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2016年04月05日

きらきら

 朝はいつも通りに訪れて、夜は静かに更けていく。
 そんな毎日は、まるで夢のようだと思っていた。
 ここが夢の世界ならば、現実なのだろう。


 見上げれば、空に散らばる星は、その顔ぶれをかえていた。
 しばらく雨が続いていたので、久しぶりの星空だ。
 紺色の空を見つめていると、視界に自らの白い息が入った。
 陽が出ている時ですら寒く、夜は更に冷え、感覚的にはまだまだ冬だ。残暑という言葉があるならば、残冬というのもあるのだろう。冬が残っている、というのがまさに今にぴったりだった。
 しかし、空はすでに春だ。
 人の感覚という不確かなものとは違って、確実に絶対的に刻まれていく時が見える。
 もう、あれから九年だ。
 人生の半分近く、彼女を求めている。そしてすぐに、人生の大部分になるのだろう。
 役者は揃いつつあるのに、彼女だけいない。
 道を間違えただろうか。
「…………」
 孔明は戸を閉めた。
 明日が来るなら、久しぶりの晴天だ。


 彼女はいつも光の中にいる。
 孔明は胸をぎゅっと押さえた。
 どくんどくんと心臓が大きく脈打っている。
 眩しくて目をすがめながらも、視線を逸らせなかった。
 期待が湧いて広がり、先走りそうになる衝動をどうにか堪える。
 光の中心に、彼女がいた。
 その姿を見て、体中から力が抜ける。
 ああ、この道で良かったんだ。


 この道で。


 空は、春の星が輝いている。
 また季節は一巡りしていた。
 去年と同じ顔ぶれだけれど違う空。
 同じ春ではなく、時は進んでいる。
 去年の今頃は何をしていただろうかと、孔明はふと思った。
「孔明さん?」
 そのとき、背後から声をかけられ、孔明は振り返る。
「そんな薄着でいると、風邪引きますよ」
 花が上着を持って、孔明がごろりと横になっている廊下に出てきた。
 すでに廊下で寝転がることを注意してこない。
 花が譲歩した点だ。
 共に暮らせば、お互い自分の主張を緩めなければならないことも出てくる。花は孔明にきちんとするよう強く求めるのをやめたし、孔明は花の意に沿うよう少しは生活態度を正しているつもりだ。
「空がどうかしました?」
 孔明がじっと星を見ているのを、花は見ていたのだろう。その顔は心配そうだった。孔明が星空に何かを見出したと思っているのだろう。
 孔明はむくりと起き上がった。
「もう春だなあと思って」
 そして、のんびりと言う。本当に、それ以外に何も思っていなかったのだが、花に伝わるかが大切だ。
 花は孔明の言葉に、一瞬不可解そうな顔をしたが、すぐに納得したように笑顔を浮かべた。
「星ですか?」
「うん、そうだよ。もう春だ」
 孔明が空を見上げると、花もつられて顔を上げる。
 今日は久しぶりの晴天だ。昼間は雨だったのだが、夜になって晴れて、きれいな星空になった。
 春の星だ。
「早く陽気も空に追いついて、暖かくなるといいですね」
 花の言葉に、孔明は少し驚いた。まさか同じことを思う人間がいるなど、思わなかったのだ。
 けれど、花が同じことを感じてくれて嬉しい。
 それが花で嬉しかった。
「そうだねえ。昼寝にちょうどいいよねえ」
「孔明さん」
 浮かれた心の内を隠す孔明の発言は不用意で、花の声が少し険しくなる。
「そういえば、昼間、玄徳さんの使いの方が来て、孔明さんを探していました。今日はお城に行くって言ってましたよね? どこに行っていたんですか?」
「えーっと……」
 余計なことを思い出させてしまったようだ。花の顔が怖い。
 孔明はどう返事をしようかと、考えを巡らせた。
 花は、ここはまだ譲歩してくれないらしい。
「あ……」
 花のお説教を聞き流しながら、孔明は思い出した。
 去年の今頃も、こんな会話をしていた。
 おかしくて、つい笑ってしまう。
 すると、花の方から寒波が押し寄せてきた。
「孔明さん! 何がおかしいんですか!」
 花の怒った声に、孔明は、ごめんごめんと謝りながらも、笑い続けてしまう。
 これが笑わずにいられるだろうか。
 なんて平和なのだろう。
 明日は晴れる。
 きっと、春の気をはらんだ陽の光が射して、暖かくなるだろう。


 君がいる。


 世界はきらきらと輝いている。


 なんて、愛しい、素晴らしい日々だろう。

雪はきらい

 

 孔明は隆中の山の中を、自分の庵に向かって急いでいた。
 早くしないと、間に合わない。
 指まで覆う手甲を中綿の入ったあたたかいものにしているのに、指はかじかんでいた。足先も相当冷えているのを感じる。
 と、ひらひらと目の前を白いものが散り落ちた。
 孔明は足を止める。そして、微かに顔を顰め、少しだけ視線を上げた。
 すると、まるでそれを合図のようにして、視界いっぱい、狭い空を埋めるように突然雪が現われ、落ちてくる。
 間に合わなかった。
 孔明は息をつく。
 雪は嫌いだ。
 そっと手を差し出すと、雪が手のひらに落ちて、融ける。
 それを見て、孔明は苦痛にも似た表情を顔に浮かべた。
 ぐっと唇をしばり、再び歩き出す。
 今日はこのまま降り続け、積もるだろう。その前に、庵に戻りたかった。
 雪は好きでない。
 手の上で、たやすく融けて消えてしまう。
 その儚さは、痛い記憶を刺激して、胸の内を苦いもので満たした。
 この道はちゃんと繋がっているだろうか。
 孔明は、ぎゅっと開いていた手を握りしめる。
「……雪は嫌いだ」
 その呟きは、はらはらと降る雪の中に埋もれた。


 翌日も寒かった。
 薄くても布団の中から出たくない。
 孔明は、差し込む陽はなかったことにして、もう一度寝ようと目を閉じかけた。
「おい! 馬鹿っ! なにやってんだ、てめえはよ!」
 しかし、そのとき、外から、ここにないはずの粗野な声が聞こえてきて、ぱちっと目を開ける。
「うおっ、いってーよ!」
 それに応じるしまりのない声も知ったものだ。
 だが、寒い。
 孔明は少しもためらうことなく、もう一度目を閉じた。
「馬鹿! そうじゃねえだろっ!」
「えー、でもよー、こっちの方がよくない?」
「よくねーよ! 元に戻せ! あ、いや、待て!」
「うわっ、わっ」
「なにしやがる!」
「っはあ、よかった。首もげるところだったぜ」
「ふぃー」
 いったい何をしているのか、はしゃいだ声はやむことがない。その上、さっぱり要領を得ず、孔明の苛々は頂点に達した。
 寒さも忘れて薄い掛布を蹴り飛ばし、粗末な戸を乱暴に開ける。
「その、しまりのない、落としどころの見えない会話、やめてくれない?」
 孔明は、不機嫌を全面に出して、その会話の主たち――晏而と季翔を睨みつけた。
 二人はきょとんとしている。
 突然、怒られた理由がさっぱりわからないのだ。
 ただの雑談に、目的と論理性を求めることの方がどうかしている。
「安眠妨害」
 孔明がそう言い足すと、晏而たちも納得した顔になった。
「もう午だぜ?」
 だが、そこは長い付き合いで、晏而は即座にそう返す。
「ボクが何時まで寝てようといいだろう? それより人の家の軒先で、何を勝手にやってるんだ」
 孔明が冷たく言い放つと、晏而と季翔は、それぞれ左と右に避けた。
 そこに現われたのは、大きな雪だるまだった。どんと一段目がかなり大きい雪玉で、上に乗っている雪玉は、季翔の立っている側が少し崩れていた。
「子供?」
 孔明はすっと目を細くする。
「お前に言われると、心から腹立つぜ」
 晏而は、大仰に顔を顰めた。
「お前の友達のイノシシたちは、今冬眠中だから寂しかろうと思った俺たちの思いやりを鼻で笑いやがって」
「いらない」
 晏而のからかい混じりの言葉に、孔明はむっとする。友ならいるはずだ。一人くらい心当たりがある。
「せっかく考えて日陰に作ってやったんだぜ?」
「頼んでない」
「つれねーなあ。ここ、ならしばらく融けねーぞ?」
「だな。こいつがいなくなる頃には春になってるだろ。そしたらイノシシたちも起きてくる」
 晏而と季翔の言葉に、孔明は小さく目を見張った。
 固まりになった雪。手のひらの上の雪。
 雪は手の上で融けて、掴まえられないから嫌だった。
 けれど、形を変えてしまえば、長くいられるものもあるのだ。
 どうして、それに気づかなかったのだろう。
 春まで残る雪を知っているのに、手の上の雪だけしか見ていなかった。
「……君たちって、たまにいいこと言うよね」
 孔明は雪だるまを見つめながら言う。それから、その目を晏而と季翔に向けた。
「ボクと、頭の作りが違うんだね、きっと」
「だから、心から腹立つな、お前」
 孔明がにっこり笑うと、晏而はその凶悪な顔を、ますます無法者のようにゆがめる。
 孔明は、いつもの通り笑顔を保った。
 本当にまだまだだ。
 まだ、あの人には会えないのだろう。
 無知すぎる。
 もっと武器を磨かなければいけないのだ。
 それをわからせてくれた晏而と季翔には、心の中でこっそり感謝する。しかし、やはり生来の負けず嫌いのため、それを表に出すことはなかった。
「でもやっぱり、雪は嫌いだ」
「あ?」
 ぼそりと呟かれた言葉を聞き取れず、晏而が聞き返す。
「寒い」
 孔明はそれには答えず、素早く戸を閉め閂をおろした。
「あ、亮! てめえ!」
 何をされたのか気づいた晏而は、すぐに戸に飛びつき、がたがたと揺するが、時はすでに遅い。
「君たちは、雪でも元気に遊んでるじゃないか。ボクは寒いから寝なおすよ」
 孔明はあくびをしながら、布団の中に戻っていった。
「いれろー! 人非人!」
「寒いよ! 亮! 中に入れろよ!!」
 晏而と季翔が喚いている。
 次に起きたときには入れてやるか、と思いながら、孔明は二度寝に落ちた。

このよき日に

 空は青く、高く、晴れ渡り、特別な一日が始まる。


「孔明さん!」
 戸口に立つ孔明に気づくと、花はぱっと顔を輝かせた。
 今にも駆け寄ってきそうな勢いだ。しかし、いつもと違ったかしこまった衣裳のため、胸元で小さく手を振るだけにとどまった。
 花の全身から放たれる喜びに、孔明も顔を綻ばせる。
 幸せだ。
 花と同じように、心に、純粋に喜びがわきあがってくる。
 けれど、その一方で、一点の曇りのない花の笑顔を見ていると、わずかに胸の奥が痛んだ。

 これでよかった?

 そう問いたくなる。
 ここにとどまってよかったのか――ずっと、元の世界にかえすことが、花のためによいことだと考えていた孔明には、わからなかった。
 今も、その考えは変わらない。
 けれど、きっと、よかったのだろう。
 そうも思えていた。
 花はとてもきれいに笑っている。
 今日の青空に負けないくらい、きれいで気持ちの良い笑顔だ。
 幸せなのだと信じられる。
 孔明も、幸福だった。
「うん」
 自分の問いかけに自分で返事をして、孔明は花のもとへいく。
 花は、当然何のことだかわからず、きょとんとしていた。
「とても綺麗だよ」
 そんな花に笑って、孔明はその額に口づける。
 すると、花は顔を赤らめて恥ずかしそうにしながらも、とても嬉しそうに笑った。
 思わずもっと触れたくなる気持ちをどうにか抑えて、孔明は花を離す。
「あ、あの、孔明さん」
 しかし、距離を取ろうとする孔明を、花は慌てたように引き止めた。
「ん?」
 孔明は首を傾げる。
 だが、花は自分から引き止めたのになぜかためらった。早く行かないと、芙蓉に怒られてしまうのはわかっているだろうに、もじもじしている。
「どうしたの?」
「こ、これからもよろしくお願いします!」
 うつむきがちの花の顔を覗き込もうとしたら、花に勢いよく頭を下げられてしまった。
 これからも。
 これまでも、よろしくしていたからの言葉だ。
 孔明の頬が緩む。
 これから共に過ごして、花といる時間が、花といなかった時間を上回ればいい。
「ああ。こちらこそ」
 孔明はそう言って、花を抱きしめた。

 今日はなんて素晴らしい日なのだろう。

迷子

 きょろきょろと周りを見回す。
 どうやら道を間違えてしまったようだ。
 街は見えず、ぽつんと一軒の家があった。質素だが、どことなく品のよい佇まいなのは、きちんと手入れがされているからだろう。
 家の前には、ひなたぼっこをしながら読書なのか、一人のおばあさんが書物を膝にのせて椅子に座っていた。
 人がいてくれて、ほっとする。足早に近寄ると、おばあさんは話しかけやすそうな雰囲気で、ますます安心した。
「あの、すみません」
「はい」
 声をかけると、おばあさんは膝の上の書物から顔を上げる。
 優しそうだ。
「あの、街に行きたいんですが……」
「ああ、でしたら」
 道に迷ったことを告げると、おばあさんは丁寧に教えてくれた。
 街道から外れてしまったようだが、すぐに戻れそうだ。
「ありがとうございます。助かりました」
 心から感謝して、頭を下げる。
「あら、あなた……」
 すると、おばあさんが何かに驚いたように声をもらした。
「?」
 顔を上げて、おばあさんを見ると、彼女は、手に持っていた本に目をとめている。
「あ、珍しいですよね」
 この世界では、こういった形の「本」はないのだ。細い竹を紐で綴って巻物にするのが普通だった。
 おばあさんが微笑む。
「がんばって」
「はい。ありがとうございました」
 僕はもう一度お礼を言って、歩き出した。


「花? お客さん?」
 家の中から、ひとりの老人が出てくる。話し声が中まで届いたのだろう。
 花は振り返って孔明を見る。
 お互い年を取った。しわも増えたし、髪は真っ白だ。
 本当に、長いこと一緒にいる。
「はい。道を尋ねられました」
「こんなところで?」
 孔明は不思議そうだ。
 確かにここは、街道沿いではないから、迷い込む方が難しいかもしれない。
 しかし、彼は来た。
「はい」
 花は頷く。
 懐かしい匂いがした。
 彼はどんな物語を作るのだろう。

鍋パーティー

 

「ナベ?」
 その言葉はもちろん知っている。だが、花が言っているのは、そのことではないようで、亮は聞き返した。
 「鍋にする」と、花は言ったのだ。
 意味がわからない。
「今日は寒いから、あったまるよ」
 しかし、花は亮の戸惑いに気づかず、楽しげにそんなことを言った。
 その手元には、色々な食材が入れられて煮られている鍋がある。
 おそらく、花の国で、この料理を「鍋」と呼ぶのだろうと、亮は見当をつけた。
 ややこしい。
「うまそうな匂いだな!」
「道士様! ナベできた?」
 そこに、 晏而と季翔が、ひょっこりと現れた。
 亮は思わず顔を顰めてしまう。せっかく花と二人きりの時間だったのに、台無しだ。
 しかし、女性の花と子供の亮の分にしては、鍋の中の食材の量が多すぎるので、このことは予想ずみだったが。
「どうして晏而たちが来るの?」
 つい憎まれ口を叩いてしまう。
「もちろん、道士様に呼ばれたからだ」
 そんな亮に、晏而は大人げなく勝利の笑みを向けてきた。
 亮は、頬をひきつらせる。
「道士様の手料理!」
 睨み合う晏而と亮に気づかず、季翔が嬉しそうに叫んだ。
「鍋は大勢で食べた方が楽しいですから」
 そして、その花の言葉で、亮は何も言えなくなってしまう。
 食事の間だけ停戦で、片づけは全て押し付けようと決めた。
「あー、晏而、肉ばっかり食うなよ!」
「それはてめぇだろ!」
 晏而と季翔は意地汚く、肉の取り合いをしている。
 亮は大いに呆れて、そっと白菜を食べた。
 けれど、ちらりと窺えば、花は楽しそうに笑っている。
「たくさん頂いたので、大丈夫ですよ」
「道士様、もう全部いれちゃお!」
「ああ、そうだな。どうせ全部食うんだ」
 肉が少なくなった鍋の中に、また山盛りの肉が投入された。亮には、見ているだけで胸やけを起こしそうな量だ。
 しかし、確かに、二人きりの食事ではこのにぎやかさはない。花も楽しそうだし、たまには大目に見ようと、亮は黙って豆腐を食べる。
「亮、お前は肉食っとけ」
 季翔の箸の先から肉を奪った晏而が、それを亮の皿に放り込んだ。
 一枚ではなく、四、五枚一気にだ。
 こんもりと山になった肉に、亮は眉根を寄せる。
「こんなにいらない」
「いいから食っとけ」
「いらないなら俺が食う!」
「お前はつゆでも飲んでろ!」
 横から季翔が肉を奪おうとすると、晏而の鉄拳が飛んだ。
 山盛りの肉に、亮はためいきをつく。
 しかし、湯気の向こうで、花が笑っていた。
 それを見ると、怒る気が失せてしまう。
 花が笑っているから許すが、次はない、と亮にしては大きな寛容を見せて、亮は肉を口の中に放り込んだ。


「っくしゅ」
 花のくしゃみに、孔明は顔を上げた。
 今日はひどく寒い。部屋の中でも吐く息が白かった。
 長椅子に並んで座って、孔明は読書、花は編み物をしていたが、花は時折手を止めて、手に息をかけていた。
 暖房をつけてはいるが、どうも寒い。
 孔明は書物を脇に置いた。
「花、手を貸して」
「はい?」
 孔明の唐突な呼びかけにもかかわらず、花は首を傾げながらも素直に手を差し出す。
 孔明はそれを握りしめた。
「冷たすぎる」
「孔明さんもです」
 あまりに冷たい花の手に、孔明は顔を顰める。
 しかし、花も同じような顔をした。
「うん、確かに」
 花の指摘通り、孔明の手も冷たく、花の手を温められるとは言えない。
 こんな寒い日は、いいものがあったはず、と孔明は記憶をたどって、思い出した。
「今日は鍋にしようか。あれあったまるよね」
 あったかい湯気が立ち上るにぎやかな食卓。遠い思い出だ。
「お鍋いいですね!」
 花も笑顔で頷いている。
 今日の夕飯は決まりだ。鍋はおいしい。
「……あ、晏而さんたちも呼びましょうか?」
「は?」
 その突拍子もない提案に、孔明は思わず素で聞き返してしまった。
「鍋は人数多い方が楽しくないですか?」
 そんな孔明の反応に、花は少し語気が弱くなる。
 それは、昔も聞いた。
 あのときは、花を独り占めする権利はなかったから、何も言えなかった。
 だが、昔と今では違うのだ。
「やだ。無理」
「無理ってなんですか」
 花は、不可解そうに眉根を寄せている。
 そんな顔をされても、無理なものは無理だ。花との時間を共有するつもりはない。
「ああ、でも、名前出すとさ、嫌な予感、というか……」
 しかし、言いながら、孔明は、嫌な予感が心の中に広がっていくのを感じた。こういう予感はよく当たる。
 そして、まるで孔明の言葉に応じるように、家の呼び鈴が鳴った。
 孔明と花は顔を見合わせる。
 これは、きっと、予感的中ということなのだろう。
 孔明は大きくため息をついた。

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