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今はどの空の下

 

 それは寝耳に水の話だった。
「師匠、もう一回」
 花は自分の耳が信じられずに聞き返す。
「ん? だから、辞めてきた」
 孔明は、さきほどと同じ、どこまでも軽く告げた。まるで、挨拶をするような気軽さだ。
 何をという言葉が抜けているが、言われずとも分かる。
 玄徳の下を辞したという話だ。
 花は目の前が真っ暗になった。
「もうさ、だいぶ落ち着いたし、整ってきたし、人も集まった。いい頃合だと思うんだよね」
 そんな花をよそに、孔明はすらすらと話を続ける。
「ほら、ボクってもともと仕官とか向いてないように思わない? 結構無理してたというか……そろそろ本当の自分らしく生きたいというか。旅にでも出ようかなってーー」
「ま、待ってください!」
 花は自分でも驚くほど大きな声で、孔明を制した。
「う、うん」
 孔明も驚いて言葉を止める。
「どういうことですか? どうするんですか? どうして……どうして勝手に決めるんですか!」
 突然の話に、頭の中はぐちゃぐちゃだった。出てくる言葉も混乱している。
 言いたいことはそれではない。
 それではなくて。
 花は、孔明の袖を掴んだ。
「わ、私も一緒に行って、いいですか?」
 我がままだろうか。
 孔明はきっと言葉よりも多くのことを考えて、玄徳のもとを去ろうとしている。
 花にはその全ては分からない。ただ孔明と一緒にいたいと思う。孔明の隣で、孔明と一緒に世界を見ていたい。
 それだけの理由で、玄徳や国を放り出して、いいのだろうか。
 そんな思いが湧いて苦しい。
 孔明は、袖を掴む花の手をそっと外した。
「師匠……!」
 拒絶されたかと落胆しかけた瞬間、孔明が花の手を握り締めてきた。
「うん。もちろん。そのつもりだよ。君の分も一緒に暇乞いしてきた」
 孔明は悪戯っぽく笑う。
 花は目を見開き、そして堪らず孔明に抱きついた。
「師匠は勝手です!」
「あれ、迷惑だった?」
 孔明はまだからかってくる。
 花は、安心して涙が滲んだ目で、孔明を睨んだ。
「意地悪です」
「うん、そうだね」
 孔明はくすくす笑っている。
「でも……大好きです」
 花は、もう一度ぎゅっと公明に抱きついた。
 孔明は虚を衝かれたように、目を見開いて、それから花を強く抱きしめた。


「さ、出発しようか?」
「はい」
 片手で持てるだけの荷物を手に、もう一方の手は愛しい人の手を取って。
 そうして軽やかに、飛ぶように、世界を巡ろう。
 世界に訪れる春を追って。

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