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2016年04月05日

今はどの空の下

 

 それは寝耳に水の話だった。
「師匠、もう一回」
 花は自分の耳が信じられずに聞き返す。
「ん? だから、辞めてきた」
 孔明は、さきほどと同じ、どこまでも軽く告げた。まるで、挨拶をするような気軽さだ。
 何をという言葉が抜けているが、言われずとも分かる。
 玄徳の下を辞したという話だ。
 花は目の前が真っ暗になった。
「もうさ、だいぶ落ち着いたし、整ってきたし、人も集まった。いい頃合だと思うんだよね」
 そんな花をよそに、孔明はすらすらと話を続ける。
「ほら、ボクってもともと仕官とか向いてないように思わない? 結構無理してたというか……そろそろ本当の自分らしく生きたいというか。旅にでも出ようかなってーー」
「ま、待ってください!」
 花は自分でも驚くほど大きな声で、孔明を制した。
「う、うん」
 孔明も驚いて言葉を止める。
「どういうことですか? どうするんですか? どうして……どうして勝手に決めるんですか!」
 突然の話に、頭の中はぐちゃぐちゃだった。出てくる言葉も混乱している。
 言いたいことはそれではない。
 それではなくて。
 花は、孔明の袖を掴んだ。
「わ、私も一緒に行って、いいですか?」
 我がままだろうか。
 孔明はきっと言葉よりも多くのことを考えて、玄徳のもとを去ろうとしている。
 花にはその全ては分からない。ただ孔明と一緒にいたいと思う。孔明の隣で、孔明と一緒に世界を見ていたい。
 それだけの理由で、玄徳や国を放り出して、いいのだろうか。
 そんな思いが湧いて苦しい。
 孔明は、袖を掴む花の手をそっと外した。
「師匠……!」
 拒絶されたかと落胆しかけた瞬間、孔明が花の手を握り締めてきた。
「うん。もちろん。そのつもりだよ。君の分も一緒に暇乞いしてきた」
 孔明は悪戯っぽく笑う。
 花は目を見開き、そして堪らず孔明に抱きついた。
「師匠は勝手です!」
「あれ、迷惑だった?」
 孔明はまだからかってくる。
 花は、安心して涙が滲んだ目で、孔明を睨んだ。
「意地悪です」
「うん、そうだね」
 孔明はくすくす笑っている。
「でも……大好きです」
 花は、もう一度ぎゅっと公明に抱きついた。
 孔明は虚を衝かれたように、目を見開いて、それから花を強く抱きしめた。


「さ、出発しようか?」
「はい」
 片手で持てるだけの荷物を手に、もう一方の手は愛しい人の手を取って。
 そうして軽やかに、飛ぶように、世界を巡ろう。
 世界に訪れる春を追って。

Hello, New year!

 

「よいしょ、っと」
 孔明が、ひらりと花の隣に立った。さすがに手馴れた様子だ。
「師匠、さすがですね」
 花は思わず口に出してしまった。
 案の定、孔明が複雑そうな顔をする。
「それ、誉めてないでしょ」
「すみません」
 花は否定もせずに謝った。
 孔明は、何か言いたげに口を開いたが、いったん閉じて、また開いた。
「で、こんなところにみんなを集めて、何をしようって言うんだい?」
 孔明は、花の後ろにいる人たちに視線を流す。
 花の後ろには、玄徳をはじめ、顔なじみが揃っていた。そして、孔明が「こんなところ」と言う、みんなが座っているところは、屋根の上である。
 君主以下、国の主要なものたちが、雁首を並べて、屋根の上にいるのは異常な光景だ。けれど、屋根の上には、雲長もいるため、国内で、彼らを窘められる者はいなかった。
 ここに集まるよう呼びかけたのは花である。そのため、玄徳たちのほかに、晏而と季翔の姿もあった。
「はい。あの、あ……」
 説明しようとした花は、前方に目的のものを見つけて、言葉を止めてしまう。
 それを見て、孔明も振り返った。
「おや」
 東の空が赤く滲み、夜と混ざり合っている。夜明けだ。大きな太陽がわずかにその頭を出していた。
「これは……」
 玄徳も見入る。
「きれい」
 芙蓉が頬を緩めて呟いた。
「なかなか」
 雲長もまんざらでない顔で頷く。
「すっげー」
 翼徳は目を輝かせて見つめた。
「心が洗われますね」
 静かに控えていた子龍も、いつのまにか立ち上がっている。
 今や座っているものは誰もいなかった。
「きれいだなあ」
「ああ」
 晏而と季翔も徐々に姿を現す太陽から目を離さない。
「私の国では、新年の日の出を見る習慣があるんです。家族とか、仲のいい友だちとかと見にいくものなので、みなさんを誘ってしまいました」
 こちらの世界では、初日の出という習慣はないと聞いたので、断られるのを承知で声をかけたのだが、全員来てくれた。
「こんな時間に、ありがとうございます」
「いいや、こちらこそ誘ってくれてありがとう。おかげでいいものを見ることができた」
 玄徳が笑って、花の頭を撫でる。
 玄徳にお礼を言われて、花も嬉しかった。自然と笑みがこぼれてしまう。
 すると、そんな花の腕を、孔明がぐいといささか乱暴に引いた。
「来年は二人っきりで見よう?」
「し、師匠!」
 孔明に抱きこまれて、花は焦る。
「聞こえてますけど、孔明殿」
 芙蓉が頬をひきつらせて孔明をにらみつけた。
「聞こえるように言ってますから」
 それに対して、孔明は不遜に笑ってみせる。
「亮、お前なあ……」
 晏而が年長者として諌めようと一歩前に出たときだった。
「あ! みんな、見て見て!」
 翼徳が興奮したように声を上げる。
 見れば、太陽が完全にその姿を現そうとしていた。
 世界が明るくなっていく。
 新しい年の始まりだ。
 朝日が昇りきると、誰ともなく顔を見合わせた。
「今年もよろしくお願いします」

 きっと今年はいい年になる。
 ハロー、新年。

静かの海

 この世界との齟齬はない。
 太陽も月も同じだ。
 空も大地も変わりない。
 けれど、違うのだ。
 ここにいて、いいのだろうか。


 ふと、目が覚めた。
 暗い。狭い。痛い。野に近い匂いがする。
 ーー天幕の中だ。
 暗闇の中で、目をぱっちりと開く。
 そして、隣で寝る花を起こさないよう配慮しながら体を起こした。
 夜明けまでどれくらいだろう。
 星を見て確かめようと体を起こして、それが中途半端に止まった。
 目が隣のふとんに釘づけになる。
 そこはもぬけの殻だった。まるで誰もいなかったように、きれいだ。
 一瞬、現実を拒絶しかけて、なんとか踏みとどまる。
 緩く頭が動き始めた。
 確かめろ。考えろ。
 脳からの指令がやっと指先に到達して、亮はふとんの中に手を入れる。
 薄いふとんは冷たかった。
 血液が冷えた。
 おやすみと言って、薄暗い天幕のなかで笑っていたのを覚えている。
 手を握れば良かった。
 明日を容易に信じてしまうとは、なんて愚かなのだろう。
 還ってしまったのか。
 確かめろ。考えろ。
 亮は天幕を飛び出した。
 高く青く月が輝いている。満月だ。
 目は星の位置をとらえ、頭は勝手に時間を計っているが、亮はそれを無視して、花がどこにいるのかを考える。
 もし、ここにまだいるのなら、そう遠くには行っていないはずだ。
 いるだろうか。
 いてほしい。
 まだ、そのときではないはずだ。

「花!」
 天幕からそう離れていない野原で、その姿を見つけて、亮は叫んだ。
 花がゆっくりと振り返る。
「亮くん。起こしちゃった?」
 まるで、いつも通りだ。
 不安になって、焦って、息を切らしている自分が、道化のようだった。
「ごめんね、こんなところまで探しに来させちゃって」
 花は申し訳なさそうに謝る。
 このひとは、天女なのだろうか。
 ここにいて、こんなにも普通の女性(ひと)に見えるのに。
 亮は、色々な言葉を飲み込んで、努めていつも通りに振舞った。
「こんなところで何してるの? 冷えるよ?」
「うん。海を見てたの」
 うみ。
 月の間違いか。
 そんな気持ちが顔に出ていたのか、花は優しく笑って言った。
「月には海があるんだよ」
 そうして、月を振り仰ぐ。
 月は清かに輝いている。
 くらくらした。
 月の光を浴びて、花はまるで消えてしまいそうだった。
「…………あなたの帰るところの月に?」
 わずかに声が震えてしまう。
 いつか花は帰る。それを胸に刻んで過ごしているけれど、それを受け入れるのはいまだ難しい。
 ずっと、そばにいてほしかった。
「そう」
 花は曖昧に頷く。
 少し違和感を覚えて、亮は花を見つめた。
 花が想っているのは、帰るところではないのだろうか。
 救いたい、大切な人たちのいる場所以外に、花には帰る場所があるのだろうか。
 まるでそんな遠い目をしている。
 届かない。
 亮は、花の世界の外にいる。
 花が遠い。
 どうしたら届くのだろう。
 絶望的な距離を感じて、亮は俯く。
 きっと、このひとは届かない人なのだ。
 繋いではいられない。
 返さなければいけないのだ。
 動けない亮のもとに、花がやってくる。そして、何の躊躇いもなく、その手を取った。
「寒いね。戻ろう?」
 花は亮の手を握って歩き出す。
 亮は何も言えずにそれに従った。
 離すことができなくなるかもしれないから、自分からは繋げない。
 繋いだ手を見つめて、亮は泣いてしまいそうだった。
「花」
「なあに?」
「今度、教えて。あなたの世界のこと」
「……うん」


 月に海はあるのだろうか。
 どんなに目を凝らしても、ボクには見えない。

 

指輪

「君と約束するにはどうしたらいいかな」
「……指輪、ですかね」
 ぎゅっと凝縮すると、そんなような会話があって、今、花の左手の薬指には指輪がはまっている。
 シンプルなリングに、碧い石が一つついた、ささやかなものだ。
 花は、自分の薬指に指輪がはめられていることが不思議で、時間があればそれを眺めてしまう。
 結婚など、もっとずっと先のことだと思っていた。
「言葉で言ってもらえたらいいですよ」
 先般の質問に、花は初めはそう答えたのだ。
 しかし、孔明は納得していない風で、
「言葉はボクと君にしか見えないだろう? もしかしたら、君とボクの間でも、見えているものは違うかもしれない。周りにも知らしめることができて、かつ、君とボクにも見える方法がいいんだ。君はボクの奥さんなんだって分かるのがいい」
 と言った。
 だから、花は結婚指輪のことを思い出して、それを教えたのだ。
 そして、孔明がこの指輪をくれた。
 花が指輪を不思議に思うのは、実感がわかないからだろう。今まで指輪を欲しいと思ったことはないし、こういう意味で指輪を贈られるなど夢にも思っていなかった。
 だから、不思議で、見てしまう。
 ただ、指輪を見ていると、とても幸せな気持ちになった。
 慣れない重みは、そこにある約束を知らせてくれる。
 花は、そっと薬指をおさえた。知らず、頬が緩む。
 そのとき、廊下の先に、同じ指輪を同じ指にはめている人を見つけた。
 まだ見慣れない違和感のある様だ。
 花が一人で指輪をつけていたところで、その習慣のないこの世界ではあまり意味がないし、それに指輪の交換なんでしょう、と花につけさせたのだ。
 孔明に指輪はあまり似合わない。その異様さに、その話は瞬く間に城内に伝わって、同じ指輪をつけている花のことももちろん広まった。
 そのときは、たくさんの人に注目され、質問されて、とても恥ずかしかったが、一通り話が伝わると、周りも静かになった。もちろん、城内で知らない者はいない。孔明の目論見は達成されたのだ。
「師匠!」
 花は走っていって、後ろからその腕を取る。 
「おっと……君か」
 孔明は読んでいた書物をおろして、表情を緩めた。
「今、終わりですか?」
「うん」
「一緒に行ってもいいですか?」
「うん、もちろん」
 頷く孔明の薬指には、石のついた指輪。
 花はそれをちらと見て、小さく笑った。

走って、走って

 息が上がる。
 足がもつれそうだ。
 でも、走って。
 足よ動け。
 走らないと追いつけない。
 どんなに走っても追いつかない。
 それでも。
「つかまえ、た!」
 突然後ろから二の腕を強く引かれて、花はバランスを崩しかけた。
 その体を支えてくれたのは、引っ張った当の本人、孔明だった。
「師匠? どうしたんですか?」
 花は驚いて、問う。
 孔明の額には汗が浮かび、息は切れていた。
 あまりにも珍しい光景だ。
「うん。君に会いたくて」
 孔明はにっこりと笑って、花の腕を離した。
 花は書簡を抱え直して、孔明に向き直る。
「今、師匠の部屋に行くところでしたよ?」
「うん、そうだね」
 孔明は頷いた。
 花はその静かな様子を見つめ、考える。
 孔明が走ってきたのは、部屋とは逆方向だ。花が部屋に行っても、孔明は不在だっただろう。
「師匠が会いたいと思ってくれるなら、いつでも会えますよ」
 花は言う。
「私はいつでも師匠に会いたいですから」
 追いついたのだろうか。
 捕まえられたのだろうか。
「うん」
 孔明は花の手を握り締めて頷いた。

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