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あなたと一緒に年越しを


 明日は新年だ。鴎外邸では、大掃除も正月の準備も終わり、ゆっくりと新しい年へ向かう時間が流れていた。大掃除も新年の準備も現代より大変だったが、大みそかのこのゆったり感は現代にはない。テレビもラジオもないから家の中はとても静かだ。
 お手伝いのフミさんはすでに昨日から休暇に入っていて、屋敷には主の鴎外と居候の春草と芽衣の三人だけだった。フミさんがいないのは寂しいが、いつも夕食までの時間は、それぞれの部屋で、物書きをしたり絵を描いたりしている鴎外と春草が、今日はサンルームでのんびり寛いでいるので、芽衣はなんだかうきうきとしていた。
「雪が降るかもしれないね」
 窓の戸締りを確認していた鴎外が、外の様子に目を細める。
「ああ、ひどく冷えましたね」
 ソファに座っている春草がそれに応えた。
 ふたりの会話に、春草の向かいに座っていた芽衣も振り返って窓の外を見た。
 まだ夕方という時間だが、曇っているため暗かった。どんよりとした曇天は、鴎外の言う通り、今にも雪を降らしそうだ。冷たそうな木枯らしが庭を吹き抜けていく。外はとても寒いに違いない。
(チャーリーさん、大丈夫かな)
 その様子を見ていると、住所不詳の顔見知りの奇術師が思い出された。彼のことだから、奇術で稼いで温かい寝床を確保しているとは思うが、芽衣は未だ滞在先を知らないので、少し心配になった。もしかしたら、実はお金がなくて、この寒空の下、日比谷公園のベンチの下で寝泊まりしているかもしれない。
 気になり出すと止まらず、芽衣は立ち上がる。
「おや、子リスちゃん。どうしたのだい?」
 突然立ち上がった芽衣に、鴎外が首を傾げた。
「私、ちょっと出かけてきます」
「は?」
 春草の驚いたような、信じられなさそうな声を背中に受けながら、芽衣はサンルームを飛び出した。階段を駆け上がり、自室として使わせてもらっている角の部屋に入ると、外套を着る。それから、少し考えて、箪笥の中から無地の紺色の襟巻を取り出した。先日自分で買ったものだが、地味だ何だと言われて、鴎外に桃色の襟巻を贈られてしまっていた。鴎外にもらったその襟巻も取り出して首に巻き、紺色のものは風呂敷に包む。傘をひとつ手に取った。
「出かけるってどこにだい? もう外は暗いし、雪が降るかもしれない」
 階段を駆け下りてエントランスに行くと、鴎外と春草が出てきていた。
「日比谷公園です。夕餉までには戻ります」
「日比谷公園」
 鴎外の眉がぴくりと動く。
「君、物盗りや人さらいが、大みそかだからって休んでいるとでも思っているの?」
「そ、そんなこと思っていません」
 春草に冷ややかな目で見られて、芽衣はぶんぶんと首を横に振る。
「十分気をつけます。それに、すぐ帰ってきますから」
 芽衣はふたりを安心させるように笑顔を見せ、ドアを封鎖される前にと、屋敷を飛び出した。
「君!」
「子リスちゃん!」
 ふたりの呼びかける声が聞こえたが、芽衣はそれに答えなかった。走って表通りに出て、人力車を捕まえる。車を使えば、神田から日比谷までは、それほど時間はかからない。ほどなく車は日比谷公園に到着した。
 ふたりを心配させたくはないので、さっさと用事を済ませて帰ろうと、人力車の車夫に帰りも頼むと告げて公園の中に入る。
 大みそかの夕方に、公園で遊ぶ人もなく、社寺の門前でもない日比谷公園はいつになく閑散としていた。
(チャーリーさん、いないのかな)
 ぐるりと公園を一巡りしてすれ違ったのは、家路を急いでいるような紳士風の男性ひとりだけだった。目当ての人の姿もない。芽衣の心配は杞憂で、チャーリーはしっかり風雪をしのげる温かい寝床を確保しているのだろう。
 何だか期待外れで、無用だった傘とマフラーを持つ手が力なく下がる。
 そして、急に天気の悪さと寒風とが気になりだし、心細くなった。
(帰ろう)
 芽衣は鴎外邸に戻ろうと踵を返す。
「娘サーン!」
 そのとき、聞き覚えのある声が微かに聞こえて足を止めた。
「八雲さん」
 振り返って目を凝らすと、知り合いの帝國大学の外国人講師がものすごい勢いで走ってくるのが見えた。
「ああ、やはり娘サンでしたか!」
 八雲は芽衣のもとに滑り込むようにやって来る。
「こんにちは」
 辺りは暗かったがまだ時間的には早いので、芽衣はそう言った。
「はい、こんにちは。奇遇ですね。いえ、運命でしょうか! 娘サンと私はここで出会うことが宿命づけられていたのですね!」
 八雲は、いつも通りのテンションの高さで偶然の出会いを喜んでくれる。
「お散歩していたんですか?」
 いつもながら面白い人だと思いながら、芽衣は尋ねた。八雲は、日比谷公園の隣の帝國ホテルで暮らしている。そんな彼が、コートとマフラーを身につけて、本を手にしているだけなので、散歩なのだろうと思った。
「いえ、大学に忘れた本を取りに行った帰りなのですよ。少し寄るところがあって途中で車を降りたのですが、ここを歩いてよかったです。貴女と会えた」
 八雲は本当に嬉しそうに笑ってくれるので、芽衣も嬉しくなる。街中で偶然出会って、八雲ほど喜んでくれる人はそういない。
「娘サンは、おひとりでこんなところで、何をされているのです?」
「私は――」
 逆に八雲に問い返され、芽衣は答えようとして、言葉に詰まる。チャーリーのことが心配で出てきたのだが、それは空振りだった。そもそも、それを話すには、彼が屋根のあるところで寝ているか心配で、という話からしなければならず、八雲に不審に思われないように工夫するのはなかなかハードルが高い。
「用事があったんですけど、なくなったので帰ろうとしていたところなんです」
 結局、芽衣は、説明になっていない説明をした。親しみを持ってくれている八雲に対して、何となく後ろめたくなって、風呂敷包みをぎゅっと抱きしめてしまう。
「……そうですか」
 何も中身がわからない説明だというのに、八雲は追及せずに頷いてくれた。芽衣に話したくないことがあると察して、尊重してくれたのだ。
(八雲さんは優しいな)
 芽衣は八雲に心の中で感謝した。
「娘サン。もしよろしければ、少し温まっていかれませんか? 帝國ホテルのラウンジのスイーツはとてもおいしくて、お茶にぴったりなのです。ぜひ娘サンとご一緒したい」
 その上、八雲は、冷えた体に、とても魅力的な誘いをしてくれる。
 芽衣の心は大いに揺さぶられたが、すんでのところで理性が勝った。鴎外たちの合意を得る前に飛び出したのだ。早く帰って鴎外たちを安心させた方がいいし、身のためだ。怒っているだろうふたりを想像して、芽衣はそう思う。
「すみません、車を待たせているので」
 芽衣は、帝國ホテルのスイーツに、たくさんの後ろ髪を引かれながら断った。
「ああ、ならば、その車夫サンに、森サンへ伝言を頼みましょう」
「え?」
「私とティータイムをするので少し遅くなります、と。帰りは私がお送りするのでご心配なさらずと伝えれば、森サンも安心されるのではないでしょうか」
 八雲は、芽衣が何を気にしているのかわかったらしい。
 確かに、それならば、芽衣がひとりでなく八雲と一緒だとわかるし、鴎外たちも安心するだろう。帝國ホテルのスイーツが現実味を帯びてきて、芽衣はわくわくした。
「ふふ。娘サンさえよければ、一緒に新しい年を迎えてもよいのですよ。ルームサービスでローストビーフを頼んで、ふたりで年越しローストビーフもいいですね」
 年越しそばならぬ年越しローストビーフ。なんと魅惑的な響きだ。芽衣は、ジューシーなローストビーフを思い浮かべて、口元をだらしなく緩める。
「新しい年になったら初詣に行って、八百万の神様に私たちの永遠の愛を誓いましょうか」
 しかし、八雲の妄想は留まることを知らず、右手を取られたところで、芽衣ははたとローストビーフから我に返った。
 永遠の愛は誓わないし、年越しを突然八雲のところでするというのは、鴎外たちも驚いてしまうだろう。
「あの、それは――」
「おい。何をしている」
 芽衣が丁重にお断りしようとしたとき、低い声で咎められて、ぎくりと体が震えた。その声には聞き覚えがあり、振り返らずとも、誰なのかわかった。警視庁妖邏課の藤田警部補だ。

[newpage]


「藤田サン! 怖い声で突然声をかけないでください! 娘さんが怖がっているではありませんか!」
 八雲が抗議をして、自然な流れで芽衣を背中に隠したが、八雲の肩越しに藤田の鋭い瞳と目が合う。初対面のときのイメージがまだ完全には払拭できていない芽衣は、それだけで身が竦んだ。
「怪しい外国人が、娘に声をかけているのが見えたので来てみれば、公道で堂々と女の手を握っているとはな」
 藤田は芽衣から八雲へと視線を移し、じろりと睨みつける。
「彼女と私はこういう仲なので問題ありません」
 八雲は見せびらかすように、つないだ手を藤田の目線まで持ち上げた。
(ど、どんな仲でしたっけ……!)
 火に油を注ぐような八雲の言葉に、芽衣は藤田に向けて、ぶんぶんと首を横に振った。藤田に誤解されたら、大みそかだというのに、逮捕されて留置場に入れられてしまうかもしれない。
「藤田サンは、こんな日でも見回りですか。警察官は大変ですねえ。大みそかに大切な人と過ごせないなんて!」
 八雲は自分の優位性を誇示するように、ふんと鼻を鳴らして、胸を張る。
「こんな日だからだ。貴様のように風紀を乱す輩がとかく出やすい。秩序を守るためにも必要なことだ」
 それに対して、藤田はいささかも動じた様子はなく、いつもと変わらない厳めしい態度で応じた。
「おい、娘。こんな男に関わり合っていないで、早く家に帰れ」
「ノォォ! 藤田サン! 馬鹿力!!」
 藤田は、八雲の抗議も抵抗もものともせず、涼しい顔で八雲の手を離させ二人を引き離す。
「―-ああ、いや」
 そのまま芽衣の手を離そうとした藤田は、途中で何かに気づき、軽く舌打ちをして、再び、芽衣の手首を掴んだ。
 まるで逮捕拘引されるような強い力に、芽衣は怯えて心臓がどきどきしてしまう。
「もう朧ノ刻だ。途中、物の怪に絡まれても厄介だからな。俺が送ろう」
 しかし、藤田は逮捕ではなく、警察官としての職務を果たそうとしてくれるらしかった。
「あ、あの――」
「それにしても、娘。こんな日にこんなところをふらふらして、新年の準備は済んでいるのだろうな?」
 どきどきして申し訳なかったが、藤田とふたりの道行きは緊張してしまう。これまた丁重にお断りしようと芽衣は口を開いたところ、藤田に先んじられた。藤田は真面目できちんとしているから、大みそかに家にいず、ふらふらしていることが信じられないのだろう。
「は、はい。いちおう」
 その鋭い瞳に気圧されながら、ほとんどフミさんがしてくれました、と心の中で付け足して、芽衣は頷く。
「一応?」
 芽衣の答えは不十分だったようで、藤田は不満そうに眉を動かした。
「森一等軍医殿は、正月の準備もまともにしてもらえんのか」
「お、お手伝いのフミさんがちゃんとしてます!」
 フミさんの準備は完璧だ。それを疑われるのは心外で、芽衣は強く訴える。
 すると、藤田はなぜか呆れたように顔を顰めた。
「娘、本郷に寄っていくぞ」
「え?」
「先日、牛肉をもらった。それを煮たものがある。新年なのだから、食事くらいまともなものを用意しろ」
 牛肉と聞いて、芽衣の胸が高鳴る。牛肉だけでも幸福感に満ちているのに、藤田が調理をしたものなどおいしいに決まっている。それを分けてくれるなんて、なんて優しい人だろうと、芽衣は藤田への印象を改めた。
「藤田サン! そうやって牛肉でつって、さりげなく自宅に連れ込もうとするのはいただけませんね! 娘サンも、そんなに目を輝かせてっ!」
 すっかり牛肉にほだされた芽衣の腕を、八雲が引っ張る。
「妙な勘繰りはよせ。料理を取りに寄るだけだ」
「そうですよ。藤田さんは警察官です。牛肉をくれるいい人です」
「娘サン! 完全に牛肉の虜になっているじゃありませんか! いいですか、娘サン。このわるーい警察官は、試食を装ってあれやこれやと食べさせて、新年だからと酒もふるまって、娘サンを酔わせた挙げ句、娘サンをおいしく頂いてしまおうという恐ろしい計画をしているに違いありません!」
 八雲は手を大きく振って力説する。
「まるでヘンゼルとグレーテルですね」
 八雲の話が荒唐無稽過ぎて、芽衣は思わず笑ってしまった。
「ああ、娘サンはご存知ですか――って、笑うところじゃありませんっ!」
 この時代でグリム童話を知っている日本人は珍しいのか、八雲は興奮していた瞳を和らげかけ、すぐさま話の筋を思い出して首をぶんぶんと振った。
「誰がそんなことをするか」
 ひとり騒がしい八雲を、藤田が呆れた目で一瞥し、芽衣の腕を掴み直した。
「娘、行くぞ」
「行かせません! 娘サンはこれから、私と楽しいティータイムをするのです!」
 八雲は、藤田とは反対の手を取って昂然と言い切る。
 二人に挟まれて、芽衣は困った。八雲の誘いは断るつもりであったし、冷静になってみれば藤田と帰るのはやはり気まずい。帝國ホテルのスイーツも藤田の牛肉も心惹かれてやまないが、ここはどちらも断るのが角が立たないだろう。
「あの――」
 そう考えて、芽衣が一歩後ろに下がったときだった。
「川上がぐすぐずしてるから、こんな時間になっちゃったじゃないか!」
「だから、悪いって謝ってんだろ――て、鏡花ちゃん! 前見ろ!」
 突然、にぎやかな男の人たちの声がしたと思ったら、背中にどすんと衝撃を受けた。
「きゃっ!」
「わあっ!」
 芽衣の悲鳴と誰かの悲鳴が重なる。そのうえ、地面に倒れた芽衣の体の上に何かが重なった。そして、芽衣の目の前に見覚えのある白いウサギが、ぽふ、と落ちてくる。愛らしい赤い瞳と目が合って、さきほど聞こえた名前は空耳ではなかったと悟った。
「いったたた……な、なに? て、わ、うわぁっ! あ、あんた、なにやってんだよ! グズ!」
 芽衣の体の上のモノは、自分が下敷きにしたものを手探りで確かめて、それが人でしかも芽衣だとわかると罵って飛びのいた。白いウサギが跳びはねて、芽衣の視界から消える。
 他人に対してそんな容赦のない罵倒をする、ウサギ連れの青年は、芽衣の知り合いの中で、ひとりしかいない。鏡花だ。また厄介なことが増えつつあると思いながらも、とりあえず重さがなくなって、芽衣はほっとした。そんな芽衣に、大きな手が差し出される。
「お、おい、大丈夫か? 悪かったな」
 芽衣の前に跪いて手を差し伸べたのは、スーツ姿の音二郎だった。
「い、いえ、こちらこそすみません」
 芽衣も謝りながら、音二郎の手を借りて立ち上がる。
「怪我はないか?」
「はい」
 音二郎は、散らばった芽衣の荷物も拾って渡してくれた。
「あんた、こんなところで何して……げえ、藤田!」
 一方、鏡花は芽衣に文句を浴びせようとして、傍らに立つ藤田に気づき、顔を盛大に顰めた。本人を前にして、堂々とした反応だ。
「あ、あの、こんにちは」
 芽衣は、藤田と鏡花、音二郎の間に事が起こらないよう、二者の間に立って、音二郎と鏡花に挨拶をした。
「すみません。急いでいるところを邪魔してしまったみたいで」
 芽衣が好んで道のど真ん中にいたわけではないが、鏡花を転ばせてしまったのは事実なので、改めて謝る。そして、さりげなく二人に進むことを促した。藤田と音二郎は取り合わせが悪すぎる。
「いいって。前を見てなかった鏡花ちゃんが悪い」
「まさか道の真ん中で、ぼーっと突っ立ってる奴がいるなんて思わないからね!」
 音二郎が気にするなと笑うのに対し、鏡花はどこまでも自分の非を認めない。芽衣はどちらに反応したらよいか迷いながら、もう一度、すみません、と謝った。
「どこかに行く途中なんですか?」
 それから、先を急いでいた雰囲気がなくなってしまっている二人に、直接的に聞く。
「ああ。この先にな、大みそか限定で、珍しい出し物をする小屋があるってんで、鏡花ちゃんが見たいって駄々ぁ捏ねるから、連れてきてやったんだ」
「な、馬鹿! 違うだろ! 川上がどうしてもって言うから、僕が付き合ってやってるんじゃないか!」
「まあ、確かに、俺も見たかった。けどよ、男二人で見に行くのもなんだなとも思ってた」
 きゃんきゃんと吠える鏡花に頷いてから、音二郎は芽衣を見た。
 どうしてこちらを見るのだろうと、芽衣は首を傾げる。
「お前、こんなところで何してたんだ? 暇なら一緒に来ないか?」
 音二郎にさらりと誘われて、芽衣は目を瞬いた。全く予想外の展開だ。
「な、何言ってるんだよ、川上!」
「いいだろ、鏡花ちゃん。二人より三人の方が楽しいに決まってる。な、お前も見てみてぇだろ? 人に聞いた話で詳しいことは分からねえんだが、これがけっこう面白い出し物らしくてな」
 反射的に反論する鏡花を笑っていなして、音二郎は芽衣をさらに誘う。楽しそうに話す音二郎を見ていると、芽衣まで楽しい気持ちになってきて、少し見てみたいなと気持ちが傾いた。
「ちょーっと待ってください!! 彼女は、これから私と帝國ホテルでティータイムをするのです!」
 そんな芽衣の機微を敏感に感じ取ったのか、八雲が強引に割って入ってきた。
「川上。その小屋は正規の手続きを踏んでいるのか? そうでないならば――」
「そんなこた小屋の主に聞けってんだ。それとも今から捕り物に行くか? まあ、そうなったら、ふたりで横濱で年を越すのもいいな」
 詰問口調で尋ねる藤田を睨みつけてから、音二郎は芽衣の肩を組んできた。鏡花と張る態度の悪さだ。愛想よくとまでは言わないが、せめて普通にしていれば、関係はもう少し穏やかになるかもしれないと思うが、問題はそれほど簡単なことではないのだろう。
 そして、芽衣にとって、今はそれよりも、音二郎のプランが遠くなっている上に、ふたりきりになっていることの方が問題だった。
「あの、音二郎さん」
 ひとまず肩に回された腕を外して、芽衣は音二郎に向き直る。横濱には行かないし、残念な気持ちもあるが小屋にも行かない。夕餉までには帰ると言って出てきたのだ。そろそろ戻らないと鴎外たちが心配するだろう。
「あ~も~、グズ! 早くしないと年が明けちゃうだろ!」
「へ?」
 鏡花の約束が成立しているかのような怒り方に、芽衣は一瞬、承諾したような錯覚を覚えてから、そんなことはないと思い直す。まだ返事はしていないはずだ。
「まあ、年はまだ明けはしねえが、早く行った方がいいには違ぇねえな。誘いが被ってるみてえだが、どうするんだ? まさかこの川上音二郎の誘いを断ったりしないよな」
「いいえ。娘サンは私とお茶をするのです!」
「いや。本郷だ」
「グズ!」
 四人に迫られて、芽衣は弱った。しかし、ここはきちんと帰るつもりだと告げるべきだと思い、口を開く。
「あの、私、帰―-」
「子リスちゃん! ここにいたのか!」
 そこに、薄暗い公園には不似合いな、華やかな声が響き渡った。
「鴎外さん! ……春草さん!」
 振り返った芽衣は、十メートルほど先に並ぶ二人に目を丸くした。
 朗らかな鴎外と、詰まらなそうな春草だ。

[newpage]


「帰りが遅いから様子を見に行こうと春草が言うものでね」
 どうしてここにいるのだろうという、芽衣の心の中の疑問に答えるように、鴎外が言う。
「鴎外さん、話を曲げないでください。あなたが言い出したんですよ。子リスちゃんの帰りが遅すぎる。春草、僕らは今すぐ日比谷公園に行くべきだ! って」
 春草が声真似をまじえながらも、冷静に訂正した。
「春草だって、夕餉が始められないから様子を見に行くと言っていたではないか」
「……まあ、そうですけど。遅いよ」
 鴎外の指摘を渋々認めてから、春草は芽衣を睨むように見た。
「す、すみません」
 こんなところまで二人を来させてしまって、芽衣は申し訳なく思う。
「子リスちゃんが道に迷ってしまっていたのかと思っていたのだが、まさか人間に捕まっていたとはね。家の外は危険がいっぱいだ」
 鴎外はつかつかとやって来ると、滑らかに芽衣の手を取る。
「用事は終わったのかい?」
「は、はい……」
 思いのほか優しく聞かれ、飛び出してきたことや、戻りが遅くなったことを怒られると思っていた芽衣は、少し戸惑いながら頷いた。実際は、用は終わったのでなく、達成できなかったのだが、もう諦めがついたので、終わったといっていい。
「なら帰るよ。入り口の車、君が待たせているんだろ」
 春草も近くまでやって来て、そう言った。
 春草も怒ってはいなさそうで、芽衣はほっとした。勝手ざんまいだが、お正月から雰囲気が悪いのは嫌だった。
「は、は――」
 芽衣は、春草に頷こうとする。このままふたりと共に帰るのが、いちばん収まりがいい。他の四人も納得するだろう。
「やあやあ、みなさんお揃いで」
 しかし、そのとき、今度はその場に朗々とした声が響いた。
 その聞き覚えのある声に、芽衣は目を剥く。
「チャーリーさん!」
 芽衣が声の方へと呼びかけると、居並ぶ面々の向こう、闇の中からチャーリーが現れた。今夜のチャーリーは、新年を意識してなのか、例の派手な和装だ。
「こんばんは、お嬢さん。それにみなさんも」
 チャーリーは、その姿で、西洋風のお辞儀をする。
「もしかして、僕の奇術ショウを見にきてくれたのかな」
「ううん」
「松旭斎天一の奇術ショウ!?」
 芽衣はすぐに否定したのに、鏡花が食いついた。
「おい、鏡花ちゃん。……とは言っても、噂の松旭斎天一のショウなら見てみてえなあ」
 出し物小屋に行く約束があるのに、思い切り心動かされている鏡花に突っ込んでから、音二郎も興味深そうに、チャーリーを見やる。
「おい、何をする気だ。無許可の興業は禁止されている」
 藤田は職務を忘れず、厳しくチャーリーに詰め寄った。
「まあまあ、無礼講ですよ、藤田サン! 面白そうではありませんか!」
「法に無礼講はない」
 八雲が明るくおさめようとしたが、失敗した。藤田の言う通りだ。
 この場で強行したら、全員、逮捕されそうである。新年を留置所で迎えるなど、あまりに残念な年明けで、できれば御免こうむりたい。滅多に見られないチャーリーのショーは見てみたいが、チャーリーにやらせないようにした方が幸せな未来が待っているだろう。
「ショウと言っても、彼女がお世話になっている皆さんに、ささやかな新年のお祝いをお見せするだけなんだけどなあ」
 チャーリーも、ショーを見せるのは難しいと感じたのか、愚痴っぽくぼやいている。
「ほう。藤田警部補、これは身内に向けた催しで、興業ではないようですよ。責任は僕が取る。やりたまえ」
 そのぼやきを聞いた鴎外が、思わぬ援護をした。
「人が集まる前に終わった方がいいんじゃない」
 春草も興味がなさそうな顔ながら、チャーリーを促している。
 思わぬ追い風に芽衣の胸は期待で膨らんで、藤田をそっと窺った。
「……ちっ、早くしろ」
 全員の期待のこもった瞳を集めると、藤田はとうとう一歩下がった。消極的だが、了承の合図だ。
「それでは、皆さん。稀代の奇術師、松旭斎天一、本年最後の奇術ショウ、お見逃しなきよう」
 すかさず、チャーリーが手を広げる。
「少し早いですが、新年を祝しまして――はい!」
 チャーリーがかけ声とともに指をぱちんと鳴らすと、ドンと腹に響く音が鳴った。そして、夜空に、鮮やかな花火が広がる。
「わあ、きれい!」
 大きく華やかな花火に、芽衣は歓声を上げた。
「これはこれは」
「きれいですね」
 鴎外と春草も目を細めて、花火に見入る。
「わあ」
「こりゃあいい」
 チャーリーがぱちんと指を鳴らすたびに上がる花火に、鏡花は夢中で、音二郎も笑って見上げている。
「ファンタースティック! 素晴らしいです!」
「…………まあ、悪くない」
 八雲は手を叩いて喜んで、藤田は小さく漏らした。
「本年のとりを飾りますは、黄金の華! はい!」
 パチンと指が鳴って、ひときわ大きな金色の花火が上がる。
 眩しいほどに明るい。まるで満月のようだ。
 芽衣は目を細めた。
 花火の光はきらきらと散り、闇にすーっと溶けていく。
 魔法の時間が終わった。まるで、今年の最後を見ているかのようだった。年が終わるのだという実感が湧いてくる。
「……チャーリーさん、ありがとう」
 芽衣は、少し改まった気持ちになって、チャーリーを振り返った。
「どういたしまして。今年最後に君の笑顔が見られて嬉しいよ」
 チャーリーは、にっこりと笑う。そんなチャーリーに笑い返そうとして、芽衣は、当初の目的を思い出した。


[newpage]


「あ、そうだ。チャーリーさん、これ」
「え?」
 芽衣が風呂敷包みを差し出すと、チャーリーは首を傾げた。
「ちゃんと寝るところはあるの? 公園で寝たりしたら、風邪引いちゃうからね」
 芽衣は説明する手間を省いて、包みを解き、チャーリーの首に紺色の襟巻をかける。
「雪が降ったら大変だし」
 そして、傘もチャーリーに握らせた。
 これで目的は完遂した。本当はチャーリーの宿を聞きたかったが、もし怪しいところに寝泊まりしていたら、藤田に聞かれるのはまずいだろうと思い、聞くのは今度にしようと思った。
「芽衣ちゃん……」
 襟巻と傘に、チャーリーは驚き、感動したように固まっている。まさか芽衣が気を遣うとは思っていなかったのだろう。
 確かに、チャーリーを気遣う義理はないが、かといって、雨風にさらされているかもしれない知人を心配しないほど薄情ではないつもりだ。だから、チャーリーの驚きようは、少々心外だった。
「子リスちゃん、それは君の襟巻ではないか! どうして彼にあげるんだい!」
 芽衣はチャーリーに文句を言おうとしたのだが、先に鴎外に声を上げられてしまった。
「え、鴎外さんがこれを買ってくれたので私は 足りてますし、これは自分で買ったものなので、チャーリーさんにあげても問題ないですよね」
 芽衣は、何か見落としている問題があるかと考えを巡らしながら答えた。
「どうりで、君が選んだにしては、華やかな色だと思った」
 突き放すような春草の声に、芽衣はどきりとして振り返る。
「え? こ、これ、似合いませんか?」
「……似合わなくもないけど、君にはもっと似合う色がある」
 画学生に色の駄目だしをされるのは心臓に悪い。自分では選ばない華やかできれいな色を気に入っていたので、似合わなくもないという言葉にほっとしながらも、もっと似合うという色が気になった。
「どんな色ですか?」
「…………じゃあ、今度、一緒に見に行こう」
 春草が見立ててくれるのは心強い。しかも、他人の用に付き合ってくれる春草は珍しいので、芽衣は嬉しくなった。
「ありがとうご――」
「子リスちゃん、新しい襟巻は必要ないよ。それはよく似合っている」
 春草へのお礼は、途中で鴎外に遮られた。今日は、よく言葉を遮られる日だ。今まで自覚はなかったが、もしかしたら、鏡花の言う通りグズなのかもしれないと思ってしまうくらいの確率だった。
「春草、今の問題はそこではない。子リスちゃんが、彼に贈り物をしたということだ」
 鴎外は春草を牽制してから、チャーリーを見据える。
 その視線の鋭さに、チャーリーは気まずそうに笑顔を貼りつかせ一歩下がった。
「あ、あんた、森さんから贈り物をもらう仲のくせに、他の男に贈り物するのかよ!」
 鏡花が信じられないものを見るような目つきで、芽衣を見てきた。
「ええっと……これは、鏡花さんが考えているようなことではありません」
 鏡花は贈り物に特別な意味があると思っているようだが、鴎外もそういった甘い気持ちはないだろうし、芽衣もないと首を振る。
「なっ、なんだよ! 僕の考えているようなことって」
「どれも特別な意味はないってことです」
「特別な意味はない?」
「はい。鴎外さんは私の襟巻が地味すぎると思ってくれただけですし、私はチャーリーさんが寒いだろうと思って渡しただけです」
「そこに特別な感情が入ってないって言えるのかよ!」
「はい」
 芽衣はすぐに頷いた。考えるまでもない。鴎外は居候の身なりを整えたかっただけだろうし、芽衣はチャーリーに風邪を引かれては困るからだ。
(風邪なんか引いてマジックが失敗したら大変だし……)
 鏡花が考えているような、好意を寄せているための贈り物には程遠い自分の都合だ。
「そ、そう」
 芽衣の即答に、鏡花はどこか満足げに頷く。
「ふうん。それなら、俺には、特別な意味ってやつを込めて、贈り物をしてみるってのはどうだ?」
「はい?」
 脇から音二郎に迫られて、芽衣はびっくりした。ずいと寄せられた顔は近い。音二郎の端正な顔が、じっくりと観察できるような距離だった。
「あ、あの……」
 突然の接近に、頬に熱が集まる。
「川上! 何してんのさ! その子から離れろよ!」
 鏡花が音二郎の肩を引いて、引きはがす。
「この子は、川上に贈り物なんてしないよ!」
「ああ? 鏡花ちゃんが答えんな。俺はこの子に聞いてるんだ」
「だから、なんでこの子が川上なんかに贈り物をしないといけないのさ!」
「だから、お前に聞いてねえっての。すっこんでろっ。この子が誰に何をあげようが鏡花ちゃんにゃ関係ねえだろ。それとも何か、鏡花ちゃんももらいたいとか?」
「そ、そんなことっ……」
 鏡花は否定しようとして、芽衣を見て、口ごもる。それから急に胸を反らした。
「ま、まあ、あんたがどうしてもって言うなら、もらってあげないこともないけどさ」
「いえ、あの……」
 芽衣には、そんなつもりで誰かにあげる予定は全くない。はじめからそう話していたのに、話が変な方向に行って戸惑うばかりだ。
「娘サンっ、私のこの寒々しい首元を見てくださいっ!」
 突然、八雲が、目の前に躍り出てきた。
 芽衣は目を瞬く。
 八雲はきっちりコートとマフラーを身につけていたはずなのに、今は、マフラーはなく、コートとシャツのボタンが外され、首どころから胸元まであらわになっている。本人の言う通り寒々しい。
「八雲さん、どうしたんですか」
 マフラーをどこにやったのだろうと、芽衣は疑問に思う。
「今さら襟巻を取るな」
 その芽衣の疑問を、藤田が解消してくれた。藤田は、八雲が放り投げたらしいマフラーを拾って突き返す。そして、そのまま芽衣の前に立って、こほん、と咳払いをした。
「……まあ、警察官は襟巻など支給されんが、着用を禁じられているわけでもない」
「そ、そうなんですか……?」
 どうやら芽衣に向けて話しているようだが、芽衣はその趣旨をうまく掴むことができず首を傾げた。
「なんですか! 藤田サン。貴方、マフラーを持っていないというアピールをして、娘サンにプレゼントしてもらうつもりですか!」
 寒かったのか、マフラーをしっかりと巻き直した八雲が再び勢いよく出てきて、藤田に猛然と抗議する。
「そんなはずないですよ、八雲さん」
 藤田が芽衣からマフラーを欲しがるわけがない。芽衣は笑った。
「娘。編み物をしたことはあるか?」
 すると、藤田は唐突にそんなことを聞いてきた。
「い、いいえ」
 出し抜けに聞かれて驚きながらも、芽衣はすぐに首を横に振る。やり方が全く思い浮かばないから、したことがないのだろう。
「やはりそうか」
 藤田は予想通りだったようだが、少々残念そうに頷いた。
「藤田サン、あなたって人は、ただのプレゼントでは飽き足らずっ、娘サンの手編みのマフラーをもらうつもりですか!」
「手編みのまふらあか」
「手作りの襟巻ってこと!? 警官のくせに、あんたが一番図々しいね!」
「子リスちゃん、僕は認めないよ!」
「……君に作れるとは思えないけど」
 「手編みのマフラー」に、一同は一気にヒートアップした。時代を超えて、甘く響く言葉らしい。
(だから編めないし、プレゼントする予定もないから……)
 そんな彼らを遠巻きに眺め、芽衣は心の中でため息をつく。
 そして、芽衣はチャーリーを見た。
「な、なにかな、お嬢さん」
 チャーリーは、芽衣の視線に不穏なものを感じ取ったのか、大きく一歩後ろに下がる。
「チャーリーさん、それ返して」
 この騒ぎを鎮めるには、原因を取り除くほかない。芽衣は、チャーリーからマフラーを回収することにして、手を伸ばす。
「えっ、嫌だよ。せっかく君にもらったのに」
 思いのほか、チャーリーは抵抗をした。
 しかし、そんな選択肢を認められるはずがない。チャーリーに対しては、どこまでも強気に出られる芽衣は、問答無用でマフラーをとりにかかる。
「いいから!」
「わっ、く、苦しっ……ぐふっ!」
 マフラーを取ろうとする芽衣と、それさせまいとするチャーリーとの攻防の中で、軽くチャーリーの首が絞まる。
「奇術で、マフラーでも傘でも寝床でも出せばいいんだった!」
 今さらながら思いついた芽衣は容赦がない。食べ物は出せなくても、そういったものならきっと出せるだろう。心配をして損した気分だ。芽衣が勝手に心配したのだが、そこは見ないことにする。
「め、芽衣ちゃん、ギブ、ギブー!」
 チャーリーの哀れな悲鳴が日比谷公園に響き渡る。
 新年までもう少し。
 年はにぎやかに暮れていった。

 

おわり

ゆくとしもくるとしも

 花は最後の豆を盛り付けて、小さく歓声を上げた。
 厨房の卓の上には、今、完成したばかりのおせち料理が並んでいる。彩り鮮やかに、どれもこれもおいそうにできた。我ながら上出来だと、自画自賛してしまう。雲長と芙蓉に特訓してもらった甲斐があった。あとは、孔明に食べてもらって、孔明の口に合えば言うことない。
 できあがったものを見つめていたら、ぐう、と腹が鳴った。
 花は焦って腹を押さえ、周りを見回す。厨房には、花の他に誰もいないとわかっているのだが、腹の音というのはどうにも恥ずかしい。花は、誰にも聞かれていないことを確認して、あらためておせち料理を見た。
 自分で作っておいてなんだが、とてもおいしそうだ。
 食べたい。
 ひとつくらい食べてもいいだろう。
「味見、味見」
 花は、自分に言い訳をしながら、いい色に煮られた豆を食べる。
「おいしい」
 思わず花は呟いていた。雲長に教わった煮豆は柔らかく、甘みが上品でほどよい。花はまた豆を食べた。ぱく、ぱく、と知らず箸が進む。
「それで五個目だけど、ボクの分、残ってる?」
 突然、背後から声をかけられて、花はびくっと体を震わせた。やましいところがあるだけに、心臓が口から飛び出しそうになる。しかし、花は、心臓ではなく食べた豆が飛び出ないように、口を押さえて振り返った。
「こ、孔明さん……!」
 もごもごと豆を噛みながら、花は戸口に立つ夫を見る。花自身、食べた豆の数を数えていなかったので、孔明がどこから見ていたのかわからないが、知らぬ間に相当な数を食べてしまっていたことは確実だ。だが、豆はたくさん煮たので、まだ皿には山盛りで残っている。
「だ、大丈夫です、たくさん作りましたから」
 花はつまみぐいをしていたことをそっと脇に置き、孔明に豆の皿を見せた。
「うん、おいしい。これは確かに後をひくね」
 差し出された豆をつまんで、孔明は頷く。そして、言葉通り、二つ三つと続けて食べた。
「よかったです」
 花は、顔を綻ばせる。孔明においしいと言ってもらえて嬉しかった。
「でも、ほんとにたくさん作ったね。二人なら、一週間は籠城できるんじゃない?」
 孔明は、卓の上に並んだ料理を見て言う。その顔は、多種多量の料理を花がひとりで作ったことに感心しているようでもあるし、二人しか食べる人がいないのに、大量すぎることに驚いているようでもあった。
「はりきりすぎちゃいました。すみません」
 孔明の感想がどちら寄りか判別できなかったが、作りすぎは自覚していたので、花は謝る。
「謝らなくていいよ。ボク、たくさん食べるから」
 孔明の食は細い方だから、それは花を気遣っての言葉だろう。孔明のことだから、有言実行するために、無理矢理にでも全部食べようとするかもしれないが、それは止めなければいけない。城に持っていけば、翼徳がおいしく食べてくれるはずだ。
「それに、一週間登城しないっていうのも手だよねえ。愛妻の手料理がおいしくて、家から出られませんって。新婚ならではの理由だと思わない?」
 冗談めかして言っているが、隙あらばそうしようという思惑が透けて見える。
「それ、ものすごく芙蓉姫に怒られると思います。それにもう、新婚でもないですし」
 それを実行した場合の周りの反応が鮮やかに浮かんで、花は想像するだけで疲れてしまった。それに、本当に新婚なら、少しくらい緩んでも笑ってもらえるかもしれないが、花と孔明は新婚とはいえない。夫婦になって、正月を迎えるのは三度目だ。
「怒られるくらいならいいかな」
「駄目です」
 花の言葉尻をとらえて呟く孔明に、花はぴしゃりと言い切った。すると、孔明がとても寂しそうな顔をする。それを見て、花はずきりと胸が痛んだ。
「君、最近冷たくない?」
「孔明さんが、すぐにさぼろうとするからです」
 騙されるな、こちらが正しい、と花は自分に言い聞かせて、孔明の揺さぶりに堪える。
「だって、そんなにまじめに働かなくてもいいからさ」
「そんなこと言ったら、玄徳さんに怒られますよ」
「もうだいたい落ち着いたから。いいんだよ」
 孔明の言う通り、成都に来た頃に比べたら、益州はもちろん、国内はとても落ち着いた。そして、孔明も、ここに来たときと比べて、仕事に対する熱心さというか、真摯さが落ち着いてきたように思う。国から戦をなくして、政に興味を失ったかのようだ。
「ボクら働き過ぎたから、そろそろ隠居してもいいと思わない?」
 そんな花の考えを裏付けるかのように、孔明はそんなことを言う。
「それもたくさん苦情が来そうですね」
 花は頷いてあげたい気はしたが、ここで、そうですね、と言ったが最後、本当に今日にでも、やめます、と言いかねないように思えた。
「うーん。じゃあ、今は、この休みの間だけでも、のんびり休もう」
 孔明はそう言って、花を抱きしめる。
「こ、孔明さん」
「もう新年迎えるだけだろ? あとはあったかい部屋でごろごろしよう」
 心構えがなかったために驚いた花に、孔明は甘えるように体重をかけてきた。
 いつもなら、花は引き締め係だが、今日は大晦日で、二人ともすべきことは終わっている。孔明の提案はとても魅力的で、頷かない理由はなかった。
「……はい」
 ただ少しだけ恥ずかしくて、花は目を伏せる。
「うん」
 しかし、花が頷くやいなや、孔明は花に口づけた。その素早さにびっくりしている間に、口づけが深まる。
「っ……んっ……」
「……甘いね」
 十分に口づけをかわした後、離した唇をぺろりとなめて、孔明が言った。
 豆の甘さが口の中に残っているのだろうが、お互い様だ。
「へ、変な風に言わないでください」
 花は顔を赤くして抗議する。
「なんで?」
 孔明は楽しそうに花を覗き込んで、再び花に口づけた。今度は口づけの間に、背中にあった手が、ゆっくりと腰へとおりていく。
「こ、孔明さん……ここじゃ……」
 花は身を捩って、衣服を緩めようとする孔明の手を止めた。
「違うところならいいの?」
 すると、孔明は耳元で意地悪く聞いてくる。
 花は顔を赤くして固まった。
 もう陽は沈んできたとはいえ、まだ夕方だ。人々も大いに活動している時間である。そんな時間に房事にふけるのは、あまり花の好むことではなかった。けれども、孔明の腕はあたたかく離れがたいのも事実だ。
 しかし、やはり、駄目だ。
「だめです」
 花はなんとかそう言った。
「……のんびりするんでしょう?」
 花は、孔明の意図することをしては、のんびりなどできない。そういう意味を込めて牽制する。
「うん、まあするよ?」
 だが、孔明はあっさりそう躱して、花を抱き寄せた。花の意見など、聞く気はないらしい。
「こ、孔明さん」
 このままここで事に及ばれてしまっては、時間だけでなく場所も問題だ。花は、しっかり抵抗しようと腕に力を込めた。
「うん」
 しかし、孔明は花の抵抗を封じ込めて、再び口をふさぐ。
 それが本格的な愛撫に変わり、花の体から力がなくなりかけたときだった。
 どんどんどんどん、と勝手口の戸が激しく叩かれた。
 花はびっくりして、目を開ける。孔明もまた弾かれたように顔を離した。
「だ、誰でしょうか?」
 玄関ではなく勝手口から訪問するなど、まるで花たちがここにいることを知っているかのようなタイミングだ。やましいところのある花は、どきどきして、いまだ叩かれ続ける勝手口の戸を見つめる。
 訪問者に見当がつかなかった。もちろん客のはずがない。出入りの店への支払いは、昨日のうちに済ませた。そもそも、出入りの業者であったら、これほど乱暴に叩かないだろう。
 そう、乱暴なのだ。
 戸はまだ叩かれている。
 まるで何かから追われていて、ここが開かないとそれに捕まってしまうかのような切迫したものを感じさせる叩き方だった。
 心配になった花は、戸を開けようと孔明の腕から出る。
「嫌な予感がする。花、開けなくていいよ」
 すると、孔明は固い顔で、花の腕を掴んだ。
「え? でも、お客さんですよ」
「客がこっちには来ないよ」
 戸惑う花に、孔明はもっともなことを言う。その言葉に、戸の方へ行きかけた花の足が鈍くなった。
 しかし、そんな花に抗議するかのように、どんどんどんどんと戸を叩く音が大きくなる。
「で、でも、何か用があることは確かですし……」
 そのノックの必死さが気になって、花は、孔明の手を振りほどいた。
「花!」
 孔明の鋭い制止の声と、花が勝手口の閂を外して、戸を開くのとは同時だった。
「道士様あぁぁぁぁぁあああ」
 その途端、何かひょろ長いものが泣き叫びながら転がり込んでくる。
 季翔だ。
「嫌な予感」
 孔明は、季翔を指差した。
「孔明さん」
 花は孔明をたしなめ、泣いている季翔にかがみこむ。
「季翔さん、どうされたんですか? 大丈夫ですか?」
 切羽詰って戸を叩いていたのが季翔だとわかっても、疑問は解消されなかった。それどころか、誰かかどこかで何かあったのかと不安が広がる。
「道士様ぁあ! あんたほんとに優しいな!」
 がばりと起き上がった季翔は、感激したように、花に抱きつこうとした。
「花に触らないでくれる?」
 しかし、季翔の長い腕が花に届く前に、その額を棒で突かれ、季翔はまた転がる。
 いつのまにか、孔明の手に、厨房の隅に置いていたほうきが握られていた。
「いでぇぇ!」
 ごろんごろんと転がった季翔は、戸にぶつかって動かなくなる。
「き、季翔さん!?」
 花は慌てて駆け寄った。
「亮がいじめる」
 仰向けで伸びている季翔は、半泣きながらも意識があったので、花はひとまずほっとする。
「孔明さん、ひどいです!」
 それから、孔明を非難した。
「どうして君はそっち側につくかな。ボク、君のこと、助けてあげたんだよ? こんなおじさんに抱きつかれるなんて、気持ち悪いでしょ?」
 孔明は肩を竦めて、悪びれない。
「ひっでーよ、亮! 俺はまだぴちぴちだぜ? あ、いや、お前に比べたら、大人だな、うん。お前、俺が道士様のこと抱きしめたら、その大人の男の魅力に、道士様がめろめろになっちゃうって心配してんだろっ? ま、当然だな!」
 それに対する季翔も全く堪えた様子もなく、元気に立ち上がった。そして、無駄に前向きな妄想をして、孔明を不快にさせている。
「それ、十割ないけど、すごく不愉快だから、やめてくれる?」
 孔明はにっこり笑って、再びほうきで季翔の胸を突いた。
「ぐおっ!」
 孔明は全く手加減していないらしく、季翔は悲鳴を上げて倒れる。
「孔明さん!」
 花は、孔明があまりに乱暴なので叱咤し、ほうきをとりあげた。
 それに、これでは全く話が進まない。
「季翔さん、今日はどうしたんですか? どうしてこっちから?」
 花は、どうにかまた起き上がった季翔に聞いた。
「ああ、表に行ったんだけど、どんなに呼んでも返事がないだろ? でも、出かけてるって感じでもなかったから、中にいんだろって思って、こっちに回ってきたんだ」
 ここでいかがわしいことをしていたときに、呼ばれていたと知り、花は顔を赤らめてしまう。
「でもよう、こっちの戸を叩いても、全然返事がないから、何かあったんじゃないかって、心配したぜ」
「声かけろよ」
 孔明がぼそりと呟いた。
 それはもっともだ。どうして勝手口では無言で戸を叩き続けたのかは、季翔だからとしか言いようがない。
「そしたら絶対に開けなかったのに」
 孔明は、さらにぼそりと続けた。
「亮、何か言ったか? うん? なんか、道士様、顔赤くねえか?」
 季翔は、孔明の呟きも拾えず、花が恥ずかしがっていることもわからず首を傾げている。
 季翔でよかったと、花は思った。これが晏而だったら、絶対に色々と気づいている。それでさらに恥ずかしい思いをしたことだろう。
「それで、なに?」
 花の話を引き取って、孔明が季翔に聞いた。孔明もようやく、時間の無駄だと気づいたのだろう。
「え?」
 しかし、前置きもなく促されて、季翔はきょとんとしている。
「何か用があったから来たんだろ。三十秒でその用を済ませて出て行くなら、特別に許してあげるよ。はい」
 孔明は、異論を挟む暇も与えず、いーち、にーい、と数え出した。
「そ、それは……」
 それに対して、季翔がなぜか口ごもる。
「なに? もしかして、用もないのに来たの?」
 その途端、孔明からゆらりと何かが立ち昇った。
 尋常でない迫力に、季翔だけでなく、花もぞくりと背筋を冷やす。
「ち、ちげーよ! 用ならあるって! ああ、そうだ。どっからどう見ても立派な用事がある!」
 季翔は慌てて胸を張って、用事を主張した。
「はい」
 それならばと、孔明は手まで差し出して、季翔に話すよう促す。
「だけど、三十秒じゃ終わらねえんだ」
 しかし、季翔はまだまごついていた。
「ボクが終わらせてあげるから、大丈夫」
 それに対して、孔明が胸を叩く。大船に乗ったつもりで話してみろ、という素振りだ。
 季翔は、ごくりと唾を飲み込む。
 それが泥船とも気づかない季翔は、孔明が再びカウントダウンを始めようとするのを見て、慌てて口を開いた。
「今晩、ここに泊めてくれ!」
 孔明は、季翔の胸をどんと押す。
「ひでーよ、亮! 俺とお前の仲じゃねえか!」
 孔明によって強制的に排除されそうになるも、季翔は戸口に手を突っ張って、なんとか踏みとどまった。今まさに、生来の体の長さが生かされている。
「ボクと君の間に、どんな関係もないよ」
 孔明は冷たく言い切った。心からそう思っているのだろう。
「じゃあ、俺と道士様の仲……ぶほっ、つめてー!」
 季翔が言い換えようとするのを最後まで言わせずに、孔明は季翔の顔面に冷水をかける。
「こ、孔明さん!」
 花はびっくりして孔明の腕を引いた。いくらまだ陽が出ているとはいえ真冬だ。頭から水をかぶったら風邪をひいてしまう。
「季翔さん、すみません」
 花は急いで布を持ってきて、季翔を拭った。
「家に泊まりたいって、何かあったんですか?」
 突然大晦日にそんなことを言ってくるのには、なにかわけがあるのだろうと思って、花は聞く。家賃未払いで、家を叩きだされてしまったのだろうかというのが、一番に浮かんだものだった。
「せっかく年越しだってのに、一緒に過ごしてくれる人がいなくて、寂しくてよう」
 そんな失礼なことを考えているとは知らず、優しく聞いてくれる花に、季翔はぐすんと涙をすする。
「晏而のとこに行けばいいだろ」
「晏而、嫁さんの実家に行くって言ってて、ほんとに家がすっからかんで」
 それはもちろん逃げたのだろう。毎年、寂しいからと家に上がりこまれて、家族団らんもなかったに違いない。しかし、晏而には、季翔を青州から連れてきた責任があるはずだ。その責任をきちんと取って、今年も面倒を見ればいいものを、と孔明は拳を握りしめた。
「俺、嫁さん家までは行けねえし。……どこにあるか知らないんだ」
「お、奥さんの実家には行かない方がいいと思いますよ」
 まるで、知っていたら押しかけると言わんばかりの発言に、花は慌てて止める。
 花にも、晏而のこれまでの正月が思い浮かぶようだった。
 しかし、年越しをひとりで過ごすというのもさびしい話だ。孔明は嫌がるとわかっているが、花は季翔を追い出すことはできなかった。
「孔明さん」
「駄目」
 花が頼む前に、孔明が却下する。花の考えなど、お見通しなのだろう。だが、花も反対されることはわかっていた。そんなことではくじけない。
「……って言っても、聞かないよね、君は」
 しかし、花が説得のために口を開く前に、孔明はそう言ってためいきをついた。
「孔明さん……それじゃあ……」
「いいよ。でも、今年だけだからね。来年は、君がなんと言おうが、絶対に叩きだすよ」
 孔明は許しながら、来年への予防線も忘れない。だが、何であれ、許可は許可だ。花は、喜んでお礼を言った。
「ありがとうございます!」
「亮! ありがとう!! やっぱり、持つべきものは友だちだな!」
 季翔も感激して、花にかけてもらった布を払う勢いで、孔明に飛びつこうとする。
「君と友だちになった覚えはないよ。それに近づかないで。ボクまで濡れるだろ。ボクは君と違って風邪を引くんだから」
 孔明はそれをさらりと躱して、嫌味を言った。
「ああ、お前、体弱いもんな」
 しかし、季翔は真顔で心配そうに頷く。
 孔明は深くため息をついた。


「うっわっ、すっげー。うまそーっ!」
 年越しのための料理を並べると、季翔は歓声をあげた。
「これ、道士様が作ったの? ぜんぶ?」
「はい。たくさんあるので、遠慮しないで食べてくださいね」
 孔明もおいしいと言ってくれるし、料理を作ると喜んでくれるが、それとはまた違った表現の仕方に、つい花の頬も緩む。作ったものをおいしそうに食べてくれるのは、やはり嬉しいものだ。
「食べる、食べる」
 季翔は言葉通り、ものすごい勢いで食べ始めた。
「花、ボクの分は別にしておいて。全部食べられちゃいそうだ」
 季翔のあまりのペースの速さに危機感を覚えて、孔明が言う。
「はい」
 花は笑って頷いた。
「あ、お酒、持ってきますね」
 そして、孔明と季翔にお酒を注ぎたそうとして、すでにどの瓶も空になっていることに気づき、立ち上がる。
 そのとき、玄関の方から声が聞こえた。
「誰か来たみたいですね」
 花と孔明は顔を見合わせる。
 すでにもう夜も更けて、あと数刻で年が変わるといった時間だ。こんな夜の訪問者は、何かあったのではと、不安が過ぎる。
「晏而だったりして」
 季翔がのんきに言った。もうほろ酔いなのか、顔が赤い。
「奥さんの実家なんだろ」
 孔明は冷たく言って立ち上がった。
「いいよ、花。ボクが行くから。花は、お酒、取ってきて」
「は、はい」
 ものすごく嫌な予感のする孔明は、自ら買って出て玄関に向かう。
「誰? 留守だけど?」
 玄関に行くと、孔明は扉に向かって、そう呼びかけた。
「孔明様! このような時間に申し訳ございません! 城からの使いです!」
 すると、扉の向こうから、差し迫ったような硬い声で返事があった。
 孔明は、少し悩んで、戸を開ける。
「よう」
 開けた瞬間見えた顔に、孔明は問答無用で閉めようとした。しかし、そこに素早く足が挟まれて、それは叶わない。
「なに」
 足の幅だけ開いた扉から覗く士元に、孔明は不機嫌を全開に問いかけた。
「ひでえな。居留守もそうだが、それが友だちに対する態度か?」
「友だちなら、新婚の大晦日に訪ねてこないだろ」
「もう新婚じゃねえだろ」
「何年経っても邪魔されたくないってことだよ」
 孔明は、力を込めて、無理矢理扉を閉めようとする。
「いてててててて!」
 士元は悲鳴を上げた。孔明が迫っているのは、足を引くか、潰されるかの二択だ。
「孔明さん、どうしたんですか!?」
 士元の悲鳴を聞きつけて、花が中から飛び出してくる。
 花に知られてしまっては、孔明もそれ以上の暴挙はできなかった。孔明は諦めて、力を緩める。
「士元さん」
 花は、涙目の士元を見て、驚いたように目を見張った。
「よう、奥方殿。近くにいたから、寄ってみた。ひとりで年越すってのも、味気ないと思ってな」
 士元は、孔明にされたことは言わずに、手に提げていた酒瓶を持ち上げてみせる。そのあたりは賢いが、孔明の家に来た理由は季翔と同じだ。こちらももうだいぶ酒が入っているようだった。
「そのままその店にいればいいだろ」
 孔明は、まだ士元を家の中に入れまいと体を張って防いでいる。
「あの、悲鳴が聞こえたんですけど……」
 花は、そんな二人を見比べて、眉根を寄せた。
「おー、あんた! いいところに来たな! 飲もうぜ!」
 しかし、そんな花の疑問は、後からやってきた季翔に完全に潰された。
「お、先客か? にぎやかでいいな」
 士元は、季翔を見て、嬉しそうに笑う。
 酔っ払い同士、瞬時に意気投合したらしい。
「ああ、ちょうどいい。二人で飲みに行ったら? 一緒に年越す相手ができてよかったね」
 孔明はそんな二人をまとめて追い出そうとした。
「薄情なこと言うなよ。親友と飲もうと思って、わざわざ来たんだぜ?」
「なー? さー飲もう飲もう」
 しかし、季翔と士元は、まるで孔明の言うことを聞かず、ずかずかと中に入っていく。
「あ、ちょっと」
「え? あ……」
 孔明と花は慌てて追いかけた。
「これ、奥方殿が作ったのか? 豪勢だな。孔明だけじゃ食べきれんだろ」
 士元はすでに席について、花の料理を食べ始めている。酔っ払いならではの図々しさだ。
「そうそう。俺たちが手伝ってあげないと」
「だな」
 季翔と士元は顔を見合わせて頷き合う。
 そうして、孔明ですらなすすべなく、士元にも居座られてしまった。
 花も驚く展開だ。
「ボクの分まで食べたら、叩きだすからね」
 孔明はもう追い出すことは諦めたのか、自分の分の料理の確保に回った。
 まるで子供染みた様子に、花は笑ってしまう。
 今までにないにぎやかな年の瀬は、あっという間に時間が過ぎていった。


 鐘が鳴っている。
 年が明けたのだろう。
 花は、はっとして、顔を上げた。卓に伏せて、うつらうつらしていたようだ。
 見れば、孔明たちは床に転がっている。その周りには、空の杯や酒の瓶が散っていた。花が寝ている間に、飲み潰れたようだ。
 花は三人に毛布をかけた。
 せっかくの年越しに、起きているのがひとりで、少し寂しい。けれど、平和そうな寝顔に、笑ってしまう。
「あけましておめでとうございます」
 三人に向けてそっと囁いて、花は立ち上がった。
 簡単に片づけをしておかないと、明日の朝が大変だ。三人を起こさないように気をつけて、食器をさげる。
「花」
 台所で皿を洗っていたら、背中から声をかけられて、花は体を震わせた。振り返って見ると、孔明が目をこすりながら入ってきている。明日の昼まで起きそうにもないくらい寝入っていたはずなのにと、花は驚いた。
「孔明さん、どうかしました?」
 孔明は、花の質問に答えず、花を抱き寄せる。
「あけましておめでとう。今年もよろしく」
 そして、そう言った。
 それは、これまで夫婦になって二度、一緒に年を越えたとき、年が明けて最初に交わしてきた言葉だった。
 もしかして、それを言うために、がんばって起きてきたのかと、花は驚くのと同時に嬉しくなった。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 花も大切な言葉を返した。
「うん」
 孔明は頷いて、ぎゅっと花を抱きしめる。
 その抱擁に、少しだけ涙が滲んだ。
 孔明の、ここにいてほしいと望んでくれる気持ちが、共に新年を迎えられた喜びが伝わってくる。
「孔明さん。今年も、来年も、その次も、ずっとずっとよろしくお願いします」
 花も孔明を抱きしめ返した。
 もうここで生きていくことしか考えられないのに、新たな年を迎えるたび、ここにいられることを感謝している。きっとそれは、ずっと続くのだろう。
 けれど、孔明と花は、確かに去る年も共にいて、来し年も共にいる。それもまた、ずっと続くことだ。
 繰り返す一年をいつまでも一緒に過ごしていたい。
「うん、ボクも」
 二人は顔を見合わせて小さく笑うと、口づけをした。


 翌日、昼過ぎに、孔明の屋敷を訪れる者があった。
「あけましておめでとう!」
 晴れやかな笑顔で挨拶をするのは、晏而だった。ひとりではなく、一家総出だ。
「おめでとうございます、晏而さん」
 出迎えた孔明と花は、予想外の客に少々面喰いながらも、挨拶を返す。
「ごめんなさいね、正月早々。この人が挨拶しに行くってきかないもんだからさ」
 晏而の妻は、申し訳なさそうにしていた。
「いいえ、寄ってくれて嬉しいです」
 花はそれに慌てて首を振る。来てくれたのは嬉しい。戸惑っているのは他に理由があるのだ。
「晏而、奥さんの実家に行ってるんじゃなかったの?」
 孔明は胡乱げに晏而を見る。
 昨日、季翔が転がり込んできたのは、そのためだったのではないか。どうして、晏而が爽やかな笑顔でここにするのだろう。
 それは花も疑問だった。
「ん? どうして知ってんだ? 俺、話したっけ?」
 晏而が首を傾げかけたとき、家の中からどたどたと季翔たちが出てくる。
「あー、晏而だー!」
「よう、一緒にやるか?」
 季翔と士元は、晏而を見て嬉しそうだ。
「って、なんで、お前たち……」
 それに対して、晏而はぎょっとして身を引く。
「晏而が逃げ出したからに決まってる」
 孔明が低い声で言った。
「当然だろっ……って、亮! 怖いから!」
 晏而は頷きかけて、孔明の冷たい視線に怯えた。
「あー、わかった、わかった。こいつは引き取るよ。季翔、家に来い」
 晏而は降参して、季翔の腕を引く。もちろん、季翔に異存はなく、されるがままに従った。
「あんたも来るか? 安酒しかねえが……」
「酒ならなんでも」
 それほど顔見知りでもないはずなのに、晏而は士元までも回収する。
 それでようやく、孔明の瞳が和らいだ。
「じゃ、じゃあな、亮、道士様」
「またねー」
「いやあ、うまい酒に料理、ありがとな!」
 ぞろぞろと出て行く晏而たちを見送って、孔明はほっとしたように息を吐いた。
「あーあ、これでようやく君と寝正月できる」
 嵐のような騒がしさが去って、花も少し落ち着いた気持ちになる。しかし、部屋の中に戻ると、なんともいえない寂しさが襲ってきた。
 季翔と士元が座っていた席が空いている。さっきまで使われていた杯や箸が、使いかけと言った様子で置かれている。がらんとしていて、家の中が広く見えた。とても静かだ。
 孔明を見れば、花と同じように、なんだか物足りないような顔をしている。
「あの、孔明さん」
 花は思い切って声をかけた。
「なに?」
「これから、晏而さんのお家にお邪魔しませんか?」
「は? 正気? せっかく、二人きりになれたんだよ?」
 孔明は目を剥いているが、花はさきほど見たものを信じて、強く誘う。
「二人きりはいつでもできるじゃないですか。でも、今年はみんなで過ごしませんか? 料理もたくさんありますし」
 孔明も寂しいと思ったはずだ。二人きりの時間も楽しいが、みんなで過ごす正月というのもいいものだ。
 花は期待を込めて、孔明を見つめた。
 すると、孔明はひとつ息をつく。
「……仕方ないな。それじゃあ、支度をしよう」
「はい」
 渋々といった様子の孔明に、花は大きく頷いた。
 今から追いかけていったら、晏而はきっとひどく驚いて、そしてとても喜んでくれるに違いない。
 その顔を思い浮かべて、花はくすりと笑った。

 

 

おわり

師匠と弟子

元の世界でよく耳にした歌が、なんとなく口をついて出た。
花はそのまま歌いながら、書簡の整理と掃除に励む。今日はよく晴れていて、この別邸の大変な数の書簡の片づけにはもってこいだった。誰もいないし、来る予定もないということが、花の口と気を緩ませていたのかもしれない。最終的に、鼻歌というレベルではなくなって、はっきりと歌い出していた。
「それは、君の国の歌?」
そのため、突然そう声をかけられたときは、完全に隙だらけで、文字通り、飛び上がるほど驚いた。
振り返ると、部屋の入り口に、今、ここにはいないはずの師匠がのんきに立っていた。その顔を見るに、特別驚かせようと思っていたわけではないようだ。
「こ、孔明さん、今日は一日中お城じゃ……」
「あ、驚かせた? ごめん、ごめん。来るはずだったお客様が今日は到着しないって知らせがきたから、帰らせてもらったんだ。今日は君、ここの片づけするって言ってたし、ボクも手伝おうと思って」
「そうでしたか。びっくりしました」
花が胸をおさえて言うと、孔明はどことなく不服そうな顔をした。
「だいぶ気持ち良さそうだったけど、それじゃ、誰か入ってきても気づかないんじゃない? 危ないなあ」
「う……気をつけます」
孔明の指摘はもっともで、花は何も言い返せずに頷く。
すると、その鼻先に、ずいと包みが差し出された。
「わかったならよろしい。じゃあ、はいこれ差し入れ。熱いうちに食べよう?」
「わ、ありがとうございます」
孔明が買ってきてくれたものは、焼きまんじゅうで、まだほかほかと温かかった。
花は手早くお茶の支度をして、ふたりで縁側に座る。
「ねえ、さっき、君が口にしていたのって、君の国の歌?」
おいしいおまんじゅうを食べながら、孔明はさきほどの歌について聞いてきた。
「はい。元の世界のアイドルの歌で」
「あいどるって?」
「アイドルというのは……芸能人――歌を歌ったり、お芝居をしたりすることが職業の人たちのことで、さっきの歌を歌ってたひとたちもとても人気があるんですよ」
元の世界にいたときは、「アイドル」という言葉を気軽に使っていたけれど、それを知らない人に説明するのは難しいのだな、と思いながら、花は言う。
「人気があるって、国の中で?」
「はい。この国よりはとても小さい国ですけど、国中のひとみんな知ってる歌です」
「へえ、それはすごいね。その人たちは国中を歌って回ってるってこと?」
「それもたまにはしますけど、それよりもテレビでみんな知るんです」
「てれび?」
聞いたことのない単語に、孔明が首を傾げる。
「はい。元の世界では、ほとんどの家にテレビという機械があって、それで色々な番組――演目を見ることができるんです」
あまり詳しく元の世界のことを話したら、また孔明が元の世界の方が素晴らしいと思ってしまうだろうかと、少し不安に思いながら答えたが、そんなことはなく、孔明は、その目に好奇心をいっぱいにして、さらに聞いてきた。
「それはすごいね。それじゃあ、国のどこかで戦があったりしたら、それは瞬時に国中の人が知るんだ」
「そうですね。遠い国のことも、その日のうちに知れたりします」
「へえぇ」
孔明に問われるまま、元の世界の話をする。孔明の疑問は尽きず、なかには、花が説明できないものもあった。花が知らないとまた別のことを聞き、興味深そうにその瞳を動かしている。無尽の好奇心を満たそうとする姿はまるで子どものようで、質問に答える立場は自分が師匠に戻ったみたいに思えて、花は少しおかしくなった。
「どうしたの?」
花が笑うと、孔明が気づいて尋ねてくる。
「あ、いえ、今日は私が師匠みたいだなって思いまして」
「ああ」
花は素直に答えた。孔明は、自らの質問攻めに気づいたらしい。
「すみません。孔明さんのようにちゃんと答えられない師匠で」
「いいや。とても興味深かったよ」
「もっと色んなことを勉強していればな……」
花は、あらためて、過去何度も思ったことを思い、小さなため息をついた。
元の世界でもっともっと知識を蓄えていたら、この世界で大いに役に立ったことだろう。悔やんでも仕方ないとわかっていても悔やんでしまう。
「君がもっと師匠らしくしたいっていうなら、させてあげるよ」
孔明は言うが早いか、するりと正座をしている花の膝に頭をのせた。
「こ、孔明さん! これは師匠をいたわる行為じゃなかったんですか!?」
ふいに太ももにかかった重みや、さらさらとした髪の感触に、思わず腰を浮かせそうになって、花はどうにかふみとどまる。
「今は、勤勉な弟子へのごほうび」
孔明は悪びれもせずにそう言った。
口で敵うはずがないので、花はそれ以上何を言うのをやめる。まだ恥ずかしさがあるだけで、こうするのが嫌いなわけではない。
「いいですよ、亮くん」
花は師弟ごっこにのって、孔明の頭を撫でる。さらさらと指を滑る黒髪が気持ちいい。
しかし、なぜか孔明から何の反応もなくて、花は手を止めた。
膝の上の孔明の体は、少し強張っているようにも感じる。
「……孔明さん?」
もしかして、照れているのだろうか、とわずかに期待して顔を覗き込もうとしたら、孔明が身じろいだ。
「亮くん、でしょ。師匠」
孔明は冗談めかして言って、ちゅ、とむき出しの膝に口づけしてくる。
柔らかい唇の感触と、少し触れた舌に、一気に体温が上昇した。
「りょ、亮くんはそんなことしませんっ!」
びくっと跳ねてしまった心臓を誤魔化すために、花はわざと強めに言う。
「えー、したいって思ってたかもしれないじゃない」
「まさか。亮くんはまじめでいい子で、師匠みたいに不純な気持ちはいっさいありません!」
孔明の言い様に、あの亮がそんな不埒なことを考えるはずがないと、花は拳を握りしめてきっぱりと首を横に振った。
「いやいやいや、その亮はボクなんだけど……」
孔明は複雑そうに視線を下に流す。
「ふぁーあ」
しかし、そのまま大きなあくびをすると、もぞもぞと、寝やすい体勢を探るかのように動いた。
「師匠?」
「横になったら眠くなっちゃった」
すでに目を閉じている孔明の顔はあどけなくて、花は知られないよう笑う。
孔明は毎日忙しい。こんな時間は貴重だ。
この時間を、まるで守っているように思えて、花は嬉しくなって孔明の頭を撫でた。
「いいですよ。寝てください」
「うん。ありがとう……」
花の手に誘われるように、孔明は眠りに落ちていく。
「ちゃんと……ここに、いて……ね」
意識が完全になくなる寸前、孔明の手が、花の手を握りしめた。
その手は、花を繋ぎとめるように強い。
「…………はい」
花はそっと頷いて、もう一方の手で孔明の頭を撫でた。


おわり

恋戦記ワンドロ「記念日」

ツイッターの恋戦記ワンドロ企画様(@rensenkino1draw
2/6のお題【記念日 or お祝い】

だいたい1時間ライティング。越えているのは確かですが時間見てませんでした。電車の中で書いたので、フリック分アディショナルタイムください…!
孔花で記念日

99.8%

『真くん、今大丈夫だったら、ガーデンテラスにきてもらえますか』


遊木真は、信じられない思いで、そのあんずからのメッセージを見た。
今日は2月14日。紛うことなくバレンタインデー、その日だ。
【ショコラフェス】の自分たちのライブも無事に大成功に終わって、用意したチョコレートも全部もらってもらえた。あれは夢ではない。歌って踊った。お客さんにチョコレートを配った記憶もある。――本当に緊張して手が震えたこともしっかりと。
自分たち――『Trickstar』の出番は午前中で、終わった後は、他のユニットのライブを見たり、放送委員の仕事をしたりで過ごし、今日のプログラムが全て終わって一息ついたところだった。『Trickstar』のみんなやあんずを探しに行こうとした矢先、制服のブレザーのポケットに入れていたスマートフォンが振動して、メッセージの着信を知らせたのだ。
今日はバレンタインデー。その当日の女の子からの呼び出し。『Trickstar』のグループ宛てではない、個人的なメッセージ。あんずは個人的に真に用事がある。
この特別な日に、個人的な用事――そこから導き出される結論に、真の心臓は破裂しそうなほど、どきどきと早鐘を打った。
震える指で、『すぐ行くね』と入力する。
(うわあぁぁあ、どうしよう……!!)
真は顔を耳まで真っ赤に染めながら、ふわふわと覚束ない足取りで、ガーデンテラスに向かった。






「あ、きたきた」
「ウッキ~おそーい」
「どこにいたんだ?」
ガーデンテラスに踏み込むなりかかったにぎやかな声に、真は一瞬、何事かわからなかった。
テラスのテーブルを、『Trickstar』の3人とあんずが囲んでいる。明星スバルは立ち上がって手招きして、衣更真緒はスマートフォンをいじる手を止めて笑顔を向けて、氷鷹北斗は腕組みをしてきまじめに問いかけて、真を迎えた。あんずもふだん通りの笑顔だ。告白への緊張や予定外の闖入者への困惑など見えない。つまり、この状況は予定されていたことで、ひとつ空いているイスは、真の席だろう。
(ああ、だよねー)
真は事態を把握し脱力する。ものすごい緊張から解放されて、膝をつく勢いだった。
あんずの用事は個人的なものではなく、3人はあんずと一緒にいたから、グループ宛てのメッセージではなかったのだ。
(ぼ、僕だけいなかったんだね……!)
寂しいことに気づいてしまい、悲しいやら情けないやらで、眼鏡がずれた。
「ウッキ~、早く座ってよ!」
「ご、ごめん」
力が抜けてその場に突っ立っていたら、スバルに催促されて、真は慌てて眼鏡を直しながら空いているイスに座る。
「見て見て!」
スバルはわくわくした顔で、テーブルの上を指差した。
そこには白い箱が置いてある。
なんだろうと思っている間に、あんずがそれに手をかけた。
「【ショコラフェス】、お疲れさまでした!」
そして、そう言いながら、箱のフタをぱかりと開ける。
現われたのは、星型のチョコレートケーキだった。チョコレートでコーティングされた表面はツヤツヤと輝いて、金箔のようなものが散ってキラキラしている。そのうえにのっているチョコレートの板には『Trickstar』と書かれていた。特製の『Trickstar』ケーキだ。
「うわあ!」
真は感嘆の声を上げた。
これはあんずのお手製なのだろう。自分たちのために、こんな特別なものを用意してくれたことに嬉しさが湧いてくる。
「あんずが作ってくれたんだ」
「『Trickstar』ケーキだ」
真緒と北斗はまるで真に自慢するかのように誇らしげだ。
その気持ちはわかる。こんなにすてきなものを作ってもらえて、胸が弾まないわけがない。
「すごい、すごいよ! ありがとう、あんずちゃん!」
「私も喜んでもらえて嬉しい」
真も興奮してあんずを振り返る。あんずは言葉通り嬉しそうに笑ってくれた。
(あ……やっぱりかわいいな……)
向けられた笑顔にきゅんとときめく。女の子は苦手なのに、なぜかあんずは違うのだ。ずっと特別だった。会話は難しくて後悔してばかりでももっと話したい。笑顔を向けられるとどうしたらいいかわからなくて困ってしまうのに、かわいいなと思って、もっと見たいと思う。
もっと、もっと仲良くなりたいと思うこの気持ちはきっと――。
意識をしたら、どきどきと脈が速まってしまって、真は慌ててあんずから目を逸らした。
「ほ、ほんとうにおいしそうだね!」
色んなことを誤魔化すために、そのままケーキに視線を移して褒めたたえる。
不自然に思われただろうかと心配したが、それは身を乗り出してきたスバルの勢いが吹き飛ばしてくれた。
「でしょでしょ! キラキラしてて最高だよね! 『Ra*bits』のはウサギ型でかわいかったけど、こっちはキラキラしてるからもっと好きだな」
スバルはとても幸せそうだ。いつも以上に顔が輝いている。きっとスバルがこうして喜んでくれるから、あんずもケーキをキラキラさせたのだろう。真が見ても、嬉しくなるような笑顔だから、あんずはもっと嬉しいに違いない。そう思ってあんずを見ると、あんずはやっぱりとても嬉しそうに笑っていた。その笑顔にまた真も幸せな気持ちになる。
「ウッキ~来るまで食べちゃ駄目だって、あんずが言うから待ってたんだぞ~」
「当然だ」
それから唇を尖らせたスバルに、北斗が呆れて言った。
「ついでに紅茶部から紅茶もらって、ティーセット借りたからな。みんな揃ったことだし、お疲れさま会しようぜ」
真緒が無造作に持ち上げるティーポットやカップがやけに高そうなのはそういうわけかと納得するも、それを知ったら知ったで生徒会長の完璧な笑顔がちらついて、真はむやみに緊張してしまう。
あまり茶器に触らないようにしようと決める真の傍らで、スバルが元気に声を上げた。
「ね、食べよう!」
「そうだ。せっかくだから記念写真撮らない?」
それにはっとして、真は提案する。このケーキを写真に残したいし、みんなとこうしている時間も残したい。「撮影」は好きではないけれど、カメラは好きだし、写真も嫌いでないと最近気がついた。
「あ、いいね! ウッキ~たまにいいこと言うよね!」
「あ、明星くんはたまにひどいこと言うよね」
すぐにスバルが賛成してくれたが、ひとこと余計だ。
「あんず、ケーキを持って座ってくれ」
「撮るよー」
あんずにケーキを持たせてイスに座らせ、その周りを真たちで囲む。カメラを持ってきていなかったので、真が腕を伸ばしてスマートフォンで撮った。
「どれどれ」
「お、よく撮れてるな」
念のため2枚撮った後、みんなで画面を覗き込む。
ぶれてもいないし、5人とも笑顔だ。いい写真が撮れた。
「ウッキ~送って~」
「うん、オッケー」
真は4人に画像をシェアしながら、写真を――写真の中の自分を、あらためて見る。
写真の中の自分は、「きれい」ではなくて、ちょっと間が抜けているように見えた。それはポップな色と形の眼鏡のためではなくて、これが遊木真なのだろう。ものすごく楽しそうだ。
(なんだかアホそうだなあ。氷鷹くんの言うとおりかも)
思わず笑みが漏れてしまう。
自分の写真を見て、楽しい気分になるなんて、モデルをやっていた頃は想像もしなかった。みんなと撮る写真は楽しい。これも宝物だ。
真はもう一度だけ見て、スマートフォンをしまった。
「よかったら俺のケーキもみんなで食べてくれよ。結構うまくできたんだ」
「ケーキ? サリ~が作ったの? 食べたい食べたい!」
おのおのが席に戻る中、真緒は座らずに奥へと身を翻す。
「そう。凛月と一緒にだけど」
戻ってきた真緒の手には、あんずが作ったものとは違うチョコレートケーキがあった。
「じゃーん! あんずがカロリーが気になるって言うから、低カロリーでおいしいやつを凛月に考えてもらったんだよ」
「真緒くん! 信じてた!! ありがとう!」
『Trickstar』ケーキの隣にそのケーキを置いた真緒の手を、あんずがひしと握りしめる。
(う、うらやましい! ……でもほんとにおいしそうだ)
あんずに手を握ってもらえていいなと羨む一方、真緒のケーキはシンプルながらもきれいに焼き上がっていてとてもおいしそうなので、そのごほうびも当然と思えた。しかも、事前にあんずの要望を聞いている代物だ。あんずが喜ばないわけがない。
(衣更くんってかっこいいよなあ……)
真緒はとてもスマートだ。気さくで親切で、空気も読めるし、ダンスも上手で、かっこいい男の子の見本のようだ。
(女の子ならなおさらかっこいいって思うよね……うう、あんずちゃんもかなあ……)
自分が女の子だったら真緒にときめくだろうと思える。だとしたらあんずもときめいているかもしれない。そんな想像をして、真は少し落ち込んだ。
「凛月がホワイトデー忘れるなって。あ、俺もな」
「うんうん。もちろん」
真緒は笑ってぽんぽんとあんずの手を叩く。あんずは嬉しそうに頷いた。
(い、衣更くん、なんて自然にホワイトデーの約束を……!)
その流れるように自然な約束に、真は驚愕した。いやもちろん、真緒の対人能力の高さは知っている。だが、こうもさらりと、「こんにちは」くらいの軽さで、ホワイトデーのお返しの約束を取り付けるなど、真には逆立ちしてもできない真似だ。真は信じられない思いで、真緒を見つめた。真緒は、真が思うよりもずっとハイレベルなのだ。
「あ、じゃあじゃあ俺もー! あんずこれもらってよ! 昨日一緒にやってくれたお礼」
そこに、反対側から明るい声が上がる。
真はびくっと肩を震わせてそちらを見た。
スバルが満面の笑みで、かわいらしくラッピングされた包みをあんずに差し出している。
こちらはこちらで、真緒とは違ったベクトルのコミュニケーション力を有した強者だ。
(明星くんもなんてナチュラルに……! あっ、待って待って、ぼ、僕も今がチャンスだ……!)
スバルの流れに乗る上手さに感心しかけて、真ははっと気がついた。
真もあんずにあげるチョコレートを用意している。今、足もとのバッグの中だ。どうやって渡そうかと頭を悩ませていたが、この流れに乗れば、自然に渡すことができる。この機会にあんずへ感謝を伝えたかったのは、みんな同じだったのだ。北斗はライブが終わってすぐにあんずに渡しているので、あとは真だけだ。渡さなかったら、むしろ真だけあげなかった人になってしまう。
(よ、よーし)
真はチョコレートを取り出すためにバッグを掴んだ。
しかし、真より先に、スバルの余計なひと言に、ぴくりと眉を動かした北斗が口を開いて、空気を一変させた。
「なんだと?」
「スバルくん……」
あんずはスバルから包みを受け取りながらも、残念そうな視線を向けている。
「明星、おまえ、昨日、あんずにラッピングを手伝わせたのか? あれはおまえがふざけてばかりいるから、反省させる意味も込めていたというのに」
「あ、あははは」
北斗にきつく睨まれて、スバルはようやく失言に気づいた。
「ほ、北斗くん、私は――」
「あんずは黙っていてくれ」
「はい。ごめんなさい」
フォローしようとするあんずを黙らせて、北斗のお説教が始まる。
「あーあ」
真緒は仕方なさそうに苦笑した。
(うわあ……今は渡せないよね……)
北斗は結構真面目に説教しているし、自分も関係しているからあんずはそわそわとふたりを気にしている。
ここで、チョコレートどうぞなんて差し出せるわけないし、そんなことをされたらあんずも困るだけだろう。
(うう……間が悪いな、僕……)
せめて北斗より先に動けていればと思っても後の祭りだ。真はすごすごとバッグを元に戻した。


スバルへの長いお説教は、真緒のとりなしでどうにか終わり、そのあとは楽しいお疲れさま会になったのだが、真の力では、どうにもチョコレートを渡すタイミングを見つけることも作ることもできないまま、会も終わった。紅茶部から借りた茶器や食器も洗い無事にひとつも欠けることなく返したので、あとは帰るだけだった。
「こんなもんか」
「ああ、戻ろう」
イスを整えて、真緒と北斗がそんな会話をしている。
(ど、どうしよう……)
このままでは帰宅まっしぐらだ。こんなにもバレンタインの雰囲気が満ちた中で、しかも絶好のビッグウェーブがあったにもかかわらず、チョコレートを渡せていないというのに、バレンタインから遠ざかるだけの帰り道、話が途切れないこの面子で、真があんずにチョコレートの件を切り出せる確率は限りなくゼロに近い。それに、渡すならやはり、お祭り感が漂う学院内にいる間だろう。ふつうなら、真が女の子にチョコレートを渡すなどできっこないことなのだが、今の学院は全体がそういう雰囲気だ。光もお世話になっている先輩にチョコレートを用意していた。そんなひとがたくさんいるから、真も紛れられる。確かに少し特別な想いも混じっているけれど、このチョコレートの主成分は感謝だ。あんずに、いつもありがとうと伝えたい。
(そうだ……いつもありがとうって言わなくっちゃ)
真は、バッグのチャックを少し開けて中に手を差し入れ、ちらとあんずを見た。
あんずは、重そうな紙袋を持ち上げようとしている。
真は慌ててバッグを肩に背負い、あんずのもとに行った。
「あんずちゃん、大荷物だね。フェスの小道具? 大丈夫? 持つよ?」
「あ、えっと、これはフェスのものじゃなくて、個人的なものだから、大丈夫だよ」
真が声をかけると、あんずはわずかに慌てたような動きをして、首を横に振る。
それを不思議に思ったものの、あんずが持つには結構大変そうなので、真は重ねて聞いた。
「個人的なもの? でも重そうだし、よければ持つよ?」
「あ、う、うん……」
しかし、やっぱりあんずからは困ったような返事が返ってくる。その反応に、真ははっとした。
「あ、ごめん、僕が触っちゃだめなやつだった?」
「そうじゃないんだけど……申し訳ないから」
「遠慮しなくていいのに。じゃあ、持つね?」
また空気を読めていない発言をしてしまったかと焦ったが、あんずの言葉にほっとして、真は荷物に手を伸ばす。
「あ、ありがとう」
あんずは気が進まないようだったが渡してくれた。
それは、見た目通りずっしりと重量感があった。
興味を引かれた真は、封をしていないし、隠してもいないということは見てもいいのだろうと勝手に判断して、ちらと中を覗く。そして、目を見張った。
紙袋の中には、かわいらしくラッピングされた包みがぎっしりと詰まっていた。いちばん上には、さきほどスバルが渡していた包みがある。つまりこれは全て――。
「も、もしかして、これ、チョコレート?」
「う、ん」
真が恐る恐る尋ねると、あんずは気まずそうに頷いた。
(うわー……!)
あんずが頑なに遠慮し、微妙な反応をするわけだと、納得する。
これは「個人的な」中でも、最も個人的な荷物であるし、この数から推しはかるに、知り合いの中であげていないのは真くらいかもしれない。気まずいのは真だ。
「モ、モテモテちゃんだね……はは」
乾いた笑いが口からこぼれる。
この時点であんずにチョコレートをあげていないなんて、あんずに感謝を抱いていないことを表明しているようなものだ。しかし、これはチャンスでもある。思いがけずチョコレートの話題になった今、実は僕も用意していたんだ、と渡すのはおかしくない。
(でも……)
ただ、手の中のずしりとした重みが、真の心を押し潰していた。バレンタインという浮かれた気分も、あんずにあげようというそわそわした気持ちも、いっしょくたに潰れている。こんなにたくさんもらっていたら、真があげてもあげなくても同じだろう。砂浜の砂粒のようなもので、あってもなくても変わらない。それに、今でもこれほどかさばって重いのに、真があげたら荷物を増やしてしまうことになる。これ以上は迷惑に違いない。
「そっかあ……」
真はため息をついた。せっかく作ったけれど、用意したチョコレートは真の胃袋に入ることに決定だ。
「や、やっぱり、自分で持つ」
そのため息を聞きつけて、あんずは紙袋を取り戻そうと手を伸ばしてくる。
「ごめん。今のは違うから! 大丈夫!」
真は慌てて笑顔を作って、あんずの手を避けた。ちょっと気が塞いでしまったのは自分のせいで、この紙袋を持つことは全く憂うつではない。
手が空ぶって、あんずは眉根を寄せた。
真の言葉が本当か探るように、じっと見つめてきたので、真は恥ずかしくなって目を逸らす。
「み、見つめられると困っちゃうな」
「……じゃあ、真くんの荷物持つ」
ただ真に持たせるばかりでは気が引けたのか、あんずは、真が肩にかけているデイバッグに手をかけた。
「大丈夫。気にしないでいいから」
「でも……」
「ほんとにほんとで大丈夫だよ!」
申し訳なさそうなあんずに笑顔で言って、真は体を揺すってあんずの手を振り払おうとする。
「あっ」
真のためらいから半分ほどチャックが開いていたところに、あんずが手をかけていたため、その拍子にバッグは大きく開き、中から唯一の荷物が飛び出して、ふたりの間にぽとりと落ちた。
ぽとりと。
(!!)
きれいにラッピングしたそれはあんずへのチョコレートだ。
あまりのできごとに、真は固まった。
あんずもなぜか同様に固まって、それを凝視している。
ふたりの視線を一身に集めたチョコレートは、当然ながら無言だ。
「あ……え、と……」
誤魔化せ、乗り切れ、と焦った頭が真を煽る。しかし、ここまでこれを渡すタイミングを作れなかったのに、この決定的にピンチな状況で、うまい誤魔化しなんて浮かんでくるはずもない。口は意味をなさない単語を発するだけで、頭は空転するばかりだ。
先に動いたのは、やっぱりあんずだった。
「ご、ごごめんなさい!」
慌ててチョコレートの包みを拾い、真に差し出す。
「い、いいの、いいの。気にしないで」
真はそそくさとそれを受け取った。泣き面に蜂とはこのことだろうか。運がなさすぎて泣きたい思いだ。
「でも、特別なものなんでしょう」
あんずは気遣わしげに包みを一瞥して、もう一度、ごめんなさい、と謝った。
「ど、どうしてそれを……!」
真はびっくりしてしまう。
(た、たたた確かに、あんずちゃんのことが好きだから、ちょっとはそんな気持ちもこもっちゃってるかもしれないけど、でも、告白とかそういうつもりじゃなくて、プロデューサーとしてもクラスメイトとしてもお世話になってるから、いつもありがとうって思って作ったのに、な、なんで特別ってばれちゃってるのかな……!)
勢いよく慌てふためく真に、あんずは少し戸惑ったように言った。
「え……だって、チョコレートは学校の受付があるから。これは個人的にもらったものなんでしょう?」
「え?」
あんずの言葉に、真はぴたりと思考を止める。それからあんずの誤解に気づいて、今度はぶんぶんと首を横に振った。
学院の生徒へのチョコレートは、学院が公式に窓口を設けていて、個人的に渡さないルールになっている。本来は、アイドルからお客さんに渡すフェスなのだが、そうはいってもチョコレートを渡したい女の子はたくさんいて、実際に持ってきてしまうため、学校がそのような対応をしていた。そのルールを外れて持っているチョコレートだから特別なものだと、あんずは思ったのだろう。特別な子にもらったものだと思ってしまっている。
よりによって、いちばん誤解されたくないあんずに誤解されてしまった。
特別なのは、あんずだけなのに――。
これは絶対に否定しなくてはいけないと、真は必死に言う。
「ち、違うよ! 違う! これはもらったものじゃなくて、あんずちゃんにあげようと思っ……っ!」
「え?」
そして、つい本当のことを口走ってしまって、真は息を飲んだ。
今度は、あんずがきょとんとする番だった。
「あああ、じゃなくて、これは自分チョコだから!」
真は無理矢理軌道修正して言い切る。
しかし、もちろん、誤魔化せるはずがない。
なんともいえない、気まずい沈黙が広がる。
「…………………………くれないの?」
数十秒の間の後、あんずが恐る恐るといった様子で言った。
真は観念する。
「……こんなにもらってて、これ以上増えても荷物になるだけで迷惑だと思うから……」
「迷惑なんかじゃないよ?」
あんずは驚いたように目を丸くして、強く首を振る。
「真くんからもらえるなら、すごく嬉しい」
それから、ほんとうに嬉しいことのように、ふわりと笑った。
(うわ……!)
その女の子らしい柔らかい笑顔に、真の心臓がどきんと跳ねる。その鼓動で一瞬にして沸騰した血液が頭に昇り、爆発した。
「だ、駄目だよ!!」
「え、なにが?」
突然悲鳴じみた声を上げながら顔を背ける真に、あんずは困惑している。当然だ。だが、それに説明することも、挙動不審さを収めることもできず、真は顔を背けたままチョコレートの包みをあんずの手に押しつけた。
「こ、これはあげるから! そんなふうに笑わないで!」
「え?」
「あ、あんずちゃんがかわいいから緊張しちゃって直視できないよ! ごめんね!」
真は紙袋を持ち上げて、それに顔を押しつける。こうすればあんずの顔は見えないし、赤い顔を見られずに済む。
そうして、真は、あんずの顔がみるみる赤くなっていく様を見逃した。
「ま、真くんもそういうこと言わないで。恥ずかしい……」
「あ、あんずちゃん……?」
あんずの声が震えているのが気になって、真は恐る恐る顔を出す。あんずは真のチョコレートで顔を隠していた。ほんの少しはみ出ている耳が真っ赤だ。
その姿に、あんずをとてもかわいく思って、胸がいっぱいになった。いつもあんずにときめくときよりは頭が真っ白になってしまうのに、今は、ずっと落ち着いていて、ずっとどきどきして、想いが膨らんで胸を押し上げている。
好きだなと思った。
「あんずちゃん、あの――」
荷物を抱え直して空いた右手がゆっくりとあんずの方へと伸びていく。
今、あんずがどんな顔をしているのか見たかった。あんずの顔を見たら、きっと、もっと好きになる。そんな予感がした。だから、顔を隠しているチョコレートの包みをおろしてほしい。
どきどきと鼓動が速まる。期待なのか緊張なのかはわからない。
あと、すこし――真の指先が、あんずの手首に触れるその寸前、ドンと真の背中になにかがぶつかった。
「ぐわっ!?」
「ウッキ~! あんず! なにしてるんだよ~遅いぞ!」
立ち止まっているふたりのもとに駆けてきたスバルが、真の背中に乗っかってきたのだ。背骨が折れるかと思うほどの衝撃に、眼鏡は落ちそうなほどずれ、真は悲鳴を上げたが、スバルは気にせずに、あんずの手の中のものに目を留めて笑った。
「あ、ウッキ~もあんずに渡したんだ。よかった。ウッキ~用意してないかもって、ホッケ~たちと話してたからさ」
「そ、そうなんだ。心配かけてごめんね」
さらりとひどいことを言われたような気がしたが、とりあえず真はずれた眼鏡を直して謝る。
「ま、真くん、変な音したけど、大丈夫?」
「う、うん。どうにか」
心配そうなあんずには、笑ってみせた。
つい一瞬前、あんずと真の間に漂っていた緊張感はきれいさっぱり吹き飛んでいる。真の手は、あんずに触れずに終わってしまった。
真は、ちらりと自分の右手を見る。
残念なような、ほっとしたような、真自身にも判別がつかない気持ちだ。
触れていたら、どうなっていたのだろう。
想いを告げてしまっていただろうか。
その可能性にどきりと心臓が跳ねて、顔が熱くなる。
真は手を握りしめた。
まだ、だめだ。
「ホッケ~とサリ~に置いていかれてちゃうよ! 行こう!」
真がぼんやりしている間に、スバルはあんずの手を取って、連れて行ってしまう。
「あ、待って!」
一歩遅れて、真は荷物を持ち直しながらふたりを追いかけた。
スバルは簡単にあんずに触れる。軽やかに踏み出していく。
それは羨ましくて眩しい。
そして、まだなのだと思えた。
真は、スバルたちに追いついてもいないから、必死に走らなくてはいけない。

走って、走って、いつか、この手がみんなに届いたら、きっとあんずにも触れることができるのだろう。


「ウッキ~、チョコ用意してたよ!」
「はーよかった」
「ああ。学院中で自分だけ渡していないと知ったら、落ち込むだろうからと心配だった」
北斗と真緒に追いつくやいなや、スバルは笑顔で報告した。ふたりは明らかに胸をなでおろしている。
「み、みんな、僕が用意してないと思ってたんだね。ていうか、みんなからもらったんだ……」
その反応も、北斗の漏らした情報も胸に刺さった。もしあそこでチョコレートが落ちなかったら、『Trickstar』で唯一どころか、学院中で唯一あげなかったひとになるところだったのだ。さすがにそれは砂浜の砂粒なんて存在感ではない。一生記憶に留まるレベルのものだ。
(よ、よかった……)
真は心からほっとする。
もちろん学院中のひとがチョコレートをあげているということも、そのなかに本命があるのではないかということも気になったが、あんすがみんなからチョコレートをもらうのは当然だと思うから、そこまで胸はざわつかなかった。
みんな、あんずに感謝している。あんずは何もしていないと言うかもしれないけれど、彼女はみんなに変化をもたらしている。
真も、その中のひとりだ。
「僕だって渡すよ? あんずちゃんに感謝してるから」
チョコレートを渡すとき、慌てすぎて、すっかり伝えるのを失念していた言葉を思い出した。
今はこれだけ――。
真は、あんずを見る。

「いつもありがとう、あんずちゃん」

 

今は感謝が99.8%のチョコレート。0.2%だけ、「好き」を練り込ませてもらっている。
けれど、いつか、100%の特別なチョコレートを渡せるように。
好きですと伝えられるように。

一生懸命走りたい。

 

おわり





◎おまけ


【ショコラフェス】まであと3日


「カロリー低いのかー……」
衣更真緒は、さきほど別れたあんずが残した言葉を反芻していた。
真緒の手の中には、食べてもらえなかったチョコレートケーキがある。カロリーが気になると言って、あんずは手を出さなかった。あんずなど全く太っていないのに、女子というものは不可解だ。
「あれ、衣更先輩。どうしたんですか、そんなとこに突っ立って」
ふいに背後から声をかけられて振り返ると、そこにはバスケ部の後輩の高峯翠がいた。
「あ、高峯。いいところに。これ食べないか?」
「えっ、それ、なんすか。すごく甘そう」
「う、そっか。悪かったな」
遠慮ない後輩のものすごく迷惑そうな顔に、真緒はすごすごとケーキを引っ込めた。
ふたり連続で断られて顔にがっかり感が出てしまったのか、翠はさすがに申し訳なさそうに謝りながら、それでも『流星隊』の準備の途中だからと去っていく。【ショコラフェス】までもう日がないから、どのユニットも祝日返上で準備に大忙しなのだ。
再びひとりになって、真緒はあらためて作ったケーキを見返した。とにかく余った材料を全部使い切ろうという代物なので、ケーキにはチョコレートクリームがたっぷりとのっている。確かにこれは、「カロリーが……」と言いたくなるのも、甘そうと顔を顰められるのも仕方ないと思えた。
「……うーん、やっぱり凛月か」
脳裏に、お菓子作りが得意なおさななじみ――朔間凛月の顔が浮かぶ。
せっかくだから、あんずにおいしく食べてもらえるようなものを作って、バレンタイン当日に渡すかと思った。これはあんずのために作ったわけではないが、食べてもらえなかったのは、やっぱりちょっとがっかりしたのもあるし、あんずにはお世話になっている。たまにはプレゼントもいいだろう。
ただ、ここからチョコレートクリームを除いただけで、低カロリーでおいしいケーキになるかがわからない。そんな上級者が作るようなものを、本を見てひとりで作るのは難しいし、これを一緒に作ってくれた鳴上嵐は今ごろ『Ra*bits』で手いっぱいだ――というより、嵐に相談したら、恋だのなんのとあらぬ誤解を受けて面倒なことになりそうだから、個人的なチョコ作りの手伝いを頼むことは遠慮したい。他にケーキを作れる知り合いはあんずだけだが、贈る相手のあんずには頼めない。となると、凛月しかいない。作り方と見た目に難ありだが、そこをどうにか自分が努力すれば、贈れるものなる――はずだ。
真緒はスマートフォンを取り出して、凛月に連絡を取った。すぐに返事がくるとは思っていないので、ケーキをどうにかしようと厨房に戻る。そうして、『Ra*bits』のメンバーにあげている間に、凛月から折り返しがあった。
中庭にいるというので行くと、隅のほうで芝生に転がっている大きな体を見つけて、予想の内ながら予想通りのことに、真緒は大いにため息をつく。フェスまであと3日だというのに、風邪を引いたらどうするつもりなのだろう。
「おい、凛月。風邪引くぞ」
「ん? ま~くん? どうしたの? なにかあった?」
体を揺すると、凛月はごろりと仰向けになった。寝転がってはいたが、寝てはいなかったらしい。だが眠そうだ。
「カロリー低めのチョコレートケーキ作りたいんだけど、手伝ってくれないか?」
「なにそれ。あんずにあげるの?」
凛月は目をこすりながら体を起こす。
だいぶ寝ぼけているのに的確だ。ただ、真緒がバレンタインにチョコレートを渡そうと思う相手など妹かあんずくらいで、そのうち、カロリー控えめという工夫をしてあげようと思うのはあんずくらいだというのは、凛月なら考えなくてもわかることだろうから、ずばりと言われても驚きはない。
(ああ、ごはんのお礼に、おばさんにもあげようかな)
ひとりぶんもふたりぶんも同じだろうと、真緒はあんずの母も人数に加える。
「ああ。さっきあんずにカロリーが気になるってチョコレートケーキ食べてもらえなくてさ。せっかくだから、バレンタイン当日にあげようかなーって。お前も忙しいところ悪いんだけど」
まったく忙しそうには見えないが、『Knights』も【ショコラフェス】に参加するのだから、その準備――の気配すら見えないが――で忙しいはずだ。
「ふわあ。べつに忙しくないけど、ちゃんとホワイトデー、俺の分もお返しもらってきてね」
「お、おう。あんずがくれるんだったらな。ていうか、忙しくないって、『Knights』は大丈夫なのか?」
「うん。だいじょうぶ。だから今日泊めて」
さすがお菓子作りが得意な者が3人もいる強豪ユニットは違う、と真緒が唸ったときだった。
「凛月先輩いぃぃい!」
ガーデンテラスに怨念がこもった声が響き渡った。
見れば、『Knights』の一年生、朱桜司が鬼の形相で凛月の名を呼んでいる。それは呼ぶというより叫んでいるといった方が正確だ。
「全くあのひとときたら! 【ショコラフェス】の準備が全っ然終わっていないというのに!」
「shit!」と舌打ちをはさみながら、司はぶつぶつ愚痴をこぼしていた。
「……思いっきり探されてるけど」
「ス〜ちゃんも探してる暇があったら準備すればいいのにねぇ」
「おまえだけは言っちゃいけないセリフだって、それ」
真緒はチョコレートケーキをひとりで作る未来が見えると思いながら、凛月を司へ差し出すべく、その腕を掴み、司を呼んだ。

 


【ショコラフェス】まであと2日


遊木真は、厨房を借りて、嵐に教わったトリュフをひとりで作っていた。
手順立てて操作すれば、そのように応えてくれる機械とは違って、お菓子は生ものだから扱いが難しい。もともと器用な方ではないので、最初はほんとうにうまくできなかったが、練習を重ねて、どうにか作れるようになってきた。
今作っているこれはショコラフェスでお客さんに配る用ではない。特別に贈りたい相手がいるのだ。だから、誰の手も借りず、自分の力で――と、天満光と同じことを思ってチャレンジしていた。
「できた!」
きれいにできあがったトリュフに、真は嬉しくなって声を上げる。
家で学校で時間を見つけては練習した甲斐あって、大きさも揃った、おいしいトリュフを作れるようになった。
(これなら喜んでくれるかな――)
あんずちゃん、と心の中で呟く。
それだけで、心の中に照れくさい、じたばたしたくなるような想いが膨らんで、真は、へへっと笑った。
「あれ、真くん」
そこにふいにあんずの声が響いて、真は飛び上がるほど驚いた。
「あ、ああああんずちゃん!?」
今、目の前に並んでいるのは、明日あんずにあげるつもりのチョコレートだ。あんずに見られるのはまずい。
(うわっ、まず……!)
真はとにかく隠さないとと焦り、チョコレートに覆いかぶさりかけて、それは怪しすぎると思いとどまったはいいものの、チョコレートは完全に無防備だ。払い落とすのもボウルをかぶせるのも間に合わない。いや、払い落とすのはだめだ。では、どうする――という問いに答えが出る前に、調理台の向こうに、あんずが現れた。
「追加で作ってるの?」
あんずの目はしっかりとチョコレートを捉えている。
もうだめだ。チョコレートはすっかり存在を知られてしまった。
「あ、う……うん」
自分の間の悪さに泣きたい思いで、真は頷く。
「きれいにできてるね。嵐くんいなくてもこんなに作れるなんて、真くん、すごいね」
ただ、あんずが目をきらきらと輝かせて褒めてくれたので、消沈した気持ちはふわりと舞い上がった。
「あ、い、一個食べてみてくれる?」
嬉しさから、つい言ってしまった言葉に、真は頭を抱える。
(って、なに言ってるんだよ! 僕!!)
二日後、あんずにあげるというのに、今食べさせてどうするのだろう。14日にあげたとき喜んでもらえたとしても、あのとき作っていたあれかと思って、驚きも喜びも半減だ。しかし、食べてみてと言っておいて、やっぱり駄目とも言えない。真は半泣きになりながら、必死に笑顔を保った。
「うん」
あんずは頷いて、ひとつ口の中に入れる。
すすめてしまったことに後悔する一方、あんずの評価も気になって、判決を待つ被告人のような気分で、真はあんずを見つめた。
「おいしい! これならお客さんも喜んでくれるね」
「よかった」
あんずは顔をほころばせて、太鼓判を押してくれる。
真はほっと胸をなでおろした。
お客さんが喜んでくれるのは嬉しい。けれど、本当はまだあんずだけでいい。あんずが喜んでくれれば、ちゃんとできたのだと実感できた。まだたくさんのひとの反応に返せるほどの余裕はない。
あんずはもぐもぐと幸せそうに食べている。それを見ているだけで、真も幸せだった。今これだけ喜んでくれているのだから、当日がっかりされてもいいかと思ってしまう。
(あ、今ってチャンスかも……聞いてみようかな……)
そんななかで、ずっと気になっていることを聞けるのではないかと思いつき、真は一気に緊張した。
聞きにくいことなのだ。けれど、ひどく気になる。どうしても気になる。
「あ、あのー……」
だから、真は恐る恐る切り出した。
「……あんずちゃんもチョコ、作ったりするの?」
「うん、作るよ」
真が一世一代くらいの思いでした質問に、あんずはあっさりと頷いた。
(つ、作るんだ……! でも、すごい軽い返事だな……!)
真はどきどきしながら、次の、最大の核心の質問に移る。
「あ、そ、そうなんだ~。ちなみに、誰にあげるのか聞いてもいいかな?」
それがいちばんの問題だ。
(き、聞けた! 今のは結構自然だったんじゃないかな!)
どきどきと心臓が早鐘を打ってやまない。しかし、声は震えなかったし、さりげなさを装えていたと思う。
「ご、ごめんね、こんな質問――」
「弟だよ。甘いもの好きだから、何か作ってってうるさくて」
取り繕って謝る真に、特に気にした様子もなく、あんずはそれにも答えてくれた。
「ふ、ふーん、弟さんかー」
がっかりしてほっとした。喜んでくれるといいね、と言いながら、自分も欲しかったな、と思う。
「あ、も、もういっこ食べる?」
けれど、そんなことは言えないので、真はチョコレートを差し出した。

 


【ショコラフェス】前日


「みんなの薄情者〜」
空き教室に、明星スバルの恨めしそうな声が響いた。
彼の前には、山積みの箱とラッピング袋にリボンがある。明日、【ショコラフェス】で配る予定のものだ。使うのは明日。だから、今日中にしっかり終わらせなければならない。しかし、スバルは飽きていた。
どうにもじっと座っての作業ができなくて、昼間、『Trickstar』のみんなで準備している間、飽きるに任せてふざけていたら、真面目なリーダーに叱られて、居残り作業を命じられてしまった。何の言い訳もできないほど完全に、自分のせいだ。
しかし、明日はライブがあるからと、さっさと帰ってしまうのは薄情ではないか、せめてスバルがさぼらないように見張るため、リーダーの氷鷹北斗くらいは残っていいものだ――なんてことも言えない。
みんなが正しくて、自分がいけない。だから、どうにかやらなくてはいけないのだけれど飽きている。みんなといるときも集中してできなかったのに、話し相手もいなくて孤独な中での作業など楽しい気配すらせず、全くやる気が起きない。お客さんのためだと気持ちを奮い立たせるのも限界だった。なんとも絶望的な状況だ。
「わ、と、と」
スバルが深いため息をついたとき、教室のドアが開いて、箱が入ってきた。
いや、今の声はあんずだ。
スバルが座っているところからは、だいたい箱しか見えなかったが、あんずが箱を運んでいるのだろう。
「あんず、なにしてるの!」
思いがけないすてきな闖入者に、スバルはステップを踏むような軽やかさで駆け寄った。ひとりきりでなくなって心がぴょんぴょん弾んでいる。あんずに抱きつきたいくらいだったが、それをしたら大変なことになることは予測できたので、とりあえずあんずの箱をもらうことにした。それを床に置くと、あんずのほっとした顔が現れる。
「あ、ありがとう、スバルくん」
「うん。片づけ? まだ残ってたの? サリ~と帰ったんじゃないの?」
「ちょっとやりたいこともあったし、会場の飾りつけの手直しを手伝ってて」
あんずはふうと息をついた。
会場からこれを運んできたのだとしたら、確かに大変だっただろう。今回はあんずの担当ではないから、こんなに遅くなるまで付き合わなくてもいいはずなのに、明日のフェスを成功させるために、あんずは一生懸命働いている。それにひきかえ自分は――とスバルはここでぐずぐずしていたことを反省した。
「スバルくんも遅いね」
「俺は……居残り」
あんずに話を振られて、どう答えようか一瞬迷ったが、スバルは素直に答えた。
あんずはちらりと教室の奥で広げられているものを見る。
「もしかして、ラッピング?」
「そう。ふざけてたらホッケ~にちゃんとやれって怒られちゃった」
「ふふ、じゃあ、てつだ――」
あんずは笑って、恐らく、手伝うよ、と言いかけて、口を閉ざした。
「どうしたの?」
中途半端に言葉を止めたあんずが不思議で、スバルは首を傾げる。
あんずならば、手伝いを申し出てくるだろうと思った。自分の行いを反省したスバルはそれを――本当に残念で仕方ないが――断ろうと準備していたのだ。だが、あんずが最後まで言ってくれなかったので、スバルも断れなかった。
「悩むな、と思って」
あんずは言葉通り、心底悩んでいるようで、眉根をぎゅっと寄せている。
「なにが?」
「手伝いたいけど、お客さんはスバルくんがラッピングしたものの方が喜ぶから、手を出しちゃだめかなって。包みを支えてるくらいならいいかもしれないけど……」
「俺が?」
「うん。だって、大好きなアイドルでしょ?」
あんずは大きく頷いた。
なんだかくすぐったくて、スバルは、珍しく照れて笑う。けれど、もっと聞きたくなって、あんずの方へ身を乗り出した。
「ねえねえ、あんずも? あんずも嬉しい? 俺がラッピングしたやつ」
「うん。私も嬉しいよ。『Trickstar』のファンだから」
「そっか〜」
あんずの言葉に、あたたかい気持ちが胸いっぱいに広がる。
「そうだ。私もね、まだもう少し作業が残ってるから。いっしょにやろう?」
「そうなんだ! うん、そうしよう! いっしょにいてくれるだけで嬉しいし!」
あんずの提案に、スバルは喜んで頷いた。
「あんずは何するの?」
「それが――」
スバルが尋ねると、あんずは箱の中のひとつをごそごそと探り出し、中から何やら取り出した。
「じゃーん」
それは、布で作られた飾りだった。真ん中に『Trickstar』という刺繍があって、リボンがついている。
「みんなの衣装、もう少しアレンジしたくて、飾りを作ってみました!」
「ほんとに!? 嬉しい!」
スバルはびっくりして嬉しくて、目を丸くして顔を輝かせた。
あんずの手には4つの飾りがあって、リボンの色が違っている。それぞれのことを考えて作ってくれたのだ。
「本当はこっそりつけておこうと思ったんだけど……」
「そうだったんだ! 明日、ホッケ~たち驚くだろうなあ」
失敗しちゃったと笑うあんずに笑い返し、スバルは3人の驚いた顔を想像して、わくわくした。元よりフェスは楽しみだったが、またひとつ楽しみが増えた。
「うん。喜んでくれるといいな」
「ぜったい喜ぶって! ほんとちょー嬉しい! ありがとう!」
スバルは喜び全開で、あんずに抱きついた。
みんながこれを喜ばないはずがない。夜遅くまで残っていたことに、北斗が苦言を呈するかもしれないが、その顔はすぐに緩むに違いない。
「わっ、ス、スバルくん、これまだマチ針ついてるから危ないよ」
抱きつかれたあんずは慌てて飾りを箱の中に入れる。
出会った頃は、抱きつくと離れようとしたり、腰が引けていたりしたのに、今では受け入れてくれている。それも嬉しかった。
「あんず、明日も俺たちのこと見ててね。特等席で!」
明日のライブは大成功だと確信して、スバルはあんずをぎゅっと抱きしめた。

 


【ショコラフェス】当日/午前


【ショコラフェス】の『Trickstar』のライブは大成功だった。パフォーマンスは素晴らしかったし、会場も大いに盛り上がった。これなら用意したチョコレートも全てもらってもらえるかもしれない。結果が出るのは、全てのユニットのライブが終わってからだが、手ごたえを感じてステージを下りられた。
衣装を着替えて片づける際、氷鷹北斗は、そっと胸の飾りを外す。これは、あんずが特別に作ってくれたものだから、手元に残しても問題はないだろう。
今回のフェスの宝物だ。
北斗は、それを大切にしまって、更衣室を出た。
「あんず」
ステージの方に戻って、隅で機材を整理しているあんずに声をかける。
「北斗くん、ライブお疲れさま。すごくよかったよ!」
北斗を見ると、あんずは興奮した面持ちで駆け寄ってきた。
その顔がなにより嬉しい。
あんずが転校してきて、その目がひとりひとりを見てくれたから、今日がある。本当に感謝してもしきれない。
「お前のおかげだ。あの飾り、ありがとう。大切にする」
「どういたしまして。喜んでくれて嬉しかった」
「あの飾りだけではなくて、いつも本当に感謝しているんだ。これをもらってほしい」
北斗は、用意していた包みを、あんずに差し出した。
中身はチョコレートだ。練習を重ねて、あんずに試食してもらったときもおいしいと言ってもらえたから、きっと大丈夫だろう。
「あ、ありがとう。嬉しい」
日本では、女性から男性に贈るケースばかりだから、あんずは驚いている。しかし、嬉しそうに笑って受け取ってくれた。
あんずが喜んでくれて嬉しくて、北斗も微笑む。
「あーホッケ〜が抜け駆けしてる!」
そこに、スバルの声が響き渡った。
「む」
そちらを見ると、制服に着替えたスバルと真緒がやってくるところだった。
「あんず、あんず! 俺も持ってきたから、あとで渡すね!」
「俺のもな」
ふたりとも、あんずの手の中のチョコレートを見て、我も我もと手を挙げる。
みんな考えることは同じかと、北斗は笑った。
「え……あ、ありがとう」
ただ、あんずはチョコレートをもらえるとは思っていなかったらしく、目を瞬かせた。
「私も、みんなに渡したいものがあるんだ。あとで渡すね」
「えっ、チョコレート? 本命?」
「あとでね」
スバルが顔を輝かせて尋ねるのに、あんずは笑ってはっきりとは答えなかった。
「阿呆。みんなに本命はないだろう」
「えーあるかもしれないじゃん! 俺たち四人みんな本命かもしれないじゃん!」
「……ん、てか真は?」
スバルが口にした「四人」に、真緒がそういえばといった顔で回りをきょろきょろと見る。
真はいなかった。
違和感なく話していたが、確かに最初からいない。
「あいつはこういうときいないな」
「ウッキ〜らしいね☆」
「そうじゃなくて、呼んでやろうぜ」
北斗とスバルが、真がいないことをただ受け入れていると、真緒が苦笑してスマートフォンを取り出した。
それを見て、北斗は真緒を止める。
「いや、後にしよう。あんずはこれから『Ra*bits』のライブを手伝うのだろう?」
「うん」
「そっか。じゃあ、また後でだな」
「ああ。あんずの仕事が終わったら、合流しよう」
あんずが渡したいものが何なのかは、北斗も気になる。
――チョコレートだったら、とても嬉しいと思った。今まで、甘いものが特に好きというわけでもなかったので、そんなことを思いもしなかったのに。
「終わったら連絡するね」
「ああ」
「がんばって~!」
仕事に戻るあんずを見送って、北斗たちは舞台裏を離れる。
「じゃあ『Ra*bits』のライブ見ていこうよ! しののんの応援したい!」
「そうだな。遊木にはそれを伝えよう」
スバルの提案に頷いて、北斗はスマートフォンを取り出した。

 

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