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春立ちて

 花が雲長への届け物を終え、孔明の執務室に戻ろうと廊下を歩いていると、向こうから、玄徳付きの文官が弱り顔でやって来るのが見えた。
「花殿!」
 同じような立場の彼とは顔なじみで、あちらもすぐに花に気づき、助かった、といった顔で駆け寄ってくる。
「どうしました?」
「玄徳様が孔明様にご用命なのですが、孔明様の姿がお部屋に見当たらず……あなたもいらっしゃらなかったので弱っておりました」
「わかりました。私も師匠を探しますね」
「ありがとうございます! 助かります!」
 青年は見つけられる気がしなかったのか、花の言葉にたいへん喜んで、涙を流しそうな勢いで感謝した。
 そんなに難しいことなのだろうか、と、別の方へ駆けていく青年を見送りながら、花は思う。
 確かに神出鬼没で得体が知れない感はあるが、今は、城の中にいることがわかっているのだから探しやすい。
(――城の中に、いるよね……)
 花は、はたと危険な可能性に気づいて、一瞬固まった。
 だが、すぐに師匠を信じようと首を横に振る。
 孔明は、今、以前と違って、玄徳に仕官している身だ。立場も仕事もある。あの執務室の机の上の書簡を片づけないまま、どこかにふらりと出かけるなんて、そんなことありえ――ないと言い切るのが、花には難しかった。
 もしかしたらあるかも、と思いながら、花は、とりあえず、廊下からおりてみる。
「師匠ー? 師匠ー?」
 屈みこんで、縁の下を覗いた。奥の方は暗くてよく見えない。
「花。何してるの?」
 もう少し潜ろうとしたとき、頭上から声をかけられた。
 花は、半分縁の下に入りかけていた体を引き戻し、顔を上げる。
 すると、呆れ顔の芙蓉とぶつかった。
「あ……師匠を探していて……」
 花は、自分の行動のおかしさを承知しているので、目が泳いでしまう。
「あなたの師匠はそんなところにいる可能性があるの?」
 芙蓉は不審そうに眉を顰めている。
 ますます孔明の評価を下げてしまったようだ。
「探しても、見当たらないらしいんだ」
 花は、孔明のために弁解した。
 あの青年は、色々通常探すようなところを探して回って、見当たらないから困っていたのだろうと思う。
 つまり、今、孔明は、仕事で関係するところにはいないということだ。
 縁の下よりは、屋根の上の方が可能性は高いだろうけれど、と思って、花はちらりと屋根を見る。
 孔明はまるで猫のようなのだ。木の上にいれば、屋根の上にもいる。
「あ」
 花は猫を思い浮かべて、ぴんときた。
「え?」
「わかった! ちょっと行ってくるね」
 花は、孔明の居所に見当がついて、衣を翻して駆け出す。
「師匠も師匠なら弟子も弟子ね」
 芙蓉は欄干に頬杖をついて、苦笑した。


 建物を離れた庭の隅に、日当たりのよい場所がある。人があまり来ることもないそこは、花も先日偶然見つけた休憩場所だった。
「師匠―?」
 そこに駆けていくと、予想通り、孔明がごろりと転がっていた。
 求めた姿を見つけられて、どこか安心する。それに、見つけることができて嬉しかった。
 近づいていくと、すやすやと気持ち良さそうに熟睡している様に、思わず笑みがこぼれてしまう。
 まさに猫のようなひなたでの昼寝だった。
 起こすのが忍びなくなる。
 叶うならば、花も隣に寝転がって、一緒に昼寝をしたいようなのどかさだ。
 だが、青年の困った顔から察するに、きっと急いで玄徳のもとに連れていった方がよい案件なのだろう。
 花は心を鬼にして、孔明の体を揺すった。
「師匠、すみません、起きてください。玄徳さんが呼んでるそうですよ」
「ん、んー……はな?」
 ごろごろはするが、寝汚くない孔明は、すぐに目をこすりながら起き上がる。
 体を起こして、一度大きく伸びをすると、しゃっきりとした顔になって、花を見た。
「おはよう」
「おはようございます。すみません、起こしてしまって。玄徳さんが呼んでるそうです」
「玄徳様が? なんだって?」
「用事の中身は聞いてなくて。ただ、玄徳さんのところの文官さんが、師匠のこと血相変えて探していたので」
「うーん。そう」
 孔明は心当たりがないのか、わずかに首を捻った。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「いいんでしょうか?」
「君に聞かせられない話は、あんまり聞きたくないからね」
 孔明はひとつ欠伸をして、立ち上がった。


「玄徳様、孔明です」
「ああ、孔明。入ってくれ」
 玄徳の部屋には、玄徳一人だった。
 例の文官の姿はない。まだ城内を探しているのかもしれない。
「花も一緒か。ちょうどよかった」
 孔明に続いて花も入っていくと、玄徳は邪魔がるどころか歓迎してくれた。
 花は、何の話だろうと身構える。
「さっき、いい桃をもらったんだ。お前たちも、籠ひとつもらってくれ」
 しかし、そんな花の前に、どーんと籠いっぱいの桃が現われた。
「…………」
 花は言葉を失う。
 急用、ではなかったようだ。
「なるほど」
 孔明がぽつりと呟く。
 その静かな声に、花は隣を見られなかった。
 近頃は落ち着いてきたとはいえ、まだまだ孔明は休憩がたまにしか取れないほど忙しい。さきほどの昼寝も、久しぶりの至福の時間だったことだろう。
 それを邪魔してしまって、申し訳なさすぎた。
「ん? どうした?」
 二人の間に走る緊張感に、玄徳が首を傾げる。
「玄徳様、ありがとうございます」
 孔明はそれには答えず、にっこり笑って籠を受け取った。
「あ、ああ」
 困惑気味の玄徳を置いて、二人は部屋を出る。
「師匠、すみません! 用事を確かめてから声をかけにいけば良かったです」
 花はすぐに謝った。
「いいよ。でもまあ、ボクの一週間ぶりの休憩時間がふいになったわけだけど」
「すみません」
 いいよと言いながら責めてくる孔明に、花は深く頭を下げる。
 すると、孔明が笑ったような気配がして、するりと手が伸びてきた。
 孔明に手を握られ、花はとっさに顔を上げる。
 孔明は楽しそうに笑っていた。
 どうやら、からかわれたらしい。
「じゃあ、昼寝に付き合って。もう少し休憩することにした」
 孔明の誘いに、花は破顔した。
「はい!」

 ぽかぽかとした陽だまりに、ふたりでごろりと寝転がり目を閉じれば、桃の匂いに包まれた眠りに落ちていく。

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