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どこかで避暑でも(神楽坂組)

 明るくなってから置屋に帰ってきた音二郎は、至極上機嫌だった。
「お帰りなさい」
「おう、帰ったぜ」
 朝というよりは午に近い時間だが、まだ酒が残っているかのように機嫌がいい。
 帰ってきた音二郎はスーツ姿だった。昨日のお座敷は一緒だったので、宴席の後、音奴として客と飲みに行ったことは芽衣も知っている。だが、今、スーツ姿ということは、そのうえ、また別のグループで――「川上音二郎」の知り合いたちと――飲んでいたらしい。よほど楽しい酒だったのだろう。音二郎はその余韻に浸るかのように鼻歌まじりだ。「にしても、今日はひときわ暑ぃな」
 上着を脱いだ音二郎は暑さにぼやきながら、シャツのボタンを、ひとつ、ふたつと外す。
 一番上ははじめから外れていたから、シャツはほとんどはだけた。そのうえ、風を送るために、その胸元をぱたぱたとはためかせるものだから、ちらちらと素肌が見える。
 いつもは着物に隠れて意識しなくて済む引き締まった胸元に、芽衣はどきりとして慌てて目を逸らした。
(い、意識しちゃだめ……)
 あそこにいるのは音奴、あそこにいるのは音奴、と念仏のように繰り返す。
 そして、心臓の落ち着きを確かめるために、もう一度音二郎に視線を戻して、また、どきりとしてしまった。
(…………っ)
 長い足を投げ出して座り、暑そうにしている様は、まるで映画のワンシーンのようだ。
 思わず見とれそうになった芽衣は、そのことに気づいて、また急いで目を逸らす。
(や、役者さんなんだから、当然だよね)
 格好良いのも、芽衣がどきどきしてしまうのも、現代で言えば、テレビに出ているような人なのだから、仕方のないことだ。
 願わくば、できるかぎり早く音奴の姿に戻ってほしい。
 そうしたら、この乱れた動悸も落ち着くことだろう。
「は、はい。今日はほんとうに暑いですね」
 芽衣は平静を装って音二郎に頷いた。そして、団扇をとって風を送る。
 暑さが落ち着けば、すぐに音奴の着物を着てくれるかもしれないと思っての振る舞いだ。
「お、ありがてえ」
 そんな芽衣の心中を知らず、音二郎は嬉しそうに身を乗り出してくる。
 芽衣は、思わず近づかれた分だけ退いた。
「ん?」
 その気まずい距離感に、音二郎の眉がぴくりと動く。機嫌よかった顔が一瞬にして曇る。
「どうした?」
「な、なにがでしょう」
 問いながら近づいてくる音二郎から、芽衣は尻をずって逃げる。男装であまり近づかないでほしかった。
「なにがって……おい、こっち見やがれ」
 音二郎に手首を取られて、芽衣の顔はかっと赤くなってしまう。
 それに気づくと、音二郎の雰囲気が和らいだ。
「ん? なんだ、お前、もしかして照れてるのか?」
 音二郎に図星をさされて、ますます顔が赤くなる。
「お前もようやく、この川上音二郎様の魅力に気づいたか?」
 音二郎は、わっはっはと豪快に笑った。
「お、男の人の格好は慣れてなくて……」
「は? 俺は男だっつーの。お前もそろそろちゃんとわかれ」
 芽衣が正直に言うと、上々に戻った機嫌を損ねてしまったらしく、音二郎は眉根を寄せた。
「そ、それはわかってます」
「わかってねえ。ほら、こっち見ろよ」
「み、見られません」
 ぐいと腕を引かれるが、意識してしまうと、どう見たらよいものかわからなくなった。今のままでは、音二郎を見た途端、顔がトマトのように真っ赤になってしまいそうだ。
「なんだ、そりゃ」
 頑なに顔を背ける芽衣に、 音二郎はおかしそうに笑う。
「お前はほんとにかわいいよな」
 ついには、音二郎の大きな手が、頬に触れた。「音奴」とは緊張しない距離、行為なのに、音二郎だと、そんな戯言にもどきどきして緊張してしまう。
「あ、あんまり近づかないでください。音二郎さん、暑いんですよね?」
「ああ、そうだ。暑いは暑いが――もっと近づいたら、お前がどうなるのか見てみてえな」
 頬に置いた手にわずかに力がこもる。
 音二郎の体がゆっくりと近づいてきた。
 芽衣の体などすっぽり収まってしまう大きな体。
 射止めるように強い眼差し。
 いやでも、音二郎が男の人なのだとわかってしまう。
「お、おおお音二郎さん!!」
 芽衣は目をぎゅっとつぶって、音二郎を思いきり押した。
「あっはっは」
 動揺あらわな芽衣に、音二郎は大笑いして、されるがまま離れてくれる。そして、芽衣が置いた団扇を取ると自分を扇いだ。
「それにしても、どうにもならねえ暑さだな」
 ひとしきりからかって満足したのか、音二郎は話を暑さに戻した。
「そうですね」
 芽衣はほっとしながら頷く。
 音二郎の言うとおり、今日はここ最近でいちばん暑い。じっとしていても空気が熱くて息苦しいほどだ。当然のことながら、この時代にはクーラーなんてものはないので、芽衣は少々こたえていた。
「あー暑いな。――そうだ! どっか涼しいとこにでも行くか」
 音二郎は名案を閃いたとばかりに、手を打つ。
「え?」
「海とかよ。たまにはいいだろ? 一泊くらい。うまいもんも食えるぞ」
 海と聞いて、あわびにさざえ、伊勢海老、新鮮な魚たち、魅力的な食材が、芽衣の脳裏に一瞬にして浮かんだ。
 もちろん、一番の好物は肉だが、芽衣は基本的に食べることが大好きだ。
「な、どうだ?」
 芽衣の返事を確信しているかのように自信たっぷりに見てくる音二郎の目。
 それにまた少しどきりとしながらも、芽衣は大きく頷こうとした。
 反対する理由はもちろんない。
「は、は――」
 と、そのとき、突然、すぱーんと襖が開かれて、
「駄目に決まってんだろっ!!」
と、一喝された。
 芽衣も音二郎も、ぽかんと突然現れた書生――鏡花を見つめた。
「未婚の男女がふたりっきりで旅行だなんて何考えてるんだよ!!」
 ふたりの驚きなど置いてきぼりに、鏡花は断固反対と言い募る。
「い、いや待てよ。なんでお前がここにいるんだ。ここは関係者以外立ち入り禁止だぜ、鏡花ちゃん。ばれたら座敷出入り禁止にされるぞ」
 その勢いに飲まれかけて、どうにか我に返った音二郎は、鏡花をたしなめた。旅行への口出しより何より、ここに堂々と入り込んでいることがまず問題だ。
「ふんっ。今はみんな部屋を出払っていることは確認済みだよ。だからあんたもそんな格好でも堂々と入れたんだろ!」
 鏡花はそうふんぞりかえって言いながらも、さすがに襖を開け放ったままはまずいと思ったのか、部屋の中に入ってきっちりと閉めた。
「ああ? 俺のことつけてたのか?」
 鏡花の言い様に、音二郎は眉根を寄せる。
 それに対し、鏡花は目を見開いて吠えた。
「ちーがーう! どうして僕が川上なんかをつけなきゃなんないのさ! 偶然ここの前を通りかかったら、あんたが置屋に入っていくのが見えたからね、文句を言うために寄ったんだよ!」
「文句だ?」
「あんた、この間も、ひとのいない間に勝手に部屋に入って原稿読んだだろ。まだ書きかけだから駄目だって言ってるのに!」
「勝手にじゃねえよ。ちゃんと家人に断ったぜ」
「僕に断れ!」
「断ったら見せてくれねえだろ」
「当然だろ!」
 どこまでも平行線の会話だ。
 鏡花の原稿を盗み見ない音二郎も、音二郎に協力的な鏡花も想像できないので、これは永遠に解消されないだろう。ここで幸いなことは、音二郎が不法侵入でなかったことだと、芽衣はこそりと思っていた。
「じゃあ、断りはいれられねえな。俺はホンの具合が気になるんだからよ」
「どこまで図々しいんだよ! 僕の仕事の進捗をあんたに気にされる筋合いはないね!」
 鏡花はものすごい形相で音二郎を睨みつけている。
 鏡花の主張はどれももっともだ。
(ごめんなさい、鏡花さん)
 お姐さんに代わって、芽衣は心の中で鏡花に謝る。これまでの経験上、口に出したらまた一揉めするので、謝罪は胸の内におさめておいた。
「あーそれより鏡花ちゃんよ、お前、最近詰まってんじゃねえのか?」
 と、突然、音二郎は心配そうに尋ねた。
「え?」
 鏡花はびっくりした顔で音二郎を見返す。
 どうやら図星だったようだ。
 さすがに神楽坂一の芸者だけてあって、人の好不調を見抜くことに長けている。
「原稿、先週からちっとも進んでねえじゃねえか」
 さすが音二郎さん、と芽衣が思うのと同時に、音二郎はそんなことを言った。
(ん……?)
 芽衣は首を傾げる。
「あ、あんた、そんなにちょくちょく覗きに来てるわけ!?」
 芽衣の疑問は、鏡花が言葉にしてくれた。
 音二郎は売れっ子芸者の洞察力を発揮したわけではなく、頻繁に勝手に覗きに行っているという話だ。
 鏡花はわなわなと拳を震わせている。
「ちゃんと先生には断り入れてるぜ? 鏡花ちゃんには友だちが少ないから、ちょくちょく遊びに来てやってくれって言われたくらいだ」
「先生に取り入るな! ああもういい! とにか、金輪際下宿に近づくなよ!」
 にやにやする音二郎に、鏡花は顔を真っ赤にして怒鳴った。
 そして、踵を返してかけてぴたりと止まる。
(あれ? どうしたのかな、鏡花さん)
 いつもなら、それを捨て台詞に、怒って出て行くようなタイミングだったのに、鏡花はそのまま動かなかった。 
 予想を裏切られて、芽衣は首を傾げる。
 音二郎も芽衣と同じように不思議そうだ。音二郎も、鏡花の癇癪のようにぴしゃりと閉まる襖を想像していたのだろう。
「わかってるよね、あんた」
 鏡花を見守っていると、不意にきつく睨まれた。
「え? 何のことですか?」
 何の心当たりもな聞き返すと、鏡花は焦れたように声を荒げた。
「だから! 未婚の男女がふたりっきりで旅行なんて、非常識だってわかってるよね! しかも、この川上とだなんて!」
 言われて、芽衣は気づく。
(あ、そっか……)
 ここは明治時代で、音二郎は男性だ。夫婦でも恋人でもない男女が二人きりで旅行するなんて、現代でも奇異なことと見られるのに、いわんや明治時代をやだ。音二郎とは共に暮らしているから、姉というか兄というか、家族のような存在に思ってしまっているが、もっと気をつけなければいけない関係なのだ。
「やだねえ。女同士水入らずの旅にけちつけなさんな」
 しかし、納得した芽衣に対して、音二郎は芽衣を抱き寄せ、音奴の口調で鏡花に反論する。
 さっきはどきどきした距離も、音奴だと思ったら、特に何とも思わないから不思議だ。
「あんたは男だろ! どさくさに紛れてこの子に触るなよ!」
 芽衣がのんきにそんなことを思っていると、鏡花は目をつりあげて、音二郎を怒った。
「別に俺がこいつに触ろうが、ふたりきりで旅行しようが、鏡花ちゃんには関係ねえだろ?」
 音二郎は、まるで鏡花に見せつけるように、芽衣をさらに抱き寄せる。
「なにか問題でもあるのか? なあ、鏡花ちゃんよ」
「ぐっ……」
 音二郎ににやにやと詰め寄られて、鏡花は言葉を詰まらせた。
 ふたりの会話が途切れたので、芽衣は口を開く。
 鏡花のおかげで、ひとつ、いい案を思いついたのだ。
「鏡花さん、ありがとうございます」
「え?」
 突然の感謝に、鏡花は戸惑ったように芽衣を見た。
「音二郎さんには、音奴姐さんの格好で行ってもらえば、周りに変に思われないですよね。気づかなかったので、言ってもらえてよかったです」
 音二郎の言うとおり、女子旅をすればいいのだ。この時代に、女性同士で旅をする風習があるかはわからないが、結婚前の男女が旅行するよりは奇異な目で見られないだろう。音二郎は出かけるとなると男装が多いので、言われなければ、そのまま行ってしまっていたはずだ。危ないところだった。
「おいこら、ちょっと待て。俺は女の格好でなんか行かねえぞ」
「えっ、それは困ります」
 きっぱりと音二郎に断られて、芽衣は慌てて音二郎を振り返った。
 音二郎は、苦虫を潰したような渋面をしている。
「ぶふっ」
 一方、背後で、鏡花が吹き出した。
 音二郎の形良い眉がぴくりと動く。
「俺は絶対に男の格好で行くからな! そうじゃなかったら、旅行はやめだ!」
 そして、まるで宣言のようにそう言った。
「ええ! そんな!」
 伊勢えびやあわびやさざえが、手を振って遠のいていく。
(だめ、待って!)
 もう口の中は、海の幸を食べる準備ができていた。
 芽衣は彼らを引き止めるため、急いで頭を振り絞る。
 どうしたらよいだろう。
 一番簡単なのは、男装の音二郎との旅行を承知することだ。芽衣としては全く問題はないのだが、明治という時代と鏡花が許してくれないだろう。
 まるで秩序の番人のように、鏡花は芽衣が頷かないように見張っている。
 ――――鏡花。
 鋭い眼差しを向ける鏡花にあらためて気づいて、芽衣ははっとした。
「じゃ、じゃあ、鏡花さんも一緒に行ってください!」
 芽衣は、思いついたことをそのまま口にする。
「はあ?」
 鏡花は思い切り眉根を寄せた。
「二人っきりが駄目なら、三人ならいいですよね? 鏡花さん、私のあわびのために協力してください!」
 芽衣は、ぱんと音が鳴るほど勢いよく手を合わせて鏡花にお願いした。
 これなら未婚の男女がふたりきりで旅行ということも、音二郎が男装で行くことも同時に解決する。
 海の幸に目が眩んでいる芽衣には、鏡花が行きたいかどうかは問題ではなかった。
「な、なに言い出すんだよ、あんた。そういう問題じゃないだろ! ぼ、僕が行ったところで、未婚の男女が連れ立って旅行するのは変わらないだろ!」
「それはほら、修学旅行とか部活の合宿だとか思えばいいじゃないですか!」
「は? なんだよ、それは?」
「ああ、えっと…………」
 鏡花に眉根を寄せられて、学校行事が通じない時代なのだと気づく。芽衣はすぐに
「じゃなかったら、きょうだいとか親戚というのはどうでしょう?」
「あんたはなんでそんなに積極的なんだよ! そうじゃなくて、あんたは、男と旅行するのをなんとも思わないわけ!?」
「鏡花さんこそ、どうしてそんなに消極的なんですか! あわびやさざえを食べたくないんですか!!」
 苛立ったようにきつく言う鏡花につられて、芽衣も声を荒げる。
「生かもしれないって心配なんですか? 大丈夫ですよ! 東京で食べるより絶対新鮮ですし、それでも心配なら鏡花さんの分は火を通してもらいましょう! ね?」
 芽衣は、これで安心だろうと鏡花に笑いかけた。
「ね、って……あんた……」
 鏡花は二の句がつげず口ごもる。
 芽衣は、鏡花ですら論点はそこではないと言い出せないほどのオーラを立ち上らせていた。
「鏡花ちゃん、観念しろ」
 音二郎が、そっと鏡花の肩に手を置いた。
「もうこうなったら止められねえよ。肉以外でも、こんだけ目の色変えるっつーのは予想外だったけどな」
「ああ……」
 こそこそと音二郎に言われて、鏡花も頷く。
「ま、こいつも暑さに参ってたからよ。ちょっと涼しいところに行ってうまいもんいっぱい食うのはいいだろうし。それによ、鏡花ちゃんもこいつと同じだろ?」
「え?」
「どうせ、この暑さにやられてばてて、あんまり食ってないだろ。涼しいところに行って、気分転換すりゃ筆も進むってもんだ」
「なっ、そ、それはあんたには関係ないだろ! 言っておくけど、あの作品の上演許可はまだ出してないんだからね!」
「よーし。そうと決まったら、善は急げだ」
 喚く鏡花から離れ、音二郎は上着を掴む。
 鏡花を説得してくれたのかと、芽衣は期待に胸を膨らませた。
「なにも決まってないだろ!」
 しかし、それを、鏡花がすぐに打ち砕く。
 どうやら音二郎も説得に失敗したらしいと芽衣はがっかりした。
 海の幸への道が閉ざされてしまった。
「鏡花ちゃんが行きたくねえって言うなら仕方ねえ。俺たちは夫婦だって言えば白い目で見られねえよ」
 肩を落とす芽衣に、音二郎が第三の解決案を出した。
「はあ?」
 脇で鏡花が素っ頓狂な声を上げるが、芽衣はその手があったかと膝を打つ。
「証明してみせなきゃなんねえことはねえし、適当に言っておけばいいだろ」
「それもそうですね」
 夫婦は気恥ずかしいから、やはり兄妹でと思いながら、芽衣が頷いていると、鏡花がものすごい剣幕で詰め寄ってきた。
「あんた、なに納得してるんだよ! 川上と夫婦だなんていいわけ!?」
「え、そ、それは――」
「あーあー、どこに行こうかなー。温泉も外せねーよなー」
 その後ろで、音二郎が鏡花を煽る。
「お、おおおお温泉!?」
 鏡花は見事に音二郎の狙い通りに激しく動揺した。
「な、お前も入りたいだろ、温泉」
「は、はあ……」
 音二郎が鏡花をからかっているのだろうから、芽衣の返事は曖昧なものになってしまった。
 温泉と聞いて胸は弾んだが、それをそのまま言って、火に油を注ぎたくなかったし、かといって入りたくないと嘘を言うことも違うように思えてできなかった。
「あ、あんた、温泉に入るつもり?」
 しかし、そんな中途半端な返事でも、鏡花は信じられないものを見るような目で、芽衣を振り返った。
「え、えっと……温泉に行くなら入りたいですけど……鏡花さんは、行っても入らないんですか?」
 温泉に行くのに、入らないという選択肢はない。その質問自体がナンセンスで不思議だった。だが、そこで、鏡花は潔癖症だから、温泉なんてもってのほかなのかもしれないと気づく。気持ち悪いというのなら無理強いはできないが、それは実にもったいなく思えた。
「気持ち悪いなら無理には言いませんけど、温泉、気持ちいいですよ。鏡花さんも入りましょう?」
 広い湯船で手足を伸ばして温泉につかったら、原稿漬けの鏡花の疲れもとれるだろう。もし食わず嫌いをしているのならもったいない。
 芽衣はそう思って、鏡花に言った。
「は、入りましょうって……あんた、な、なな何言ってるんだよ! ぼ、僕はそもそも旅行に行くなんて言ってないし……温泉に入るなんて……」
 すると、なぜか鏡花は、かあっと顔を赤くしてしまった。
「えっ、鏡花さん?」
 その鏡花の反応がわからなくて、芽衣は首を傾げかけ、はっと気づく。
「きょ、鏡花さん、もしかして、一緒にって思いました? ち、違いますよ! 一緒にじゃないですよ! 鏡花さん、なに想像してるんですか!」
 言いながら、少し想像してしまって、芽衣も顔が火照ってしまった。鏡花と一緒に温泉に入るなんて、できるわけがない。恥ずかしすぎる。
「ばっ、ぼ、僕はそんなこと……」
 芽衣の指摘に、鏡花は目を大きく見開き、否定しようとするが、大いに動揺している。芽衣の言う通りの勘違いをしたのは明らかだった。
「おいおい、鏡花ちゃん。なんつー想像してくれてんだ? ん? こいつと温泉入りたいって?」
 音二郎がにやにやと笑って鏡花の肩を抱く。
「う、うううるさい! あんたが温泉なんて言うのが悪いんだ!」
 鏡花は、八つ当たり気味に、その腕を払った。
「ま、二人きりは認められねえが、三人で入るってのはいいかもな」
 払われた腕を組み、音二郎は楽しそうに顎を撫でる。
「は? よ、よくないですよ!!」
 音二郎のとんでもない発言に、芽衣はぶんぶんと首を横に振って反対した。
「あっはっはっ。お前、ゆでタコみたいになってるぜ?」
 必死な芽衣を見て、音二郎はおかしそうに笑う。
 顔が赤いことを指摘するなら、もっとかわいい物にたとえてほしいとちらりと思ったが、今はタコでもいいから、駄目だということを伝えたい。
「よくないですからね!」
「ああ。まあ、それはひとまず置いておくか」
 芽衣が念押しすると、音二郎はうんうんと軽く頷いた。
(だ、大丈夫かな……)
 完全にはなくならなかったことに、一抹の不安を覚える。
 もしかしたら、音二郎はまだ酒が残っているのかもしれない。
 ここはもう一度くらい言っておこうと、芽衣は口を開くが、それより先に音二郎は次の行動に移ってしまった。
「よし、じゃあ行くぞ!」
 音二郎は、手にしていた上着を肩にかける。
 まるで近所の店に行くような気軽さだが、これは旅行に出発しようと言っているのだ。
「えっ、今からですか?」
 まさか今の今出発するとは思わなくて、芽衣は驚いた。
「こんな暑いところ、さっさと逃げ出すに限るだろ。今晩は座敷も入ってねえし、休みもらうなら今日がいちばんだ」
 音二郎らしい即断即決だ。
 それに、そう言われると、確かに今出発するのがいちばんだと、芽衣は納得した。
「鏡花ちゃん、今回は特別に、俺とこいつのふたり旅についてきてもいいんだぜ」
 音二郎はにやにやと笑って、鏡花に言う。
「ぐっ……うぅぅう」
 鏡花は言葉を詰まらせて歯ぎしりした。
「新婚だっつって楽しもうな、いろいろと」
 音二郎は、そんな鏡花にさらに見せつけるように芽衣を抱き寄せる。
「お、音二郎さん……」
 低い声で囁かれて、芽衣はどきどきした。たぶん音二郎の思う壺なのだろうが頬に熱が集まってしまう。
「あぁあああ!」
 突然、鏡花が奇声を上げた。
「僕も行く!」
 そして、音二郎と芽衣を睨みつけて言う。
 全く楽しい旅行への参加を表明するような様相ではない。怒りもあらわの忌々しそうな表情だった。
「きょ、鏡花さん、無理しなくても……」
 芽衣が思わずそう言うと、鏡花はますます目を吊り上げて睨んできた。
「なに、僕が一緒にいったらまずいわけ?」
「ち、違います、全然。大歓迎です!」
 芽衣は慌てて盛大に首と手を振る。
「よーし。ようやく決まったな」
「わ、は、離せ!」
 芽衣を不満そうに見ていた鏡花の首根っこを、音二郎ががっちりと掴んだ。
 ようやく鏡花から行くという言葉を引き出せて、満足そうだった。
「行くぞ!」
 そして、反対の手で芽衣の手を取り歩き出す。
「わ、は、はい」
 音二郎に手を引かれながら、何の支度もしていないと思ったが、まあいっかと思い直した。
 きっとこの旅行も平穏無事には済まないのだろうけれど――。
(楽しみだな)
 わくわくする気持ちが膨らんで、芽衣の足取りは軽かった。


おわり

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