なくて、泣いてしまいそうだ。だが、今は泣けない。
 芽衣は、その頬に手を添えて、鴎外の顔を覗き込む。
「芽衣?」
 突然の行為に、鴎外は首を傾げた。
「鴎外さん。好きです」
 芽衣は前置きもなく告げる。
 謝罪や感謝や色んな言葉が脳裏をよぎったが、どれよりもふさわしいのは、それだと思った。
 芽衣は鴎外が好きだ。だから、不安にならないでほしい。
 鴎外は虚を衝かれたように、小さく目を見開いた。
「どうしたんだい、突然」
「今、伝えたくなりました」
 芽衣は、泣きたい気持ちを堪えて微笑む。
 他に、どうしたらいいのかわからない。どの言葉も適当でないと思う。しかし、それでも足りない。鴎外の不安を、きれいに取り除きたい。
 不安になんて思わなくていい。
 鴎外のことを想っている。
 この心から体まで、すべて、鴎外のものだ。
「鴎外さんのこと、好きなんです」
 芽衣はもう一度告げた。
「僕も愛しているよ」
 鴎外は優しく笑って、頬にある芽衣の手を握った。それから、体を起こして、芽衣に口づける。
 鴎外には、芽衣のもどかしい気持ちまで、伝わってしまったのかもしれない。
 いたわるような口づけだった。
 また、鴎外にもらってしまった。
 雨が止まなければいいと思う。
 それで、鴎外の不安がなくなるのなら、晴れの日などいらない。雨が降り続けて、月を隠していればいい。
 ずっと、ここにいられるように――。
 芽衣は、祈るように思って、目を閉じた。

 

 

おわり

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