Entry

2016年04月05日

距離について

「師匠って孟徳さんに似てますね」
 間近にある孔明の顔を見つめていた花は、頭に浮かんだことをそのまま口にした。
「はぁ?」
 その途端、孔明の眉が大きく上がる。
「どこが? 何が? ボクのどこを見て、そんなこと言うの?」
 孔明の様子に、花はまずいことを言ったと気づいた。
 孔明が、孟徳に対して、特別悪い感情を持っているようには見えなかったが、「似ている」と言われるのはあまりいい気持ちはしないらしい。
 考えてみたら、孔明と孟徳はどこにも共通点はない。孔明は黒髪で、孟徳は赤髪。孔明は猫目だけども、孟徳は垂れ目だ。いや、そんな外見的特徴だけでなく、生まれも考え方も趣味嗜好も全く違う。花は、二人をひとつひとつ照らし合わせて、首を傾げた。
 そんな二人を捕まえて、「似ている」と言ってしまったのはどうしてだろう。
 ふと、目が、近くにある孔明の顔を捉える。
 ああ、そうか、と花は気づいた。
「いえ、あの、人との距離が近いところとか」 
「人との距離?」
 孔明は思いがけないことだったらしく、語尾を上げて、眉を寄せた。そして、自分たちの距離を見直す。
 ぴったりとくっついた体。間近にある顔。
 孔明は、口の端をひきつらせた。
「……曹孟徳にもこんなことをされたってこと?」
 不機嫌さを露に、孔明が言う。
「えっ?」
 指摘されて、花は自らの体勢を顧みた。
 孔明が、花に意識させるように、花の腰に回した手に力を込める。
 「こんなこと」が抱擁を指していると察して、花は慌てて首を横に振った。
「い、いいえ!」
「じゃあ、どうして曹孟徳が人との距離が近いって知ってるの?」
「それは……あの……その……」
 孔明の不機嫌さが恐ろしくて、花は頭の中が真っ白になる。そのとき、手が膝の上のものに触れた。一筋の光明に、花は目を輝かせる。
「あ、こ、これ!」
 さきほど孔明に渡されたばかりの書簡を孔明の眼前に突きつけた。まるで水戸黄門の印籠だ。
「玄徳さんに届けてきます! 失礼します!!」
 孔明の返事も聞かず、その手を振り解くと、花は急いで長椅子から立ち上がり、部屋を飛び出していく。
 慌しく閉じられた扉を見つめ、孔明はひとつ、ため息をついた。
「……まったく」
 花の何でもない様子から、特に何かがあったわけではなさそうだが、孟徳に近寄られたことは事実だろう。孟徳が花に触れたかと思うと、ぐつぐつと煮えてくる気持ちもある。
 これは、お仕置きが必要に違いない。
 孔明は人の悪い笑みを浮かべて、どんなお仕置きにしようかと考え始めた。

 掛け布を飛ばす勢いで、起き上がる。
 真っ暗だった。蒸し暑い。夏の空気は重く、まとわりつくようだ。息苦しい。
 体中から汗がふきでていた。
 荒く息を継ぎ、顔を手で覆う。
 怖い。
 震える体を、どうすることもできない。
 この夢を見るのはどのくらい振りだろう。以前は、寝る度に見て、飛び起きていたのに、忘れていた。
 この夢を、忘れていられたことが、信じられない。
 彼女が、いなくなる夢。
 絶対に捕まえられない夢。
 それは夢ではなく、現実に起こったことだ。
 あの日を毎夜、繰り返し見ていた。
 いつから、見なくなったのだろう。彼女が再び、目の前に現れてからだろうか。
 喉の奥で、笑いが漏れた。
 彼女がいることを受け入れていない振りをして、彼女がいると思っている。だから、夢も見なくなり、そのことすら忘れていたのだ。
 何と都合のいい頭だろう。
 結局、自分の信じたいものを信じている。
 彼女がいると思っている。
 二度目は耐えられるだろうか。
 失うくらいなら、欲しくない。
 触れたくない。
 それなのに、愛しい気持ちが逆巻いて、体を突き破ってしまいそうになる。
 花。
 名前を呼んでも、届かない。
 ここに繋ぎとめられない。

 花。

 名前を呼んで。

 ボクを置いていかないで。

恩返しは何にする

 翼徳と花は難しい問題に直面していた。
 どちらかといったら平和的な顔つきの二人が、どちらもひどく厳しい顔をしている。
「どうしよう?」
 翼徳がすがるように情けない目を、花に向けた。
 花は、うーんと唸る。妙案は浮かばなかった。
 二人の前には、真っ黒こげのチキン。今もなお、ぷしゅーぷしゅーと不穏に燻っている音がしている。
 チキンは大惨劇だったが、窯が吹っ飛ばなかっただけ良かったのかもしれない。
 厨房を借りて、料理を始めたまでは良かった。慣れないことだったが、翼徳と花はとても楽しく料理ができた。しかし、最後の最後で、窯の調整を間違ってしまったのだ。
「失礼、水をいただき……うっ……な、なんですか、これは」
 間が悪く厨房に入ってきた子龍が、卓の上の物体を見て絶句する。
「子龍さん」
「子龍」
 迷える二人は、助っ人の登場、とばかりに目をキラキラさせて子龍を見た。
 そんな目をされても困る、と子龍は腰を引く。
「あの、ちょっと、間違えてしまったみたいで……」
「ちょっと……?」
 子龍は、花の言葉尻をとらえて、眉を上げた。
 ちょっと、というレベルの焦げではない。元が何なのか分からないほど見事に炭化していた。
「料理なら、芙蓉姫や雲長殿にお任せした方がいいのではないでしょうか」
「それじゃ駄目なんだ」
「駄目なんです」
 ねー、と二人は顔を見合った。
 子龍はイラッとしながらも訳を問う。
「どうしてですか?」
「いつも二人に作ってもらってるから、今日はお返しを作ってるんだ」
 翼徳は嬉しそうに言った。その隣で花もうんうんと頷いている。
 子龍は大いに納得した。とても翼徳と花らしい考えだ。きっと、雲長と芙蓉に内緒で作って、驚かせようとしていたのだろう。
 一瞬前に感じたイライラは立ち消えて、子龍も温かい気持ちになる。
「それなら、料理をしなくても、果物をとっていらしたらどうですか?」
「そうしたら、雲長兄いがお菓子作っちゃうだろ」
「なるほど」
 翼徳の得意分野で、と思ったが、確かに翼徳の言うとおりだ。
 子龍は、唸る。
 とりあえずは、この惨憺たる品物を、雲長たちに贈ることはできないから、他のことを考えなければならないだろう。
 もう一度料理をしたら上手くいくだろうか。
「なにしてるの?」
 そこに、ひょいっと孔明が顔を覗かせた。
「師匠!」
 花が嬉しそうに顔を綻ばせる。
「孔明殿……」
「雲長兄いと芙蓉のために料理作ってたんだ!」
「料理?」
 翼徳の言葉に、孔明が不思議そうに視線をさまわよせた。
 目の前にある炭化した物体が、チキンの成れの果てとは、さすがに孔明でもすぐには気づけないようだ。
「いつも二人にうまいもん作ってもらってるからさ、お返ししようと思って」
 孔明の様子には気づかず、ねー、と翼徳が花に同意を求め、花も、翼徳に同じように返した。
 子龍がイラっとした光景だ。心配になって孔明を見ると、その頬が心なしか引き攣っているようにも見えた。
「でも、失敗しちゃったんです」
 花は、真っ黒焦げのチキンを見てため息をついた。
 すると、孔明が、いつもの食えない笑顔を取り戻して言う。
「ああ、それならいい方法があるよ」
「本当ですか!?」
「さすが孔明!」
 孔明の言葉に、花と翼徳は顔を輝かせた。
「うん。教えてあげるから、花、こっちにおいで」
「はい!」
 おいでおいで、と孔明は手招きしながら厨房を出て行く。それを追って、花も厨房から出て行った。
 翼徳はそれを笑顔で見送る。孔明ならきっと素晴らしい案を授けてくれるに違いない、と翼徳は信じきっていた。
 しかし、待てど暮らせど、孔明はおろか花も姿を見せない。
 子龍は、大いに嫌な予感がした。
「あれ……?」
 三分ほど経って、ようやく翼徳が首を傾げる。
「行ってしまったようですね」
 花は絶対に戻ってこないだろう。
「ええ!!」
 驚き目を剥く翼徳のかたわらで、片づけは自分がやるのだろうな、と子龍はため息をついた。

雨の日

 最近、雨が続いている。梅雨というわけではないらしいが、そのしとしととした降り方は、元の世界の六月を思い出させた。
 花は、ぼんやりと窓から外を眺めながら、元の世界を想う。
 みんな、元気だろうか。
「雨は嫌い?」
 突然声をかけられて、花は肩を震わせた。
「師匠……」
 いつのまに戻ってきていたのか、孔明が戸口に立っていた。
 玄徳に呼ばれて出て行ったのは、ついさっきだったように思う。それとも、雨を眺めている間に、時間が経ってしまっているのだろうか。
 花は、書簡を片づけようとして、胸に抱いたままだ。
 孔明はいつからいたのだろう。
「声をかけても気づかないくらい真剣だったけど、何を考えていたの?」
 問われて、花は返事に困る。
 元の世界のこと、と本当のことを言ったら、孔明を傷つけてしまうように思えた。だからといって、嘘を吐くのも違う。
 結局答えられず、花は黙った。
 沈黙が答え、とも言える。孔明には分かってしまうだろう。
 しかし、孔明も、花の口から聞く気は元々なかったのか、それ以上追求してこなかった。
「ボクはね、雨の日、好きなんだ」
 そう言いながら、部屋の中に入ってくる。
「そうなんですか?」
 それは意外だった。孔明は、雨など面倒臭いと嫌がると思った。
「うん。だって、君は晴れの日が似合うから」
 花の目の前に来て、孔明は笑う。
 孔明の真意が掴めず、花は眉を寄せた。
「……どういうことですか?」
 晴れの日が似合うと言う口で、雨が好きと言うのは、つまりは花が好きではない、ということだろうか。
 まったく分からない。
「君が突然ボクの前に現れた日も、突然ボクの前からいなくなった日も、とてもよく晴れていたんだ」
 そんな花に、珍しく孔明が説明をしてくれた。
「君が消えてしまう日は、きっと晴れの日だ」
 花は、ますます眉を寄せて、孔明を見つめる。
「だから、雨の日は安心できる」
 どうしてこれほど穏やかな目で、そんな悲しいことを言うのだろう。
 どんなに言葉を尽くしても、孔明の不安を取り除くことはできないのだろうか。
 花は、泣きたいような切ない気持ちになって、孔明を抱きしめた。
「師匠……私、どこにも行きません。ずっと、師匠のそばにいます」
「うん、そうだね」
 花を抱き寄せて、孔明も頷く。
 雨はしとしとと降っていた。

内緒話

「あ、師匠!」
 廊下の先に孔明を見つけて、花は小走りで駆け寄った。
「どうしたの?」
 足を止めて待っていてくれた孔明は、花の勢いに少々驚いている。
 花は素早く周りを見回して、誰もいないことを確かめた。
 それでも、まだ心配で、孔明の腕を引く。
「?」
 孔明は驚きながらも、花のされるがままになっていた。
            
 孔明の耳に口を寄せ、手を添えて、囁く。
 用件を伝え終えると、花は孔明から離れて、小さく頭を下げた。
「お願いしますね」
 花は忙しい。早く全員に伝えなければいけないのだ。
 次の人のところへ行こうとしたが、腕を掴まれて引き止められた。
「師匠?」
 急いでいるんですけど、という気持ちを言外に匂わせて、花は孔明を振り返る。
「花、それ、みんなにやるつもり?」
「え?」
 何のことだか分からない。
 すると、腕を強く引かれて、孔明に抱き込まれた。
「これ」
 耳元で囁かれて、軽く唇が触れる。
 花はびっくりして耳を押さえて、孔明を突き飛ばす。
「わ、私、そんなことしてません!」
 ひそひそ話はしたが、触れてはいない。 内緒話の方法としては、標準的なはずだ。
「それくらい近かったってこと。もうちょっと気をつけなさい」
 あまり意識していなかったが、確かに近いかもしれない。孔明にしたことと同じことを、これから回る玄徳たちにしている姿を想像すると、花は恥ずかしくなった。
 孔明に言われなければ、こっそり伝えることに必死で、何も考えずにしていたに違いない。
「はい。すみません」
 花は素直に謝った。
「それじゃ、師匠、お願いしますね。内緒にしててくださいね」
 だが、一刻も早くみんなに伝える使命を帯びている花は、すぐにまたそのことで頭がいっぱいになってしまう。時間勝負なのだ。
 忙しなく小走りで去っていく花を見送って、孔明は深くため息をついた。

Pagination