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2016年04月05日

ぼくらはいつかも同じ空を見た

 きれいな星月夜だった。
 もう少しで満ちる膨らんだ月は白く輝いて、無数の星が群青色の空を埋め尽くすようにきらきらと瞬いている。
 とても澄んだ、清かな空気。
 さあっと風が吹いて、誰もがふとそんな空を見上げた。


 花が人々の前で本を消して見せたその夜、城内で、献帝主催の宴が開かれた。
 広間には、孟徳や仲謀をはじめ昼間と同じ顔触れが集まっている。そこに、豪華な料理や上等な酒が次から次へと運ばれてきていた。それらの多くは、孟徳や仲謀たち、宴に出席している者からの貢物だ。長安は長く都としての機能がなかったから、物資はそれほど充実していない。人も揃っていない。しかし、今夜は、玄徳、孟徳、仲謀の働きによって、かつてのような華やかな熱気に満ちていた。
 花が献帝を連れて、長安に着いたとき、街は静かで、城はひっそりとしていた。けれど、今日までに、あっという間に人や物が集まり、献帝を得て、まるで眠りから覚めたように街は蘇った。
 「皇帝」がどれほどのものか、今回のことで、花ははじめて理解したように思う。
 皇帝の下、停戦と私兵の禁止が言い渡されたから、国が割れるような戦はもう起こらないはずだ。しかし、まだ、誰もが安心して暮らせる国には遠い。しなければならないことはたくさんあって、ほとんど何もできていない。何も為せていない。
 けれど、確かに何かが動き出している気配を、花も感じていた。
 今日を境に、この国は変わっていく。
 心が熱くなるような、そんな気配を。


 酒が進み、広間に、どこか砕けた雰囲気が広がって、みんなが自由に動いて、話し相手を変えるようになった頃、花は酒席を離れて廊下へ出た。
 熱気がこもった広間と違って、外はひんやりとして気持ちがいい。
 にぎやかな場所が苦手なわけではないが、騒ぎを離れて、花はほっと息を吐いた。
(星がきれいだな)
 見上げるまでもなく、屋根の間から見える空が視界に入って、その空を埋める星に目を奪われる。
 花のいた時代と違って、空気がきれいで闇が濃いからだろう、星の輝きはとても強く、小さな星まで見ることができた。
 きれいな星空に惹かれて、廊下から下りる。
 星はまるで撒いたかのように散らばって、きらきらと光っていた。
 群青色の空を照らす白い月。きらきらと瞬く無数の星々。
 花は空を見つめた。
 広間のにぎわいが聞こえる。また、それとは逆に、しんと静かな夜の空気を感じる。
 一瞬のような永遠のような、ここにいるのが不思議なような、広い空。
 ひどく遠いところまで来たような気もするけれど、この空に馴染みがあるような気もする。
 何度もこの空を見たような――。
 ほんの少し口から漏れた息が、空気を震わせた。
「花ちゃん、ごめんね。遅くなって」
 そのとき、突然声をかけられて、花は驚いて振り返る。
 いつのまにか、すぐそばに孟徳がいた。花が広間を出るときは、大勢の人に囲まれていた。それだけで、孟徳がどれだけ国内に影響力を持っているかわかると思った。その孟徳が突如として現われて、なぜか謝っている。
「え、っと……?」
 詫びられる心当たりがなくて、花は首を傾げた。遅くなってと言われても、そもそも約束もしていない。
 孟徳は戸惑う花の表情を満足げに見て、にっこりと笑った。
「こうしてひとりで外に出たのは、俺とゆっくり話したいって思ってくれたからなんでしょ? 俺も君と話したいと思っていたから、ちょうどいいな」
 孟徳は、にこにこと人懐っこい笑顔を浮かべて、するりと花の手を取る。
「わ、い、いえ……」
 花は、慌ててその手を引き抜こうとしたが、それよりも早く、孟徳の手を乱暴に払いのける大きな手があった。
「おい、おっさん。こそこそ抜け出したと思ったら、やっぱりか」
「仲謀さん」
 花はまた、突然現れた仲謀に驚いた。
 仲謀もまた、珍しく西に出てきたと、大勢のひとに群がられていたはずだ。
「逢瀬を邪魔するなんて無粋だな、仲謀」
「逢瀬だ? こいつは戸惑ってるように見えたけどな」
「見間違えだろ。花ちゃんと俺は仲良く話していた。ね、花ちゃん」
「えっと……」
 笑いかけてくる孟徳に、正直に答えるのは気まずく思い、花は笑って返事を誤魔化した。
「うちの軍師に御用ですか、孟徳殿、仲謀殿」
 そこに、よく通る声が響く。
「玄徳」
 孟徳が煩わしそうに呟いて振り返った。
 廊下に現れたのは玄徳で、まっすぐに三人のもとに向かってくる。
 玄徳も、献帝の後見人として、ふたりと同じようにたくさんの人に囲まれていた。
(だ、大丈夫かな……)
 主役ともいえる三人が三人とも宴席を外れて、今、広間はどうなっているのだろうと気になった。
(師匠がいるから大丈夫か)
 ここに孔明がいないことが幸いだ。孔明ならばうまくやってくれているだろう。
 廊下から下りてきた玄徳は、主に孟徳から隠すように、花の前に立った。
「花、今日はご苦労だったな」
「は、はい」
 花に向けられる顔はとても優しいが、完全に孟徳を無視しているのが気になってしまう。
「おい、玄徳。邪魔をするな。俺と花ちゃんは楽しく話をしていたんだ。お前は仲謀を連れて宴に戻れ。邪魔だ」
 案の定、孟徳が不快そうに割って入ってきた。
「あなたとこいつをふたりきりにさせるほど愚かではありません」
 誰に対しても感じのいい対応をする玄徳が、ひどく険がある顔で孟徳を見るので、花ははらはらしてしまう。
「うちの軍師とどんなお話を?」
「許にこないかという話だ」
「なっ……」
「え?」
「は?」
 そんな話は全くしていない。びっくりする花の隣で、玄徳は目を剥き、仲謀も驚いた。
「花ちゃん。益州みたいな田舎に引っ込んでいたら、世の中のことがわからなくなるよ。政のことを教えてあげるから、うちにくるといい」
 三人の反応など構わず、孟徳は花に笑顔を向ける。
 孟徳のところに行く行かないは別として、その話には心が動かされた。
 益州は他の地域から隔っていて、だからこそ拠点として選んだのだが、他の情報が入りにくいというのは確かだ。そして、花が、この国についてまだ知らないことばかりということもまた確かだった。
「そ、それなら、江東に来た方がよっぽどいいぜ。外ともつながってて、人も物も行き来が活発だ」
 孟徳の話に、江東に誇りを持っている仲謀も参戦してくる。
 江東も行ったことはあるが、この目できちんと見たとは言い難い。考えてみれば、これまで、この国のどこの街も戦いの間逗留しただけで、街の仕組みなどをじっくり見たことはなかった。花がちゃんと国の中を見たと言えるのは、十年前、黄巾党とともに歩いたときだけだろう。
「商人になるつもりなら江東でもいいだろうけどな。政を学ぶならだんぜん許がいい」
「はっ、腐った政で何を学べるっつーんだよ」
「うちの軍師だ。勝手なことを言わないでいただきたい」
 言い争うふたりに、玄徳も口を挟んで、三人は花の頭の上で睨み合った。
「はい。我が君の仰る通り。我が弟子の進路を師匠のいないところであれこれ取沙汰するのはやめていただけますか」
 三人が全員一歩も引かない、膠着した空気を破ったのは、孔明だった。
「師匠」
 花は、孔明の姿を見てほっとするとともに、広間が気になった。
「師匠まで出てきちゃって中は大丈夫ですか。陛下は……」
 宴の盛り上がりもさることながら、玄徳も孔明も花もいなくて、献帝が心細く思っていたらと心配だ。
「陛下はお休みになられたよ」
「そうでしたか」
 思わず広間の方へ行きかけて、孔明の言葉に足を止める。孔明は、献帝の付添をきちんとしてから、こちらに来たらしい。花が安心すると、孔明は少し不満そうに眉根を寄せた。
「君さ、他に言うことは?」
「他に?」
 孔明の考えていることが分からず、花は首を傾げる。
 孔明は軽くため息をついてから、居並ぶ君主たちを示した。
「君がふらふら出て行くから、こんなことになるんだよ」
「こんなことって。私のせいみたいに言わないでください」
 自分の主君もいるのにひどい言い種だ。それに、三人が集まっているのを、花のせいにされるのはたまらない。
「君のせいだろ。みんな君と話したくて出てきたんだから。ひとりでふらふらするのは禁止。強引な勧誘に遭うよ?」
「はあ」
 まるで元の世界の繁華街に行くときの注意のようだと思って、花は少しおかしかった。
「なに笑ってるの」
「わ、笑ってません」
 表情は変えなかったはずなのに、孔明に目敏く気づかれて、花は慌てて首を横に振る。
「まあ、酔っ払ったおじさんだらけの宴なんて息が詰まるだろうから、抜け出したくなる気持ちはわかるけどさ」
「ちょっとだけと思って。外の空気を吸おうと思ったんです」
 孔明に少し理解を示されて、花も小さく頷いた。
「でも、空がきれいだなって思いまして――」
 花は空を見上げる。すると、四人も同じように空を仰いだ。
 雲一つない晴れた夜空。
 今まで命を賭けて対峙してきた者と、こうして静かに空を見るなんて不思議な気分だ。
 けれど、これでいい。
「あしたは晴れですね、師匠」
 花は、水気のない空を見て、明日の快晴を予想した。
 孔明に笑いかけると、孔明は大げさにため息をつく。
「なんですか、それ」
「なんだろうね」
 孔明は肩を竦めるだけで答えてくれなかった。
「皆さん、お連れの方が探していましたよ。それに、陛下が下がられて、群がる相手を失った客人たちが手持無沙汰で反乱の相談を始める前に、速やかに務めに戻ってください」
 孔明は花から三人に視線を移して、にこやかに促す。
「孔明、お前な、花ちゃんとの会話をかっさらった挙げ句、面倒事を押しつけやがって」
 孟徳にじろりと睨まれても、孔明は全く気にしていない。
「お前を見ているとうちのを思い出すな」
 すると、孟徳は興ざめしたように視線を逸らした。
「やべ。子敬に怒られる」
 仲謀もお目付け役の存在を思い出して、慌てて身を翻す。
「気がのらないが仕方ない」
 玄徳はため息をついて苦笑した。
「花ちゃん、さっきの話、考えておいてね」
「孟徳殿」
 最後に花にウィンクをする孟徳の襟首を掴んで、玄徳が連れて行く。
 三人が去って行って、花は息を吐いた。
 静かなところで息抜きと思ったのに、結局騒がしくなってしまった。
「君はモテモテだねえ」
「そんなんじゃありません」
 三人を見送っていると、孔明にからかように言われて、花は軽く睨む。
 孔明は笑って手を後ろに回して組んだ。
「ねえ、花。ひとつ聞きたいんだけど」
「はい、なんでしょう?」
 軽い調子の孔明に、花は何の構えもせずに聞く。
「君はなんで残ったの?」
 けれど、孔明の質問は真面目なものだった。
「あのとき、君の世界に帰れたんじゃないの?」
「師匠はほんとうに何でもわかるんですね」
 あの本のことなど、孔明の範疇を超えているだろうに、その理もわかってしまうなんて、孔明はほんとうに賢人なのだなと、花はあらためて思う。
「きっと望めば帰れたと思います」
 花は隠さずに言う。
「……望まなかったということ?」
 孔明の目がほんの少し細くなった。
「はい。ここにいたいって思いました」
 この世界の存在ではない自分がここにいていいのかはわからないが、ここにいたいと思って、帰る術がなくなったのだから、ここにいてもいいのだろう。
「君の世界は平和で豊かで、ここよりももっと大きな可能性が広がっているのに、ここに残りたかったの?」
 孔明はまるで信じられないというように、花を見てくる。
「元の世界がどんなに素敵でも、ここじゃないですから。私、ここでやりたいことがあるんです」
 自分なりに一生懸命戦ったこの国をもっとずっと見ていたい。もっとよくしていきたい。
「……それに、師匠は残ってほしいって言ってたと思いますけど」
 そんな想いの後押しをしてくれたひとつは、孔明の言葉だというのに、この孔明の否定的ともいえる態度は、少し不安になってしまう。
 花のそんな心内を察したのか、孔明は花を見つめる眼差しを和らげた。
「ボクは君が残ってくれて嬉しいよ。君をこれから鍛え上げて、士元が六で君が三でボクが一くらいの働きになるのがボクの夢だ」
「その後ろ向きな夢はなんですか。確か、同士が必要だって言っていたと思うんですけど」
「あれ、そうだっけ。ボクの隠居生活実現のために協力してくれるって話じゃなかったっけ? ほんとみんな伏龍って呼ぶなら、ボクのことを働かせないでほしいよね」
「師匠、勤労意欲をもっと出してください」
 舌を出して冗談を言う孔明に、花も軽口で応じると、孔明は心地よさそうに笑った。
 それから冗談めいた空気を消して、花に向き直る。
「――この国は危険で貧しくて未熟で、やることがたくさんだ。君が残ってくれて本当に嬉しいよ。ありがとう、花」
 孔明は、花をまっすぐに見つめて言った。
 その真摯な言葉に、胸が熱くなる。
 本がない自分など、役に立つものではないだろう。しかし、孔明はそれを承知の上で望んでくれているのだ。本がなくても、この国を想う気持ちが同じだから、同士と言ってくれる。
「はい。がんばります」
 花は孔明の目を見てしっかりと頷いた。
 そして、ひとつ、さきほど浮かんだ考えがまた戻ってきた。
 孔明は期待をかけてくれているが、実際、花にできることは少なく、知っていることもわずかだ。
 まずは、たくさん知りたかった。
「あの、師匠」
 ただの思いつきだったが、花は言ってしまえと口を開く。
「なに?」
「さっきの話なんですけど……」
「さっき?」
「はい。孟徳さんや仲謀さんのお話です」
「君、まさかどっちかに行きたいの?」
 孔明は、ぎょっとしたように眉根を寄せた。
「いいえ。違います」
 その大きな反応に、花は慌てて首を横に振る。
「ただ、孟徳さんたちの言うことももっともだなって思って。私はこの国のことをあまり知りません。この国のために働きたいけど、ちゃんと知らないんじゃ、本当に何もできないと思うんです。だから、国の中を見て回ってもいいですか?」
 このまま成都に戻ったら、きっと孟徳の言うとおり、成都のことしか見えなくなるだろう。成都に腰を落ち着ける前に、この国を見て回りたかった。
「戦がなくなった国の様子を知りたいですし、孟徳さんの言う政も聞きたい、仲謀さんの言う外との交流も見てみたい。他にもたくさん、戦のときには見られないものを見てきたいんです」
 花の渾身の訴えを聞くと、孔明はどこか嬉しそうに満足げに微笑んだ。
「うん。行っておいで。いい勉強になるよ」
「あ、ありがとうございます!」
 孔明に賛成してもらえて、花は胸が躍った。孔明が味方につけば、玄徳たちに反対されてもどうにかなる。
「でもひとつだけ、約束してほしい」
 うきうきする花に、孔明は釘を刺すように付け足した。
「は、はい。なんでしょう?」
 その固い口調に、ものすごく難しい課題を言い渡されるのかと怯えながら聞く。
 孔明がずいっと顔を寄せてきて、花はさらに緊張した。
「君が見たいものを見終わったら、ボクのところに戻ってくること」
 孔明が口にしたのは、花の予想外のことだった。
 孔明の静かな瞳に、胸がとくんと震える。
「ほかにいたい場所ができても、旅が終わったらいったん戻りなさい。それが条件」
 とくんとくんと心臓が鼓動を速めていく。
 孔明の言葉が嬉しくて、胸が熱くなった。
「ほ、ほかにいたい場所なんてできませんよ。師匠に教えてほしいことがたくさんありますし、師匠のところに帰ります」
 孔明のもと以外のところに行くなど想像もつかない。花がいたいのは、孔明のそばだ。孔明にはまだまだ教えてもらいたい。孔明のもとに戻るから、旅に出るのだ。
 鼻先で、孔明がにっこりと笑った。
「そう? それなら良かった。君には、手伝ってもらいたいことがたくさんあるからさ。君の仕事はちゃんと積んで、帰りを待ってるよ」
 するりと離れていく孔明に、一抹でない不安を覚える。
 言葉通り、山積みの仕事を用意していそうだ。
「いえ、仕事は積まずに片づけてください」
「えー。自分は遊び回っているのに、師匠ひとりに働かせるつもり?」
「言い方が悪すぎます!」
「じゃあ、旅立ちの前に師匠をじゅうぶん労わっていってよ」
「えっ? 労わる?」
 また嫌な予感しかしないことを言う孔明に、花は焦った。
「なにしてもらおうかなあ。楽しみだなあ」
「師匠、あの、ちょっと、お土産たくさん買ってくるので許してください!」
 孔明は楽しそうに考えながら建物の中に戻っていく。
 花はそれを追いかけて、階段を上がる。そうして建物の中に入る前に、もう一度だけ空を見上げた。
(やっぱり明日は晴れだな)
 空には満天の星。
 明日は気持ちよく晴れるだろう。
 花は笑ってから、孔明の背に向かって走り出した。

光に満ち 幸に満ち

 にぎやかな宴が行われている広間を抜けて、廊下に出ると、花はほっと息を吐いた。辺りは静かで少しひんやりとしていて、火照った体と気持ちを静めてくれた。
 広い空を仰げば、星が美しく瞬いている。
 群青色の空に、まばゆい星々。
 その遥かに広く美しい夜空に、ほんのわずか胸が詰まって、涙がこみあげてきそうになる。
「こんなところで主役がぶらぶらしてちゃ駄目だろ」
 そんなとき、背中に、低く荒っぽい声がかかって、涙はひっこんだ。かけられた声は、声の主を知らなければ、このまま振り返らずに逃げ出してしまいそうなほど、柄の悪いものだった。
「晏而さん、こんばんは」
 もちろん、花は笑顔で振り返る。
 数メートル先の庭に立っているのは、予想通り晏而だ。予想外なのは、晏而が衛兵姿なことだった。
「こんばんはって、あいかわらずのんきだな、あんたは」
 晏而は呆れたように眉根を寄せている。花は少しだけ晏而に怒っていたので、そんな晏而に顔を顰め返した。
「晏而さん、探したんですよ。どうして来てくれなかったんですか?」
「すまねえ。衛兵風情には、ちょっと敷居が高いんだよ」
 花が言うと、晏而はばつが悪そうに頬を掻いた。
「大丈夫って、師匠も玄徳さんも言ってました。私は晏而さんと季翔さんにも出てほしかったです。師匠と私の結婚式」
 花は本当に残念に思っていた。
 今日は、孔明と花の婚儀の日だった。玄徳の軍師ということでたいそう盛大なものとなったが、花は、孔明と同じように、不思議な縁でつながって、今もこうしてここに共にいる晏而と季翔に参列してほしかったのだ。
 けれど、二人は来なかった。
「いいんだ、いいんだ。こうして、道士様の晴れ姿を見られたんだから」
 晏而は手を振って、花の訴えを止めさせる。
 花は素直に従って口を閉じた。約束をすっぽかされても怒りが少しだけだったのは、晏而たちが遠慮する気持ちも分かるからだ。玄徳をはじめ、偉い人たちが居並ぶ中、あまりうるさくない玄徳軍とはいえ、晏而たちは居づらいだろう。
 それに、晏而は、もしかしたら、こうして花の様子を見るために来てくれたのかもしれない。その気持ちが嬉しくて、花はそれ以上何かを言う気にはなれなかった。
「はい。どうですか?」
 花は、来てくれた礼を言う代わりに、晏而によく見えるよう手を広げて見せた。
 芙蓉が仕立ててくれた婚礼衣裳は美しい。似合っているかは別として、この衣装を着られて幸せだった。
 晏而は眩しそうに目を細めて、花を見つめる。
「綺麗じゃねえか」
 晏而の目は、まるで父親のような慈しみを湛えていた。こわい声も、とても優しく聞こえる。
「……ありがとうございます」
 晏而に謙遜したり、否定したりする気持ちは起きず、花は素直に賛辞を受け入れた。
 晏而は、心から、今日を祝ってくれている。
 なんて幸せなのだろう。
 胸がいっぱいになって、さっきひっこんだ涙がまたこみあげてきた。
「こんな時代の、こんな世だがよ。あんたの幸せを祈ってる。それで、世の中も幸せにしてくれ」
 晏而の言葉に、脳裏を、遠い遠い世界がよぎる。
 もう二度と戻ることのできない場所と大切な人たち。
 彼らに胸を張れるよう、晏而の言う通り、ここで幸せに、選んだ道をしっかりと歩いていきたい。
「はい」
 花は決意を新たにして頷いた。
「それと、あいつをよろしくな」
 あいつとはもちろん孔明のことだろう。まるで父や兄のようだ。昔から晏而と亮は奇妙な関係だったが、父であり兄であり友なのだろう。
「はい。師匠……孔明さんと、しあわせになります」
 花はそれにもしっかりと頷く。
「ああでも、あの亮に持っていかれるかあ!」
 すると、晏而は堪えきれないというように、悔しそうに天を仰いだ。
 その様がおかしくて、花は笑う。あの亮とこんなことになるとは、花も思わなかった。
「それで、あの亮に持っていかれた気分はどう?」
 そんな和やかな場に、突然、不穏な声が響いた。
「師匠!」
「げえっ」
 花と晏而は一斉に振り返って、廊下の先に孔明を見つけると、悲鳴のような声を上げた。
 孔明はつかつかとやって来る。
「おいおい、お前まで出て来ちまってどうする。主役が揃っていないなんて、なんて宴だよ」
 晏而が孔明を非難するが、逃げ腰だ。
「婚儀の夜に、新妻を口説いているのを見過ごせるわけないだろう?」
 花の隣までやって来た孔明は、花をぐいと抱き寄せた。
「わ、し、師匠」
 孔明の力強さと温かさに、花はどきどきしてしまう。
「また師匠って言ってる。孔明さんだろ?」
「す、すみません……」
 顔を近づけて注意されて、花は顔を赤くして謝った。
 何でもいいが、近すぎる。晏而の前でなくても恥ずかしい距離なのに、晏而に見られていると思うと、どんどん顔が火照ってしまった。
 そんな花の反応は想定通りなのか、孔明は楽しそうに笑っている。
「あーあーあーあー見せつけやがってよ。なんだ、お似合いだって言わせてぇのか? それともなんだ、幸せそうで何よりだ、とでも言わせてぇのかよ! 死んでも言わねえよ! お前に道士様はもったいねえっての!」
 面前で親密ぶりをアピールされた晏而は、柄の悪さを遺憾なく発揮して、孔明に向かって吠えた。
「負け惜しみも甚だしいね。早く仕事に戻ったら?」
「言われなくても戻るっつーの! 孔明様」
 わざとらしく様をつけて呼ぶと、晏而は負け犬よろしく駆け出した。しかし、数歩行って止まる。それから、振り返った晏而は、ひどく真面目な顔をしていた。
「孔明、長生きしろよ」
「なんだよ、それ」
 おしあわせにでも、道士様をよろしくでもない、はなむけの言葉に、孔明が少し憮然としている。
「道士様を悲しませるんじゃねえってことだ!」
 そんな孔明に、晏而が怒鳴った。
「ああ。そんなの当たり前じゃないか。」
 すると、孔明は、言葉通り当然といった様子で頷いた。
 相手を悲しませないように――。
(私も、孔明さんを悲しませることなんてないようにします)
 花も晏而に答えたかったが、二人の間に入るのは躊躇われて、心の中で返事をした。
 どんなときも、喜びに満ちることは難しいかもしれないけれど、困難なときには、孔明の支えとなって、孔明に支えてもらって、二人で生きていけたらいいと思う。
「わかってるならいい」
 晏而は小さく頷くと、今度こそ仕事に戻っていった。
 二人きりになって、再び静寂が広がる。
「あの……」
 花は、孔明から離れようと身じろいだ。そろそろ宴に戻らないと、芙蓉に怒られるだろう。しかし、孔明の腕は緩まなかった。
「こんな時代の、こんな世か……」
 ぽつりと、孔明が呟く。
 花は目を見開いた。
「ししょ……孔明さん、聞いてたんですか?」
「うん。晏而さん、こんばんは、から」
「最初からじゃないですか」
 それならば、早く出てくればいいのにと呆れるのと同時に、ということは、もうだいぶ長い間、新郎新婦が席を外しているということだと気づき、宴席がますます心配になった。
「だって、大切な新妻が誘惑されているように見えたから」
 孔明は花の目を探るように見てくる。
 新妻だとか誘惑だとかの慣れない単語に、花はまた恥ずかしくなった。
「そ、そんなことされません! 晏而さんですよ?」
「ああ、そうだね。晏而だもんね」
 花が恥ずかしさを吹き飛ばすために強く抗議すると、孔明は笑いながら頷いた。
 その態度が軽く感じられ、きちんと気持ちを受け止めてもらえているのか不満で、花は言う。
「私が好きなのは孔明さんです」
 孔明は一瞬目を瞠りながらも、すぐに笑った。
「うん。そうだね。ボクも好きだよ」
 自分が言う分には勢いもあってさらりと言えたが、孔明に言われるとくすぐったい。
 そして、とても幸せで、満ちる。
 孔明も、同じように幸せに思ってくれていると嬉しいと思って、花は孔明を窺った。しかし、それは、孔明が強く抱きしめてきたために果たせなかった。けれど、その抱擁が答えのように思う。花もその背中に腕を回して、孔明の体を抱きしめた。
「花。ボク、長生きするよ」
 孔明がしてくれる約束は、きっと果たされる。
 花は頷いた。
「お願いします。私も長生きしますね」
「うん、そうしてくれると嬉しいな」
 花と孔明は顔を見合わせると、笑い合った。

 ふたりの上にはきらきらと金の星。


 健やかなときも病めるときも、共に。
 きっと、この道は、光に満ち幸に満ちて輝くだろう。

秘密

 

「ふんふふーん、ふふーん」
 上機嫌で歩く季翔の鼻歌が、秋の庭に響いていた。その手には、何やら色々なものが詰まった木箱がある。
 今日はとてもよい天気だ。
 その気持ちの良さに、季翔の足取りも軽い。いや、そうでなくても、いつでも季翔は軽かった。
「楽しそうだね」
「うげ、亮!」
 突然目の前に現れた孔明に、季翔は潰れた悲鳴を上げる。
 その驚き方はいつもと同じようで、それでいて、全く本気だった。
 孔明はその微かな違和感に気づき、笑みを深める。
「なに? ボクだけど、ボクに会ったらまずかった?」
 季翔が仕事をさぼるのは日常だ。それが孔明に見つかるのもまたいつものことである。だから、この動揺はそのためではないということだ。今日の季翔も、全く仕事をしているようには見えないのも確かだが、とにかく孔明と鉢合わせては都合の悪いことをしているのだろう。
 それが何なのか、非常に興味をそそられた。
「そ、そんなこたねえぜ!」
 季翔は大げさなほどに頭を後ろに逸らせる。
「俺とお前は、まぶだちじゃねえか! 苦楽を共にした、戦友! 熱い友情で結ばれた兄弟!」
 そして、箱を片手で持って、もう一方の空いた手で、孔明の肩を抱いた。
 友達なのか兄弟なのかさっぱり分からないが、孔明は友達になった覚えもないし、兄弟ではない。
 孔明がとりあえず季翔の手を払おうとすると、それより早く、季翔が離れた。
「だがぁ、今は駄目だ!」
 孔明から間合いを取ると、季翔は芝居がかった様で腕をぐっと突き出す。孔明にそれ以上近づくなということだ。
 特に近づきたくもなかったので、孔明はその場に留まった。
「またあとで遊んでやるから! じゃあな!」
 出会ってから今まで季翔と遊んだ記憶はない。
 しかし、孔明がそれを告げるより早く、季翔の姿は消えていた。
 逃げ足だけは速い。
「…………」
 孔明はひとつ、息を吐いた。逃げる者を追いかけて捕まえ、白状させるのは、孔明の方法ではない。
「なんだろうね?」
 呟く声は楽しげだ。
 季翔一人で、孔明に黙って何かをしようと思いつくはずがない。当然共犯者がいるはずだ。もちろん晏而は関わっているだろう。それに、恐らく花も噛んでいる。あとは、城の中でどこまでの人が巻き込まれているかだ。誰から切り崩すのが面白いだろうか。
 頭の中で考えを巡らせながら、孔明はゆったりと歩き出す。その足は、青州兵の詰め所に向かっていた。
 青州兵の詰め所はいつも賑やかだ。活気に満ちているその中へ、ひょいと孔明が顔を出すと、兵の一人がすぐに気づいて声をかけてきた。
「これは孔明様。あいにく、晏而も季翔も出ておりまして……」
「うん、それを確かめたかったんだ」
 兵の言葉に満足して、孔明はにっこりと笑う。
「は?」
 きょとんとする青州兵に何の説明も与えず、欲しい言葉を得られた孔明はさっと踵を返した。
 三人が密談するとなると、書庫しかない。孔明が訪れる確率が高いため、孔明に隠れて何かをするのは難しいだろうが、打ち合わせの痕跡くらいはあるだろう。
 それにもしかしたら、花がいるかもしれない。
 孔明はそう思って、書庫に向かった。
 だが、書庫はしんと静かだった。誰の姿もない。中に入って、花の机の周りを見て回るが、これといったものは残っていなかった。
「ふむ……」
 孔明は顎に手をあて、あらためてこの事態について考えようとする。
 そのときだった。
「師匠!」
 花の声で呼ばれる。
 孔明が振り返ると、なぜか嬉しそうな顔の花が駆け寄ってきた。
「こんなところにいたんですか。探していたんです」
「ああ、ボクもだよ」
 花の言葉を意外に思いつつも、孔明は言う。
 季翔がこそこそしていたからこそ、秘密を暴いてやろうと思ったのだ。しかし、花は探していたという。いったい何をしようとしているのだろう。
「え? そうなんですか? 何かありました?」
 孔明の返事に、花は目を丸くして、孔明の話を聞く構えを見せた。
 孔明はそれに緩く頭を振る。孔明が聞きたいことと花の用事は、おそらく同一だろう。
「君の用件を先に聞くよ。どうしたの?」
「あ、じゃあ、一緒に来てください」
 花は何の説明もせず、孔明の手を取った。
 孔明は小さく目を剥く。花が自ら孔明の手を取ることなど、稀だ。
「ちょ、ちょっと、どうしたの?」
 孔明が戸惑っているうちに、花は孔明を連れて歩き出す。
「こっちです、こっち」
 花はなんだかとても楽しそうだった。その様子から、悪いことではないのだろうと思う。しかし、自分をさしおいて、晏而と季翔と謀を巡らせるのは、少々不満だ。あの二人よりもよほど頼れるはずなのだが。
 そんなことを思いながら、孔明は花についていく。
 花は庭に下りて、その隅にある東屋に向かっているようだった。
 だんだんと東屋が近づくにつれ、そこに予想以上に多くの人がいるのを、孔明は見た。それになぜか東屋が、花や紐、布などで彩られている。その卓には、所狭しと色々と並べられているようだった。
 いったい何事だろう。
「ああ、孔明、来たな」
 東屋に着くと、花の手はするりと解かれてしまう。迎えてくれたのは、玄徳だ。それに雲長、翼徳、芙蓉に子龍までいる。晏而と季翔もあまり寛いだ様子ではないものの、そばにいた。
「みなさんお揃いで。どうされたんですか?」
 孔明が尋ねると、芙蓉があからさまに呆れたようにため息をついた。
 芙蓉に呆れられる覚えはない。
 だが、芙蓉に聞くのも癪だったので、孔明は説明を求めて花を振り返った。
「花? どういうこと?」
 すると、花に無数の花びらをかけられる。
「!?」
 孔明はびっくりした。
 赤、黄、白、桃、紫に青。たくさんの色の花びらが、宙を舞っている。
 しかし、意味が分からない。
「お誕生日おめでとうございます!」
 目を瞬く孔明に、花がそう声を上げた。すると、玄徳が率先して拍手をし、他の者たちも続く。
 どうやら、祝福されているのは自分らしい。
「誕、生日?」
 孔明は首を傾げかけて、ああ、と思い至った。そういえば、今日は自分の誕生日だ。暦はしっかり認識しているが、誕生日ということを意識していなかった。
「師匠、忘れてました?」
 反応の鈍い孔明に、花は思い通りだといった満足げな顔で聞いてくる。
「うん。忘れてた」
 正確に言えば、意識していなかったのだが、他人から見たら同じことだろう。
「やっぱり」
「大したことでもないし」
 花の得意げな様子に、少しだけ負けず嫌いが刺激されて、孔明はそう言う。
 すると、花は大きく反応した。
「大したことです! 私にとってはとても大切なことです。それは知っていてください」
「う、ん……」
 花に真剣に言われて、孔明は頷く。
 とても嬉しかった。
 花が大切に想ってくれていることに触れて、心がじんわりと温まる。
 誕生日が嬉しい。そんなことを思ったこともなかったのに、自分に誕生日があってよかったと、孔明は心から思った。
「でも、師匠にとっては忘れていてもいいことだったら、それでいいです」
 勢いが良すぎたと反省したのか、花は身を引いて、声も落ち着かせて言う。
 それでもいいのか、と孔明はほんの少し意外に思った。
 そんな孔明の前で、花がにっこりと笑う。
「私が覚えておきますから」
 孔明は目を見開いた。
「…………うん」
 そして、静かに頷く。
 自分の誕生日を花に託すというのは、ひどく幸せなことのように思えた。
 心が浮き立って、頬が緩んでしまう。
 花以外には見せない表情をしてしまいそうで、孔明は必死に取り繕った。花ならばいいが、玄徳たちや晏而、季翔には絶対に見られたくない。
「雲長兄い、もう食ってもいい?」
 背後から、翼徳が待ちきれないと、ひそひそと雲長に話しかける声が聞こえてきた。気を遣っているようだが、一番遠くにいる孔明たちのところまで届いている。
「駄目だ。まずは主役からだ」
 雲長はきっぱりと却下している。
「そんなぁ」
 声はまだ小さいものの、その腹が翼徳の心を代弁して、きゅるるるると盛大に鳴く。
「雲長の言う通りだが、翼徳が飢えてしまうな。始めようか。孔明、どれがいい?」
 玄徳がくすりと笑って、孔明に声をかけてきた。
「はい。どれでも」
 孔明も今日はからかうのをやめて、翼徳のために速やかに宴に移れるようにそう言う。
 しかし、それは伏龍にしては、あまりに浅慮だった。
「どれでもってことはないでしょう? 私の料理から召し上がったら?」
「待て。最初からそんな重量級なものを食べさせてどうする」
 孔明の言葉によって、いらぬ火蓋が落とされてしまう。
「もう、早く食おう!」
 芙蓉と雲長がばちばちと火花を散らすと、翼徳が泣き声を上げた。そんな翼徳に周りが笑う。
 いつも通りの賑やかな場だ。
 そんなところにいるのが少しだけ不思議で、けれど、花と目が合って、心が満ちる。
 平和な国にできたなら、きっとこんな日が当たり前になるのだろう。
「ありがとうございます」
 孔明は、そっと呟いた。

みんなで肝試し

 「花? いる?」
 扉がノックされ、孔明の声がかかった。
「はい!」
 花は読んでいた書簡を放り出して扉に飛びつく。孔明が部屋を訪ねてくるのは珍しい。今日は仕事も終わっているし、もしかしてデートに誘ってくれるのかと淡い期待が湧いた。
「今空いてる?」
 戸を開けると、孔明は出し抜けにそう尋ねてくる。期待が確信に近づいて、花は満面に笑みを浮かべて頷いた。
「はい!」
「そう。良かった。じゃあちょっと付き合って」
 孔明もにっこりと笑って、花の手を引いて歩き出す。繋いだ手を見つめて、花はどきどきしながらついていった。
 どこに行くのだろう。街に出るのだろうか。デートなどいつ以来だろうか。花の心の中で、色々な考えが浮かんでは消えていく。
「はい。じゃあ、これ」
 上の空で歩いていた花は、孔明にそう言われてはっと我に返った。
 いつのまにか二人は立ち止まっていた。ここは城の中庭だ。土を掘り返す人、木を植えている人、土嚢を積んでいる人など、たくさんの人々が忙しそうに動いている。しかし、ここは城の中庭だ。いったい何をしているのだろう。
 ここは、子龍たちが鍛錬をしたり、子供たちが遊んだり、女たちが語らったりする場所だ。稀に、きちんとした式典も行われる。そんな場所をいじくり回したら、雲長にどんな大目玉を食らうか分からない。それなのに、誰も彼もが一生懸命作業に取り組んでいた。
「あの、師匠、これはいったい?」
 そして今、花が孔明に差し出されているのは、柳の枝だ。全く意図が読めない。花は説明を求めて孔明を見るが、孔明はそれには応えず花に柳の枝を握らせた。
「それをあそこに立てて」
「は、はあ……」
「そのあとは、水溜りを作るから」
「水溜り?」
「そう」
「どうしてそんな……」
「今、空いてるんでしょう?」
「はい」
「じゃあ、手伝って」
 孔明はにっこり笑うと、他の指示をするために花から離れていってしまった。花は柳の枝を握りしめて、そのつれない背中を見送る。これは仕事だ。ただ人手が足りなかったから連れて来られただけだ。デートだと思って浮かれていた心は、平手で地面に叩きつけられてしまった。
「花! 花もお手伝い?」
「翼徳さん」
 暗くため息を吐いた花に、明るく声をかけてきたのは翼徳だった。翼徳も例にもれず大木を手にしている。それをどうしろと言われているのかは、あまり聞きたくなかった。
「翼徳さん! これは何なんですか?」
「知らない。孔明に手伝ってって言われたから手伝ってる」
 そんな呑気なと花はさらに肩を落とした。孔明のことだから、理由がないわけはないだろうし、玄徳や雲長にはしっかり話が通っているとは思うが、少しくらい説明がほしい。それに、やはり、孔明に確かめていないため、本当に玄徳たちは知っているのだろうかという不安は拭いきれなかった。
 雲長の怒り顔が脳裏にちらつく。けれども、孔明に言われたことをやらないわけにはいかない。花はすっきりしない思いを抱えながらも、のろのろと体を動かし始めた。


「で?」
 優雅に扇を広げて口元を隠し、孟徳がちらりと視線を玄徳に流した。
 「みんな仲良くなるために親睦会をしてね」という献帝からの書簡が三国に届けられ、そこには成都に集まるようにと書かれていた。そのため、孟徳は元譲と文若を連れてやって来ていた。しかし、親睦を深めるための宴が催されるはずの広間は、がらんとしていて全く宴の準備がされていない。いくら蜀が発展していないといっても、賓客を迎えるのにこれはない。何か企みがあるのかと、孟徳は玄徳を鋭く見据えた。
 そのまるで敵を見るかのような孟徳の視線に、玄徳の後ろに控えている雲長や翼徳、子龍、芙蓉らがわずかに身を硬くした。
「これはどういうことかな?」
「献帝お気に入りの遊びを皆さまにも楽しんでいただこうという趣向ですよ、孟徳殿」
 玄徳の代わりに、その隣に立つ孔明が答えた。
「献帝お気に入りの遊び?」
「ええ」
 孟徳は不思議そうに眉を寄せる。あの献帝が今さら遊びに興味を持つのかと意外に思ったのだ。孔明は頷いて説明をしようと口を開く。しかし、その前に、広間に天真爛漫な声が響き渡った。
「はーなーちゃーん!!」
「きたよー!!」
 童女のように愛らしいが年齢不詳の大喬と小喬が子犬のように広間に駆けこんでくる。そして、玄徳にも孟徳にも目もくれず、まっすぐ孔明の隣に立つ花のもとにやって来た。
「こんにちはー」
「お招きありがとうございます」
「だ、大喬さん、小喬さん……あの……」
 優雅に挨拶をする大喬と小喬に、花は困ってしまう。花は、孔明のおまけのようなもので、この広間には先に挨拶すべき人がたくさんいるのだ。招いたのは献帝であり、主催しているのは玄徳であり、国の有力者は孟徳である。色んなことが飛ばされている。
「あの、玄徳さんに……」
 花が二人に玄徳たちに挨拶をしてもらおうと促そうとしたとき、再び広間に騒がしく人が入ってきた。
「だぁぁ、お前ら! 俺より先に行くんじゃねえっつーの! しかも人ん家で走るな! 孫家の面子が潰れるだろっ!」
 息を切らして現れたのは仲謀だった。肩で大きく息をしている様子は、孫家当主が全力疾走したことを広間にいる全員に余すところなく知らせていたが、仲謀は大喬と小喬に注意をした。
「あ、兄上。廊下を走ってはいけません。ここは、家ではないんですよ」
 そのあとからやって来た尚香も、若干息を上げている。似た者兄妹だな、と全員が思った。
「んなっ、お、俺はいいんだよ!」
 尚香に対して、仲謀が根拠もなく胸を張る。
「何がいいんですか。尚香様の仰る通りです。孫家当主として落ち着きのないところを他国に見せては、それこそ孫家の面子に関わりますよ、仲謀様」
 そこに、公瑾が呆れ顔で登場した。これには、仲謀もぐっと言葉を詰まらせて、口を閉ざしてしまう。
「まあ、いいではないですか。広い廊下は走りたくもなるものですよ」
 最後に、子敬がのんびりと笑いながら広間に入ってきた。
「仲謀、公瑾に怒られてるー」
「ダサーイ」
「ねー、花ちゃん」
 大喬達が言いたい放題に囃し立てると、仲謀はこめかみを震わせる。
「お前らは黙ってろ! てか、こっちに来い!!」
 仲謀の怒声に、大喬と小喬は顔を見合わせて肩を竦めた。
「大喬! 小喬!!」
「はーい」
 二人は舌を出しながらも仲謀に従う。
 呉の一行の到着に、広間は一気に賑やかになった。花は見慣れた光景だが、玄徳たちは目を瞬いている。確かに蜀にはない騒がしさだ。
「…………て、お、おう、待たせたな」
 仲謀は、広間中の視線を集めていることにようやく気づき、玄徳と孟徳にわずかに会釈らしきものをした。


「では」
 孔明が一歩前へ出た。それだけで、場がぴんと緊張する。孔明が、略装ではあるが滅多にしない正装をしているのも、何かが始まることを匂わせていた。
「皆様揃いましたので、本日の宴について、私からご説明いたします」
「宴の説明? なんだ、そりゃ。宴なんて食って飲んでりゃいいんだろ」
 恭しく頭を下げる孔明に、仲謀が眉を寄せる。すると、公瑾が額に青筋を浮かべて、にっこりと笑顔で仲謀を振り返った。
「仲謀様、私の話を聞いていませんでしたね」
「えーっと……」
 仲謀は公瑾から目を逸らして、周りに救いを求めたが、尚香をはじめ全員が視線を逸らした。
「肝試しだ」
 そのとき、公瑾の背後から音もなく早安が現れてずばりと言った。
「うわ、隠し子!」
 大喬と小喬が同時に声を上げる。
「隠し子言うな!」
 早安は即座に言い返す。
「だって本当のことだもん。ねえ、公瑾」
「私に振らないでください」
「あんたに振らないで誰に振るんだよ」
「いや、ていうか、突っ込みたいところが色々あるんだけどよ。とりあえず、あいつの話を聞かせてくれ」
 ぎゃあぎゃあと再び騒がしく言い合いを始める大喬たちを制して、仲謀は説明を求めて孔明を見た。
「いいんですか? 進めて」
「お、おうよ」
 冷たい孔明の視線にわずかにくじけそうになりながらも、仲謀は偉そうな態度を崩さず横柄に頷く。
「そちらの仰るとおり、本日は、『肝試し』を皆さまに楽しんでいただこうと準備させていただきました」
「キモダメシ?」
 仲謀は聞きなれない単語に首を傾げた。
「夏の風物詩だね。色々と仕掛けをされた暗い道を男女で歩くんだ」
 孟徳が若干の偏見を織り交ぜて仲謀に吹き込む。
「男女という決まりはなかったと思いますが?」
 すかさず文若が口を出した。
「男同士で行ってもつまらんだろう? 分かってないなあ、文若は」
「そこに何か分からねばならない要素があるのですか?」
「それが分からないから、お前は結婚できないんだよ」
「なっ……それとこれとは関係ないでしょう!」
「大アリだよ。ねえ、花ちゃん。そう思わない?」
「えっ……」
 突然、孟徳に話を振られて花は戸惑う。
「彼女には関係ないでしょう!」
 文若がいつになく慌てた様子で孟徳の腕を引いた。
「関係ないのかなあ? ねえ、花ちゃん。肝試し、良かったら――」
 どさくさに紛れて花を誘おうとした孟徳の前に、孔明が立った。もちろん、花の姿を隠すように。
「今宵の趣向を気に入っていただけたようで嬉しいです」
 微笑をたたえる孔明に、孟徳も余裕の笑みを浮かべた。
「いい趣向だね、諸葛亮。俺は花ちゃんと行かせてもらうよ」
「陛下のご希望です。先日、肝試しを体験されてひどくお気に召したようで」
 孟徳がきっぱりと言うのを正面から無視して、孔明は再び玄徳の隣に戻る。その孔明の華麗な無視っぷりに、文若と元譲は素直に感心した。
「みなでやるように、とのお達しがあった」
 玄徳はあまり乗り気ではないらしく、孟徳と孔明の陰険な雰囲気にも気づかずに、ため息まじりに孔明の言葉を継いだ。
「ああ……」
 それであの書簡か、と仲謀も納得だ。
「それでどうやるんだ?」
「本日は得点制が面白いのではないかということで、城の中庭に会場を作りました。そこに隠された札を回収してください。札には点数が書いてあり、集めた札の合計点が高い組が勝ち、となります」
「なるほど。面白そうだな」
「いいね」
 基本的に負けず嫌いの孟徳も仲謀も異存はないようだ。
「では、それぞれの国ごとに組を作って回っていただこうと思いますので、ご準備をお願いいたします」
「お言葉ですが、孔明殿。それでは、『親睦会』とやらにならないのではありませんか?」
「よく言った、周公瑾! 全くその通りだ。陛下は、我々が親睦を深めることを望んでおられるんだろう? それなら混ぜた方が陛下のご意向に沿うことになる。さあ混ざろう」
 公瑾が異を唱えると、孟徳が手を打って同意した。孟徳の魂胆は見え見えだが、公瑾の言葉には一理ある。だが、孔明は余裕な態度を微塵も崩さなかった。
「いえ。そうしたいのは山々なのですが、実は、優勝組には陛下からの贈り物がありまして。これがまた、一つきりしかない結構な置物なのです。もし混合組を作ったら、それをどこが所有するかで揉めるかもしれない。戦の始まりはたいていそんな些細なことです。そうなってしまったら、陛下は深く御心を痛められることでしょう」
「……なるほど」
 公瑾はすぐに頷いた。
「孔明殿の言う通りだ。孟徳、諦めろ」
 それ以上孟徳の醜態を晒したくない元譲が、孟徳の肩を引く。
「い・や・だ」
 しかし、孟徳はその手を振り払った。
「元譲、よく考えろよ。このままだと、俺たちは男三人で肝試しに行かなくちゃならないんだぞ? いいか、肝試しの醍醐味は、怖がる女の子を優しく抱擁するところにある」
 力説する孟徳に、元譲だけでなくそこにいる全員が、腐ってると肩を落とした。
「尚香、聞くな」
 仲謀が妹の耳を塞ぐ。
「そうだね。尚香ちゃんは耳を塞いでいた方がいいよー」
「悪い大人だねー」
 大喬と小喬も尚香を守るようにその前に立った。
「すまない、孔明殿。進めてくれ」
 元譲は孟徳を無視して、孔明を促す。
「それ以外にも問題はあるぞ。俺たちは三人だ。蜀の連中は、地の利もある上に、数の利もあるじゃないか。お前たち、みんな出るんだろ?」
 孟徳は、玄徳の後ろにずらりと控える雲長たちを見回して言った。
「いえ、仕掛けを準備した翼徳殿と私、それに私の弟子は参加いたしません。参加するのは、玄徳様と雲長殿、子龍殿に芙蓉殿です。中庭は仕掛けを造った私たちしか道が分からないほど変わっていますので、地の利も数の利もありませんよ。ちなみに、人力が必要な仕掛けには、各国から人手を借りていますので、贔屓などはありません」
 いつの間にそんな手配をしていたのかと、君主たちは胡散臭そうに孔明を見る。孔明はどこ吹く風でその視線を受け流した。
「花ちゃんは参加できないの?」
「は、はい。仕掛けを作りましたから。私が一緒だと、不公平です」
 諦めきれない孟徳は、花に直接問う。それに対して、花はきっぱりと断れた。このために作業を手伝わせたのかと、花はようやく孔明の意図を理解する。
「そっかあ」
 花にはっきりと言われて、孟徳は渋々ながらも納得したようだった。
「ちゅーぼー、ちゅーぼー、私たちも行くからね!」
「こんな楽しそうなこと、絶対譲らないから」
「お前らじゃ数になんねーよ」
 一方、人数の多い呉一行は、騒々しくメンバー選出を始めた。
「私は遠慮したいです」
「ふぉ、ふぉ、若い人にお任せしますぞ」
 軍師二人は面倒くさがってそっと辞退の手を挙げる。
「お前たち、戦力が何言いやがる」
「早安が是非にと申しております」
「おい!」
「兄上! 私も参ります」
「尚香、お前はやめておけ」
「私も孫家のために何かしたいのです!」
 尚香は真面目に仲謀に訴えるが、いつものごとく仲謀は取り合わない。
「尚香ちゃん、可愛いなあ」
 そんな尚香に、孟徳が相好を崩した。それに気づいて仲謀は慌てて尚香の手を引く。
「ああ、いや、尚香。一緒に来い。お前の力が必要だ」
「は、はい! 兄上!!」
 尚香は頬を紅潮させて気合の入った返事をした。仲謀に期待されることなどほとんどないので、尚香の気分は一気に上がっていた。
「狭量だな、孫仲謀。玄徳には差し出すくせに、俺はダメなのか?」
「ダメに決まってるだろ。あんたとあいつじゃ雲泥の差だ!」
「言うね、若造」
「うるせーよ、おっさん」
 二人の間に火花が散る。
 せっかく仲良くするために集まったのに、これでは逆効果だ。
「もう仲謀! 仲良くするために来たんでしょ?」
 見かねて、花は仲謀を諭した。孟徳も良くないが、面と向かって失礼なことを言っているのは仲謀の方だと思ったからだ。
「ちっ」
 花に怒られると、仲謀は舌打ちをしてそっぽを向く。
「いいなあ。俺も花ちゃんに叱られたいな。『孟徳さん! 駄目です!』みたいに言ってくれないかなあ」
 孟徳の腐った発言は、全員に無視された。花も身の危険を感じて一歩下がる。その前に、そっと雲長たちが立ってくれた。
「あ、いいこと思いついた」
 すると、まるで無視は許さないとばかりに、孟徳は手を挙げる。孟徳以外の全員が、絶対にいいことではないと確信して、誰も合いの手を入れない。だが、そんなことで孟徳は挫けなかった。



「ね、勝った組は花ちゃんを自分のところに招待できるっていうのはどう?」
「孟徳、もうやめないか!」
 目を剥く玄徳軍の面々を見て、慌てて元譲が孟徳を制そうとする。しかし、意外なところから援護が上がった。
「それ、いい! 曹孟徳いいこと言う!」
「さっすがー。仲謀とは違うね!!」
 大喬と小喬の諸手を挙げての賛成に、元譲の手が宙を掻く。
「だいたい花ちゃんを独り占めしすぎだよねー」
「友だちのところに遊びに行くくらい認めてあげてもいいのにねー」
「きっと誰かさんが邪魔してるんだよ」
 ちろりと大喬と小喬は孔明を見るが、孔明は全く目を合わせなかった。
「なんか感じ悪いしー」
「そうそう。感じ悪い。花ちゃんを独占しすぎだ」
 大喬と小喬の同意を得て、孟徳は勢いづいた。
「なあ、玄徳。いいだろう? 三国の親睦のために、花ちゃんを親善大使にしよう」
「いや……その…………」
 迂闊に返事をしたら、自国の軍師に国を滅ぼされてしまうのではないかと恐れ、玄徳は孔明に視線を流した。
 全員の視線を集めて、孔明はひとつ、息を吐く。
「仕方ありませんね」
「え?」
 一番驚いたのは玄徳だった。
「彼女はモノではないのですが、親善大使と言われてしまっては、お断りができません。三国が和して一国となることが、献帝のご意向もあることですし」
「こ、孔明? いいのか?」
 まさか孔明が受け入れるとは思わなかった玄徳は、思わず聞いてしまう。しかし、すぐに玄徳は己の粗忽さを後悔した。
「要は、玄徳様が勝てばいいんです。頑張ってくださいね、玄徳様」
 孔明は朗らかなまでの笑顔を浮かべていた。
「あ、ああ……善処する」
「玄徳様、ご武運を」
 明らかに、励まされているのではなく脅されている。その激しいプレッシャーに、玄徳は胸を押さえた。
「げ、玄徳様、大丈夫ですわ。私たちがついております」
「そ、そうです、玄兄。玄兄が一人で抱えることはありません」
 普段は犬猿の仲の芙蓉と雲長が協力して玄徳を励ます始末だ。
「玄徳様、この子龍、命に代えても勝利を御手に!」
 子龍もまるで戦地に赴くような顔で胸に手を当てた。
 玄徳軍の必死さに、他の二組は哀れみの目を向ける。
「それでは、始めましょうか」
 そんな彼らの様子には構わず、孔明はマイペースに仕切った。孔明の先導で、中庭の会場に全員でぞろぞろと移動する。
「中は一本道ではありませんが、間隔を空けて入っていただきたいので、入る順番を決めましょう」
 孔明はそう言って三君にクジを引かせた。その結果、一番手は仲謀、二番手は孟徳、最後に玄徳となった。クジ運の悪さに、玄徳がますます重い空気をまとう。
「玄兄! 大丈夫です!!」
「少しくらい入るのが遅れたところで、我らの勝利は揺らぎません!」
 雲長たちが必死に玄徳を慰める横で、仲謀たちが入り口に立った。
 柳の枝で飾られた入り口は、それはおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。
「あ、兄上……」
 尚香が仲謀の肩にぎゅっとしがみついた。
「待っててもいいんだぞ?」
「い、いえ。行きます!」
「じゃあ、俺から離れんなよ」
 震えながらも首を振る尚香に、仲謀は笑って手を取った。
「本格的だねー」
「楽しそー」
 そんな二人の横を、すたすたと大喬と小喬が歩いていく。そのあとを早安が無言でついていった。
「お、おい! だから勝手に行くなって!!」
 仲謀は尚香を連れて、慌てて三人を追いかける。五人の騒がしい声や足音は、すぐに聞こえなくなった。
「子敬殿、公瑾殿。宴席を用意しております。お待ちになるのでしたら、そちらで」
 孔明は、不参加を勝ち取った軍師二人にそう促した。
「ですが、仲謀様を待たずに酒席はいささか心苦しいですなあ」
「長い夜になりますから、仲謀殿も納得されましょう」
「……そう、ですな。行きましょうか、公瑾殿」
 孔明の言葉に含みを感じ取って、子敬は公瑾を振り仰ぐ。公瑾もまた、孔明の言葉から素直に引き下がるべきだと感じて、子敬に頷いた。
「はい。それでは下がらせていただきましょう」
「翼徳殿、ご案内を」
「うん、分かった」
 元来た道を戻っていく三人を見送る。次は、孟徳たちだ。
「我らも行くか」
 文若は心底辞退したそうな顔をしていたが、元譲に促されて歩き出す。
「花ちゃん。君のために頑張るよ」
 孟徳は懲りずに花にウィンクをした。
「孟徳!」
 元譲がその襟首を掴んで、ずるずると引きずっていく。
「応援しててね!」
 その状態でも、花に手を振りながら、孟徳は暗闇の中に消えていった。
 残ったのは、沈痛な面持ちの玄徳軍一行だ。このミッションに失敗したら、どんな地獄が待っているか分からない。
「行きましょう、玄兄!」
「勝利を我らの手に!」
 定められた時間を迎えると、四人は意気込んで中に飛び込んでいった。
 急に辺りが静かになる。花はそっと孔明を窺った。
「変なことになっちゃいましたね」
 孟徳のおかげで、話が妙な方向に行ってしまった。今日は、みんなで楽しく遊ぶ日だったはずなのに、遊びのムードではなくなっている。
「まあ、想定内かな」
 孔明は肩を竦めた。
「そのために、ボクが仕切ったわけだし」
「え?」
「仕切り側にいれば、結果なんてどうにでもできるでしょ」
 孔明は手元から高得点の書かれた札を取り出した。昼間、孔明に言われるまま設置した花には見覚えのある図柄だった。
 まさか、玄徳たちの得点が低かったら入れ替えるということだろうか。
「師匠、それ不正……」
「じゃあ、何? 君は誰かのところに行きたいの?」
 孔明に鋭く問われて、花は言葉を詰まらせる。
 孟徳のところや仲謀のところに遊びに行きたくないといえば嘘になる。どちらもそれなりにお世話になって、よくもしてもらった。親しみを感じてもいる。特に、尚香や大喬、小喬は、この世界の数少ない友達なのだ。遊びに行けるなら行きたい。
 しかし、今問われているのはそういうことではない。ようやく花もそれくらいのことは判断がつくようになっていた。
「いえ……その…………師匠のそばが、いいです」
 花は恥ずかしさを堪えてそう告げる。その赤い項に、孔明は少しだけ頬を緩ませた。
「なら、文句を言わない」
「……でも……」
 結局孔明が操作するなら、今みんなが一生懸命やっていることは無駄になるということだ。とても心苦しい。
「まあ、でもきっと、こんな物は必要ないよ」
 そんな花の心を見越したかのように、孔明はひらひらと札を振る。
「夜が明けても決着つかないはずだから」
「? どういうことですか?」
「ボクは相手から札を奪ってはいけないとは言ってない。言ってないってことは禁じられていないって、曹孟徳も孫仲謀も気づいてるだろうね。それに時間制限も設けていない。つまり、彼らは有限の札を巡って一晩中争えることになる。みんななんだかんだいって負けず嫌いだし」
「…………」
 あっさりと言う孔明に花は言葉を失った。そこまで見通した上で、孔明はきちんとルールを作っていないのだ。
「だから、玄徳様たちに分があるよ。武闘派が揃ってるし。ボクの大事な弟子のために、玄徳様には勝ってもらわないと」
「師匠ってほんと……」
 芙蓉によく言われる「厄介な人を好きになったわね」というフレーズが頭の中を駆け巡る。確かにと花は今さらながらに思った。孔明が敵だったら、生まれてきたことを後悔するような気分になるに違いない。
「惚れ直した?」
 言葉を呑む花に、孔明が自分勝手な解釈をつける。
「いえ……」
「違うの?」
 花が反射的に首を振ると、孔明はぴくりと眉を動かした。
「え? あ、あの、その……」
 顔を覗き込まれて花は焦る。いつのまにか孔明がすぐそばに来ていた。
「ひどいなあ、君は」
「ひ、ひどいのはどっちですか!」
 今は孔明だけには言われたくない。
 すると、孔明はわざとらしく傷ついた顔をして見せて、言った。
「ボクはただ、君が好きなだけだよ」
「!!」
 目を見開く花に笑って孔明はその腕を引く。そして、その柔らかな唇を掠め取った。


 結局、孔明の読み通り、朝日が昇るまで死闘が繰り広げられ、その熾烈な戦いは、死か勝利かを迫られていた玄徳軍が、最後まで食い下がる孟徳を振り切って、勝利した。
 そして翌日、中庭では、敵味方関係なく三国の面々が、枕を並べて倒れている様が見られた。
「平和でいいですなあ」
 子敬がのんびりと呟いた。

 三国はこんなにも平和になりました。

Trick or Treat !

「お菓子の代わりにイタズラ?」
 今日はハロウィーンなんですと、雲長に無理を言って作ってもらったパンプキンパイを差し出す花に、孔明が聞き返す。
 しかし、孔明はその指を書物に挟んだままだ。仕事は終わっているが、調べ物をしていたのだろう。机の上には、いくつかの書物が積まれていた。
 タイミングが悪かったかなと思いながら花は答える。
「はい。子供が仮装して、近くの家をそう言って回ってお菓子をもらうんです」
「ふーん」
 孔明は面白そうに目を細めて、手を本から抜いた。
 しかし、パンプキンパイには手を伸ばしてくれない。
 雲長が作ってくれたパンプキンパイは、パイの上にもたっぷりとクリームがのった豪華版だ。見た目はひどく甘そうな風情だが、その実、クリームはさっぱりしていて甘さ控えめだ。すでに翼徳とたっぷり味見をしていたので、花も自信を持って孔明に薦めることができる。
「じゃあ、お菓子をあげなかったら、イタズラしてくれるんだ」
「え?」
「どんなイタズラしてくれるの?」
「私はしませんよ? それにお菓子をあげているのは私ですよ?」
 孔明の発言を理解できず、花は首を傾げた。どうしてお菓子よりイタズラを選ぶのだろう。雲長の作ったパンプキンパイは絶品だというのに。
 花がのんきにそんなことを思っている傍らで、孔明はにっこりと笑っていた。
「じゃあ、ボクがしていいんだ」
「えっ?」
 あっと思う間もなく、孔明に引き寄せられて、その膝の上に座らされてしまう。パンプキンパイの皿はいつのまにか孔明の手の中だ。それを机の上に置いて、孔明はさらに花を抱き寄せる。そして、その細い首に唇を寄せた。
「っ!?」
 柔らかな唇の感触に、ぞくりと体が震える。
「し、師匠……!」
 花は身を硬くして抗議の声を上げた。孔明の思惑をようやく知ったが、後の祭りだ。
 孔明はもちろんそれを無視して、花の首の裏に手を回し、もう一方の手を花の膝に置いた。その手は、膝から腿をゆっくりと撫でていく。
 ぞくぞくと体が震えた。腰が疼く。
「や……、し、しょ……」
 花が身をよじって腕の中から逃れようとすると、孔明は花の首をぺろりと舐めてから体を起こした。
 その目はひどく熱っぽい。
 どきりと心臓が跳ねた。
 孔明はまっすぐに花を見つめている。
 血液が沸騰して、逆流した。
 訳が分からない。
 孔明の濡れた視線も、体をまさぐる手も、思考を蕩かしてしまう。
 息が上がる。
「し……」
 そのとき、花の目が、パンプキンパイをとらえた。
 その瞬間、ハロウィーンを思い出す。
 お菓子。
 イタズラ。
 孔明の顔が迫っている。
「お、おおお菓子あげます!」
 花は夢中で、近づいてくる孔明の顔の前にずいとパンプキンパイを差し出した。が、勢いあまって、パンプキンパイは孔明の顔に激突してしまう。
「あ……!」
 パンプキンパイには、クリームがたっぷりのっていたはずで。
 花は恐る恐る皿を引いた。
「はーなー」
 孔明の顔は見事にクリームまみれになっていた。
「ご、ごめんなさい! 師匠!!」
 花は慌てて手巾を取り出し、孔明の顔を拭こうとする。しかし、その手を孔明が掴んだ。
「師匠?」
「これは花に綺麗にしてもらう」
「はい。あの、今、拭きますから」
「そんなことしたらもったいないだろう? 雲長殿に申し訳ないよ」
 孔明は真っ白な顔のまま、妙に格好つけて頭を振った。
 その姿は少し滑稽だ。そう思ったが、もちろん口にはできない。口にはできないが、やはりおかしい。花はこっそりと笑いを堪えた。
「だから、花が舐めて」
 そんな花に、孔明はそう言った。
「はい?」
 孔明の言葉はしばしば理解できない。
 花はきょとんとして聞き返した。
 今、孔明は何と言ったのだろう。
「はい」
 しかし、花の様子に構わず、孔明は顔を突き出した。
 顔にはたっぷりのクリーム、それを花が綺麗にしなくてはいけなくて、孔明は舐めてと言っている。
「! な、ななな何言ってるんですか! で、できません! そんなこと!!」
 ようやく言葉がつながった花は、慌てふためいて首を振った。
「何事もできるできないじゃなくて、やるかやらないかだよ、花」
 まるで師匠の口ぶりで、花を諭すように孔明は言う。
「師匠ぉ」
「だーめ」
 花は泣いて許しを請うたが、孔明はきっぱりと首を横に振った。
 心から本気らしい。
 エイプリルフールに続いての惨事に、もうあちらの行事はすまいと花は固く心に決めたのだった。

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