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2016年04月

走って、走って

 息が上がる。
 足がもつれそうだ。
 でも、走って。
 足よ動け。
 走らないと追いつけない。
 どんなに走っても追いつかない。
 それでも。
「つかまえ、た!」
 突然後ろから二の腕を強く引かれて、花はバランスを崩しかけた。
 その体を支えてくれたのは、引っ張った当の本人、孔明だった。
「師匠? どうしたんですか?」
 花は驚いて、問う。
 孔明の額には汗が浮かび、息は切れていた。
 あまりにも珍しい光景だ。
「うん。君に会いたくて」
 孔明はにっこりと笑って、花の腕を離した。
 花は書簡を抱え直して、孔明に向き直る。
「今、師匠の部屋に行くところでしたよ?」
「うん、そうだね」
 孔明は頷いた。
 花はその静かな様子を見つめ、考える。
 孔明が走ってきたのは、部屋とは逆方向だ。花が部屋に行っても、孔明は不在だっただろう。
「師匠が会いたいと思ってくれるなら、いつでも会えますよ」
 花は言う。
「私はいつでも師匠に会いたいですから」
 追いついたのだろうか。
 捕まえられたのだろうか。
「うん」
 孔明は花の手を握り締めて頷いた。

こたつでみかん

 花の手の中には、みかんのような大きさの柑橘系の果物があった。
 名前は聞いたが忘れてしまった。「みかん」でないことは確かだ。しかし、もらったときにひとつ食べて、味もみかんとそっくりだったので、もうみかんと呼ぶことにしようと思っている。
 自室に戻った花は、ひとつ食べようとして、手を止めた。
 みかんといえばこたつと思うのは、単純すぎるだろうか。この世界にこたつはないが、思い出すとあの温もりが恋しくなった。
 花は、きょろきょろと部屋の中を見回した。
 こたつの雰囲気を味わえるかもしれない。
 寝台から掛け布を持ってきて、脚の低い机にかける。天板はなくてもいいだろう。中を暖めたいところだが、部屋の中で代用できそうなものは火鉢くらいだった。それを中に入れたら危険すぎるので我慢する。
 花は即席こたつの中に入ってみた。
 すーすーしているが、こたつ気分を味わえなくもない。
「花? ボクだけど、今いい?」
 そのとき、戸の向こうから孔明の声がかかった。
「はい。どうぞ」
 花はこたつに入ったまま返事をする。
 戸を開けて入ってこようとした孔明は、室内の様子に眉を顰めた。
「何してるの?」
「あ、こたつでみかんを……」
「コタツでミカン?」
 首を傾げる孔明に、花は素早く説明した。
「なるほど。コタツでミカンなわけだ」
「はい」
 孔明は、擬似こたつと「みかん」を指差して納得したように頷いた。
「じゃあ、ボクも」
「えっ?」
 孔明はするりと花の隣に座って、こたつに足を入れる。
「これはなかなかいいね」
「師匠、狭いです」
 満足そうな孔明に、花は唇を尖らせた。
 こたつマナーがなっていない上、あまり大きくない机のため、二人で並んで座るのはとても窮屈だった。
「ひとつの辺に一人が入るんです。あっちに行ってください」
 花は自分の向かい側を指し示した。
「いいじゃない。くっついてた方があったかい」
 孔明は意に介さず、花に擦り寄って、みかんに手を伸ばす。
 これ以上は言っても仕方ないらしい。
 それに確かに孔明の言うとおり、暖める機能のない擬似こたつでは、くっついていたほうが暖かい。
 触れる肩に少しどきどきするのは、気のせいだろう。
「師匠、あの……」
 少し離れてくださいと言おうとした花の口に、孔明がみかんを放り込む。
「おいしいね」
 孔明も一房口にした。
 まあ、いいか。
 花はそう思って、素直にみかんを咀嚼する。
「……はあ」
 すると、すぐ隣でため息をつかれた。思わせぶりなため息だ。
「どうしました?」
「なんでもなーい」
 しかし、尋ねても孔明は答えず、ごろりと寝転がって目を閉じてしまった。
 ここで昼寝をしていくらしい。
 花は気にせず、残りのみかんを食べ始めた。

海の向こう

 水面が白い太陽の光を受けて、銀色にも輝いている。空は大きく開け、どこまでも青く澄んでいた。
「海が珍しい?」
 背後から声をかけられ、花ははっと振り返る。
 孔明がすぐそばに立っていた。
 いつもなら、こんな近くに来られても気配に気づかないなんて緩みすぎだよ、などといった言葉をもらう場面ではあるが、孔明は口を閉じている。
 その顔はひどく平坦で、心の内を読ませなかった。ということは、知られたくないことを考えているのだろうと思えるくらいには、花も孔明を理解するようになっていた。
「いえ、あの、反対で……」
 花はゆるく首を振った。
 きっと孔明は心を痛めてしまうと思いながらも、本当のことを告げる。
「懐かしかったんです」
「懐かしい」
 孔明はまるでその言葉の意味を確かめるように呟いた。
「はい。私の住んでいたところは海が近かったので」
 国の懐深くにある成都では海を臨めない。
 長江や黄河は海のように見えるが、やはり本物の海を見ると、あれらは河で、海とは違うと思った。
 豊かに水を湛え、どこまで広く遥かな海。
 あの向こうにはーー。
「この海の向こうに、君の世界があるのかな」
 孔明が花の隣に立って、眩しそうに海を見つめた。
 照り返しがきつい。
「…………どうでしょうか」
 花は曖昧に答える。
 海を渡ったら、たどり着くのだろうか。たどり着きたいだろうか。
 でも、行けない気がする。諦めではなく、そう思う。きっと、どこにもたどり着けない。ここに戻ってくるだろう。
「私の世界だったら、この先に、私の国があるんですけど」
 花は思ったことは心にしまい、そう言った。
「そう」
 孔明は短く頷く。
 何か言葉が続きそうだったので、花は孔明をしばし見つめた。
 しかし、孔明はただ海を見つめて口を閉ざしたままだった。
「はい」
 花は頷いて、海へと視線を転じた。
 湿り気を帯びた風が頬を撫でて舞い上がる。海鳥の声が遠くに聞こえた。

5秒前

「孔明さん、あの……」
「しー」
 躊躇って呼びかける花の唇に、孔明は指を押しつけた。
 反射的に花は口を閉ざしてしまう。
 しかし、孔明の手が止まって、少し、ほっとした。
 だが、それも束の間で、再び孔明の手は、制服のリボンにかかった。
 しゅるりと音を立ててリボンが解かれる。
「こ、孔明さん」
 他人にリボンを解かれることなど初めてで、どこか心もとなく、大いに恥ずかしくて、涙がじんわりと滲んだ。
「うん?」
 孔明は優しく問い返しながら、花の目じりに口づける。
 その普段とはまた違った気遣うような行為に、まるで恋人のようだと思って、恋人なのだと思い直した。
 少し、混乱しているらしい。
 これからしようとしていることは分かっている。
 いい? という問いに頷いたのは自分だ。
 それでも、躊躇いがあった。
「あ、の……」
「うん」
 孔明は頷きながら、花に口づける。少し触れて離れ、また触れる。それを何度も繰り返す。
 これでは話せない。話をさせるつもりはないのだろう。言葉はきっと、花の気持ちを裏切ってしまう。
 孔明は、その言葉を予想して、聞くまいとしているのかもしれない。
「っ」
 口づけが深くなったと思ったら、孔明が足に触れてきた。
 むき出しの足に、孔明の手が這う。
 体は強張り、どきどきと鼓動が早まった。
 手は、スカートの裾から忍び込んでくる。ゆっくりとやんわりと腿を撫でられて、花は思わずぎゅっと足を閉じた。
 すると、孔明はそれ以上手を進めずに、唇を離す。
「し……」
 緊張のために、息はすでに上がっていた。けれど、花は言葉をつごうと口を開く。
 しかし、花が何かを言う前に、孔明は花をぎゅっと強く抱きしめて、その胸に顔を押しつけた。
 ふくらみが押しつぶされ、ブラウス一枚隔てて、孔明の唇の感触を感じる。
 花は恥ずかしくて逃げ出したくなったが、孔明の拘束は強く、身じろぐことすらできなかった。
「今日は駄目だよ」
 孔明はそのままの体勢で、そう囁く。
「今日、君にうんって言われたら、するって決めてたんだ」
 孔明の声は揺るぎがない。花の不安やためらいは全て、分かっているのだろう。そのうえで、花を抱きしめている。
 孔明の決意に触れて、花の心は落ち着いた。
 嫌なわけではないのだ。むしろ、望んでいる。まだ、そういった欲についてはよく分かっていないが、孔明との関係が深まるのなら、したいと思った。
 それに、孔明に触れられるのは好きだ。
「……いいん、です」
 花は孔明の背に手を回す。そして、躊躇いながらも手に力を込めた。
「…………して、ください。……嫌だって言うかもしれないですけど、あの、嫌じゃ、ないですから……」
 何と言ったら良いか分からず、結局はストレートな言い方になってしまう。顔に熱が集まるのを感じた。きっと茹でたこのように真っ赤になっていることだろう。
 孔明の喉がごくりと鳴る。
 体を密着させているから、それはダイレクトに伝わってきた。
「……うん」
 わずかに掠れた声で頷き、孔明は首を伸ばして、花に口づけた。
 シーツに体が沈みこむ。
 孔明の手が胸に触れる。
 いよいよだ。
 花はぎゅっと目を瞑った。

抱擁

 気づけば、部屋に差し込む日差しはずいぶんと傾き、寝転がっている場所からずれていた。その陽も、暖かな陽だまりというより西日だ。寝過ごしてしまったらしい。
 体を起こそうとして、花の腕がしっかりと体に巻きついていることに気づいた。
 昼寝を始めたときは花の膝を借りていたのだが、孔明が寝入ったところで、花も昼寝に参加したのだろう。
 胸ではなく、背中に寄り添うあたりが花らしい。
 しかし、花の腕は孔明の体の下敷きになってしまっている。うまく腰の辺りから回しているが、しびれてしまうだろう。
 このままの体勢はよくないと孔明は体を起こそうとしたが、思いがけず花の力は強かった。
 しっかりと抱きしめられている。
 花の腕は細く、背中に寄り添う体は小さいのに、ひどく安心した。まるで子供の頃に戻ったかのような気分だった。
 くすぐったいような、照れくさいような、それでも安らいだ不思議な気持ちを味わって、胸の内にじんわりとあたたかいものが広がる。
 花の温もりが愛しかった。
 できることならずっと花を抱きしめていたいと思うが、抱きしめられるのもいいものだ。
 孔明はそっと目を閉じた。
 このままもう一度寝てしまおう。見る夢はきっと温かいものになるだろう。
 孔明がそう思ったとき、花が小さく声を漏らした。孔明の身じろぎを感じて、花も眠りから覚めたようだった。
 仕方ない。孔明は苦笑気味に嘆息する。時間切れだ。
「花? 離して?」
 孔明は、ぽんぽんと花の手を軽く叩きながら呼びかける。
 だが、花の返事は予想外のものだった。
「…………いやです」
 はっきりとした拒否、しかも寝起きだというのに、意外にもしっかりとした声だ。
「……離したら、師匠、どこかへ行っちゃうじゃないですか」 
 続いて、珍しく甘えるような声音で言う。口にしていいのか迷っているための、無意識のものだろう。
 孔明は不覚にもどきどきしてしまった。
「だから、嫌です」
 花はまた、きっぱりと言う。 
 その正気の花からは聞けないような言葉たちに、花はまだ夢の中にいるのかもしれないと孔明は思った。
 しかし、寝ぼけていたとしても、滅多にない花のわがままに、頬が緩んでしまう。
 花の望みは自分が叶える。道は自分が与える。孔明は溢れてしまいそうな想いをどうにか抑えこみ、わざとらしくため息をついた。
 すると、花の体が強張る。
 好きだと言い、好きだと返して、想いを重ねているのに、花は孔明の些細な言動に敏感だ。今も、呆れられたのではないかと不安になったのだろう。
「じゃあ、こうしようか」
 もう一度、花の手を外そうと試みると、今度は簡単に解けた。ふにゃりと花の腕は主体性なく曲がる。
 しかし、その顔を覗くと、予想に反して、花ははっきりと目覚めていた。言葉にしてしまったことに恥じらい、目を合わせない。今にも泣き出しそうだ。だが、後悔のない顔をしていた。
 花が起きていたことに驚く一方で、喜びが湧いてくる。
 そばにいてほしいと乞わなければならないのは自分の方だ。それなのに、花が言ってくれる。捕まえていてくれる。
 望みを叶えてくれる。
 孔明は、花と向かいあわせになるように体の向きを変え、その体を抱き寄せた。そして、そのまま花の唇に軽く触れて、離れる。
「うん。こっちの方がいい」
 孔明はそっと囁くと、もう一度、目を丸くして固まっている花の唇を奪った。
 今度はゆっくりと時間をかけて、柔らかな唇を味わって離れる。
「ね?」
「…………はい」
 孔明が問うと、花は幸せそうに笑って、目を閉じた。

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