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2016年04月

誕生日ばなし(藤芽)

 そっと生垣の奥の家の様子を窺うと、しんと静まり返っていた。さきほど、玄関でも呼びかけてみたのだが、応答はなかった。居留守を使われているのかとも思ったが、本当に留守のようだ。
 芽衣は、きょろきょろと周りを見回してから、えいっと生垣を飛び越える。不法侵入だが、きっと大丈夫だろう。芽衣は、最近八雲みたいになっているなと思いながら、そっと縁側から上がり込んだ。
 家の中には、やはり人気はない。藤田は外出中のようだ。
(誕生日なのに、どこに行ってるのかな)
 帝國ホテルにいる警察官に、藤田が今日は非番だと聞いたので来たのだが、空振りだ。
(もしかして……誰かにお祝いしてもらっているのかな)
 がらんとした家は寂しくて、そんな心配が湧いてくる。心に不安が広がった。それならば、これはいらないものだ。芽衣は持ってきた食材や料理、お酒を見下ろす。藤田の誕生日をお祝いしたくて、買い集めた品だった。
(……これが無駄になるのは、もったいないな)
 本当は、藤田をお祝いできないかもしれないことが嫌なのに、芽衣はわざとそう思って、自分の心を誤魔化した。
(……ちょっと買い物に行ってるだけかもしれない……)
 芽衣は不安を振り切るように、勢いよく荷物を抱え上げる。とにかく準備をしてしまおうと、台所に向かった。何度か出入りしている間に、使い勝手がわかり出した、勝手知ったる他人の台所だ。芽衣はその台所に入ると、自分の家のように買ってきたものを調理台の上に並べた。温めるだけでいいものから、調理をしないといけないものまでさまざまある。せっかくだから、テーブルいっぱいに料理を並べて、たくさんお祝いしたいと思ったのだ。
「よし」
 芽衣は、さっそく準備にとりかかった。
 そうして、料理に専念すること三十分。現代よりも作業が大変なこともあって、芽衣は、すっかり、心配と留守宅にあがりこんだことを忘れて、料理に集中していた。
「おい、何をしている」
 そのため、突然、背中にかけられた低い声に、芽衣は、とび上がって驚いた。しかし、すぐに状況を思い出す。完全なる不法侵入だ。そのうえ、勝手に台所を使っている。これは何という罪なのだろう。ここまで堂々とやらかしておきながら、芽衣はどうにか逃れる術はないかと焦る頭を働かせた。
「おい。聞いているのか?」
 藤田の重ねての声に、汗がどっと湧き出る。
 これはもう観念して、お縄につくしかないのかもしれない。
「おい!」
 藤田の大きな声とともに、芽衣の体がふわりと浮かぶ。
 強制排除しようと思ったのか、藤田が背後から芽衣の腰を掴んで持ち上げていた。
(うわっ……!)
 そんな方法で軽々と持ち上げられてしまって、芽衣は驚いた。
 足がぶらぶらしている。この年齢になってから、こんな風に持ち上げられたことはない。まるで子どもだ。
 と、そのとき、芽衣は、台所の入り口に置かれた荷物に気がついた。紫の風呂敷に包まれた、なんだか頭を下げたくなるような、立派な佇まいのものだった。
(誰かにもらったプレゼント……?)
 そう思いついて、ちくりと胸が痛む。
 あんなに立派なものに込められた想いは、それ相応のものに思った。いったいどんな人にもらったのだろう。
(……女の人だったら、嫌だな……)
 勝手に相手を想像して落ち込み、芽衣は俯く。
 あの贈り物は、大人な藤田にぴったりのように思えた。留守宅に押しかけて、勝手にお祝いの準備を始めるような芽衣とは振る舞いが違う。芽衣はまるで子どもだ。ぶらつく足に、ますますその思いが強くなる。実際、藤田から見たら、子ども以外の何物でもないだろう。
「……ごめんなさい。帰ります」
 どんどんマイナス思考に傾く間に、涙がこぼれてきそうになって、芽衣は慌てて言った。これで泣いたりしたら、藤田にさらに迷惑をかけることになる。
「は?」
 藤田は面食らったように、きょとんとした。藤田の驚きは当然だ。勝手に家に上がりこんで、我が物顔で台所を使った挙げ句、全てを放り出して、帰ると言うのだ。いったい何なんだ、という気にもなるだろう。
「あの、ですので、おろしてくれませんか?」
 身勝手なことはわかっている。ありえないくらいに図々しい。けれど、今の芽衣の頭の中は、一刻も早く、この場から立ち去りたいということでいっぱいだった。
「はあ」
 藤田は、大きくため息をついた。
「訳が分からん」
 呟かれた言葉が、ぐさりと胸に刺さる。わけがわからないことをしている自覚はあるが、藤田に呆れた声で言われるのは堪えた。
「だから、藤田さん……っ!」
 芽衣は、もう一度おろしてほしいと訴えようとしたが、先に藤田が動いて、芽衣を抱え直し、子どもにするように、自分の腕に芽衣を座らせた。
「ふ、藤田さん!」
 自分の希望と真逆のことをされて、芽衣は慌て、抗議する。
「お前は、用があって来たのではないのか?」
 藤田はその声を聞き流し、散らかっている台所を一瞥した。
「もう、いいんです」
 芽衣はぷいと顔を背けた。どうして意地を張ってしまうのだろう。ここで、そうだと頷き、誕生日のお祝いをしたいのだと言えば、藤田も嫌がらないとわかっているのに、できない。拗ねた気持ちを抑えられない。
 自分がどこまでも子どもなことが腹立たしくなってきた。芽衣は八つ当たり気味に、紫の風呂敷包みを睨む。
「ん? あれか? あれは……」
 藤田は、芽衣の不満気な視線に気づいたが、言い淀んで目を伏せてしまった。その様子に、芽衣の中の疑惑が深まり、胸が痛くなる。やましいものなのかもしれない。そう思ったら、ここにいるのが嫌になった。きっと芽衣が祝わなくてもいいのだ。
「は、放してください! 私、帰ります! 帰るんです!」
 芽衣は、藤田の腕から逃れようとじたばたと暴れる。
「っ」
「きゃっ」
 不意をつかれた藤田は、よろめいて、その場に尻餅をついた。ともすれば、芽衣は放り出されてもおかしくないような体勢だったのに、藤田は芽衣を抱きしめて、衝撃を一手に引き受けてくれた。
 ただ、結果として、藤田に覆いかぶさるような形になってしまい、芽衣は慌てて離れようとする。しかし、藤田はそんな芽衣を抱きしめてはなさなかった。
「……………………帰ると言うな」
「え……?」
 低く囁かれて、芽衣は思わず聞き返した。
「お前が帰るべき場所は、この家だ。結婚前に住まいを一緒にするのは認められないなどと、お前の保護者気取りの男が言う上に、お前がそれを尊重したいと言うから、帝國ホテルに戻ることを見逃しているが、お前の家はここだ。間違えるな」
 藤田は厳しく芽衣に注意する。そして、忌々しそうに続けた。
「あんな男と、扉一つしか隔てていない部屋で暮らすなど、今すぐやめさせたいのだけどな……」
「藤田さん……」
 あの藤田がやきもちをやいてくれている。厳しい口調にも愛情を感じて、芽衣の沈んでいた心は、嬉しさにふわりと舞い上がった。
「わ、私……ホテルには戻りません……。藤田さんが許してくれるなら」
 芽衣は、そっと藤田の胸に身を寄せた。本当は、いつだって帰りたくない。藤田といつまでも一緒にいたい。いつもは、藤田を困らせてしまうと思って言えない言葉が、するりと出てきた。
「っ――」
 藤田が驚いたように目を見張る。
「私、藤田さんのお誕生日をお祝いしたくて来たんです。すみません、勝手にあがりこんで。でも、あの、今日はずっと一緒にいさせてくれませんか? 藤田さんと一緒にいたいんです」
 芽衣は、重ねて頼み込んだ。大切な人の特別な日を、一緒に過ごしたい。そんな想いを込めて藤田を見つめる。すると、藤田は、息を吐き、芽衣を抱き寄せた。
「それは、俺がお前に頼むことだ。俺の、望みだからな。……さっき……出かけるとき、その間に、お前が来るかもしれないなどと思って、俺は庭の窓を開けておいたんだ。……馬鹿な真似をしていると思いながら」
 藤田がためらいがちに告げたことに、今度は芽衣が目を見開いた。
「ば、馬鹿な真似じゃありません。私、来ましたし! それに、藤田さんがそうやって思ってくれて嬉しいです!」
 誕生日に芽衣がやって来ることを期待してくれていたなんて、嬉しすぎる。はしゃぐような気持ちで、芽衣は藤田に伝えた。
「……あの、藤田さん、あれは何なんですか?」
 その勢いで、芽衣は例の風呂敷包みについて聞いてみる。まだ、あれが女の人からのプレゼントの可能性は残っているが、今ならそう聞いても、少しショックを受けるくらいで済むと思ったのだ。
「ああ。あれか。あれは……梅干しだ」
「梅干し?」
 今度は藤田も答えてくれた。好きな相手に贈るには、意外と渋い中身だ。
「誕生日などめでたくもないが……だが、まあ、何にせよ、節目の日だ。こういったものを買うのも悪くないだろう」
 分かりづらい言い方だが、どうやら自分へのプレゼントらしい。
「紀州の名品だ」
「そ、そうでしたか」
 少し自慢げな藤田に頷きながら、芽衣は力が抜ける思いだった。勝手に女の人からのプレゼントだと思って、子どもっぽい自分と比べて、落ち込んで、騒いでしまったことが恥ずかしい。藤田にも申し訳なかった。
「しかし、お前は、どうしてあれがそんなに気になる?」
「えっ……と……」
 逆に藤田に問われ、芽衣は気まずくて口ごもる。
「おい?」
「…………誰かからもらったのかなと思って。……きれいな包みだったので、女の人じゃないかって……思ってしまって」
 藤田に覗き込まれて、芽衣は自分だけ言わないのはよくないと思い、正直に白状した。
「妬いたのか」
 藤田はからかうように聞いてくる。
「はい」
 その通りだったので、芽衣は素直に頷いた。すると、藤田の方が顔を赤らめてしまう。
「そ、そうか」
 藤田にそんな反応をされると、芽衣も恥ずかしくなった。同じように顔を赤くして、目を伏せる。
「そ、そういえば、料理が途中だったな」
 気恥ずかしい雰囲気が漂って居たたまれなくなったのか、藤田が慌てたように立ち上がろうとした。
「藤田さん」
 けれど、芽衣はまだもう少し離れてほしくなくて、とっさに藤田の腕を引く。
「なんだ?」
 振り返った藤田の唇に、そっと触れる。藤田が固まった。
「…………プ、プレゼントです」
 芽衣は顔を真っ赤にして、藤田から離れる。
「さ、さあ、料理の続きをしましょう?」
 そして、藤田を残して立ち上がろうとするが、ぐいと腕を引かれて、再び藤田の胸の中に抱きこまれてしまった。
「ふ、藤田さん!」
 自分のしでかしたことに、心臓がばくばく言っているのに、藤田に抱きしめられて、芽衣の心臓は口から飛び出してしまいそうだった。
「おとなしくしろ」
 離れようとする芽衣をぎゅっと抱きしめて、藤田は芽衣の顔を引き寄せる。
 息が、唇にかかる。芽衣はそっと目を閉じた。


おわり

誕生日ばなし(鴎芽)

 夕餉の後、やりたいことがあったのに、鴎外についてまわられている。この状況をどう打破したものか、芽衣は頭を悩ませていた。
「子リスちゃん。これはここでいいのかい?」
 鴎外は嬉々として、皿を掲げてみせた。
「あ、はい、そこで」
 芽衣が頷くと、鴎外は颯爽と皿を棚の中にしまう。鴎外の動作はいつも華麗だ。――あまり台所には似合わない。
「……あの、鴎外さん。何度も言うようですけど、片づけはやりますので、のんびりしていてください」
 芽衣は、もう何度目かになる、オブラートに包みこんだ退室勧告を行った。皿の片づけを手伝ってくれるのは嬉しいが、どうも勝手が違って落ち着かない。それに、今日は鴎外に見つからないようにやりたいことがあったのだ。今日に限って手伝いをする鴎外は、まるでそんな芽衣の事情を知ってからかっているかのようだ。
「今日は、お前を手伝うと決めたのだ」
 芽衣の願いは届かず、鴎外はぴしっと言い切った。
 鴎外は頑固というか、言い出したらきかないところがある。こう言うのならば、今日はずっと手伝ってくれるのだろう。
(今日じゃないと駄目なんだけどな……)
 芽衣はちらりと時計を見た。今日は鴎外が帰ってくるのが遅かった上に、芽衣が鴎外に諦めてもらおうと、ずるずると片づけを引き延ばしたせいで、時間はだいぶ遅い。芽衣が予定していた通りには、何もできそうになかった。
「ふたりで協力して家事をするのは夫婦のようではないか! 我々にはふさわしいだろう? これからの生活の予行練習だよ。何事も練習は大切だ」
 鴎外は、腕を広げて大演説をしている。完全に楽しんでいた。もう本当に芽衣に望みはない。
(…………うう)
 せっかく、明日の鴎外の誕生日のために、準備をしようと思っていたのに残念だ。芽衣はこっそりため息をつく。しかし、こっそりと思っていたのは芽衣だけで、鴎外はそれを見咎めていた。
「……まさかとは思うが、僕のことを邪魔だと思っているのではないだろうね」
「えっ、そ、そんなことないですよ」
 突然、すっと目を細めて見据えられ、芽衣は慌てて首を横に振る。
 邪魔とまでは思っていない。鴎外と一緒にいられるのは嬉しいし、手伝ってくれようという気持ちもとても嬉しい。しかし、今日は都合が悪かったのだ。
(…………いや、ちょっと……思ってたかな……)
 芽衣は自分の心を見つめて、それでも、今はいないでほしいと思っていた気持ちがあったと少し思い直す。
 鴎外の誕生日のお祝いの準備をしたかった。明日、フミさんが腕によりをかけた料理を作るはずだから、その邪魔にならないように、今夜やってしまおうと思ったのだ。このままでいくと、明日、フミさんの手伝いをするだけになってしまう。せっかく、本当の婚約者になってはじめての鴎外の誕生日だというのに、本当に残念だ。
 芽衣は、もう一度ため息をついた。
 鴎外は、ひとり考え込む芽衣をじっと見ていたが、二度目のため息を見ると、皿を置いて、芽衣に近寄った。
「きゃっ」
 音もなく突然、鴎外に抱え上げられて、芽衣は悲鳴を上げた。いわゆるお姫様抱っこ状態である。細身に見えて、軽々と抱き上げてしまう鴎外にも驚いたし、突然抱え上げられたことにも驚いた。
「お、鴎外さん、どうしたんですか?」
「お前が悪い子だから、お仕置きが必要と思ってね」
「お、お仕置き!?」
 鴎外はどことなく機嫌が悪そうで、その様子と、とんでもない言葉とに、芽衣は慄いた。鴎外がお仕置きと言ったら、本当にお仕置きをしそうだ。しかし、芽衣には、そんなことをされる理由が思い当たらなかった。
「ど、どうしてですか? 放してください!」
「駄目だ」
 不当なお仕置きは御免だと、芽衣はじたばたと暴れるが、鴎外はそれをものともせず軽く封じ込めた。
「あの、私、片づけをしないといけません」
 放してくれる気配が全くないので、芽衣は戦法を変えて、鴎外の責任感に訴えてみる。フミさんがもう帰ってしまっているから、片づけは芽衣の仕事だ。仕事はきちんとやらなくてはいけないだろう。
「後でいい」
「…………」
 しかし、鴎外に一蹴され、芽衣はそれ以上言うことを失った。そして、そのまま為す術もなく鴎外の部屋へと運ばれてしまう。
「さて、どうしたものか」
 自室に入ると、鴎外は部屋の中を見回した。狭くもないが広くもない。やれることの選択肢は限られている。
「あの……」
 何をされるのかという緊張感に堪えかねて、芽衣は、鴎外に声をかけた。
 しかし、それを無視して、鴎外は大股に歩き出した。まっすぐに奥の机に向かっている。
(ベッドじゃないんだ……って、私、何考えてるの!?)
 ベッドに運ばれなかったことに拍子抜けして、勝手にいかがわしい想像をしていたことに気づいた。ひどい妄想に顔が火照る。
(でも……お、お仕置きって、なにされるんだろう……)
 てっきりそういうお仕置きだと思い込んでいたので、芽衣はあらためて疑問に思った。そちら方面ではないお仕置きといえば、廊下に立たされるとか、校庭を十周走らされるとか、とにかく先生の手伝いをさせられるとか――鴎外が「先生」なだけに、学校でのお仕置きが脳裏に浮かぶ。しかしそういったことでもなさそうだ。
 そうこうしている間に、仕事机に辿りつき、鴎外はその椅子に座った。芽衣はもちろん解放されることはなく、鴎外の膝をまたぐように座らせられる。
「お、鴎外さん、おろしてください!」
 取らされた体勢の恥ずかしさに、芽衣は顔真っ赤にして声を上げた。膝からおりようと身をよじる。だが、鴎外はがっちりと芽衣の腰を掴んで離さなかった。
「駄目だ。お前は、自分が誰のものか、ちゃんと理解していないようだからね。しっかり分からせないといけない」
 鴎外は、芽衣の顎を取って、目を合わせてきた。それだけで、芽衣はどきどきして、顔に熱が集まってしまう。恥ずかしい距離なのに、どうして鴎外は平気なのかわからない。
「それで、お前はなぜ、この僕を邪魔だと思ったんだい?」
 鴎外にずばりと聞かれて、芽衣は驚いた。鴎外に、心の片隅で思っていたことを気づかれていたとは思わなかった。
「じゃ、邪魔だなんて……」
「正直に言わないのなら、その口はいらないね」
 少しは思ったが、それが全てではないと否定しようとすると、鴎外が苛立たしげに口をふさいできた。呼吸を奪うようなたっぷりとした口づけだ。芽衣は、すぐに息が上がってしまう。
「お、鴎外さん、やめてください……!」
「やめなくてはいけない理由がない」
 鴎外はしれっと言って、さらにキスをしてこようとする。しかし、触れる寸前でぴたりと止めて、芽衣の瞳を覗き込んできた。
「話す気になったかい?」
「……ど、どきどきして、話せません」
 芽衣は恥ずかしさを堪え、鴎外を非難するように見返した。
「ああ、本当だ。どきどきしているね」
 すると、あろうことか、鴎外は芽衣の胸に手を置いた。
「お、鴎外さん……!」
 芽衣は、目を剥いて絶句する。
「ん? もっと速くなったようだよ。大丈夫かい?」
 鴎外はとぼけたことを言いながら、どきどきと鼓動を速める芽衣の胸に、ますます手を押しつけてきた。
「っ……!」
 胸の上をやんわりと這う手に、ぞくりと体の奥から疼きがわく。芽衣はきつく眉根を寄せて、それを抑えつけようとした。
「そう強張るものではない。」
 鴎外は、そんな芽衣の頬に、ちゅっとキスをする。
「お、鴎外さん、やめてください……と!」
 芽衣は、鴎外の手を引きはがそうと掴むが、その手はびくともしなかった。
「それで?」
 鴎外は、芽衣の胸に手を置いたまま、再度問いかけてくる。
 どきどきと鼓動の音が聞こえるかのようだった。
 芽衣は鴎外を見ていられず、そっと視線を落とす。そのとき、部屋の机の上に置いてある時計が目に入った。
(……あ)
 カチッと短針と長針が合わさる。芽衣ははっと体を起こした。
「子リスちゃん?」
 唐突な動きに驚きながらも、芽衣がまた時計を見つめていることに気づくと、鴎外は不愉快そうに眉根を寄せた。
「鴎外さん」
 芽衣は、そんな鴎外の様子に気づかず、鴎外の腕を引く。
「お誕生日、おめでとうございます」
 二月十七日になった。芽衣はそれまでの流れを一切飛ばして言った。
「えっ……」
 鴎外は、目を瞬く。
「ほら、十七日になりましたよ?」
 芽衣は、きょとんとしている鴎外が珍しくて、笑って時計を指差した。長針はすでに短針からずれている。二月十七日零時一分だ。鴎外の涼やかな瞳が、柔らかく細められた。
「お前は、これを気にしていたのか。時計ばかり見ているから、僕との時間がつまらないのかと心配になったのだよ」
「す、すみません」
「謝ることではない。僕のことを考えてくれていたのだ。とても嬉しいよ、子リスちゃん」
 鴎外は本当に幸福そうに言うと、芽衣を抱きしめた。今日はじめての優しい抱擁に、芽衣もようやく自ら身を寄せることができた。「そうだ」
 鴎外はいいことを思いついたというように、声を弾ませる。
「どうしました?」
 そういうときは、あまりいいことではないことが多いような気がして、芽衣は恐る恐る窺った。
「今日はお前を抱きしめて始まったから、今日が終わるまでお前を抱きしめていることにしよう」
「はい?」
 鴎外の提案の非現実さに、芽衣は思いきり聞き返した。
 しかし、きっと、と芽衣は思う。鴎外が決めたのだから、この腕から逃れることはできないのだろう。


おわり

 

誕生日ばなし(音芽)

「帰ったぞっと」
 ふすまが開いて、音二郎が入ってきた。芽衣は、はっと鏡台の掛け布を下ろす。
「お、お帰りなさい」
 振り返ることができなかったので、芽衣は鏡台の上の小物を片づけているふりをしてやり過ごそうとした。
 今日は劇団の仕事で外出していたから、酔っ払っているはずだ。そして、そういうときは、まっすぐに布団に入ってしまうから、芽衣には構わないはずだ。
 芽衣はどきどきしながら、音二郎が部屋を横切るのを待った。布団は、音二郎の分も敷いてある。朝まで帰ってこないと分かっていても、もしかしたらと思ってしまい、毎日、念のために敷いていたことが功を奏した。音二郎は、獲物を見つけた虎のように布団に向かうだろう。
(……どうして、今日に限って早いわけ……!)
 音二郎がばたんと転がる音を待ちながら、芽衣は、心の中でため息をついた。
 最近は、劇団の用で出て行ったら、翌日まで帰らないことが常だったのに、その日のうちに帰ってくるなんて、不意打ちすぎる。
(用事が早く終わったのかな……)
 劇団の仕事は楽しそうだから、たとえ用事が済んでも、置屋のことなど忘れて、時間が許す限り、劇団の仕事をしてくると思っていた。そして、そのために、明日まで帰ってこないと油断していた。
(……よりによって今日……)
 いつもなら、音二郎が帰ってきてくれるのは嬉しいことなのに、今日は喜べない。逆に恨めしく思ってしまう。なんという間の悪さだろう。
 そうして、芽衣がもう一度ため息をつこうとしたときだった。
「ん? なんだ、寂しいじゃねえか。顔見せろよ」
と、音二郎が肩を掴んできた。
「わっ!」
 音二郎は布団に行くものだと思って無警戒だった芽衣は、されるがまま、音二郎に顔を見られてしまった。
「……っ!?」
 その瞬間、音二郎は息を飲み、顔いっぱいに驚愕が広がる。
 芽衣は、すぐに手をかざして、音二郎の視線から隠した。
「お前、どうした、その髪!」
 しかし、もちろん、音二郎にはばっちりと見られてしまっていた。音二郎は眉根をきつく寄せた険しい顔で、芽衣の手を掴んで外させ、その前髪をあらわにした。芽衣の前髪はちりちりだった。サイドも前側は焦げている。これは、料理に挑戦した残念な結果だった。
「すみません、ちょっと、不注意で」
 芽衣は、ちりちりになった髪を見られたことが恥ずかしくて俯いた。音二郎にこんなみっともない姿を見られたくなかったから、髪を切ったりまとめたりしようと思って、鏡を見ていたのだ。
「不注意? どういうことだ?」
「それは……」
 真剣に聞いてくる音二郎に、芽衣は口ごもる。
 こうなった経緯はもちろん話すことはできるのだが、できれば、それは明日まで言いたくなかった。
(音二郎さんの誕生日のお祝いの準備をしてて、こうなった、なんて、言えない……)
 今かけている心配に加えて、気遣われてしまうかもしれない。
 それに、芽衣は、音二郎の驚く顔が見たかった。今のように、驚いて青ざめるのではなく、驚いて、嬉しそうにしてくれるだろう音二郎が見たい。そのためには、話すのはうまくないだろう。少しでも話したら、敏い音二郎は全てを察してしまうかもしれない。ふだん料理をしない芽衣が料理を試みたという時点で、怪しさまんさいだ。ここは誤魔化しきるのが一番だろう。
「ほんとうに大したことじゃないんです」
「大したことじゃねえんなら、よけい話せるだろ」
「う……」
 音二郎の言う通りだ。芽衣は言葉を詰まらせた。
(ど、どうしよう……)
 急いで、この窮地を切り抜ける方法を考えようとするけれど、頭は空転するばかりだ。
「……どうしてわけを話せねえんだ?」
 その間に、音二郎の雰囲気が硬くなっていた。芽衣が話さないことに、苛々しているようだ。
「話せないわけでは……ないんですけど……」
 その空気に圧されて、芽衣の決意が鈍る。音二郎を怒らせてまで隠すことではない。それでは本末転倒だ。しかし、やっぱり話すということも決められないでいると、音二郎がしびれを切らしてしまった。
「ああ、もういい。わかった」
 音二郎は苛立たしげに言って、布団にごろりと寝転がる。
(お、怒らせちゃった!)
 背中を向けられて、芽衣は頭が真っ白になりかけた。だが、すぐに謝って説明しようと思い立ち、音二郎のもとににじり寄る。
「お、音二郎さん」
「話したくないなら話さなきゃいい」
 音二郎はしっかり怒っている。
「お、音二郎さん……」
 音二郎が怒ることなど滅多にない。かつて見たことがないと言っていいほどだ。そんないつにないことに、芽衣は一瞬怯んだ。けれど、勇気を振り絞って、音二郎のスーツを引く。
「あの……少し、早いですけど……お誕生日おめでとうございます」
 音二郎の背中がぴくりと反応した。
「明日、音二郎さんのお誕生日だから、お祝いにケーキを作ろうと思ったんですけど、失敗してしまって。かまどを爆発させてしまったんです……」
「ば、爆発!?」
 音二郎が飛び起きた。その顔は、さっき以上に驚いている。しかし、芽衣は、音二郎が振り返ってくれたことに、ほっとした。
「いやいや、お前、ほっとするところじゃねえだろう」
 音二郎にすかさず突っ込まれ、芽衣は顔を赤くした。
「あ、これは、音二郎さんが私を見てくれたので、よかったなと思って……きゃっ!」
 説明している間に、音二郎が急に腕を引いてきたので、芽衣は驚いて声を上げてしまった。
「かわいいこと言ってくれるじゃねえか」
 音二郎は、ぎゅっと芽衣を抱きしめてくる。その力強さにどきどきしながらも、芽衣は音二郎の胸に体を預けた。
「……すまなかった。お前の髪、誰かにいじめられたんじゃねえかって思ってよ。俺は、お前に、そういうことを話してもらねえ情けない男なんだって、思っちまったんだ」
「そ、そんなことされてませんよ」
 音二郎の発想に、芽衣はびっくりした。
「ああ。ここの置屋は気のいい奴ばかりだからな。けど、万が一は有り得るだろう? お前、最近きれいになってきたしよ」
 音二郎は顔を覗き込んできて、頬を撫でた。
 間近にある音二郎の端正な顔と、頬を撫でる大きな手に、どきどきと胸の鼓動が速まってくる。
「…………ほ、ほめたって何も出ませんよ」
「いつでも口説きたくなるようないい女だってことだろ」
 音二郎は恥ずかしがる芽衣に笑って、軽く口づけた。不意打ちのようなキスに、芽衣は顔を赤くして、身を縮める。音二郎は、芽衣のそんな反応が気に入ったように、芽衣の唇をなぞった。
「っ」
 ぞくぞくと震えのような感覚が腰の辺りから湧いてくる。芽衣はぎゅっと音二郎のスーツを握りしめた。
「誕生日、覚えててくれたんだな」
「あたりまえです」
 嬉しそうな音二郎に、芽衣は少し憤って答える。好きな人の誕生日なのだから当然だ。
「お前と一緒に過ごしたいと思って早く帰ってきたのに、なんだか歓迎されてないようだったからな。帰ってきちゃまずかったかと悲しくなったぜ?」
 すると、音二郎にからかうように言われて、芽衣は慌てて謝った。
「す、すみません……お祝いの準備ができていなかったので、焦ってしまったんです」
「そんなの、お前がいてくれればいいんだよ」
 音二郎は笑って、額に口づけた。予想通りの言葉に、芽衣は心の中でため息をつく。だから、芽衣が思いきり祝うためにも、こっそり準備したかったのだけれど、結局うまくいかなかった。
「しっかし、爆発ってのは、物騒な話だな。怪我はないのか? 被害は髪とかまどだけか?」
「はい。かまども掃除をすれば大丈夫みたいです」
 正しく言えば、爆発したのはかまどではなく、中にいれたケーキだった。どうしてケーキが爆発したのかは、永遠の謎だ。
「そりゃよかった。まあ髪は残念だが、少しの間我慢すりゃまた伸びてくるからな」
 音二郎は、慰めるように頭を撫でる。伸びてくるとは言っても、女性にとって髪は大事なものだとわかっているのだろう。その眼差しは労わるようだった。
「はい」
 芽衣は、この髪を、音二郎に嫌がられなければ、それでよかった。
「本当にお前は目が離せねえ女だな。もう危ない真似はすんじゃねえぞ。その、なんだったか? そいつを食べたいからってよ」
「ケーキですか?」
「そうだ、それ」
「わ、私が食べたいから作ろうと思ったんじゃありません。音二郎さんの誕生日だから作ろうと思ったんです」
 音二郎の言い草に、芽衣はすぐに首を振った。自分の食い意地が張っていて、大騒動を起こしたのとは違う。そこははっきり否定しておきたい。
「俺の誕生日だから?」
 この時代にはケーキを食べる習慣がないのか、音二郎は不思議そうな顔をしていた。
「はい。誕生日にはケーキがつきものですから」
「んーよくわからねえけどよ。どうせ祝ってくれるんなら、そんな危ねえことよりも、もっと違う方法でどうだ?」
「ケーキは危なくありません!」
「あーわかった、わかった」
「お、音二郎さん、何してるんですか」
 芽衣を軽くいなしながら布団に押し倒してくる音二郎に、芽衣は焦って聞いた。音二郎の目的は明白で、これはいわゆる無駄な抵抗というやつだ。
「まあ。誕生日だしよ。お前にいいことしてもらってもバチは当たんねえよな」
 音二郎はにやりと笑って、芽衣の口をその唇で塞いだ。


おわり

あなたと一緒に年越しを


 明日は新年だ。鴎外邸では、大掃除も正月の準備も終わり、ゆっくりと新しい年へ向かう時間が流れていた。大掃除も新年の準備も現代より大変だったが、大みそかのこのゆったり感は現代にはない。テレビもラジオもないから家の中はとても静かだ。
 お手伝いのフミさんはすでに昨日から休暇に入っていて、屋敷には主の鴎外と居候の春草と芽衣の三人だけだった。フミさんがいないのは寂しいが、いつも夕食までの時間は、それぞれの部屋で、物書きをしたり絵を描いたりしている鴎外と春草が、今日はサンルームでのんびり寛いでいるので、芽衣はなんだかうきうきとしていた。
「雪が降るかもしれないね」
 窓の戸締りを確認していた鴎外が、外の様子に目を細める。
「ああ、ひどく冷えましたね」
 ソファに座っている春草がそれに応えた。
 ふたりの会話に、春草の向かいに座っていた芽衣も振り返って窓の外を見た。
 まだ夕方という時間だが、曇っているため暗かった。どんよりとした曇天は、鴎外の言う通り、今にも雪を降らしそうだ。冷たそうな木枯らしが庭を吹き抜けていく。外はとても寒いに違いない。
(チャーリーさん、大丈夫かな)
 その様子を見ていると、住所不詳の顔見知りの奇術師が思い出された。彼のことだから、奇術で稼いで温かい寝床を確保しているとは思うが、芽衣は未だ滞在先を知らないので、少し心配になった。もしかしたら、実はお金がなくて、この寒空の下、日比谷公園のベンチの下で寝泊まりしているかもしれない。
 気になり出すと止まらず、芽衣は立ち上がる。
「おや、子リスちゃん。どうしたのだい?」
 突然立ち上がった芽衣に、鴎外が首を傾げた。
「私、ちょっと出かけてきます」
「は?」
 春草の驚いたような、信じられなさそうな声を背中に受けながら、芽衣はサンルームを飛び出した。階段を駆け上がり、自室として使わせてもらっている角の部屋に入ると、外套を着る。それから、少し考えて、箪笥の中から無地の紺色の襟巻を取り出した。先日自分で買ったものだが、地味だ何だと言われて、鴎外に桃色の襟巻を贈られてしまっていた。鴎外にもらったその襟巻も取り出して首に巻き、紺色のものは風呂敷に包む。傘をひとつ手に取った。
「出かけるってどこにだい? もう外は暗いし、雪が降るかもしれない」
 階段を駆け下りてエントランスに行くと、鴎外と春草が出てきていた。
「日比谷公園です。夕餉までには戻ります」
「日比谷公園」
 鴎外の眉がぴくりと動く。
「君、物盗りや人さらいが、大みそかだからって休んでいるとでも思っているの?」
「そ、そんなこと思っていません」
 春草に冷ややかな目で見られて、芽衣はぶんぶんと首を横に振る。
「十分気をつけます。それに、すぐ帰ってきますから」
 芽衣はふたりを安心させるように笑顔を見せ、ドアを封鎖される前にと、屋敷を飛び出した。
「君!」
「子リスちゃん!」
 ふたりの呼びかける声が聞こえたが、芽衣はそれに答えなかった。走って表通りに出て、人力車を捕まえる。車を使えば、神田から日比谷までは、それほど時間はかからない。ほどなく車は日比谷公園に到着した。
 ふたりを心配させたくはないので、さっさと用事を済ませて帰ろうと、人力車の車夫に帰りも頼むと告げて公園の中に入る。
 大みそかの夕方に、公園で遊ぶ人もなく、社寺の門前でもない日比谷公園はいつになく閑散としていた。
(チャーリーさん、いないのかな)
 ぐるりと公園を一巡りしてすれ違ったのは、家路を急いでいるような紳士風の男性ひとりだけだった。目当ての人の姿もない。芽衣の心配は杞憂で、チャーリーはしっかり風雪をしのげる温かい寝床を確保しているのだろう。
 何だか期待外れで、無用だった傘とマフラーを持つ手が力なく下がる。
 そして、急に天気の悪さと寒風とが気になりだし、心細くなった。
(帰ろう)
 芽衣は鴎外邸に戻ろうと踵を返す。
「娘サーン!」
 そのとき、聞き覚えのある声が微かに聞こえて足を止めた。
「八雲さん」
 振り返って目を凝らすと、知り合いの帝國大学の外国人講師がものすごい勢いで走ってくるのが見えた。
「ああ、やはり娘サンでしたか!」
 八雲は芽衣のもとに滑り込むようにやって来る。
「こんにちは」
 辺りは暗かったがまだ時間的には早いので、芽衣はそう言った。
「はい、こんにちは。奇遇ですね。いえ、運命でしょうか! 娘サンと私はここで出会うことが宿命づけられていたのですね!」
 八雲は、いつも通りのテンションの高さで偶然の出会いを喜んでくれる。
「お散歩していたんですか?」
 いつもながら面白い人だと思いながら、芽衣は尋ねた。八雲は、日比谷公園の隣の帝國ホテルで暮らしている。そんな彼が、コートとマフラーを身につけて、本を手にしているだけなので、散歩なのだろうと思った。
「いえ、大学に忘れた本を取りに行った帰りなのですよ。少し寄るところがあって途中で車を降りたのですが、ここを歩いてよかったです。貴女と会えた」
 八雲は本当に嬉しそうに笑ってくれるので、芽衣も嬉しくなる。街中で偶然出会って、八雲ほど喜んでくれる人はそういない。
「娘サンは、おひとりでこんなところで、何をされているのです?」
「私は――」
 逆に八雲に問い返され、芽衣は答えようとして、言葉に詰まる。チャーリーのことが心配で出てきたのだが、それは空振りだった。そもそも、それを話すには、彼が屋根のあるところで寝ているか心配で、という話からしなければならず、八雲に不審に思われないように工夫するのはなかなかハードルが高い。
「用事があったんですけど、なくなったので帰ろうとしていたところなんです」
 結局、芽衣は、説明になっていない説明をした。親しみを持ってくれている八雲に対して、何となく後ろめたくなって、風呂敷包みをぎゅっと抱きしめてしまう。
「……そうですか」
 何も中身がわからない説明だというのに、八雲は追及せずに頷いてくれた。芽衣に話したくないことがあると察して、尊重してくれたのだ。
(八雲さんは優しいな)
 芽衣は八雲に心の中で感謝した。
「娘サン。もしよろしければ、少し温まっていかれませんか? 帝國ホテルのラウンジのスイーツはとてもおいしくて、お茶にぴったりなのです。ぜひ娘サンとご一緒したい」
 その上、八雲は、冷えた体に、とても魅力的な誘いをしてくれる。
 芽衣の心は大いに揺さぶられたが、すんでのところで理性が勝った。鴎外たちの合意を得る前に飛び出したのだ。早く帰って鴎外たちを安心させた方がいいし、身のためだ。怒っているだろうふたりを想像して、芽衣はそう思う。
「すみません、車を待たせているので」
 芽衣は、帝國ホテルのスイーツに、たくさんの後ろ髪を引かれながら断った。
「ああ、ならば、その車夫サンに、森サンへ伝言を頼みましょう」
「え?」
「私とティータイムをするので少し遅くなります、と。帰りは私がお送りするのでご心配なさらずと伝えれば、森サンも安心されるのではないでしょうか」
 八雲は、芽衣が何を気にしているのかわかったらしい。
 確かに、それならば、芽衣がひとりでなく八雲と一緒だとわかるし、鴎外たちも安心するだろう。帝國ホテルのスイーツが現実味を帯びてきて、芽衣はわくわくした。
「ふふ。娘サンさえよければ、一緒に新しい年を迎えてもよいのですよ。ルームサービスでローストビーフを頼んで、ふたりで年越しローストビーフもいいですね」
 年越しそばならぬ年越しローストビーフ。なんと魅惑的な響きだ。芽衣は、ジューシーなローストビーフを思い浮かべて、口元をだらしなく緩める。
「新しい年になったら初詣に行って、八百万の神様に私たちの永遠の愛を誓いましょうか」
 しかし、八雲の妄想は留まることを知らず、右手を取られたところで、芽衣ははたとローストビーフから我に返った。
 永遠の愛は誓わないし、年越しを突然八雲のところでするというのは、鴎外たちも驚いてしまうだろう。
「あの、それは――」
「おい。何をしている」
 芽衣が丁重にお断りしようとしたとき、低い声で咎められて、ぎくりと体が震えた。その声には聞き覚えがあり、振り返らずとも、誰なのかわかった。警視庁妖邏課の藤田警部補だ。

[newpage]


「藤田サン! 怖い声で突然声をかけないでください! 娘さんが怖がっているではありませんか!」
 八雲が抗議をして、自然な流れで芽衣を背中に隠したが、八雲の肩越しに藤田の鋭い瞳と目が合う。初対面のときのイメージがまだ完全には払拭できていない芽衣は、それだけで身が竦んだ。
「怪しい外国人が、娘に声をかけているのが見えたので来てみれば、公道で堂々と女の手を握っているとはな」
 藤田は芽衣から八雲へと視線を移し、じろりと睨みつける。
「彼女と私はこういう仲なので問題ありません」
 八雲は見せびらかすように、つないだ手を藤田の目線まで持ち上げた。
(ど、どんな仲でしたっけ……!)
 火に油を注ぐような八雲の言葉に、芽衣は藤田に向けて、ぶんぶんと首を横に振った。藤田に誤解されたら、大みそかだというのに、逮捕されて留置場に入れられてしまうかもしれない。
「藤田サンは、こんな日でも見回りですか。警察官は大変ですねえ。大みそかに大切な人と過ごせないなんて!」
 八雲は自分の優位性を誇示するように、ふんと鼻を鳴らして、胸を張る。
「こんな日だからだ。貴様のように風紀を乱す輩がとかく出やすい。秩序を守るためにも必要なことだ」
 それに対して、藤田はいささかも動じた様子はなく、いつもと変わらない厳めしい態度で応じた。
「おい、娘。こんな男に関わり合っていないで、早く家に帰れ」
「ノォォ! 藤田サン! 馬鹿力!!」
 藤田は、八雲の抗議も抵抗もものともせず、涼しい顔で八雲の手を離させ二人を引き離す。
「―-ああ、いや」
 そのまま芽衣の手を離そうとした藤田は、途中で何かに気づき、軽く舌打ちをして、再び、芽衣の手首を掴んだ。
 まるで逮捕拘引されるような強い力に、芽衣は怯えて心臓がどきどきしてしまう。
「もう朧ノ刻だ。途中、物の怪に絡まれても厄介だからな。俺が送ろう」
 しかし、藤田は逮捕ではなく、警察官としての職務を果たそうとしてくれるらしかった。
「あ、あの――」
「それにしても、娘。こんな日にこんなところをふらふらして、新年の準備は済んでいるのだろうな?」
 どきどきして申し訳なかったが、藤田とふたりの道行きは緊張してしまう。これまた丁重にお断りしようと芽衣は口を開いたところ、藤田に先んじられた。藤田は真面目できちんとしているから、大みそかに家にいず、ふらふらしていることが信じられないのだろう。
「は、はい。いちおう」
 その鋭い瞳に気圧されながら、ほとんどフミさんがしてくれました、と心の中で付け足して、芽衣は頷く。
「一応?」
 芽衣の答えは不十分だったようで、藤田は不満そうに眉を動かした。
「森一等軍医殿は、正月の準備もまともにしてもらえんのか」
「お、お手伝いのフミさんがちゃんとしてます!」
 フミさんの準備は完璧だ。それを疑われるのは心外で、芽衣は強く訴える。
 すると、藤田はなぜか呆れたように顔を顰めた。
「娘、本郷に寄っていくぞ」
「え?」
「先日、牛肉をもらった。それを煮たものがある。新年なのだから、食事くらいまともなものを用意しろ」
 牛肉と聞いて、芽衣の胸が高鳴る。牛肉だけでも幸福感に満ちているのに、藤田が調理をしたものなどおいしいに決まっている。それを分けてくれるなんて、なんて優しい人だろうと、芽衣は藤田への印象を改めた。
「藤田サン! そうやって牛肉でつって、さりげなく自宅に連れ込もうとするのはいただけませんね! 娘サンも、そんなに目を輝かせてっ!」
 すっかり牛肉にほだされた芽衣の腕を、八雲が引っ張る。
「妙な勘繰りはよせ。料理を取りに寄るだけだ」
「そうですよ。藤田さんは警察官です。牛肉をくれるいい人です」
「娘サン! 完全に牛肉の虜になっているじゃありませんか! いいですか、娘サン。このわるーい警察官は、試食を装ってあれやこれやと食べさせて、新年だからと酒もふるまって、娘サンを酔わせた挙げ句、娘サンをおいしく頂いてしまおうという恐ろしい計画をしているに違いありません!」
 八雲は手を大きく振って力説する。
「まるでヘンゼルとグレーテルですね」
 八雲の話が荒唐無稽過ぎて、芽衣は思わず笑ってしまった。
「ああ、娘サンはご存知ですか――って、笑うところじゃありませんっ!」
 この時代でグリム童話を知っている日本人は珍しいのか、八雲は興奮していた瞳を和らげかけ、すぐさま話の筋を思い出して首をぶんぶんと振った。
「誰がそんなことをするか」
 ひとり騒がしい八雲を、藤田が呆れた目で一瞥し、芽衣の腕を掴み直した。
「娘、行くぞ」
「行かせません! 娘サンはこれから、私と楽しいティータイムをするのです!」
 八雲は、藤田とは反対の手を取って昂然と言い切る。
 二人に挟まれて、芽衣は困った。八雲の誘いは断るつもりであったし、冷静になってみれば藤田と帰るのはやはり気まずい。帝國ホテルのスイーツも藤田の牛肉も心惹かれてやまないが、ここはどちらも断るのが角が立たないだろう。
「あの――」
 そう考えて、芽衣が一歩後ろに下がったときだった。
「川上がぐすぐずしてるから、こんな時間になっちゃったじゃないか!」
「だから、悪いって謝ってんだろ――て、鏡花ちゃん! 前見ろ!」
 突然、にぎやかな男の人たちの声がしたと思ったら、背中にどすんと衝撃を受けた。
「きゃっ!」
「わあっ!」
 芽衣の悲鳴と誰かの悲鳴が重なる。そのうえ、地面に倒れた芽衣の体の上に何かが重なった。そして、芽衣の目の前に見覚えのある白いウサギが、ぽふ、と落ちてくる。愛らしい赤い瞳と目が合って、さきほど聞こえた名前は空耳ではなかったと悟った。
「いったたた……な、なに? て、わ、うわぁっ! あ、あんた、なにやってんだよ! グズ!」
 芽衣の体の上のモノは、自分が下敷きにしたものを手探りで確かめて、それが人でしかも芽衣だとわかると罵って飛びのいた。白いウサギが跳びはねて、芽衣の視界から消える。
 他人に対してそんな容赦のない罵倒をする、ウサギ連れの青年は、芽衣の知り合いの中で、ひとりしかいない。鏡花だ。また厄介なことが増えつつあると思いながらも、とりあえず重さがなくなって、芽衣はほっとした。そんな芽衣に、大きな手が差し出される。
「お、おい、大丈夫か? 悪かったな」
 芽衣の前に跪いて手を差し伸べたのは、スーツ姿の音二郎だった。
「い、いえ、こちらこそすみません」
 芽衣も謝りながら、音二郎の手を借りて立ち上がる。
「怪我はないか?」
「はい」
 音二郎は、散らばった芽衣の荷物も拾って渡してくれた。
「あんた、こんなところで何して……げえ、藤田!」
 一方、鏡花は芽衣に文句を浴びせようとして、傍らに立つ藤田に気づき、顔を盛大に顰めた。本人を前にして、堂々とした反応だ。
「あ、あの、こんにちは」
 芽衣は、藤田と鏡花、音二郎の間に事が起こらないよう、二者の間に立って、音二郎と鏡花に挨拶をした。
「すみません。急いでいるところを邪魔してしまったみたいで」
 芽衣が好んで道のど真ん中にいたわけではないが、鏡花を転ばせてしまったのは事実なので、改めて謝る。そして、さりげなく二人に進むことを促した。藤田と音二郎は取り合わせが悪すぎる。
「いいって。前を見てなかった鏡花ちゃんが悪い」
「まさか道の真ん中で、ぼーっと突っ立ってる奴がいるなんて思わないからね!」
 音二郎が気にするなと笑うのに対し、鏡花はどこまでも自分の非を認めない。芽衣はどちらに反応したらよいか迷いながら、もう一度、すみません、と謝った。
「どこかに行く途中なんですか?」
 それから、先を急いでいた雰囲気がなくなってしまっている二人に、直接的に聞く。
「ああ。この先にな、大みそか限定で、珍しい出し物をする小屋があるってんで、鏡花ちゃんが見たいって駄々ぁ捏ねるから、連れてきてやったんだ」
「な、馬鹿! 違うだろ! 川上がどうしてもって言うから、僕が付き合ってやってるんじゃないか!」
「まあ、確かに、俺も見たかった。けどよ、男二人で見に行くのもなんだなとも思ってた」
 きゃんきゃんと吠える鏡花に頷いてから、音二郎は芽衣を見た。
 どうしてこちらを見るのだろうと、芽衣は首を傾げる。
「お前、こんなところで何してたんだ? 暇なら一緒に来ないか?」
 音二郎にさらりと誘われて、芽衣は目を瞬いた。全く予想外の展開だ。
「な、何言ってるんだよ、川上!」
「いいだろ、鏡花ちゃん。二人より三人の方が楽しいに決まってる。な、お前も見てみてぇだろ? 人に聞いた話で詳しいことは分からねえんだが、これがけっこう面白い出し物らしくてな」
 反射的に反論する鏡花を笑っていなして、音二郎は芽衣をさらに誘う。楽しそうに話す音二郎を見ていると、芽衣まで楽しい気持ちになってきて、少し見てみたいなと気持ちが傾いた。
「ちょーっと待ってください!! 彼女は、これから私と帝國ホテルでティータイムをするのです!」
 そんな芽衣の機微を敏感に感じ取ったのか、八雲が強引に割って入ってきた。
「川上。その小屋は正規の手続きを踏んでいるのか? そうでないならば――」
「そんなこた小屋の主に聞けってんだ。それとも今から捕り物に行くか? まあ、そうなったら、ふたりで横濱で年を越すのもいいな」
 詰問口調で尋ねる藤田を睨みつけてから、音二郎は芽衣の肩を組んできた。鏡花と張る態度の悪さだ。愛想よくとまでは言わないが、せめて普通にしていれば、関係はもう少し穏やかになるかもしれないと思うが、問題はそれほど簡単なことではないのだろう。
 そして、芽衣にとって、今はそれよりも、音二郎のプランが遠くなっている上に、ふたりきりになっていることの方が問題だった。
「あの、音二郎さん」
 ひとまず肩に回された腕を外して、芽衣は音二郎に向き直る。横濱には行かないし、残念な気持ちもあるが小屋にも行かない。夕餉までには帰ると言って出てきたのだ。そろそろ戻らないと鴎外たちが心配するだろう。
「あ~も~、グズ! 早くしないと年が明けちゃうだろ!」
「へ?」
 鏡花の約束が成立しているかのような怒り方に、芽衣は一瞬、承諾したような錯覚を覚えてから、そんなことはないと思い直す。まだ返事はしていないはずだ。
「まあ、年はまだ明けはしねえが、早く行った方がいいには違ぇねえな。誘いが被ってるみてえだが、どうするんだ? まさかこの川上音二郎の誘いを断ったりしないよな」
「いいえ。娘サンは私とお茶をするのです!」
「いや。本郷だ」
「グズ!」
 四人に迫られて、芽衣は弱った。しかし、ここはきちんと帰るつもりだと告げるべきだと思い、口を開く。
「あの、私、帰―-」
「子リスちゃん! ここにいたのか!」
 そこに、薄暗い公園には不似合いな、華やかな声が響き渡った。
「鴎外さん! ……春草さん!」
 振り返った芽衣は、十メートルほど先に並ぶ二人に目を丸くした。
 朗らかな鴎外と、詰まらなそうな春草だ。

[newpage]


「帰りが遅いから様子を見に行こうと春草が言うものでね」
 どうしてここにいるのだろうという、芽衣の心の中の疑問に答えるように、鴎外が言う。
「鴎外さん、話を曲げないでください。あなたが言い出したんですよ。子リスちゃんの帰りが遅すぎる。春草、僕らは今すぐ日比谷公園に行くべきだ! って」
 春草が声真似をまじえながらも、冷静に訂正した。
「春草だって、夕餉が始められないから様子を見に行くと言っていたではないか」
「……まあ、そうですけど。遅いよ」
 鴎外の指摘を渋々認めてから、春草は芽衣を睨むように見た。
「す、すみません」
 こんなところまで二人を来させてしまって、芽衣は申し訳なく思う。
「子リスちゃんが道に迷ってしまっていたのかと思っていたのだが、まさか人間に捕まっていたとはね。家の外は危険がいっぱいだ」
 鴎外はつかつかとやって来ると、滑らかに芽衣の手を取る。
「用事は終わったのかい?」
「は、はい……」
 思いのほか優しく聞かれ、飛び出してきたことや、戻りが遅くなったことを怒られると思っていた芽衣は、少し戸惑いながら頷いた。実際は、用は終わったのでなく、達成できなかったのだが、もう諦めがついたので、終わったといっていい。
「なら帰るよ。入り口の車、君が待たせているんだろ」
 春草も近くまでやって来て、そう言った。
 春草も怒ってはいなさそうで、芽衣はほっとした。勝手ざんまいだが、お正月から雰囲気が悪いのは嫌だった。
「は、は――」
 芽衣は、春草に頷こうとする。このままふたりと共に帰るのが、いちばん収まりがいい。他の四人も納得するだろう。
「やあやあ、みなさんお揃いで」
 しかし、そのとき、今度はその場に朗々とした声が響いた。
 その聞き覚えのある声に、芽衣は目を剥く。
「チャーリーさん!」
 芽衣が声の方へと呼びかけると、居並ぶ面々の向こう、闇の中からチャーリーが現れた。今夜のチャーリーは、新年を意識してなのか、例の派手な和装だ。
「こんばんは、お嬢さん。それにみなさんも」
 チャーリーは、その姿で、西洋風のお辞儀をする。
「もしかして、僕の奇術ショウを見にきてくれたのかな」
「ううん」
「松旭斎天一の奇術ショウ!?」
 芽衣はすぐに否定したのに、鏡花が食いついた。
「おい、鏡花ちゃん。……とは言っても、噂の松旭斎天一のショウなら見てみてえなあ」
 出し物小屋に行く約束があるのに、思い切り心動かされている鏡花に突っ込んでから、音二郎も興味深そうに、チャーリーを見やる。
「おい、何をする気だ。無許可の興業は禁止されている」
 藤田は職務を忘れず、厳しくチャーリーに詰め寄った。
「まあまあ、無礼講ですよ、藤田サン! 面白そうではありませんか!」
「法に無礼講はない」
 八雲が明るくおさめようとしたが、失敗した。藤田の言う通りだ。
 この場で強行したら、全員、逮捕されそうである。新年を留置所で迎えるなど、あまりに残念な年明けで、できれば御免こうむりたい。滅多に見られないチャーリーのショーは見てみたいが、チャーリーにやらせないようにした方が幸せな未来が待っているだろう。
「ショウと言っても、彼女がお世話になっている皆さんに、ささやかな新年のお祝いをお見せするだけなんだけどなあ」
 チャーリーも、ショーを見せるのは難しいと感じたのか、愚痴っぽくぼやいている。
「ほう。藤田警部補、これは身内に向けた催しで、興業ではないようですよ。責任は僕が取る。やりたまえ」
 そのぼやきを聞いた鴎外が、思わぬ援護をした。
「人が集まる前に終わった方がいいんじゃない」
 春草も興味がなさそうな顔ながら、チャーリーを促している。
 思わぬ追い風に芽衣の胸は期待で膨らんで、藤田をそっと窺った。
「……ちっ、早くしろ」
 全員の期待のこもった瞳を集めると、藤田はとうとう一歩下がった。消極的だが、了承の合図だ。
「それでは、皆さん。稀代の奇術師、松旭斎天一、本年最後の奇術ショウ、お見逃しなきよう」
 すかさず、チャーリーが手を広げる。
「少し早いですが、新年を祝しまして――はい!」
 チャーリーがかけ声とともに指をぱちんと鳴らすと、ドンと腹に響く音が鳴った。そして、夜空に、鮮やかな花火が広がる。
「わあ、きれい!」
 大きく華やかな花火に、芽衣は歓声を上げた。
「これはこれは」
「きれいですね」
 鴎外と春草も目を細めて、花火に見入る。
「わあ」
「こりゃあいい」
 チャーリーがぱちんと指を鳴らすたびに上がる花火に、鏡花は夢中で、音二郎も笑って見上げている。
「ファンタースティック! 素晴らしいです!」
「…………まあ、悪くない」
 八雲は手を叩いて喜んで、藤田は小さく漏らした。
「本年のとりを飾りますは、黄金の華! はい!」
 パチンと指が鳴って、ひときわ大きな金色の花火が上がる。
 眩しいほどに明るい。まるで満月のようだ。
 芽衣は目を細めた。
 花火の光はきらきらと散り、闇にすーっと溶けていく。
 魔法の時間が終わった。まるで、今年の最後を見ているかのようだった。年が終わるのだという実感が湧いてくる。
「……チャーリーさん、ありがとう」
 芽衣は、少し改まった気持ちになって、チャーリーを振り返った。
「どういたしまして。今年最後に君の笑顔が見られて嬉しいよ」
 チャーリーは、にっこりと笑う。そんなチャーリーに笑い返そうとして、芽衣は、当初の目的を思い出した。


[newpage]


「あ、そうだ。チャーリーさん、これ」
「え?」
 芽衣が風呂敷包みを差し出すと、チャーリーは首を傾げた。
「ちゃんと寝るところはあるの? 公園で寝たりしたら、風邪引いちゃうからね」
 芽衣は説明する手間を省いて、包みを解き、チャーリーの首に紺色の襟巻をかける。
「雪が降ったら大変だし」
 そして、傘もチャーリーに握らせた。
 これで目的は完遂した。本当はチャーリーの宿を聞きたかったが、もし怪しいところに寝泊まりしていたら、藤田に聞かれるのはまずいだろうと思い、聞くのは今度にしようと思った。
「芽衣ちゃん……」
 襟巻と傘に、チャーリーは驚き、感動したように固まっている。まさか芽衣が気を遣うとは思っていなかったのだろう。
 確かに、チャーリーを気遣う義理はないが、かといって、雨風にさらされているかもしれない知人を心配しないほど薄情ではないつもりだ。だから、チャーリーの驚きようは、少々心外だった。
「子リスちゃん、それは君の襟巻ではないか! どうして彼にあげるんだい!」
 芽衣はチャーリーに文句を言おうとしたのだが、先に鴎外に声を上げられてしまった。
「え、鴎外さんがこれを買ってくれたので私は 足りてますし、これは自分で買ったものなので、チャーリーさんにあげても問題ないですよね」
 芽衣は、何か見落としている問題があるかと考えを巡らしながら答えた。
「どうりで、君が選んだにしては、華やかな色だと思った」
 突き放すような春草の声に、芽衣はどきりとして振り返る。
「え? こ、これ、似合いませんか?」
「……似合わなくもないけど、君にはもっと似合う色がある」
 画学生に色の駄目だしをされるのは心臓に悪い。自分では選ばない華やかできれいな色を気に入っていたので、似合わなくもないという言葉にほっとしながらも、もっと似合うという色が気になった。
「どんな色ですか?」
「…………じゃあ、今度、一緒に見に行こう」
 春草が見立ててくれるのは心強い。しかも、他人の用に付き合ってくれる春草は珍しいので、芽衣は嬉しくなった。
「ありがとうご――」
「子リスちゃん、新しい襟巻は必要ないよ。それはよく似合っている」
 春草へのお礼は、途中で鴎外に遮られた。今日は、よく言葉を遮られる日だ。今まで自覚はなかったが、もしかしたら、鏡花の言う通りグズなのかもしれないと思ってしまうくらいの確率だった。
「春草、今の問題はそこではない。子リスちゃんが、彼に贈り物をしたということだ」
 鴎外は春草を牽制してから、チャーリーを見据える。
 その視線の鋭さに、チャーリーは気まずそうに笑顔を貼りつかせ一歩下がった。
「あ、あんた、森さんから贈り物をもらう仲のくせに、他の男に贈り物するのかよ!」
 鏡花が信じられないものを見るような目つきで、芽衣を見てきた。
「ええっと……これは、鏡花さんが考えているようなことではありません」
 鏡花は贈り物に特別な意味があると思っているようだが、鴎外もそういった甘い気持ちはないだろうし、芽衣もないと首を振る。
「なっ、なんだよ! 僕の考えているようなことって」
「どれも特別な意味はないってことです」
「特別な意味はない?」
「はい。鴎外さんは私の襟巻が地味すぎると思ってくれただけですし、私はチャーリーさんが寒いだろうと思って渡しただけです」
「そこに特別な感情が入ってないって言えるのかよ!」
「はい」
 芽衣はすぐに頷いた。考えるまでもない。鴎外は居候の身なりを整えたかっただけだろうし、芽衣はチャーリーに風邪を引かれては困るからだ。
(風邪なんか引いてマジックが失敗したら大変だし……)
 鏡花が考えているような、好意を寄せているための贈り物には程遠い自分の都合だ。
「そ、そう」
 芽衣の即答に、鏡花はどこか満足げに頷く。
「ふうん。それなら、俺には、特別な意味ってやつを込めて、贈り物をしてみるってのはどうだ?」
「はい?」
 脇から音二郎に迫られて、芽衣はびっくりした。ずいと寄せられた顔は近い。音二郎の端正な顔が、じっくりと観察できるような距離だった。
「あ、あの……」
 突然の接近に、頬に熱が集まる。
「川上! 何してんのさ! その子から離れろよ!」
 鏡花が音二郎の肩を引いて、引きはがす。
「この子は、川上に贈り物なんてしないよ!」
「ああ? 鏡花ちゃんが答えんな。俺はこの子に聞いてるんだ」
「だから、なんでこの子が川上なんかに贈り物をしないといけないのさ!」
「だから、お前に聞いてねえっての。すっこんでろっ。この子が誰に何をあげようが鏡花ちゃんにゃ関係ねえだろ。それとも何か、鏡花ちゃんももらいたいとか?」
「そ、そんなことっ……」
 鏡花は否定しようとして、芽衣を見て、口ごもる。それから急に胸を反らした。
「ま、まあ、あんたがどうしてもって言うなら、もらってあげないこともないけどさ」
「いえ、あの……」
 芽衣には、そんなつもりで誰かにあげる予定は全くない。はじめからそう話していたのに、話が変な方向に行って戸惑うばかりだ。
「娘サンっ、私のこの寒々しい首元を見てくださいっ!」
 突然、八雲が、目の前に躍り出てきた。
 芽衣は目を瞬く。
 八雲はきっちりコートとマフラーを身につけていたはずなのに、今は、マフラーはなく、コートとシャツのボタンが外され、首どころから胸元まであらわになっている。本人の言う通り寒々しい。
「八雲さん、どうしたんですか」
 マフラーをどこにやったのだろうと、芽衣は疑問に思う。
「今さら襟巻を取るな」
 その芽衣の疑問を、藤田が解消してくれた。藤田は、八雲が放り投げたらしいマフラーを拾って突き返す。そして、そのまま芽衣の前に立って、こほん、と咳払いをした。
「……まあ、警察官は襟巻など支給されんが、着用を禁じられているわけでもない」
「そ、そうなんですか……?」
 どうやら芽衣に向けて話しているようだが、芽衣はその趣旨をうまく掴むことができず首を傾げた。
「なんですか! 藤田サン。貴方、マフラーを持っていないというアピールをして、娘サンにプレゼントしてもらうつもりですか!」
 寒かったのか、マフラーをしっかりと巻き直した八雲が再び勢いよく出てきて、藤田に猛然と抗議する。
「そんなはずないですよ、八雲さん」
 藤田が芽衣からマフラーを欲しがるわけがない。芽衣は笑った。
「娘。編み物をしたことはあるか?」
 すると、藤田は唐突にそんなことを聞いてきた。
「い、いいえ」
 出し抜けに聞かれて驚きながらも、芽衣はすぐに首を横に振る。やり方が全く思い浮かばないから、したことがないのだろう。
「やはりそうか」
 藤田は予想通りだったようだが、少々残念そうに頷いた。
「藤田サン、あなたって人は、ただのプレゼントでは飽き足らずっ、娘サンの手編みのマフラーをもらうつもりですか!」
「手編みのまふらあか」
「手作りの襟巻ってこと!? 警官のくせに、あんたが一番図々しいね!」
「子リスちゃん、僕は認めないよ!」
「……君に作れるとは思えないけど」
 「手編みのマフラー」に、一同は一気にヒートアップした。時代を超えて、甘く響く言葉らしい。
(だから編めないし、プレゼントする予定もないから……)
 そんな彼らを遠巻きに眺め、芽衣は心の中でため息をつく。
 そして、芽衣はチャーリーを見た。
「な、なにかな、お嬢さん」
 チャーリーは、芽衣の視線に不穏なものを感じ取ったのか、大きく一歩後ろに下がる。
「チャーリーさん、それ返して」
 この騒ぎを鎮めるには、原因を取り除くほかない。芽衣は、チャーリーからマフラーを回収することにして、手を伸ばす。
「えっ、嫌だよ。せっかく君にもらったのに」
 思いのほか、チャーリーは抵抗をした。
 しかし、そんな選択肢を認められるはずがない。チャーリーに対しては、どこまでも強気に出られる芽衣は、問答無用でマフラーをとりにかかる。
「いいから!」
「わっ、く、苦しっ……ぐふっ!」
 マフラーを取ろうとする芽衣と、それさせまいとするチャーリーとの攻防の中で、軽くチャーリーの首が絞まる。
「奇術で、マフラーでも傘でも寝床でも出せばいいんだった!」
 今さらながら思いついた芽衣は容赦がない。食べ物は出せなくても、そういったものならきっと出せるだろう。心配をして損した気分だ。芽衣が勝手に心配したのだが、そこは見ないことにする。
「め、芽衣ちゃん、ギブ、ギブー!」
 チャーリーの哀れな悲鳴が日比谷公園に響き渡る。
 新年までもう少し。
 年はにぎやかに暮れていった。

 

おわり

ゆくとしもくるとしも

 花は最後の豆を盛り付けて、小さく歓声を上げた。
 厨房の卓の上には、今、完成したばかりのおせち料理が並んでいる。彩り鮮やかに、どれもこれもおいそうにできた。我ながら上出来だと、自画自賛してしまう。雲長と芙蓉に特訓してもらった甲斐があった。あとは、孔明に食べてもらって、孔明の口に合えば言うことない。
 できあがったものを見つめていたら、ぐう、と腹が鳴った。
 花は焦って腹を押さえ、周りを見回す。厨房には、花の他に誰もいないとわかっているのだが、腹の音というのはどうにも恥ずかしい。花は、誰にも聞かれていないことを確認して、あらためておせち料理を見た。
 自分で作っておいてなんだが、とてもおいしそうだ。
 食べたい。
 ひとつくらい食べてもいいだろう。
「味見、味見」
 花は、自分に言い訳をしながら、いい色に煮られた豆を食べる。
「おいしい」
 思わず花は呟いていた。雲長に教わった煮豆は柔らかく、甘みが上品でほどよい。花はまた豆を食べた。ぱく、ぱく、と知らず箸が進む。
「それで五個目だけど、ボクの分、残ってる?」
 突然、背後から声をかけられて、花はびくっと体を震わせた。やましいところがあるだけに、心臓が口から飛び出しそうになる。しかし、花は、心臓ではなく食べた豆が飛び出ないように、口を押さえて振り返った。
「こ、孔明さん……!」
 もごもごと豆を噛みながら、花は戸口に立つ夫を見る。花自身、食べた豆の数を数えていなかったので、孔明がどこから見ていたのかわからないが、知らぬ間に相当な数を食べてしまっていたことは確実だ。だが、豆はたくさん煮たので、まだ皿には山盛りで残っている。
「だ、大丈夫です、たくさん作りましたから」
 花はつまみぐいをしていたことをそっと脇に置き、孔明に豆の皿を見せた。
「うん、おいしい。これは確かに後をひくね」
 差し出された豆をつまんで、孔明は頷く。そして、言葉通り、二つ三つと続けて食べた。
「よかったです」
 花は、顔を綻ばせる。孔明においしいと言ってもらえて嬉しかった。
「でも、ほんとにたくさん作ったね。二人なら、一週間は籠城できるんじゃない?」
 孔明は、卓の上に並んだ料理を見て言う。その顔は、多種多量の料理を花がひとりで作ったことに感心しているようでもあるし、二人しか食べる人がいないのに、大量すぎることに驚いているようでもあった。
「はりきりすぎちゃいました。すみません」
 孔明の感想がどちら寄りか判別できなかったが、作りすぎは自覚していたので、花は謝る。
「謝らなくていいよ。ボク、たくさん食べるから」
 孔明の食は細い方だから、それは花を気遣っての言葉だろう。孔明のことだから、有言実行するために、無理矢理にでも全部食べようとするかもしれないが、それは止めなければいけない。城に持っていけば、翼徳がおいしく食べてくれるはずだ。
「それに、一週間登城しないっていうのも手だよねえ。愛妻の手料理がおいしくて、家から出られませんって。新婚ならではの理由だと思わない?」
 冗談めかして言っているが、隙あらばそうしようという思惑が透けて見える。
「それ、ものすごく芙蓉姫に怒られると思います。それにもう、新婚でもないですし」
 それを実行した場合の周りの反応が鮮やかに浮かんで、花は想像するだけで疲れてしまった。それに、本当に新婚なら、少しくらい緩んでも笑ってもらえるかもしれないが、花と孔明は新婚とはいえない。夫婦になって、正月を迎えるのは三度目だ。
「怒られるくらいならいいかな」
「駄目です」
 花の言葉尻をとらえて呟く孔明に、花はぴしゃりと言い切った。すると、孔明がとても寂しそうな顔をする。それを見て、花はずきりと胸が痛んだ。
「君、最近冷たくない?」
「孔明さんが、すぐにさぼろうとするからです」
 騙されるな、こちらが正しい、と花は自分に言い聞かせて、孔明の揺さぶりに堪える。
「だって、そんなにまじめに働かなくてもいいからさ」
「そんなこと言ったら、玄徳さんに怒られますよ」
「もうだいたい落ち着いたから。いいんだよ」
 孔明の言う通り、成都に来た頃に比べたら、益州はもちろん、国内はとても落ち着いた。そして、孔明も、ここに来たときと比べて、仕事に対する熱心さというか、真摯さが落ち着いてきたように思う。国から戦をなくして、政に興味を失ったかのようだ。
「ボクら働き過ぎたから、そろそろ隠居してもいいと思わない?」
 そんな花の考えを裏付けるかのように、孔明はそんなことを言う。
「それもたくさん苦情が来そうですね」
 花は頷いてあげたい気はしたが、ここで、そうですね、と言ったが最後、本当に今日にでも、やめます、と言いかねないように思えた。
「うーん。じゃあ、今は、この休みの間だけでも、のんびり休もう」
 孔明はそう言って、花を抱きしめる。
「こ、孔明さん」
「もう新年迎えるだけだろ? あとはあったかい部屋でごろごろしよう」
 心構えがなかったために驚いた花に、孔明は甘えるように体重をかけてきた。
 いつもなら、花は引き締め係だが、今日は大晦日で、二人ともすべきことは終わっている。孔明の提案はとても魅力的で、頷かない理由はなかった。
「……はい」
 ただ少しだけ恥ずかしくて、花は目を伏せる。
「うん」
 しかし、花が頷くやいなや、孔明は花に口づけた。その素早さにびっくりしている間に、口づけが深まる。
「っ……んっ……」
「……甘いね」
 十分に口づけをかわした後、離した唇をぺろりとなめて、孔明が言った。
 豆の甘さが口の中に残っているのだろうが、お互い様だ。
「へ、変な風に言わないでください」
 花は顔を赤くして抗議する。
「なんで?」
 孔明は楽しそうに花を覗き込んで、再び花に口づけた。今度は口づけの間に、背中にあった手が、ゆっくりと腰へとおりていく。
「こ、孔明さん……ここじゃ……」
 花は身を捩って、衣服を緩めようとする孔明の手を止めた。
「違うところならいいの?」
 すると、孔明は耳元で意地悪く聞いてくる。
 花は顔を赤くして固まった。
 もう陽は沈んできたとはいえ、まだ夕方だ。人々も大いに活動している時間である。そんな時間に房事にふけるのは、あまり花の好むことではなかった。けれども、孔明の腕はあたたかく離れがたいのも事実だ。
 しかし、やはり、駄目だ。
「だめです」
 花はなんとかそう言った。
「……のんびりするんでしょう?」
 花は、孔明の意図することをしては、のんびりなどできない。そういう意味を込めて牽制する。
「うん、まあするよ?」
 だが、孔明はあっさりそう躱して、花を抱き寄せた。花の意見など、聞く気はないらしい。
「こ、孔明さん」
 このままここで事に及ばれてしまっては、時間だけでなく場所も問題だ。花は、しっかり抵抗しようと腕に力を込めた。
「うん」
 しかし、孔明は花の抵抗を封じ込めて、再び口をふさぐ。
 それが本格的な愛撫に変わり、花の体から力がなくなりかけたときだった。
 どんどんどんどん、と勝手口の戸が激しく叩かれた。
 花はびっくりして、目を開ける。孔明もまた弾かれたように顔を離した。
「だ、誰でしょうか?」
 玄関ではなく勝手口から訪問するなど、まるで花たちがここにいることを知っているかのようなタイミングだ。やましいところのある花は、どきどきして、いまだ叩かれ続ける勝手口の戸を見つめる。
 訪問者に見当がつかなかった。もちろん客のはずがない。出入りの店への支払いは、昨日のうちに済ませた。そもそも、出入りの業者であったら、これほど乱暴に叩かないだろう。
 そう、乱暴なのだ。
 戸はまだ叩かれている。
 まるで何かから追われていて、ここが開かないとそれに捕まってしまうかのような切迫したものを感じさせる叩き方だった。
 心配になった花は、戸を開けようと孔明の腕から出る。
「嫌な予感がする。花、開けなくていいよ」
 すると、孔明は固い顔で、花の腕を掴んだ。
「え? でも、お客さんですよ」
「客がこっちには来ないよ」
 戸惑う花に、孔明はもっともなことを言う。その言葉に、戸の方へ行きかけた花の足が鈍くなった。
 しかし、そんな花に抗議するかのように、どんどんどんどんと戸を叩く音が大きくなる。
「で、でも、何か用があることは確かですし……」
 そのノックの必死さが気になって、花は、孔明の手を振りほどいた。
「花!」
 孔明の鋭い制止の声と、花が勝手口の閂を外して、戸を開くのとは同時だった。
「道士様あぁぁぁぁぁあああ」
 その途端、何かひょろ長いものが泣き叫びながら転がり込んでくる。
 季翔だ。
「嫌な予感」
 孔明は、季翔を指差した。
「孔明さん」
 花は孔明をたしなめ、泣いている季翔にかがみこむ。
「季翔さん、どうされたんですか? 大丈夫ですか?」
 切羽詰って戸を叩いていたのが季翔だとわかっても、疑問は解消されなかった。それどころか、誰かかどこかで何かあったのかと不安が広がる。
「道士様ぁあ! あんたほんとに優しいな!」
 がばりと起き上がった季翔は、感激したように、花に抱きつこうとした。
「花に触らないでくれる?」
 しかし、季翔の長い腕が花に届く前に、その額を棒で突かれ、季翔はまた転がる。
 いつのまにか、孔明の手に、厨房の隅に置いていたほうきが握られていた。
「いでぇぇ!」
 ごろんごろんと転がった季翔は、戸にぶつかって動かなくなる。
「き、季翔さん!?」
 花は慌てて駆け寄った。
「亮がいじめる」
 仰向けで伸びている季翔は、半泣きながらも意識があったので、花はひとまずほっとする。
「孔明さん、ひどいです!」
 それから、孔明を非難した。
「どうして君はそっち側につくかな。ボク、君のこと、助けてあげたんだよ? こんなおじさんに抱きつかれるなんて、気持ち悪いでしょ?」
 孔明は肩を竦めて、悪びれない。
「ひっでーよ、亮! 俺はまだぴちぴちだぜ? あ、いや、お前に比べたら、大人だな、うん。お前、俺が道士様のこと抱きしめたら、その大人の男の魅力に、道士様がめろめろになっちゃうって心配してんだろっ? ま、当然だな!」
 それに対する季翔も全く堪えた様子もなく、元気に立ち上がった。そして、無駄に前向きな妄想をして、孔明を不快にさせている。
「それ、十割ないけど、すごく不愉快だから、やめてくれる?」
 孔明はにっこり笑って、再びほうきで季翔の胸を突いた。
「ぐおっ!」
 孔明は全く手加減していないらしく、季翔は悲鳴を上げて倒れる。
「孔明さん!」
 花は、孔明があまりに乱暴なので叱咤し、ほうきをとりあげた。
 それに、これでは全く話が進まない。
「季翔さん、今日はどうしたんですか? どうしてこっちから?」
 花は、どうにかまた起き上がった季翔に聞いた。
「ああ、表に行ったんだけど、どんなに呼んでも返事がないだろ? でも、出かけてるって感じでもなかったから、中にいんだろって思って、こっちに回ってきたんだ」
 ここでいかがわしいことをしていたときに、呼ばれていたと知り、花は顔を赤らめてしまう。
「でもよう、こっちの戸を叩いても、全然返事がないから、何かあったんじゃないかって、心配したぜ」
「声かけろよ」
 孔明がぼそりと呟いた。
 それはもっともだ。どうして勝手口では無言で戸を叩き続けたのかは、季翔だからとしか言いようがない。
「そしたら絶対に開けなかったのに」
 孔明は、さらにぼそりと続けた。
「亮、何か言ったか? うん? なんか、道士様、顔赤くねえか?」
 季翔は、孔明の呟きも拾えず、花が恥ずかしがっていることもわからず首を傾げている。
 季翔でよかったと、花は思った。これが晏而だったら、絶対に色々と気づいている。それでさらに恥ずかしい思いをしたことだろう。
「それで、なに?」
 花の話を引き取って、孔明が季翔に聞いた。孔明もようやく、時間の無駄だと気づいたのだろう。
「え?」
 しかし、前置きもなく促されて、季翔はきょとんとしている。
「何か用があったから来たんだろ。三十秒でその用を済ませて出て行くなら、特別に許してあげるよ。はい」
 孔明は、異論を挟む暇も与えず、いーち、にーい、と数え出した。
「そ、それは……」
 それに対して、季翔がなぜか口ごもる。
「なに? もしかして、用もないのに来たの?」
 その途端、孔明からゆらりと何かが立ち昇った。
 尋常でない迫力に、季翔だけでなく、花もぞくりと背筋を冷やす。
「ち、ちげーよ! 用ならあるって! ああ、そうだ。どっからどう見ても立派な用事がある!」
 季翔は慌てて胸を張って、用事を主張した。
「はい」
 それならばと、孔明は手まで差し出して、季翔に話すよう促す。
「だけど、三十秒じゃ終わらねえんだ」
 しかし、季翔はまだまごついていた。
「ボクが終わらせてあげるから、大丈夫」
 それに対して、孔明が胸を叩く。大船に乗ったつもりで話してみろ、という素振りだ。
 季翔は、ごくりと唾を飲み込む。
 それが泥船とも気づかない季翔は、孔明が再びカウントダウンを始めようとするのを見て、慌てて口を開いた。
「今晩、ここに泊めてくれ!」
 孔明は、季翔の胸をどんと押す。
「ひでーよ、亮! 俺とお前の仲じゃねえか!」
 孔明によって強制的に排除されそうになるも、季翔は戸口に手を突っ張って、なんとか踏みとどまった。今まさに、生来の体の長さが生かされている。
「ボクと君の間に、どんな関係もないよ」
 孔明は冷たく言い切った。心からそう思っているのだろう。
「じゃあ、俺と道士様の仲……ぶほっ、つめてー!」
 季翔が言い換えようとするのを最後まで言わせずに、孔明は季翔の顔面に冷水をかける。
「こ、孔明さん!」
 花はびっくりして孔明の腕を引いた。いくらまだ陽が出ているとはいえ真冬だ。頭から水をかぶったら風邪をひいてしまう。
「季翔さん、すみません」
 花は急いで布を持ってきて、季翔を拭った。
「家に泊まりたいって、何かあったんですか?」
 突然大晦日にそんなことを言ってくるのには、なにかわけがあるのだろうと思って、花は聞く。家賃未払いで、家を叩きだされてしまったのだろうかというのが、一番に浮かんだものだった。
「せっかく年越しだってのに、一緒に過ごしてくれる人がいなくて、寂しくてよう」
 そんな失礼なことを考えているとは知らず、優しく聞いてくれる花に、季翔はぐすんと涙をすする。
「晏而のとこに行けばいいだろ」
「晏而、嫁さんの実家に行くって言ってて、ほんとに家がすっからかんで」
 それはもちろん逃げたのだろう。毎年、寂しいからと家に上がりこまれて、家族団らんもなかったに違いない。しかし、晏而には、季翔を青州から連れてきた責任があるはずだ。その責任をきちんと取って、今年も面倒を見ればいいものを、と孔明は拳を握りしめた。
「俺、嫁さん家までは行けねえし。……どこにあるか知らないんだ」
「お、奥さんの実家には行かない方がいいと思いますよ」
 まるで、知っていたら押しかけると言わんばかりの発言に、花は慌てて止める。
 花にも、晏而のこれまでの正月が思い浮かぶようだった。
 しかし、年越しをひとりで過ごすというのもさびしい話だ。孔明は嫌がるとわかっているが、花は季翔を追い出すことはできなかった。
「孔明さん」
「駄目」
 花が頼む前に、孔明が却下する。花の考えなど、お見通しなのだろう。だが、花も反対されることはわかっていた。そんなことではくじけない。
「……って言っても、聞かないよね、君は」
 しかし、花が説得のために口を開く前に、孔明はそう言ってためいきをついた。
「孔明さん……それじゃあ……」
「いいよ。でも、今年だけだからね。来年は、君がなんと言おうが、絶対に叩きだすよ」
 孔明は許しながら、来年への予防線も忘れない。だが、何であれ、許可は許可だ。花は、喜んでお礼を言った。
「ありがとうございます!」
「亮! ありがとう!! やっぱり、持つべきものは友だちだな!」
 季翔も感激して、花にかけてもらった布を払う勢いで、孔明に飛びつこうとする。
「君と友だちになった覚えはないよ。それに近づかないで。ボクまで濡れるだろ。ボクは君と違って風邪を引くんだから」
 孔明はそれをさらりと躱して、嫌味を言った。
「ああ、お前、体弱いもんな」
 しかし、季翔は真顔で心配そうに頷く。
 孔明は深くため息をついた。


「うっわっ、すっげー。うまそーっ!」
 年越しのための料理を並べると、季翔は歓声をあげた。
「これ、道士様が作ったの? ぜんぶ?」
「はい。たくさんあるので、遠慮しないで食べてくださいね」
 孔明もおいしいと言ってくれるし、料理を作ると喜んでくれるが、それとはまた違った表現の仕方に、つい花の頬も緩む。作ったものをおいしそうに食べてくれるのは、やはり嬉しいものだ。
「食べる、食べる」
 季翔は言葉通り、ものすごい勢いで食べ始めた。
「花、ボクの分は別にしておいて。全部食べられちゃいそうだ」
 季翔のあまりのペースの速さに危機感を覚えて、孔明が言う。
「はい」
 花は笑って頷いた。
「あ、お酒、持ってきますね」
 そして、孔明と季翔にお酒を注ぎたそうとして、すでにどの瓶も空になっていることに気づき、立ち上がる。
 そのとき、玄関の方から声が聞こえた。
「誰か来たみたいですね」
 花と孔明は顔を見合わせる。
 すでにもう夜も更けて、あと数刻で年が変わるといった時間だ。こんな夜の訪問者は、何かあったのではと、不安が過ぎる。
「晏而だったりして」
 季翔がのんきに言った。もうほろ酔いなのか、顔が赤い。
「奥さんの実家なんだろ」
 孔明は冷たく言って立ち上がった。
「いいよ、花。ボクが行くから。花は、お酒、取ってきて」
「は、はい」
 ものすごく嫌な予感のする孔明は、自ら買って出て玄関に向かう。
「誰? 留守だけど?」
 玄関に行くと、孔明は扉に向かって、そう呼びかけた。
「孔明様! このような時間に申し訳ございません! 城からの使いです!」
 すると、扉の向こうから、差し迫ったような硬い声で返事があった。
 孔明は、少し悩んで、戸を開ける。
「よう」
 開けた瞬間見えた顔に、孔明は問答無用で閉めようとした。しかし、そこに素早く足が挟まれて、それは叶わない。
「なに」
 足の幅だけ開いた扉から覗く士元に、孔明は不機嫌を全開に問いかけた。
「ひでえな。居留守もそうだが、それが友だちに対する態度か?」
「友だちなら、新婚の大晦日に訪ねてこないだろ」
「もう新婚じゃねえだろ」
「何年経っても邪魔されたくないってことだよ」
 孔明は、力を込めて、無理矢理扉を閉めようとする。
「いてててててて!」
 士元は悲鳴を上げた。孔明が迫っているのは、足を引くか、潰されるかの二択だ。
「孔明さん、どうしたんですか!?」
 士元の悲鳴を聞きつけて、花が中から飛び出してくる。
 花に知られてしまっては、孔明もそれ以上の暴挙はできなかった。孔明は諦めて、力を緩める。
「士元さん」
 花は、涙目の士元を見て、驚いたように目を見張った。
「よう、奥方殿。近くにいたから、寄ってみた。ひとりで年越すってのも、味気ないと思ってな」
 士元は、孔明にされたことは言わずに、手に提げていた酒瓶を持ち上げてみせる。そのあたりは賢いが、孔明の家に来た理由は季翔と同じだ。こちらももうだいぶ酒が入っているようだった。
「そのままその店にいればいいだろ」
 孔明は、まだ士元を家の中に入れまいと体を張って防いでいる。
「あの、悲鳴が聞こえたんですけど……」
 花は、そんな二人を見比べて、眉根を寄せた。
「おー、あんた! いいところに来たな! 飲もうぜ!」
 しかし、そんな花の疑問は、後からやってきた季翔に完全に潰された。
「お、先客か? にぎやかでいいな」
 士元は、季翔を見て、嬉しそうに笑う。
 酔っ払い同士、瞬時に意気投合したらしい。
「ああ、ちょうどいい。二人で飲みに行ったら? 一緒に年越す相手ができてよかったね」
 孔明はそんな二人をまとめて追い出そうとした。
「薄情なこと言うなよ。親友と飲もうと思って、わざわざ来たんだぜ?」
「なー? さー飲もう飲もう」
 しかし、季翔と士元は、まるで孔明の言うことを聞かず、ずかずかと中に入っていく。
「あ、ちょっと」
「え? あ……」
 孔明と花は慌てて追いかけた。
「これ、奥方殿が作ったのか? 豪勢だな。孔明だけじゃ食べきれんだろ」
 士元はすでに席について、花の料理を食べ始めている。酔っ払いならではの図々しさだ。
「そうそう。俺たちが手伝ってあげないと」
「だな」
 季翔と士元は顔を見合わせて頷き合う。
 そうして、孔明ですらなすすべなく、士元にも居座られてしまった。
 花も驚く展開だ。
「ボクの分まで食べたら、叩きだすからね」
 孔明はもう追い出すことは諦めたのか、自分の分の料理の確保に回った。
 まるで子供染みた様子に、花は笑ってしまう。
 今までにないにぎやかな年の瀬は、あっという間に時間が過ぎていった。


 鐘が鳴っている。
 年が明けたのだろう。
 花は、はっとして、顔を上げた。卓に伏せて、うつらうつらしていたようだ。
 見れば、孔明たちは床に転がっている。その周りには、空の杯や酒の瓶が散っていた。花が寝ている間に、飲み潰れたようだ。
 花は三人に毛布をかけた。
 せっかくの年越しに、起きているのがひとりで、少し寂しい。けれど、平和そうな寝顔に、笑ってしまう。
「あけましておめでとうございます」
 三人に向けてそっと囁いて、花は立ち上がった。
 簡単に片づけをしておかないと、明日の朝が大変だ。三人を起こさないように気をつけて、食器をさげる。
「花」
 台所で皿を洗っていたら、背中から声をかけられて、花は体を震わせた。振り返って見ると、孔明が目をこすりながら入ってきている。明日の昼まで起きそうにもないくらい寝入っていたはずなのにと、花は驚いた。
「孔明さん、どうかしました?」
 孔明は、花の質問に答えず、花を抱き寄せる。
「あけましておめでとう。今年もよろしく」
 そして、そう言った。
 それは、これまで夫婦になって二度、一緒に年を越えたとき、年が明けて最初に交わしてきた言葉だった。
 もしかして、それを言うために、がんばって起きてきたのかと、花は驚くのと同時に嬉しくなった。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 花も大切な言葉を返した。
「うん」
 孔明は頷いて、ぎゅっと花を抱きしめる。
 その抱擁に、少しだけ涙が滲んだ。
 孔明の、ここにいてほしいと望んでくれる気持ちが、共に新年を迎えられた喜びが伝わってくる。
「孔明さん。今年も、来年も、その次も、ずっとずっとよろしくお願いします」
 花も孔明を抱きしめ返した。
 もうここで生きていくことしか考えられないのに、新たな年を迎えるたび、ここにいられることを感謝している。きっとそれは、ずっと続くのだろう。
 けれど、孔明と花は、確かに去る年も共にいて、来し年も共にいる。それもまた、ずっと続くことだ。
 繰り返す一年をいつまでも一緒に過ごしていたい。
「うん、ボクも」
 二人は顔を見合わせて小さく笑うと、口づけをした。


 翌日、昼過ぎに、孔明の屋敷を訪れる者があった。
「あけましておめでとう!」
 晴れやかな笑顔で挨拶をするのは、晏而だった。ひとりではなく、一家総出だ。
「おめでとうございます、晏而さん」
 出迎えた孔明と花は、予想外の客に少々面喰いながらも、挨拶を返す。
「ごめんなさいね、正月早々。この人が挨拶しに行くってきかないもんだからさ」
 晏而の妻は、申し訳なさそうにしていた。
「いいえ、寄ってくれて嬉しいです」
 花はそれに慌てて首を振る。来てくれたのは嬉しい。戸惑っているのは他に理由があるのだ。
「晏而、奥さんの実家に行ってるんじゃなかったの?」
 孔明は胡乱げに晏而を見る。
 昨日、季翔が転がり込んできたのは、そのためだったのではないか。どうして、晏而が爽やかな笑顔でここにするのだろう。
 それは花も疑問だった。
「ん? どうして知ってんだ? 俺、話したっけ?」
 晏而が首を傾げかけたとき、家の中からどたどたと季翔たちが出てくる。
「あー、晏而だー!」
「よう、一緒にやるか?」
 季翔と士元は、晏而を見て嬉しそうだ。
「って、なんで、お前たち……」
 それに対して、晏而はぎょっとして身を引く。
「晏而が逃げ出したからに決まってる」
 孔明が低い声で言った。
「当然だろっ……って、亮! 怖いから!」
 晏而は頷きかけて、孔明の冷たい視線に怯えた。
「あー、わかった、わかった。こいつは引き取るよ。季翔、家に来い」
 晏而は降参して、季翔の腕を引く。もちろん、季翔に異存はなく、されるがままに従った。
「あんたも来るか? 安酒しかねえが……」
「酒ならなんでも」
 それほど顔見知りでもないはずなのに、晏而は士元までも回収する。
 それでようやく、孔明の瞳が和らいだ。
「じゃ、じゃあな、亮、道士様」
「またねー」
「いやあ、うまい酒に料理、ありがとな!」
 ぞろぞろと出て行く晏而たちを見送って、孔明はほっとしたように息を吐いた。
「あーあ、これでようやく君と寝正月できる」
 嵐のような騒がしさが去って、花も少し落ち着いた気持ちになる。しかし、部屋の中に戻ると、なんともいえない寂しさが襲ってきた。
 季翔と士元が座っていた席が空いている。さっきまで使われていた杯や箸が、使いかけと言った様子で置かれている。がらんとしていて、家の中が広く見えた。とても静かだ。
 孔明を見れば、花と同じように、なんだか物足りないような顔をしている。
「あの、孔明さん」
 花は思い切って声をかけた。
「なに?」
「これから、晏而さんのお家にお邪魔しませんか?」
「は? 正気? せっかく、二人きりになれたんだよ?」
 孔明は目を剥いているが、花はさきほど見たものを信じて、強く誘う。
「二人きりはいつでもできるじゃないですか。でも、今年はみんなで過ごしませんか? 料理もたくさんありますし」
 孔明も寂しいと思ったはずだ。二人きりの時間も楽しいが、みんなで過ごす正月というのもいいものだ。
 花は期待を込めて、孔明を見つめた。
 すると、孔明はひとつ息をつく。
「……仕方ないな。それじゃあ、支度をしよう」
「はい」
 渋々といった様子の孔明に、花は大きく頷いた。
 今から追いかけていったら、晏而はきっとひどく驚いて、そしてとても喜んでくれるに違いない。
 その顔を思い浮かべて、花はくすりと笑った。

 

 

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