あなたと一緒に年越しを
明日は新年だ。鴎外邸では、大掃除も正月の準備も終わり、ゆっくりと新しい年へ向かう時間が流れていた。大掃除も新年の準備も現代より大変だったが、大みそかのこのゆったり感は現代にはない。テレビもラジオもないから家の中はとても静かだ。
お手伝いのフミさんはすでに昨日から休暇に入っていて、屋敷には主の鴎外と居候の春草と芽衣の三人だけだった。フミさんがいないのは寂しいが、いつも夕食までの時間は、それぞれの部屋で、物書きをしたり絵を描いたりしている鴎外と春草が、今日はサンルームでのんびり寛いでいるので、芽衣はなんだかうきうきとしていた。
「雪が降るかもしれないね」
窓の戸締りを確認していた鴎外が、外の様子に目を細める。
「ああ、ひどく冷えましたね」
ソファに座っている春草がそれに応えた。
ふたりの会話に、春草の向かいに座っていた芽衣も振り返って窓の外を見た。
まだ夕方という時間だが、曇っているため暗かった。どんよりとした曇天は、鴎外の言う通り、今にも雪を降らしそうだ。冷たそうな木枯らしが庭を吹き抜けていく。外はとても寒いに違いない。
(チャーリーさん、大丈夫かな)
その様子を見ていると、住所不詳の顔見知りの奇術師が思い出された。彼のことだから、奇術で稼いで温かい寝床を確保しているとは思うが、芽衣は未だ滞在先を知らないので、少し心配になった。もしかしたら、実はお金がなくて、この寒空の下、日比谷公園のベンチの下で寝泊まりしているかもしれない。
気になり出すと止まらず、芽衣は立ち上がる。
「おや、子リスちゃん。どうしたのだい?」
突然立ち上がった芽衣に、鴎外が首を傾げた。
「私、ちょっと出かけてきます」
「は?」
春草の驚いたような、信じられなさそうな声を背中に受けながら、芽衣はサンルームを飛び出した。階段を駆け上がり、自室として使わせてもらっている角の部屋に入ると、外套を着る。それから、少し考えて、箪笥の中から無地の紺色の襟巻を取り出した。先日自分で買ったものだが、地味だ何だと言われて、鴎外に桃色の襟巻を贈られてしまっていた。鴎外にもらったその襟巻も取り出して首に巻き、紺色のものは風呂敷に包む。傘をひとつ手に取った。
「出かけるってどこにだい? もう外は暗いし、雪が降るかもしれない」
階段を駆け下りてエントランスに行くと、鴎外と春草が出てきていた。
「日比谷公園です。夕餉までには戻ります」
「日比谷公園」
鴎外の眉がぴくりと動く。
「君、物盗りや人さらいが、大みそかだからって休んでいるとでも思っているの?」
「そ、そんなこと思っていません」
春草に冷ややかな目で見られて、芽衣はぶんぶんと首を横に振る。
「十分気をつけます。それに、すぐ帰ってきますから」
芽衣はふたりを安心させるように笑顔を見せ、ドアを封鎖される前にと、屋敷を飛び出した。
「君!」
「子リスちゃん!」
ふたりの呼びかける声が聞こえたが、芽衣はそれに答えなかった。走って表通りに出て、人力車を捕まえる。車を使えば、神田から日比谷までは、それほど時間はかからない。ほどなく車は日比谷公園に到着した。
ふたりを心配させたくはないので、さっさと用事を済ませて帰ろうと、人力車の車夫に帰りも頼むと告げて公園の中に入る。
大みそかの夕方に、公園で遊ぶ人もなく、社寺の門前でもない日比谷公園はいつになく閑散としていた。
(チャーリーさん、いないのかな)
ぐるりと公園を一巡りしてすれ違ったのは、家路を急いでいるような紳士風の男性ひとりだけだった。目当ての人の姿もない。芽衣の心配は杞憂で、チャーリーはしっかり風雪をしのげる温かい寝床を確保しているのだろう。
何だか期待外れで、無用だった傘とマフラーを持つ手が力なく下がる。
そして、急に天気の悪さと寒風とが気になりだし、心細くなった。
(帰ろう)
芽衣は鴎外邸に戻ろうと踵を返す。
「娘サーン!」
そのとき、聞き覚えのある声が微かに聞こえて足を止めた。
「八雲さん」
振り返って目を凝らすと、知り合いの帝國大学の外国人講師がものすごい勢いで走ってくるのが見えた。
「ああ、やはり娘サンでしたか!」
八雲は芽衣のもとに滑り込むようにやって来る。
「こんにちは」
辺りは暗かったがまだ時間的には早いので、芽衣はそう言った。
「はい、こんにちは。奇遇ですね。いえ、運命でしょうか! 娘サンと私はここで出会うことが宿命づけられていたのですね!」
八雲は、いつも通りのテンションの高さで偶然の出会いを喜んでくれる。
「お散歩していたんですか?」
いつもながら面白い人だと思いながら、芽衣は尋ねた。八雲は、日比谷公園の隣の帝國ホテルで暮らしている。そんな彼が、コートとマフラーを身につけて、本を手にしているだけなので、散歩なのだろうと思った。
「いえ、大学に忘れた本を取りに行った帰りなのですよ。少し寄るところがあって途中で車を降りたのですが、ここを歩いてよかったです。貴女と会えた」
八雲は本当に嬉しそうに笑ってくれるので、芽衣も嬉しくなる。街中で偶然出会って、八雲ほど喜んでくれる人はそういない。
「娘サンは、おひとりでこんなところで、何をされているのです?」
「私は――」
逆に八雲に問い返され、芽衣は答えようとして、言葉に詰まる。チャーリーのことが心配で出てきたのだが、それは空振りだった。そもそも、それを話すには、彼が屋根のあるところで寝ているか心配で、という話からしなければならず、八雲に不審に思われないように工夫するのはなかなかハードルが高い。
「用事があったんですけど、なくなったので帰ろうとしていたところなんです」
結局、芽衣は、説明になっていない説明をした。親しみを持ってくれている八雲に対して、何となく後ろめたくなって、風呂敷包みをぎゅっと抱きしめてしまう。
「……そうですか」
何も中身がわからない説明だというのに、八雲は追及せずに頷いてくれた。芽衣に話したくないことがあると察して、尊重してくれたのだ。
(八雲さんは優しいな)
芽衣は八雲に心の中で感謝した。
「娘サン。もしよろしければ、少し温まっていかれませんか? 帝國ホテルのラウンジのスイーツはとてもおいしくて、お茶にぴったりなのです。ぜひ娘サンとご一緒したい」
その上、八雲は、冷えた体に、とても魅力的な誘いをしてくれる。
芽衣の心は大いに揺さぶられたが、すんでのところで理性が勝った。鴎外たちの合意を得る前に飛び出したのだ。早く帰って鴎外たちを安心させた方がいいし、身のためだ。怒っているだろうふたりを想像して、芽衣はそう思う。
「すみません、車を待たせているので」
芽衣は、帝國ホテルのスイーツに、たくさんの後ろ髪を引かれながら断った。
「ああ、ならば、その車夫サンに、森サンへ伝言を頼みましょう」
「え?」
「私とティータイムをするので少し遅くなります、と。帰りは私がお送りするのでご心配なさらずと伝えれば、森サンも安心されるのではないでしょうか」
八雲は、芽衣が何を気にしているのかわかったらしい。
確かに、それならば、芽衣がひとりでなく八雲と一緒だとわかるし、鴎外たちも安心するだろう。帝國ホテルのスイーツが現実味を帯びてきて、芽衣はわくわくした。
「ふふ。娘サンさえよければ、一緒に新しい年を迎えてもよいのですよ。ルームサービスでローストビーフを頼んで、ふたりで年越しローストビーフもいいですね」
年越しそばならぬ年越しローストビーフ。なんと魅惑的な響きだ。芽衣は、ジューシーなローストビーフを思い浮かべて、口元をだらしなく緩める。
「新しい年になったら初詣に行って、八百万の神様に私たちの永遠の愛を誓いましょうか」
しかし、八雲の妄想は留まることを知らず、右手を取られたところで、芽衣ははたとローストビーフから我に返った。
永遠の愛は誓わないし、年越しを突然八雲のところでするというのは、鴎外たちも驚いてしまうだろう。
「あの、それは――」
「おい。何をしている」
芽衣が丁重にお断りしようとしたとき、低い声で咎められて、ぎくりと体が震えた。その声には聞き覚えがあり、振り返らずとも、誰なのかわかった。警視庁妖邏課の藤田警部補だ。
[newpage]
「藤田サン! 怖い声で突然声をかけないでください! 娘さんが怖がっているではありませんか!」
八雲が抗議をして、自然な流れで芽衣を背中に隠したが、八雲の肩越しに藤田の鋭い瞳と目が合う。初対面のときのイメージがまだ完全には払拭できていない芽衣は、それだけで身が竦んだ。
「怪しい外国人が、娘に声をかけているのが見えたので来てみれば、公道で堂々と女の手を握っているとはな」
藤田は芽衣から八雲へと視線を移し、じろりと睨みつける。
「彼女と私はこういう仲なので問題ありません」
八雲は見せびらかすように、つないだ手を藤田の目線まで持ち上げた。
(ど、どんな仲でしたっけ……!)
火に油を注ぐような八雲の言葉に、芽衣は藤田に向けて、ぶんぶんと首を横に振った。藤田に誤解されたら、大みそかだというのに、逮捕されて留置場に入れられてしまうかもしれない。
「藤田サンは、こんな日でも見回りですか。警察官は大変ですねえ。大みそかに大切な人と過ごせないなんて!」
八雲は自分の優位性を誇示するように、ふんと鼻を鳴らして、胸を張る。
「こんな日だからだ。貴様のように風紀を乱す輩がとかく出やすい。秩序を守るためにも必要なことだ」
それに対して、藤田はいささかも動じた様子はなく、いつもと変わらない厳めしい態度で応じた。
「おい、娘。こんな男に関わり合っていないで、早く家に帰れ」
「ノォォ! 藤田サン! 馬鹿力!!」
藤田は、八雲の抗議も抵抗もものともせず、涼しい顔で八雲の手を離させ二人を引き離す。
「―-ああ、いや」
そのまま芽衣の手を離そうとした藤田は、途中で何かに気づき、軽く舌打ちをして、再び、芽衣の手首を掴んだ。
まるで逮捕拘引されるような強い力に、芽衣は怯えて心臓がどきどきしてしまう。
「もう朧ノ刻だ。途中、物の怪に絡まれても厄介だからな。俺が送ろう」
しかし、藤田は逮捕ではなく、警察官としての職務を果たそうとしてくれるらしかった。
「あ、あの――」
「それにしても、娘。こんな日にこんなところをふらふらして、新年の準備は済んでいるのだろうな?」
どきどきして申し訳なかったが、藤田とふたりの道行きは緊張してしまう。これまた丁重にお断りしようと芽衣は口を開いたところ、藤田に先んじられた。藤田は真面目できちんとしているから、大みそかに家にいず、ふらふらしていることが信じられないのだろう。
「は、はい。いちおう」
その鋭い瞳に気圧されながら、ほとんどフミさんがしてくれました、と心の中で付け足して、芽衣は頷く。
「一応?」
芽衣の答えは不十分だったようで、藤田は不満そうに眉を動かした。
「森一等軍医殿は、正月の準備もまともにしてもらえんのか」
「お、お手伝いのフミさんがちゃんとしてます!」
フミさんの準備は完璧だ。それを疑われるのは心外で、芽衣は強く訴える。
すると、藤田はなぜか呆れたように顔を顰めた。
「娘、本郷に寄っていくぞ」
「え?」
「先日、牛肉をもらった。それを煮たものがある。新年なのだから、食事くらいまともなものを用意しろ」
牛肉と聞いて、芽衣の胸が高鳴る。牛肉だけでも幸福感に満ちているのに、藤田が調理をしたものなどおいしいに決まっている。それを分けてくれるなんて、なんて優しい人だろうと、芽衣は藤田への印象を改めた。
「藤田サン! そうやって牛肉でつって、さりげなく自宅に連れ込もうとするのはいただけませんね! 娘サンも、そんなに目を輝かせてっ!」
すっかり牛肉にほだされた芽衣の腕を、八雲が引っ張る。
「妙な勘繰りはよせ。料理を取りに寄るだけだ」
「そうですよ。藤田さんは警察官です。牛肉をくれるいい人です」
「娘サン! 完全に牛肉の虜になっているじゃありませんか! いいですか、娘サン。このわるーい警察官は、試食を装ってあれやこれやと食べさせて、新年だからと酒もふるまって、娘サンを酔わせた挙げ句、娘サンをおいしく頂いてしまおうという恐ろしい計画をしているに違いありません!」
八雲は手を大きく振って力説する。
「まるでヘンゼルとグレーテルですね」
八雲の話が荒唐無稽過ぎて、芽衣は思わず笑ってしまった。
「ああ、娘サンはご存知ですか――って、笑うところじゃありませんっ!」
この時代でグリム童話を知っている日本人は珍しいのか、八雲は興奮していた瞳を和らげかけ、すぐさま話の筋を思い出して首をぶんぶんと振った。
「誰がそんなことをするか」
ひとり騒がしい八雲を、藤田が呆れた目で一瞥し、芽衣の腕を掴み直した。
「娘、行くぞ」
「行かせません! 娘サンはこれから、私と楽しいティータイムをするのです!」
八雲は、藤田とは反対の手を取って昂然と言い切る。
二人に挟まれて、芽衣は困った。八雲の誘いは断るつもりであったし、冷静になってみれば藤田と帰るのはやはり気まずい。帝國ホテルのスイーツも藤田の牛肉も心惹かれてやまないが、ここはどちらも断るのが角が立たないだろう。
「あの――」
そう考えて、芽衣が一歩後ろに下がったときだった。
「川上がぐすぐずしてるから、こんな時間になっちゃったじゃないか!」
「だから、悪いって謝ってんだろ――て、鏡花ちゃん! 前見ろ!」
突然、にぎやかな男の人たちの声がしたと思ったら、背中にどすんと衝撃を受けた。
「きゃっ!」
「わあっ!」
芽衣の悲鳴と誰かの悲鳴が重なる。そのうえ、地面に倒れた芽衣の体の上に何かが重なった。そして、芽衣の目の前に見覚えのある白いウサギが、ぽふ、と落ちてくる。愛らしい赤い瞳と目が合って、さきほど聞こえた名前は空耳ではなかったと悟った。
「いったたた……な、なに? て、わ、うわぁっ! あ、あんた、なにやってんだよ! グズ!」
芽衣の体の上のモノは、自分が下敷きにしたものを手探りで確かめて、それが人でしかも芽衣だとわかると罵って飛びのいた。白いウサギが跳びはねて、芽衣の視界から消える。
他人に対してそんな容赦のない罵倒をする、ウサギ連れの青年は、芽衣の知り合いの中で、ひとりしかいない。鏡花だ。また厄介なことが増えつつあると思いながらも、とりあえず重さがなくなって、芽衣はほっとした。そんな芽衣に、大きな手が差し出される。
「お、おい、大丈夫か? 悪かったな」
芽衣の前に跪いて手を差し伸べたのは、スーツ姿の音二郎だった。
「い、いえ、こちらこそすみません」
芽衣も謝りながら、音二郎の手を借りて立ち上がる。
「怪我はないか?」
「はい」
音二郎は、散らばった芽衣の荷物も拾って渡してくれた。
「あんた、こんなところで何して……げえ、藤田!」
一方、鏡花は芽衣に文句を浴びせようとして、傍らに立つ藤田に気づき、顔を盛大に顰めた。本人を前にして、堂々とした反応だ。
「あ、あの、こんにちは」
芽衣は、藤田と鏡花、音二郎の間に事が起こらないよう、二者の間に立って、音二郎と鏡花に挨拶をした。
「すみません。急いでいるところを邪魔してしまったみたいで」
芽衣が好んで道のど真ん中にいたわけではないが、鏡花を転ばせてしまったのは事実なので、改めて謝る。そして、さりげなく二人に進むことを促した。藤田と音二郎は取り合わせが悪すぎる。
「いいって。前を見てなかった鏡花ちゃんが悪い」
「まさか道の真ん中で、ぼーっと突っ立ってる奴がいるなんて思わないからね!」
音二郎が気にするなと笑うのに対し、鏡花はどこまでも自分の非を認めない。芽衣はどちらに反応したらよいか迷いながら、もう一度、すみません、と謝った。
「どこかに行く途中なんですか?」
それから、先を急いでいた雰囲気がなくなってしまっている二人に、直接的に聞く。
「ああ。この先にな、大みそか限定で、珍しい出し物をする小屋があるってんで、鏡花ちゃんが見たいって駄々ぁ捏ねるから、連れてきてやったんだ」
「な、馬鹿! 違うだろ! 川上がどうしてもって言うから、僕が付き合ってやってるんじゃないか!」
「まあ、確かに、俺も見たかった。けどよ、男二人で見に行くのもなんだなとも思ってた」
きゃんきゃんと吠える鏡花に頷いてから、音二郎は芽衣を見た。
どうしてこちらを見るのだろうと、芽衣は首を傾げる。
「お前、こんなところで何してたんだ? 暇なら一緒に来ないか?」
音二郎にさらりと誘われて、芽衣は目を瞬いた。全く予想外の展開だ。
「な、何言ってるんだよ、川上!」
「いいだろ、鏡花ちゃん。二人より三人の方が楽しいに決まってる。な、お前も見てみてぇだろ? 人に聞いた話で詳しいことは分からねえんだが、これがけっこう面白い出し物らしくてな」
反射的に反論する鏡花を笑っていなして、音二郎は芽衣をさらに誘う。楽しそうに話す音二郎を見ていると、芽衣まで楽しい気持ちになってきて、少し見てみたいなと気持ちが傾いた。
「ちょーっと待ってください!! 彼女は、これから私と帝國ホテルでティータイムをするのです!」
そんな芽衣の機微を敏感に感じ取ったのか、八雲が強引に割って入ってきた。
「川上。その小屋は正規の手続きを踏んでいるのか? そうでないならば――」
「そんなこた小屋の主に聞けってんだ。それとも今から捕り物に行くか? まあ、そうなったら、ふたりで横濱で年を越すのもいいな」
詰問口調で尋ねる藤田を睨みつけてから、音二郎は芽衣の肩を組んできた。鏡花と張る態度の悪さだ。愛想よくとまでは言わないが、せめて普通にしていれば、関係はもう少し穏やかになるかもしれないと思うが、問題はそれほど簡単なことではないのだろう。
そして、芽衣にとって、今はそれよりも、音二郎のプランが遠くなっている上に、ふたりきりになっていることの方が問題だった。
「あの、音二郎さん」
ひとまず肩に回された腕を外して、芽衣は音二郎に向き直る。横濱には行かないし、残念な気持ちもあるが小屋にも行かない。夕餉までには帰ると言って出てきたのだ。そろそろ戻らないと鴎外たちが心配するだろう。
「あ~も~、グズ! 早くしないと年が明けちゃうだろ!」
「へ?」
鏡花の約束が成立しているかのような怒り方に、芽衣は一瞬、承諾したような錯覚を覚えてから、そんなことはないと思い直す。まだ返事はしていないはずだ。
「まあ、年はまだ明けはしねえが、早く行った方がいいには違ぇねえな。誘いが被ってるみてえだが、どうするんだ? まさかこの川上音二郎の誘いを断ったりしないよな」
「いいえ。娘サンは私とお茶をするのです!」
「いや。本郷だ」
「グズ!」
四人に迫られて、芽衣は弱った。しかし、ここはきちんと帰るつもりだと告げるべきだと思い、口を開く。
「あの、私、帰―-」
「子リスちゃん! ここにいたのか!」
そこに、薄暗い公園には不似合いな、華やかな声が響き渡った。
「鴎外さん! ……春草さん!」
振り返った芽衣は、十メートルほど先に並ぶ二人に目を丸くした。
朗らかな鴎外と、詰まらなそうな春草だ。
[newpage]
「帰りが遅いから様子を見に行こうと春草が言うものでね」
どうしてここにいるのだろうという、芽衣の心の中の疑問に答えるように、鴎外が言う。
「鴎外さん、話を曲げないでください。あなたが言い出したんですよ。子リスちゃんの帰りが遅すぎる。春草、僕らは今すぐ日比谷公園に行くべきだ! って」
春草が声真似をまじえながらも、冷静に訂正した。
「春草だって、夕餉が始められないから様子を見に行くと言っていたではないか」
「……まあ、そうですけど。遅いよ」
鴎外の指摘を渋々認めてから、春草は芽衣を睨むように見た。
「す、すみません」
こんなところまで二人を来させてしまって、芽衣は申し訳なく思う。
「子リスちゃんが道に迷ってしまっていたのかと思っていたのだが、まさか人間に捕まっていたとはね。家の外は危険がいっぱいだ」
鴎外はつかつかとやって来ると、滑らかに芽衣の手を取る。
「用事は終わったのかい?」
「は、はい……」
思いのほか優しく聞かれ、飛び出してきたことや、戻りが遅くなったことを怒られると思っていた芽衣は、少し戸惑いながら頷いた。実際は、用は終わったのでなく、達成できなかったのだが、もう諦めがついたので、終わったといっていい。
「なら帰るよ。入り口の車、君が待たせているんだろ」
春草も近くまでやって来て、そう言った。
春草も怒ってはいなさそうで、芽衣はほっとした。勝手ざんまいだが、お正月から雰囲気が悪いのは嫌だった。
「は、は――」
芽衣は、春草に頷こうとする。このままふたりと共に帰るのが、いちばん収まりがいい。他の四人も納得するだろう。
「やあやあ、みなさんお揃いで」
しかし、そのとき、今度はその場に朗々とした声が響いた。
その聞き覚えのある声に、芽衣は目を剥く。
「チャーリーさん!」
芽衣が声の方へと呼びかけると、居並ぶ面々の向こう、闇の中からチャーリーが現れた。今夜のチャーリーは、新年を意識してなのか、例の派手な和装だ。
「こんばんは、お嬢さん。それにみなさんも」
チャーリーは、その姿で、西洋風のお辞儀をする。
「もしかして、僕の奇術ショウを見にきてくれたのかな」
「ううん」
「松旭斎天一の奇術ショウ!?」
芽衣はすぐに否定したのに、鏡花が食いついた。
「おい、鏡花ちゃん。……とは言っても、噂の松旭斎天一のショウなら見てみてえなあ」
出し物小屋に行く約束があるのに、思い切り心動かされている鏡花に突っ込んでから、音二郎も興味深そうに、チャーリーを見やる。
「おい、何をする気だ。無許可の興業は禁止されている」
藤田は職務を忘れず、厳しくチャーリーに詰め寄った。
「まあまあ、無礼講ですよ、藤田サン! 面白そうではありませんか!」
「法に無礼講はない」
八雲が明るくおさめようとしたが、失敗した。藤田の言う通りだ。
この場で強行したら、全員、逮捕されそうである。新年を留置所で迎えるなど、あまりに残念な年明けで、できれば御免こうむりたい。滅多に見られないチャーリーのショーは見てみたいが、チャーリーにやらせないようにした方が幸せな未来が待っているだろう。
「ショウと言っても、彼女がお世話になっている皆さんに、ささやかな新年のお祝いをお見せするだけなんだけどなあ」
チャーリーも、ショーを見せるのは難しいと感じたのか、愚痴っぽくぼやいている。
「ほう。藤田警部補、これは身内に向けた催しで、興業ではないようですよ。責任は僕が取る。やりたまえ」
そのぼやきを聞いた鴎外が、思わぬ援護をした。
「人が集まる前に終わった方がいいんじゃない」
春草も興味がなさそうな顔ながら、チャーリーを促している。
思わぬ追い風に芽衣の胸は期待で膨らんで、藤田をそっと窺った。
「……ちっ、早くしろ」
全員の期待のこもった瞳を集めると、藤田はとうとう一歩下がった。消極的だが、了承の合図だ。
「それでは、皆さん。稀代の奇術師、松旭斎天一、本年最後の奇術ショウ、お見逃しなきよう」
すかさず、チャーリーが手を広げる。
「少し早いですが、新年を祝しまして――はい!」
チャーリーがかけ声とともに指をぱちんと鳴らすと、ドンと腹に響く音が鳴った。そして、夜空に、鮮やかな花火が広がる。
「わあ、きれい!」
大きく華やかな花火に、芽衣は歓声を上げた。
「これはこれは」
「きれいですね」
鴎外と春草も目を細めて、花火に見入る。
「わあ」
「こりゃあいい」
チャーリーがぱちんと指を鳴らすたびに上がる花火に、鏡花は夢中で、音二郎も笑って見上げている。
「ファンタースティック! 素晴らしいです!」
「…………まあ、悪くない」
八雲は手を叩いて喜んで、藤田は小さく漏らした。
「本年のとりを飾りますは、黄金の華! はい!」
パチンと指が鳴って、ひときわ大きな金色の花火が上がる。
眩しいほどに明るい。まるで満月のようだ。
芽衣は目を細めた。
花火の光はきらきらと散り、闇にすーっと溶けていく。
魔法の時間が終わった。まるで、今年の最後を見ているかのようだった。年が終わるのだという実感が湧いてくる。
「……チャーリーさん、ありがとう」
芽衣は、少し改まった気持ちになって、チャーリーを振り返った。
「どういたしまして。今年最後に君の笑顔が見られて嬉しいよ」
チャーリーは、にっこりと笑う。そんなチャーリーに笑い返そうとして、芽衣は、当初の目的を思い出した。
[newpage]
「あ、そうだ。チャーリーさん、これ」
「え?」
芽衣が風呂敷包みを差し出すと、チャーリーは首を傾げた。
「ちゃんと寝るところはあるの? 公園で寝たりしたら、風邪引いちゃうからね」
芽衣は説明する手間を省いて、包みを解き、チャーリーの首に紺色の襟巻をかける。
「雪が降ったら大変だし」
そして、傘もチャーリーに握らせた。
これで目的は完遂した。本当はチャーリーの宿を聞きたかったが、もし怪しいところに寝泊まりしていたら、藤田に聞かれるのはまずいだろうと思い、聞くのは今度にしようと思った。
「芽衣ちゃん……」
襟巻と傘に、チャーリーは驚き、感動したように固まっている。まさか芽衣が気を遣うとは思っていなかったのだろう。
確かに、チャーリーを気遣う義理はないが、かといって、雨風にさらされているかもしれない知人を心配しないほど薄情ではないつもりだ。だから、チャーリーの驚きようは、少々心外だった。
「子リスちゃん、それは君の襟巻ではないか! どうして彼にあげるんだい!」
芽衣はチャーリーに文句を言おうとしたのだが、先に鴎外に声を上げられてしまった。
「え、鴎外さんがこれを買ってくれたので私は 足りてますし、これは自分で買ったものなので、チャーリーさんにあげても問題ないですよね」
芽衣は、何か見落としている問題があるかと考えを巡らしながら答えた。
「どうりで、君が選んだにしては、華やかな色だと思った」
突き放すような春草の声に、芽衣はどきりとして振り返る。
「え? こ、これ、似合いませんか?」
「……似合わなくもないけど、君にはもっと似合う色がある」
画学生に色の駄目だしをされるのは心臓に悪い。自分では選ばない華やかできれいな色を気に入っていたので、似合わなくもないという言葉にほっとしながらも、もっと似合うという色が気になった。
「どんな色ですか?」
「…………じゃあ、今度、一緒に見に行こう」
春草が見立ててくれるのは心強い。しかも、他人の用に付き合ってくれる春草は珍しいので、芽衣は嬉しくなった。
「ありがとうご――」
「子リスちゃん、新しい襟巻は必要ないよ。それはよく似合っている」
春草へのお礼は、途中で鴎外に遮られた。今日は、よく言葉を遮られる日だ。今まで自覚はなかったが、もしかしたら、鏡花の言う通りグズなのかもしれないと思ってしまうくらいの確率だった。
「春草、今の問題はそこではない。子リスちゃんが、彼に贈り物をしたということだ」
鴎外は春草を牽制してから、チャーリーを見据える。
その視線の鋭さに、チャーリーは気まずそうに笑顔を貼りつかせ一歩下がった。
「あ、あんた、森さんから贈り物をもらう仲のくせに、他の男に贈り物するのかよ!」
鏡花が信じられないものを見るような目つきで、芽衣を見てきた。
「ええっと……これは、鏡花さんが考えているようなことではありません」
鏡花は贈り物に特別な意味があると思っているようだが、鴎外もそういった甘い気持ちはないだろうし、芽衣もないと首を振る。
「なっ、なんだよ! 僕の考えているようなことって」
「どれも特別な意味はないってことです」
「特別な意味はない?」
「はい。鴎外さんは私の襟巻が地味すぎると思ってくれただけですし、私はチャーリーさんが寒いだろうと思って渡しただけです」
「そこに特別な感情が入ってないって言えるのかよ!」
「はい」
芽衣はすぐに頷いた。考えるまでもない。鴎外は居候の身なりを整えたかっただけだろうし、芽衣はチャーリーに風邪を引かれては困るからだ。
(風邪なんか引いてマジックが失敗したら大変だし……)
鏡花が考えているような、好意を寄せているための贈り物には程遠い自分の都合だ。
「そ、そう」
芽衣の即答に、鏡花はどこか満足げに頷く。
「ふうん。それなら、俺には、特別な意味ってやつを込めて、贈り物をしてみるってのはどうだ?」
「はい?」
脇から音二郎に迫られて、芽衣はびっくりした。ずいと寄せられた顔は近い。音二郎の端正な顔が、じっくりと観察できるような距離だった。
「あ、あの……」
突然の接近に、頬に熱が集まる。
「川上! 何してんのさ! その子から離れろよ!」
鏡花が音二郎の肩を引いて、引きはがす。
「この子は、川上に贈り物なんてしないよ!」
「ああ? 鏡花ちゃんが答えんな。俺はこの子に聞いてるんだ」
「だから、なんでこの子が川上なんかに贈り物をしないといけないのさ!」
「だから、お前に聞いてねえっての。すっこんでろっ。この子が誰に何をあげようが鏡花ちゃんにゃ関係ねえだろ。それとも何か、鏡花ちゃんももらいたいとか?」
「そ、そんなことっ……」
鏡花は否定しようとして、芽衣を見て、口ごもる。それから急に胸を反らした。
「ま、まあ、あんたがどうしてもって言うなら、もらってあげないこともないけどさ」
「いえ、あの……」
芽衣には、そんなつもりで誰かにあげる予定は全くない。はじめからそう話していたのに、話が変な方向に行って戸惑うばかりだ。
「娘サンっ、私のこの寒々しい首元を見てくださいっ!」
突然、八雲が、目の前に躍り出てきた。
芽衣は目を瞬く。
八雲はきっちりコートとマフラーを身につけていたはずなのに、今は、マフラーはなく、コートとシャツのボタンが外され、首どころから胸元まであらわになっている。本人の言う通り寒々しい。
「八雲さん、どうしたんですか」
マフラーをどこにやったのだろうと、芽衣は疑問に思う。
「今さら襟巻を取るな」
その芽衣の疑問を、藤田が解消してくれた。藤田は、八雲が放り投げたらしいマフラーを拾って突き返す。そして、そのまま芽衣の前に立って、こほん、と咳払いをした。
「……まあ、警察官は襟巻など支給されんが、着用を禁じられているわけでもない」
「そ、そうなんですか……?」
どうやら芽衣に向けて話しているようだが、芽衣はその趣旨をうまく掴むことができず首を傾げた。
「なんですか! 藤田サン。貴方、マフラーを持っていないというアピールをして、娘サンにプレゼントしてもらうつもりですか!」
寒かったのか、マフラーをしっかりと巻き直した八雲が再び勢いよく出てきて、藤田に猛然と抗議する。
「そんなはずないですよ、八雲さん」
藤田が芽衣からマフラーを欲しがるわけがない。芽衣は笑った。
「娘。編み物をしたことはあるか?」
すると、藤田は唐突にそんなことを聞いてきた。
「い、いいえ」
出し抜けに聞かれて驚きながらも、芽衣はすぐに首を横に振る。やり方が全く思い浮かばないから、したことがないのだろう。
「やはりそうか」
藤田は予想通りだったようだが、少々残念そうに頷いた。
「藤田サン、あなたって人は、ただのプレゼントでは飽き足らずっ、娘サンの手編みのマフラーをもらうつもりですか!」
「手編みのまふらあか」
「手作りの襟巻ってこと!? 警官のくせに、あんたが一番図々しいね!」
「子リスちゃん、僕は認めないよ!」
「……君に作れるとは思えないけど」
「手編みのマフラー」に、一同は一気にヒートアップした。時代を超えて、甘く響く言葉らしい。
(だから編めないし、プレゼントする予定もないから……)
そんな彼らを遠巻きに眺め、芽衣は心の中でため息をつく。
そして、芽衣はチャーリーを見た。
「な、なにかな、お嬢さん」
チャーリーは、芽衣の視線に不穏なものを感じ取ったのか、大きく一歩後ろに下がる。
「チャーリーさん、それ返して」
この騒ぎを鎮めるには、原因を取り除くほかない。芽衣は、チャーリーからマフラーを回収することにして、手を伸ばす。
「えっ、嫌だよ。せっかく君にもらったのに」
思いのほか、チャーリーは抵抗をした。
しかし、そんな選択肢を認められるはずがない。チャーリーに対しては、どこまでも強気に出られる芽衣は、問答無用でマフラーをとりにかかる。
「いいから!」
「わっ、く、苦しっ……ぐふっ!」
マフラーを取ろうとする芽衣と、それさせまいとするチャーリーとの攻防の中で、軽くチャーリーの首が絞まる。
「奇術で、マフラーでも傘でも寝床でも出せばいいんだった!」
今さらながら思いついた芽衣は容赦がない。食べ物は出せなくても、そういったものならきっと出せるだろう。心配をして損した気分だ。芽衣が勝手に心配したのだが、そこは見ないことにする。
「め、芽衣ちゃん、ギブ、ギブー!」
チャーリーの哀れな悲鳴が日比谷公園に響き渡る。
新年までもう少し。
年はにぎやかに暮れていった。
おわり