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2016年04月

猫100匹

 

「なるほど」
「はい…………」
 書庫の中には、心から納得したように頷く玄徳と、彼の前で項垂れるように頭を縦に振る花がいた。
「ほんと、すみません」
 花は深く深く頭を下げる。
「いや、大丈夫だ」
 そんな花に、玄徳は優しく
 その手がいつものようにぽんぽんと花の頭を撫でる。
 花はほっとしたようにわずかに笑顔を見せた。
「何の話かお伺いしてもよろしいですか?」
 温かな雰囲気に包まれた書庫に、ひとつの細い影が伸びた。
「孔明」
「師匠」
 玄徳と花は同時に振り返って、気まずそうに声を上げる。やましいことは何もしていないのに、落ち着かない気持ちになるのはなぜだろう。
 孔明から発せられる異様なぴりっとした空気に、玄徳ですら緊張した。花はすでに固まっている。
 と、玄徳は、孔明の視線が集中しているのが己の手だと気づいた。
「あっ、と、すまん」
 慌てて花から手を外す。
「あ、いや、大した話じゃないんだ」
 孔明が不機嫌なのだと気づいた玄徳は、すぐに孔明の疑惑を払拭しようとするが、言葉の選択を誤った。
「その大した話ではない話を聞きたいのですが……」
 孔明の笑顔がいっそう晴れやかなものになる。
 はじめて触れる孔明の不穏な空気に、玄徳の頭は完全に停止してしまった。
「あ、わ、私がいけないんです!」
 このままでは玄徳が死んでしまうと花は急いで二人の間に割って入る。孔明の瞳が説明を求めて花に移った。その瞳だけ笑っていない笑顔をまともに見て、花はごくりと唾を飲む。だが、ここできちんとした説明をしなければ玄徳の二の舞だ。
「玄徳さんから借りた本を間違えて子龍さんに貸してしまって、たまたまその本を探していた雲長さんに子龍さんが渡したら、翼徳さんが部屋から持っていって、そのあと書庫に入れておいたって言うんですけど……」
 まるで作り話のような本当の話だった。勘違いなどが重なって、結局行方知れずになってしまったのだ。
「どこにいったか分からなくなったてこと?」
 その話を一応信じたのか、孔明は疑うような言葉は吐かずに聞いた。
「はい」
 花は肩を落として頷く。玄徳から借りた本と自分の本の装丁が似ていて、間違えて渡してしまった花のミスから始まったことだ。
 玄徳は笑って許してくれているが申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「うーん。もしかして、これ?」
 孔明はまっすぐ奥の書棚に向かっていくと、迷いもせず一冊の本を抜き出した。
 それはまさに、花が探していた本だった。
「こ、これです! どうして師匠、知ってるんですか!?」
 その本に飛びついて、花は目を丸くする。
 孔明には本のタイトルもどんな本かも説明していない。それに、花は一人で半日ほど、玄徳と一緒に小一時間ほど探しても見つけられずにいた。
 まるで魔法のようだ。
「この間から見たことのない本があるなと思ってたんだよね。玄徳様の本でしたか」
 孔明はすっきりした顔で、玄徳に本を渡す。
 しかし、花はますます驚いた。
「見たことのない本って……この書庫の本、どこに何があるか把握しているんですか?」
「もちろん。雲長殿らしく、きちんと整理された書庫で助かるよ」
 孔明はなんでもないことのように言うが、この書庫はとても立派で、花の高校の図書室より広かった。中は、図書室のように規則正しく本棚が並び、壁も扉以外はすべて書棚になっている。蔵書は竹簡も含めて数え切れないほどだ。
 その蔵書を位置まですべて把握し、増減が分かるなど、普通のことではない。
 やっぱり師匠は頭がいいんだ、と花は感服した。
「それではもう用は済みましたね」
「あ、ああ」
 孔明は二人の背を押すようにして、書庫から外に出て、扉をきっちりと閉める。
「花、頼みたいことがあるから、あとで執務室に来て。ボクはちょっと寄るところがあるから先に行くけど……」
 孔明はそこで言葉を区切って、ちらりと玄徳を見る。
「必ず来るように」
 それからまた花に視線を戻してそう言った。あの一瞥は、一瞬だったが、玄徳には十分すぎるほど言いたいことが伝わった。
「……はい」
 花に拒否権はなかった。
 孔明が去ると、二人は同時に大きく息を吐いた。
「…………あいつ、猫かぶってたんだな」
 玄徳がぽつりと呟く。
「はい。師匠は猫をたくさん引き連れてるんです」
「ああ……なるほど」
 二人の脳裏には、無数の猫を指揮する孔明の姿が浮かんでいた。

距離について

「師匠って孟徳さんに似てますね」
 間近にある孔明の顔を見つめていた花は、頭に浮かんだことをそのまま口にした。
「はぁ?」
 その途端、孔明の眉が大きく上がる。
「どこが? 何が? ボクのどこを見て、そんなこと言うの?」
 孔明の様子に、花はまずいことを言ったと気づいた。
 孔明が、孟徳に対して、特別悪い感情を持っているようには見えなかったが、「似ている」と言われるのはあまりいい気持ちはしないらしい。
 考えてみたら、孔明と孟徳はどこにも共通点はない。孔明は黒髪で、孟徳は赤髪。孔明は猫目だけども、孟徳は垂れ目だ。いや、そんな外見的特徴だけでなく、生まれも考え方も趣味嗜好も全く違う。花は、二人をひとつひとつ照らし合わせて、首を傾げた。
 そんな二人を捕まえて、「似ている」と言ってしまったのはどうしてだろう。
 ふと、目が、近くにある孔明の顔を捉える。
 ああ、そうか、と花は気づいた。
「いえ、あの、人との距離が近いところとか」 
「人との距離?」
 孔明は思いがけないことだったらしく、語尾を上げて、眉を寄せた。そして、自分たちの距離を見直す。
 ぴったりとくっついた体。間近にある顔。
 孔明は、口の端をひきつらせた。
「……曹孟徳にもこんなことをされたってこと?」
 不機嫌さを露に、孔明が言う。
「えっ?」
 指摘されて、花は自らの体勢を顧みた。
 孔明が、花に意識させるように、花の腰に回した手に力を込める。
 「こんなこと」が抱擁を指していると察して、花は慌てて首を横に振った。
「い、いいえ!」
「じゃあ、どうして曹孟徳が人との距離が近いって知ってるの?」
「それは……あの……その……」
 孔明の不機嫌さが恐ろしくて、花は頭の中が真っ白になる。そのとき、手が膝の上のものに触れた。一筋の光明に、花は目を輝かせる。
「あ、こ、これ!」
 さきほど孔明に渡されたばかりの書簡を孔明の眼前に突きつけた。まるで水戸黄門の印籠だ。
「玄徳さんに届けてきます! 失礼します!!」
 孔明の返事も聞かず、その手を振り解くと、花は急いで長椅子から立ち上がり、部屋を飛び出していく。
 慌しく閉じられた扉を見つめ、孔明はひとつ、ため息をついた。
「……まったく」
 花の何でもない様子から、特に何かがあったわけではなさそうだが、孟徳に近寄られたことは事実だろう。孟徳が花に触れたかと思うと、ぐつぐつと煮えてくる気持ちもある。
 これは、お仕置きが必要に違いない。
 孔明は人の悪い笑みを浮かべて、どんなお仕置きにしようかと考え始めた。

 掛け布を飛ばす勢いで、起き上がる。
 真っ暗だった。蒸し暑い。夏の空気は重く、まとわりつくようだ。息苦しい。
 体中から汗がふきでていた。
 荒く息を継ぎ、顔を手で覆う。
 怖い。
 震える体を、どうすることもできない。
 この夢を見るのはどのくらい振りだろう。以前は、寝る度に見て、飛び起きていたのに、忘れていた。
 この夢を、忘れていられたことが、信じられない。
 彼女が、いなくなる夢。
 絶対に捕まえられない夢。
 それは夢ではなく、現実に起こったことだ。
 あの日を毎夜、繰り返し見ていた。
 いつから、見なくなったのだろう。彼女が再び、目の前に現れてからだろうか。
 喉の奥で、笑いが漏れた。
 彼女がいることを受け入れていない振りをして、彼女がいると思っている。だから、夢も見なくなり、そのことすら忘れていたのだ。
 何と都合のいい頭だろう。
 結局、自分の信じたいものを信じている。
 彼女がいると思っている。
 二度目は耐えられるだろうか。
 失うくらいなら、欲しくない。
 触れたくない。
 それなのに、愛しい気持ちが逆巻いて、体を突き破ってしまいそうになる。
 花。
 名前を呼んでも、届かない。
 ここに繋ぎとめられない。

 花。

 名前を呼んで。

 ボクを置いていかないで。

恩返しは何にする

 翼徳と花は難しい問題に直面していた。
 どちらかといったら平和的な顔つきの二人が、どちらもひどく厳しい顔をしている。
「どうしよう?」
 翼徳がすがるように情けない目を、花に向けた。
 花は、うーんと唸る。妙案は浮かばなかった。
 二人の前には、真っ黒こげのチキン。今もなお、ぷしゅーぷしゅーと不穏に燻っている音がしている。
 チキンは大惨劇だったが、窯が吹っ飛ばなかっただけ良かったのかもしれない。
 厨房を借りて、料理を始めたまでは良かった。慣れないことだったが、翼徳と花はとても楽しく料理ができた。しかし、最後の最後で、窯の調整を間違ってしまったのだ。
「失礼、水をいただき……うっ……な、なんですか、これは」
 間が悪く厨房に入ってきた子龍が、卓の上の物体を見て絶句する。
「子龍さん」
「子龍」
 迷える二人は、助っ人の登場、とばかりに目をキラキラさせて子龍を見た。
 そんな目をされても困る、と子龍は腰を引く。
「あの、ちょっと、間違えてしまったみたいで……」
「ちょっと……?」
 子龍は、花の言葉尻をとらえて、眉を上げた。
 ちょっと、というレベルの焦げではない。元が何なのか分からないほど見事に炭化していた。
「料理なら、芙蓉姫や雲長殿にお任せした方がいいのではないでしょうか」
「それじゃ駄目なんだ」
「駄目なんです」
 ねー、と二人は顔を見合った。
 子龍はイラッとしながらも訳を問う。
「どうしてですか?」
「いつも二人に作ってもらってるから、今日はお返しを作ってるんだ」
 翼徳は嬉しそうに言った。その隣で花もうんうんと頷いている。
 子龍は大いに納得した。とても翼徳と花らしい考えだ。きっと、雲長と芙蓉に内緒で作って、驚かせようとしていたのだろう。
 一瞬前に感じたイライラは立ち消えて、子龍も温かい気持ちになる。
「それなら、料理をしなくても、果物をとっていらしたらどうですか?」
「そうしたら、雲長兄いがお菓子作っちゃうだろ」
「なるほど」
 翼徳の得意分野で、と思ったが、確かに翼徳の言うとおりだ。
 子龍は、唸る。
 とりあえずは、この惨憺たる品物を、雲長たちに贈ることはできないから、他のことを考えなければならないだろう。
 もう一度料理をしたら上手くいくだろうか。
「なにしてるの?」
 そこに、ひょいっと孔明が顔を覗かせた。
「師匠!」
 花が嬉しそうに顔を綻ばせる。
「孔明殿……」
「雲長兄いと芙蓉のために料理作ってたんだ!」
「料理?」
 翼徳の言葉に、孔明が不思議そうに視線をさまわよせた。
 目の前にある炭化した物体が、チキンの成れの果てとは、さすがに孔明でもすぐには気づけないようだ。
「いつも二人にうまいもん作ってもらってるからさ、お返ししようと思って」
 孔明の様子には気づかず、ねー、と翼徳が花に同意を求め、花も、翼徳に同じように返した。
 子龍がイラっとした光景だ。心配になって孔明を見ると、その頬が心なしか引き攣っているようにも見えた。
「でも、失敗しちゃったんです」
 花は、真っ黒焦げのチキンを見てため息をついた。
 すると、孔明が、いつもの食えない笑顔を取り戻して言う。
「ああ、それならいい方法があるよ」
「本当ですか!?」
「さすが孔明!」
 孔明の言葉に、花と翼徳は顔を輝かせた。
「うん。教えてあげるから、花、こっちにおいで」
「はい!」
 おいでおいで、と孔明は手招きしながら厨房を出て行く。それを追って、花も厨房から出て行った。
 翼徳はそれを笑顔で見送る。孔明ならきっと素晴らしい案を授けてくれるに違いない、と翼徳は信じきっていた。
 しかし、待てど暮らせど、孔明はおろか花も姿を見せない。
 子龍は、大いに嫌な予感がした。
「あれ……?」
 三分ほど経って、ようやく翼徳が首を傾げる。
「行ってしまったようですね」
 花は絶対に戻ってこないだろう。
「ええ!!」
 驚き目を剥く翼徳のかたわらで、片づけは自分がやるのだろうな、と子龍はため息をついた。

雨の日

 最近、雨が続いている。梅雨というわけではないらしいが、そのしとしととした降り方は、元の世界の六月を思い出させた。
 花は、ぼんやりと窓から外を眺めながら、元の世界を想う。
 みんな、元気だろうか。
「雨は嫌い?」
 突然声をかけられて、花は肩を震わせた。
「師匠……」
 いつのまに戻ってきていたのか、孔明が戸口に立っていた。
 玄徳に呼ばれて出て行ったのは、ついさっきだったように思う。それとも、雨を眺めている間に、時間が経ってしまっているのだろうか。
 花は、書簡を片づけようとして、胸に抱いたままだ。
 孔明はいつからいたのだろう。
「声をかけても気づかないくらい真剣だったけど、何を考えていたの?」
 問われて、花は返事に困る。
 元の世界のこと、と本当のことを言ったら、孔明を傷つけてしまうように思えた。だからといって、嘘を吐くのも違う。
 結局答えられず、花は黙った。
 沈黙が答え、とも言える。孔明には分かってしまうだろう。
 しかし、孔明も、花の口から聞く気は元々なかったのか、それ以上追求してこなかった。
「ボクはね、雨の日、好きなんだ」
 そう言いながら、部屋の中に入ってくる。
「そうなんですか?」
 それは意外だった。孔明は、雨など面倒臭いと嫌がると思った。
「うん。だって、君は晴れの日が似合うから」
 花の目の前に来て、孔明は笑う。
 孔明の真意が掴めず、花は眉を寄せた。
「……どういうことですか?」
 晴れの日が似合うと言う口で、雨が好きと言うのは、つまりは花が好きではない、ということだろうか。
 まったく分からない。
「君が突然ボクの前に現れた日も、突然ボクの前からいなくなった日も、とてもよく晴れていたんだ」
 そんな花に、珍しく孔明が説明をしてくれた。
「君が消えてしまう日は、きっと晴れの日だ」
 花は、ますます眉を寄せて、孔明を見つめる。
「だから、雨の日は安心できる」
 どうしてこれほど穏やかな目で、そんな悲しいことを言うのだろう。
 どんなに言葉を尽くしても、孔明の不安を取り除くことはできないのだろうか。
 花は、泣きたいような切ない気持ちになって、孔明を抱きしめた。
「師匠……私、どこにも行きません。ずっと、師匠のそばにいます」
「うん、そうだね」
 花を抱き寄せて、孔明も頷く。
 雨はしとしとと降っていた。

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