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2016年04月10日

ハッピーホームバースデー(春芽)

  1

 午後11時54分。
 時計の針が規則正しく動く様を、芽衣は目を逸らせずに見つめていた。
 秒針がぐるりと一回り。これを100回近く。長針もすでに一周を過ぎ、もう少しで一周半だ。
 ベッドに腰をかけて、向かいのチェストの上にある置時計を睨むこと一時間半、芽衣は決心がつかずにいた。時計と向かい合うこの場所に縫いつけられたように座っている。
 かちんと長針が動いた。
 午後11時55分。
 残り5分だ。
 この悩みは時間制限付きだった。
 タイムオーバーまでのカウントダウンが始まって、芽衣の心は、加速度的に焦りを増す。
 しんと静まり返った部屋の中、時計の音が響く。
 この時代の夜は深い。人の気配は薄れ、車の音も列車の音も聞こえない。
 そして、隣の部屋の様子も――。
 芽衣の視線が、わずかに時計の針から、その後ろの壁に逸れる。きれいなピンク色の壁紙が貼られた壁で隔てられた隣は、春草の部屋だ。
 しっかりとした造りのこの屋敷の壁は厚く、隣の部屋の様子は少しも分からない。
 ――春草はもう寝てしまっただろうか。
 少し前から、そんな不安も生まれていた。
 もう日が変わる。課題で夜更けまで起きていることもあるが、そうでなければ寝ている可能性の高い時間だ。
 しかし、もうひとつだけ、寝ていないかもしれない理由があって、そのために、芽衣は悩んでいた。
(こんなことなら、約束すればよかった……)
 何度も思った後悔が再び湧いて出る。
 夕食のとき、食べ終わった後、チャンスはあった。
 そのときも、芽衣はぐずぐず迷って、春草に声をかけることができなかったのだ。
 さらには、夕食の後からこんなに遅い時間になる前に、何時間もあった。もっと早い時間に決断できていれば、ここまで躊躇わずに、春草の部屋を訪ねられただろう。
 芽衣の悩みはつまりそれだった。
 春草の部屋を訪ねていいかどうか。
 そして、いつもと違ってこれほど逡巡しているのは、その理由が実に恥ずかしいものだからだ。そのため、ふんぎりがつかなくて、こんな時間になってしまった。
 芽衣の視線の先で、長針がまた動いた。
 午後11時56分。
 あと4分だ。
 春草は常識的な人だから、こんな時間に訪ねたら、迷惑そうに顔を顰めるに違いない。
 その様子がはっきり浮かぶ。
(でも……)
 そんな顔が予想できるのに、行かないという選択肢を選べない。
 芽衣は、すでに選んでいるのだ。
 春草に迷惑がられても、一緒にいたい。
 この時代の人には、あまり特別ではないのかもしれないけれど、明日は、春草の誕生日だった。
 芽衣は、明日になったらいちばんに、春草におめでとうと言いたかった。
 春草がそれを喜んでくれるかはわからなくて、ほんとうに芽衣の勝手な我がままなのだけれど、そうしたいという思いは消えない。
 そう。行きたいのだ。
 芽衣は、決意した。
 そっと音を立てないように気をつけて、ドアノブを回す。
 鴎外は規則正しい生活をする人だから、もう寝ているだろう。けれど、やはり軍人だから物音には敏感なはずだ。
 そう思って芽衣は細心の注意を払い、そっと薄くドアを開けた。
 廊下は灯りがついていないため、真っ暗だった。
 しばし、暗さに目を慣れさせるため、芽衣はそのまま闇を見つめる。
 そのとき、ガチャリとすぐ近くで、ドアが開く音がした。
 芽衣はどくんと胸を鳴らす。
 その鼓動に押し出されるように廊下に出た。
 隣の部屋から漏れた灯りが、春草を照らしている。
 芽衣の立てた足音に、春草がはっと振り返った。目が合う。
 その途端、芽衣は春草に向かって駆け出した。
 春草は、飛び込んでくる芽衣の腕を掴んで、自分の部屋の中にひきこむ。
 ぱたん、とドアが閉まった。
 どきどきと心臓が激しく鼓動している。
 春草も同じ気持ちだったことが嬉しくて、胸がいっぱいだった。
 たぶんそれは、春草も同じなのだと思う。
 ぎゅっと抱きしめあう力の強さが同じだ。
 言葉もいらなくて、ただ、そうして、三分後。
 芽衣は顔を上げた。
 春草の顔がすぐそばにある。
 予想した迷惑そうな表情は、どこにもない。ほんの少し上気した熱っぽい顔に、芽衣はまた新たにどきどきした。
 もしかしたら、自分も同じような顔をしているかもしれない。
 そう思ったら、おかしくなって、芽衣は口元を緩めた。
 そして。
「お誕生日おめでとうございます」
 春草の誕生日に、芽衣はいちばんに伝える。
 それがとても嬉しくて、しあわせだった。

  2

 翌朝、春草が食堂に入ると、先に席に着いていた鴎外が華やかな笑顔で振り返った。
「やあ、おはよう、春草」
「おはようございます」
 鴎外に応じながら、春草は席に着く。
「誕生日おめでとう」
 そして、さらりと鴎外は言った。
 ヨーロッパでは、誕生日当日に祝うらしい。その文化に触れている鴎外は、春草の誕生日を祝わねばという使命感に、二週間ほど前から燃えていた。
 その鴎外に、西洋に行ったことはないらしい芽衣がなぜか全力で同調して、屋敷の中は、春草の誕生日パーティー準備一色になっている。
 そんな風習のない春草は、特別に、己の誕生日を祝うのは、なんだかくすぐったい。
 けれど、そんな空気に、春草もいつのまにか感化されていて、今日が特別なのだと思うようになっていた。
 年を重ねる今日という日を大切な人と過ごしたい。
 そう、日が変わる前に、思ったのだ。
「ありがとうございます」
 春草は昨夜のことを思い出しながら、鴎外に礼を言う。
 鴎外は鷹揚に頷いた。
「今日は盛大にお祝いだ。フミさんがごちそうを作ってくれるから、早く帰ってくるように」
 鴎外の話に合わせたかのように、ちょうど、フミがにこにこと味噌汁を運んで入ってきた。
「はい。腕によりをかけますね。春草さん、おはようございます。お誕生日おめでとうございます」
 この数週間の騒ぎで、欧州かぶれしていないフミにも、すっかり浸透している。
「おはようございます。ありがとうございます、フミさん」
「お嬢さまもはりきっていらっしゃいましたから、楽しみにしていてくださいね」
 フミはふふ、と笑って、味噌汁を卓の上に置く。
 芽衣のはりきりようは、もちろん春草も知っていた。何を作るかとか部屋をどう飾るかとか、毎日、鴎外とフミと話していたからだ。
 本人に言うつもりはないが、春草のために一生懸命になっているのは嬉しかったし、準備をしている姿が本当にとても楽しそうだったのも嬉しかった。今日の献立はパーティーまで秘密と言われているので、春草はまだ知らない。密かに楽しみにしているのは内緒だ。
「……彼女、大丈夫ですか?」
 しかし、口をついて出るのは、いつものとおり、素直でない言葉だった。
「大丈夫ですよ。よくお勝手の仕事を手伝ってくださいますし」
 フミは、そんな春草に笑って、芽衣を擁護する。
「ああ、そうだ、フミさん。ちゃんと最高級のまんじゅうを用意しておいてくれたまえ」
 その傍らで、鴎外も笑顔でフミに言った。
 何を作ろうとしているかは明白で、春草のすこしうきうきしていた気持ちが萎む。今日だけでも、世界中の饅頭が滅びればいいと思ったが、そんなことは起こらないだろう。
「あ、は、はい……」
 凍りつく春草を見て、フミは気の毒そうにしながらも、家主には逆らえず頷く。
「おはようございます」
 そこに、芽衣が入ってきた。
 一瞬、春草と視線が絡むと、すぐに恥ずかしそうに逸らしてしまう。
 そんなことをしたら、敏い鴎外に気取られると、春草はひやひやした。
「子リスちゃん、今日は春草の誕生日だよ」
 鴎外は、ふたりの間に漂う甘酸っぱい空気に気づいているのかいないのか、それ以上何も言わずに席に着く芽衣に、そう声をかけた。
「あ、そ、そうでした」
 言われて、芽衣は焦ったように顔を上げる。
「春草さん、お誕生日おめでとうございます」
 あらためて、春草に向けられた顔は、こぼれんばかりの笑顔だった。
 朝の陽の光の下で見る、その幸せそうな顔に、少し恥ずかしくなって、今度は春草が目を逸らしてしまう。
「……あ、ありがとう」
 これでは、鴎外にからかわれてしまうと焦って、芽衣への返事が素っ気ないものになってしまった。
 芽衣が気分を悪くしていないだろうかと窺うと、芽衣は全く気にしていない様子で、まだにこにこと笑っていた。
 その顔を少ししまってほしいと、春草は心の中で顔を覆う。
「今日は、フミさんとお前が、パーティーの準備をしてくれるのだろう? 楽しみにしているよ」
「はい! がんばります!」
「まあ、本当は、せっかくの誕生日だから、ふたりで帝國ホテルにでもと思ったのだがね」
「遠慮しておきます」
 以前断った話をぶり返す鴎外に、春草は間髪入れず言った。
「と春草が言うからなあ。しかし、つまらない男だな。子リスちゃんは泊まってみたかったかもしれないだろう?」
 鴎外の言葉に、春草は、はっとして、芽衣を見る。
 そんな真似は分不相応であるし、苦手でもあったので、一も二もなく断ってしまったが、確かに、芽衣はホテルに泊まってみたかったかもしれない。芽衣は、西洋文化に抵抗がないから、楽しめたかもしれない。
 そういえば、聞くこともしなかったと春草は気まずく、芽衣を見た。
 春草の視線を受けた芽衣は笑って首を横に振る。
「帝國ホテルは確かに入ってみたいですけど、でも、春草さんが行きたくないなら、行きたくありません」
 芽衣の答えははっきりしていた。
「それに、せっかくこうして同じ家で暮らしているので、春草さんのお誕生日は、ここで、みんなでお祝いしたいです」
 芽衣の言葉に、春草だけでなく、鴎外もフミも口元を綻ばせる。
「ああ、今日の主役は春草だからね。子リスちゃんの言う通りだ。僕たちは、春草が望むこと、楽しいことをしなくてはならない!」
 芽衣の言うことに、大いに賛同して、鴎外は高らかに宣言した。
「春草さん、楽しみにしていてくださいね! おいしいものたくさん作りますから!」
 芽衣が春草に笑いかけてくる。
「……フミさんの料理をね」
 その笑顔にどきりとして、春草は目を逸らしながらいつもの癖で、ついそんなことを言ってしまった。
「春草さん!」
 案の定、芽衣は頬を膨らませてむくれてしまう。いつもなら放っておいたりもするが、今日はさすがに少し申し訳なくなって、すぐに訂正した。
「冗談。君のも楽しみにしてる」
「は、はい……」
 芽衣はわずかに目を見開いてから、恥ずかしそうに目を伏せる。
 滅多にない春草の素直な態度に、戸惑ったのだろう。
 そんな芽衣をかわいいと思ったが、触れるには、食卓と鴎外とフミという障害がある。
 春草は我慢して、代わりに箸を取った。
「なにぼんやりしているの。せっかくフミさんが用意してくれた料理が冷めるよ」
 ついでに、芽衣に意地悪を言う。
 今、春草が我慢を強いられているのは、芽衣が可愛いせいだから仕方ないだろう。そんなことを言ったら、またむくれながらも、顔を真っ赤にするに違いない。
(……今度、気が向いたら、言ってみようかな……)
 春草は、芽衣が慌てふためく様を想像して、小さく笑った。
「は、はいっ」
 そんなことを思われているなどと知らない芽衣は、素直に慌てて同じように箸を取る。
 そんな二人を、鴎外とフミは微笑ましそうに見守っていた。

  3

 芽衣は、よし、ときれいに片づけたサンルームを見回して、満足気に頷いた。
 今日のパーティー会場の掃除は完了した。あとは、フミが帰ってきたら、一気にスパートだ。
 最初は誕生日パーティーにピンときていなかったフミも、春草のためにがんばって準備しようとはりきっている。鴎外も一緒に献立を考えてくれたり、パーティー用に特別資金を出してくれたりと、協力してくれている。
 この家のみんなで、春草の誕生日を祝えるのが嬉しいし楽しい。
 今晩は、春草の好きなものをたくさん並べて、最後は、みんなでケーキを食べるのだ。
 この時代の道具、材料では、ケーキ作りは難しいのだが、この二週間、いくつもの失敗を重ねて、どうにかおいしいものが作れるようになっていた。今日はうまく焼きたい。
 フミが戻って来たら、早速ケーキ作りだ。
 ふんふふーんと鼻歌混じりで、芽衣は台所に向かう。掃除のあとは、今日使うための食器を洗うのだ。
 楽しくて仕方がなかった。
 心が軽いと、体が軽い。
 芽衣は鼻歌を歌いながらふきんを手にする。そして、軽やかにターンをして、固まった。
 台所の入り口のところに、心底不審そうな目をした春草が立っていたのだ。
(み、見られた……!)
 体中から、ぶわっと汗が噴き出す。
「……声をかけても返事がないから、いないのかと思った」
「お、お帰りなさい」
 口から機械的に、言葉が出る。
 ひどく日常的な響きに、このまま何事もなかったことにならないだろうかと、芽衣はふきんを握りしめ、春草の返事を待った。
「…………ただいま」
 春草は、言いたいことを百万語ほど飲み込んだ顔で、まずそう言った。しかし、不審そうな目は、しっかりと芽衣に留まっている。
「……あのさ」
「は、はい……」
 落ち着きがないとか、はしたないとか、呆れ混じりのそんな言葉が、頭の中をぐるぐる回る。
 明治時代の女の子が歌いながら踊るところを、芽衣は見たことがない。そもそも同い年くらいの少女の知り合いがいないから、この時代のスタンダードを知りようもないのだが、しかし、この時代の人は、どの年齢のひともだいたいみんな落ち着いているように見えたから、女子学生といえども、歌いながら踊るようなことはしないように思えた。
 春草には、また奇抜な子に見えたことだろう。
 せっかく春草の誕生日なのに、気まずい雰囲気になってしまうのは嫌だ。変な子と思われて、気持ちがさめてしまったらどうしよう――と、そんなことを考えていたら、突然、春草が動いて、次の瞬間、芽衣は春草に抱きしめられていた。
「しゅ、しゅしゅ春草さん……!?」
「黙って」
 予想していなかったことに驚いて、慌てて離れようとする芽衣を、春草は、子どもにするように、しっと制する。
 春草にそう言われると何も言えなくなって、芽衣は口をつぐんだ。
 温かい春草の胸に、どきどきと心臓が高鳴る。
 どうして突然抱きしめてきたのかわからないが、こうして触れ合えるのは嬉しい。それに、浮かれているところを見られて、呆れられたわけではなかったようで、安心した。
 しばらくすると、少しだけ、春草の腕の力が緩んだ。
 それでも、まだ体は離れず、背中に回された腕はそのままだ。
 芽衣も離れたくなくて、その距離のまま、ゆっくりと顔を上げて、春草を見る。
 春草も芽衣を見つめていたが、ふいに何かを躊躇うように視線を少しさまよわせてから、芽衣の右肩辺りにそれを止めた。
「……あのさ……ちょっと恥ずかしいんだけど……」
 そして、微妙に目を逸らしたまま言う。
 春草の頬は、確かに少し赤らんでいた。
「え? 何がですか?」
 芽衣は、よくわからず首を傾げた。
 春草の声に、わずかに詰るような響きが込められていることには気づいたが、何を非難されているのかわからない。
「……君が浮かれているの、こっちが恥ずかしいんだけど」
 すると、春草は睨むように、芽衣に視線を戻してきた。
「朝も、君があからさまだから、ゆうべ一緒にいたこと、鴎外さんに気づかれたらってひやひやした」
「あ、あからさまって……」
 態度に出しているつもりはなかった。
 鴎外に知られたら、盛大にからかわれるだろうことは目に見えていたので、隠さなくてはと気をつけていたくらいだ。しかし、その努力はあまり実を結んでいなかったらしい。
「その緩み切った顔、どうにかしなよ」
 ひどい言われようだが、芽衣の顔がまずいのだとしたら、それは春草のせいだ。
 芽衣は眉根を寄せ、少し強気に、春草に言い返そうとした。
「それは――」
「そんなに、俺の誕生日が嬉しいの?」
 しかし、それより早く、春草に目を覗き込まれてしまう。
 熱を帯びたまっすぐな目に、芽衣は一気に逆上せた。
「ねえ」
 春草は、答えをねだるように重ねて聞いてくる。
 わかっているのに聞くなんて、ずるいと思う。そう思いながらも、芽衣は答えないということできなかった。
「……う、嬉しいに決まってるじゃないですか」
 芽衣は、せめてもの反撃をと思い、恥ずかしさをこらえて春草の目を見返す。春草の目がわずかに見開かれた。
「春草さんと一緒にいられて、春草さんと一緒に春草さんの誕生日をお祝いできて、とてもしあわせです」
 春草に告げるなかで、恥ずかしさを越えて、しあわせな気持ちがこみあげてきた。
 自然と顔が綻ぶ。
 だから、お祝いの支度をするのはとても楽しい。
 変な目で見られても、心が弾んで、浮かれてしまう。
 これは全て、春草の誕生日だからだ。
 春草と想いを交わし合って、この時代に残れなかったら、こんなしあわせな時間を過ごせなかった。
 だから、今日がとても嬉しい。
 春草といられることに感謝している。
「…………困るんだけど」
 芽衣がしあわせいっぱいな気持ちでいたら、春草がぼそりと言った。
「え……?」
 心をすべて曝け出して、返ってきた言葉が、「困る」。芽衣は愕然とした。今も温かい腕で抱きしめられているのに、芽衣の気持ちを春草はずっと困っていたというのだろうか。
「君さ、そんなかわいいこと言って、どうしたいの。君がかわいすぎて困る」
 真意が掴めなくて困惑していると、春草の熱っぽい瞳に睨まれる。たちまち芽衣の不安は消え、代わりにかっと熱くなった。
「そ、そんなこと言われても……」
 言わせておいて、それはない。
 むしろ、どきどきさせられて困っているのは、芽衣の方だ。
「ねえ、俺の誕生日、祝ってくれる気があるなら――……」
 春草の視線から逃れるように目を伏せた芽衣の腰を、春草はぐっと引き寄せる。
「そばにいて」
 耳に直接吹き込まれた声に、どきりと胸が震えた。
 春草はそのまま耳朶に軽く唇で触れていく。
 ちゅっと湿った音が鼓膜を震わせる。
 恥ずかしくて、どきどきして体が震えた。
「顔、真っ赤だけど、どうにかする約束、覚えてる?」
 約束はしていないと言いたかったが、そんな口答えをするよりもなによりも、このどきどきし過ぎる状況を、芽衣はどうにかしたかった。
「…………な、なら、離れてください」
「離れていいの?」
 またずるい質問だ。
 そうやって言葉を引き出させるのだとわかっていても、芽衣は、春草の望む返事しかできない。それが、芽衣の気持ちだからだ。
「…………いや、です」
 芽衣は、春草の袖を掴む。
 春草は満足そうに、芽衣を抱きしめた。
「芽衣……」
 そのまま口づけられそうになって、芽衣はふとふきんを握ったままだったことに気づき、さらにはもっと重要なことを思い出した。
「あ、あの、もう少しで、フミさんが帰ってくるので……」
 芽衣も春草とこうしていたいが、こんなところをフミに見られたくない。かといって、春草の誕生日パーティーの準備も途中なので、どちらかの部屋に行って閉じこもることもできない。
 芽衣は、離れがたい気持ちを抱きながらも、春草の胸を押し返す。
 しかし、春草は逆に力をこめて、芽衣を抱きしめてくる。
「しゅ、春草さん!?」
「フミさんが帰ってくるまで」
 フミが帰ってくることが伝わらなかったのかと不安になった芽衣に、春草は素早く言った。
「……はい」
 温かな胸を、もう一度押し返すことはできなくて、芽衣は頷いた。
 来年も再来年も、その先もずっと、一緒にいられたらいい。
 芽衣はそっと春草に身を寄せて、目を閉じた。

  4

 その後、買い物から帰ってきたフミと、早めに仕事から帰ってきた鴎外と芽衣の三人で、春草の誕生日パーティーの準備が始まった。
 鴎外も台所に立っていることが申し訳なくて、春草も手伝おうと何度も台所に行ったが、そのたびに、鴎外に主役は待っていろと追い返されていた。
 食卓の上に並びきらないほどのごちそうに、バースデーケーキ。
 鴎外が手に入れてきてくれたろうそくをケーキに立てて、部屋の明かりを消すと、ろうそくの柔らかな光が揺らめいた。
「春草さん、ふーって吹き消してください!」
「え? な……なにそれ、俺がやるの?」
 芽衣が楽しそうに春草の袖を引く。
 「ケーキ」も珍しいのに、それにろうそくを立てて、その火を吹き消すなんて聞いたことがない。
 けれど、芽衣は当たり前のことのように頷いた。
「そうです。吹き消す前に、ちゃんとお願いごとするんですよ」
「子リスちゃんはよく知っているね。春草、これは西洋の習わしだ。願いごとをして、ろうそくの火を吹き消す。ひと息で全て吹き消すことができたら、願いが叶うと言われているのだよ」
 鴎外は芽衣に感心してから、春草に詳しく説明してくれた。
「はあ……」
 春草は、生返事をしながら、逃げ道はないと悟る。みんなが注視している中で、あまりやりたくはないが、仕方ないだろう。ろうそくの火を吹き消すくらいの文化でよかったと思えばいい。
(願いごとか……)
 春草は、ちらと芽衣を見る。
 もしも願いが叶うなら――。
 春草は一度目を閉じて、それから息を吹きかけた。
 ろうそくの火がふっと消える。
 一瞬、真っ暗になるが、すぐにフミが部屋の明かりをつけてくれた。
 全部ひと息で消えた。これで願いが叶うなんて信じたりはしないが、気分は悪くない。
「おめでとう! 春草」
 ふうと息をついたとき、鴎外が拍手をして祝ってくれた。
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます」
 芽衣とフミも、それに続く。
 ぱちぱちと三人による大きな拍手が、部屋に響いた。
「あ、ありがとうございます」
 気恥ずかしいが、とてもあたたかい。
 できることなら、この瞬間を、絵に描きとめたいと思った。きっと、今の春草の心を写した、誰が見ても幸せな気持ちになる絵になるだろう。
「写真撮りたかったな」
 隣で、芽衣が残念そうに漏らす。
「写真?」
「はい。記念に」
 芽衣はなんでもないことのように簡単に言うが、写真なんてそう易々と撮れるものではない。こういうとき、彼女はいったい何者なのだろうと、少し遠く感じる。けれど、手法は違えど、この瞬間を残しておきたいという同じ想いを抱いたことに、芽衣をとても近くに感じる。
「なるほど。子リスちゃん、いい案だね。写真屋を呼べばよかったな」
 鴎外は、芽衣に、ふむと感心して、あごに手を添えた。
「今日は残念だが、そうだ、今度この四人で撮りに行こうではないか!」
 そして、顔を輝かせて、三人を振り返る。
「え、だ、旦那様。私は結構でございますよ」
 鴎外の本気を察して、フミが慌てている。
「俺も写真なんていいです」
 春草も、できれば辞退したかった。
 写真には興味あるが、自分が写るのはあまり気が進まない。
「いいですね!」
 そんな中、芽衣だけが、鴎外に賛成した。
「子リスちゃんは、理解があってよろしい。春草もフミさんも、これからの時代、写真のひとつやふたつに慣れておかなくては駄目だ」
 鴎外は、きっぱりと言い放った。
 これはもう、写真を撮りに行くことは決定だろう。
「はあ……」
 春草は無駄な抵抗も試みず、曖昧に返事をした。

 そして、次の休日、鴎外の号令のもと、四人でおめかしをして、写真屋に写真を撮りに行った。

 鷹揚とした笑みを浮かべる鴎外と、楽しそうな芽衣と、大緊張のフミ、それに緊張で仏頂面の春草。

 その顔が恥ずかしくてあまり見たくないのだが、それでも、この一葉は、見るたびにあたたかい気持ちにしてくれた。


「春草さん、お待たせしました」
 ひょいと芽衣が、開いたままの襖の脇から顔を覗かせる。
 きれいに髪をまとめて、身だしなみ程度の化粧をして、いちばん仕立てのいい着物を着ている。
 写真の中の少女から、今、目の前にいる芽衣へとつながる。
 たくさんの月日を共に過ごすことができた。
 あの日、信じないながらも、ろうそくの火に願ったことが叶っている。
 きっと、この先も叶い続けるだろう。
 毎年、願いを重ねているのだから。

 ――ずっと君と一緒にいられますように。

「待ちくたびれた」
 春草は、アルバムを閉じて、いつものように意地悪を言う。
「す、すみません」
 芽衣もいつものように、少し慌てて謝った。
「写真屋が閉まったらどうしてくれるの」
「まだお昼なんですから閉まりませんって」
 重ねて意地悪を言うと、少し反発してくる。
「でも、急ぎましょう」
 けれど、すぐに心配そうな顔になって、芽衣は春草の手を取り急ぎ足で歩き出した。
 忙しく変わる芽衣の表情がおかしくて、春草はこっそり笑う。
 芽衣の言う通りまだ昼なのだから、店が閉まることはないだろう。それでも、春草に言われて心配になってしまうのだ。
 ――今日の写真は特別だから。
 あの年から毎年、春草の誕生日に写真を撮るようになった。
 そうして、アルバムはだいぶ膨らんだ。
 あの年から何年経っただろう。
 一枚目を撮ったときは、触れることに照れがあったのに、今はこうして触れることになんのためらいもない。芽衣が春草の手を取ることも、春草が芽衣の手を取ることも、当たり前のことになっていた。
 あの日の約束通り、芽衣はずっとそばにいて、毎年春草の誕生日を祝ってくれている。
 それはなんて幸福なのだろう。
「……ありがとう」
 春草はそっと呟いた。
「え? 何か言いました?」
 芽衣が振り返る。
「何も。ほら、急ぐよ」
 春草は芽衣の手を握り直すと、その手にぎゅっと力を込めた。
「はい」
 芽衣は嬉しそうに笑って頷く。
 その笑顔が、春草を幸せな気持ちにしてくれるのは、あの頃から変わらない。
 そして、これからもずっと。

おわり

どこかで避暑でも(神楽坂組)

 明るくなってから置屋に帰ってきた音二郎は、至極上機嫌だった。
「お帰りなさい」
「おう、帰ったぜ」
 朝というよりは午に近い時間だが、まだ酒が残っているかのように機嫌がいい。
 帰ってきた音二郎はスーツ姿だった。昨日のお座敷は一緒だったので、宴席の後、音奴として客と飲みに行ったことは芽衣も知っている。だが、今、スーツ姿ということは、そのうえ、また別のグループで――「川上音二郎」の知り合いたちと――飲んでいたらしい。よほど楽しい酒だったのだろう。音二郎はその余韻に浸るかのように鼻歌まじりだ。「にしても、今日はひときわ暑ぃな」
 上着を脱いだ音二郎は暑さにぼやきながら、シャツのボタンを、ひとつ、ふたつと外す。
 一番上ははじめから外れていたから、シャツはほとんどはだけた。そのうえ、風を送るために、その胸元をぱたぱたとはためかせるものだから、ちらちらと素肌が見える。
 いつもは着物に隠れて意識しなくて済む引き締まった胸元に、芽衣はどきりとして慌てて目を逸らした。
(い、意識しちゃだめ……)
 あそこにいるのは音奴、あそこにいるのは音奴、と念仏のように繰り返す。
 そして、心臓の落ち着きを確かめるために、もう一度音二郎に視線を戻して、また、どきりとしてしまった。
(…………っ)
 長い足を投げ出して座り、暑そうにしている様は、まるで映画のワンシーンのようだ。
 思わず見とれそうになった芽衣は、そのことに気づいて、また急いで目を逸らす。
(や、役者さんなんだから、当然だよね)
 格好良いのも、芽衣がどきどきしてしまうのも、現代で言えば、テレビに出ているような人なのだから、仕方のないことだ。
 願わくば、できるかぎり早く音奴の姿に戻ってほしい。
 そうしたら、この乱れた動悸も落ち着くことだろう。
「は、はい。今日はほんとうに暑いですね」
 芽衣は平静を装って音二郎に頷いた。そして、団扇をとって風を送る。
 暑さが落ち着けば、すぐに音奴の着物を着てくれるかもしれないと思っての振る舞いだ。
「お、ありがてえ」
 そんな芽衣の心中を知らず、音二郎は嬉しそうに身を乗り出してくる。
 芽衣は、思わず近づかれた分だけ退いた。
「ん?」
 その気まずい距離感に、音二郎の眉がぴくりと動く。機嫌よかった顔が一瞬にして曇る。
「どうした?」
「な、なにがでしょう」
 問いながら近づいてくる音二郎から、芽衣は尻をずって逃げる。男装であまり近づかないでほしかった。
「なにがって……おい、こっち見やがれ」
 音二郎に手首を取られて、芽衣の顔はかっと赤くなってしまう。
 それに気づくと、音二郎の雰囲気が和らいだ。
「ん? なんだ、お前、もしかして照れてるのか?」
 音二郎に図星をさされて、ますます顔が赤くなる。
「お前もようやく、この川上音二郎様の魅力に気づいたか?」
 音二郎は、わっはっはと豪快に笑った。
「お、男の人の格好は慣れてなくて……」
「は? 俺は男だっつーの。お前もそろそろちゃんとわかれ」
 芽衣が正直に言うと、上々に戻った機嫌を損ねてしまったらしく、音二郎は眉根を寄せた。
「そ、それはわかってます」
「わかってねえ。ほら、こっち見ろよ」
「み、見られません」
 ぐいと腕を引かれるが、意識してしまうと、どう見たらよいものかわからなくなった。今のままでは、音二郎を見た途端、顔がトマトのように真っ赤になってしまいそうだ。
「なんだ、そりゃ」
 頑なに顔を背ける芽衣に、 音二郎はおかしそうに笑う。
「お前はほんとにかわいいよな」
 ついには、音二郎の大きな手が、頬に触れた。「音奴」とは緊張しない距離、行為なのに、音二郎だと、そんな戯言にもどきどきして緊張してしまう。
「あ、あんまり近づかないでください。音二郎さん、暑いんですよね?」
「ああ、そうだ。暑いは暑いが――もっと近づいたら、お前がどうなるのか見てみてえな」
 頬に置いた手にわずかに力がこもる。
 音二郎の体がゆっくりと近づいてきた。
 芽衣の体などすっぽり収まってしまう大きな体。
 射止めるように強い眼差し。
 いやでも、音二郎が男の人なのだとわかってしまう。
「お、おおお音二郎さん!!」
 芽衣は目をぎゅっとつぶって、音二郎を思いきり押した。
「あっはっは」
 動揺あらわな芽衣に、音二郎は大笑いして、されるがまま離れてくれる。そして、芽衣が置いた団扇を取ると自分を扇いだ。
「それにしても、どうにもならねえ暑さだな」
 ひとしきりからかって満足したのか、音二郎は話を暑さに戻した。
「そうですね」
 芽衣はほっとしながら頷く。
 音二郎の言うとおり、今日はここ最近でいちばん暑い。じっとしていても空気が熱くて息苦しいほどだ。当然のことながら、この時代にはクーラーなんてものはないので、芽衣は少々こたえていた。
「あー暑いな。――そうだ! どっか涼しいとこにでも行くか」
 音二郎は名案を閃いたとばかりに、手を打つ。
「え?」
「海とかよ。たまにはいいだろ? 一泊くらい。うまいもんも食えるぞ」
 海と聞いて、あわびにさざえ、伊勢海老、新鮮な魚たち、魅力的な食材が、芽衣の脳裏に一瞬にして浮かんだ。
 もちろん、一番の好物は肉だが、芽衣は基本的に食べることが大好きだ。
「な、どうだ?」
 芽衣の返事を確信しているかのように自信たっぷりに見てくる音二郎の目。
 それにまた少しどきりとしながらも、芽衣は大きく頷こうとした。
 反対する理由はもちろんない。
「は、は――」
 と、そのとき、突然、すぱーんと襖が開かれて、
「駄目に決まってんだろっ!!」
と、一喝された。
 芽衣も音二郎も、ぽかんと突然現れた書生――鏡花を見つめた。
「未婚の男女がふたりっきりで旅行だなんて何考えてるんだよ!!」
 ふたりの驚きなど置いてきぼりに、鏡花は断固反対と言い募る。
「い、いや待てよ。なんでお前がここにいるんだ。ここは関係者以外立ち入り禁止だぜ、鏡花ちゃん。ばれたら座敷出入り禁止にされるぞ」
 その勢いに飲まれかけて、どうにか我に返った音二郎は、鏡花をたしなめた。旅行への口出しより何より、ここに堂々と入り込んでいることがまず問題だ。
「ふんっ。今はみんな部屋を出払っていることは確認済みだよ。だからあんたもそんな格好でも堂々と入れたんだろ!」
 鏡花はそうふんぞりかえって言いながらも、さすがに襖を開け放ったままはまずいと思ったのか、部屋の中に入ってきっちりと閉めた。
「ああ? 俺のことつけてたのか?」
 鏡花の言い様に、音二郎は眉根を寄せる。
 それに対し、鏡花は目を見開いて吠えた。
「ちーがーう! どうして僕が川上なんかをつけなきゃなんないのさ! 偶然ここの前を通りかかったら、あんたが置屋に入っていくのが見えたからね、文句を言うために寄ったんだよ!」
「文句だ?」
「あんた、この間も、ひとのいない間に勝手に部屋に入って原稿読んだだろ。まだ書きかけだから駄目だって言ってるのに!」
「勝手にじゃねえよ。ちゃんと家人に断ったぜ」
「僕に断れ!」
「断ったら見せてくれねえだろ」
「当然だろ!」
 どこまでも平行線の会話だ。
 鏡花の原稿を盗み見ない音二郎も、音二郎に協力的な鏡花も想像できないので、これは永遠に解消されないだろう。ここで幸いなことは、音二郎が不法侵入でなかったことだと、芽衣はこそりと思っていた。
「じゃあ、断りはいれられねえな。俺はホンの具合が気になるんだからよ」
「どこまで図々しいんだよ! 僕の仕事の進捗をあんたに気にされる筋合いはないね!」
 鏡花はものすごい形相で音二郎を睨みつけている。
 鏡花の主張はどれももっともだ。
(ごめんなさい、鏡花さん)
 お姐さんに代わって、芽衣は心の中で鏡花に謝る。これまでの経験上、口に出したらまた一揉めするので、謝罪は胸の内におさめておいた。
「あーそれより鏡花ちゃんよ、お前、最近詰まってんじゃねえのか?」
 と、突然、音二郎は心配そうに尋ねた。
「え?」
 鏡花はびっくりした顔で音二郎を見返す。
 どうやら図星だったようだ。
 さすがに神楽坂一の芸者だけてあって、人の好不調を見抜くことに長けている。
「原稿、先週からちっとも進んでねえじゃねえか」
 さすが音二郎さん、と芽衣が思うのと同時に、音二郎はそんなことを言った。
(ん……?)
 芽衣は首を傾げる。
「あ、あんた、そんなにちょくちょく覗きに来てるわけ!?」
 芽衣の疑問は、鏡花が言葉にしてくれた。
 音二郎は売れっ子芸者の洞察力を発揮したわけではなく、頻繁に勝手に覗きに行っているという話だ。
 鏡花はわなわなと拳を震わせている。
「ちゃんと先生には断り入れてるぜ? 鏡花ちゃんには友だちが少ないから、ちょくちょく遊びに来てやってくれって言われたくらいだ」
「先生に取り入るな! ああもういい! とにか、金輪際下宿に近づくなよ!」
 にやにやする音二郎に、鏡花は顔を真っ赤にして怒鳴った。
 そして、踵を返してかけてぴたりと止まる。
(あれ? どうしたのかな、鏡花さん)
 いつもなら、それを捨て台詞に、怒って出て行くようなタイミングだったのに、鏡花はそのまま動かなかった。 
 予想を裏切られて、芽衣は首を傾げる。
 音二郎も芽衣と同じように不思議そうだ。音二郎も、鏡花の癇癪のようにぴしゃりと閉まる襖を想像していたのだろう。
「わかってるよね、あんた」
 鏡花を見守っていると、不意にきつく睨まれた。
「え? 何のことですか?」
 何の心当たりもな聞き返すと、鏡花は焦れたように声を荒げた。
「だから! 未婚の男女がふたりっきりで旅行なんて、非常識だってわかってるよね! しかも、この川上とだなんて!」
 言われて、芽衣は気づく。
(あ、そっか……)
 ここは明治時代で、音二郎は男性だ。夫婦でも恋人でもない男女が二人きりで旅行するなんて、現代でも奇異なことと見られるのに、いわんや明治時代をやだ。音二郎とは共に暮らしているから、姉というか兄というか、家族のような存在に思ってしまっているが、もっと気をつけなければいけない関係なのだ。
「やだねえ。女同士水入らずの旅にけちつけなさんな」
 しかし、納得した芽衣に対して、音二郎は芽衣を抱き寄せ、音奴の口調で鏡花に反論する。
 さっきはどきどきした距離も、音奴だと思ったら、特に何とも思わないから不思議だ。
「あんたは男だろ! どさくさに紛れてこの子に触るなよ!」
 芽衣がのんきにそんなことを思っていると、鏡花は目をつりあげて、音二郎を怒った。
「別に俺がこいつに触ろうが、ふたりきりで旅行しようが、鏡花ちゃんには関係ねえだろ?」
 音二郎は、まるで鏡花に見せつけるように、芽衣をさらに抱き寄せる。
「なにか問題でもあるのか? なあ、鏡花ちゃんよ」
「ぐっ……」
 音二郎ににやにやと詰め寄られて、鏡花は言葉を詰まらせた。
 ふたりの会話が途切れたので、芽衣は口を開く。
 鏡花のおかげで、ひとつ、いい案を思いついたのだ。
「鏡花さん、ありがとうございます」
「え?」
 突然の感謝に、鏡花は戸惑ったように芽衣を見た。
「音二郎さんには、音奴姐さんの格好で行ってもらえば、周りに変に思われないですよね。気づかなかったので、言ってもらえてよかったです」
 音二郎の言うとおり、女子旅をすればいいのだ。この時代に、女性同士で旅をする風習があるかはわからないが、結婚前の男女が旅行するよりは奇異な目で見られないだろう。音二郎は出かけるとなると男装が多いので、言われなければ、そのまま行ってしまっていたはずだ。危ないところだった。
「おいこら、ちょっと待て。俺は女の格好でなんか行かねえぞ」
「えっ、それは困ります」
 きっぱりと音二郎に断られて、芽衣は慌てて音二郎を振り返った。
 音二郎は、苦虫を潰したような渋面をしている。
「ぶふっ」
 一方、背後で、鏡花が吹き出した。
 音二郎の形良い眉がぴくりと動く。
「俺は絶対に男の格好で行くからな! そうじゃなかったら、旅行はやめだ!」
 そして、まるで宣言のようにそう言った。
「ええ! そんな!」
 伊勢えびやあわびやさざえが、手を振って遠のいていく。
(だめ、待って!)
 もう口の中は、海の幸を食べる準備ができていた。
 芽衣は彼らを引き止めるため、急いで頭を振り絞る。
 どうしたらよいだろう。
 一番簡単なのは、男装の音二郎との旅行を承知することだ。芽衣としては全く問題はないのだが、明治という時代と鏡花が許してくれないだろう。
 まるで秩序の番人のように、鏡花は芽衣が頷かないように見張っている。
 ――――鏡花。
 鋭い眼差しを向ける鏡花にあらためて気づいて、芽衣ははっとした。
「じゃ、じゃあ、鏡花さんも一緒に行ってください!」
 芽衣は、思いついたことをそのまま口にする。
「はあ?」
 鏡花は思い切り眉根を寄せた。
「二人っきりが駄目なら、三人ならいいですよね? 鏡花さん、私のあわびのために協力してください!」
 芽衣は、ぱんと音が鳴るほど勢いよく手を合わせて鏡花にお願いした。
 これなら未婚の男女がふたりきりで旅行ということも、音二郎が男装で行くことも同時に解決する。
 海の幸に目が眩んでいる芽衣には、鏡花が行きたいかどうかは問題ではなかった。
「な、なに言い出すんだよ、あんた。そういう問題じゃないだろ! ぼ、僕が行ったところで、未婚の男女が連れ立って旅行するのは変わらないだろ!」
「それはほら、修学旅行とか部活の合宿だとか思えばいいじゃないですか!」
「は? なんだよ、それは?」
「ああ、えっと…………」
 鏡花に眉根を寄せられて、学校行事が通じない時代なのだと気づく。芽衣はすぐに
「じゃなかったら、きょうだいとか親戚というのはどうでしょう?」
「あんたはなんでそんなに積極的なんだよ! そうじゃなくて、あんたは、男と旅行するのをなんとも思わないわけ!?」
「鏡花さんこそ、どうしてそんなに消極的なんですか! あわびやさざえを食べたくないんですか!!」
 苛立ったようにきつく言う鏡花につられて、芽衣も声を荒げる。
「生かもしれないって心配なんですか? 大丈夫ですよ! 東京で食べるより絶対新鮮ですし、それでも心配なら鏡花さんの分は火を通してもらいましょう! ね?」
 芽衣は、これで安心だろうと鏡花に笑いかけた。
「ね、って……あんた……」
 鏡花は二の句がつげず口ごもる。
 芽衣は、鏡花ですら論点はそこではないと言い出せないほどのオーラを立ち上らせていた。
「鏡花ちゃん、観念しろ」
 音二郎が、そっと鏡花の肩に手を置いた。
「もうこうなったら止められねえよ。肉以外でも、こんだけ目の色変えるっつーのは予想外だったけどな」
「ああ……」
 こそこそと音二郎に言われて、鏡花も頷く。
「ま、こいつも暑さに参ってたからよ。ちょっと涼しいところに行ってうまいもんいっぱい食うのはいいだろうし。それによ、鏡花ちゃんもこいつと同じだろ?」
「え?」
「どうせ、この暑さにやられてばてて、あんまり食ってないだろ。涼しいところに行って、気分転換すりゃ筆も進むってもんだ」
「なっ、そ、それはあんたには関係ないだろ! 言っておくけど、あの作品の上演許可はまだ出してないんだからね!」
「よーし。そうと決まったら、善は急げだ」
 喚く鏡花から離れ、音二郎は上着を掴む。
 鏡花を説得してくれたのかと、芽衣は期待に胸を膨らませた。
「なにも決まってないだろ!」
 しかし、それを、鏡花がすぐに打ち砕く。
 どうやら音二郎も説得に失敗したらしいと芽衣はがっかりした。
 海の幸への道が閉ざされてしまった。
「鏡花ちゃんが行きたくねえって言うなら仕方ねえ。俺たちは夫婦だって言えば白い目で見られねえよ」
 肩を落とす芽衣に、音二郎が第三の解決案を出した。
「はあ?」
 脇で鏡花が素っ頓狂な声を上げるが、芽衣はその手があったかと膝を打つ。
「証明してみせなきゃなんねえことはねえし、適当に言っておけばいいだろ」
「それもそうですね」
 夫婦は気恥ずかしいから、やはり兄妹でと思いながら、芽衣が頷いていると、鏡花がものすごい剣幕で詰め寄ってきた。
「あんた、なに納得してるんだよ! 川上と夫婦だなんていいわけ!?」
「え、そ、それは――」
「あーあー、どこに行こうかなー。温泉も外せねーよなー」
 その後ろで、音二郎が鏡花を煽る。
「お、おおおお温泉!?」
 鏡花は見事に音二郎の狙い通りに激しく動揺した。
「な、お前も入りたいだろ、温泉」
「は、はあ……」
 音二郎が鏡花をからかっているのだろうから、芽衣の返事は曖昧なものになってしまった。
 温泉と聞いて胸は弾んだが、それをそのまま言って、火に油を注ぎたくなかったし、かといって入りたくないと嘘を言うことも違うように思えてできなかった。
「あ、あんた、温泉に入るつもり?」
 しかし、そんな中途半端な返事でも、鏡花は信じられないものを見るような目で、芽衣を振り返った。
「え、えっと……温泉に行くなら入りたいですけど……鏡花さんは、行っても入らないんですか?」
 温泉に行くのに、入らないという選択肢はない。その質問自体がナンセンスで不思議だった。だが、そこで、鏡花は潔癖症だから、温泉なんてもってのほかなのかもしれないと気づく。気持ち悪いというのなら無理強いはできないが、それは実にもったいなく思えた。
「気持ち悪いなら無理には言いませんけど、温泉、気持ちいいですよ。鏡花さんも入りましょう?」
 広い湯船で手足を伸ばして温泉につかったら、原稿漬けの鏡花の疲れもとれるだろう。もし食わず嫌いをしているのならもったいない。
 芽衣はそう思って、鏡花に言った。
「は、入りましょうって……あんた、な、なな何言ってるんだよ! ぼ、僕はそもそも旅行に行くなんて言ってないし……温泉に入るなんて……」
 すると、なぜか鏡花は、かあっと顔を赤くしてしまった。
「えっ、鏡花さん?」
 その鏡花の反応がわからなくて、芽衣は首を傾げかけ、はっと気づく。
「きょ、鏡花さん、もしかして、一緒にって思いました? ち、違いますよ! 一緒にじゃないですよ! 鏡花さん、なに想像してるんですか!」
 言いながら、少し想像してしまって、芽衣も顔が火照ってしまった。鏡花と一緒に温泉に入るなんて、できるわけがない。恥ずかしすぎる。
「ばっ、ぼ、僕はそんなこと……」
 芽衣の指摘に、鏡花は目を大きく見開き、否定しようとするが、大いに動揺している。芽衣の言う通りの勘違いをしたのは明らかだった。
「おいおい、鏡花ちゃん。なんつー想像してくれてんだ? ん? こいつと温泉入りたいって?」
 音二郎がにやにやと笑って鏡花の肩を抱く。
「う、うううるさい! あんたが温泉なんて言うのが悪いんだ!」
 鏡花は、八つ当たり気味に、その腕を払った。
「ま、二人きりは認められねえが、三人で入るってのはいいかもな」
 払われた腕を組み、音二郎は楽しそうに顎を撫でる。
「は? よ、よくないですよ!!」
 音二郎のとんでもない発言に、芽衣はぶんぶんと首を横に振って反対した。
「あっはっはっ。お前、ゆでタコみたいになってるぜ?」
 必死な芽衣を見て、音二郎はおかしそうに笑う。
 顔が赤いことを指摘するなら、もっとかわいい物にたとえてほしいとちらりと思ったが、今はタコでもいいから、駄目だということを伝えたい。
「よくないですからね!」
「ああ。まあ、それはひとまず置いておくか」
 芽衣が念押しすると、音二郎はうんうんと軽く頷いた。
(だ、大丈夫かな……)
 完全にはなくならなかったことに、一抹の不安を覚える。
 もしかしたら、音二郎はまだ酒が残っているのかもしれない。
 ここはもう一度くらい言っておこうと、芽衣は口を開くが、それより先に音二郎は次の行動に移ってしまった。
「よし、じゃあ行くぞ!」
 音二郎は、手にしていた上着を肩にかける。
 まるで近所の店に行くような気軽さだが、これは旅行に出発しようと言っているのだ。
「えっ、今からですか?」
 まさか今の今出発するとは思わなくて、芽衣は驚いた。
「こんな暑いところ、さっさと逃げ出すに限るだろ。今晩は座敷も入ってねえし、休みもらうなら今日がいちばんだ」
 音二郎らしい即断即決だ。
 それに、そう言われると、確かに今出発するのがいちばんだと、芽衣は納得した。
「鏡花ちゃん、今回は特別に、俺とこいつのふたり旅についてきてもいいんだぜ」
 音二郎はにやにやと笑って、鏡花に言う。
「ぐっ……うぅぅう」
 鏡花は言葉を詰まらせて歯ぎしりした。
「新婚だっつって楽しもうな、いろいろと」
 音二郎は、そんな鏡花にさらに見せつけるように芽衣を抱き寄せる。
「お、音二郎さん……」
 低い声で囁かれて、芽衣はどきどきした。たぶん音二郎の思う壺なのだろうが頬に熱が集まってしまう。
「あぁあああ!」
 突然、鏡花が奇声を上げた。
「僕も行く!」
 そして、音二郎と芽衣を睨みつけて言う。
 全く楽しい旅行への参加を表明するような様相ではない。怒りもあらわの忌々しそうな表情だった。
「きょ、鏡花さん、無理しなくても……」
 芽衣が思わずそう言うと、鏡花はますます目を吊り上げて睨んできた。
「なに、僕が一緒にいったらまずいわけ?」
「ち、違います、全然。大歓迎です!」
 芽衣は慌てて盛大に首と手を振る。
「よーし。ようやく決まったな」
「わ、は、離せ!」
 芽衣を不満そうに見ていた鏡花の首根っこを、音二郎ががっちりと掴んだ。
 ようやく鏡花から行くという言葉を引き出せて、満足そうだった。
「行くぞ!」
 そして、反対の手で芽衣の手を取り歩き出す。
「わ、は、はい」
 音二郎に手を引かれながら、何の支度もしていないと思ったが、まあいっかと思い直した。
 きっとこの旅行も平穏無事には済まないのだろうけれど――。
(楽しみだな)
 わくわくする気持ちが膨らんで、芽衣の足取りは軽かった。


おわり

ハッピースイートバースデー(八芽)


 6月27日金曜日の午後、芽衣は、帝國ホテルの八雲の部屋のリビングルームで、ソファに座って英字新聞を読んでいた。
 最近は、八雲が取っている新聞を読ませてもらって、英語の勉強をしている。辞書は手放せないが、わからなかったら、すぐに教えてもらえる相手がいるので、なかなか捗った。我ながら、以前よりは、すらすらと読めるようになっていると思っている。
 八雲は隣に座って、本を読んでいた。金曜日の午後は講義がないため、こうして一緒に過ごすのが習わしのようになっていた。
 そんないつも通りの静かな午後、部屋の呼び鈴が鳴らされた。
「芽衣サンは座っていてください。私が頼んだのですよ」
 芽衣が顔を上げると、八雲がそう言って芽衣を制し、入り口の方へと歩いていく。ルームサービスにコーヒーでも頼んだのかもしれないと思い、芽衣は再び新聞に目を落とした。
 しかし、そこに、八雲が軽やかに戻ってきたので、芽衣の目はそちらに釘づけになる。その手に、予想外のものを持っていたからだ。
「芽衣サン! 見てくださーい! こちらのケーキ! クリームがたっぷりで、とてもおいしそうですよ。いかがです?」
 スキップで戻ってきた八雲は、そう言って、たくさんの大きなイチゴがきれいに並んだショートケーキを差し出した。八雲の言うとおり、生クリームがたっぷりかかっていて、とてもおいしそうだ。
「わあ」
 芽衣は、目を輝かせた。丸い大きなケーキは、わくわくする。食べたときのことを考えれば涎が出てしまう。
「それとも、チョコレートケーキの方がお好みですか?」
 八雲は、ショートケーキを脇に置くと、後から続いて現われた給仕が押すワゴンから、今度は、まるでエナメルのように光り輝くチョコレートケーキをとって、差し出してきた。こちらもチョコレートクリームがたっぷりと使われていて、とてもおいしそうだ。
「ああ、ですが、タルトも捨てがたいですね」
 八雲は、芽衣の返事を待たずに、それも置くと、今度はフルーツたっぷりのタルトを持ち上げた。初夏の瑞々しい果物がふんだんに使われた、目にも楽しい、おいしそうなタルトだ。
 さすがは帝國ホテル。どのケーキも申し分なくおいしそうだ。
 だが、しかし、である。
 ケーキはそれだけではおさまらず、また、マカロンやビスケットなどの焼き菓子もたくさん運ばれてきて、最初はときめいた芽衣も、戸惑いを覚えた。
「芽衣サンは、どのケーキがお好きですか?」
 八雲はにこにこと聞いてくる。
「ええっと……」
 芽衣は返事に困った。
 部屋には、最後に運ばれてきた紅茶の良い香りが漂う。テーブルの上には、誰しも一度は夢見る「お菓子の山」さながらの、たくさんのお菓子が置かれている。これは現実だろうか。いったいどうしたのだろう。
「たくさん召し上がってくださいね」
 返事に窮する芽衣に構わず、八雲は、いつものように優しく笑いかけてきた。
「あ、ありがとうございます……」
 芽衣は御礼を言ってから、楽しそうな八雲を窺う。そして、聞いてみた。
「あ、あの……八雲さん。どうして、こんなにケーキやお菓子を頼んだんですか?」
 ケーキも洋菓子も、通常のルームサービスにはないものばかりだ。八雲が特別に頼んだのだろう。どうして、今日、突然、こんなことを思い立ったのか不思議だった。八雲は甘いものが好きな方だが、それにしてもいちどに食べられる量ではない。食べきれなかったら捨ててしまうことになるのだろうか。誰かにお裾分けできればいいが、八雲が、意味もなく、そんなもったいないことをするとは思えなかった。
 その理由が知りたくて、芽衣が尋ねると、八雲はいつも以上に優しく微笑んだ。八雲の笑顔は見慣れているはずなのに、芽衣は思わず頬を赤く染めてしまう。
(や、やっぱり、すてきだよね、八雲さん)
 芽衣は、八雲に悟られないように、どきどきと脈打つ胸をおさえた。
「今日は、どうしても、貴女とケーキパーティーをしたかったのですよ」
 さきほどの質問に、八雲はそう答えた。
(ケーキパーティー……?)
 芽衣は、テーブルの上を見渡す。確かに、これはパーティーにふさわしい。しかし、どうして、突然ケーキパーティーなのかがわからない。それとも、芽衣が考えるような深い理由はなくて、本当に単にケーキパーティーがしたかったのだろうか。
 なんとなく、違和感を覚えた。もっと別の理由があるのではないかと思う。
「ああ、芽衣サン。どうせならビーフパーティーだったらもっと良かった、という顔をなさってますね。申し訳ありません」
 芽衣が考え込むと、八雲が顔を覗き込んできた。
「そ、そんなこと思ってません!」
 芽衣は慌てて否定する。誤解はもちろん、突然近くに八雲の顔が現れたことにも慌てた。八雲はくすりと笑って、離れていく。
「そうですか。芽衣サンは、甘いもの、お好きですよね?」
「はい。大好きです」
 芽衣は、力強く頷いた。
 それはもちろん好きだ。肉とは別腹なところもいい。
「それはよかった」
 八雲は嬉しそうに頷いてから、少し顔を引き締めた。その顔は、なぜか気まずそうにも見える。芽衣がどうしてだろうと思っているうちに、八雲はまた口を開いた。
「……そうですねえ。実は、理由は、もうひとつあります」
「もうひとつ?」
 それこそが、このケーキパーティーの理由だろう。このユニークな行為に、いったいどんな理由があるのかと、芽衣は八雲の言葉を待つ。
「はい。今日が私のバースデーだからです」
 そして、八雲は、さらりと言った。
 バースデー。
 英語から日本語に翻訳するまでもない。頭にすっと入ってきた。
「や、八雲さん、今日、お誕生日なんですか!」
 芽衣は目を剥いて、声を上げた。思わず、立ち上がってしまう。
 今日が、八雲の誕生日だと知らなかった。
(今日って、なん日……6月27日……)
 芽衣は、さっとカレンダーに目を走らせ、日にちを確認する。
 6月27日。八雲が生まれた大切な日。
 なぜそれを今まで知らずにいたのか、衝撃的だった。
「ど、どうして、もっと早く言ってくれないんですか!」
 このパーティーがバースデーパーティーならば、最初からそうすると言ってくれればいい。そう思って言ってしまってから、芽衣は間違いに気づいた。
「じゃない。……ごめんなさい、私、知らなくて」
 責められるべきは、大切な人の誕生日を知らずにいた芽衣の方だ。それなのに、八雲を非難してしまって、消え入りたいほど、申し訳なく恥ずかしかった。
「謝ることなんてありません。私が言わなかったのですから」
 それなのに、八雲はやっぱり優しい。
 そっと取られた手に引き寄せられて、芽衣は八雲の胸におさまる。
「でも、私、聞きもしないで……」
 本当にそれが、申し訳なくてたまらなかった。どうして今まで聞かなかったのか、不思議で仕方ない。
(星占いとかないからかな……)
 そんなことに原因を求めてしまう。あとは、この時代の人々が誕生日を重視していないという外部環境のせいにもしたくなる。しかし、西洋人の八雲と現代人の芽衣には、あまりあてはまらない話だ。
「いえ、私が聞かせなかったのですよ。ですから、貴女が謝ることはないのです」
「え?」
 あれこれと原因を考える芽衣に、八雲が言った。すぐには理解できず、芽衣は聞き返す。
「貴女は、ご自分の誕生日を忘れていて、大切な日を祝うこともできません。それに、誕生日を思い出したら、他のことも思い出してしまうかもしれません。そうしたら、貴女はどこかに行ってしまうのではないかと思って……だから、誕生日の話は避けていました。本当は、私の誕生日をアピールして、貴女に祝っていただきたかったのですが……。我慢していました」
 八雲は申し訳なそうに微笑んだ。
「私はずるいのです。そんなことを考えながら、結局、我慢し切れず、無理矢理祝っていただこうとしました。ですから、貴女が謝ることも、申し訳なく思うこともないのです。私が悪いのですから」
 さきほど少し気まずそうな顔をしたように見えたのは、目の錯覚ではなかったようだ。八雲は、自分のずるさに、後ろめたいものを抱えていたのだろう。
 芽衣は大きく首を横に振った。全く八雲は悪くない。ずるくもない。とても優しいと思った。
「八雲さんは、ずるくありません! それに、無理矢理なんて言わないでください。私も八雲さんのお誕生日、お祝いしたいですから! 本当に、ちゃんとお祝いしたかったです……」
 芽衣は、心から残念で、目を伏せる。こうした形ではなく、きちんと八雲の誕生日を祝いたかった。
「今、こうして祝っていただいているではありませんか」
「そうじゃなくて、ちゃんと、私がお祝いしたかったんです! 八雲さんが準備するんじゃなくて、私がケーキとかごちそうとか準備して、プレゼントも用意して……」
 八雲の優しいフォローに、芽衣は顔を上げ、言い募る。
 八雲自身にさせるのではなく、芽衣が準備したかったのだ。今日は、プレゼントも用意していない。お祝いの言葉すら、準備していないのだ。
「芽衣サンは優しい方ですね。そんなに優しいと、どこかの悪いおまわりさんにつけこまれてしまいますよ」
 だが、優しい八雲にそんなことを言われてしまった。意図的に話をずらされて、芽衣は少し不満を覚える。冗談めかすことで、どちらが悪いという話を終わらせるつもりなのだろう。
「……大丈夫ですよ。そんなおまわりさんはいませんから」
「それはどうでしょうか」
 八雲の大人な態度に、芽衣が少し拗ね気味に返事をすると、八雲は、ちゅっと芽衣の唇を掠めていった。
「!」
 不意打ちのキスに、芽衣はびっくりする。そんな芽衣の鼻先で笑って、八雲は笑った。
「私は、大切なマイフェアリーを捕まえようと手ぐすね引いているおまわりさんを知っているような気もしますが――。あー、今のは、バースデープレゼントですよ。ありがとうございます、芽衣サン」
 芽衣は胸をどきどきさせながら、その笑顔を見つめ、ひとつ、思いつく。
「八雲さん。私、誕生日を6月27日にします」
「え……?」
 唐突すぎたのか、八雲はきょとんと首を傾げた。
 今日を誕生日にする。それはとてもいい考えに思えた。
「どうせ忘れてしまっているんだから、自分で決めてもいいと思いませんか? 誕生日。ないのも不便ですし。だから、八雲さんと同じ今日を誕生日にしようと思います。……いいですか?」
 いい考えだと思ったが、先人の許可は必要だと思って、芽衣は八雲を窺う。すると、話を理解した八雲は頬を上気させて頷いた。
「……も、もちろんです! 誕生日が貴女と同じだなんて、なんて素晴らしいのでしょう!」
 八雲は、感極まったように言って、芽衣を抱きしめる。
「本当に貴女は素敵な方ですね」
「それなら、八雲さんが素敵だからです」
「えっ……」
「八雲さんが優しいから、私も優しくなれるし、八雲さんにしあわせにしてもらっているから、私も八雲さんをしあわせにしたいと思うんです」
 目を瞬く八雲に、芽衣は笑った。どうしてこれほど与えてくれているのに無自覚なのだろう。
「本当に……神に感謝します」
 八雲は一度天を仰ぎ、それから芽衣を大切に抱きしめた。
 お互いに顔を見合って、口を開く。
「お誕生日おめでとうございます、八雲さん」
「ハッピーバースデー、芽衣サン」
 声が重なる。二人は、顔を見合わせたまま笑い合った。


おわり

遣らずの雨(鴎芽)

 ぶるりと体が震えた。
 肌寒さに、手を伸ばして、そこにあるはずの温もりを探す。しかし、それは、ただ、シーツの冷たい感触に触れただけだった。
 芽衣はゆっくりと目を開ける。
 外は雨が降っているようだ。
 さーさーと雨の音が聞こえる。
 芽衣は、毛布の中で目を覚まし、おかしなことに気がついた。
 服を着ていない。
 一気に、頭が覚醒した。
(な、ななななんで!?)
 昨夜、寝たときは服を着ていたはずだ。それなのに、なぜ今着ていないのか、わけがわからなかった。
(……ね、寝ぼけて脱いだとかだったら、どうしよう)
 もう先に起きているようだが、この寝台を使っていたのは芽衣だけではない。
 それなのに、そんなことをしていたら最悪だ。
 芽衣は、おろおろしながら、とにかく服を探そうと毛布をかぶって起き上がった。
「おはよう、子リスちゃん」
 そんな芽衣の目の前に、いつも通りにこやかな笑みを浮かべた鴎外が現れる。行水をしてきたのか、手ぬぐいを持っていた。
 芽衣はびくっと体を震わせ、毛布をきつくかきあわせる。寝ぼけて服を脱いでいたなんて、鴎外に知られたくない。
「お、おはようございます」
「うん。いい朝とはいいがたい天気だが、まあ雨も悪いものではないね。今日は、昼には晴れるそうだが」
 鴎外は答えながら、そっと窓の外へと目をやった。
 鴎外は、晴れることをあまり好ましく思っていないようだ。
 芽衣は、憂いを帯びた切れ長の瞳に、見惚れてしまってから、そんな場合ではないと思い出す。
「あ、そ、そうなんですか」
 鴎外に返事をしながら、服はどこだろうと部屋を見渡す。
 寝ぼけて脱いでしまったのなら、ベッドの周りに落ちているのだろうと思ったのだが、床の上はきれいなものだった。
 しかし、床に散らばっていたとしたら、鴎外が見つけるはずで、鴎外が何も言ってこないのはおかしいと気づいて行き詰まった。
 いったい服はどこいってしまったのだろう。
「どうしたんだい、子リスちゃん。毛布をかぶったままで」
 ついには、鴎外に不審そうに問われてしまった。
「寒いのかい? なら、僕が温めてあげ――」
「い、いいです!」
 鴎外が近づいてきそうになったので、芽衣は全力で首を横に振る。
 とにかく、どうしてこういう状況になったのかはっきりするまでは、鴎外に知られたくない。恥ずかしすぎる。
「あまり強く拒絶されると、傷つくのだがね」
 鴎外の口の端が少しひきつっている。
 芽衣はそれを見て、慌てて謝った。
「あ、ご、ごめんなさい。そ、そうじゃないんです……」
 鴎外を拒絶したわけではなくて、芽衣には今のっぴきならない事情があるのだ。しかし、それを伝えるわけにもいかなくて、芽衣はおろおろと視線をさまよわせる。
「あ、あの、鴎外さん、先に、下におりていてください。朝餉の支度、そろそろできてますよね」
 結局、話を変えることにして、芽衣はそっと鴎外を促した。
 鴎外に部屋から出てもらえれば、芽衣の状態を知られることもなく、ゆっくり服を探すこともできる。もしかしたら、寝台の反対側に落ちているのかもしれない。
「それなら、一緒に行こうではないか」
 しかし、芽衣の希望に反して、鴎外にもっともな誘いを受けてしまった。
「それは……その……私は後から行きますから」
 言い訳にもなっていないことを言って、芽衣はぎゅっと毛布を握りしめる。
 何となくだが、鴎外は部屋から出ていきそうにない雰囲気だ。
(うう……どうしよう……)
 鴎外を相手に、うまくしのぐ術など、芽衣にはない。
 心底困った末に、ふと、鴎外を見ると、なんだかひどく楽しそうに見えた。
 芽衣は、若干の違和感を覚えて、それを見極めようと、鴎外を見つめる。
 すると、芽衣の視線に気づいたのか、鴎外の口元が引き締まった。
 それを見て、ぴんときた。
 どうして、その可能性に気づかなかったのだろう。
 鴎外だ。
 鴎外が服を隠したのだ。
 なぜそんなことをしたのかは分からないが、饅頭茶漬けといい、鴎外のやることは、たまに芽衣の想像を超えている。
「お、鴎外さん! 私の服を返してください!」
 芽衣は犯人と決めて、鴎外に訴えた。
「うん?」
 鴎外は小首を傾げて、何のことだといった顔で見返してくる。
 その顔に、鴎外ではないのだろうかと、不安がもたげた。
「ほら、子リスちゃん。いつまでも毛布をかぶっていないで、一緒に朝餉に行こうではないか」
 芽衣が戸惑っている間に、鴎外が近づいてくる。
「こ、ここ来ないでください」
 芽衣は、後ずさるが、すぐに背中が壁にぶつかってしまった。
「来ないで、とはまた、夫に対してひどい言い草ではないか」
 鴎外は悲しそうな顔をしながらも、芽衣の体の両脇に手をついて、体を伸ばしてくる。
「んっ……」
 唇が軽く触れる。
 芽衣は思わず目を閉じて、それを受け入れた。
 やわらかな唇が押しつけられて、離れた。
 そっと目を開けると、鴎外はまだ息がかかるほどの距離にいる。
「おはようのキスをしなければいけないだろう? 今度は、お前からだ」
 鴎外はその距離で、キスを要求した。
 見慣れているはずなのに、鴎外の端正な顔に見惚れてしまう。どきどきと胸が高鳴った。
 しかし、ほんのわずか残った冷静な部分が、こんなことをしている場合ではないと、芽衣に訴えてくる。
 芽衣は、一度、無理矢理、鴎外から目を逸らした。鴎外を見ていたら、どきどきが収まらない。ときめいていては、きちんと質すこともできない。
 芽衣は、がんばって顎を引いて、鴎外から距離を取った。
「お、鴎外さんっ、早くしないと、フミさんが呼びに来てしまいます」
 ただでさえ寝坊して、フミを手伝えていなくて申し訳ないのに、呼びに来てくれたときに、たとえフミにはわからないとしても、服を着ていない状態でベッドの中にいるのは居たたまれない。それに、もし、何かの弾みで、フミにばれてしまったら、恥ずかしくて、一週間は顔を合わせられない。
「服はどこですか」
 芽衣は、もう一度尋ねた。まっすぐ鴎外を見据える。
 鴎外はおもむろに体を起こして、腕を組んだ。
「そんなに服を着たいかい?」
 大真面目な顔で、鴎外は聞いてくる。
 どうして服を着たくないという発想があるのか、そちらの方が不思議だ。そう思ってから、行水を日課とするうちに、鴎外は、人より服への執着が薄くなってしまったのかもしれないと思い直した。
 ならば、しっかりと主張しないと伝わらないだろう。
「着たいです、もちろん」
 芽衣は、力強く頷いた。
「ふむ…………」
 すると、鴎外は息をついて、押し黙ってしまった。
 何をそれほど、考え込むことがあるのだろう。
 鴎外は、芽衣の服を隠したことを肯定していないが、否定もしていない。意図は分からないが、鴎外の仕業とみて間違いないだろう。
 芽衣はあらためて部屋の中を見回した。芽衣の服は見当たらない。どこかに隠したのか、芽衣の部屋に置いてきたのかもしれない。
 芽衣のタンスがある部屋は、隣の隣だ。そこに行けば、着ていた浴衣が見つからなくても、服はある。だが、その途中、フミに遭遇してしまったら、恥ずかしすぎる。ただ、部屋までは、ほんのわずかな距離だ。フミに出会わないことに賭けるか――。
 芽衣は考えながら、部屋の中を見回して、ふと、その目を鴎外のタンスに留めた。
(そうだ)
 それを見て、この状況を変えられることを思いつき、ベッドから飛び降りる。
「芽衣?」
 毛布をかぶったまま、突然俊敏に動き出した芽衣に、鴎外は不審そうに問いかけてきた。しかし、何をしようとしているのか見定めたいのか、止めることはしない。
 それをいいことに、芽衣は、勝手に鴎外のタンスを漁り、浴衣を引っ張り出した。
 鴎外は大きいので、浴衣ももちろん、芽衣の体には合わないが、浴衣ならば端折れば、それなりに着られる。洋服を借りるよりはましだろう。そして、毛布をかぶって動き回るのとは、天地の差だ。
 芽衣は、そう考えて、鴎外の浴衣を借りることにした。
「これでよし、と」
 毛布の中で、どうにか身につけて、最後に帯を軽くしめる。そうして、芽衣は一息ついた。鴎外から隠れるために、毛布の中で着るのは大変だったが、とにかく服を着られた安堵感は大きかった。
 芽衣は、堂々と毛布の中から立ち上がる。
 鴎外の着物はたっぷりと布が余ってしまっていて、ぶかぶかなのは否めない。しかし、自分の部屋に服を取りに行くのには十分だ。
「芽衣……」
 鴎外が、芽衣を凝視して固まっている。
「ちょ、ちょっと借りますね」
 鴎外の様子に、この格好は、みっともなさすぎたのかもしれないと、芽衣は焦った。とにかく早く部屋を出ようと思って、毛布をベッドに片づけに行く。
「きゃっ」
 そのとき、突然、後ろから抱きしめられた。
「お、おおおお鴎外さん?」
 唐突な抱擁にびっくりして、芽衣が振り返ろうとすると、くるりと体を反転させられる。そして、正面から抱きしめられた。
 見上げた鴎外の瞳は、熱を帯びている。いつも涼やかなのに、息が止まるほど熱っぽくて、芽衣の熱も上がるようだ。
「鴎外さん、あの……」
 芽衣は、見ていられなくて目を伏せる。
 再び、どきどきと心臓が早く鼓動を打ち始めた。
「本当にお前は、僕の想像を超えることをする」
 鴎外は、手の甲で、芽衣の頬をそっと撫でていく。
 それは、芽衣の台詞だ。さきほど、芽衣も、鴎外に対して同じことを思った。
「鴎外さんに言われたくありません」
「僕はいたって常識的な人間ではないか」
「そ、それこそ、私の台詞です。っ!」
 芽衣が唇を尖らせると、その唇に、鴎外は軽くキスをした。
 不意をつかれて、芽衣は顔が真っ赤になってしまう。
「そうだろうか」
 しかし、鴎外は、ひどく真面目な顔で、芽衣を見つめていた。
 思わず反論の言葉を失うほど真剣な瞳に、芽衣も鴎外を見つめ返す。
(……鴎外さん?)
 軽口の応酬のつもりでいた芽衣は、戸惑った。
 鴎外は、いったい、何を思っているのだろう。
「お――」
「こんなに可愛いのは、常識を外れている」
「なっ……」
 しかし、どうしたのかと問おうとしたとき、鴎外はそう言って笑った。真面目なことを言われると思って構えていた芽衣は、さらに顔が熱くなってしまう。
「本当のことなのに、恥ずかしいのかい」
 赤くなる芽衣に、鴎外はおかしそうに笑った。どうやらからかわれただけらしい。
「僕の服を着た子リスちゃんは、可愛さが百倍増しだ」
 鴎外はご満悦そうに芽衣を見つめ、こめかみにキスをした。
 自分の服を手に入れるための苦肉の策だったのに、鴎外を喜ばせることになるとは、思いもしなかった。
「今度から、お前は僕の服を着るといい。ああ、でも、僕の前でだけだ」
「は、はい」
 あまり可愛いと言われると、この格好は相当恥ずかしいものなのだと思えて、芽衣は頷きながらも目を伏せる。
 すると、鴎外は顎をそっと掴んで、目を覗き込んできた。
「お前は、僕のことだけを見て、僕のことだけを考えていればいいのだよ」
 鴎外の声が耳を震わせる。深い色の瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。
「わかったかい」
 返事は、ひとつしかない。
「はい」
 芽衣はしっかりと頷いた。


 その後、実は、フミは屋敷にいないと知らされた。体調を崩してしまい、今日は休ませてほしいと、今朝、彼女の夫が伝えにきていたそうだ。
 芽衣は、その呼び鈴にも気づかず、のんきに寝ていたらしい。鴎外が気づいて、対応してくれたというのが、何とも申し訳なかった。
 フミのことは心配だったが、屋敷にいなかったというのは、ほっとした。だからこそ、鴎外もあんな悪戯をしたのかもしれない。
 窓を叩く雨の音に、鴎外に寄りかかって微睡んでいた芽衣は、少し顔を上げた。鴎外は、昼には止むと言っていたが、その予報は外れたようだ。
「ああ、晴れなかったね」
 肩越しに外を見る芽衣の視線に気づいて、鴎外も読んでいた本から顔を上げ、窓の方へと視線を流した。
「よかった」
 降り続けている雨を見て、鴎外はそう漏らす。
「雨が好きなんですか?」
 芽衣は意外に思って聞いた。
 鴎外には、どちらかというと、晴れが似合うように思う。
(ああ、でも、鴎外さんは雨も似合うかも)
 しかし、そう思ったそばから、芽衣は自分の考えを翻した。
 華やかな雰囲気と、まっすぐな気性には、突き抜けるような青空が似合うと思ったが、執筆をしているときや、読書をして思索に耽っているときなどは、雨がよく似合う、哲学者のような雰囲気をまとっている。
 どちらの鴎外も素敵なことには変わりない、と芽衣は、誰かが聞いたら、ひどいのろけだと顔を顰めるようなことを思った。
「そうだなあ。雨は嫌いではないが……やはり、晴れの方が好ましい。清々しいではないか」
 鴎外は、いったん頷きながらも、最終的には、晴れに軍配を上げた。
 鴎外らしい理由に、芽衣は笑って頷く。
「ただ、今夜は満月だ。雨が降れば、月を隠してくれるだろう? お前を奪われる心配をしなくていいから、満月の日の雨は実にいい」
 しかし、続けて、今日の雨を賞賛した。
「え……」
 思いがけない言葉に、芽衣は目を瞬いた。
 ここに来て、もう何度、満月の夜を過ぎたことだろう。
 それでもまだ、鴎外はそんな心配を抱えているなんて、知らなかった。
「僕は、いつになったら、お前を手に入れることができるのだろうね」
 鴎外は、芽衣の髪を指に絡ませながら呟く。
 芽衣はさらに驚いた。
 折に触れ、鴎外は、芽衣は自分のものだと言っているのに、どういうことだろう。それに、これまでも、これからも、芽衣は、ずっと、鴎外のものだ。想いを交わしあったときから、ずっと。
 そんな寂しそうな顔で、そんなことを言わないでほしい。
 胸が痛い。
「私は、鴎外さんのものですよ」
「突然、僕の前に現れて、目を離したら、同じように突然、消えてしまいそうだというのに。お前は、この世の理の中にいるかい?」
 鴎外が芽衣を見た。
 その瞳は、少しだけ不安そうだ。いつも自信に満ちているだけに、揺れる眼差しは、胸を衝いた。
 さきほど常識云々の話をしたとき、可愛いなどと軽口にしていたが、本当は、これを言いたかったのではないだろうか。
「私は、ここにいます」
 芽衣は、しっかりと肯定してから、鴎外の胸に頬を寄せる。体温を伝えれば、鴎外も実感できるのではないかと思った。
「うん、もちろんだ。それに、僕がどこにも行かせない」
 すると、鴎外は笑って頷き、それ以上に力強い言葉を告げて、芽衣を抱き寄せた。
 今まで、この笑顔に、堂々とした言葉に、強い抱擁に、いつも安心させてもらっていた。
 しかし、この笑顔の下で、まだ拭えない不安を抱いているのだ。
 あの赤い月が遠くなってもまだ。
「毎日雨なら、ずっとこうしていられるのだがね。結局、いずれ晴れてしまう」
 鴎外は、また窓の外を見て、呟いた。
 今日の雨が、鴎外の心も湿らせ、弱らせているのかもしれない。
(……もしかして……)
 芽衣は、ひとつ思いついた。
 服を隠したのも、芽衣がどこにも行けないようにだろうか。服を着ないで、どこかに行くことはない。どこにも行けない。
 奇抜だが、理にかなっている。鴎外らしい考えのように思った。
(何度も、僕のものだと言うのも、不安があるから――)
 芽衣は体を起こす。
 鴎外に守られて、たくさん安心させてもらっているのに、鴎外を不安にさせているばかりで、それに気づかないなんて、なんてひどいのだろう。
 自分が情けなくて、腹立たしくて、鴎外に申し訳なくて、泣いてしまいそうだ。だが、今は泣けない。
 芽衣は、その頬に手を添えて、鴎外の顔を覗き込む。
「芽衣?」
 突然の行為に、鴎外は首を傾げた。
「鴎外さん。好きです」
 芽衣は前置きもなく告げる。
 謝罪や感謝や色んな言葉が脳裏をよぎったが、どれよりもふさわしいのは、それだと思った。
 芽衣は鴎外が好きだ。だから、不安にならないでほしい。
 鴎外は虚を衝かれたように、小さく目を見開いた。
「どうしたんだい、突然」
「今、伝えたくなりました」
 芽衣は、泣きたい気持ちを堪えて微笑む。
 他に、どうしたらいいのかわからない。どの言葉も適当でないと思う。しかし、それでも足りない。鴎外の不安を、きれいに取り除きたい。
 不安になんて思わなくていい。
 鴎外のことを想っている。
 この心から体まで、すべて、鴎外のものだ。
「鴎外さんのこと、好きなんです」
 芽衣はもう一度告げた。
「僕も愛しているよ」
 鴎外は優しく笑って、頬にある芽衣の手を握った。それから、体を起こして、芽衣に口づける。
 鴎外には、芽衣のもどかしい気持ちまで、伝わってしまったのかもしれない。
 いたわるような口づけだった。
 また、鴎外にもらってしまった。
 雨が止まなければいいと思う。
 それで、鴎外の不安がなくなるのなら、晴れの日などいらない。雨が降り続けて、月を隠していればいい。
 ずっと、ここにいられるように――。
 芽衣は、祈るように思って、目を閉じた。

 

 

おわり

パジャマパーティーは朝まで


※めいこいFCの小咄動画「パジャマパーティー編」ネタです。未視聴の方はお気をつけください

 

 


「だーかーらー! 菱田から言えって!」
「泉が言いなよ」
「すーすー」
 不毛な言い争いと寝息が響いている春草の部屋に向かって、芽衣は階段を上がっていた。その手には、フミが用意していった夜食がある。
 鴎外との話が弾んで夜遅くなったため、鏡花が屋敷に泊まることになったのだが、客間を使ってもらうのではなく、春草の部屋に集まって寝るのだという。いわゆるお泊り会だ。
(お泊り会なんて楽しそうだな)
 恐らく鴎外が言い出したことで、部屋の主は嫌がっているのではないだろうかとは思われるが、それでも、いつもと違う夜は特別だ。壁一枚隔てた向こうは三人と思うと、同じ屋根の下で、芽衣だけひとりきりで寝るのが、少し寂しい気にもなってくる。
 しかし、男性三人のお泊り会に混ざるのは、芽衣も気が引けるし、きっと芽衣が想像する以上に問題があるだろう。鴎外は歓迎してくれそうだが、春草と鏡花は白い目で見てきそうだ。
(……たとえば……)
 芽衣の頭の中に、春草の面倒そうな、心の距離を大いに感じる顔が浮かぶ。
『君ってさ、本当に図々しいよね。夜食が食べたくてこんなところまで来るなんてさ』
 まるで芽衣の体の中の全てが胃袋であるかのような、異物を見る目だ。
(私の分はフミさんが別に用意してくれました!)
 芽衣は、自分の想像ということを忘れて、妄想の中の春草に反論した。
(それに……)
 今度は、鏡花の目を吊り上げて怒った顔が浮かんでくる。
『あんた、何考えてるのさ! み、未婚の男女が同じ部屋で寝泊まりするなんて、破廉恥極まりない!』
 そして弾丸のような非難が聞こえた。
(…………なしだ)
 想像上の二人の反応を受けて、芽衣はそう結論づけた。
 お泊り会なんて楽しそうだし、興味もあるが、参加してはいけないものだった。軽はずみな発言をする前に気づけて良かったと胸を撫で下ろしたとき、ちょうど春草の部屋の前に着いた。
 屋敷の作りはしっかりしているので、中の様子は窺えない。
 盛り上がっているかなと思いながら、芽衣はノックをした。
 その向こう側では、ノックによって、ぴたりと春草と鏡花の口論が止み、ぱちりと鴎外が目を開けていた。
 すでにフミは帰っているため、この屋敷の中にいるのは、ここにいる三人と、もうひとりの居候だけだと、三人の脳裏に、同時に芽衣の顔が浮かぶ。そして、三人はそれぞれをすばやく一瞥した。一瞬、三すくみのような、こう着感が部屋を支配する。
「すみません」
 だが、それを、ノックに続いた芽衣の緊張感のない声が破った。
「ひゃっ」
 その声に、鏡花は心臓を跳ね上がらせて息を飲む。密かに大いに気にしていた芽衣の突然の登場に、激しく動揺していた。
「ど――」
 部屋の主として、春草が応じようと戸に向かう。しかし、その行く手に、えんじ色の羽織が広がって、彼は目を瞠った。
「鴎外さん」
 寝ていたはずの鴎外が、春草に一歩先んじていた。
「子リスちゃん。どうしたんだい」
 鴎外は、そのまま戸を開け、芽衣を迎える。
「あ、鴎外さん」
 芽衣は、春草ではなく鴎外が出てきたことに少し驚いたが、すぐに盆を差し出してみせた。
「フミさんが、皆さんにって用意してくれた夜食を持ってきました」
「ありがとう。子リスちゃん」
「いえ」
 笑顔で礼を言ってくれる鴎外に、芽衣も微笑む。
「――?」
 しかし、鴎外がそれ以上微動だにしないので、芽衣の頭は、膨らむ疑問に次第に傾いていった。
 鴎外は完璧な笑顔だ。
(??)
 夜食を中に運び入れたいのだが、鴎外に動く気配は全くない。
「今まで忘れていたわけ?」
 成り行き上、鴎外と見つめ合っていると、鴎外の向こうから、冷めた春草の声が飛んできた。
 芽衣ははっとそちらを見やる。鴎外が戸口を塞ぐようにして立っているので、部屋の中の様子はよく見えないが、ちょうど春草の呆れ顔だけはしっかり見えた。
「ち、違います。夜食なので、少し時間を置いて持ってきたんです」
 鴎外の肩越しに、芽衣は春草に弁解する。
「鴎外さんはもう寝てたよ」
 だが、それは一瞬にして、打ち破られた。
「えっ、す、すみません!」
 芽衣は驚いて、目の前の鴎外を仰ぎ見る。それは確かに遅すぎると言われて当然だ。
「そんなことはない。子リスちゃんは、実にいい時に持ってきてくれた!」
 しかし、鴎外は軽く首を横に振ると、力強く芽衣を肯定してくれた。それから、自分の肩にかけていた羽織を脱ぎ、芽衣にかけてくる。ふんわりと煙草混じりの鴎外の匂いが広がった。
「? 鴎外さん?」
 こんなことは初めてで、芽衣は戸惑う。鴎外の温もりが残る羽織は、芽衣の心をどきどきさせるのに十分だった。
「さあ、子リスちゃん、入りたまえ。一緒にパジャマパーティーを楽しもうではないか!」
 しかし、鴎外は、そんな芽衣をよそに、満面の笑みで手を広げ、道を開けた。
「え……!」
 参加できなくて寂しいと思ってはいたが、諸々の理由から諦めるという結論に至っていた芽衣は戸惑って、春草と鏡花に視線を移す。二人の反応を確かめるためだ。予想通り鴎外は歓迎してくれたが、二人は違うだろう。
「わあああ、あ、あああんた、何て格好してるんだよ!」
 そうして、目が合った途端、鏡花が叫び声を上げて、ぱっと風を切る音が聞こえそうなほど勢いよく顔を背けた。その顔は首筋まで真っ赤だ。
「えっ、す、すみません」
 そんな反応をされると、芽衣も恥ずかしくなる。夜食を運んだらそのまま寝るつもりだったので寝間着のままで来たのだが、よくなかったらしい。鴎外が羽織をかけてくれた理由がわかった。
「本当に、君は軽率だよね」
 春草の声も目も、いつも以上に冷たい。
「う……」
 その通りだと思って、芽衣は言い返せずに縮こまった。
「こらこら春草、子リスちゃんを脅かすものではないよ。それに、泉くんもそんなに騒ぐものではない」
 すると、鴎外が華麗に割って入って、春草と鏡花を諌めた。
「ここは子リスちゃんの家で、こんな時間なのだ。寝間着でいるのは至極当然ではないか。我々だって、そうだろう?」
「ですが、泉がいます」
「ひ、ひひひひ菱田はいいのかよ!」
「俺は、同じ屋敷で暮らしているんだから、もう何度も遭遇済みに決まってるだろ」
「!!」
 春草が呆れをたっぷり詰めたため息を吐きながら言うと、鏡花は目を剥いて、息を飲んだ。
(遭遇って……。人を物の怪か何かみたいに……)
 春草の言い様に不満を覚え、芽衣はその気持ちを丸出しにした視線を送ってしまう。
「なに、その顔」
 それに気づいて、春草が顔を顰める。
「もしかして不満でも――」
「あ、ああああんたさ!」
 いつもの春草の辛口な言葉が続きそうだったが、鏡花が突然声を裏返しながら割って入ってきたので、それは免れた。
「いくら一緒に暮らしてるからって、ひ、菱田や森さんの前でそんな格好でうろうろするなんて、何考えてるのさ!」
 代わりに、鏡花に激しく非難される。
 お泊り会に参加したら怒られるだろうと予想していたが、参加しなくても怒られてしまった。結局、どうあっても鏡花には怒られるのだろう。
「す、すみませんでした、軽率で」
 芽衣はすぐに謝った。
 二人の気分を害してしまったのならば申し訳ないし、迷惑そうな春草と、非常識だと非難するような鏡花と、満面の笑みをうかべている鴎外に、嵐の予感しかしなくて、夜食を置いてさっさと逃げ出したいというのもあった。
 その盆を、さっと鴎外に取られる。
「いいのだよ。これで、子リスちゃんも、パジャマパーティーに参加できるのだから。――春草」
 そして、鴎外は、盆を春草に渡しながら、もう一方の手で芽衣の手を取った。
「で、でも……」
 ぎゅっと手を握られて、どうにも逃げられなくなり、芽衣は弱る。
 鴎外はそう言うが、参加は全く許されていない雰囲気だ。
「今、とても楽しい話をしていたのだよ」
 それをただ一人感じ取っていない鴎外は、言葉通り実に楽しそうに話し始めた。
「お、鴎外さん!」
 春草はぎょっとして声を張り上げた。鴎外の言う楽しい話が、「コイバナ」であることは明らかで、それを芽衣を交えてするなんてことは、春草はごめんだった。
「本気で、彼女もここで寝かせるつもりですか?」
「ああ。もちろん。春草は、子リスちゃんを仲間外れにするのかい?」
「仲間外れとかそういう話ではありません」
 まるで春草が人非人であるかのような言い方に、春草はむっとした様子で正した。
「一つ屋根の下にいるというのに、子リスちゃんだけ一人きりというのはかわいそうだろう? みんなでいた方が楽しいに決まっている。泉くんもそうは思わないかい?」
「あ、えっ、ぼ、僕っ、ですか!?」
 出し抜けに、鴎外に水を向けられて、鏡花はびくりと肩を震わせた。
「ああ、泉くんだ」
 鴎外は笑っているが、圧倒的なプレッシャーを感じさせる。
「は、はいっ、そのー……それは……」
 芽衣ですら感じるのだから、当の鏡花はもっとだろう。いつも舌鋒鋭い鏡花がたじたじとしていた。
「その、確かに、ひとりは寂しい……ああいや、けど、でも、未婚の男女が同じ部屋で寝起きするのは、その……あんまりよくないんじゃないかなーというか……」
 鴎外と芽衣の間で視線をさまよわせて、もごもごと口の中で意見を述べた。
 鏡花にいつものキレがない。憧れの人に正面切って盾突くような真似は、いくら鏡花でもできないようだ。
 今日の日中、鴎外と話しているときにも見た、借りてきた猫のような鏡花が珍しくて、芽衣は思わず見つめてしまう。
(あ、鏡花さんだから、借りてきたウサギかな……)
 芽衣は、自分の思いつきがうまく思えて、ふふっと笑った。
「君さ」
 そのとき、春草に声をかけられて、芽衣はぎくりと体を強張らせた。
(い、今の、見られた!? 緊張感がないって怒られそうだ)
 芽衣のことで紛糾しているのに、その傍らで、まるで他人事のように笑っているのだから、春草に呆れられてもおかしくはない。
 芽衣は、遅ればせながら緊張して、春草を振り返った。
「は、はい」
「夜食置いたんだから、さっさと行きなよ」
 春草は、芽衣がのんきに笑っていたところは見ていなかったのか触れず、そう言ってきた。
 どうしてまだここに留まっているのか、疑問でしかないといった様子だ。
 注意されなかったことにほっとしながらも、芽衣は困ってしまった。ここにいるのは、芽衣の自由意思ではない。芽衣の手は鴎外に握られたままなのだ。だから、春草に迷惑を全面に押し出されても、どうしようもなかった。
「その……」
 芽衣はちらりと繋がれた手に視線をやって、残りたくて残っているわけではないと、春草に訴えた。
 それに対し、春草は、そんなものは問題ではないと言わんばかりに、眉間に皺を寄せる。
 振り払えるだろうということだろうか。
 確かに思いきり手を振ったら離れるかもしれないが、それは過剰すぎるように思えて、躊躇ってしまう。
 すると、二人の動きに気づいた鴎外が、繋いだ手を持ち上げて、軽く接吻した。
「いいのだよ、子リスちゃんはここにいなさい。春草は照れているだけなのだから」
「っ」
「ひっ」
「違います」
 その西洋風の振る舞いに、芽衣は固まり、鏡花は息を飲んで、春草は素早く否定した。
「だいたい、布団はどうするんです? もう敷けませんよ」
 春草は再びため息をつくと、部屋の中を示してみせた。春草の部屋は狭くはないが、布団を三組横に並べて敷いていっぱいだった。これ以上、布団を敷く余地はない。物理的に無理だと、春草は冷静に指摘した。
「僕の布団を使えばいい」
 鴎外の返答は淀みない。
 春草は念のために聞いてみた。
「……鴎外さんはどうするんです?」
「無論、僕の布団を使うよ」
 鴎外は今度も滑らかに答えた。全く曇りのない笑顔だ。
「ん?」
 しかし、どこか違和感を覚え、芽衣は首を傾げる。
 それを解消してくれたのは、やはり春草だった。
「それは、ふたりで同じ布団を使うということでしょうか」
 春草が低い声で、鴎外に問う。
「えええっ!!」
 鏡花がとうとう鴎外を非難するような悲鳴を上げた。
 芽衣も驚きに目を見開いて、鴎外を凝視する。それは、いくらこの時代の常識がない芽衣でも固辞したい。
「やれやれ。それでは、もう一組、布団を持ってくることにしようか。少しずつ重ねれば四つ敷けるだろう」
 全員から否定的な反応を受けて、鴎外は肩を竦めた。まるで譲歩しているような素振りだが、それは鴎外以外の誰の望みでもない。
「い、いえ、鴎外さん。私、自分の部屋に戻ります」
 このままでは、ここに泊まることになってしまいそうだと、芽衣は急いで首を横に振った。
「子リスちゃん。遠慮しなくていいのだよ」
 だが、芽衣の主張は軽くいなされ、鴎外に紳士的に微笑まれてしまう。
「いえ、遠慮ではなく――わっ」
 芽衣が重ねて首を横に振ろうとしたとき、鴎外が突然ぐいと繋いでいた芽衣の手を引いた。
「ひとりは寂しいだろう?」
 傾く芽衣の体をそっと支え、ひどく優しく目を覗き込んでくる。
 繕ったり、誤魔化したりすることができなくなるような視線だ。どきどきと芽衣の心拍数が上がっていく。
「鴎外さん!」
「も、森さんっ!?」
 春草と鏡花が、焦ったように声を上擦らせて、鴎外を呼んだ。
 その声に、芽衣がそちらを見ようとしたら、鴎外は、芽衣の頬に手をやって、視線を外すことを許さなかった。
「お、鴎外さん……」
「ん?」
 じっと見つめられて、頬が紅潮していく。
「そ、それは……寂しい……です、けど……」
 否定しなくてはいけないところなのに、芽衣はつい本音を漏らしてしまった。
 壁一枚隔てた向こうで、みんなが仲良くお泊り会をしているのに参加できないのは、なんだか寂しい。そう思ったのは事実だ。
 寂しいと言ってしまったことが恥ずかしくて、頬がさらに赤らむ。間近にある鴎外の瞳を見ていられず、芽衣はそっと目を伏せた。
「子リスちゃん……」
 手を掴んでいた鴎外の手に力がこもり、小さく震える。それから、ぱっと手が放された。
「わかった。なら、僕が子リスちゃんの部屋に泊まろう!」
 そして、鴎外はその手を振り上げて、高らかに宣言した。
「鴎外さん。なぜそうなるんですか」
「えっ!」
 鴎外の自由な発言には慣れている春草はすかさず突っ込むが、その隣で、慣れていない鏡花は驚いて飛び上がっている。
 芽衣もびっくりした。全く思いも寄らない提案だ。
「春草は、子リスちゃんが、ここに泊まるのは反対なのだろう? だが、子リスちゃんは寂しいと言っている。ならば、僕が子リスちゃんの部屋に泊まりに行かねばなるまい!」
 芽衣がぱちぱちと目を瞬いていると、春草の問いかけに、鴎外はまるで騎士然とした態度で答えた。
「なるまいって……」
 とうとう春草も額を押さえてしまう。三人の中では最も鴎外のことを知っている春草は、ここで四人で寝るか、隣の芽衣の部屋で、鴎外と芽衣が一緒に寝るかしか道がないと悟ったのだ。そのどちらも、春草は歓迎できるものではなくて、頭が痛かった。
「お、鴎外さん! やっぱり私、ここでみんなと一緒にお泊りさせてもらいます! 鴎外さんの言う通り、せっかく一つ屋根の下にいるんですから、みんなでいた方が楽しいですよね! ね!」
 遅れて芽衣も察して、慌てて鴎外に訴えた。ここで四人かあちらで二人か。どちらも常識から外れているのであれば、より外れていない方を選択したい。
「お、お布団持ってきますね!」
 鴎外の昂揚した様子から、もたもたしていたら、ここで四人もなしになってしまいそうに思えて、それ以上何かを言われないうちにと、芽衣は春草の部屋を飛び出した。
 廊下を走りながら、このまま戻らなくてもいいのではないかという考えが頭を掠める。しかし、それは鴎外を自室に招くこととイコールだ。
(まあ……鴎外さんの言う通り、ひとりは寂しいなってちょっと思ったから……いいって思おう……)
 春草と鏡花も成り行きを全て見ていたのだ。芽衣の失言があったにせよ、仕方がなかったと思ってくれるだろう。
 芽衣はため息をついて、自分をそう納得させた。

 この後、芽衣の布団をどこに敷くかでまたひと騒ぎ、鴎外がコイバナを始めようとしてもうひと騒ぎと、屋敷は明け方まで静かになることはなく、フミの夜食は大いに感謝されたのだった。


おわり

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