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昼寝を一緒に

 孔明はすっかり花の膝の上で眠ってしまっている。
 肌に触れそうな唇にどきどきしたが、孔明が寝てしまったのでそれもすぐに収まった。
 長閑な昼下がり、しんと静まり返った部屋に孔明の寝息が微かに響く。
 警戒心が足りない、とは孔明が言えるセリフなのだろうか。男に気をつけろというのなら、今のこの状況こそ問題ではないか。
 そう文句を言いたいところだが、相手は暢気な顔で寝ているから叶わない。
 それに、孔明を男の人の中に数えるのかどうか、微妙なところだ。
 誰にでも膝を貸すわけでもないし、孔明以外にこんなことをする人はいない。その孔明が師匠であるならば、気をつけることはないように思った。
 もし他の人にこの状況を見られたら恥ずかしいけれど、部屋のなかは二人きりだからどうということもない。
「…………」
 花はじっと孔明を見る。孔明は、起きているときより幼く見えた。
 そっと指を滑らせ、髪をかきあげてみる。
 過去で出会った聡明そうな少年の面影は、少し残っていた。
 あの日々は、孔明にとっては十年も前のこと、けれど花にとってはつい先日のことだ。
 別れたときの亮の顔を、鮮明に覚えている。交わした約束も鮮やかだ。
「……亮くん」
 起こさないように気をつけて、小さな声で呼んでみる。
 もちろん返事はない。
 けれど、亮の声が耳に蘇った。
「花」
 と、少し大人びた声。
 しかしすぐに、もっと大人の声が、
「花」
 と呼ぶ。
 孔明の声だ。
 この見知らぬ世界で、いつも花を導いてくれた声。
「亮くん…………師匠……」
 隆中の山中でも、泰山の山中でも、孔明との出会いが花の道を開いてくれたのだ。 ここでは玄徳のもとへと導いてくれて、過去ではずっと隣にいて支えてくれた。
 孔明がいなければ、この世界で生きていられなかっただろう。
「……ありがとうございます」
 花はそっと囁く。
 自分に居場所を与えてくれた孔明が、自分の膝などでゆっくりできるのなら、いくらでも差し出したい。
 だから、やっぱり孔明が心配することはないのだ。
 こうして膝を貸すのは、孔明だけなのだから。
 孔明は人の心に敏感にならないといけないと花に言うけれど、孔明はそれを分かっているのだろうか。
 花はもう一度孔明の髪に触れる。
 黒髪はさらさらしていて気持ち良かった。
「師匠の髪、手触りいいな。シャンプー、特別なのかな」
 指にすべる感触が気に入って、花は何度も孔明の髪を梳く。
 この世界にシャンプーなどないけれど、そう思わずにはいられない。それとも食べるものが違うのだろうか、と花は真剣に考えた。
 そして、亮も髪はさらさらだったな、と思い出す。過去ではひとつの天幕で身を寄せ合って寝た仲だ。
「気持ちいい」
 花は頬を緩めて、孔明の頭を撫でる。
 その気持ち良さに、そのうち眠くなってきた。
「ふわ……」
 花は欠伸をひとつかみ殺す。
 ぽかぽかした陽気が部屋の中に充満して、花を眠りの世界へと誘った。


「まったく……どれだけ煽れば気が済むの?」
 こくり、こくりと舟を漕いでいる花を見上げ、孔明はぼやいた。
 花に触れているだけでドキドキしているのに、何度も頭を撫でられて体が熱くて仕方ない。
 狸寝入りで花を騙った罰は、自分の身に倍になって返ってきた。
 孔明は自分の業の深さにため息をつく。
 そして、居眠りしている花を起こさないように起き上がり、逆に花を抱えて再び床に転がった。
 あの花を、再びこの腕に抱くことができるなんて夢のようだ。
 腕の中の花は、ひどく小さい。
 十年前、なんでもないふりをして寄り添ったときは、ようやく腕が回るくらいだったのに。
 花がひどく頼りなく感じて、確かに腕の中に抱いているのに、本当にいるか不安になってしまう。
 孔明は腕に力を込めた。
「大好きだよ」
 孔明は、夢の中の花に届くようにと、その耳に囁く。
 夢の中ならば、夫婦でも恋人でも、望むままに何にだってなれる。
 それは、目覚めたときに消える魔法。
 夢の中だけは自由に。
 今度こそ、孔明は眠りに落ちていく。

 目覚めた花が、孔明の腕の中に捕らえられているのを知って、忠告をきちんと聞けば良かったと後悔するのは、それから二時間後のことだった。

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