ハッピースイートバースデー(八芽)
6月27日金曜日の午後、芽衣は、帝國ホテルの八雲の部屋のリビングルームで、ソファに座って英字新聞を読んでいた。
最近は、八雲が取っている新聞を読ませてもらって、英語の勉強をしている。辞書は手放せないが、わからなかったら、すぐに教えてもらえる相手がいるので、なかなか捗った。我ながら、以前よりは、すらすらと読めるようになっていると思っている。
八雲は隣に座って、本を読んでいた。金曜日の午後は講義がないため、こうして一緒に過ごすのが習わしのようになっていた。
そんないつも通りの静かな午後、部屋の呼び鈴が鳴らされた。
「芽衣サンは座っていてください。私が頼んだのですよ」
芽衣が顔を上げると、八雲がそう言って芽衣を制し、入り口の方へと歩いていく。ルームサービスにコーヒーでも頼んだのかもしれないと思い、芽衣は再び新聞に目を落とした。
しかし、そこに、八雲が軽やかに戻ってきたので、芽衣の目はそちらに釘づけになる。その手に、予想外のものを持っていたからだ。
「芽衣サン! 見てくださーい! こちらのケーキ! クリームがたっぷりで、とてもおいしそうですよ。いかがです?」
スキップで戻ってきた八雲は、そう言って、たくさんの大きなイチゴがきれいに並んだショートケーキを差し出した。八雲の言うとおり、生クリームがたっぷりかかっていて、とてもおいしそうだ。
「わあ」
芽衣は、目を輝かせた。丸い大きなケーキは、わくわくする。食べたときのことを考えれば涎が出てしまう。
「それとも、チョコレートケーキの方がお好みですか?」
八雲は、ショートケーキを脇に置くと、後から続いて現われた給仕が押すワゴンから、今度は、まるでエナメルのように光り輝くチョコレートケーキをとって、差し出してきた。こちらもチョコレートクリームがたっぷりと使われていて、とてもおいしそうだ。
「ああ、ですが、タルトも捨てがたいですね」
八雲は、芽衣の返事を待たずに、それも置くと、今度はフルーツたっぷりのタルトを持ち上げた。初夏の瑞々しい果物がふんだんに使われた、目にも楽しい、おいしそうなタルトだ。
さすがは帝國ホテル。どのケーキも申し分なくおいしそうだ。
だが、しかし、である。
ケーキはそれだけではおさまらず、また、マカロンやビスケットなどの焼き菓子もたくさん運ばれてきて、最初はときめいた芽衣も、戸惑いを覚えた。
「芽衣サンは、どのケーキがお好きですか?」
八雲はにこにこと聞いてくる。
「ええっと……」
芽衣は返事に困った。
部屋には、最後に運ばれてきた紅茶の良い香りが漂う。テーブルの上には、誰しも一度は夢見る「お菓子の山」さながらの、たくさんのお菓子が置かれている。これは現実だろうか。いったいどうしたのだろう。
「たくさん召し上がってくださいね」
返事に窮する芽衣に構わず、八雲は、いつものように優しく笑いかけてきた。
「あ、ありがとうございます……」
芽衣は御礼を言ってから、楽しそうな八雲を窺う。そして、聞いてみた。
「あ、あの……八雲さん。どうして、こんなにケーキやお菓子を頼んだんですか?」
ケーキも洋菓子も、通常のルームサービスにはないものばかりだ。八雲が特別に頼んだのだろう。どうして、今日、突然、こんなことを思い立ったのか不思議だった。八雲は甘いものが好きな方だが、それにしてもいちどに食べられる量ではない。食べきれなかったら捨ててしまうことになるのだろうか。誰かにお裾分けできればいいが、八雲が、意味もなく、そんなもったいないことをするとは思えなかった。
その理由が知りたくて、芽衣が尋ねると、八雲はいつも以上に優しく微笑んだ。八雲の笑顔は見慣れているはずなのに、芽衣は思わず頬を赤く染めてしまう。
(や、やっぱり、すてきだよね、八雲さん)
芽衣は、八雲に悟られないように、どきどきと脈打つ胸をおさえた。
「今日は、どうしても、貴女とケーキパーティーをしたかったのですよ」
さきほどの質問に、八雲はそう答えた。
(ケーキパーティー……?)
芽衣は、テーブルの上を見渡す。確かに、これはパーティーにふさわしい。しかし、どうして、突然ケーキパーティーなのかがわからない。それとも、芽衣が考えるような深い理由はなくて、本当に単にケーキパーティーがしたかったのだろうか。
なんとなく、違和感を覚えた。もっと別の理由があるのではないかと思う。
「ああ、芽衣サン。どうせならビーフパーティーだったらもっと良かった、という顔をなさってますね。申し訳ありません」
芽衣が考え込むと、八雲が顔を覗き込んできた。
「そ、そんなこと思ってません!」
芽衣は慌てて否定する。誤解はもちろん、突然近くに八雲の顔が現れたことにも慌てた。八雲はくすりと笑って、離れていく。
「そうですか。芽衣サンは、甘いもの、お好きですよね?」
「はい。大好きです」
芽衣は、力強く頷いた。
それはもちろん好きだ。肉とは別腹なところもいい。
「それはよかった」
八雲は嬉しそうに頷いてから、少し顔を引き締めた。その顔は、なぜか気まずそうにも見える。芽衣がどうしてだろうと思っているうちに、八雲はまた口を開いた。
「……そうですねえ。実は、理由は、もうひとつあります」
「もうひとつ?」
それこそが、このケーキパーティーの理由だろう。このユニークな行為に、いったいどんな理由があるのかと、芽衣は八雲の言葉を待つ。
「はい。今日が私のバースデーだからです」
そして、八雲は、さらりと言った。
バースデー。
英語から日本語に翻訳するまでもない。頭にすっと入ってきた。
「や、八雲さん、今日、お誕生日なんですか!」
芽衣は目を剥いて、声を上げた。思わず、立ち上がってしまう。
今日が、八雲の誕生日だと知らなかった。
(今日って、なん日……6月27日……)
芽衣は、さっとカレンダーに目を走らせ、日にちを確認する。
6月27日。八雲が生まれた大切な日。
なぜそれを今まで知らずにいたのか、衝撃的だった。
「ど、どうして、もっと早く言ってくれないんですか!」
このパーティーがバースデーパーティーならば、最初からそうすると言ってくれればいい。そう思って言ってしまってから、芽衣は間違いに気づいた。
「じゃない。……ごめんなさい、私、知らなくて」
責められるべきは、大切な人の誕生日を知らずにいた芽衣の方だ。それなのに、八雲を非難してしまって、消え入りたいほど、申し訳なく恥ずかしかった。
「謝ることなんてありません。私が言わなかったのですから」
それなのに、八雲はやっぱり優しい。
そっと取られた手に引き寄せられて、芽衣は八雲の胸におさまる。
「でも、私、聞きもしないで……」
本当にそれが、申し訳なくてたまらなかった。どうして今まで聞かなかったのか、不思議で仕方ない。
(星占いとかないからかな……)
そんなことに原因を求めてしまう。あとは、この時代の人々が誕生日を重視していないという外部環境のせいにもしたくなる。しかし、西洋人の八雲と現代人の芽衣には、あまりあてはまらない話だ。
「いえ、私が聞かせなかったのですよ。ですから、貴女が謝ることはないのです」
「え?」
あれこれと原因を考える芽衣に、八雲が言った。すぐには理解できず、芽衣は聞き返す。
「貴女は、ご自分の誕生日を忘れていて、大切な日を祝うこともできません。それに、誕生日を思い出したら、他のことも思い出してしまうかもしれません。そうしたら、貴女はどこかに行ってしまうのではないかと思って……だから、誕生日の話は避けていました。本当は、私の誕生日をアピールして、貴女に祝っていただきたかったのですが……。我慢していました」
八雲は申し訳なそうに微笑んだ。
「私はずるいのです。そんなことを考えながら、結局、我慢し切れず、無理矢理祝っていただこうとしました。ですから、貴女が謝ることも、申し訳なく思うこともないのです。私が悪いのですから」
さきほど少し気まずそうな顔をしたように見えたのは、目の錯覚ではなかったようだ。八雲は、自分のずるさに、後ろめたいものを抱えていたのだろう。
芽衣は大きく首を横に振った。全く八雲は悪くない。ずるくもない。とても優しいと思った。
「八雲さんは、ずるくありません! それに、無理矢理なんて言わないでください。私も八雲さんのお誕生日、お祝いしたいですから! 本当に、ちゃんとお祝いしたかったです……」
芽衣は、心から残念で、目を伏せる。こうした形ではなく、きちんと八雲の誕生日を祝いたかった。
「今、こうして祝っていただいているではありませんか」
「そうじゃなくて、ちゃんと、私がお祝いしたかったんです! 八雲さんが準備するんじゃなくて、私がケーキとかごちそうとか準備して、プレゼントも用意して……」
八雲の優しいフォローに、芽衣は顔を上げ、言い募る。
八雲自身にさせるのではなく、芽衣が準備したかったのだ。今日は、プレゼントも用意していない。お祝いの言葉すら、準備していないのだ。
「芽衣サンは優しい方ですね。そんなに優しいと、どこかの悪いおまわりさんにつけこまれてしまいますよ」
だが、優しい八雲にそんなことを言われてしまった。意図的に話をずらされて、芽衣は少し不満を覚える。冗談めかすことで、どちらが悪いという話を終わらせるつもりなのだろう。
「……大丈夫ですよ。そんなおまわりさんはいませんから」
「それはどうでしょうか」
八雲の大人な態度に、芽衣が少し拗ね気味に返事をすると、八雲は、ちゅっと芽衣の唇を掠めていった。
「!」
不意打ちのキスに、芽衣はびっくりする。そんな芽衣の鼻先で笑って、八雲は笑った。
「私は、大切なマイフェアリーを捕まえようと手ぐすね引いているおまわりさんを知っているような気もしますが――。あー、今のは、バースデープレゼントですよ。ありがとうございます、芽衣サン」
芽衣は胸をどきどきさせながら、その笑顔を見つめ、ひとつ、思いつく。
「八雲さん。私、誕生日を6月27日にします」
「え……?」
唐突すぎたのか、八雲はきょとんと首を傾げた。
今日を誕生日にする。それはとてもいい考えに思えた。
「どうせ忘れてしまっているんだから、自分で決めてもいいと思いませんか? 誕生日。ないのも不便ですし。だから、八雲さんと同じ今日を誕生日にしようと思います。……いいですか?」
いい考えだと思ったが、先人の許可は必要だと思って、芽衣は八雲を窺う。すると、話を理解した八雲は頬を上気させて頷いた。
「……も、もちろんです! 誕生日が貴女と同じだなんて、なんて素晴らしいのでしょう!」
八雲は、感極まったように言って、芽衣を抱きしめる。
「本当に貴女は素敵な方ですね」
「それなら、八雲さんが素敵だからです」
「えっ……」
「八雲さんが優しいから、私も優しくなれるし、八雲さんにしあわせにしてもらっているから、私も八雲さんをしあわせにしたいと思うんです」
目を瞬く八雲に、芽衣は笑った。どうしてこれほど与えてくれているのに無自覚なのだろう。
「本当に……神に感謝します」
八雲は一度天を仰ぎ、それから芽衣を大切に抱きしめた。
お互いに顔を見合って、口を開く。
「お誕生日おめでとうございます、八雲さん」
「ハッピーバースデー、芽衣サン」
声が重なる。二人は、顔を見合わせたまま笑い合った。
おわり